城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲遠江:『三方ヶ原の戦い』徳川家康VS武田信玄

<<   作成日時 : 2016/10/06 04:44   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

元亀元年(1570)徳川家康は武田信玄の侵攻に備えるため、三河:
岡崎城を嫡男:徳川信康に譲り、本拠地を遠江:曳馬城(浜松市)
に移した。曳馬という名称が「馬を引く」=敗北につながり縁起
が悪いことから、平安時代に浜松荘に因んで「浜松城」と改めた。
・元亀3年(1573) 武田信玄が浜松城を攻める素振りを見せなが
ら、無視するような行軍をして、徳川家康を挑発し、誘い出した。
挑発された徳川家康は浜松城から打って出た。▲「三方ヶ原の戦
い」が始まった。武田軍の巧妙な反撃に遭って、簡単に敗北を喫
した。徳川家康は「空城の計」で山県昌景を攻撃を防いだ。後、
第1次上田合戦は踏み込んだ徳川が真田に敗北した。実は三方ヶ
原の戦いにおける主戦場は三方原墓園(浜松市北区根洗町)の古
戦場の碑・犀ヶ崖の戦い古戦場=犀ヶ崖資料館(浜松市中区鹿谷
町)があるが、はっきりと場所が特定されているわけではない。
不明なのだ。
画像


1)浜松城から見える三方ヶ原


2)浜松城天守門の「三方ヶ原の戦い」の模型・ジオラマ等
現在の温暖な浜松周辺では考えられないが、合戦当時雪
が降っていた。
画像

画像

画像



3)車での井伊谷歴女隊:武藤さんの話

@三方原墓園(浜松市北区根洗町)の古戦場の碑
この前を3回も通ったが、目的は井伊直政なので、
寄らないことになかった。
画像



A犀ヶ崖の戦いにおける古戦場
  犀ヶ崖資料館(浜松市中区鹿谷町)がある。

B浜松市中区「小豆餅」
画像

  徳川家康が逃げる途中、立ち寄った茶屋があり。
  お婆さんより小豆餅を買い求めて食べていた。
  そのとき武田軍が迫ってきたので代金を払わず逃げ、後から
  お婆さんが追いかけてきて、餅代をとったいう話があります
「小豆餅」は合戦での死者を弔うために小豆餅を供えたことに
  由来している話もあります。
★逃走していた家康がいくら空腹でも暢気に茶屋に寄ったとは
 思えない。家康は馬に乗っているので、死に損ないの婆に追
 いつかれたというのも変だ?





箕輪初心★小幡一族&熊井土一族&三方原の戦
http://53922401.at.webry.info/201304/article_10.html

箕輪初心:生方▲真田丸32【真田昌幸:空城の計&第一次上田合戦】
http://53922401.at.webry.info/201602/article_4.html


〜〜〜徳川家康シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●愛知【岡崎城】=「徳川家康が生まれた城」
http://53922401.at.webry.info/201212/article_7.html

箕輪初心:生方▲遠江『曳馬城=引馬城(浜松城の前身)』&歴史
http://53922401.at.webry.info/201610/article_6.html

箕輪初心:生方▲遠江『浜松城』:徳川家康が17年住んだ居城&歴史
http://53922401.at.webry.info/201610/article_7.html

箕輪初心★小幡一族&熊井土一族&三方原の戦
http://53922401.at.webry.info/201304/article_10.html

◆◆ 箕輪初心◎長篠の戦い前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_25.html

箕輪初心◎長篠の戦い後編:設楽原の激闘&上野国関係者
http://53922401.at.webry.info/201211/article_27.html

◆◆ 箕輪初心●愛知【長篠城】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html

◆◆ 箕輪初心★【奥平一族は群馬出身】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html

◆◆ 箕輪初心●愛知【長篠城】=菅沼→奥平の城へ ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html

箕輪初心:生方▲遠江『掛川城』:復元木造天守閣が凄すぎる城
http://53922401.at.webry.info/201610/article_3.html

箕輪初心:生方▲遠江【高天神城】前編:縄張りが複雑怪奇な凄い山城
http://53922401.at.webry.info/201610/article_2.html

箕輪初心:生方▲遠江【高天神城】後編「本丸→三の丸」
&『歴史:今川→徳川→武田→徳川の城』
http://53922401.at.webry.info/201610/article_4.html

箕輪初心●静岡【駿府城】=徳川家康3回在住の城
http://53922401.at.webry.info/201111/article_21.html

箕輪初心●静岡【駿府城】@徳川家康3回在城〜徳川家康の死
http://53922401.at.webry.info/201609/article_42.html

箕輪初心:生方▲山梨【獅子吼城】:徳川家康VS北条氏政
http://53922401.at.webry.info/201505/article_1.html

箕輪初心▲神奈川【小田原城の歴史詳細】:大森氏→北条氏5代
http://53922401.at.webry.info/201411/article_26.html

箕輪初心▲神奈川箱根【早雲寺】:後北条5代の墓
&連歌師:宗祇の碑
http://53922401.at.webry.info/201411/article_27.html

箕輪初心●神奈川【石垣山一夜城】=秀吉の天下統一の城 
http://53922401.at.webry.info/201106/article_18.html

箕輪初心▲神奈川【石垣山一夜城A】豊臣秀吉の天下統一への陣城
http://53922401.at.webry.info/201411/article_29.html

箕輪初心◆『徳川家康の関東移封&家臣配置』復刻版2
http://53922401.at.webry.info/201410/article_36.html

箕輪初心★東京【江戸城】=日本最大の城域
http://53922401.at.webry.info/201111/article_19.html

箕輪初心◆豊臣秀吉の死〜徳川家康の小山評定〜関ヶ原の戦いへ
http://53922401.at.webry.info/201312/article_14.html






*******************************

・永禄3年(1560)桶狭間の戦い
  飯尾乗連・子:飯尾連竜も参加した。
  桶狭間の戦いにおいて今川義元が戦死した。
今川義元が織田信長に敗北。

  今川氏の衰退が始まった。

・浜松には、今川方で、頭陀寺城城主:松下加兵衛がいた。
 豊臣秀吉が少年時代:木下藤吉郎時代に3年間、松下加兵衛
 に仕えた。松下加兵衛に連れられて、豊臣秀吉は引間城を
 訪れていた。

飯尾乗連は今川氏に引き続き仕えた。

松平元康(徳川家康)は今川家を離反し、岡崎城に戻り独立。


今川氏の衰退後、城主飯尾連竜が今川氏真に反旗の疑惑をもたれた。
・永禄8年(1565) 曳馬城は今川氏真軍に攻囲され、多大な損害を
  被るが、陥落は免れた。
  飯尾連竜は今川氏真からの和議勧告を受諾した。
  飯尾連竜は今川氏再属のため駿府への大赦御礼に出向いたが、
  和議は謀略で、飯尾連竜は殺害された。

@説・・・曳馬城は、飯尾連竜の家老:江間氏によって守られた。
A説・・・飯尾連竜の未亡人:お田鶴の方を中心とした飯尾氏
      の残党によって守られた。
 
・永禄11年(1568) 今川義元の子:氏真は甲斐の武田信玄・三河
  の徳川家康から挟み撃ちに遭い、今川氏真は本拠地:駿府館を
  捨てた。武田信玄に駿河に武田館を造って、更に遠江に侵攻した
  今川氏真が朝比奈泰朝のいる掛川城に逃げ延びた。
       掛川城に籠城。
 
  曳馬城内では徳川派と武田派に分裂して内紛が起きた。

・永禄11年(1568)12月 徳川家康は曳馬城を攻略した。
徳川家康はお田鶴の方に使者を送り、曳馬城を渡せば、妻子共々
  面倒を見ると降伏を促した。
  しかし、お田鶴の方が拒否し続けた。
 徳川家康が攻め込んだ。
 お田鶴の方が城兵を指揮して奮戦したが侍女と共に討死にした。
 ※お田鶴の方を祀った「椿姫観音」が城の近くに残っている。
(★「曳馬城石碑」)


・永禄12年(1569) 徳川家康は掛川城を包囲した。
  朝比奈泰朝は掛川城で籠城した。
  徳川家康はなかなか掛川城を落とせなかった。
  長期にわたる攻防の末、
 1月23日 朝比奈泰朝は和議で
  「今川氏真の身の安全を徳川家康に認めさせた。
   今川氏真・朝比奈泰朝は開城を決断した。
   今川氏真・朝比奈泰朝は小田原城を頼った。
   朝比奈3代、約100年間の掛川城統治が終了した。
    
  徳川家康の領有後、掛川城には重臣石川家成が入城した。

*****************************   

●元亀元年(1570) 徳川家康は居城であった岡崎城を長子:信康
 に譲り、曳馬城(浜松城の前身)に入城した。
徳川家康は武田信玄の侵攻に備えるため、本拠地を三河国岡崎
  から遠江国曳馬へ移したのだ。
  天竜川を渡った見付(磐田市)に新たに築城をするつもりであ
  ったが、籠城戦に持ち込まれた際天竜川により「背水の陣」と
  なることから、曳馬城を西南方向に拡張した。
  その際、曳馬という名称が「馬を引く」、=敗北につながり縁起
  が悪いことから、平安時代にあった荘園:浜松荘に因んで城名・
  地名ともども「浜松」と改めた。

※元亀元年(1571) 室町幕府15代将軍:足利義昭は織田信長討伐令
  を出した。第2次信長包囲網である。
 
・元亀2年(1572) 武田信玄は徳川領国である遠江国・三河国に
 大規模な侵攻を始めた。
画像
 
・元亀2年(1571)武田信玄は2万越える大軍で高天神城を包囲
 したが、撤退した。
武田信玄と織田信長は同盟関係は維持していたため、織田信長
 は徳川家康に援軍を送らなかった。
北条氏康の死をきっかけに北条氏政は武田信玄と和睦して甲相
 同盟が復活した。北条氏と徳川氏にの挟み撃ちの憂いが亡くなった。

・元亀3年(1572) 
 武田信玄は西上作戦を開始した。

・元亀3年(1572)武田信玄は諏訪原城・小山城の築城に着手した。 



武田信玄は西上作戦における遠江侵攻・・・徳川家康の城に大攻勢
をかけた。
画像

北条氏の後顧の憂いがなくなった武田信玄は西上作戦を開始する。
武田信玄は軍は兵を3つに分けて、遠江国・三河国・美濃国に同時
侵攻を行った。
@山県昌景は、別働隊を率いて信濃から三河へ侵攻した。
 軍勢は5,000人とされる。
 9月29日、信濃諏訪より東三河に侵攻。
 徳川家康の息のかかったの武節城の攻略
 東三河の支城である長篠城を攻略した。
 遠江国に侵攻。
A秋山虎繁(信友)は、信濃大島城(長野県下伊那郡松川町)
 から高遠城より東美濃に侵攻した。
 軍勢は5,000人とされる。
 秋山勢は織田氏の岩村城を包囲した。
 (事実上の織田氏との同盟破棄)
 11月初旬に攻略。女城主:織田の叔母を妻にした。

B武田信玄率いる本隊は駿河から遠江・三河に侵攻した。
 本隊は2万2,000人(北条氏援軍2,000人)とされる。
 10月3日、甲府より出陣し、諏訪→青崩峠から遠江国に侵攻。
 途中、犬居城で馬場信春隊5,000人を別働隊として只来城に
 向かわせた。
 本隊は南進して二俣城へ向かった。

 武田軍は総計3万人・・・当時の武田氏の最大動員兵力であ
 った。
 (★ウィキペディアより編集)
10月13日 馬場信春隊は只来城を落とした。
 馬場信春隊は二俣城を包囲した。
 武田信玄率いる武田軍本隊も二俣城に向かっていた。
 10月14日 一言坂の戦い

 徳川家康は二俣城を取られたくないと思った。
 徳川家康が偵察に出たが、武田軍本隊と遭遇してしまった。
 一言坂で敗走した。

10月16日 武田軍本隊も二俣城の包囲に加わり、降伏勧告を行う。
 二俣城は1,200人の兵力しかなかったが拒否した。

10月18日 ▲二俣城の戦い
 武田軍の攻撃が開始された。
11月初旬 山県昌景隊も包囲に加った。
 そして、二俣城の水の手を絶った
12月19日 助命を条件に開城・降伏した。
  遠江国の北部が武田領となっていた。

 高天神城と浜松城とを結ぶ遠江の要所・二俣城を攻略した。
 高天神城は孤立した。
 しかし、高天神城はまだ徳川氏の拠点として機能していた。

※徳川家康軍は二俣城落城前に、佐久間信盛・滝川一益・平手汎秀
 ・林秀貞・水野信元ら織田軍3,000人の支援を得て、1万1,000人
  に兵力になった。

1)古記録 成り行き説
『当代記』『四戦紀聞』などの史料
 徳川家康は戦うつもりがなかったが、物見に出ていた部下が小競り
 合いを始めてしまい、浜松城に戻そうとしている間に戦闘に巻き込
まれてしまった。
(★『当代記』『四戦紀聞』)
 
2)地理的考察

3)信玄の巡視経路


▲前哨戦
 徳川家康に磐田・見付町の町衆が味方して武田軍に対抗した。
「町衆が狼煙をあげ、武田軍の動きを浜松城の家康に知らせた。」
「夜討ちをかけた武田勢が引き上げるところを、省光寺の裏山に
 ひそんでいた町衆が待ち伏せして襲い、何人かを討ち取った。」
「浅羽の内芝原に信玄が陣取った際、本多忠勝と内藤昌成が見付
 東坂の上まで物見に出たのだが、信玄隊が急に襲いかかってき
 たので、町衆は自ら町に火を掛け、本多隊の撤退を助けた。」
★見付(磐田市)は徳川家康が武田対策に城を造ろうとした
 場所である
  徳川家康から特権を与えられた
 
(★「戦国の群像」小和田哲男)
▲元亀3年12月22日(1573年1月25日)
遠江国敷知郡の三方ヶ原(現静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こ
った。
武田信玄軍2万7,000〜4万3,000人と徳川家康、織田信長からの
連合軍1万1,000〜2万8,000人との間で行われた。
 (★ウィキペディアでは)
   
▲三方ヶ原の戦い
 武田軍25000  VS   家康11000+織田信長の援軍3000  


武田信玄の西上作戦の過程で行われた戦いである。
   武田信玄は遠州諸城を落とし、浜松城に肉薄。
  武田信玄は浜松城が堅固な守りであることを
   知ると、西に進軍。・・・罠だった。

徳川家康が出陣した理由
@通説・・・挑発に乗って出陣した説
  武田信玄の素通り作戦の挑発に乗ったとされている。

 徳川家康は多くの小説やTVでは
 「庭先を踏みつけられて見過ごすは弓矢をとる者の恥だ。
  浜松から撤退するくらいなら武士をやめる。」
 と勇んで出陣した。

A少数説・・・家臣や国人衆たちの信頼を得るために出陣した説。
  理由・・・武田軍が通り過ぎるのを待つだけでは、武田信玄の
  調略に乗る者や離反者が出る可能性があった。
「その時歴史が動いた説」あえて出撃することによって家臣や
  国人衆たちの信頼を得るという説。
  武田軍が去るのをただ待つだけでは調略に乗る者や離反者が出
  る可能性があったという考え。

B少数説・・・織田・武田のどちらが勝っても戦役終了後に徳川に
  有利になるよう戦略的アピールを狙った説、

C少数説・・・祝田の坂を利用し一撃離脱を図っていた説

D少数説・・・武田信玄への足止め作戦
 挑発に乗った振りをして浜松城近辺に武田軍を足止めするための
  時間稼ぎを狙っていた説
 (★『日本歴史』360号「武田信玄の西上作戦小考」:染谷光広)


三方ヶ原における合戦の経緯
三方原古戦場(静岡県浜松市北区根洗町)
●徳川家康の動向
徳川家康と佐久間信盛は、
「武田軍の次の狙いは本城・浜松城である。」
と考え、籠城戦に備えていた。


▲武田信玄軍の動向
12月19日 二俣城攻略した
12月22日 二俣城を発すると、遠州平野内を西進する。
  浜松城を素通りして三方ヶ原台地を通過しようとしていた。
  浜名湖に突き出た庄内半島の先端に位置する堀江城(現浜松市西区
  舘山寺町)を標的とするような進軍コースをとった。
  

●徳川家康の動向
 徳川家康は、籠城策から一部家臣の反対を押し切って、「三方ヶ原
 から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う。」積極攻撃策に変更し、
 浜松城から追撃に出た。
 夕刻には、三方ヶ原台地に到着した。

(★「その時歴史が動いた」ビデオ)

※両軍の布陣
少数の徳川軍・多数の武田軍であったとすると、
 両軍とも定石と異なる布陣を敷いていた。
画像

▲武田信玄の動向
 武田軍は魚鱗の陣を布いて待ち構えてした。
 ※魚鱗の陣は劣勢の側が敵中突破を狙うのに用いる陣形である
武田軍が魚鱗の陣を取った理由
説@ 鶴翼の陣を見て大将首:家康を討ち取ることに狙いを絞った
   鶴翼は両翼に比重を置くため中央は必然的に薄くなる。
説A 織田軍の中でも佐久間信盛が援軍にいる情報を得ていたこと
   などから、織田軍の支援を考慮して多く見積もっていた。


●徳川軍は鶴翼の陣をとった。
 ※鶴翼の陣は通常は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形
 である
 
徳川方が鶴翼の陣を取った理由の
説@そもそも武田軍本隊は去っており、待ち構えているのは少数である
  と予想していたため。
説A 最初から勝ち目が無いことはわかっていたため、兵力を大きく
  見せることで相手の動揺を誘おうとした。
説B 池宮彰一郎の小説『遁げろ家康』では、家康は合戦をすること
  自体が目的であったため勝利よりも鶴翼の陣形で一当たりし、
  続いて逃げることが目的だったと描写されている
  鶴翼は両翼の中心後方に大将を置くため、逃げやすい。
他にも説はあるが、何れにしてもはっきりしたことはわかっていない。


×戦闘が始まった。

@小山田信茂の投石隊のエピソード
 小山田信茂が投石隊を率いたとする逸話が知られる。
 小山田信茂が投石隊を率いた俗説が成立した。

 武田氏では「水役之者」と呼ばれた200 〜300人の投石部隊
 が礫(つぶて)を打ったと記している
  (★『信長公記』:ウィキペディア)
武田氏では「郷人原(ごうにんばら)」と呼ばれた投石隊が率
 いられていた
 (★『三河物語』)
 



武田軍に対し兵力・戦術面ともに劣る徳川軍に勝ち目はなかった。
本多忠勝などが、武田軍相手に奮戦した。

2時間の戦闘で甚大な被害を受けて敗走する。

武田信玄は徳川家康を討ち取ることはできなかった。

武田軍の死傷者200人に対し、
徳川軍は死傷者2,000人
 鳥居四郎左衛門・成瀬藤蔵・本多忠真など有力な家臣
 二俣城の戦いでの恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治、
 織田軍の平手汎秀を失った。
『織田軍記』・・・徳川勢535人、甲州勢409人。

※武田信玄は「野戦作戦」に持ち込んだことで
全て武田軍の思惑通りに進んだ。

徳川家康は夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣、成瀬吉右衛門、
日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回り
のみで敗走した
徳川軍の一方的な敗北の中、徳川家康も討ち死に寸前まで追い詰
められた。


▲犀ヶ崖の戦い
※三方原古戦場犀ヶ崖碑(静岡県浜松市中区鹿谷町)
浜松城の北方約1kmの所にある (★現浜松北高校隣)
 徳川家康は、夜、一矢報いようと考え、大久保忠世:天野康景ら
 浜松城の北方約1kmにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲
 させた。多数の死傷者を出したという。
 徳川軍が崖に誘き寄せるために崖に布を張って橋に見せかけ、
 誤認した武田勢を崖下に転落させたと伝わっている。
 (★東海戦国武将ウォーキング)
 荒唐無稽な逸話である。
 (★ウキペディア)

●夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりとなって、討ち死にした。
撤退戦に際して、徳川家康は騎射で武田勢数名を撃ち倒した
 (★『信長公記』)
徳川家康は浜松城へ逃げ帰った。

徳川家康が浜松城に帰還した際、夜陰に乗じての帰還で供回りも
少なかったことから殿の帰城とは信じて貰えず、しばらく浜松城
に入れなかった。

徳川家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、「空城の計」
を指示した。
そして、徳川家康は湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り
込んだと言われる。
家臣は心の余裕を取り戻した徳川家康の姿を見て将兵は皆安堵した
とされる。

▲山県昌景隊5000が浜松城まで追撃してきた・
山県昌景は「空城の計」によって警戒心を煽られ、浜松城内に
突入することを躊躇し、そのまま引き上げた。

★『酒井忠次時鼓打之図』月岡芳年作
徳川家康が浜松城に逃げ帰った後、酒井忠次が城の櫓上にて太鼓を打ち
鳴らして味方を鼓舞し、武田方には伏兵のあることを疑わせて引き返
させたとする。

TVでは
「城門を開け放しにした。」
となっているのがあったは話を脚色した。

●徳川家康の動向
犀ヶ崖の夜襲エピソード
 同夜、徳川家康じゃ一矢報いようと考え、大久保忠世、天野康景
 らに命令し、犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲させた。
 混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落した。
 また 徳川軍が崖に布を張って橋に見せかけ、武田勢が殺到して
 崖下に転落した
 結果、多数の死傷者を出したという。

※俗説
@家康が敗走中に部下のとった坊主首を信玄を討ち取ったと
 言いふらさせた、
A徳川勢の戦死者が一人も背中を見せて死んでいなかった。
B武田信玄が米倉丹後守に「火牛の計」を授けた、などがある。
米倉丹後守は武川衆・・・一条家・青木家・裄V家・米倉家など

 結果・・家康が×   
  浜松城に撤退。

徳川家康が大敗した


徳川家康のうんこ漏らしエピソード
逸話・・・敗走中の家康が恐怖のあまり脱糞し、浜松城に入城した
 後に家臣から脱糞した旨を咎められて
 「これは味噌だ。」と家臣に言い放ったという逸話が知られている。
 出典となる史料が判明していない。
 『三河後風土記』では一言坂の戦い後の話としているそうである。

画像


家康は曳馬城=引間城の北口にあたる「玄黙(元目)口」へ撤退
  したといわれている。

※「しかみ像」エピソード
・徳川家康は苦虫をかみつぶしたような顔の絵を描かせた。
(『徳川家康三方ヶ原戦役画像』:徳川美術館所蔵)

@しかみ像
画像

A浜松城内の人形
画像


B女の子
画像


※江戸時代に製作された家康の礼拝像の写しはとみられる
 昭和時代、三方ヶ原で敗れた直後の家康が自戒のために
  本像を描かせたとする伝承が創作された。
  
※2015年 読売新聞 .<家康編13> 
  家康の「しかみ像」は三方原の戦いとは無関係である。



◆参考文献・資料
『三方ヶ原の戦いと小幡赤武者隊』:岩井良平著
『三方ヶ原の戦い』小和田哲男著
『戦国の群像』小和田哲男文責
『検証・三方ヶ原合戦』小楠和正著
『武田氏家臣団人名辞典』「秋山虎繁」「山県昌景」丸島和洋文責
  柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編:東京堂出版
「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」原史彦
画像
  

◆参考サイト
・ウィキペディア


***『三方ヶ原の戦いと小幡赤武者隊』*********
画像

●第11章 小幡赤武者隊の奇襲と酒井・佐久間の敗走
岩井氏説「酒井・佐久間が戦わず敗走した原因が書いてない。
実は国峰小幡隊の右斜め後方からの奇襲があった。・・・
しかし、武田信玄は小幡氏は秘密兵器なので、秘密にして
いた。」・・・高柳氏や小和田哲夫氏(★静岡大学名誉教授)
は小幡氏を評価していないと、著書の中で嘆いていた。
 

●第12章 信玄の戦術=自弱の法&佯退(偽りの退却)の法
徳川軍16000は鶴翼の陣・・・通常は自軍の数が多いので、
    相手を包囲するのに用いられる陣形である。
理由
 説@・・武田本隊は去っており、少数だと予想していたため。
 説A・・・勝ち目が無いので兵力を大きく見せて相手の動揺を
      誘おうとした説。
 説B徳川家康は合戦をすることが目的であったため、体当たり
  し、逃げることが目的だった説。
   ※鶴翼は両翼の中心後方に大将を置くので逃げやすい。
武田軍32000は魚鱗の陣・・・通常は自軍の数が少ないので、
    敵中突破を狙うのに用いられる陣形である。
理由
  説@鶴翼の陣を見て、徳川家康を討ち取ることに狙いを絞った。
   ※中央は必然的に薄くなる。
 説A織田軍の佐久間信盛が援軍にいる情報を得ていたことなど
  から、徳川家康軍を多く見積もっていた。



 (★岩井氏作成の地図)
※岩井氏説・・・自弱の法&佯退(偽りの退却)の法
 「馬場・勝頼・山県にあしらわせ、・・山際まで、ひきとら
 せる。・・・」(★甲陽軍艦)とあるが、予想より徳川家康軍
 は強かった。
※両軍の規模を見れば、通常と異なる布陣を敷いていた。


●第13章 小幡氏に関わる文献解釈と再検討
※岩井氏説・・山県ではなく、小幡ではないだろうか?
★山県昌景も赤備えであるから、岩井氏の説もあり得る。


●第14章 佯退(偽りの退却)する山県隊の意外な敗走・・・
※岩井氏説・・・自弱の法&佯退(偽りの退却)の法
 「馬場・勝頼・山県にあしらわせ、・・山際まで、ひきとら
 せる。・・・」(★甲陽軍艦)とあるが、予想より徳川家康軍
 は強かった。山県隊の孕石源右衛門泰時(★18年後後、井伊
 直政の家老)は、徳川家康の家臣:成瀬に殺されそうになった。
 佯退(偽りの退却)は負けた振りをしながら、逃げるので難し
 いので、あろう。
「馬場・勝頼・山県にあしらわせ、・・山際まで、ひきとら
 せる。・・・」(★甲陽軍艦)とあるが、馬場ではなく、内藤
 ではないだろうか。


●第15章 家康の退路解明
徳川家康は東に逃げた説が通説である。(★信長公記など)
 ※岩井氏説・・・西に逃げた。
※岩井氏説・・・「徳川家康の旗本軍は武田信玄の本隊に
  突撃したが、左から小幡隊・右から馬場隊が入り、敗れた。
  徳川家康はその直前に1騎で大谷の窪南端の崖に沿い、和地
  の方角=西に逃げたのである。」

 (★岩井良平氏作成の地図)


●第16章 勝頼が内藤昌豊に与えた起請文
岩井氏説・・穴山信君は「徳川家康を逃した責任は内藤昌豊に
ある。」として、責めた。しかし、山県昌景のとしなしで、
その場は、納まった。しかし、内藤昌豊武田信玄の死で殉死
しようとしたが、武田信勝は「中傷である。」などの起請文を
出した。

●第17章 三方原の戦ーーーその結末
 武田軍 VS 徳川軍
2時間の戦闘で甚大な被害を受けて、徳川軍は敗走した。

 徳川家康は討ち死に寸前まで追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎
 を身代わりにして敗走した。供は成瀬吉右衛門・日下部兵右衛門
 小栗忠蔵、島田治兵衛などのみで浜松城へ逃げ帰った。

★徳川家康は脱糞=うんこちびり伝説
※徳川家康は浜松城の全ての城門を開めさせた。篝火を焚き、空城の
 計を行った。そして、「しかみ像」を描かせた。後後の教訓にした。

 (★ビデオ「その時歴史が動いた」) 

*******************************
敗戦後、徳川家康はしばらく敗戦で死ぬ夢でうなされた。
徳川家康は三方ヶ原の戦で人生初の恐怖と大きなトラウマをもらっ
たのは有名だが、同時に武田信玄及び武田軍の武将達に尊敬の念を
抱くようになったという説もある。




三方原合戦後に武田信玄は正式に織田信長と断交したという。
武田軍はほぼ兵力を温存した状態の遠江国で越年した。
 (★『甲陽軍鑑』)

・元亀4年(1573) 正月 東三河へ侵攻する。
2月16日 野田城の戦い
武田信玄は徳川家康の東三河防衛の要所:野田城を攻略した。

  武田信玄の病状悪化に伴い、武田軍は西上作戦を切り上げて
  甲斐国への撤退を決断した

・元亀4年/天正元年(1573) 4月12日
武田信玄は信濃伊那郡駒場において病死した。
武田氏では武田信玄の死を秘匿し、2男の武田勝頼が家督を
  継いだ。

  8月 徳川家康は長篠城を取り戻すことに成功した。
  奥平貞能・貞昌親子の調略も成功させた。
  長篠の戦いで大きな意味を持つことになる。

・天正2年(1574)武田信玄の跡を相続した。
 武田勝頼は2万余の軍勢を率いて美濃岩村田へ侵攻した。
  2月7日 武田勝頼は明智城を攻略している。

 武田勝頼は再び高天神城を包囲した。
 小笠原長忠を降伏開城させた。
 武田勝頼は岡部真幸(元信)、横田甚五郎尹松らを城将として
 守らせた。
徳川家康は 三河から遠江に進出した。
横須賀城を築城した。


・天正3年(1575) 5月21日 三河における長篠の戦い
  武田勝頼は長篠・設楽原合戦で織田・徳川連合軍に
 大敗を喫した。

  武田勝頼は織田・徳川連合軍に大敗。・・・
◆◆ 箕輪初心◆長篠の戦い ◆◆
@前編 http://53922401.at.webry.info/201211/article_25.html

A後編 http://53922401.at.webry.info/201211/article_27.html

・天正9年(1581) 徳川家康は遠江国高天神城の包囲し、
  餓死をまった。
  武田勝頼は救援を出せないまま高天神城は落城した 。

・天正10年(1582) 2月 織田・徳川連合軍の武田領侵攻した
 3月11日 武田氏が滅亡した。
★徳川家康は武田氏滅亡後、旧武田家臣を家臣にした。
  徳川家康が武田の旧遺臣を抱えた。
  山県昌景や小幡信貞の赤備えを井伊直政に継がせた
  (井伊の赤備え)のも敬意の表れだと言われている。
井伊直政の山県昌景家臣は75騎いた。
(★新編高崎市史)
山県家臣広瀬・三科・孕石は家老になった。
  早川弥惣右衛門は足軽大将であった。
小幡孫四郎・山県昌景の家臣など・・・

結局、山県昌景や小幡信貞の遊撃隊は井伊直政の遊撃隊
となって、井伊直政を活躍させることになった。


・天正10年(1582)頃、本多重次の拡張・改修は大体終わった。

・天正14年(1586) 徳川家康は浜松から駿府に本拠を移した。
 ★徳川家康の在城期間は29歳から45歳までの17年になる。

・天正18年(1590) 北条氏滅亡
徳川家康命令で、井伊直政の家臣になった者。
北条氏直の家臣になっていた小幡家家老:熊井土は
岡本姓をを名乗り、岡本半助宣就となり、井伊家軍監
で家老になった。真田丸にカルバイン砲を打ち込んだ。
武田家臣→北条家臣:宇津木泰繁も稲富流砲術で:
井伊直政の鉄砲奉行になった。
山県の鉄砲奉行→北条の鉄砲奉行:石原主膳
も井伊直政の家老になった。


◆◆ 箕輪初心◆奥平一族 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html


 
★明日は「井伊谷」に入るかな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲遠江:『三方ヶ原の戦い』徳川家康VS武田信玄 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる