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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸123『豊臣秀頼の生涯』前編&福田千鶴氏説

<<   作成日時 : 2016/10/14 07:33   >>

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豊臣秀頼は豊臣秀吉の3男である。豊臣秀吉の側室であった茶々
(淀殿)の第2子である。平成28年(2016)2月26日のTV番組
で九州大学教授の福田千鶴氏が「凡庸な豊臣秀頼と淫乱な母。茶々
(淀殿)という見方は、徳川史観が作り出した虚構である。」言っ
ていた
。「小栗上野介忠順が薩長史観に歴史から抹殺されたように」
と思った。慶長16年(1611)豊臣秀頼は、徳川家康と二条城
で会見した。徳川家康は豊臣秀頼に「鷹」を送った。豊臣秀頼は
「礼状」を送った。徳川家康が豊臣秀頼に「鷹」を送られた御礼状
になっているが、福田氏は大阪城に徳川家康が挨拶に来ることを
示唆している。また、福田氏はこれを豊臣秀頼の最初の挑戦状と
考えている。
写真は著作権法違反だけれど、「良い番組が
消えていくので、もったいないので、使用した。
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平成28年(2016)2月24日のTV番組「福田千鶴氏解説」
『歴史秘話ヒストリア「真の天下人誰だ!?秀頼VS家康の冷戦』

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箕輪初心:生方▲真田丸122【第40話「幸村」のあらすじ】&39話ちょっと史実編
http://53922401.at.webry.info/201610/article_16.html

箕輪初心:生方▲真田丸120*映画『真田十勇士』「嘘も突き通せば真実になる」
http://53922401.at.webry.info/201610/article_12.html


●▲■  『豊臣秀吉の生涯』
・文禄2年(1593) 8月3日 豊臣秀吉57歳の時の子で、大坂城で
 誕生した。
父:豊臣秀吉
母:茶々(淀殿)

豊臣秀頼が本当に豊臣秀吉の実子なのかという疑問は当時
からあった。
小説名なとでは、「大野治長説」もあるようだ。
豊臣秀吉57歳で子供はできないと諦めたあとの誕生であった。
当時、拾った子はよく育つと信じられていたので「拾(ひろい」
と名づけられた。

豊臣秀吉は拾を溺愛した。

10月 豊臣秀頼が誕生した時には従兄の豊臣秀次が豊臣秀吉の
 養嗣子として関白を譲られていた。
 豊臣秀吉→豊臣秀次→豊臣秀頼へという政権継承を模索した。
 豊臣秀吉は、秀次と秀頼の関係を調整するため、秀頼誕生の
  2ヶ月後、秀頼と秀次の娘を婚約させた。
  

・文禄4年(1595) 7月 豊臣秀吉は豊臣秀次の関白職を奪い、
  自刃させた。
  豊臣秀次の子女や妻妾もほぼ皆殺しにした。
TV「真田丸」では、「たか」が真田幸繁の側室として、
ルソンに渡った。
※後、豊臣秀次の娘は九度山で真田幸繁の子を2人産んだ。


 豊臣秀頼の秀吉の後継者としての地位が確定した。
 豊臣秀吉は豊臣秀頼に忠誠を誓約する起請文を作成し、
 大名達に血判署名させた。
 
 豊臣秀吉は伏見城を築城させて、居城を移した。
 豊臣秀頼も伏見城に住んだ。


・文禄5年・慶長元年(1596)9月 拾は禁裏で元服して
 「豊臣藤吉郎秀頼」となった。
 豊臣秀吉は「大名同士の結婚:など御掟・御掟追加など
 法を定めた。
 豊臣秀頼を補佐するため、五大老、五奉行が整えられた。

・慶長2年(1597) 伏見城(木幡伏見城)が完成した。
  豊臣秀吉は伏見城に移り住んだ。

徳川家康は次第に影響力を強め、五大老、五奉行と対立
  が深まった。


 7月18日善光寺如来が京に到着し、方広寺大仏殿に
  遷座された。
 (★『義演准后日記』)
 
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 (★TVぶらあさひ)


・慶長3年(1598)
3月 豊臣秀頼も伏見城に移り、豊臣秀吉とともに暮らし始めた。

8月 豊臣秀吉が死去した。
 豊臣秀頼は家督を継いだ。

 五大老の徳川家康が重臣合議制の原則を逸脱して影響力を
  強めた。
加藤清正や福島正則に徳川家康の娘:養女をあげる
 約束なども掟を破って、屁理屈垂れて進めた。
 政権内の対立も深まっていった。

・慶長4年(1598)
正月  豊臣秀吉の遺命により伏見城から大坂城に移った。

3月 豊臣秀頼の最大の支援者だった五大老:前田利家が
  亡くなった。
 七将襲撃事件
  
  五奉行:石田三成は家康に頼ったが、蟄居・・失脚・・・

 徳川家康に主導権は家康の手に握られていった。


・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
豊臣秀頼は西軍の総大将として擁立された五大老:毛利輝元
  の庇護下におかれた。 豊臣秀頼7歳であった。
石田三成は豊臣秀頼に出陣を求めたが、淀殿は拒否した。
徳川家康に対して石田三成らが挙兵
8月  関ヶ原

西軍   VS  東軍
  東西両軍とも「豊臣秀頼公のため」の戦いを大義名分
  としていた。
  関ヶ原の戦いは豊臣対徳川の戦いではなく、豊臣政権内の派閥争い
  のだった。

  豊臣秀頼の親衛隊:七手組の一部が西軍に参加していた。
  
 日本各地で戦いが行われた。
@第2次上田合戦
 真田昌幸・幸繁 VS 徳川家忠(真田信幸)

A長谷堂城の戦い
 直江兼続 VS 最上義清

B関ヶ原の戦い
大谷吉継が討ち死にした。
C黒田如水の九州侵攻
などなど・・・

豊臣秀頼は徳川家康を忠義者として労をねぎらった。

10月1日 石田三成・小西行長・安国寺恵瓊・原長頼は京都
  六条河原において斬首された。
関ヶ原の戦い後、豊臣の衰退が始まる

  徳川家康は大老トップの座を生かして戦後処理を独占的に進めて
 いった。
 @徳川家康に敵対した大名を取り潰したり、縮小したりした。
 A徳川家康に味方した大名でも豊臣家に近いと思えるものは大阪から
  離れた西国に移した。
  豊臣家を孤立させた。
 B徳川家康は五大老筆頭の立場を利用し、羽柴宗家の所領=豊臣氏の
 蔵入地を勝手に分配し、大名領に編入した。
 
結果・・・ 
  豊臣直轄領は開戦前の222万石から摂津・河内・和泉65万石
  余りに事実上減封となった。
  豊臣秀頼は一大名の立場に転落した。
  豊臣恩顧の大名が徳川家康の論功行賞によって加増された。
  豊臣家から独立した大名家となった。
  
  徳川家康は開戦前の255万石から400万石へと増加させた。
  京都・堺・長崎を始めとする大都市や佐渡金山・石見銀山・生野
   銀山といった豊臣家の財政基盤を支える都市・鉱山も領地と
   した。

  徳川家による権力掌握が確固たるものになり、徳川と豊臣の勢力
  が逆転した。
 
・慶長8年(1603)
2月、徳川家康は征夷大将軍の官職を獲得した。
    名実ともに徳川家が武家の頂点に立った。
 ★豊臣秀頼は天下人の座から外れたことになる。

4月 徳川家康の右大臣に昇進した。
   豊臣秀頼は内大臣に昇進した。

7月 豊臣秀頼は、婚約していた徳川秀忠の娘:千姫と結婚した。
   豊臣秀吉が徳川家康と交わしていた約束であった。
   母は淀殿の妹:お江であった。   
 ★この時点では徳川家康は豊臣家を滅ぼすつもりはなかったの
  であろう。


豊臣家は武家のトップではなくなったが、依然として公家の
 トップの「摂家:の一つとして影響力を保っていた。
 「摂家」は摂政・関白になれる家柄のことである。
  摂家は5つだけであった。
 豊臣秀頼は摂関家の家格に沿った順調な位階や官職の昇進を
   
  毎年の年始の挨拶には位階が下の公家が大坂城に大挙下向して
  豊臣秀頼に参賀していた。
  また家臣に対して独自の官位叙任権を行使するなど、朝廷からは
  豊臣秀吉の生前と同様の礼遇を受けていた。

  豊臣秀頼は家臣に独自に位を授けたり、知行を割り当てたりする
  など、江戸幕府とは違った動きをしていた。
  大名も豊臣秀頼への挨拶を行った。
  
大坂夏の陣のあとでも豊臣家の資産は金28万両、銀24万両
  あったと言われている。
  豊臣秀頼は日本各地の寺社の修復を行い豊臣家の存在感を
  示していた。
  豊臣家の財力はなかなか衰えない。

・慶長10年(1605)
 4月 豊臣秀頼は12歳の時、右大臣に昇進した。
  
 徳川家康は豊臣秀頼に上洛して京都二条城で会うよう
  に求めた。

 淀殿が反対して実現しなかった。
 ※豊臣秀頼の方から会いに行くことは京都二条城でに
 服従することを意味していたからである。
 
 徳川家康は、6男:松平忠輝を大坂城に派遣して、豊臣秀頼に
 面会させた。

・慶長11年(1606)
 徳川家康は駿府で『大御所政治』を行いながら、豊臣家攻略に備え
 て大坂城を包囲するかのように徳川一門と譜代大名を配置していた。
 近江長浜城に藤信成を(1606)、
 尾張名古屋に徳川家康の第9子:徳川義直(尾張徳川家始祖)
 伏見城の城番に松平定勝配置した(1607)。

大坂攻めを想定し大坂城を攻撃できる位置に築城した。
 丹波の篠山城の築城開始・・・松平康重 
 丹波の亀山城を修築開始・・・岡部長盛(1609)

 ★徳川家康はじわりじわり、大坂城を囲んだ。

・慶長12年(1607)1月、豊臣秀頼は右大臣を辞した。

 
・慶長13年(1607) 4月11日、左大臣に昇進した。
左大臣の辞令(宣旨)が現存する。
右大臣豐臣朝臣
正三位行權中納言藤原朝臣光豐宣
奉 勅件人宜令任左大臣者
慶長十三年四月廿八日 大外記中原朝臣師生奉
 (★ウィキペディアより)

・慶長15年(1610)
徳川家康は寺社の建立・修築を勧めた。

  徳川家康は大坂城に秀吉が蓄積した『莫大な財力・資産』
  を削減するために豊臣秀頼に大寺社の建立・修複・供養
  を積極的に勧めた。
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  豊臣秀頼は徳川家康の勧めに従って寺社建立に莫大な資産
  をつぎ込んだ。
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   豊臣秀頼は豊臣家の威光を誇示する必要があった。
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 特に、豊臣秀吉が建造した京都東山の大仏が大地震で倒壊
 した後の『方広寺(ほうこうじ)の大仏再建』に力を注いだ。
 豊臣秀頼は豊臣秀吉の木製の大仏に劣らない唐銅製の大仏
 再建に着手した。
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  (★歴史ヒストリア)



・慶長16年(1611)3月、後陽成天皇が徳川家康の計らいで
  後水尾天皇に譲位した。
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  徳川家康は5万の兵を連れて・・・

徳川家康は再び豊臣秀頼に上洛を求めた。
 「二条城で・・・」
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  淀殿がここでも反対した。
  

  豊臣秀頼19歳は母:淀殿の反対を押しのけ
  「妻:千姫の祖父に会いに行く・挨拶する」という名目で
  上洛した。
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  加藤清正と浅野幸長が豊臣秀頼を迎えに来た。
   豊臣秀頼は加藤清正や浅野幸長に守られつつ
  上洛した。

3月28日 豊臣秀頼は京都二条城で徳川家康との会見を行った。
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 @豊臣秀頼の徳川家康への臣従説
 A豊臣秀頼が徳川家康との対等説
 歴史家の間でも見解が分かれている。

  加藤清正と浅野幸長は徳川家の家臣になっていたが、
  豊臣秀頼を担いで徳川家に反乱を起こす気はなかった。
  豊臣家を残すために徳川家康と豊臣秀頼の仲を仲介しよう
  としていたのであった。

●▲■「福田千鶴説*******************
徳川家康は
「『19歳になったら天下を豊臣秀頼に返す。』という豊臣秀吉と
の起請文=約束は、関ヶ原の戦いで豊臣秀頼側が約束破ったから
返さない。」とした。

徳川家康が豊臣秀頼を臣従化したと見られているが、・・・
徳川家康は豊臣秀頼に「鷹」を送った。
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豊臣秀頼は「礼状」を送った。

福田千鶴氏は「豊臣秀頼が自筆の書状を徳川家康に送った。
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徳川家康が豊臣秀頼に「鷹」を送られた御礼状になっているが、
福田氏は大阪城に徳川家康が挨拶に来ることを示唆している。

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また、福田氏は豊臣秀頼の最初の挑戦状と考えている。
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福田氏は徳川家康はこの時、豊臣家完全滅亡を決意したと考えて
いる。というような説明していた。



徳川家康は、会見後、本多正純に
 「秀頼は賢き人なり」
 ともらした。
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**************************
「真田三代:平山優著」
・慶長16年(1611)  
  徳川家康と豊臣秀頼が京都二条城で会見した
徳川義直と徳川頼宣は東寺まで出迎え、人質として加藤清正に
  預けられた。
 徳川義直と徳川頼宣は返礼の名代として大坂城の徳川秀頼
  を訪問した。

*************************
「真田丸」では、豊臣秀頼は「二条城でも大坂城でもどっちでもいい
 ではないか?京都二条城で加藤清正が真ん中にいる状態で
 2人は京都二条城であった。

この後、徳川家康は豊臣家を一大名として扱うようになった。
豊臣家は江戸幕府からは五摂家と同じく公家として扱われた。
その後、浅野長政、加藤清正らかつて豊臣家臣だった大名が次々
と亡くなった。
加藤清正は、熊本に帰る舟の中でなくなった。
「真田丸」では、服部半蔵の暗殺を示唆していた。


4月12日 徳川家康は二条城で諸大名を集めて、徳川家康・秀忠
  の命令に違背しないという誓書(誓紙)を提出させた。
 誓紙の原案『三ヶ条の条々』は明経博士:船橋秀賢と儒者:林羅
 山が起草した

@「頼朝公以降の将軍家の威光を尊重し将軍秀忠の法度を守ること」
A「法度に違反した者や法度を無視した者を国に隠してはならないこと」
A「叛逆や謀反をした家臣を召し抱え続けてはならないこと』
 (★ウィキペディア)




・慶長18年(1613) 方広寺の大仏が完成した。
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  大仏再建には豊臣秀吉の遺産が使われ、金塊の千枚分銅13個、
  二千枚分銅15個が使われた。

 豊臣秀頼の莫大な財力が寺社建立や大仏再建に浪費されたことも 
 大坂方の不利になっていった。

・慶長19年(1614) 7月〜8月方広寺鐘銘事件
 片桐且元が方広寺大仏造営の担当奉行であった。
 片桐且元は駿府で徳川家康と協議して
 「慶長19年(1614)8月3日、開眼供養の日、8月18日堂供養」
  と決めた。


7月末 開眼供養が間近に迫ったある日
ここで問題が発生した。「方広寺鐘問題」である。

 徳川家康から
 『大仏鍾銘、関東不吉の語、上棟の日、吉日にあらず』
 という異議申し立てがあった。
 供養の延期と鍾銘文の届出が命令された。
大仏開眼供養が中止された。


方広寺の鐘銘文は、豊臣秀頼が帰依した臨済宗南禅寺の僧:
文英清韓(せいかん)が書いたものであった。
 徳川家康は大仏殿の鍾銘の文句に対して異議を申し立てた。
 問題とされた言葉は
『@国家安康・A君臣豊楽・B子孫殷昌(いんしょう)』という部分
 であった。
 徳川家康は『国家安康』が家・康の二文字を引き裂いて徳川家の
 没落を祈願する呪詛であると批判した。
『君臣豊楽・子孫殷昌』が主君である豊臣家の繁栄を祈願して子孫
の繁栄を楽しむという意味だと厳しく指弾した。
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大仏造営奉行の片桐且元は鍾銘と棟札について
 『徳川家に叛意なし』
 と釈明するために家康の駿府に向かった。
 方広寺鍾銘事件は徳川家康の完全な言いがかりであった。
 
 片桐且元は駿府で徳川家康と会うことができなかった。
 徳川家康側近の本多正純と金地院崇伝(こんちいんすうでん)
 同じ南禅寺の僧:黒衣の宰相と呼ばれ武家諸法度などの制定
 に関与する)から鍾銘と棟札、浪人の雇用について厳しく
 質問をされた。
 徳川家康側近の本多正純は片桐且元に
 『豊臣秀頼に徳川家に対する叛意のない証拠を示せ』
 と迫った。
 片桐且元は回答を考えながら大坂城に持ち帰った。
 片桐且元は
 『@秀頼様か淀殿が江戸に人質として行くか、A秀頼様が大坂城
  から出て他国に移るかしないと家康は納得しない』
 という意見を述べた。
 徳川家康との交渉役を務めていた片桐且元が持ち帰った案に
 対して淀殿や側近:大野治長・治房らは激怒した。

 豊臣秀頼と木村重成が仲裁した。
が、片桐且元は
「大坂を出て高野山に入る。」
と言い始めた。
 徳川家康は豊臣政権の分断工作を図っていた。
 穏健派の片桐且元には謁見せずに冷淡にあしらった。
 強硬派の大野治長の母:大蔵卿局が駿府に下向してくると
 丁重にもてなした。


 大野治長の母:大蔵卿局が帰ってきて
「家康には秀頼に対する害意はない」
 と語った。
 豊臣秀頼と淀殿・大野治長は片桐且元が謀反を働いたと
 思い込み殺害計画を立てようとした。
 片桐且元は不穏な動きを察知した。

結局、片桐且元の改易が決定した。
片桐且元は、大坂城から出て摂津茨木城へと落ちていった。
  
 
 徳川家康の分断工作により、豊臣秀頼は重臣:片桐且元を
 失ってしまった。

京都所司代:板倉勝重が「片桐且元の殺害計画〜改易」を
駿府の徳川家康に伝えた。

片桐且元の改易はすぐに徳川家康に伝わった。
徳川家康はこれを口実に「豊臣秀頼の討伐」即座に決断した。

徳川家康は『大坂討伐』の命令を出した。
近江・伊勢・美濃・尾張・三河・遠江に出陣命令を出した。
江戸の将軍:徳川秀忠も東国大名に大坂攻めを指示した。
徳川家康は『豊臣恩顧の武将:福島正則・黒田長政・加藤
 嘉明を従軍させず江戸に駐留させた。
 徳川家を裏切るかもしれないという懸念があったからである。



***************************

豊臣秀頼もすぐに浪人を集め徳川を迎え撃つ準備を始めた。

浪人や関ヶ原の戦いで改易された武将を集め兵力の増強を行っ
ていた。
豊臣秀頼は武器を用意させた。

武器、兵糧を買いこんだ。
大坂城周辺の砦を増強した。
真田丸も造って大坂城を強化した。
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関ヶ原時代の古い大砲がたくさんあった。
暴発の可能性も大きかったが、・・・

対する徳川軍はカルバイン砲など・・・
画像



大坂冬の陣が勃発した。
豊臣秀頼は徳川家康が攻めてくることは予想していた。
徳川との対決は避けられない状況になった。。

10月2日 豊臣秀頼は福島正則、・黒田長政・加藤嘉明ら
 豊臣恩顧の武将に激を飛ばしたが、大坂方に味方をする武将
 は殆どいなかった。

集まったのは
1)関ヶ原の戦いで改易になっていた有力武将:
真田信繁・後藤基次・長宗我部盛親・毛利勝永
・明石全登(キリシタン)の5浪人達であった、

2)主家が西軍に与して改易されていた数万の浪人達であった。
大坂城の豊臣軍には、関ヶ原の西軍の敗将と金銭で雇われた膨大な
浪人が集まっていたのだ。約10万人と言われている




10月23日 徳川家康は二条城に入城した。
同日、徳川秀忠は江戸を出発した。
  関ヶ原の戦いに遅参して家康から手厳しく叱責された経験から
 家臣の藤堂高虎に自分が到着するまでは大坂攻めを待って欲しい
 と家康に伝えさせた。


大坂城の豊臣軍は、浪人衆は「烏合の衆」=寄せ集め部隊なので
統制が取れない。

浪人衆真田幸繁・後藤又兵衛らと大野治長や淀殿らが対立した。
真田信繁などが野戦・京都進撃を唱えていた。
大野治長などが頑強に反対し、大坂城籠城を主張した。
大野治長の籠城策を主張する『消極派』と
真田信繁(幸村)畿内に攻撃を仕掛けて周辺の大名を取り込もう
とする『積極派』とで意見が割れていた。
「宇治で戦おう?」
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10万の寄せ集めの浪人兵を短期間で組織的な戦闘ができる軍に
仕上げるには無理である。
今の豊臣方浪人5人衆・豊臣秀頼配下の武将には大軍を指揮した
経験のある武将がいなかった。
徳川軍がいつ攻めてくるかわからない状況であった。
結局、豊臣秀頼は籠城戦を選択した。





◆参考図書
「歴史人」清水昇文責
「真田幸村のよく分かる本」:押鐘太陽著
【真田三代】:平山優著
【真田三代と信繁】:丸島和洋著
「大いなる謎:真田一族」:平山優著
「ここまでわかった!大坂の陣と豊臣秀頼」:『歴史読本』編集部著
 ★アマゾンで287円だった。
『大坂の陣と豊臣秀頼 (敗者の日本史) 』曽根勇二著(吉川弘文館)
『豊臣秀頼』福田千鶴著(吉川弘文館)
など多数

◆参考サイト
・ウィキペディア
・「福田千鶴氏の『豊臣秀吉』を読んで」




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