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zoom RSS 箕輪初心:生方▲遠江【金谷城?→諏訪原城→牧野城】武田・徳川の遺構が残る城

<<   作成日時 : 2016/10/01 10:25   >>

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・永禄12年(1569) 武田信玄が金谷台地に諏訪原など五砦を構えた
のが最初とされる。諏訪原城は武田信玄が徳川領遠江攻略の城とし
て築城した城である。武田の守護神:諏訪大明神を城内の一角に祀
ったことから、諏訪原城と呼ばれたそうである。武田信玄と徳川家
康の激しい攻防が繰り広げられた。天正3年(1575) 諏訪原城は落
城して、徳川家康の城となった。徳川氏時代には牧野康成がいた
ためか「牧野城」と呼ばれた。天正10年(1582) 武田氏が滅亡す
ると牧野城の存在意義が薄れた。現在は甲州流築城術の丸馬出や
三日月堀・枡形虎口などの6ヶ所の遺構も残っている。国史跡に
指定されている。
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@平成21年:2009年
1)9月24日
9/22(火) 
・高崎・・・関越・・・圏央道・・・中央道・・・大月JC
・・・須走IC・・・御殿場
@御殿場:深沢城・・・A沼津:興国寺城・・・
Bダイビング@大瀬・・・雲見:松原荘 上の山城
9/23(水)  
ダイビング@雲見:牛首・・・A雲見:コリンズP・・C雲見:黒崎・・
E松崎町・・・中瀬邸など   
・堂ヶ島の夕日  
※三島駅前・・・昭明館(泊)5250円・・
2)9/24(木)  
F高天神城・・・G掛川城・東海道:掛川宿・・
H東海道:日坂宿・・・高札場・本陣
●小夜の中山 ●東海道:菊川の石畳   
J諏訪原城・・K東海道:金谷石畳上下。
L東海道・金谷宿・・M東海道:大井川の渡し+島田宿  
M東海道:宇津の峠&岡部宿
●駿河巧宿(現代風) 
N丸子城・・O東海道:丸子宿・・・
P東海道掛川宿・Q日坂宿
R諏訪原城




■訪問日・・・@平成21年(2009)9月24日 
東海道掛川宿・日坂宿を後にし、国号1号線を東京方面に戻ると、
 いきなり「諏訪原城」の看板が出た。「何、諏訪原城」・・・。
緊急右折で300mか。入り口発見。駐車場は20台程か?
榛原郡金谷町菊川字城山・・・
今は島田市金谷


●歴史読本2009年五月号には・・・
1位:高天神城・2位諏訪原城・・・で、わくわくものだった。
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 (★戦国の城:見崎鬨雄氏作成)


@駐車城・・・牧ノ原台地に面する西側から入ったので、平城か
 と錯覚した。。
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説明板・・・諏訪原城は牧ノ原台地の北東に位置し、東方に
 大井川が流れる台地の上に築かれていた。
諏訪原城は大代川と菊川との間に南北に伸びた台地の上にあり、
 台地の東端部が突き出した所に築かれている。
 
武田はどうして、こんな所に最前基地を 造ったのだろう?
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A大手郭・・・比較的高低差の少ない山城なので歩きやすい。
 徳川時代
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B11号堀
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11堀〜馬場



C馬場跡
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D乾曲輪
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E堀
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C三の丸・・・現在、城跡は雑木林と茶畑。
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 発掘調査中の????

G2号堀を越える。
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H二の丸から本丸・・・・標高200m余り(比高は約150m)で
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北〜東側は急斜面。
I5号堀
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H本丸馬出・・・
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I本丸
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東海道を歩いている御夫婦に会った。10分ほど話した。
J天守台・・・・
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J搦め手口
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K16号の外である。 
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・本丸の周り・・・外の大堀・・・これはでっけえ。
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・本丸の南東の角・・・・
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M井戸
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N水の手曲輪
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O三の丸
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P4号堀&土橋
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Q土橋・・・

R諏訪神社・・・「諏訪原城」の名前の由来
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S大手口
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21堀&大手口
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■見所・・・本丸・二の丸・三の丸・大手郭・帯郭・西の丸
・搦手・亀甲曲輪の八郭からなる縄張りを見よう。
空堀・曲輪・井戸など9割の遺構がほぼ完全な形で残存。
自然地形と人工の大小の堀が、三日月堀を含めて13。
 丸馬出しを多用した武田流築城法が見られるのだ。
・・・一周約30分〜45分。

●金谷高校
●島田高校・・・大学の後輩:増田の高校だな?
元群馬交響楽団のホルン奏者阿形さんも島田高校だった。


諏訪原城の歴史
・天正3年(1555)  長篠・設楽ヶ原の戦い

・永禄3年(1560)  桶狭間の戦い・・・・
  今川・徳川  VS   織田

◆◆ 織田信長@尾張のうつけ者時代 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201206/article_1.html

◆◆ 織田信長A桶狭間前哨戦 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201206/article_2.html

◆◆ 箕輪初心★【織田信長B桶狭間〜清洲同盟】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201206/article_3.html



・永禄12年(1569)
駿河・遠江を領していた今川氏真が武田信玄と徳川家康に
 挟撃され滅亡した。
 駿河は武田信玄に、遠江は徳川家康の所領となった。

 武田信玄が金谷台地に五つの砦を築城した。
 11月 「金谷城」を築城した。
(★『武徳編年集成』)
  金谷城が諏訪原城かどうかは断定できないが、
  武田信玄は馬場信春に命じて諏訪原城か元になる
  城を築城開始した。

  武田と徳川は間もなく争うようになった。

・元亀元年(1570) 武田信玄は今川氏真の支城の
  花沢城・田中城(藤枝)→今川方の西駿河諸城を攻撃。
 2月→花沢城,徳之一色城(田中城)を開城。
            
  徳川家康は居城であった岡崎城を長子:信康に譲り、
  曳馬城(浜松城)に入城。

・元亀2年(1571) 武田信玄は遠江南東部の高天神城を攻撃した。
武田信玄は落城させることができず撤退した。



・元亀3年(1572)武田信玄は諏訪原城・小山城の築城に着手した。
  
 武田信玄は徳川家康の城にに大攻勢をかけ、二俣城などの
  遠州諸城を落とし、浜松城に肉薄した。
 武田信玄は浜松城が堅固な守りであることを知ると西に進軍。
 
 徳川家康は
 「庭先を踏みつけられて見過ごすは弓矢をとる者の恥だ。」
 と語った。
 徳川家康は浜松城から討って出た。
 ▲三方ヶ原の戦い
 武田軍25000  VS   家康11000+織田信長の援軍3000  
    結果・・徳川家康が× 浜松城に撤退。

・元亀4年(1573) 4月(5月)武田信玄は病死した。
   武田勝頼が跡目を継いだ。
   武田勝頼も遠江の獲得を目論んだ。

・天正元年(1573) 天神城の攻略を目指す武田勝頼は、
  普請奉行馬場信春、補佐を武田信豊に命じ、
東海道沿いの牧之原台地上に城を築かせた。
   (★『甲陽軍鑑』)
  諏訪原城は牧之原台地の突端部を利用し、三方は牧ノ原
  台地の断崖となっている。
甲州流築城術の特徴:丸馬出&三日月堀が5ヶ所あり、
  枡形虎口などの遺構も残っている。
  前面の巨大な空堀が断崖へと続いている。
  高天神城に向けて戦闘正面を強化した構造となっている。   
  諏訪原城を築城説? 改築説?・・・・。
  馬場信房が城代になった。
  在番として今福友清(淨閑斎)・子の今福丹波守顕倍が守った。
  室賀・小泉も寄騎していた。
   
  諏訪原城・小山城・田中城・相良城などが大井川西岸の防衛
ライン及び高天神城への補給線を確保する重要な拠点となった。
  徳川家康の遠江から防衛ライン・徳川への攻撃ラインとなった。
 
  武田勝頼は、父:信玄の意志を引き継ぎ、駿河攻めから
  遠江に侵攻した
 徳川家康の軍勢と雌雄を決する戦いを挑んだ。

・天正2年(1574) 武田信玄は小笠原長忠のいる高天神城を
  攻撃した。武田氏の手中としている。

・天正3年(1575) 武田勝頼と徳川家康で激しい戦いが
  繰り広げられた。

5月、長篠の戦い
 長篠合戦では牧野康茂は酒井忠次に附けられ、鳶ノ巣山を
 攻めた。


 武田軍が織田徳川連合軍に大敗した。
 徳川家康は三河・遠江の武田勝頼の城の攻略に乗り出した。
 
7月 徳川家康は諏訪原城に攻撃をしかけた。
 徳川家康が諏訪原城を攻略するために火剣山砦跡を築いた。
 1ヶ月半余りの攻防戦が繰り広げられた。
今福友清(淨閑斎)・子今福丹波守顕倍が守った。
  室賀・小泉も寄騎していた。
8月 武田氏の諏訪原城が落城。
   城主今福浄閑斎が討死した。
   残った城兵は夜半に紛れて田中城に逃亡して落城した。
  
  諏訪原城は徳川家康の城となった。
  酒井忠次は諏訪原城が武田軍に攻められやすいと考え、守将
  に名乗り出た。
  徳川家康は酒井忠次・牧野康成と共に諏訪原城、後の牧野城
  を守らせた。
  酒井忠次の娘が牧野康成の正妻になっていた。
  ★東三河の国衆の牛久保城主:牧野康成が諏訪原城代に
  なったことから牧野城の呼称になったと考えられる。

徳川家康は諏訪原城を拠点に武田勝頼軍の動向を監視・牽制を
  続けた。
  徳川家康は高天神城への大井川沿いの補給路を封じたことで
  戦いを有利となった。
駿河進出の拠点となった。

・天正4年(1576) 3月17日付 徳川家康判物
  →松平甚太郎(東条松平家忠)・同周防守宛て
  「牧野城番、其方相添依申付」
   (★「徳川家康判物」・「家忠日記」)
  

・天正6年(1578)
5月10日 遠州牧野松平甚太郎(牧野城番)となった。
8月7日 牧野城が、松平甚太郎から西郷孫九郎家員に番替えとある。
8月8日 深溝松平主殿助家忠が、牧野城の堀普請を開始、
8月20日 牧野城の堀が完成。
徳川家康は堀や丸馬出しを更に増強し、大手曲輪も築いた。
  東海道に近づいた縄張りになった。

・天正7年(1579)
3月7日 西郷孫九郎家員に代わり、松平家忠が城番となった。

※天正7年 徳川家康は持船城を攻めた。
 牧野康茂は家中の多くが討死しながらも、牧野勢が一番乗りを
 果たした。


・天正8年(1580)
4月18日 西郷家員に代わり、松平家忠が牧野城を守る。
(★「家忠日記」高崎経済大学図書館所蔵)による)
5月 徳川家康は駿河田中城を攻めた。
   牧野康茂は浜松城へ戻る際、石川数正の後殿となった。
   武田方の朝比奈信置は牧野康成を攻めた。
   牧野康成は石川数正と共に朝比奈勢の攻撃を防ぎきり、
   遂に撤退させた。

★城番変遷
(松平甚太郎→西郷家員→松平家忠→西郷家員→松平家忠)
松平康親、牧野康成は、牧野城の城主ではなく、牧野城の城番衆
の一員であった可能性が高い。


 
・天正10年(1582)  
  織田信忠・滝川一益の甲斐侵攻
  群馬:岩櫃城:真田昌幸「岩殿城より岩櫃城・・・。」
      →武田勝頼の新府城の放棄・・・

 3月11日 武田勝頼の自害。
  ・・・・武田氏滅亡。
  
天正壬午の乱
  駿河の武田遺領は徳川家康が領有した。

  牧野康成は諏訪原城→駿河興国寺城→伊豆柾戸城→駿河
  長窪城と諸城を在番し、徳川家康の東海道平定戦に寄与
  した。
   徳川家康にとって諏訪原城の諏訪原城の役目も終わり
  存在意義が薄れてきた。

・天正13年(1585) 徳川家康が浜松城より居城を駿河城に移
  して築城した。


・天正18年(1590) 徳川家康が関東へ転封となった。
  廃城となったと推測される。
牧野康茂は大胡2万石の城主になった。

・慶長10年( 1505) 三河国吉田城の築城に伴っての
  牧野城の廃城説もある。


◆参考図書
・戦国の城:
・廃城をゆく:余湖さん・チエゾーさん・埋もれた古城さんなど
・家忠日記:高崎経済大学図書館所蔵
・現地案内板
 など多数。

◆参考サイト











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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
何時もお世話になります
もう少しで井伊谷にたどり着きますね、楽しみです

>>天正3年(1575) 武田勝頼と徳川家康で激しい戦いが繰り広げられた。

実は近くに長篠へ出陣していった、上野武者の子孫がおりました。先日知って思わず書き込みしました。

以下に記事を載せましたが、幼馴染だった。
http://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E5%89%A3%E5%B4%8E%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%9F%8E

またお邪魔させてください ではまた
棟治
2016/10/01 23:10
こんにちは。上記のアドレスで、行けませんでした。
後日、教えてください。
棟治様へ
2016/10/02 04:50

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