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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城225「箕輪城のじじばば石」など箕郷の10伝説

<<   作成日時 : 2016/11/19 10:11   >>

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箕輪城主:長野氏が本郭の築山に安山岩の夫婦岩を据えた。
@長野家の城主に代々受け継がれてきたと〜〜〜。 そして、武田
軍の箕輪城攻撃で落城寸戦の時、武田軍に火の玉攻撃をした。
A井伊直政は箕輪城から高崎城に「じじばば石」を運び込もうと
した。ところが、箕輪:青木の里で夜を過ごしているうちに、
勝手に城の本郭に戻っていた。          
B現在は高崎市箕郷町のI家の庭にある。
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★「じじばば石」
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画像


・平成28年(2016)11月12日
『上泉伊勢守信綱』主演:村上弘明さん・・・
私の「赤備えの武田武将の鉄砲討たれ役」のシーンはなかなか
こなかった。

裄V氏「本丸は安田家の土地で、二の丸は裄V家の
     土地だった。・・・・」


私は裄V氏に
「じじばば石ってどこにおいてあったのでしょうね?」
裄V氏「このあたりじゃないの?」

裄V氏「Iさんは隣に座っているよ?
    聞いてみようか?」
・・・・・・
裄V氏&I氏の会話・・・

I氏「三波石だけどね。」
と私にも伝えた。


★見たいなあ。
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もしかして、今いる石川さん・裄Vさん・川浦さんの場所が
「じじばば石」の設置地点?・・・
 井伊時代の土塁付近?
 可能性は大きいが、・・・・


 不思議なのは、箕輪城に庭園が発掘されてないことである。
長野氏も武田氏も織田氏(滝川氏)も北条氏も井伊氏も
 庭園が見つかっていない。小田原城は御米曲輪の下から
 庭園が出たというのに、・・・

【1】 「じじばば石」伝説
1)「箕郷町誌」民俗編P793
東明屋の石川竜男氏方の「じじばば石」と呼ぶ2個の石がある。
かつて箕輪城主長野氏が愛玩した名石と云う。
落城後、井伊氏が入城し、間もな高崎城に移った際、この石を
運び込んで、青木辺まで行くと、一晩の中に城に戻っていた。
井伊公はそれ程故城主を慕うなら、と移すことをやめたという。
 これと同じ伝説が、和田山の修験寺極楽院にもある。院の庭に
「じじばば」2個の石がある。城にあった石は1米(メートル)
位であるが、院の石は56cmの小形である。盗人がこの石を
持って行ったところ、ますます重たくなり足がでなくなった。
盗人は恐ろしくなり、引き返した処、急に軽くなり、容易に戻す
ことができたという。極楽院は城主との関係がある。同じような
伝説があるのも領民との厚い親しみが生んだと思われる。


2)「安中・碓氷・群馬Tの伝説」市川光一著:あかぎ出版
 箕郷町東明屋の石川家の庭には、代々大事に保存されている
2つの大きな石があります。
この石は、古い話を言い伝える夫婦石であることから「じじ
ばば石」と呼ぶようになったのだそうです。この石はふつうの
三波石ですが、石の肌には数ヶ所の刀のきず痕が残っているだ
けに、怪しい伝説を秘めている石に感じられます。
もともとこの石は、箕輪城主であった長野氏が本曲輪の築山に
大きな石を据えて鑑賞したということです。そして、代々の城主
が、まるで申し継ぎでもしたように大切にされてきました。
 話は箕輪城が落城寸前の時のことです。本丸近くまで攻める
大勢の武田軍の前に、大きな二つの火の玉が炎を引いて飛びかか
ってまいりました。突然のことに、さすがの武田の強者たちも
「あれはなんだ、あれはなんだ?」
「火の玉だ。」
と騒ぎたてまあした。武田の将は、
「かまわん、突っ込め」
と命じました。
 武田の兵士はこの狂ったような火の玉に槍や刀をふりまわして
応戦し、めった切りにしましたが、火の玉はそんなものはものとも
せず、全く受けませんでした。そのため、武田軍の本丸への攻め入
りは一時、釘づけにされてしまいました。
 やがて、一時間近くもたったでしょうか。火の玉の勢いは弱く
なり、ゆるやかに、本丸近くの池の中に落ちていきました。
 あとでわかったことですが、この間が、箕輪城の城主が自刃し
たときだったのです。青年城主長野業盛は力つきて、持仏堂に入
り、父業政の位牌に三拝し念仏を唱えて自害いたしました。
 火の玉が、業盛の割腹を無事に終わらせるために敵の侵入を防
いだのです。
 この火の玉は、城の庭の隅にあって、城主が愛玩していた二つ
の石でした。
 落城後、間もなく城主となったのは武田氏の家臣である井伊直
政でした。直政もこの石の奇怪な話を知っていましたが、たいそう
この石を大事にしていました。
 その直政が慶長2年(1597)に箕輪から和田(今の高崎)に城を移
すことになりました。その時直政は
「箕輪は山城で不便な所であるが、この石はぜひ高崎の城へ持って
いきたい。」
と言いました。そこで、この石を高崎へ運び込むことになりました。
 しかし、運ぶといっても2つとも2百貫(750kg)もある大きな
石です。ちょっとやそっとでは運べません。さっそく、多くの人足
がかり出されました。
 城の上から大手門まで押し出すだけでも大変です。まして8km
もはなれた高崎の城まで運ぶのです。どうにかして、箕輪の南の青木
の里まで運び出しましたが、ついに夜になってしまいました。
 翌朝、人足が再び高崎まで運び出そうとしましたが、石がありま
せん。
「どうしたんだ、石がない。殿様から命じられた石だ。大変だ。
大変だ。・・・」
と大騒ぎになりました。石運びの人たちは、ふるえながら城下の家
来に報告しました。ところが、
「石はあるどう。箕輪のお城の本曲輪にちゃんとおさまってらー」
それはまったく、ふしぎな事でした。
 その話を聞いて、直政も、
「それほどまでに亡き主君を慕うのなら・・・」
と石を高崎に運ぶのをあきらめたとといいます。
 後、長野氏の侍医だった石川氏の祖先が、それを庭に飾り、亡き
殿様を偲ばれたのであろうといわれています。
 これと同じ伝説が、和田山の極楽院にもあります。
 この寺にも二つの「じじばば石」があって、ある日、ぬすびと
がこの石を持ち帰ったところ、ますます重くなり、足が出なくなっ
てしまったそうです。ぬすびとは、恐ろしくなり、その石をもとの
所へ返したところ、急に足が軽くなったという話があります。

 市川光一先生は元倉渕の教育長・・・
「小栗上野介」や「権田刀鍛冶」などにもぞうけいが深い。


【2】箕輪城に松下稲荷「キツネ伝説」&「霧隠伝説」
@きつねが廃城後、出た話・・・・今でもキツネがいる。
 A武田軍を霧の巻いた話
松下稲荷=霧隠神社

【3】善地駒寄の「群馬の松」
「群馬」発祥の地?


【4】源義経の「栗」及び「馬」の借用証
@栗7斗 義経・弁慶・亀井六郎
A大栗毛馬の借用証  弁慶


【5】東明屋の竜門寺の「大男の足跡」
竜門寺の裏の神社も巨人伝説



【6】和田山極楽院(清涼寺)の「逆さ梅」伝説
  箕輪城落城のとき業盛の子「亀寿丸」が身をかくしたと
  される。 
  また、武田信玄が鞭の梅枝を地に刺したのが根付いて
  「逆さ梅」になったともいれる。
★猿ヶ京では、「逆さ桜」伝説がある。



【7】蟹沢の「梅」伝説
榛名山から梅の種が飛んできたという。


【8】生原中屋敷の「小豆婆」=「小豆とごうか」伝説。
蛇がたくさんいる竹藪の古井戸に羊の歯はあった。
雨の夜、井戸の中から
「ゴッシゴッシ小豆研ごうか 人とって喰おうか?
 ゴッシゴッシ・・・」と歌が聞こえる話


【9】富岡の「柿の木沢の蛭(ヒル)」伝説
   現在の鳴沢湖の敷地は主に湿田であったが、その中に
  弁天宮があり、そこから見える田のヒルは人に付かない
  という。


【10】富岡鴨入りの「ちょんぴらりん」伝説
  富岡鴨入りに「須藤嘉平さん」という人が住んでいた。
 現在の鳴沢湖の近くに住むキツネが夜ごと周辺の民家の戸を
 叩き人々を歌と踊りに誘い込むという話



★まだまだ、あるかも?

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