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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸125【豊臣秀頼の父親6説】&『豊臣秀頼』後編

<<   作成日時 : 2016/10/15 08:15   >>

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@豊臣秀頼は豊臣秀吉の3男である。豊臣秀吉の側室であった
茶々(淀殿)の第2子である。ところが、本やHpで調べてみ
ると、本当の父親は誰かをめぐって6説があることがわかった。
服部英雄教授「豊臣秀頼は豊臣秀吉の非実子:陰陽師説」と
福田千鶴教授「豊臣秀頼は豊臣秀吉の実子説」の九州大学の
対決があることが分かった。A平成28年(2016)2月24日
のTV番組で福田千鶴氏「慶長16年(1611)豊臣秀頼は徳川
家康と二条城での会見後、鷹を送られ、その礼状から、豊臣秀
頼が徳川家康との最初の挑戦状と考えている。B「方広寺鐘銘
事件→大坂冬の陣→大阪夏の陣:秀頼自害」までを、まとめて
みた。★TV画像なので、著作権法違反であるが、・・・・・1回で
TVから消えるのはもったいないので、使用することにした。
画像

 (auスマホ:桃太郎・・・豊臣秀頼に見える?)


箕輪初心:生方▲真田丸123『豊臣秀頼の生涯』前編&福田千鶴氏説
http://53922401.at.webry.info/201610/article_17.html

箕輪初心:生方▲真田丸122【第40話「幸村」のあらすじ】&39話ちょっと史実編
http://53922401.at.webry.info/201610/article_16.html

箕輪初心:生方▲真田丸120*映画『真田十勇士』「嘘も突き通せば真実になる」
http://53922401.at.webry.info/201610/article_12.html






【1】豊臣秀頼の父親諸説
・文禄2年(1593) 8月3日 豊臣秀吉57歳の時の子で、大坂城で
 誕生した。


どころが、・・・・
@身長6尺5寸(約197cm)・体重43貫(約161kg)の並外れた巨
 漢であったとする。
『明良洪範』
「世に無き御太り」
『長澤聞書』
があるが、・・・・
 (★ウィキペディア等)
豊臣秀吉が身長5尺(約152cm)位だったため、実子ではないの
ではないかと疑われた。


@石田三成説・・・豊臣秀吉の側近。
漫画で読んだことはあるが、作り話だろう。
江戸時代に出てきた噂話である。

A名古屋山三郎説・・織田信長の縁戚。
「真田丸」・・・茶々がイケメン好きで・・
「真田丸」で暗殺された人物のモデルのようだ。
歌舞伎役者で妻が「出雲の阿国説」がある。
江戸時代に出てきた噂話である。

B真田信繁説・・・・茶々と同時期を過ごした。
しかし、豊臣秀吉と真田幸繁は名護屋城に行っていった
ので、無理である。
「真田丸」・・・茶々「私好みの顔・・・

C大野治長説・・・・豊臣秀頼の乳母:大蔵卿局の嫡男。乳兄弟。
「秀吉公ノ実子ニアラズ 大野修理ト密通シ捨君ト秀頼君ヲ
  生セ給フト 」 
  (『明良洪範』:増誉著)
  身長6尺5寸(約197cm)・体重43貫(約161kg)の並外れ
  た巨漢であったとする。
  「世に無き御太り」
  (★『長澤聞書』)
  (★ウィキペディアより引用)
幼馴染みだし、乳兄妹だし、結構、性交できるチャンスは
ある。

D「無名法師」= 陰陽師説・・・・服部

 豊臣秀吉は、名護屋城から産まれた子供を見に来た。
 「拾」の懐妊・出産時に大坂城にいた僧侶や女房たちの粛清
 をした。まず、陰陽師が追放された。
 陰陽師は、宗教的な陶酔を作り出す職業と見なされていた。
 不妊治癒の方法「参籠(さんろう)」は子宝が授かるように
 神仏に願掛けをして、通夜参籠(おこもり)をし、毎日毎夜
 の読経三昧を繰り返す。宗教的な陶酔が頂点に達すると、
 妻が法悦を体験し、やがて子が授かるという祈祷であった。
 「参籠の場」がしばしば不妊女性と陰陽師による妊娠目的
 の交わる密会の神聖な?儀式の場だったという。
 豊臣秀吉は茶々も「参籠」を行っているのを知っていいたと
 言う説がある。つまり、豊臣秀吉は茶々(淀殿)と性交関係
 を持つ陰陽師や僧侶を容認していたことになる。
 特に、陰陽師は人格を持たないからである。
 現に、豊臣秀吉は、茶々に対して厳しく言及はしていない。
 と言われている。・・・言われているだけだが、・・・・
 鶴松に比べると、大騒ぎ・お祝いもしていない。
 ★第一子も陰陽師か?
 『河原ノ者・非人・秀吉』服部英雄著:九大名誉教授2012年
 新説である。
 ★逆に、豊臣秀吉が陰陽師に生ませようとしたとも考えられる。
生まれちゃったから、「俺の子」としなくては・・・・
という意識が働いたのかもしれない。
「俺の種でないと分かっているから、・・・」
というのが服部説と見るべきか?
  『河原ノ者・非人・秀吉』服部英雄著:九大名誉教授2012年
  「豊臣秀頼は豊臣秀吉の非実子説」2012年

服部英雄氏 VS 福田千鶴氏 
おっと、ここで九州大学対決が全国対決に発展した。

●E「豊臣秀頼は豊臣秀吉の実子説」
『豊臣秀頼』福田千鶴(吉川弘文館)2014年
   『淀殿』福田千鶴著:九州大学教授
父:豊臣秀吉
母:茶々(淀殿)




◆【真田丸での展開】
『真田丸』第20回「前兆」での「聚楽第落首事件」
・天正16年(1588)「刀狩令」は、方広寺の大仏建立を名目に
  行われた。実際は、百姓の脇差しは許可されていたらしい。
(高崎経済大学:西沢教授・・平山氏・丸島氏と山梨県史
 を書いた。)
・天正17年(1589)
茶々と仲良くしていた尾藤道休・真田幸繁の同役のイケメン
 が謎の「井戸転落死」があった。
 豊臣秀吉が密かに殺したという風聞が流れた。
 尾藤道休が真田幸繁に「お主も気をつけろ。」と言った。
 豊臣秀吉の側室となった茶々が懐妊した。
 しかし、「懐妊」を批判する落書きが書かれた。
「大仏の 功徳もあれや槍かたな 釘かすがいは 子宝めぐむ」
(★『多聞院日記』・『言経卿記』)
「方広寺の大仏を造った功徳=仏の力と刀狩りで槍・刀を
 取り上げた。その上、方広寺の釘・(鉄の「コ」の字型の
  木と木を結ぶ)かすがいのように、秀吉と茶々の結び
 つき(性交)によって(16人という多くの妻・妾がいても
 子が恵まれなかったのに)、なんと子宝に恵まれた。・・
 秀吉と茶々との間にできたのは、神がかり的で不思議すぎる。
 何でだろう〜お?何でだろう〜? 何で・・・何でだろう〜〜」
 と内容だったと勝手に解釈してみた。
 落書きされていた言葉は定かではないが、・・・・
画像


最高権力者:豊臣秀吉が狂ったように表現されていた。
 
★「種なしスイカ・ブドウのような子を産む機能のない男
 にとって、茶々への疑念をも生んだ。」のだ。
 記録では、落書きされた夜に城の警備を担当していた17名
 が耳と鼻を削がれ、磔となって処刑された。
 捜査線上に浮上した尾藤道休という容疑者を切腹させ、その
 家族を含む66名が京都六条河原で磔にされたという。
 茶々の「男の種」は意外と身近にいた疑惑があって、・・・
 
『真田丸』第40回「幸村」でも、
きり「あなたは豊臣のために一体何をしてきたの?
  「落書き事件の時も未解決のままだし、・・小田原攻めの
  ときは、・・官兵衛様の手柄じゃない。・・・」




【2】平成28年(2016)2月26日のTV番組「福田千鶴解説」
『歴史秘話ヒストリア「真の天下人誰だ!? 秀頼VS家康の冷戦』
・慶長16年(1611)19歳になった豊臣秀頼は、徳川家康と二条城
で会見した。徳川家康は
「『19歳になったら天下を豊臣秀頼に返す。』という豊臣秀吉と
の起請文=約束は、関ヶ原の戦いで豊臣秀頼側が約束破ったから
返さない。」とした。
 徳川家康が豊臣秀頼を臣従化説が有力説であるが、・・・
画像

●福田千鶴氏は「豊臣秀頼が自筆の書状を徳川家康に送った。
徳川家康が豊臣秀頼に「鷹」を送られた御礼状になっているが、
福田氏は大阪城に徳川家康が挨拶に来ることを示唆している。
また、福田氏はこれを豊臣秀頼の最初の挑戦状と考えている。
徳川家康は、会見後、本多正純に
「秀頼は賢き人なり」
ともらしたという。
福田氏は徳川家康はこの時、豊臣家完全滅亡を決意したと考えて
いる。というような説明していた。
画像


【3】『豊臣秀吉の生涯』後編
・文禄2年(1593) 8月3日 豊臣秀吉57歳の時の子で、大坂城で
 誕生した。


・慶長18年(1613) 方広寺の大仏が完成させた。
  大仏再建には豊臣秀吉の遺産が使われ、金塊の千枚分銅13個、
  二千枚分銅15個が使われた。

 豊臣秀頼の莫大な財力が寺社建立や大仏再建に浪費されたことも 
 大坂方の不利になっていった。

「真田丸」では、方広寺の修復を勧めた。片桐との会話では
  真田幸繁は「見極めました。豊臣家が財力を使い果たし、
  ・・・と弱体化すると考えていた。
 と、説明している。
 翌年に落慶供養を行う手はずとなっていた。
  しかし、徳川家康は方広寺の大仏開眼供養の『鍾銘(しょうめい)
 の文句』に理不尽な難癖をつけてきた。
 片桐且元が方広寺大仏造営の担当奉行であった。
 片桐且元は駿府で徳川家康と協議してを
 「慶長19年(1614)8月3日、開眼供養の日、8月18日堂供養」
  と決めた。

 
・慶長19年(1614) 7月〜8月方広寺鐘銘事件
豊臣秀頼が再建していた方広寺大仏殿がほぼ完成した。
ここで問題が発生した。「方広寺鐘問題」である。

7月末、 開眼供養が間近に迫ったある日
 徳川家康から
 『大仏鍾銘、関東不吉の語、上棟の日、吉日にあらず』
 という異議申し立てがあった。
 供養の延期と鍾銘文の届出が命令された。
大仏開眼供養が中止された


方広寺の鐘銘文は、豊臣秀頼が帰依した臨済宗南禅寺の僧:
文英清韓(せいかん)が書いたものであった。
 徳川家康は大仏殿の鍾銘の文句に対して異議を申し立てた。
 問題とされた言葉は
『@国家安康・A君臣豊楽・B子孫殷昌(いんしょう)』という部分
 であった。
 徳川家康は『国家安康』が家・康の二文字を引き裂いて徳川家の
 没落を祈願する呪詛であると批判した。
『君臣豊楽・子孫殷昌』が主君である豊臣家の繁栄を祈願して子孫
の繁栄を楽しむという意味だと厳しく指弾した。

大仏造営奉行の片桐且元は鍾銘と棟札について
 『徳川家に叛意なし』
 と釈明するために家康の駿府に向かった。
 方広寺鍾銘事件は徳川家康の完全な言いがかりであった。
 片桐且元は駿府で徳川家康と会うことができなかった。
 徳川家康側近の本多正純と金地院崇伝(こんちいんすうでん)
 同じ南禅寺の僧:黒衣の宰相と呼ばれ武家諸法度などの制定
 に関与する)から鍾銘と棟札、浪人の雇用について厳しく
 質問をされた。
 徳川家康側近の本多正純は片桐且元に
 『豊臣秀頼に徳川家に対する叛意のない証拠を示せ』
 と迫った。
 
 片桐且元は回答を考えながら大坂城に持ち帰った。
 片桐且元は
 『@秀頼様か淀殿が江戸に人質として行くか、A秀頼様が大坂城
  から出て他国に移るかしないと家康は納得しない』
 という意見を述べた。
 徳川家康との交渉役を務めていた片桐且元が持ち帰った案に
 対して淀殿や側近:大野治長・治房らは激怒した。
 豊臣秀頼と木村重成が仲裁した。

大野治長の母:大蔵卿局が帰ってきた。
「家康には秀頼に対する害意はない」
 と語った。

*徳川家康は豊臣政権の分断工作を図っていた。
 穏健派の片桐且元には謁見せずに冷淡にあしらった。
 強硬派の大野治長の母:大蔵卿局が駿府に下向してくると
 丁重にもてなした。

 豊臣秀頼と淀殿・大野治長は片桐且元が謀反を働いたと
 思い込み殺害計画を立てようとした。
 片桐且元は不穏な動きを察知した。

片桐且元は
「大坂を出て高野山に入る。」
と言い始めた。
結局、片桐且元の改易が決定した。
片桐且元は、大坂城から出て摂津茨木城へと落ちていった。
  
  
 徳川家康の分断工作により、豊臣秀頼は重臣:片桐且元を
 失ってしまった。

京都所司代:板倉勝重が「片桐且元の殺害計画〜改易」を
駿府の徳川家康に伝えた。
「片桐且元の改易」はすぐに徳川家康に伝わった。
徳川家康はこれを口実に「豊臣秀頼の討伐」即座に決断した。
徳川家康は『大坂討伐』の命令を出した。
近江・伊勢・美濃・尾張・三河・遠江に出陣命令を出した。
江戸の将軍:徳川秀忠も東国大名に大坂攻めを指示した。
徳川家康は『豊臣恩顧の武将:福島正則・黒田長政・加藤
 嘉明を従軍させず江戸に駐留させた。
 徳川家を裏切るかもしれないという懸念があったからである。
*******************************
「真田丸」
「真田丸」では、清韓(せいかん)が『君臣豊楽』・・・
 豊臣が君主として、楽しむとも採れる。と言っていた。
真田信幸は「京都・大坂は騒がしそうだのう。」という。

片桐且元は真田幸繁にあって回想風に語る。
@ 方広寺などの寺社建築を勧めた。
  片桐且元は作事奉行&徳川家取次
A 方広寺の鐘銘で「国家安康」 「君臣豊楽」の言いがかり
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B片桐且元が弁明。・・・罠だった。

大坂城で会議
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大野治長は片桐且元を裏切り者扱いし殺害を試みた。

真田幸繁は
徳川家康は方広寺の問題を利用して、片桐且元
を裏切り者にして豊臣方を分裂させた。
豊臣との「取次}=交渉役がいなくなったのを「豊臣は
徳川との交渉を打ち切った。」・・・
豊臣討伐」(★討伐・・正義の戦いではないのに?」
自分にとっての大義名分・・理由のある命令を出したのだ。
片桐勝元も豊臣勝頼もまんまと徳川家康の策にはまってしまった
と理解した。

※徳川家康は方広寺鐘銘で口実を作り、片桐且元を追放した
ことで、徳川との結びつきを反故にしたという理由で
豊臣秀頼と決裂した。
豊臣秀吉は沼田問題で口実を作り、北条氏政が上洛しない
ことで、豊臣に逆らっているという理由で
小田原城を攻めた。



徳川家康は命令を出すかのきっかけをまっていた。

********************************
徳川家康は既に大坂城攻撃のための準備をすませてあった。


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大坂冬の陣が勃発した。
豊臣秀頼は徳川家康が攻めてくることは予想していた。
徳川との対決は避けられない状況になった。。

10月2日 豊臣秀頼は福島正則、・黒田長政・加藤嘉明ら
 豊臣恩顧の武将に激を飛ばしたが、大坂方に味方をする武将
 は殆どいなかった。

集まったのは
1)関ヶ原の戦いで改易になっていた有力武将:
真田信繁・後藤基次・長宗我部盛親・毛利勝永
・明石全登(キリシタン)の5浪人達であった、
豊臣方の5人の有力武将は
@関ヶ原で四国の領地を失った長宗我部盛親
A関ヶ原で秀忠を上田城で押しとどめた智将の子:真田信繁
B武勇無双とされた浪人の後藤又兵衛基次
C豊前小倉城を黒田如水に奪われ戦後改易となった毛利勝永
D宇喜多秀家の乳兄弟:キリシタン2000を率いた明石全登
 ・・つまり、キリスト教徒もいた。

2)主家が西軍に与して改易されていた数万の浪人達であった。

@大谷吉治・・・大谷吉継の嫡男
A仙石秀範・・・仙石秀久の嫡男・・・・弟は徳川側
B浅井井頼・・・伝:浅井長政の3男=淀殿の弟
C石川康勝・・・石川数正の2男
D戸河存英・・・阿波の十河存保の子
E氏家行広・・・西軍:大垣城主で改易
F増田盛次・・・増田長盛の子
G塙直之・・・・元加藤嘉明の家臣
H福島正守・・・福島正則の弟・・・・・兄は徳川側
I細川興秋・・・細川忠興の2男・・・・兄は徳川側
 (★『真田幸村よくわかる本』:押鐘太陽著)

大坂城の豊臣軍には、関ヶ原の西軍の敗将と金銭で雇われた膨大な
浪人が集まっていたのだ。約10万人と言われている
画像

豊臣秀頼もすぐに浪人を集め徳川を迎え撃つ準備を始めた。

浪人や関ヶ原の戦いで改易された武将を集め兵力の増強を行っ
ていた。

関ヶ原の戦いで使用した武器があったが、暴発の可能性も
あった。
画像



武器、兵糧を買いこんだ。

大坂城周辺の砦を増強した。
真田丸も造って大坂城を強化した。
画像




10月23日 徳川家はに二条城に入城した。
同日、徳川秀忠は江戸を出発した。
  関ヶ原の戦いに遅参して家康から手厳しく叱責された経験から
 家臣の藤堂高虎に自分が到着するまでは大坂攻めを待って欲しい
 と家康に伝えさせた。


大坂城の豊臣軍は、浪人衆は「烏合の衆」=寄せ集め部隊なので
統制が取れない。

浪人衆真田幸繁・後藤又兵衛らと大野治長や淀殿らが対立した。
真田信繁などが野戦・京都進撃を唱えていた。
画像

大野治長などが頑強に反対し、大坂城籠城を主張した。
大野治長の籠城策を主張する『消極派』と
真田信繁(幸村)畿内に攻撃を仕掛けて周辺の大名を取り込もう
とする『積極派』とで意見が割れていた。

10万の寄せ集めの浪人兵を短期間で組織的な戦闘ができる軍に
仕上げるには無理である。
今の豊臣方浪人5人衆・豊臣秀頼配下の武将には大軍を指揮した
経験のある武将がいなかった。
徳川軍がいつ攻めてくるかわからない状況であった。
結局、豊臣秀頼は籠城戦を選択した。
画像



徳川軍は
@大坂城の南に藤堂高虎・前田利常・松平忠直・井伊直孝
・鍋島勝茂・蜂須賀至鎮(よししげ)・浅野長晟(ながあきら)
A大坂城の東に上杉景勝・佐竹義宣
I大坂城の北には加藤明成(嘉明の子)・池田利隆・池田忠雄
 ・有馬豊氏など。
大軍勢の大坂城包囲網に、伊達政宗や毛利輝元が加わり徳川軍
の士気をますます盛んになった。


***真田丸のある南かわのみ史実編***********
*徳川軍・・・約20万
@真田丸正面
 平野口
 右・・・南部利直3000、
 正面・・前田利常12,000、 後ろに徳川秀忠20000
 左・・・松倉重政
     吉田重治
     寺沢広高
・榊原康勝など数千、
A平野口&八丁目口の間
     井伊直孝4,000、
B八丁目口正面
     松平忠直の兵10,000

C八丁目口と谷町口
     藤堂高虎4000

D谷町口
  正面 伊達政宗10000  後ろに徳川家康30000

*豊臣軍・・・約10万以上。
  (兵12,000以上:ウィキペディア)
 真田丸・・真田信繁指揮の兵5,000、
 平野口・・明石守重(明石全登)
      木村重成
 八丁目口・・長宗我部盛親8000
谷町口・・・井上時利・織田長頼
町屋口・・・大野治長
 ???・・・後藤基次
 などが配置されていた。


▲11月15日 大坂の冬の陣
徳川家と豊臣家が天下の盟主の座を掛けて雌雄を決する第一陣:
大坂冬の陣が始まった
徳川家康は二条城を出陣した
徳川秀忠は伏見城を出陣した。
総勢20万とも言われる大軍で大坂城を取り巻く大包囲網をしいた。

大野治長の消極的な籠城戦の戦術が選択されていた。


豊臣方と徳川方の戦いが始まった。
@木津川口、博労淵などの戦い
 大坂城の周辺の砦が攻略された。
 残りの砦も放棄して大坂城に撤収した。

A野田・福島の水上戦
 敗れる。
B今福や鴫野の戦い
 敗れた。
  佐竹義宣軍を一時追い詰める抵抗を見せたため、大坂方強し
  と周知される。
C徳川軍の攻撃で各地の砦は落とされた。

D大坂城での戦闘
 浪人衆の活躍や大坂城の防御力により、幕府軍は苦戦、
 城内に攻め入ろうにも撃退ばかりされた。

豊臣秀吉が想定される防備の限りを尽くした難攻不落の大坂城は
容易には落ちない。

12月4日 真田丸の戦い
 前田利常・松平忠直・井伊直隆らが真田信繁(幸村)が守る
出丸:真田丸を無防備に攻撃した。
 真田丸の戦いで、真田幸繁は徳川を撃退するなど互角以上の
 戦いをみせた。
 徳川軍が手酷い損害を受けた。
画像


戦線は膠着した。

12月中旬 徳川軍の本多正純・後藤光次と豊臣軍の大野治長
  ・織田有楽斎(長益)との間で講和条件が協議されるように
  なった。
 豊臣家康は『淀殿の江戸への下向と浪人への恩賞』という
 大坂方の講和条件を拒絶した。
 後水尾天皇からの講話案も断った。

 そこで、徳川家康が長距離攻撃のできる大砲で攻撃をすること
 にした。

徳川家康が大坂城攻略の前に国内外(特にイギリスからのカルバイン
砲4台・オランダの大砲など)から集めた最先端の大砲で大砲あった。
徳川軍は約300台の大砲で大坂城内に心理的圧力をかけるべく、
昼夜を問わず砲撃を加えた。
大坂城内にも被害が出るなど、次第に劣勢に立たされた。


12月16日 一発の砲弾はたまたま本丸まで飛来した
 淀殿の居室(居間)?寝所?に着弾し、侍女の身体を粉砕し
 淀殿を震え上がらせたという。
@淀殿の居所である千畳敷が砲撃された説
 A淀殿寝所に着弾説
 
淀殿が弱気となり、和議に賛成したのはこのためだとの説も
ある。徳川方に有利な条件で講和が結ばれた。

やがて、大坂方・幕府軍双方の食糧・弾薬が尽き始めた。
徳川家康は和議を提案した。
豊臣秀頼は徹底抗戦をするつもりであった。
豊臣秀頼は和議に反対したといわれているが、戦意喪失した
淀殿の懇願・主張などによって和議が実現した。
大坂冬の陣の講和条件は
@『秀頼・淀殿の安全の保障と大坂城居住・豊臣方の軍勢の罪
 の不問』と引き換えにするものであった。
A『本丸を残して二の丸・三の丸を破壊して外堀を埋めること』
B『大野治長と織田有楽から人質を差し出すこと』
という徳川方からの条件を受け容れた。

講和条件によって、難攻不落とされた大坂城はその防御能力を
大幅に低下させることになり、次の籠城戦での優位を完全に失う
ことになってしまった。

和議は、「大坂城の堀の破却」を条件として結ばれた。
しかし、大坂豊臣方が和議の条件を履行しなかった。
徳川軍は堀を埋めただけでなく、城郭の一部も破壊した。
豊臣方は抗議する。
徳川方は本丸を残し堀を埋め尽くした。
講和の条件の中には大坂城の堀を埋めることが含まれていた。
@従来説・・・外周の外堀だけを埋める約束であったが、徳川方は
  強硬的に内堀まで埋め立てたとする説
A少数説・・・外堀を徳川方、内堀を豊臣方が埋める約束説
B最近の説・・・「惣構の周囲をめぐる外堀&二の丸堀と三の丸堀
 を埋め立ては豊臣方と徳川方の合意に基づいていた説。

徳川家康・秀忠と豊臣秀頼の誓紙の交換が終わった。、
豊臣秀頼はできるだけ内堀をゆっくり埋めることで時間を稼ごう
 とした。
 
でも、徳川家康は即座に『大坂城の外堀・内堀の埋め立て』を
松平忠明・本多忠勝の子:忠政・本多康紀に命じた。
徳川家康は待ってましたとばかり猛烈な速さで堀を埋めて
いった。将軍・徳川秀忠の監督の下で大坂城の堀の埋め立て
工事が急ピッチで進んでいった。
大坂の町屋を取り壊したり、堀を埋めたりした。
 そして、二の丸堀と三の丸堀の内堀も埋めた。


 


・慶長20年(1615) 大坂夏の陣
1月19日 大坂城の堀の埋め立て工事が完成した。
 大坂城は無力化された。

●『豊臣方の動向』
大坂城では屈辱的な講和条件を呑まされ、江戸幕府と徳川家康
 ・秀忠に対する不満が強まっていった。

 徳川家康は豊臣秀頼の大坂退去や浪人達の追放を求めた。

淀殿は徳川に降伏してもよいと考えていたようである。
 浪人達は徹底抗戦を主張した。
 
 大坂城内で徳川との交渉を担当していた大野治長が浪人に襲
 われた。
 交渉は決裂・・・再び戦になることは避けられないと考えた。
 引くに引けない状況になった。

3月 豊臣秀頼・淀殿は不満を鬱積させる浪人衆にも押されて、
  徳川家康の許可を得ずに大坂城の城壁の修理と埋め立てら
  れた堀の掘削を開始した。
 
4月12日 豊臣秀頼は大坂城内の金銀を浪人に配り戦に備えた。
 豊臣秀頼は埋められた堀を掘り返す作業を命じた。
 そして、二の丸堀と三の丸堀を掘り返し始めた。
 豊臣軍は大坂城の防衛能力を回復させながら、残った城の財力
 を用いて再び大勢の浪人(兵力)を駆り集めて徳川軍との戦に
 備えた。
大坂城では、更に軍勢を集めた。
5月  大坂冬の陣の講和条件によって埋め立てられていた
  『大坂城の外堀・内堀』が完全に修復できていなかった。
 豊臣軍は籠城戦を選択することができず、大和・住吉・堺など
 における城外の野戦に打って出るしかなかった。


・慶長19年(1614)
●『徳川方の動向』
4月4日 徳川家康は駿府城を出発した。
4月18日 徳川家康は京都二条城に入った。
4月21日 徳川家忠は伏見城に入った。
 豊臣家康は豊臣秀頼が大坂城を退去して大和郡山に転封されるか、
 集めた浪人の軍勢を解散するかという最後通牒を突きつけた。
 豊臣秀頼は大坂城退去や浪人の総追放や国替えを拒否した。

 大坂城の豊臣軍は申し出を拒絶した。 
 徳川方は約17万の大軍勢を結集させた。

5月5日 徳川家康は和議が破られたとして戦争の再開を宣言した。
徳川家康は二条城を出陣して大坂城攻撃を開始した。
 大坂夏の陣が勃発した。
 豊臣軍は堀の掘り返しは戦さに間にあわない。
 裸同然の大坂城では籠城戦はできず、野戦をすることになった。


▲大坂冬の陣
幕府軍20万説 VS  豊臣軍7万5千説。
約16万5千説 5万5千説
      15万5千説 5万5千説

5月6日 徳川軍は大和路を向かってくる
  戦闘が起こった。

 豊臣軍は武将達のまとまりがなく、勝手に突撃を行い各個撃破
  されていく。
  豊臣方は各地で敗退した。
  浪人として雇ったものの中に内通者がいて、作戦が洩れていた。
大野治房が軍勢を率い大和郡山に出撃、制圧・略奪して帰還する。
豊臣方は阪南から北上してくる幕府の大軍を迎え撃った。
 数で劣る豊臣軍は撃退できるよう狭い地域で迎え撃つべく、
 主力軍が八尾方面に進軍した。
@八尾・若江、道明寺で戦い
 長宗我部盛親が藤堂高虎勢を壊滅させた。
 しかし、木村重成・後藤基次が討ち死にした。
 主力軍は撤退を余儀なくされる。
A樫井の戦い
 大野治房らが紀州の一揆勢とともに浅野長晟を討つべく出撃した。
 先陣の塙直之が浅野軍に破れた。
 大野本隊が到着したときには浅野勢は紀州に撤退済みだったので
 帰城した。
大坂城南東の道明寺や藤井寺、若江などでは双方に大きな死傷者が
 出た。

 豊臣勢は敗戦続きで兵力が疲弊した。
 徳川家康、秀忠が大坂に布陣した。
 最終決戦を挑む。

5月7日
A天王寺・岡山の戦い
 真田信繁は豊臣軍の士気を高めるために豊臣秀頼が
 前線に出馬することを望んだが、実現しなかった。
 淀殿がわが子かわいさに頑強に首を縦に振らなかったためという。

午前中、徳川方と豊臣方の双方が激しい戦闘が行われた。 

岡山口の戦い
 大野治房が率いる軍勢が徳川秀忠の本陣まで迫った。
 しかし、徳川秀忠の大軍の前に撤退を余儀なくされる。

天王寺の戦い
 真田信繁・毛利勝永らが布陣した。
 真田信繁徳川家康の本陣に近づいて、数度にわたる突撃を敢行
 した。
 真田信繁(幸村)が家康が陣取る徳川本陣へと切り込んで
  いった。
 真田信繁は後一歩で徳川家康を討ち取れるような場所にまで
 決死の覚悟で突入した。

 徳川家康が一時は自刃を覚悟させるほどにまでに追いつめた。
 しかし、味方が衆寡敵せず、退却・・・
 真田信繁は力及ばず、退却中に越前の松平忠直の軍勢に討ち
  取られてしまった。
  真田幸繁が討ち死にした。
画像

 真田信繁は「日本一の兵(つわもの)」と敵味方双方から
  称賛されるほどの戦いをした。
画像


 豊臣秀頼は大坂城の門に陣を構え、出陣のタイミングを計って
 いた。
大野治長の弟:治純
「真田信繁と長宗我部盛親が裏切った。」
 という報告した。
 豊臣方の有力武将まで寝返ったと思い、出陣は中止となったた。
 大野治純は徳川家康に内通していた。


豊臣秀頼の正室:徳川秀忠の娘・千姫は大坂城炎上前に大坂城を
抜け出した。
大野治長が千姫の大坂城脱出には協力した。
大野治長は徳川家康に千姫を救助する引き換えに、豊臣
秀頼と淀殿の助命を願い出ていたと言われている。
徳川家康のが拒否した。 
千姫は徳川軍に保護された。
千姫は豊臣秀頼・淀殿の助命嘆願した。


 
午後3時頃、
毛利勝永の指揮の元、生き残った豊臣方は撤退した。

徳川軍は大坂城内に入城した。
大坂城内の浪人たちが略奪を始めた。
大坂城内は大パニックになった。
豊臣秀頼と淀殿は毛利勝永に守られて山里丸の蔵に避難した。

松平忠直の部隊は真田信繁を打ち倒した勢いに乗じて、
一気に大坂城へと攻め寄せていき本丸の占拠に成功した。

夕方
内通者の放火によって大坂城は炎上した。
やがて天守閣が炎上した。
※「ルイス・フロイス」の手記
「放火したのは徳川に寝返ろうとする浪人で、豊臣秀頼につかまり
石垣から落とされて死んだ。」

深夜には大坂城は完全に陥落した。

5月8日
豊臣秀頼・淀殿は山里丸の蔵に逃れた。
しかし、殺到する徳川方を防ぎきることはできない。
 
徳川軍は大坂城内の蔵を包囲した。
豊臣秀頼と淀殿は山里丸の蔵に追い詰められた

正午過ぎ 
豊臣秀頼(享年23・満21歳没)と淀殿は毛利勝永の介錯で
自害した。


豊臣秀頼には側室:和期の方(伊茶)との間に国松がいた。
国松は大坂城を脱出した伏見に潜伏していたが、徳川方に発見
されてつかまった。
5月23日 国松は京都六条河原で処刑された。享年8。

豊臣秀頼には小石の方(おいわのかた・異説があり)との間に
女児もいた。が、鎌倉の東慶寺で出家させられた。
天秀尼となった。
大坂夏の陣も徳川軍の勝利に終わった。
豊臣家は滅亡した。

両軍とも多数の戦死者を出した。

徳川家康は、翌年春に息を引き取った。
仕事が終わって、疲れ果てたのかな?




●▲■生存説
・昭和昭和55年(1980)年、大坂城三ノ丸跡の発掘調査
人1人の頭蓋骨と別に首のない2人の骨、馬1頭の頭の骨が
発見された。年齢や骨から類推する体格から豊臣秀頼のものでは
ないかと推測された。
 (★ウィキペディア)
豊臣秀頼は大阪が落城した際、自害する瞬間を目撃した者がお
らず、死体も発見されなかったことから生存説が生まれた。
「判官贔屓の日本人的発想」であろう。伝説的な逸話である。

しかし、映画「真田十勇士」は祢津甚八が豊臣秀頼のそっくり
さんで登場し、祢津甚八が薩摩に逃げることになった。
 (★映画「真田十勇士」)



◆参考図書
「歴史人」清水昇文責
「真田幸村のよく分かる本」:押鐘太陽著
【真田三代】:平山優著
【真田三代と信繁】:丸島和洋著
「大いなる謎:真田一族」:平山優著
「ここまでわかった!大坂の陣と豊臣秀頼」:『歴史読本』編集部著
『大坂の陣と豊臣秀頼 (敗者の日本史) 』曽根勇二著(吉川弘文館)
『豊臣秀頼』福田千鶴著(吉川弘文館)

◆参考サイト
・ウィキペディア






★明日は「豊臣秀頼に協力した武将」かな????

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