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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸125『豊臣秀頼の家臣@親衛隊:7手組の武将』

<<   作成日時 : 2016/10/20 19:41   >>

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豊臣秀頼には豊臣家譜代の家臣がいた。豊臣秀頼の七手組=
親衛隊には速水守久、青木一重、伊東長実、堀田盛高、中島氏種、
真野頼包、野々村吉安 、+杉善右衛門がいた。しかし、この中
でも、微妙な動きがあったようだ。「大坂の陣」ではリーダーの
速水守久が渉外に当たった。中島氏種、真野頼包、野々村吉安は
リーダーに従ったようであるが、堀田盛高は仕方なく参加した。
そして、内通者らしき武将が、青木一重、伊東長実と2人いた。
画像




●▲■大坂城にいた武将達***************
@豊臣家一門、A豊臣家譜代家臣、B浪人などであった
1)豊臣一門
豊臣家当主::豊臣秀頼。
母が茶々=淀殿。
2人が豊臣家における絶対権力者であった。
 さらに、妾軍・妾腹:国松がいた。
女御集団・・・大蔵卿局など乳母3人・譜代の有力家臣の母・祖母


2)織田軍団
織田有楽斎・・・茶々の叔父・織田信長の弟
織田有楽斎の息子
外に3人

3)譜代家臣
 大野治長・大野治房(大蔵卿の息子)・大野治胤
木村重成、
 渡辺糺
 片桐亡き後の実務面でのトップである。
豊臣一門衆と重臣たちは豊臣家を滅亡させるということは
 何としても避けたかった。徳川との和睦の道も模索しながら
 歩んできたが・・・

4)浪人集団
 旧豊臣家臣であった浪人の集団がありました。
 真田幸村、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親・明石全登
 ・・・5浪人
 など、10万?・・・

 浪人衆は徳川と豊臣の和睦を嫌っている。殆どは徳川との合戦で
 大活躍して、大名・旗本に取り立ててもらう。再び大名に復帰
 する。徳川に一泡吹かせてやろうとした者たちの集団であった。

大坂城内における対立は深刻であった。
消極派・和平派・籠城派
  VS
積極派・強硬派・主戦派




【0】豊臣朝臣秀頼(右大臣) 大坂65万石  
●豊臣秀頼
@冬の陣・・・見回りをして、励ました。
A夏の陣・・・5月8日、自刃

●豊臣秀勝(国松)5月8日 処刑

●茶々(淀殿):豊臣秀頼の母    5月8日、自刃
●饗庭局:内藤長秋の母       5月8日、自刃
●阿玉局:湯川孫左衛門の姉   5月8日、自刃
●和期局:伊勢国司北畠家一門 5月8日、自刃
●大蔵卿:淀殿の乳母・大野兄弟の母 5月8日、自刃
●宮内卿:秀頼の乳母・木村重成の母 5月8日、自刃
●右京大夫局     5月8日、自刃
●正栄尼:渡辺糺の母    5月7日、自刃
 



【1】豊臣家譜代:豊臣秀頼の七手組

1)速水守久 七手組頭(1万5000石)
   浅井長政の家臣、近江国浅井郡速水城主)
   浅井家滅亡後、お茶々らの家臣として主従した。
   羽柴秀吉家臣:近習組頭、黄母衣衆となった。
@慶長19年(1614) 方広寺鐘銘問題
片桐且元が和平交渉に奔走したが、逆に内通を疑われた。
  片桐且元の大野治長の調停に尽力した。結局、片桐且元
  は改易・大坂城を退去させられ、その後も豊臣家中の調
  停に努めた。
  真田幸村が7大野治長屋敷に来た時、支度金の金20貫、
 銀???を・・・持ってきた。
  冬の陣・・・4000の兵を率いて西の丸を守備した。
  鴫野の戦い・・・上杉景勝の軍勢相手に奮戦。
 A夏の陣・・・天王寺の戦い
   真田信繁らと並んで藤堂高虎を蹴散らすなど活躍した。
   大阪城に退却した。
   速水守久は千姫教育係であったので、千姫を無事に徳川
  陣屋に送り届けた。
  徳川家康に豊臣秀頼らの助命を嘆願するものの聞き入れられ
  なかった。
  5月8日 豊臣秀頼の介錯(毛利勝永説あり)を務めた。
  速水甲斐守守久 5月8日自刃。殉死。

2)青木一重 1万石 
   青木一重はもともと徳川家の家来であった。
豊臣秀吉の7手衆になっていたが、徳川家康は
家臣に欲しがっていたという。
   @冬の陣 大坂城の一角を守備した。
   12月、和議交渉が始まって、豊臣秀頼からの礼謝使節と
   して駿府の家康のもとへ派遣された。
   京都所司代:板倉勝重に、
   「もし大坂に戻れば(家康の近習)弟:青木可直は誅殺する」
   と警告されたために、大坂には戻らず、剃髪して隠棲した。
   A夏の陣・・・(青木民部少輔は不参加)
  B徳川家康が復帰を望み、摂津麻田に1万2000石を許された。
元々の在所に復帰した。

3)伊東丹後守長実:長次 1万300石
伊豆の伊東氏末裔・・・伊東一族は日向飫肥城主・岡田城主
 伊東マンショもいる。
・慶長5年(1600)6月16日、 下野国小山にいた徳川家康に
石田三成の挙兵を知らせた。
   関ヶ原の戦いから徳川家康と通じていたらしく間諜活動を
  行っていたのではないかと考えられている。
  娘は堀田盛高の正室となっている。
  @冬の陣・・・・
  A夏の陣・・・・
  B青木一重と共に1万石?の大名としての存続を許された。
   

4)堀田盛高:図書頭正高 3000石
  @慶長19年(1614) 方広寺鐘銘事件
大野治長らから要請された挙兵会議に渋々に参加した。
  @冬の陣・・・・二ノ丸升・惣構天満橋を守備。
  A夏の陣・・・・天王寺・岡山の戦い
本丸と二ノ丸の間の石垣上で自害した。5月7日自刃
   従兄弟:堀田与右衛門は前田利常に属していた。
   

5)中島式部少輔氏種 1万石
  @慶長19年(1614) 方広寺鐘銘問題
片桐且元が和平交渉に奔走したが、逆に内通を疑われた。
  片桐且元の大野治長の調停に尽力した。結局、片桐且元
  は改易・大坂城を退去させられ、その後も豊臣家中の調
  停に努めた。
  冬の陣・・・・兵2000で八丁目口などを守備した。
  A夏の陣・・・・遊軍として兵2000を率いて奮戦した。
          5月7日?8日? 自刃


6)真野豊後守頼包  3000石
  父:真野助宗は七手組頭として豊臣秀吉に仕えた。
  が妙心寺衡梅院再建した  
  大坂冬の陣の直前、木村重成に娘:青柳を妻に嫁がせた
  @冬の陣・・・惣構鰻谷橋を守備した。
    鴫野の戦い
  A夏の陣・・・天王寺・岡山の戦いで活躍した。
    毛利勝永や大野治房を援護した。
   A伊木遠雄と刺し違えて死んだ説 ・5月7日自刃
   B藤堂高虎に1,200石で召抱えられた説。
   C 尾張藩徳川家に仕えたという説。

7)野々村伊予守幸成:吉安 3000石
  娘は本陽院は仙石秀久の正室となった。
  @冬の陣・・・惣構森村口を守備した。
  B夏の陣・・・天王寺・岡山の戦い
   遊軍として兵1200を率い奮闘した。大敗して退却した。
   大坂城本丸が猛火に包まれて入れず、手前の二の丸〜本丸
   への石垣の上で自害して果てた。・・・5月7日 自刃


8)杉善右衛門 七手組出役
  @冬の陣・・・
  A夏の陣・・・天王寺・岡山での最終決戦。
   玉造口で戦死した。


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