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zoom RSS 箕輪初心:生方▲遠江【高天神城】後編「本丸→三の丸」&『歴史:今川→徳川→武田→徳川の城』

<<   作成日時 : 2016/10/03 07:23   >>

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 ・永正年間(1504〜1520)今川氏親の重臣:福島正成が城将とし
て高天神城に入城した。今川氏没落後、高天神城主:小笠原長忠
は徳川家康に属していた。元亀2年(1571)武田信玄は2万越える
大軍で高天神城を包囲したが、撤退した。天正2年(1574)武田信
玄の跡を相続した武田勝頼は2万余の軍勢を率いて再び高天神城
を包囲し、小笠原長忠を降伏開城させた。武田勝頼は岡部真幸(元
信)、横田甚五郎尹松らを城将として守らせた。天正3年(1575)
武田勝頼は長篠・設楽原合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫した。
天正6年(1578)徳川家康は横須賀城を築いて高天神城への備えと
した。さらに徳川家康は6砦を築いて高天神城を包囲した。籠城
する岡部真幸は武田勝頼に援軍を求めたものの、勝頼は援軍を送
ることができなかった。天正9年(1581)兵糧が尽き、城将岡部真
幸は打って出たが、ついに高天神城は落城した。徳川家康は高天
神城を焼き払って廃城とし、以後は横須賀城を拠点とした。
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■9月23日、雲見ダイビングを終え、三島のビジネスホテルに泊まった。
9月24日は、三島宿から・・・東名沼津IC・・・高速掛川I.C・・・・。
 掛川城大手門に着いたのは8:30であった。
 オープンは9:00だという。
 県道掛川大東線の小貫から、右折した。ワクワクし始めた。
 6月に箕輪城ボランティアであった人・焼き物に新しく入って
 きた人が、「高天神城は素晴らしい。」と言っていたのを思い出
 したからである。
@高天神城北口駐車城(搦め手門側):約100台着いた。
 看板には、 
「高天神城は小笠山塊から張り出した尾根に築かれた城で、標高
130mの東峰(本曲輪)と西峰(丹波曲輪)の山頂に二つ持つ。
東峰と西峰はそれぞれ独立した曲輪群を従えており、両者は細長
い尾根によって一つの城となっている連郭式一城別郭式の城で
ある。」と書いてあった。
 
A高天神城南口駐車城(追手門側):約10台・・・
 
B追手門(大手門)跡から登る。
C大手門から行った分岐

D左の西峰に向かう。
二の丸を中心に腰曲輪・井戸曲輪・西の丸などに分かれている。


E西の丸=高い天神社(後で移動)

F堀切・・・城の弱点は西の丸の堀切を経て、馬場曲輪から西の
 隣峯に向けて緩やかな斜面となっている点か?

G馬場平・・・「犬戻り・猿戻り」と呼ばれる間道。
 岡部氏の落城の際の逃げ口となっているとか。
  武田氏の軍監横田尹松が武田勝頼こ落城の様子を知らせるため、
 馬で西に約1kmの尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て
 甲州へと抜け去った。また、2回の落城も西の丸から攻められて
 落とされた。

H西の丸から二の丸・・・高天神城は周囲を絶壁と深い谷に囲まれ
 ている。東峰の本丸が見えた。

I腰曲輪
J??兄弟の墓
K堂の尾曲輪・・・築城技術的に新しい防御法が見られるそうだ。
 北に突出した堂の尾曲輪では堀切・横堀・堅堀・馬出しなどの
 遺構を確認することができる。
 特に堂の尾曲輪下の空堀(=隍堀)が深く、大きい。

L物見台・土塁・空堀・・・・
Lコル・・・搦め手口からの休憩所。
看板
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「東峰は断崖に守られ、本丸・御前曲輪(千畳敷)・三の丸などの曲輪
 をひな壇状に配置した構造となっている。
M的場曲輪


N本丸・・・本丸跡からの見晴らしは、すばらしい。
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▼下る。
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O御前曲輪・・・天神社があり、後に西の丸に移したので高天神
 といわれた小さな祠がある。
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    かわいいアベック用の首看板があった。
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          南方に遠州灘も見える。

P三の丸・・・東側は断崖で囲まれている。
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土塁もあった。
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▼車に戻った。
・・・横須賀城に行き始めたが、時間的な余裕がなく、引き返した。


●掛川城の3階で高天神城の戦いの様子の資料が展示されている。
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○パンフレット
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●▲■ 高天神城の歴史
・応永23年(1416)九州探題今川貞世(了俊)が築城?(諸説有り)

・明応から文亀年間(1492〜1503) 駿河の守護:今川氏が遠江の
        斯波氏への対抗のために築城?

・永正年間(1504〜1520)今川氏親の支城として重臣:福島
        正成が入城。
  永正10年(1513)頃(初見資料)福島正成が入城

・大永元年(1521)  飯田河原合戦
  (今川氏と武田信虎の争い)
  城将の福島正成が甲斐に侵攻。戦死説あり。

・天文5年(1536)  今川氏の後継者争い(花倉の乱)
  玄広恵探+福島正成 VS 軍師:太原崇孚雪斎+今川義元   
  今川義元の勝利。
  福島正成は武田信虎を頼って甲斐に逃亡
  →武田信虎により殺害。
  福島正成の子:勝千代は北条氏綱を頼り相模に逃走→
  北条氏綱の養子→北条綱成と名乗り、玉縄城(鎌倉大船)主。
  →高天神城に今川義元家臣馬伏塚城主:小笠原長興(氏興)・
   長忠親子が入城。

・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い
 今川義元が敗北。
 ▲松平元康(徳川家康)は今川家を離反し、岡崎城に戻り独立。
 比馬城(引馬城・曳間城・浜松城前身)を攻略。
桶狭間の戦いから駿河侵攻にかけての今川氏の衰退・滅亡に
 よって城主・小笠原長興(氏興)は徳川氏に臣従した。
 遠江・駿河の国境近くにある高天神城は、徳川氏にとって遠江支配
 の重要拠点であった。


・永禄11年(1568)  甲相駿三国同盟を破棄した武田信玄が
  駿河に侵攻→今川氏真は掛川城に逃亡。
 
  高天神城を徳川家康が占領。
  属将:小笠原長忠を城将として置いた。

・永禄12年(1569)
  
駿河・遠江を領していた今川氏真が武田信玄と徳川家康に
 挟撃され滅亡した。
 駿河は武田信玄に、遠江は徳川家康の所領となった。

 武田信玄が金谷台地に五つの砦を築城した。
 11月 「金谷城」を築城した。
(★『武徳編年集成』)
  金谷城が諏訪原城かどうかは断定できないが、
  武田信玄は馬場信春に命じて諏訪原城か元になる
  城を築城開始した。

 武田信玄は駿河平定後、遠江・三河方面へ手を伸ばし始めた。
 
 武田と徳川は間もなく争うようになった。
徳川氏とは小競り合いが続く。

・元亀元年(1570) 武田信玄は今川氏真の支城の
  花沢城・田中城(藤枝)→今川方の西駿河諸城を攻撃。
 2月→花沢城,徳之一色城(田中城)を開城。

▲元亀元年(1570)説  徳川家康は居城であった岡崎城を長子:
  信康に譲り、曳馬城(浜松城)に入城した。
  
 武田信玄は田中城(藤枝)を築城した。

・元亀2年(1571)武田信玄は遠江に侵攻し2万5千騎を率いて
   高天神城を攻撃した。
  武田信玄は城門を襲ったが難攻不落と見て、包囲を解いて退却した。            

 ※武田氏と織田氏は同盟関係は維持していたため、織田氏は
 徳川氏に援軍を送らなかった。

 北条氏康の死。
 →北条氏は武田氏と和睦して甲相同盟が復活した。
 
・元亀3年(1572)武田信玄は諏訪原城・小山城の築城に着手した。 
 
武田信玄は西上作戦における遠江侵攻・・・徳川家康の城に大攻勢
をかけた。
北条氏の後顧の憂いがなくなった武田信玄は西上作戦を開始する。
武田信玄は軍は兵を3つに分けて、遠江国・三河国・美濃国に同時
侵攻を行った。
@山県昌景は、別働隊を率いて信濃から三河へ侵攻した。
 軍勢は5,000人とされる。
 9月29日、信濃諏訪より東三河に侵攻。
 徳川家康の息のかかったの武節城の攻略
 東三河の支城である長篠城を攻略した。
 遠江国に侵攻。
A秋山虎繁(信友)は、信濃大島城(長野県下伊那郡松川町)
 から高遠城より東美濃に侵攻した。
 軍勢は5,000人とされる。
 秋山勢は織田氏の岩村城を包囲した。
 (事実上の織田氏との同盟破棄)
 11月初旬に攻略。女城主:織田の叔母を妻にした。

B武田信玄率いる本隊は駿河から遠江・三河に侵攻した。
 本隊は2万2,000人(北条氏援軍2,000人)とされる。
 10月3日、甲府より出陣し、諏訪→青崩峠から遠江国に侵攻。
 途中、犬居城で馬場信春隊5,000人を別働隊として只来城に
 向かわせた。
 本隊は南進して二俣城へ向かった。

 武田軍は総計3万人・・・当時の武田氏の最大動員兵力であ
 った。
 (★ウィキペディアより編集)
10月13日 馬場信春隊は只来城を落とした。
 馬場信春隊は二俣城を包囲した。
 武田信玄率いる武田軍本隊も二俣城に向かっていた。
 10月14日 一言坂の戦い

 徳川家康は二俣城を取られたくないと思った。
 徳川家康が偵察に出たが、武田軍本隊と遭遇してしまった。
 一言坂で敗走した。

10月16日 武田軍本隊も二俣城の包囲に加わり、降伏勧告を行う。
 二俣城は1,200人の兵力しかなかったが拒否した。

10月18日 ▲二俣城の戦い
 武田軍の攻撃が開始された。
11月初旬 山県昌景隊も包囲に加った。
 そして、二俣城の水の手を絶った
12月19日 助命を条件に開城・降伏した。
  遠江国の北部が武田領となっていた。

 高天神城と浜松城とを結ぶ遠江の要所・二俣城を攻略した。
 高天神城は孤立した。
しかし、高天神城はまだ徳川氏の拠点として機能していた。

二俣城などの遠州諸城を落とし、浜松城に肉薄した。
 
武田信玄は浜松城が堅固な守りであることを知ると西に
 進軍した。
西に進軍。・・・罠。
 
徳川家康は「庭先を踏みつけられて見過ごすは弓矢をとる
  者の恥だ。」
 と言って、徳川家康は浜松城から討って出た。
  ▲三方ヶ原の戦い
 武田軍25000  VS   家康11000+織田信長の援軍3000  
    結果・・徳川家康が× 浜松城に撤退。
****************************
箕輪初心★小幡一族&熊井土一族&三方原の戦
http://53922401.at.webry.info/201304/article_10.html

・元亀4年・天正元年(1573)
・天正元年(1573)

  武田勝頼は、普請奉行馬場信春、補佐を武田信豊に命じ、
東海道沿いの牧之原台地上に城を築かせた。
   (★『甲陽軍鑑』)
  諏訪原城は牧之原台地の突端部を利用し、三方は牧ノ原
  台地の断崖となっている。
甲州流築城術の特徴:丸馬出&三日月堀が5ヶ所あり、
  枡形虎口などの遺構も残っている。
  前面の巨大な空堀が断崖へと続いている。
  高天神城に向けて戦闘正面を強化した構造となっている。   
  諏訪原城を築城説? 改築説?・・・・。
  馬場信房が城代になった。
  在番として今福友清(淨閑斎)・子の今福丹波守顕倍が守った。
  室賀・小泉も寄騎していた。
   
  諏訪原城・小山城・田中城・相良城などが大井川西岸の防衛
ライン及び高天神城への補給線を確保する重要な拠点となった。
  徳川家康の遠江から防衛ライン・徳川への攻撃ラインとなった。
 
  武田信玄は諏訪原城に入城。天神城の攻略を目指した。

2月16日 ▲野田城の戦い
  武田軍は徳川軍にとって東三河防衛の要所である野田城を攻略
 した。

しかし、武田信玄の病状悪化していった。
 武田軍は西上作戦を切り上げて甲斐国への撤退を決断した。

4月12日(5月)武田信玄は病死した。
 武田信玄は「西上作戦」から三州街道を甲府へ帰陣する途中、
 信濃伊那郡駒場で死去した。
 武田信玄の死は秘密にされ、武田勝頼が武田氏の跡目を継いだ。
武田勝頼も遠江の獲得を目論んだ。
 
 武田勝頼は、父:信玄の意志を引き継ぎ、駿河攻めから
 遠江に侵攻した。
 徳川家康の軍勢と雌雄を決する戦いを挑んだ。

 ところが、武田軍が体制を整える間に、織田信長・徳川家康は
 反撃に出た。
 7月18日織田信長は将軍:足利義昭を追放した。
 天正元年とした。
 8月 岐阜城にいた織田信長は越前の朝倉義景と近江の浅井長政
  (信長の義弟)を相次いで滅ぼし、越前・近江を手中にした。

  徳川家康も武田信玄の死を機に反撃に転じた。
  長篠城の奪回や、武田方の作手亀山城主奥平貞能を寝返らせる
  など三河における失地回復を進めていた。



・天正2年(1574) ▲第一次高天神城の戦い
5月 武田勝頼は、2万5000人の大軍を率いて、遠州東部の徳川
方の重要拠点である高天神城に攻めかかった。

高天神城は徳川軍:小笠原長忠1,000人である。
▲徳川方の小笠原長忠は匂坂牛之助を浜松城に派遣し、
  徳川家康に援軍を要請した。
しかし、徳川家康は武田の山県昌景別働軍・秋山信友別働隊
に備えねばならなかった。
徳川家康軍の総兵力は10000人程・・・・
そこで徳川家康は同盟を結んでいた織田信長に救援を要請した。
5月5日〜織田信長は賀茂祭に出席していた。
5月16日 織田信長は京都を出立した。
5月28日 織田信長は岐阜に帰還した。

 高天神城は、武田軍による猛攻で西の丸を失陥し、兵糧が窮乏
 して落城の危機に陥っていた。
  
  →織田信長は援軍を出さず、徳川家康も単独行動できなかった。

6月14日 織田信長の援軍が岐阜を出陣した。
6月17日 三河の吉田城 に到着した。
6月18日 高天神城の小笠原長忠の一族:小笠原信興が武田勝頼
   に内通して反乱を起こした。

   小笠原長忠は持ちこたえられずに降伏した。
   小笠原長忠は穴山信君の講和に応じて開城した。
   小笠原長忠は武田勝頼に降参。
  須賀康高らは徳川家康を頼って浜松に逃亡。
 
  こうして、高天神城は武田軍の手に落ちた。

6月19日 織田信長の元に高天神城の陥落の報が入った。
  徳川家康がやってきて礼を述べた。
  織田信長は徳川家康に兵糧代として大量の黄金を贈った
  という。
6月21日に岐阜に帰還した。
(★『信長公記』)


           
結果・・・武田勝頼は小笠原長忠のいる高天神城を
     攻略した。武田氏の手中にした。
武田勝頼は有頂天・自信過剰になって、家臣の言う事を聞かなく
なったという。
(★『甲陽軍鑑』)
特に、武田信玄の時代の老将:内藤昌豊・馬場信房など・・・
爺は煙たい存在なのである。
長篠の戦いでは、跡部勝資の言うことを聞いたようである。

また、武田家臣の統制力・権威を強めたという解釈もある。 
→「長篠・設楽ヶ原合戦」のきっかけとなる事件となった。
→高天神城は武田氏の遠江における最大の拠点となった。
  岡部真幸が入城。
  高天神城を本格的に整備・改修。
       
 
・天正3年(1575)▲長篠・設楽ヶ原合戦
   武田勝頼軍  VS  徳川・織田連合軍     
   武田軍の大敗。
  ・・・箕輪城主:内藤豊後守昌豊(昌秀)戦死。


徳川家康は二俣城・犬居城・諏訪原城を奪取した。
武田方の大井川沿いの補給路を封じた。



▲第二次高天神城の戦い             
徳川家康は高天神奪還のため、馬伏塚城を本陣に
 高天神城を監視した。



・天正6年(1578)徳川家康は横須賀城築城。
 周囲に付城三井山、山王山、宗兵衛山など「六砦」を築城。
  高天神城の武田勢の兵糧弾薬の搬入を遮断し、 高天神城への
 締め付けを強化した。
 武田方にとって高天神城の維持はメリットが大きかったが、
 補給線の長さからデメリットも大きかった。

 武田軍は前面の家康・背後の北条氏・・・
 城将以下900名の城兵は玉砕を覚悟した。

・天正8年(1580)城将:岡部真幸は躑躅ヶ崎館帰陣。
援軍を要請した。
   徳川氏の家臣:大河内源三郎正局を石牢から救出。
     
10月、徳川家康は5000人の軍勢を率いて高天神城奪回を図った。
  徳川家康は高天神城を囲んで周囲に鹿垣をつくり、兵糧攻めを
 行った。
徳川家康の包囲10ヶ月・・・・。
  
  城将:今川旧臣の岡部元信・岡部長教が守る高天神城は、
  武田勝頼の援軍なく、高天神城中で飢えとの戦いであった。

  武田勝頼は甲斐から援軍を送ることができなかった。
 天正6年(1578年)3月 御館の乱後に上杉景勝と甲越同盟を
 結んだ。(妹:菊姫は上杉景勝の妻)ため、後北条氏との甲相
 同盟が破綻し、駿河において北条氏政の攻勢を受けていた。
 織田信長との関係もあったのであろう。
武田勝頼も援軍を送ろうとするが、東西に敵を抱える状況で
 援軍ができない状況が続いたのであろう。
 織田信長は武田勝頼の信用失墜を狙ったのであろう。

・天正9年(1581)
1月3日 織田信長は武田勝頼出陣の噂を知った。
  織田信長は織田信忠を清洲城に入れた。
  しかし、武田勝頼が出陣した形跡はなかった。

 3月、逃亡兵が続出した。
徳川家康の包囲によって城兵の大半が餓死した。

3月22日早暁 出撃。
大将岡部丹波守真幸(元信)、軍監江馬直盛以下残兵800名は
  二手に分れて城外に出撃した。
  →武田軍700余名が討ち取られ、高天神城は落城。
  岡部真幸(元信)は大久保忠教によって討ち取られた。
  武田軍の横田甚五郎尹松は「犬戻り猿戻り」の険阻な尾根道を
   夜間の脱出(★現在でも残っていた)。甲斐へ逃亡。
   (★『戦国の城:学研1993』)
※3月25日午後10時頃、武田軍は城から討って出るが徳川軍は
 応戦し、岡部元信と兵688の首を討ち取った。
  (★『信長公記』)。
生き残った城兵は助命された。
武者奉行孕石元泰のみが切腹させられた。
徳川家康が今川氏の人質であった時代に、孕石元泰が人質時代に辛く
当たったことを遺恨に思ってのことであった。
 (★ウィキペディアより)
人質時代の徳川家康と孕石元泰の屋敷が隣り合わせであった。
徳川家康は鷹狩り好きで、放った鷹が獲物や糞を孕石の屋敷に落
としていた。孕石元泰は度々苦情を申し立てていた。徳川家康は
苦情に腹を立てて恨んでいた。孕石元泰は徳川家康により数十年
後、切腹させられたのである。
(★『家忠日記』・『三河物語』)
・永禄11年(1568)孕石元泰は武田信玄の家臣となった。
・天正10年(1582) 孕石備前守泰時は井伊家家臣となって、足軽
鉄炮隊隊長となって、後の小牧・長久手の戦いで活躍した。
孕石備前守泰時は井伊直政の箕輪城・高崎城時代〜17家老の1人
となった。

 →武田勝頼は遠江方面の拠点を戦失した。
 木曾義昌や穴山梅雪等の家臣団の離反に繋がっていく。
穴山梅雪は長篠の戦いにも既に参加していなかったけど・・・

▲徳川家康は武田氏への前線基地を横須賀城に移し、
 高天神城は廃城となった。

・天正10年(1582) 織田信長家臣:滝川一益・徳川家康の
   甲州への進撃。
   →武田勝頼は新府城を焼き、岩殿城へ・・・
   追い詰められ自害。
●見所・・・高天神城は東峰と西峰の「一城別郭式の城郭」である。
 今川時代は東峰だけの城郭であったものを、武田氏が拡張して規
 模改修工事を残した。西峰の堂の尾郭付近は武田の高度な技法を
 用いた戦国城郭である。
・・・と「埋もれた古城(H氏)・ザ登城」には書いてあった。 


▲静岡の城「戦国時代の伊豆・駿東・駿河・遠江&近郊の城」


●伊豆編*************************
箕輪初心★北条早雲の生涯=伊豆・相模国盗り物語
http://53922401.at.webry.info/201309/article_25.html

箕輪初心▲伊豆【堀越公方:足利政知館】→北条早雲&伊豆の城@
http://53922401.at.webry.info/201503/article_12.html

箕輪初心★北条早雲&伊豆の城A【北条早雲の生涯】復刻版
http://53922401.at.webry.info/201503/article_13.html

箕輪初心▲北条早雲&伊豆の城B【韮山城】:早雲25年?
49年間の城?
http://53922401.at.webry.info/201503/article_14.html

箕輪初心▲北条早雲&伊豆の城C【江川屋敷&江川郭遠望】
http://53922401.at.webry.info/201503/article_15.html

箕輪初心▲北条早雲&伊豆の城D【狩野城】:狩野茂光築城?
http://53922401.at.webry.info/201503/article_27.html

箕輪初心▲北条早雲&伊豆の城D【柏久保城】:狩野城攻略の城
http://53922401.at.webry.info/201503/article_28.html

箕輪初心●静岡:韮山城&江川邸★江川太郎左衛門
http://53922401.at.webry.info/201106/article_17.html

箕輪初心●静岡:韮山城&江川邸★江川太郎左衛門
http://53922401.at.webry.info/201106/article_17.html

箕輪初心:生方▲北条早雲&伊豆の城E:深根城
http://53922401.at.webry.info/201507/article_17.html


箕輪初心:生方▲北条早雲と伊豆の城G【下田城】:水軍の城
http://53922401.at.webry.info/201507/article_22.html

箕輪初心:生方▲源頼朝41【鎌田俊長】北条早雲と
伊豆の城11【伊東鎌田城】
http://53922401.at.webry.info/201508/article_24.html

箕輪初心:生方▲北条早雲と伊豆の城K河津城跡:蔭山氏の詰め城
http://53922401.at.webry.info/201508/article_28.html

箕輪初心:生方▲北条早雲と伊豆の城L南伊豆町:白水城:清水一族詳細
http://53922401.at.webry.info/201508/article_31.html

箕輪初心:生方▲北条早雲と伊豆の城M【加納矢崎城】
&『清水一族の出自諸説と活躍』
http://53922401.at.webry.info/201509/article_1.html

箕輪初心:生方●西伊豆A「三枚橋城→沼津城」:武田信玄も侵攻した城
http://53922401.at.webry.info/201510/article_10.html

箕輪初心:生方●西伊豆E【獅子浜館&獅子浜城遠望&獅子浜ダイビング】
http://53922401.at.webry.info/201510/article_14.html

箕輪初心:生方▲西伊豆F『三津浜』クルージング&三津城主:松下氏
http://53922401.at.webry.info/201510/article_15.html

箕輪初心:生方▲西伊豆G『長浜城1回目の復元前』
http://53922401.at.webry.info/201510/article_16.html

箕輪初心:生方●西伊豆H『復元後の長浜城3回目』=北条水軍の城
http://53922401.at.webry.info/201609/article_6.html

箕輪初心:生方●西伊豆I『長浜城&重須の戦い:武田VS北条』詳細編
http://53922401.at.webry.info/201609/article_7.html

箕輪初心:生方▲西伊豆K『江梨鈴木氏館=海蔵禅寺&航浦禅寺』
http://53922401.at.webry.info/201609/article_11.html

箕輪初心:生方▲伊豆西L【大瀬崎散策】と『鈴木繁伴館』
http://53922401.at.webry.info/201609/article_12.html

箕輪初心:生方▲西伊豆R【土肥の富永一族の歴史】と『菩提寺:青雲寺』
http://53922401.at.webry.info/201609/article_21.html

箕輪初心●西伊豆S【土肥高谷城】後北条bRの富永一族の本拠地
http://53922401.at.webry.info/201609/article_23.html

箕輪初心●西伊豆21:土肥の八木沢「丸山城」
=天正17年富永助盛=猪俣邦憲は?
http://53922401.at.webry.info/201609/article_24.html

箕輪初心:生方▲西伊豆24▲『安良里城』&「イルカ猟の盛んだった
安良里」&「グルメ:よこ田」
http://53922401.at.webry.info/201609/article_27.html

箕輪初心:生方▲西伊豆25【「安良里」・「田子」&「浮島」の城
&水産業の歴史
http://53922401.at.webry.info/201609/article_31.html


箕輪初心:生方▲西伊豆29【雲見:上の山城&高橋一族】
http://53922401.at.webry.info/201609/article_38.html

●駿東の城〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


箕輪初心●静岡:山中城=堀障子の残る百名城
http://53922401.at.webry.info/201106/article_16.html
 ★山中城1回目・2回目を掲載

箕輪初心▼相模&駿河【足柄城】:北条氏の武田氏対策の城
http://53922401.at.webry.info/201412/article_2.html

箕輪初心▼駿河:【深澤城】:今川義元→北条綱成→武田信玄
http://53922401.at.webry.info/201412/article_4.html

箕輪初心▲静岡裾野【葛山城】大森弟系葛山→北条綱成娘婿:
葛山広元→武田信玄6男
http://53922401.at.webry.info/201412/article_5.html

箕輪初心●静岡【興国寺城】:北条早雲築城→今川→
北条の塀和→武田信玄
http://53922401.at.webry.info/201412/article_6.html



●駿河の城*********************
箕輪初心▼静岡:雲見ダイビング&静岡の城
http://53922401.at.webry.info/201308/article_11.html

箕輪初心●静岡【駿府城】=徳川家康3回在住の城
http://53922401.at.webry.info/201111/article_21.html

箕輪初心●静岡【駿府城】@徳川家康3回在城〜徳川家康の死
http://53922401.at.webry.info/201609/article_42.html

箕輪初心:生方▲「真田丸」117【禰津一族&徳川家康
・真田昌幸・真田信幸】
http://53922401.at.webry.info/201609/article_43.html

箕輪初心:生方▲駿河【丸子城】:北条早雲の最初の城→武田信玄の城
http://53922401.at.webry.info/201609/article_44.html

箕輪初心:生方▲遠江【金谷城?→諏訪原城→牧野城】武田・徳川
の遺構が残る城
http://53922401.at.webry.info/201610/article_1.html




====大井川=====================

●遠江の城*********************

箕輪初心:生方▲遠江【高天神城】前編:縄張りが複雑怪奇な凄い山城
http://53922401.at.webry.info/201610/article_2.html

箕輪初心:生方▲遠江【高天神城】後編「本丸→三の丸」
&『歴史:今川→徳川→武田→徳川の城』
http://53922401.at.webry.info/201610/article_4.html

箕輪初心:生方▲遠江『掛川城』:復元木造天守閣が凄すぎる城
http://53922401.at.webry.info/201610/article_3.html

箕輪初心★小幡一族&熊井土一族&三方原の戦
http://53922401.at.webry.info/201304/article_10.html



*****************************
箕輪初心:生方▲百名城D【38〜46】東海の城
http://53922401.at.webry.info/201506/article_28.html

箕輪初心▼静岡:雲見ダイビング&静岡の城
http://53922401.at.webry.info/201308/article_11.html


★明日は?曳間城(浜松城?)かな?  

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