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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸122【第40話「幸村」のあらすじ】&39話ちょっと史実編

<<   作成日時 : 2016/10/13 08:49   >>

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「真田丸」の時代考証:平山優氏・丸島和洋氏が「真田信繁が真田
幸村を名乗った可能性があるのは慶長19年(1614)の「大坂冬の
陣の入城時」と言っていた。第40話「幸村」で気になるのがタ
イトル「幸村」。「真田丸」では真田信繁の名を採用した。
現在残っている資料ではほとんど真田信繁として登場している
が、信繁の兄・信之の松代藩の資料では真田幸村となっている。
江戸中期の「難波物語」で「左衛門佐幸村」と記された。
松代藩が大坂の陣から200年近く経った後世に語った話によれば、
「幸村という名は信繁が大坂の陣の頃から使い始めた名前である。」
既に講談などで「幸村」が一般的で松代藩が時代の波に乗ったとい
う説が一般的となっている。
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●▲■第39回「歳月」
【1】 「ネーパラの紐」→「真田紐」
「たか」が登場して
真田信繁が九度山での暮らしを満喫していると、「たか」がやって来
た。土産は「ネーパラの紐」(ネパールの珍しい紐:ひも)を幸繁に
あげた。「ネーパラの紐」見て、真田紐の発案のヒントとなり、
真田信繁(幸村)が九度山で真田紐を春ときりに織らせた。
幸繁が「サナール紐」と言ったら、たかは鹿島アントラーズにいた
アルンシンド風に「サナール紐なら、紐紐になっちゃうよ。」
と言った。
チベット語で「紐」のころを「サナール」と言うそうだ。
さらに、村人に真田紐の特許料をとして金5貫を貰って
生産と販売を任せて、真田紐を広めた設定になっている。
チベット言語圏(ブータン、インド、ネパールなど)の紐が日本に入
ってきてサナールが真田となったという説が有力説である。

@史実は真田紐のルーツはチベットの「サナール」説を採用して
しるが、「たか」が伝えかどうか?は疑問である。
A史実も真田一族が真田紐を作って売って生計を立てていたという
 のは事実と言われている。
しかし、真田幸繁が真田紐を生み出したのというわけではない。
茶道具の桐箱の紐・刀の下げ緒・鎧兜着用時の紐・帯締め・帯留用
の紐・荷物紐等に使用していた。
B真田信繁たちはサナールを作ってそれを真田紐として売り出して
 が、上田紬は絹であるので、真田では木綿を使っていたたしい。

箕輪初心◆海外45【ブータン】=ヒマラヤ山系の飛龍の国
http://53922401.at.webry.info/201111/article_17.html
★織物が分かる


箕輪初心◆インド【8つの世界遺産】
http://53922401.at.webry.info/201207/article_10.html



〜〜〜ネパール編〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲海外bQ3【ネパ−ル9日間】@世界遺産:カトマンズ
http://53922401.at.webry.info/201505/article_6.html

箕輪初心:生方▲海外23【ネパール9日間】Aトレッキング2泊3日
https://bblog.sso.biglobe.ne.jp/ap/tool/newsedit.do

箕輪初心:生方▲海外23【ネパール9日間】B世界遺産:チトワン
http://53922401.at.webry.info/201505/article_8.html

箕輪初心:生方▲海外23【ネパール9日間】C世界遺産:カトマンズ
http://53922401.at.webry.info/201505/article_9.html




【2】 九度山の生活で生まれた子・・・5人〜7人
「真田丸」では、きりは「3人の子どもまでなして・・・」

史実では、真田信繁は九度山で正室:竹林院、側室:隆清院・
高梨内記の娘と一緒に住んでいて、3人との間に九度山で子を
設けたと言われている。

@大谷吉継の娘:竹林院(正室)・・
  少なくとも二人の子を設けている。
「真田丸」では3人説・・・大助・阿菖蒲・梅
「丸島和洋説では4人」
A豊臣秀次の娘:隆清院(側室)・・・
お田 ・幸長

B高梨内記の娘(側室)・・・・・・
  阿梅 あぐり 
 梅は「真田丸」では竹林院の娘となっている。
 高梨内記=真田采女の娘説と竹林院の娘説であるという説があり、
 不明である。
B伊勢の娘

※丸島和洋説
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※清水昇説
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【3】 九度山での生活苦
「真田丸」では、真田幸繁は兄・信之
「・・・平穏で・・・」
きり「結構、満喫しています。」
九度山での暮らし向きに不自由していたというのも心の平穏という
意味では、信繁にとって最も幸せな時期だったのかもしれない。

九度山の生活
 真田昌幸・真田幸繁の家族
 16人の家臣・・・
池田長門守・原出羽守(武田旧臣原美濃守の子)・高梨内記・
小山田治左衛門ら・・・

@高野山の麓の細川
A高野山の「蓮華定院」
B高野山の麓の九度山
浦野川の淵(真田淵)・上下5町(約550m×約1100m)
  の範囲内は行動自由であった。
監視は和歌山城主:浅野幸長にさせた。
・・・生活は困難を極めた。
16人の扶持も必要であった。
収入は、
 @蓮華定院のお布施
 A浅野幸長からの合力
 B真田信之からの仕送り
 C旧家臣・長谷寺・信綱寺からの心付け
 D国元の金子に送金を催促
・数年後、火事になり、真田信之から、100両を借金。
  ・・・

Bの説明
 
浅野幸長より50石を受け取っていた。
 150俵となる。・・・・
 今では普通5人家族で2俵半〜5俵・・・・
 真田家&16人の家族50〜60人ならば、
 20俵〜30俵
※1石=10斗=100升・・・150kg・・・2俵半
 1斗=10升=約15kg
※30kgで250袋
・・・でも足りなかった。
沼田に金・酒(焼酎)の無心の書状がたくさん届いた。
書・碁・釣り・農耕などをしていた。

【真田幸村がよく分かる本】:押鐘太陽著

Bの説明
 正月早々、「臨時の金、40両の内、20両は受け取った。
残りの20両も1日も早く。・・・少しでも送って欲しい。」
◆参考資料
「歴史人」創刊号・・清水昇文責

 ・5月16日付 河原右京宛の真田昌幸書状
「真田信之と河原綱家(★昌幸正妻の兄の子・昌幸に歯をかかれた)
 が高野山を訪れ、昌幸を訪問し、上田に帰国した。河原は高野山
 で用事を済ませ、遅れて帰国した。」
・真田昌幸は病気がちになり、真田昌幸は真田信之・浅野幸長を
 通じて徳川家康に赦免を繰り返した。
 一時、本多正信は家康に手紙を披露するまでいった。
 真田昌幸は上田に帰れると期待したが、・・・・
 徳川家康は真田昌幸を許さなかった。
・真田昌幸は赦免の希望も失い、病気は進行した。
国元に駿馬を送ってくれるように依頼した。
◆参考資料
   【大いなる謎 真田一族】平山優著
  「歴史人」創刊号・・清水昇文責
  【真田幸村がよく分かる本】:押鐘太陽著
 【真田三代】:平山優著 P260~263



【4】 高梨内記
「真田丸」では「真田家忠臣」・・・忠義者ベスト3
@矢沢頼綱&子:三十郎
 矢沢頼綱(真田昌幸も叔父:沼田城の大黒柱に抱きついた)
 →矢沢三十郎(犬伏の別れで歯をかいた。)
 
A河原綱家・・・
 綱は真田幸綱の「綱」である。
・河原綱家は「 犬伏の別れ」で歯をかいた。
・史実では河原綱家は「 関ヶ原の戦い」では、大坂留守居役を
  務め、真田屋敷にいた山手殿(真田昌幸妻)を救出するとい
  う活躍をした。
 ★下野にいなかった。

B高梨内記
「真田昌幸の死・・・自害しようとしたが、止められた。」
三谷脚本は高梨内記を忠臣と描いた。

「 真田家臣の中でも異常な忠義の士」
信濃高梨家は越後長尾家と3代に渡り、血族結婚に近い従兄弟
同士の結婚があった氏族である。
その中で、真田信綱の正妻の高梨家の人質になったが、高梨内
記であった。真田信綱・昌幸のの義理の叔父ということになる
★おそらくは、真田昌幸の兄の直属家臣から、真田昌幸付きに
なったのであろう。高梨内記は真田昌幸と信繁に人生の全てを
捧げた真田家の忠臣中の忠臣であった。

インターネットでは「きりはウザい」が多かった。

【5】明石掃部守全登(あかしかもんのかみてるずみ)
「真田丸」では慶長19年(1614)大坂城からの使者:明石全登と
なっていた。
※明石全登(たけずみ・でるずみ景盛・守重)・・・
 母は宇喜多直家の異母妹→

 宇喜多直家の子:宇喜多秀家
関ヶ原の戦いで、 西軍に味方した宇喜多秀家の軍8,000名を
 率いて先鋒を努めた。善戦したものの、小早川秀秋の裏切りで
敗戦した。
・・・・・・浪人になった。
熱心なキリシタンであった。 
明石全登の洗礼名は「ドン・ジョアン」と言われている。
明石家の一族であったキリシタン大名の黒田官兵衛(如水)に
拾われ、子:黒田長政の家臣となった。
しかし、黒田官兵衛の死後、黒田長政が徳川家康の命により、
キリスト教を禁じたため、明石全登は、追放され再び浪人とな
った。
豊臣秀頼が徳川家康と戦うために関ヶ原の合戦で大量に
発生した浪人を集めていた。
明石全登は豊臣秀頼はキリスト教の信仰を許可していたので、
バテレン追放令に苦しんでいたキリスト教徒2000人を率いて
大阪城に入城したそうである。
関ヶ原での功績が認められ、真田信繁とも知り合いであることから、
真田信繁説得の使者に選ばれたのであろう。


大野治長説もある。
「真田幸繁は大野治長の屋敷に泊まったからである。」

「真田丸」では、真田信繁、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親
明石掃部頭全登である。





●▲■【6】 『真田丸第40話「幸村」』のあらすじ
真田幸繁は豊臣と徳川の対戦が迫り、豊臣方の将として誘いを受けた。
信繁が、大きな決断を迫られる。
九度山の生活を楽しんでいた信繁の元に、宇喜多秀家の家臣だった
明石全登が訪ねてきて・・・、


◆ナレーター
「昌幸の死後、・・・真田紐を・・・九度山で(貧しいながらも家族や
 家臣たちと幸せに平穏な日々を過ごしていた。
 苦しい生活が続く。その幸繁の前に明石掃部頭全登が・・・」

●九度山
信繁の前に大坂城の豊臣方の使者として、明石掃部頭全登
が現れた。
「真田」
「元宇喜多秀家家臣の
明石掃部頭全登です。・・・お迎えにあがりました。」


きりは宴会中に食膳を運ぶ。・・・きりが不安そう
「どいううことだ。」
「大坂にきて・・・一軍の采配をふるって欲しいのです。」
「敵は徳川家康。・・」
「お断りする。」

※明石全登は九度山で流人として生活している信繁に対して、
「豊臣秀頼の家臣となって大坂城に入り、徳川家康と戦ってほしい。」
といわれ・・・。

「何故?」
「私はとらわれの身・・・御断りする。では」

信繁は全登の誘いを断るが・・・、
「おうていただきたい方だおります。」

5人で踊りまくっている。
きりが不安そう。
・・・大坂方だし・・・




●沼田城
信之「大坂がきな臭くなってきた。・・・」

信之「家忠公が江戸にこい。とある」
三十郎「戦ですか?」

信之「手が滑った。・・・」
手を見る。・・・
信之「すぐに出立の支度じゃ・・」

手を見る。・・・



●九度山
豊臣恩顧の片桐且元が現れる。
片桐「真田左衛門佐様、・・・」
幸繁「片桐殿・・・」
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且元は現在豊臣家が窮地に陥っている現実を信繁に伝える。

且元「では、かいつまんで・・・」
幸繁「その前に私はここを離れるつもりはありませに。」
且元「せっかく来たのだ。・・・・話だけでも聞いてくだされ
    ば、ありがたいのだが・・・。」

◆回想&ちゃら
@大谷・石田だ死に・・・

A勝頼
勝頼は植えた??を見て「またおおきくなったな。」
気づいたら、秀頼公の家臣はワシだけになってしまった。


B秀吉公の17回忌・・・・・・

徳川家康「死者の供養は・・・

「在仏殿・・・つて」

***
幸繁「読めた。大坂城に・・・秀頼公に金を使わせる。・・・」

南禅寺の『清韓』に頼んだ。・・・・

秀頼確認

「大御所・・・」

且元「別の・・・・」

文章の書き直し・・・

せいあん「あり得ぬ。」
******
「これには趣向があります」
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「国家安康」・・・家康の間を開けている。
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「君臣豊楽」・・・豊臣を豊に楽しむとも読める
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*************************
●文英清韓(そうかん)
慶長19年(1614) 方広寺鐘銘事件
4月、片桐且元に命じられ京都方広寺大仏殿の
再建工事において梵鐘の銘文を起草した。
銘文に不吉な語句があることを徳川家康は問題視し、大仏開眼
供養の中止を求めた。
8月 片桐且元・文英清韓は駿府へ弁明に向かい、清韓自身は
 家康の諱を祝意として「かくし題」とした意識的な撰文である。
 (「国家安康と申し候は、御名乗りの字をかくし題にいれ、
 縁語をとりて申す也」)と弁明している。
 五山の僧の答申はいずれも当時の諱の扱いに対する常識や礼
 儀として問題視し、諱を避けなかったことについて五山僧
 から非難されている。
 方広寺鐘銘事件は、豊臣家攻撃の口実とするためのものだった。

@徳川家康が南禅寺金地院(以心)崇伝らと画策して問題化させた
 との通説であった。
A近年の研究では問題となって然るべきものと考えられている。
事態は鐘銘問題から徳川家と豊臣家との対立に発展し、大坂の陣
の遠因となった。
 (★ウィキペディアより)
大野修理治長の母親は、茶々の乳母:大蔵卿局でという説
大野治長が豊臣秀頼の本当の父親であるという説
がある。

*****************************
2ヶ月後、・・・
「開眼供養・・・」

「呪詛・・・国家安康。・・・・

秀頼「理屈はとうららない・・・」

秀頼 「供養は来月じゃ・・・」

片桐「・・・」


片桐「おかみ様に御相談する・・・」

から切り「お茶々様で」


●駿府城・・・
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片桐・・・
1月粘っても、・・・・

駿府「信じて織ったからではないか?・・・」
「重大な侮辱である。・・・」


1月粘っても・・・

大蔵卿が大御所・・・・・・


家康「・・・無学の且元が・・・・
    
且元「本多正信様より・・・3ヶ状を・・・・」

・・・本当は本多正純様はそこまで言わなかった。・・・・」


大坂城会議・・・
大蔵卿「・・・正純様に・・・
うそだった。


大蔵卿「貴方が考えたのですか?・・・・」

大野治長「・・・徳川に寝返るために・・・

茶々「・・・そのような策を立てる知恵と度胸はない。・・・
   ・・・」
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延期が決まった。
大野治長「・・・この責めはおうて貰いますぞ。」

大野修理たちが暗殺を企んでいると分かった。


・・・
片桐「・・・答えは一つ。大坂城をさった。
   ところが、さらに・・
   秀頼様から追放・・・家康様は徳川から手切れと
   思われれてしまった、・・・


●駿府城
家康「大坂攻めじゃ。」




秀頼「徳川が攻めて来る。」
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片桐「戦の府だけ・・・」

幸綱「・・・家康はこうなりことをみこうしていた。」

片桐「・・・明石もその1人、・・
明石「・・・」
片桐「・・・」

***************************
方広寺鐘銘(しょうめい)事件によって、豊臣家は窮地に立たされ
た。豊臣家と徳川家の仲を取り持ったのが片桐且元であった。
徳川家の策謀(諸説あり)によって豊臣家中から徳川家への内応
を疑われ、豊臣家から改易を言い渡されて豊臣家を去った。
「真田丸」では身を引いた。・・・・
徳川家臣:片桐且元を独断で処分した豊臣家に対して、徳川家康
は征伐することを決定した。最後の最後まで豊臣家のために奔走
した片桐且元は、皮肉な事に豊臣家を滅亡へと導く大坂の陣の引
き金となってしまったのである。
方広寺の鐘銘を巡って豊臣と徳川は一触即発の事態となっていた
のである。
真田幸繁はかつて大きな恩を受けた豊臣家の苦境を知ったが。

断った。理由
1大軍を率いて戦ったことはない。
2私はとらわれ身だ。
3戦はそれほどすきではない。

片桐「まげて頼む。」

幸繁「左衛門の佐は死んだ者とお思いいくだされ。ごめん。」

片桐「左衛門佐・・・」




苦悩する信繁・・・・・

幸繁 「まだ起きていたのか?」

きりは・・・

きり「誰と会っていたの?・・・宇喜多秀家様の家来:明石様
    ガラシャ様のところで時々お会いした明石様・・・」

事情を話す・
「・・・まもなく、徳川が秀頼様を攻める。・・
 豊臣に加勢を頼まれた。」

「いつかこんあなほ日が来るとおもっていた。
 行くの・・・」
「断った。行きたいと思った。・・もっと大事なことがある。」

きり「行きなさいよ。」
幸繁「茶々様がいる。」
「驚いたな」」

「なんで?」

きり「大事なのは貴方を来てほしい・・・
   だれかがもとめている人がいるんでしょう
   だったら」。・・
幸繁「・・・何ができるというのだ。」
きり「・・・   
   真田安房守昌幸は徳川とたたかって2度勝った男・・・
幸繁「でも、大軍を引きいたことがない。」

きり「誰も疑うものはない。・・・後ははったりよ・・・

幸繁「私はここで幸せだ。」
きり「大事なのはだれかが貴方を求めていること・・・」
  
きり「何を残したの?・・・生きてきた証し1つでも残してきた。」
@聚楽第・・
A沼田で
B小田原城・・・なんとか官兵衛様がしたこと。
何の役にも立っていない。・・・

幸繁「うるさい」
きり「・・・私の大好きな真田源次郎はどこにいったの?・・・・」

幸繁「うっとうしいんだよ。お前は・・・」

きり「もう言わない。言わない。2度と」

幸繁「きり。・・・礼をいう。」
と源次郎は感謝する。
きりが涙を流す。
★きりがうざい女でなくなった。頼りになる口五月蠅い
 女になった。
 長澤まさみがやっと可愛い女になったのかも・・・。
画像




◆幸繁の回想・・・
@秀吉
「秀頼のこと頼む。・・・・」
「」
A茶々
「割と好きな顔・・
 ・・・不思議な糸で結ばれている。・・・
 離ればなれになっても同じ日に死ぬ」
B石田
「」
C信之

D昌幸
  大ばくちや。・・父の「遺言」

・・・

E上杉景勝「・・・己に」

F北条氏政

G千利休「・・定めや」

Hルソン助左衛門「・・」

Iこう 「・・・」

J出浦「優しすぎますなあ。」

*風鈴がなる。
K母:薫「己の定にくずくかくずかぬか?見ているぞ・・」

風林がなる。

●習字

「天下一統」

「手伝ってくれ・・・」
と畑仕事・・・

★これもまた、優柔不断の延長と思わざるを得ない。・・
懸け井の水・・・ぽゆあぽちゅ・・・
 →寺の梵鐘の音
 →鳥のさえずり・・・
 寺の梵鐘・・・
 懸け井・・鳥の声・・・

里芋畑・・・・
「大助・・」
「にて食べると旨いぞ・・・」

大助「残しておかないでいいのですか」

幸繁「新しい名を名乗ることにした。・・
  幸は・・・残りの一文字じゃ。お前に決めてもらう。」

大助「くじできめるのですか?・・・」
大助は・・・
「大事なことだからくじで決めるのじゃ。・・・さあ。大助。」


人生最大の選択を迫られた信繁は嫡男:大助にくじを引くよう
迫るのであった・・・

「大助、切りわけて・・・一つこのなかへ・・・」

大助が小柄で紙を切る。

大助は探す。
「決められません。」
「どれでもいい。」
「選びました。」
渡す。
「村」の字
「九度山村に村」
「村幸」・・・
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「真田さえもんのすけ幸村、いい名だ。」
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◆ナレーター
「その日、信繁は真田幸村とまった、・・
 ・のち、最後の日の本一の武将:真田幸村の誕生である。」


★あ〜あ、ブログの原稿書きはめんどくさい。
ボケ防止だと思ったのに、・・・・急がし過ぎる。
@地元に長野氏関係・・・
A「真田丸」関係・・・
B静岡の城が井伊谷に到達した。
「井伊直虎・井伊直政関係」は30日分はあろうか?
でも、
介護と看護・・・
趣味の園芸・・・
村の仕事・・・・
とても「高崎学検定」・「世界遺産検定」などの勉強など
している暇はない。これでいいのか?・・・

★明日は?・・・

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