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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城224『剣聖:上泉伊勢守信綱の生涯』大修正版3

<<   作成日時 : 2016/11/17 13:20   >>

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★私の「剣聖」イメージ」は上泉信綱 ・塚原卜伝・柳生宗厳・伊藤
一刀斎 ・丸目蔵人・宮本武蔵 ・男谷信友・ 昭和の剣聖「持田誠
二」かな?ということは、箕輪城関係者には【上泉伊勢守信綱】
&新陰流の弟子:神後伊豆宗治&疋田文五郎&岸監物(昭和
の剣聖「持田誠二」の先祖)がいた。塚原卜伝も箕輪城に尋ねて
きている。
画像


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箕輪初心●箕輪城93【上泉伊勢守秀綱】箕輪城落城〜流浪の旅へ
http://53922401.at.webry.info/201212/article_24.html

◆◆ 箕輪初心●群馬【上泉城】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_23.html

◆◆ 箕輪初心★「上泉城:上泉伊勢守信綱と子孫」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_23.html

箕輪初心:生方▲群馬:【上泉城】&『上泉伊勢守信綱の生涯復刻版』
http://53922401.at.webry.info/201508/article_2.html

箕輪初心:生方▲『上泉伊勢守秀綱』:主演村上弘明のロケに参加
http://53922401.at.webry.info/201611/article_10.html

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◆◆ 上泉伊勢守信綱&上泉秀胤&上泉泰綱 ◆◆

【1】上泉伊勢守信綱の出生〜少年時代
●藤原秀郷流大胡氏・・・衰亡。
曾祖父:大胡一族一色義秀が京都から大胡に派遣され
    再興し、大胡義秀を名乗った。
祖父:大胡時秀 
父:@上泉憲綱説、A上泉武蔵守義綱
★上泉城は築城年代は定かではないが上泉氏によって築かれた。

・延徳3年(1491)長野業政の誕生
父親
 @長野憲業次男説:
    長年寺系図・長野弾正・正弘氏所蔵文書{箕郷町誌}」
A長野信業次男説
    極楽院長野正夫氏系図・長純寺採用大正史系図
※近藤義雄先生・・長野憲業=長野信業
B長野信業長男説
系図纂要(水戸徳川家:2016久保田順一先生発掘初使用)
C厩橋長野道賢か賢忠の子説
  ・・・長野憲業養子説・・飯森康弘先生説   
  D厩橋賢忠の子:長野方業の子:長野業正説
      ・黒田基樹先生説
  ★現在、徳雲軒資料(★上杉家文書)から、C・Dが
有力説になりつつあるが、Bで、井伊家家老:長野氏
に繋がる資料となっている。
・延徳2年(1490) 長野業政の誕生説。
 ・延徳3年(1491) 長野業政の誕生説(通説・有力説)
 ・明応5年(1499) 長野業政の誕生説
 ・永正7年(1510) 長野業政の誕生説

 母:沼田顕泰説・・・
   沼田顕泰の娘は長野業正室・安中越前守重繁室
          (黒田基樹先生説)
 ★ウィキペディア【長野業正】では、長野業正の娘は沼田顕泰の
   妻となった。とかいてある。
   ウィキペディアは変だなあ?


永正5年(1508) 上泉秀綱が生まれた。  
画像

  @上泉憲綱の2男説もある。
  A上泉武蔵守義綱2男説
 
  幼名は源五郎
上泉伊勢守秀綱の居城であると言われている。

・永正10年(1513)5~6歳
 初めて木刀を握った。
●父・・・馬術・槍術・剣術を習った。
●僧・・・禅を学んだ。

・永正14年(1517)上泉秀綱の妹が生まれた。
 (後、長野業正室となる。・・・剣の大地:池波正太郎)


・大永元年(1521) 13歳〜 武者修行
●念流:小笠原庄座衛門尉氏重?との出逢い
開祖 相馬四郎義元 (慈念、慈恩、念大和尚)
  14人の高弟の1人が13代樋口太郎兼重であった
2世 赤松三首座禅師慈三(慈念の弟)。1394年に相伝。
3世 小笠原東泉房甲明
4世 小笠原新次郎氏綱
5世 小笠原備前守氏景
6世 小笠原庄座衛門尉氏重
7世 友松清三藤原氏宗(偽庵)
8世 樋口17代 又七郎源定次
◆Hp「馬庭念流/歴史と系譜」 
http://www4.plala.or.jp/nenryu/nen1.htm 
 
@鎌倉で念流を学んだ。
(★『上泉伊勢守物語』)
 ※鎌倉であるならば、小笠原新次郎氏綱または
 5世 小笠原備前守氏景
 6世 小笠原庄座衛門尉氏重から念流を学んだ。

*小笠原流軍学伝承者となった。


●天真正伝神道流:塚原卜伝? 
A「天真正伝神道流」(香取神道流)
剣術、居合、柔術、棒術、槍術、薙刀術、手裏剣術・築城、
   風水、忍術等を学んだ。
 塚原卜伝は実父からは鹿島古流(鹿島中古流)を、義父からは
 天真正伝香取神道流をそれぞれ学んだ。
 『関八州古戦録』『卜伝流伝書』によれば、松本政信の奥義
「一の太刀」も養父の安幹から伝授されたという
(松本から直接学んだという説、卜伝自身が編み出したとする説)。
 やがて武者修行の旅に出て、己の剣術に磨きをかけた。
(★ウィキペディア)
★塚原卜伝は上泉秀綱より20歳位年上であるらしい?

●鹿島神傳直心影流:松本備前守政信
B常陸国(茨城県)松本備前守政信から鹿島神傳直心影流
  を学んだ。 
*鹿島神傳直心影流第2世を相伝したと伝えられている。


・大永4年(1524)「徳雲軒性福状」(上杉文書)・・・
久保田先生・・・密書で10cm×15cm位の大きさ
総社城の徳雲軒=家老クラスが長野方業にあてた密書
 其夜可被仰付事
一、彼のくるわへ引入れ申時、らんはうの事、
※久保田先生・・総社城の曲輪に引き入れ申す時、
乱暴はしないでくれ。
一、其身討捕申時、おのおのたしなみの事、
※久保田先生・・総社城の誰かの身を討捕し申す時、
各自、たしなみ=武器をきをつけてくれ。
つまり、夜なので、長い槍などは使えない。
一、
一、
一、まやはし殿御人数いそき東口へ・・・
一、
12月2日
B、群馬県史の「徳雲軒性福宛長野方業書状」
・・・・略・・・

11月17日
左衞門太夫方業(花押)
徳雲軒

※久保田新説・・・長野方業=業政は同一人花押から推測できる。
 と、おっしゃっていた。
 2度目は久保田先生は、言葉を濁している。
 長野左衛門大夫方業が惣社長尾氏の重臣:徳雲斎を調略した。
長野左衛門大夫方業が箕輪城主と
  して文書を発給している。
   (★徳昌軒の文書)
 ところが、内応が発覚した徳雲斎は長尾顕景に殺害された。
 長野宮内大輔(賢忠か?)とともに惣社長尾家を攻め、追い詰め
 られた長尾顕景が既に上杉憲寛と和睦をしていた長尾為景の仲介
 で降伏した。
 ★なお、長尾景誠の妻は業正の姉とされているので、長野方業と
 長野業正が父子かもしれない。



・大永年間(1521〜)
●長野業正は上泉伊勢守の妹を妻にした。
(★「剣の大地」:池波正太郎著)
「長野業正の正妻は扇谷上杉朝良の娘である。」
(★ウィキペディア)
箕輪初心:生方▲箕輪城180【長野業正の妻】&子ども
http://53922401.at.webry.info/201512/article_4.html

・文亀年間(1501〜1504) 〜 永正年間(1504〜1521 )元服・結婚
1)延徳3年(1491) 長野業政の誕生説なら、
  結婚は永正年間(1503)頃となろう。
    ★娘も多いことだし・・・・
2)永正7年(1510) 長野業政の誕生説なら、結婚は
  大永(1521〜1528)頃になろう。
*正室:扇谷上杉朝良の娘・・・ウィキペディアの説
 上杉憲房の妻は扇谷上杉朝昌の娘である。
 扇谷上杉朝良の妹である。
 ★従って、上杉憲房は長野業正を重臣と扱い、妻の姪を斡旋した
 ことになる。
*継室@:沼田顕泰の娘・・・近藤義雄先生説・黒田基樹先生説
*継室A:上泉伊勢守の妹・・・・池波正太郎説
*継室B:保渡田砦城主の娘・・・系図
*継室C:里見河内守の娘・・・・里見系図
*継室D:南総里見義堯の娘・・・棟治氏説

※大永5年(1525) 長野業政の長男:吉業が誕生?



・享禄3年(1530 ) 22歳
●陰流:愛洲移香斎 
  愛洲移香斎が上泉城を訪れた。
   上泉秀綱は陰流の祖:愛洲移香斎は陰流の指導を受けた。
   立ち会った。
   愛洲移香斎は上泉秀綱の非凡な才能から陰流を継ぐに
   足りる人物であると思った。
  
  祖父:大胡時秀が永眠した。
  
・享禄4年(1531) 満23歳
  上泉秀綱愛洲移香斎が陰流の奥義を教えた。
   を全てマスターした。

●念流:友松清三藤原氏家(偽庵)
 友松将監行実など友松家は安中景繁(忠成)の家臣のようで
 ある。
 ・永禄10年(1567)武田信玄の生島足島神社の起請文
安中景繁の家老:松本吉久・松本定吉・友松将監行実
 しかし、友松家の屋敷は旧群馬町井出にもあった。
 ★子孫が生島足島神社の起請文の写しを所持している。

●神道流(新刀流):樋口重定(★樋口系図より推定)
樋口家13代・樋口高重が上野国吾妻郡小宿村(現長野原町
 応桑小宿)に居を移した。
 さらに上州多胡郡馬庭村(現吉井町馬庭)に再転居した。
 家伝:念流から新刀流に変えてしまった。
 樋口家では新刀流(神道流)が伝えられていた。
14代:樋口兼次
 15代:樋口高重
 16代:樋口重定
 17代:又七郎定次は父から新刀流(神道流)を受け継いだ。
 「樋口家系」には、「念流八世 又七郎定次、父業を継ぎ
 新刀流を修め、業祖の遺流を復せんと欲すれど得る処なく」
 とあるそうである。
  遠祖が残した念流を求めた。
 ・天正2年(1574) 眼病治療の旅を続ける友松偽庵が馬庭に
逗留した。樋口定次は偽庵が念流正当7世・友松清三藤原氏家
 であることを知り、偽庵に入門を乞い許されて念流の修行に
 邁進した。
 ・天正19年(1591)2月に又七郎定次は印可皆伝を受け、
念流正当8世を名乗った。(馬庭念流)
  馬庭で念流道場を開いた。
  剣術を中心に長刀術、槍術をも伝える武術として確立し、以
  後、樋口家に代々伝承され、当代・念流25世・定次まで
  400年以上(念流としては約650年)伝えられている。
 ・慶長3年(1598) 友松偽庵より伝書を受ける。

●上泉秀綱は神道流、念流などの諸流を工夫して「新陰流」を
 打ち立てた。
 
●????年 大胡城主になった。
画像

・????年 上泉秀綱は箕輪城主:長野業政に仕えた。
★つまり、厩橋長野方業が上泉城主:上泉伊勢守の
 妹を貰った可能性は非常に高い。

・????年 大胡城は大胡長野氏の記述が最近の有力説である。
  (★新編高崎市史)
・天文15年(1546) 「河越夜戦」
山内上杉憲政が敗れ、北条氏の勢力が上野国に侵攻してきた。

▲天文24年(1555)  北条氏康の大胡城攻撃にあい開城した。
 (★ 『撃剣叢談』) 
上泉伊勢守秀綱は上泉城&大胡城を開城降伏したという。

・永禄元年(1558)上泉秀綱が上洛した。

●丸目蔵人長恵
・永禄元年(1558)丸目蔵人が上洛。
  新陰流を創始した上泉信綱に師事し兵法の修行に励んだ。


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【2】上泉伊勢守秀綱の長野業政の同心時代

・弘治4年(1557) 第三次川中島決戦
・永禄元年(1558) 箕輪城着到帳
@一般家臣・・・509人 
A準特別職・・・・83人
B家老・・・・・・・5人
C客分高家・・・・12人
合計・・・・・・609人
★騎馬は4人1組で1500人と推定されている。
(★歴史学者が着到帳は信じていない)

★峰岸先生は客分高家:石井信房を鷹留城主と認めず、永禄9年
 (1566)5月に長野三河入道業氏が戦死したとする。
 黒田基樹氏は石井信房(石井泰太郎氏所蔵系図)の存在を信じ
 ているが、永禄9年 (1566)5月に長野三河入道業氏が戦死した
 とする。


・永禄元年(1658)箕輪城着到帳(江戸時代初期作成)
=「上野国群馬郡箕輪城主長野信濃守在原業政家臣録
(永禄元戊午年正月廿九日改軍評定到着帳)」
  「勢多郡上泉の住人:「上泉伊勢守時則」:
     下柴砦の主。
『箕輪軍記』『箕輪記』・・「上泉伊勢守」とだけ表記。
『上州治乱記』・・・・・・「上泉伊勢守豊成」と表記。
  (★『箕郷町誌』P988・・近藤義雄氏))
上泉伊勢守時則・・・・・→武田家臣:下芝砦
  本居勢田郡上泉村 上泉城 ・・・前橋市上泉
  下芝砦住定居・・・下芝カインズホーム北西300m?
  新しくできる予定の高崎検察署分署のバス通り反対側
※箕輪城主長野信濃守業正の麾下となった。
  (★箕輪町誌:箕輪城着到帳)

  上泉伊勢守時則(秀綱)は、剣術だけでなく兵法
   (小笠原流系新陰流軍学)の大家であった。
道場の可能性はここの可能性もある。
 北条氏に大胡城・上泉城は取られたままであった。
・永禄元年(1658)箕輪城着到帳(江戸時代初期作成)
 
●高家『岸監物』:長野家剣術指南&長野業正の軍師
 ・新陰流「岸監物」は上泉秀綱と剣術の双璧だった
という。
岸監物頭忠清・・・・・・? 板鼻砦住
  拡大解釈すると、岸監物頭忠清は、依田氏に与力して
  本丸を守った。または、鷹ノ巣or小丸田出丸を守った。
  依田氏が武田側に寝返った頃には足門に戻った?
 (裄V佳雄氏は「峯監物」というが、・・・)
 岸氏は 関東管領:上杉顕定の家宰の長尾景仲の3男景頼を祖と
 する。妻は梶原氏の女『松ノ井』という。
 ★長尾景仲長男は長尾景春→長尾景英(妻が長野業正の姉)
→長尾景誠(長野業正の甥)
 @岸景頼
 A岸景連(岸将監)は白井の戸鹿野に住んだ。
 B岸景衛(岸刑部介)→
 C岸景致→D岸景敦(岸和泉)は上杉憲房に仕えた。
   上州平井に住し、東平井岸一族の祖となった。
(★青柳棟治氏調べ)
 D岸監物頭忠清・・・・・・? 板鼻砦住
 善意に拡大解釈すると、岸監物頭忠清は、依田氏に与力して
  本丸を守った。または、鷹ノ巣or小丸田出丸を守った。
  依田氏が武田側に寝返った頃には足門に戻った?

・天正18年(1590)頃、岸監物忠清が足門に寺を開基し、
荒廃していた「青竜山徳昌寺」を引寺して、
「足門山徳昌寺」と称した。
(★迷道院さん調べ)
 「岸一族は得成寺
を建設した。
  子孫は昭和の剣聖「持田誠二」である。
子孫は旧群馬町足門「岸医院」である。
 ★長野業正の長野吉業系福田赳夫先生の菩提寺
  である。



●塚原卜伝
 長野業正&上泉秀綱に会いに来た。
 ※高崎市箕郷町「卜神」(ぼくしん)の由来になっている。
卜神神社・・・
(★箕郷町誌)

*******************************
その後、長野業正と上泉秀綱は武田信玄・北条氏康の大軍を
 相手に奮戦した。
 「長野十六槍」の筆頭(長野氏16人の槍)と称えられた。


箕輪初心:生方▲箕輪城193【武田信玄の上野侵攻】詳細編
http://53922401.at.webry.info/201606/article_28.html
@天文15年〜永禄4年

・永禄2年(1559) 武田信玄は長野信濃守に服属を求める。
(★武田晴信書状:内田祐輔氏所蔵文書)
※偽文書の可能性がある?
  (★史跡箕輪城跡発掘調査報告第8集:秋本太郎他)

・永禄2年(1559)
 2月  武田晴信は出家して信玄と称した。
     真田幸綱(幸隆)も出家し、「一徳斎」と改める。

・永禄2年(1559)長尾景虎の上洛
武田晴信は長尾景虎が上洛し、近衛前嗣・正親町天皇に
会って、関東管領の資格をゲットしている間に
「鬼のいぬ間に洗濯」と考え、上野に侵攻した。

9月  武田信玄は上州に出兵D  20000の軍勢




▲板鼻の戦い
 (★関東古戦録では板鼻の戦いと称している)
武田信玄は現少林山達磨寺の西の山に陣を置いた。

 武田信玄が板鼻に陣取った際に倉賀野氏が従った? 
  (★倉賀野の歴史より)
 倉賀野16騎の筆頭:金井淡路守景秀である。
 →倉賀野氏の内部分裂があったと見られている。
 (★新編高崎市史) 
 
▲若田原(高崎市八幡町)の戦い
  武田信玄は安中城を攻めるべく鼻高(少林山の西)に布陣した。
  急報を受けた長野業正は直ちに手勢を率いて若田原で武田軍と
  対陣した。
  睨み合いが続く中、雨が降り出した。
   長野軍が武田軍の眼前から消えた。
 武田信玄が雨宿りかなと思っていると・・・
  長野軍が背後から襲いかかった。
 そして、敵陣をかき乱すと去っていった。
 武田信玄は
 「長野業正を生け捕りにせい!・・」
 と、悔しがった。・・・とさ。
(★上毛古戦記)
  長野業政は武田軍を迎撃し撃退。

・永禄3年(1560) 長尾景虎の第1次関東出兵
(越後も関東だけど・・・)
6月10日 近衛前嗣は厩橋城の人質のことなどを長尾景虎に
申し送る。「みのわ」から人質が置かれた。
 (★近衛前嗣書状・上杉家文書)
9月上旬 長野信濃守業正らが味方した。
(★双林寺伝記)

10月2日 正木時成は長尾景虎に「簑匂(箕輪)」が
味方したことを伝える。
 (★正木家文書)

・永禄3年(1600)
 5月 小幡憲重・重貞父子が草津温泉に湯治中に、箕輪城の
    長野業政・小幡図書介景純が国峰城を奪取。
(★『関東古戦録』:久保田順一訳)
@小幡憲重の妻は長野業正の母の妹の娘である
 (★『西上州の中世』:黒田基樹著)
A小幡重貞(信実→信貞)の妻は長野業正の長女である。
 小幡氏が武田氏に走った報復と考えられる。

小幡重貞は武田氏配下 VS 長野業政は長尾景虎の同心

◆参考文献・図書
・群馬県史
・新編高崎市史 
・箕郷町誌(近藤義雄執筆)・・・ベース
・「箕輪城と長野氏」
・近藤義雄先生の論文・講演会
・榛名町誌(久保田順一共著)
・関東古戦録(久保田順一訳)  
・上毛古戦記(山崎一著)
・群馬の古城(山崎一著)
・境目の城(宮坂武雄著)
・「戦国期の上杉・武田氏の上野支配」:栗原修著2010年
・「真田三代」:平山優著
・「真田四代と幸繁」丸島和洋著
・史跡箕輪城跡発掘調査報告第8集:秋本太郎他文責
・・・などなど多数。
●▲■箕輪城シリーズ*******************
箕輪初心★箕輪城134長野業政の直属家臣【長野信濃守在原
業政家臣録=着到帳】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_8.html

箕輪初心★箕輪城133【長野業政の政略結婚&有力同心衆・家臣】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_7.html

箕輪初心★箕輪城132『長野業政の系図&長野一族
http://53922401.at.webry.info/201405/article_4.html

箕輪初心●箕輪城130「長野業正の生涯」=武田信玄を
悩ませた人物
http://53922401.at.webry.info/201405/article_2.html

箕輪初心★箕輪城128【築城年代7説】:私見は長野業尚1477年説
http://53922401.at.webry.info/201404/article_31.html


◆◆近藤義雄先生〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・永禄3年(1560) 長尾景虎の第1次関東出兵
(★越後も関東であった。)
長尾景虎に協力して大胡城を奪回した?
ことになっているが、・・・・
 
箕輪初心★箕輪城135長野業政&長尾景虎の「関東幕注文」
http://53922401.at.webry.info/201405/article_9.html

・永禄4年(1561) 関東幕注文
●箕輪衆
1)長野一族:親戚・・・旗印「檜扇(ひおうぎ)」
1、長野
※近藤義雄先生説・・・既に長野業政は死んでいて、秘密に
  するために「長野」しか書いていないとする。
  ★私説・・・長野氏業のことかもしれない。
※通説
「長野業政」とは書いてないのがこの時、長野業政は病気
  であって、この出兵には参加していない。
※久保田順一先生説
  「長野業正は出兵した。」  
2~20 省略

●厩橋衆
21長野藤九郎・・・・檜扇

22長野彦七郎・・・・檜扇

23大胡・・・・・・・
★大胡長野氏(★新編高崎市史)
 上泉伊勢守秀綱?
大胡氏に大胡城を維持するだけの実力はなく、新田金山城主横瀬国繁
 方となった。
 大胡城には、配下の藤原秀郷流益田氏(秀郷系藤原氏と伝)が居城した
 という。(★『大胡町誌』)

24引田伊勢守(疋田文吾)・・・・
 ★旧富士見村・・・母が上泉伊勢守秀綱の姉?
  


●2月〜閏3月 小田原城→鎌倉八幡宮
関東管領は上杉憲政から長尾景虎に譲られ、上杉政虎となった。
★3つも字が付いている。

●4月 厩橋に帰城した。
箕輪初心:生方▲『第4次川中島の合戦に至るまでの長尾景虎の動向』
http://53922401.at.webry.info/201604/article_31.html


◆◆久保田順一先生〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●4月中旬〜 上杉政虎と上杉憲政&長尾憲景&長野業政の病気
1)上杉政虎(謙信)の病気
C『上杉政虎書状:上越市史別編1・1419』
「・・・わつらいよく・・・
    くらがの(※倉賀野尚行)かね五まいくれ候、・・・
 卯月(4月)四日   」

A『武田信玄書状(群馬県史2247)』
「長尾弾正草津湯治、・・・上州衆倉賀野前後在陣之由候、・・
  卯月(4月)十三日       信玄(花押影)
  小山田弥三郎殿 」

@『上杉政虎書状写(東京大学文学部所蔵)』
「就湯治、・・・養生・・・
  四月十六日          政虎
  沼田入道殿(沼田顕泰)    」

B『近衛前嗣書状』・・・近衛は厩橋に到着
「・・・ふくちう(腹痛)いかか候や、・・
    ・・・みのわハわつらい候よし申そうろうまま、・・・」
  六月十日         花押」
※上杉政虎は腹痛・・
 ※長野業政は病気を煩っている。 

2)上杉憲政の病気
『謙信書状』
「・・・憲政事、病者被渡候之間、・・・憲政煩反複之間、・・・」

3)長尾憲景の病気
『そう林寺伝記』
「4月3日、・・・此節憲重依脳病(★意識がない)、・・嫡子」

4)長野業政の病気
『赤城神社年代記』永禄4年の条
「9月14日、赤石(館林)・厩橋彦太郎・大胡馬充?生害(死)
   両城の親類・家僕五百余人死ヌ、陣中病流行テ、敵味方共
   多死」

※久保田先生「・・・陣中で、集団感染があった。・・・」
★食中毒O157かなあ?


******************************
*永禄4年(1561)
●6月21日 長野業正の死亡。
  (★長純寺の長野業正木造背銘・塗り替えして不明)
長野業政の死後、嫡子:右京進氏業=業盛が箕輪城主となった。
 ※@6月21日(=8月2日)死亡説
 ※A11月22日(=12月28日)死亡説    

・永禄4年(1561) 6月 長野業正(正式の名)の死を
隠したが、・・・・
  西から武田信玄・・
  南から北条氏康・北条氏邦からの圧迫に苦しんだ。
  
  上泉信綱は長男:秀胤を人質として小田原に送った。
  上泉秀胤は北条氏康に仕官した。

  
・永禄5年(1562)長野氏業=業盛は、三夜沢の赤城神社に
 戦勝祈願に行った。
(★永岡慶之介の小説「上泉伊勢守秀綱」の修行場であった。)

 上泉伊勢守秀綱は 長野氏業=業盛から「上野国一本槍」
の感状を貰った。

上泉伊勢守秀綱は戦の間に、長野家中の武士に稽古をつけた。
 稽古には「袋竹刀」が使われた。

・永禄7年(1564)以前・・
  疋田文五郎景兼
  ・神後鈴木意伯に印可状を与えた。
 ※「兵法由来覚」では疋田景兼・香坂要も免状を受けた。

***************************

【3】上泉伊勢守信綱の流浪の時代・・門弟と旅?
画像


@永禄6年(1563)
・永禄6年(1563箕輪落城後、新陰流を普及させるため門弟
 と旅に出た。
『本朝武芸小伝』・・神後伊豆守・疋田文五郎など、
『箕輪軍記』・『関八州古戦録』・『甲陽軍鑑』など
・永禄6年(1563) 上洛。
『柳生家文書』・・・疋田分五郎と鈴木意伯。
『甲陽軍鑑』・・・・古河公方・足利義氏に招かれた。
『兵法由来覚」・・・上泉信綱一行は伊勢神宮で柳生のことを
          聞き大和へ行った。
『正伝新陰流』・・・
 ・永禄6年(京洛へ向かう途中で伊勢の北畠具教を
  訪ね、彼から奈良宝蔵院の胤栄のことを聞いて大和に向か
  い、柳生宗厳と出会い、柳生宗厳を下した。

A永禄9年(1569)の流浪説
箕輪城落城後に諸国流浪をしたことになる。
 (★高崎市史など)


B永禄12年(1569)1月15日 〜元亀2年(1571)7月21日説
 『言継卿記』・・山科言継の日記では、上泉信綱の上洛期間
 は永禄12年(1569)1月15日 〜元亀2年7月21日までであ
 る。元亀2年(1571)7月21日に京を去り故郷へ向かった。
 という確かな古文書もある。

C元亀元年(1570)以降の内藤昌豊家臣時代説
内藤昌豊の家臣になった元亀元年(1570)年以降の
 旅立ちとなる考えである。





●▲■これらをまとめると、****************
・永禄6年(1563)
 史実は上泉伊勢守信綱は嫡子:上泉秀胤を北条氏康のもとに
 人質となり、小田原に送り圧力の緩和を策した。
 その後、上泉秀胤はそのまま後北条家に仕官した。 

・永禄6年(1563) 旅に出た。
 家督を上泉秀胤に譲って・・・・
(★小田原城にいるはずであるが、・・・・)
疋田文五郎・神後伊豆守宗冶らと、・・・・
 疋田文五郎景兼・神後鈴木意伯に印可状を与えた。


上泉伊勢守信綱は、年若き懇弟疋田豊五郎、老弟鈴木意伯の両人と
数名の従者を召しつれて、・・・・
信綱「長野氏業(業盛)を残して・・・・」 

箕輪→上泉→大胡→・・・・コースは不明。
 鎌倉上道コースならば、・・・鉢形城とか
 鹿島・香取コースならば、・・
 ○鎌倉
★念流の師に会いにいったかもしれない。


○小田原城
※塚原卜伝はかつて小田原城によって
 北条氏政の前で、技を見せた。
北条氏政「ワシの家臣にならんか?」
と言われていた。
上泉信綱の長男:上泉秀胤は北条氏康に仕官し
ていた。
★上泉信綱はもしかしたら、北条氏政に会っているかもしれない。



○箱根?・・・逸話「無刀取り」
錯乱した男が赤ん坊を人質に取って農家に立てこもった。
村のあばら屋
「助けて〜〜。」
と真夜中に悲鳴が聞こえる。
犯人は赤ん坊を人質にしていた。
村人があばら家を囲んでいた。
上泉伊勢守が現れた。
村人「赤子を人質に立てこもっている・・・。」
犯人「近づくと命がないぞ。」
上泉伊勢守が「握り飯を持ってきてくれぬか?」
上泉伊勢守は自らの髷を落とし、借り物の僧着を着て、
お坊さんになりすました。
上泉伊勢守が僧形になった。
犯人に、ゆっくりと家に近づいて、手に持っていた。
「おむすびを食べたいでしょう。」
とすすめ、握り飯を中へ投げ入れた。
と、その瞬間には家の中へ飛び込んだ。
犯人は握り飯に飛びついた。
上泉伊勢守は刀を押さえ、無刀取りを披露した。
やがて、上泉伊勢守はは赤ん坊を抱いて飄々とした
表情で出てきた。上泉伊勢守が赤子を救った。
・・結果的に、この無刀取りを柳生石洲斎に伝えた。
 (★「上泉伊勢守物語」冊子の名場面)
★映画「真田十勇士」の「猿飛佐助」の漫画部分がパクリである。

●織田信長
東 海道を上って、尾州清洲城で信長に謁して引きとめられたが、
もとより仕える志がないから、しばし足を留めただけで辞去した。
(★『正伝新陰流』柳生厳長著)

○伊勢神宮
 上泉信綱一行は伊勢神宮で柳生のことを聞き大和へ行った。
(★『兵法由来覚』)

●伊勢の北畠具教
 京へ向かう途中で伊勢(三重)の北畠具教(とものり)に
 招かれた。を
  訪ねた。
北畠「塚原卜伝様から、ご高名をお聞きしていました。
   是非、弟子にしてください。」

・永禄6年、京洛へ向かう途中で伊勢の北畠具教を
  訪ね、奈良宝蔵院の胤栄のことを聞いて大和に向か
  い、柳生宗厳と出会い、柳生宗厳を下した。
(★『正伝新陰流』)

・永禄7年(1564)「国府台の戦い」で重傷を負い死去
 した。
 ★上泉伊勢守信綱西林寺建立し、菩提を弔った。
 つまり、この時にはまだ旅に出ていない可能性も高い。


・永禄7年(1564) 新陰流を普及するため上洛した。
 13代将軍足利義輝に新陰流兵法を披露した。
  指南もした。
室町幕府将軍の足利義輝の前で上泉秀綱が兵法を上覧した。
 上泉秀綱の相手として丸目蔵人は打太刀を務め、足利義輝
 より共に感状を与えられた。
(★ウィキペディア)
★でも、丸目は来ていなかった可能性もある。
 上泉信綱が新陰流を上覧したときの打太刀は神後伊豆守
 が務めた。

●宝蔵院覚禅坊胤栄
槍術の達人と対戦した。
「宝蔵院流槍術」の祖となった・

●柳生石舟斎宗厳
4月、上泉信綱は鈴木意伯(神後伊豆守宗治)を従えて
  大和柳生の里に戻って来た。
  柳生の庄で柳生石舟斎が上泉信綱の試合を望んだとき
 最初に立ちあい勝ったのは神後伊豆であった。
3日間、3試合をした。
 柳生宗厳と久々に対面した上泉信綱は、請われるままに道場
 に籠もった
上泉一行は柳生の里に半年間、滞在した。

5月、将軍:足利義輝が松永久秀らによって暗殺された。

・永禄8年(1565)
柳生宗厳が格段の進歩を遂げたことを悟った。
 上泉信綱の感激は大きかった。
  柳生石舟斎宗厳に「無刀取り」を伝授した。 
「もはや我らの及ぶところではない。」
 とまで称賛した。
 柳生石舟斎宗厳に新陰流印可状を与えた。

   宝蔵院胤栄に印可状を与えた。

・永禄9年(1566)
●丸目蔵人(★肥後国八代郡八代:現熊本県八代市)
 丸目蔵人は弟子の丸目寿斎、丸目喜兵衛、木野九郎右衛門を
 伴い再び上洛したが、上泉信綱は上野に帰国中であった。
 丸目蔵人は愛宕山、誓願寺、清水寺で「兵法天下一」の高札
 を掲げて、諸国の武芸者や通行人に真剣勝負を挑んだが、誰
 も名乗り出ず、勝負することなく帰国した。
 (★ウィキペディア)

武田信玄の攻撃で箕輪城は落城した。
箕輪城に戻っていた可能性もでてきた。

画像

 (★村上弘明さんの伊勢守)

※永禄年間に上泉秀綱は武田晴信の「信」の字を貰って
 上泉武蔵守信綱と名乗った。
 (★【関東古戦録】【上毛古戦記】)
上泉伊勢守信綱と名乗った。
 (★『甲陽軍鑑』)
 

・永禄10年(1567)
上泉信綱は「兵法天下一」の高札の件を知った。
 上泉伊勢守信綱の名で「殺人刀太刀」「活人剣太刀」の印可状
 (免許皆伝)を書いて与えた。
  丸目蔵人佐に目録を与えた。
「タイ捨流兵法の流祖」となった。

駒川国吉・奥山休賀斎にも印可状が与えた。

  上泉秀綱(後に信綱)の弟子として、四天王の1人
  となった。
  四天王疋田景兼、神後宗治、奥山公重、丸目長恵の
 4名である。
     
上泉信綱は京に戻った。
 しばらく記録が途絶えている。
 が、京のどこかにいたようだ。

・元亀元年(1570) 6月27日正親町天皇に新陰流兵法を披露した。
 上泉秀綱の相手として丸目蔵人は打太刀を務めた。
 上泉秀綱の相手として神後伊豆を打太刀を務めた。
 正親町天皇の御前で武術としては初めての天覧演武の栄に浴した。
 上泉秀綱はさらに従四位下武蔵守に叙せられた。
 従4位下に任じられた。
 兵法者では異例であった。
 剣聖の名を名実ともに不動のものとした。

 神後伊豆宗治は兵法天覧後、師:上泉信綱と別れて旅に出て、
 奥州方面に「新陰流」を広めたという。
 尾州徳川家?秋田佐竹家に仕えたとも言われている。

・元亀2年(1571) 北条氏康の死去。
7月、64歳の上泉武蔵守信綱は京を去り故郷上州へと旅立った。
    足取りは不明である。・・・

・元亀3年(1572) 三方ヶ原の戦い
  ★武田家臣:上泉武蔵守信綱は参戦? 
   または、流浪の旅?

・元亀4年(1573)4月 武田信玄が死去。

・天正3年(1575) 長篠の戦い
  ★上泉武蔵守信綱は参戦? または、流浪の旅?

・天正5年(1557) 上泉武蔵守信綱は上泉の地に戻った。
  下総国府台合戦にて戦死した息子:秀胤の13回忌の
  法要を行った。
  上泉武蔵守信綱は小田原北条家へと向かったようだ。
  後妻:北条綱成の娘との間にもうけた2人の子:有綱・行綱が
  小田原家北条氏政の兵法師範をもって仕えていたからである
@天正5年(1577)1月16日没説 享年70歳
A天正10年(1582)没説 享年75歳
新陰流祖上泉武蔵守信綱は、相模小田原で生涯を閉じた。
墓・・・上泉の西林寺
画像


新陰流祖上泉武蔵守信綱は門弟が500人いたとも伝えられて
  いる。
 実に多彩な剣豪を輩出し、数多いの派生流派を誕生させた。
 諸流派は現在に至るまでなおも生き続けている。

★ 「上泉武蔵守信綱」に乾杯したいね?

画像


・天正10年(1582)
 3月武田氏滅亡・・6月織田信長が死亡・・神流川の
  戦い(厩橋城:滝川一益が敗戦)
  北条氏邦は箕輪城主・・・・



【2】神後伊豆守宗治
 一時関白豊臣秀次の兵法師範を務めたのは確かである。
  尾張徳川家に仕えたとも、出羽秋田佐竹家に仕えたともいう。
彼の没年時ははっきりしていない。

【3】疋田文五郎景兼
 上泉信綱と別れた後、丹後宮津の細川幽斎・幽斎の子で
 豊前中津に転封された細川忠興に仕えた。
 その後、肥前唐津の寺沢広高の家臣になった。
 さらに、豊臣秀頼に仕えた。
 慶長10年(1605)9月30日大坂城で終焉を迎えた。享年79。

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【4】上泉秀胤
永禄7年(1564)1月国府台合戦
  国府台(市川市)で重傷を負った、
  1月23日 上泉秀胤は死去した。

【5】上泉秀胤の長男:上泉泰綱
・永禄7年(1564)「国府台の戦い」
  父上泉秀胤がで重傷を負い死去した。
後北条家家臣:上泉秀胤が「第二次国府台の戦い」で
  討死した後、孫:上泉泰綱が上泉家督を相続した。

  上泉泰綱の妻は北条氏忠の娘である。
  (★「兵法由来覚」上泉孫四郎)


・天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻撃
北条氏滅亡。
 「小田原の役」で浪人になった。  
  上泉泰綱と子:秀綱は共に小田原を後にし、
  上野国館林、信濃国井上を転々とした。

・慶長2年(1597) 上杉景勝の勧誘・・・
 上杉泰綱は越後上杉景勝の家臣となり、直江兼続の配下と
 なった。
・慶長3年(1598) 豊臣秀吉の命により会津120万石に
  加増移封された。
 上泉泰綱は会津一刀流の開祖となった。 

・慶長5年(1600)  関ヶ原の戦い

「長谷堂城の戦い」
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箕輪初心●山形【長谷堂城の戦い】直江兼続VS最上義光
http://53922401.at.webry.info/201307/article_9.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 最上家の志村光安と戦って討死した。
 前田慶次郎もここでなくなった。
・慶長6年(1601) 米沢城30万石に減封された。

 上泉泰綱の娘の元へ志駄義秀の子が養子として入婿した。
 300石で跡を継ぎ上泉秀富と名乗った。
 
  以降、子孫は米沢藩士として続いた。
 海軍中将:上泉徳弥は子孫にあたる。
 (★ウィキペディアより)



【6】上泉秀綱
・天正11年(1583) 上泉泰綱の嫡男として後北条家の小田原城
で誕生した。
・天正18年(1590) 「小田原の役」
後北条家が滅亡。
・慶長2年(1597) 越後上杉景勝に仕官した。
・慶長3年(1598) 安江繁家の娘を室に迎えた。
・慶長5年(1600) 「長谷堂の戦い」
父:上泉泰綱が討死した。
  家督を相続した。
 父:上泉秀胤の功によって1,500石を与えられた。
 直江兼続の麾下に置かれた。
・慶長6年(1601) 米沢城30万石に減封された。
   上泉秀綱の禄高も500石に減らされた。
・慶長12年(1607) 上杉家は江戸城普請を命じられた。
  上泉秀綱は 中奉行として工事を指揮した。
・慶長19年(1614)「大坂冬の陣」
「鴫野の戦い」
上泉秀綱は鉄砲隊を率いて豊臣勢を破った。
   戦闘で上泉秀綱自身も重傷を負った。

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