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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸127『豊臣秀頼の譜代の大物武将20』

<<   作成日時 : 2016/10/21 09:37   >>

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豊臣秀頼には豊臣家譜代の家臣がいた。豊臣軍の譜代の中心人物
は「大野治長、大野治房、大野治胤、木村重成、木村宗明、渡辺
糺、竹田永翁、郡宗保、山口弘定、細川頼範、山名堯政、赤座直規、
槇島重利、真木島(槇島)昭光、生駒正純、毛利重能、内藤長秋、
織田昌澄、、赤星親武、薄田兼相などであった。
画像




●▲■大坂城にいた武将達***************

【2】豊臣軍の譜代の中心人物

1)大野治長
淀殿の乳母・大蔵卿局の子として豊臣秀吉に馬廻衆として
  取り立てられ、秀吉の死後は秀頼の側近として仕えた。
大野治長(修理亮) 諸侯1万5千石、総奉行  
 片桐且元が方広寺鐘銘事件の弁明のために使者として派遣
 された。
 大野治長は徳川家康に内通しているとの疑いで、大坂を追放
 した。
 豊臣家の主導的な立場になった。
 大野治長は徳川との和平を望んでいたといわれている。
 @冬の陣では消極策=籠城策を主張した。
  実弟:大野治房や真田幸村ら主戦派と対立した。
●竹田兵庫:旗本 大野治長付・・・戦死
●竹田大助:竹田兵庫の子 大野治長付・・・戦死
A大坂夏の陣では将軍:徳川秀忠の娘で豊臣秀頼の正室:千姫
 の使者とし、自分の切腹を条件に豊臣秀頼母子の助命を願うが
  かなわなかった、
  5月8日、豊臣秀頼とともに大坂城の山里曲輪で自刃。
 ●大野治長の子:大野信濃守治徳 5月8日自刃
  ●米村権右衛門 大野家家老(600石)
  B安芸浅野家士

2)大野治房
@大坂冬の陣では主戦派の中心人物の一人であった。
  七将軍として、出陣した。
  大和郡山城の戦い・・
  樫井の戦い・・・浅野軍の攻略に失敗した。
 A大坂夏の陣後、豊臣秀頼の遺児:国松を擁して大坂城から脱出
  しようとしたが、徳川方に捕らわれて斬首された。



3)大野治胤
@冬の陣・・・兵5000を率いた。
   豊臣水軍を率いて船倉を守備した。
   野田・福島の戦いで徳川水軍に大敗した。
  A大坂夏の陣では、徳川方の兵站:堺を焼き討ちした。
   大坂城時に徳川方に捕らえられた。堺の衆が京都所司代:
   板倉勝重に訴えた。
   6月?日 大野治胤は堺衆に火あぶりにされた。



4)木村重成
木村重成:豊臣秀頼の乳母の子。豊臣秀頼と乳兄弟
幼少から秀頼の小姓として仕えた。
元服後も豊臣家の重臣として重要会議などに出席した。
木村重成の妻は大蔵卿の姪・・つまり、大野治長の従兄弟。
木村長門守重成3,000石・・・・
 大野治長に片桐且元が徳川家康との内通を疑われた時は、
 仲介に入った。
 その後、木村重成は片桐且元を「改易」にして追放した。
 大野治長・渡辺糺らと共に開戦を主張し、片桐且元を大坂城から
 追い出すのに一役買った。
@冬の陣・・・七将軍として後藤又兵衛(基次)と共に奮戦した。
  冬の陣の和議の際には、正使として徳川家康の許に赴いた
※木村重成の立ち振舞があまりに堂々としたため、家康を始め
とする徳川諸将は感嘆したという逸話が残っている。
A夏の陣では豊臣軍の主力として長宗我部盛親とともに
 八尾・若江(東大阪市南部)方面に出陣した。
▲八尾・若江の戦い
 八尾方面には長宗我部盛親、
 若江方面には木村重成・・・
 木村重成は藤堂高虎、井伊直孝の両軍と対峙した。
 木村重成は藤堂軍の右翼を破った。
 木村重成は兵を収拾し昼食を取らせると敵の来襲を待ち構えた。
 木村重成は井伊直孝軍との激戦の末に戦死した。
   
 5月6日  井伊家家臣に討たれた。
  安藤重勝(長野氏の箕輪城侍代の安藤家子孫)に討たれた説
  井伊家第2家老:庵原(いはら)朝昌に討たれたが、庵原朝昌
  はそ功を安藤重勝に譲った世知宇。
 ※首実検が行われた際にはその頭髪には香が炊き込めてあったと
  いう逸話もある。
木村家( 木村重成・木村秀望・飯島三郎右衛門・ 宇野右衛門介
     高松久重・ 山口弘定 )
★井伊直政の子:井伊直孝は彦根の「宗安寺」に木村重成の墓
 (首塚)を造って、供養した?誉れとした?
画像

画像



5)渡辺内蔵助糺  5000石   攝津渡辺党
  母は淀殿の側近:正栄尼である。
  豊臣秀頼の槍の指南役として仕えた。
  主戦派に属して、片桐且元を殺そうとしたが、失敗した。
  片桐且元を大坂城から追い出した。
@冬の陣・・・・真田幸村の寄騎 槍術達人で活躍した。
   鴫野の戦い
   根来の鉄砲衆300人を指揮した。
   上杉景勝と交戦したが敗退した。
   この時、上杉軍の大量の鉄砲が鳴り響く轟音を聞いただけで
   兵を退いたとされ、笑い者となった。
(★ウィキペディア)
  A夏の陣・・・・真田信繁の寄騎として冬の陣での汚名をそそぐ
    べく、道明寺の戦いや天王寺・岡山の戦いを転戦した。
    A大坂城千畳敷で自害した。5月7日自刃
    B京まで逃れたが、豊臣秀頼の自害を聞いて自身も立った
      まま切腹した。


6)竹田永翁   物頭500石
播磨出身
@冬の陣・・・・毛利勝永の寄騎
    鴫野の戦いで活躍した。
  A夏の陣・・・・天王寺・岡山での最終決戦
   毛利勝永らと一緒に徳川軍を攻撃した。
   A佐久間勝之に討ち取られた説。
   B5月8日 大広間で自刃説


7)木村宗明・・・木村重成の叔父
@冬の陣・・・・木村重成に所属した。  
  A夏の陣・・・・八尾・若江の戦い
   5月6日、豊臣軍の主力:木村重成と長宗我部盛親は
   八尾・若江(東大阪市南部)に出陣した。
   八尾には長宗我部盛親は藤堂高虎に対峙した。
   若江には木村重成が井伊直孝と対峙した。
   木村重成は兵を3分した。
   青木七左衛門屋平太夫等を右翼として西郡村の小堤に沿って
   南方の藤堂|隊に備えた。
   木村宗明(重成の叔父)を左翼として200 人を率いて岩田村に
   配した。
   本隊は奈良街道から来る井伊軍に備えた。
 木村重成本隊が壊滅した 
榊原康政らに攻められ、大坂城に帰還した。
5月8日 自刃。

8)郡宗保:良列 旗奉行3000石
@冬の陣・・・・ 大坂の陣で旗奉行
  12月 木村重成と郡宗保は豊臣方代表として徳川秀忠の陣
に和議の交渉を行った。
  A夏の陣・・・・・天王寺・岡山の戦い
   敗北し自害しようとしたが、旗を敵方に取られるのを嫌
   い、大坂城に引き返した。
   5月7日、自刃。

9)山口左馬助弘定 小姓頭3000石
 山口弘定は加賀大聖寺城主:山口宗永の次男である。
  木村重成の妹が妻。
@冬の陣・・・・毛利勝永の寄騎
  A夏の陣・・・・・八尾・若江の戦い
   山口弘定・内藤長秋は木村重成の寄騎 
山口弘定は木村重成本隊にいて内藤長秋らと共に
   井伊直孝勢と戦い討死した。
   5月6日戦死



10)細川讃岐守頼範(細川元勝) 小姓頭5000石
  室町幕府管領細川昭元の子・・母は織田信長の妹:お犬の方
  細川京兆家20代・・・
  山名堯熙の嫡男:山名堯政と親しい間柄にあった。
★応仁の乱が遠い昔・・・150年前の話になっていた。
@冬の陣・・・・豊臣秀頼の親軍
    秋田実季は真田信政・上杉景勝らと西に陣取っていた。
  A夏の陣・・・・豊臣秀頼の親軍
  B戦後は織田家などが徳川家康へ進言し、助命が許された。
細川家と縁の深い京都竜安寺に蟄居した。
   細川昭元の長女が円光院が秋田実季に嫁いでいた。
   次女は加賀藩主:前田利常の正室の侍女になっていた。
   細川頼範は常陸宍戸藩の秋田実季に客将として迎えられた。
   徳川秀忠の正室:お江の子:徳川家光&円光院と秋田実季の
   子:秋田俊季は又従兄弟という関係となった。
秋田俊季は正室は井伊直政の娘+松平信吉・・の娘を娶った
   秋田氏が由緒により外様大名から譜代並大名へと格上げされた。
   細川頼範の長男:細川義元は秋田俊季の家老になった。
   秋田俊季は常陸宍戸藩主→陸奥三春藩主に移封。
   細川義元子孫は秋田家家老・大老:年寄衆より上席を
世襲した。



11)山名堯政
鎌倉時代、上野国の山名伊豆守(伊豆の守護)義範の子孫
山名宗全の子孫・・・山名祐豊:誠豊の養子、実父は致豊。

  天正8年(1580) 山名祐豊は羽柴秀吉率いる織田軍に出石の
  有子山城(出石城)奥で包囲される中、死去した。
  山名祐豊の次男:山名堯熙は出石城落城後は羽柴秀吉の登用され、
  豊臣秀吉・秀頼の2代に仕えた。
  山名堯熙(氏政)と山名堯政は豊臣家に仕えた。
@冬の陣・・・山名堯政
  A夏の陣・・・5月7日 山名堯政が戦死した。
C父:山名堯熙(氏政)は徳川家康に登用をお願いしたが
    許されなかった。
  C山名堯政の子:山名平三郎恒豊は徳川家旗本287石と
   なった。
 ※豊臣秀頼の家臣には旧室町時代の名族の山名堯政・細川京兆家
 の細川頼範(細川昭元嫡男)や河内守護家の畠山政信らもいた。
★応仁の乱の面影は残っていない。

12)赤座内膳正直規  軍奉行3000石
  赤座直規+赤座弥七郎豊臣秀吉・秀頼に仕えて
  尾張愛知郡藤島村領有していた。
  @冬の陣・・・東の平野橋を守備した。
(★歴史群像・歴史人創刊号)
  A夏の陣・・・大野治長の麾下。
    豊臣秀頼と共に、5月8日自刃
  


13)槇島玄蕃允重利 1500石
 @冬の陣・・・・西を守備した。
 A夏の陣・・・道明寺の戦い道明寺方面に出陣し奮戦した。
  、翌日の天王寺・岡山での最終決戦では一心寺と天王寺付近
   に布陣して戦った。
   5月7日、戦死?
真木島一族説?
    槇島重利と真木島(槇島)昭光が同一人物説?


14)真木島昭光 奏者番2000石
 真木島昭光は足利幕府:奉行衆であった。
 槇島城(京都府宇治市)の戦いで足利義昭が籠城した。
 真木島昭光は毛利元就に寄寓にも同行した。
 足利義昭の死後、遺体を京都等持院(足利尊氏開山)に移し
 葬儀を挙行した。・・・・豊臣秀吉の奏者番となった。
 @冬の陣・・・10月 堺に出陣。
 A夏の陣・・・合戦に生き残った。
 B京都で出家して「云庵」と名乗った。
  細川忠興や加藤嘉明の嘆願により助命された。
  細川忠興に仕え、1000石を給された。


15)生駒宮内少輔正純
  讃岐高松17万3千石生駒家一門
  @冬の陣・・・西の大和橋を守備した。
    (★歴史群像:上杉景勝)
  A夏の陣・・・不明
・慶長19年(1614) 織田信包は大坂城で姪孫:豊臣
   秀頼を補佐したが、大坂冬の陣直前に死去した。
   家督は3男:織田信則が丹波柏原藩を継承した。
   生駒正純は丹波柏原藩家老となったようだ?
   織田信勝は治水工事や新田開発などが行なった。
改易・・・
生駒正純は藤堂高虎の家臣になったようだ?
   

16)毛利重能(森脇勘兵衛) 算術師  
豊臣秀吉に仕えて毛利出羽守となった。
  明に留学して算術を学んだ。キリスト教にも触れた。
  @冬の陣・・・毛利勝永の部隊にいた?
    (★『城塞』司馬遼太郎著)
  A夏の陣・・・・・
B戦後、京で算術師となった。『割算書』を著した。
弟子に『塵却記(じんこうき)』の著者で吉田光由 
   孫弟子には天才数学者・関孝和(上野国藤岡)がいる。
尊孫弟子:中曽根真吾(群馬県高崎市旧榛名町・・・
   中曽根康弘元総理大臣

 ※映画『真田丸』の望月六郎のモデルか?
◆映画「真田十勇士」では、真田幸村の眼鏡をかけた算術家
冬の陣で幸村のかばって身代わりになって戦死する。



17)内藤長秋 3000石
母は饗庭局(あえばのつぼね)である。浅井長政の娘で淀殿の
  乳母の一人 である。
  内藤長秋は浅井長政の従兄弟である。
  浅井氏滅亡後は母と共に淀殿に仕えた。
  淀殿が羽柴秀吉の室に入った後は豊臣家に仕えた。
  内藤長秋は木村重成の番頭であった。
  @冬の陣・・・・・
  A夏の陣・・・・・八尾・若江の戦い
   内藤長秋は木村重成の寄騎 
木村重成本隊にいて木村重成の妹婿:山口弘定(加賀大聖寺
   城主山口宗永の次男)らと共に井伊直孝勢と戦い討死した。
  5月6日戦死


18)津田(織田)主水昌澄
織田信長の弟:織田信勝(信行)の子:津田信澄。
   津田信澄(信行)の長男:津田(織田)昌澄
   大溝城主の時代に生まれた。
藤堂家家臣→豊臣秀吉・秀頼家臣。
  @冬の陣・・・藤堂高虎の部隊などと戦った。
   豊臣秀頼から褒賞を受けた。
A夏の陣・・・・・天満口で徳川方と交戦 後衛
B徳川家旗本・・・2,000
●織田昌澄の子::津田勘七郎    5月7日戦死
  ●織田昌澄の弟:津田左衛門元信    



19)赤星親武
肥後菊池系赤星一族。加藤清正の加藤16将の1人。
  加藤清正の紹介で豊臣秀頼の直参となった。
 @冬の陣・・・
 A夏の陣・・・天王寺口の戦い。5月6日戦死


20)薄田隼人正兼相 5000石
  @冬の陣・・・・・刀術達人
A夏の陣・・・道明寺の戦い
   5月6日、河内国志紀郡道明寺村付近において後藤基次と
    水野勝成が交戦した。後藤基次は前夜のうちに単騎で
    小松山の地形を確認しら水野に小松山に後藤をを誘い
    こまれ撃波された。水野勝成は一番槍をあげた。
    水野勝成3800にさらに誉田村で渡辺糺と交戦した。
    渡辺糺は深手を負わされた。
    薄田兼相は水野勝成の家臣:河村重長に討ち取られた。
    後藤の寄騎として 5月6日 戦死


21)織田家:織田長益(有楽斎)・ 織田信重
  織田長益(有楽斎):織田信長の弟
千利休に茶道を学び、利休十哲の1人。
 京都建仁寺の正伝院に茶室如庵を造った。
 犬山鉄山ホテル内に移築(国宝)

箕輪初心●愛知【犬山城&城下町&有楽苑】  
http://53922401.at.webry.info/201206/article_6.html
 
◆◆ 箕輪初心★千利休 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_27.html
 
箕輪初心:生方▲真田丸30【真田昌幸と滝川一益との腐れ縁:友情】
http://53922401.at.webry.info/201602/article_2.html
津田秀政は滝川一益の娘婿だった。

 大坂冬の陣では大野治長らとともに穏健派として豊臣家を支える
  中心的な役割を担った。
 「消極派=和平派」と対立した。
 @冬の陣
 12月21日 大野治長と共に和睦を締結させた。
  徳川家康に人質を出した。
  大坂夏の陣直前
 「誰も自分の下知を聞かず、もはや城内にいても無意味である。」
  と豊臣家の大坂城から退去。
A夏の陣・・・参加せず。
 ●織田頼長 :織田長益(有楽斎)の次男
 @冬の陣では、嫡男の頼長は強硬派で父と対立した。
  父と二の丸玉造口などを守備した。
  1万人あまりの部隊を指揮したという。
  12月、部隊内の喧嘩騒ぎにより、徳川方の藤堂高虎隊が
   織田隊方面から攻撃を開始して谷町口の戦いが起った。
   織田頼長は病気と称して一切の指揮をしなかった。
   藤堂高虎と織田頼長とが示し合わせた上での謀略とも
   言われている。
  夏の陣直前に大坂城を退去
A夏の陣・・・参加せず。


★明日は「豊臣秀頼に味方した浪人5人衆」かな?

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コメント(9件)

内 容 ニックネーム/日時
こんにちは。人違いでしたら申し訳ありません。「うぶちゃん」ですか??実は以前いただいた連絡先を見事紛失してしまい困っておりました。心当たりがおありのようでしたらお返事いただけるとありがたいです。
みきめぐ
2016/10/25 13:08
下小鳥のフレッセイ以来ですね。市役所から連絡を受けました。明後日、葬儀のため、今余裕がないので、11月になってから、電話しようかなと思っていました。
みきめぐ様
2016/10/25 17:08
市役所の方から伺いました。大変なタイミングで連絡してしまい本当にすみません。心よりお悔やみ申し上げます。

そんな事も知らず、陶芸やってると思い出し、勢いでこんなコメント残してしまい申し訳ありませんでした。
いつでもかまいません。心落ち着かれた際にはご連絡いただけると嬉しいです。
みきめぐ
2016/10/26 20:31
陶芸も先月から休憩中です。忙しかったです。まだ、しなければならないことが次から次へと続きます。後日、連絡します。
みきめぐ様
2016/10/28 13:14
お久しぶりです
素晴らしい作品ばかりで心打たれております。
製作者様の心が映し出されているようです。
色々と多忙でしょうが、引き続き製作活動頑張ってください。
下仁田戦争の事もきになるので間のある時にでも取り上げてみてください。大西
元2-3組 心は今でも生方組
2016/10/31 12:28
焼き物と歴史に興味があるんですね。
細かった中学生時代、今はどうなってなったのでしょう?
びしっと決まった立派な若者になっているのだろうなあと
勝手に想像してみました。
大西様
2016/11/01 10:56
安心してください。
おかげさまで、日本の未来を担う立派な大人になり続けております。
もう少し わび・さび がわかるようになりましたら挨拶にお伺いいたします。先生は安心して自分の道を突き進んでください。
体には、本当に体には大事をとってください!
元2-3組 心は今でも生方組
2016/11/01 12:49
俊ゃんと、櫻井(さくちょ)の企画力を今でも思い出します。あの不思議なドラマです。青木が箱乗りして、私は首もん?教育委員会からおしかりもん・・・、俊ちゃんの企画力がいきているのかな?
大西様
2016/11/01 20:25
三木メグ・豊岡は自立心が旺盛で独自の路線と思っていましたが、三木メグが結婚?・・・12年前だって?最近?ここ5年で、松本、三木メグちゃん、前田恵理ちゃんにあったよ。
大西様
2016/11/01 20:36

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