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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸114【第35話「犬伏」】&史実&ちょっと唐沢山城

<<   作成日時 : 2016/09/05 07:46   >>

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先週、HNKの宣伝で「クライマックス」という言葉がPRされ
ていた。確かに「犬伏の別れ」→「第2次上田合戦(父子・兄
弟対決)」→「昌幸・幸繁の九度山配流」という流れは真田家
の最大の山場である。徳川家康は直江状をたたきつけられて、
上杉景勝を豊臣秀頼の命令で討伐するため、会津に向かった。
下野:犬伏(佐野市)で石田三成から決起の書状を受け取った。
真田家親子3人は、激論を戦わせたと言われている。「真田丸」
での会話は真実ぽかった。まるで史実のように思えてしまった。
スタッフの力が入っていたのであろう。
真田昌幸・信繁は石田三成の率いる西軍に、真田信幸は徳川家
康の率いる東軍へ味方することを決め、親子兄弟が別れること
になった。
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(★現在の佐野市犬伏新町の「新町薬師堂」)
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箕輪初心◆豊臣秀吉の死〜徳川家康の小山評定〜関ヶ原の戦いへ
http://53922401.at.webry.info/201312/article_14.html

箕輪初心:生方▲真田丸23【沼田正覚寺】信之の妻:小松姫の墓
http://53922401.at.webry.info/201601/article_26.html

箕輪初心:生方▲真田丸105【2016年8月3日「沼田まつり」前編】
稲役:吉田羊登場
http://53922401.at.webry.info/201608/article_7.html

箕輪初心:生方▲真田丸106【2016年8月3日「沼田まつり」後編】
http://53922401.at.webry.info/201608/article_8.html





◆ナレーター
「@徳川家康は上杉景勝のいる会津に向かった。
A石田三成は徳川家康がいない隙に・・・・
B真田昌幸は?」


●大坂の真田屋敷
信幸「上杉に味方します。」
幸繁「父上と私は上田に帰らなければなりません。
    兄上は沼田に帰ります。」

薫「こちらを離れるのですか?・・・」
昌幸「明日、出立する。・・・真田が上杉についたと知れば、
   そなた達に危険が及ぶ。 ・・・」

薫「・・・・・・」
昌幸「大坂には豊臣の息のかかった者が多い。
    ・・・大坂を脱出せよ。」・・・

春「父はどちらにつかれるのですか。・・」
昌幸「刑部殿は徳川に近い。・・・」

信幸「私は徳川に近い。」

幸繁「きり、父上を頼む。」
きり「はい、任せてください。」

春「私が母上様を守ります。・・・心配は入りません。」
きり「私がいます。・・・」

春「きり様は細川様の屋敷にいらっしゃるのでは・・」
きり「こっとの方が大事。向こうはしらばっくれちゃいます。」
★相変わらず、現代風だこと。・・・

稲「わが父から・・・書状が届きました。
  内府様を・・・
  真田之の動きを報告せよ。・・・」
昌幸「」
稲「稲は真田伊豆守の妻でございます。
  ・・・徳川には知らせません。
昌幸「よう言った。立派な真田の嫁じゃ・・


●大坂城
桃の木・・・
片桐「桃が大きくなったのう。・・・」?
  左衛門佐(幸繁)・・
  石田様の思いが、伝わってくるのう。・・・」

幸繁「北政所様」
お寧「・・・左衛門佐、久しぶりじゃのう。・・・」


お寧「きりは達者かね。・・・
幸繁「はい、・・・です。」
お寧「戻ってきたら。なんぞ、ちそうしてあげましょう。・・・」

幸繁は大坂城を見上げた。
※回想「お主が真田安房守の倅か?秀吉じゃ。」
と初対面のころを思い出す。


●会津城
景勝「家康の動きはどうなっている?」
直江「江戸に入ったようです。・・・

直江「・・・10万・・・

景勝「勝てるか?」

直江「身分にかかわらず、・・
景勝「いやがる者は逃がして家に帰らせよ。」

●江戸城
家康「お前は先にゆけ、・・・ワシはゆっくりついてくる。」
秀忠「はい、・・」
家康「本多佐渡守をつけてやえう。・・・数万の味方を得たも
   同様・・・・。」
正信「この通り、老いぼれじゃ。足を引っ張らぬように
   こころがけまする。」

そして、秀忠の部屋〜〜〜〜
秀忠「気持ちががなえた。
    父上は私を信用していないのだろうか?」
江「・・・しっかり、御心を持って、・・・」
とハッパををかける


◆ナレーター
「秀吉の妻:茶々の妹である。」
 「大谷吉継は美濃の垂井まで来ていた。・・・ 」

●大谷の垂井の陣
??「石田治部はここへ」

石田「・・・我らに同心願いたい・・
大谷「勝てると思っているのか?
石田「わかりません。しかし、やらねばなりません。
   お年寄り衆は3人しか残っていません。・・・
前田利長様も徳川にしっかり骨抜きされてしまいました
  お命、私に預けては貰えませんか?

大谷「今日は遅い。泊まっていかれよ・」
大谷吉継は石田治部とも大の仲良しだったが、徳川家康とも
 良好な関係を築いていて、豊臣を徳川中心の政権にしたい
 と思っていた。
 大谷吉継は石が三成の短所も熟知していた。また徳川家康の
 偉大さを知っていた。と言われている。
 そして、大谷吉継は石田三成だけでは、徳川家康に勝てないと
 悟っていたという。・・・大谷吉継は中間派に近いので、
 大谷吉継もまた、苦渋の決断を迫られた。
******************************

そして、真夜中
咳き込む・・・病が悪化?
大谷「ワシはあの男はくるのを待っていたのかもしれんな」
と独り言・・・

大谷「治部をよべ」

大谷「勝てるかどうかわからぬでは、命を預けるのはいやだ。。
   ・・・・戦うなら、勝つ。この位の気概なくして
   どうする」・・・

大谷「秀頼様の命(命令)を撤回させる。・・・
徳川内府が勝手に起こした戦さにするのじゃ、・・・

大谷「・・・
   泣いている暇はない。・・・
   ワシがお主を勝たせてみせる。

●上田城
昌幸「待ちに待った??・・期が来たぞ。内記」
   まず、家康の首をとる。・・・
高梨内記「いよいよ大願成就ですな。・・・」

村人「・・・おらあ、百姓のままでいい。畑を耕したい。」
堀田「・・・刀狩りで、戦はないと思ったが、また、戦に
    でようとは思わなんだ。・・」

佐助?からの報告
  真田の面々が聞く。
??「石田様と大谷様が大坂城に入りました。・・」

●大坂城
石田と大谷が中心になって、会議を進める。
宇喜多秀家・小早川秀秋はいる。
石田「まずは伏見城をせめる。」
★伏見城は徳川家康は居城として使っていた。
石田「伏見城攻めは小早川様にお願いしたい。・・・
  この一戦にかかっています。」
小早川「・・承知した。
    おのおの方、・・・」
エイエイオー・・・・と気勢をはく



●大坂の小早川金吾中納言屋敷
小早川「伏見城を攻めるのか?・・・」
と気が重い。
江雪斎「・・実は拙僧は、徳川家康様の密偵でござる。・・・」
★板部岡江雪斎は北条氏政の軍師→徳川家康の家臣・・・
 小早川金吾中納言秀秋の顧問のふりをしていた。
江雪斎「徳川に・・・」



◆ナレーター
「石田三成は大坂にいた大名の妻子を人質にするよう触を出した。
徳川家康の妻:阿茶局は逃げていた。」

●大坂の大谷屋敷
大谷「真田の動きはどうなっている。」
春「上杉様を攻めるようです。」
大谷「裏切るのか?」
春「いえ、表かえると言っていました。・・・」
★大谷?????なんじゃそれ


●大坂の真田屋敷

薫「人質になるのですか?・・・」

稲「・・・早くしてください。逃げるのです。」
??「どこに・・・」
稲「沼田に決まっているでしょう。」

「煙が見える。細川様の屋敷の方角じゃあ。」
きり「佐助・・・」

●細川屋敷
きり・佐助は細川屋敷に行った。
火事が迫っていた。
きり「何をなさるのですか?もう。」
玉ガラシャ「人質に出るようなら、人質になってはならぬ
       と忠興様がお命じになりました。」
きり「自害でもしちゃえば、いいのに?」
玉ガラシャ「でも、キリシタンは自害してはならぬのです。」

きり「キリシタンが分からない?・・

きりが連れ出そうとする。・・・
「案外重い。」
火が回ってくる。
そこへ、石田の手の者?がやって来た。
きりと佐助はキリシタンの壇の中に隠れた。


玉ガラシャは障子の内側に座った。
家臣「奥方様・・」
〜〜〜〜障子〜〜〜〜〜〜〜〜〜
玉ガラシャ「頼みます。・・」
「御免。」
廊下から家臣が槍をつく。
玉ガラシャにグサッ・・・・・


●江戸城
家康「石田治部と大谷刑部が大坂に・・・」

家康「気になる。・・上方の動き・・・
★この時は「上方という言葉は使っていないはず?」

●大坂の大谷屋敷
大谷「ワシは・・戦場に赴かん・・」
  「愛知寺があろう・・・」

書状をかく・・
石田「右筆はおらぬのですか?」
大谷「魂をこめて、私がかく・」

大谷が文面を考え、石田が代筆。。
大谷はすらすら文面を考える。
石田「ゆっくり、・・・」
大谷「・・・・内府、討ち取るべし、・・・」

大谷は黒印を押す。・・
大谷「治部・・この戦さ、勝った・・・」

大谷は倒れた。石田が抱く。


家臣「・・この者が細川屋敷に隠れていました。」
石田「この者は真田の者だ。縄をすぐに解いてやれ。」
して、ガラシャ様はどうされた?
きり「死にました。」
大谷「まずい。人質が死んだとなると、・・・」

大谷「真田に書状を届けてくれぬか?」
佐助「はい。」
大谷「何日、かかる。」
佐助「四日半で行けます。」


7月19日
@徳川家康は江戸を出発した
A宇喜多・小早川が挙兵した。


●大坂城
「いざ・・・」


◆ナレーター
7月21日
@家康 3万の軍勢で小山に到着した「」
A昌幸たちは犬伏に着いた。・・・

●犬伏
幸繁「・・・・」

佐助から密書が届いた。
「石田治部がこれをよこした。・・」
昌幸「伏見城攻めが始まっている。・・・」

昌幸「早すぎるわ。・・・」
と怒りを露わにする。
幸繁「・・・徳川が・・どう出るか?」
信幸「大戦さになる。」

幸繁「父上がどう出るか?」


昌幸が堀田に「ほかの者、近づけるな?」

3人の会議が始まった・・・
昌幸「2年〜3年・・いや10年は続く。
   上田城にこもる。・・・
幸繁「上杉様をどうなさいます。」
昌幸「一端上杉を忘れろ。
   徳川とも縁を切る・・・
   攻めてきた者が敵だ。・・・
 ・・・
信幸「その先は・・・」
昌幸「甲斐と信濃を手に入れる。どうじゃ。・・」

幸繁「片方が必ず勝ちます。・・・
   果たして父上の思いどおりのなりますか?・・
昌幸「勝った方がワシと戦う・・・」
信幸「・・・」
幸繁「夢物語は終わりにしてください・・」
と父に怒鳴った。
幸繁「徳川か豊臣か・・・どちらとも戦えません。
   どちらも何十万の軍を持っています。
   ・・・申し分けございません。」
昌幸「徳川は豊臣か・・・」

家臣団は気が気でならない。
内記「・・・覗いてこようか?」
堀田「殿が覗いてではダメだと言っておられた。」
河原「・・・それでは、ワシが行ってこよう。」
河原は「どうなりましたか」
入り口からのぞき・・
昌幸「あっちへ行っておれ。」
と下駄を投げつけた。
河原は顔をしかめる。
ぽろっと歯が落ちた。

ナレーターの説明がなかったので、・・・
★河原綱家は河原隆正の嫡子である。
 河原隆正の妹(河原綱家の叔母)は真田幸綱(幸隆)の
 正室である。
 つまり、真田昌幸にとっては、母の兄の子ということに
 なり、近い身内である。
高梨内記は娘が真田昌幸の兄:真田昌綱の妻である。
 つまり、真田昌幸の兄嫁の父ということになる。

昌幸「石田は大坂城を押さえている。」
信幸「徳川は
幸繁「・・・」
昌幸「石田・・・侮ってはならぬ「」

昌幸「選べ・・」
とくじを出す。昔やったようにくじ引きで決めようとする・・・

信幸「父上、こういうことはよしましょう。」
   私は決めました。・・・父上、・・・
   決めた。
   お前と父上は豊臣につけ
   私は徳川に残る。・・・」
幸繁「 敵味方になってしまいます。」
信幸「 別れるのじゃない。
豊臣が勝ったら、私は父上とお前を救う。
徳川が勝ったら、父上とお前が救う。
    あらゆる手段を用いても助ける・・・
   我ら親子3人が膝をまじえて、酒を飲める時が
    来るまで・・・
   たとえ、徳川・豊臣に別れても 真田は一つである・・
 
昌幸「ようは奇策である。」
信幸「・・・ 」
幸繁

2人で語る・・・・
幸繁「兄上、迷惑をかけます。・・」
信幸「俺は、徳川につく。俺以外つけぬ。俺にしかできん。
   「徳川相手にこと暴れ、したかったが・・・」
幸繁「・・・」
・・・
昌幸は酒を飲む・

幸繁「大事なのはその先は・・・}
信幸「婆様の言葉を思いだすなあ。」・・・
  わたしはいずれ、父上を・・・
  3人で飲めることをのぞもう。・・

幸繁「兄上・・・。」
幸繁は泣く。・・・
信幸は弟の肩を抱く。・・・

信幸「お前達は明日、・・・上田に向かへ。
    安房守が離反したことを徳川に伝える。・・」
    父上のことたのんだぞ。・・・」

信幸「韓信(かんしん)と父上はそっくりじゃ。
背水の陣・・・川を背にするすれば、敵を油断させられる。
  ・・・敵は戦さを放棄したと思い、油断した。・・・
   韓信は・・勝つための戦さをしてきた。・・・
第1次上田合戦の戦略を思い出している。
昌幸「馬鹿だな・・背水の陣など、もうできぬわ・・・
   皆が知っておる。・・・」
信幸「・・そうですな」
3人は笑った。
そして、酒を飲んだ。
昌幸は一度使った方法は全国にばれていると分かっていた。

★韓信はBC230年頃〜196年、三国志「劉邦玄徳」の参謀=軍師
 で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。歓心・・・

◆ナレーター
「これより、2ヶ月後、真田と徳川は戦うことになる。」

*****************************
真田ゆかりの地
1)犬伏・・現在の佐野市犬伏新町の「新町薬師堂」
「苦渋の決断でした。・・・」



2)唐沢山城
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●▲■史実編***********************
・慶長5年(1600)
【1】徳川家康の上杉景勝への会津攻撃の経過〜〜〜〜〜〜〜〜
▲丸島説・・・石田三成は豊臣秀頼への「取次」役をしていた
 が、徳川家康は石田三成を失脚させると、自分が「取次」役に
 なった。徳川家康が重用しようとしたのは、真田幸繁の娘の父
 「大谷吉継」であった。病気からちょっと復帰した大谷吉継は
 中立の立場であった。大谷吉継も徳川家康の中心の豊臣政権で
 はあるが、豊臣政権を維持できると考えた。徳川家康は顧問僧
「西笑」と通じて、大谷吉継や増田長盛を重用した。     


・慶長4年(1599)
8月 前田利長が加賀に、上杉景勝は新領土:会津に帰った。

1月 徳川家康は、各地の大名家に年賀の挨拶を求めた。
    上杉景勝だけは断った。
 
▲丸島説・・・徳川家康の顧問僧「西笑」

3月 越後:堀秀治、出羽:最上義光から、会津の上杉景勝に軍備を
   増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。
    
  上杉氏の家臣で津川城城代:藤田信吉が会津から出奔し、
  江戸の徳川秀忠へ
  「使者であった家臣:某を処罰しようとしています!
  その上「内府様(家康)に上杉景勝が謀反の気配があります。」
  と報告した。
  →徳川家康は上杉景勝の元へ伊奈昭綱を正使として派遣した。
  
  徳川家康は、釈明を求める手紙を上杉景勝に送った。

▲丸島説・・・徳川家康は顧問僧「西笑」と通じて上洛命令
を送らせた。
 上杉景勝の重臣:直江兼続が『直江状』と呼ばれる書簡を返書
  として送ってきた。
偽作説が主流だったが、筆致や紙質から近世初期の写しが
存在し、・・・原本が有ることは間違いない。加筆があるかも
しれないが、大筋で信頼してよいだろう。


〜〜〜〜▲直江状〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  
上杉景勝の重臣:直江兼続が『直江状』と呼ばれる書簡を返書
  として送ってきた。
「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので、
 釈明の必要もない。軍備を進めているのは東北の大名に対する
 備えをしているだけだ。そちらは京都で茶器でも集めているん
 だろうが、こちらは田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思っ
 ている。だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをしていたくせ
 に、人に違約違反を言うのはおかしい。前田家をお仕置きした
 らしいが、大層なご威光だ。あらぬ噂を真に受けて汚名を着せ
 ようというのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもか
 かってきなさい。」という勇ましいものであったそうだ。 
     
■徳川家康に堂々と挑戦状を叩き付けた有名な「直江状」
★平成21年(2009)夏・・新潟県六日町の博物館で公開。
★平成21年(2009)春・・長浜城博物館企画展でも公開。
 直江状については様々な説がある。しかし、
 「関ヶ原の戦い」 の引き金になったことは確かである。

    
★徳川家康は激怒しまくった。
徳川家康 は、「上杉家の謀反の疑いはもはや確実、討伐する
 ために出陣する!」と会津征伐を宣言した。
徳川家康に後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜された。
豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石を下賜された。
 →これにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は
「豊臣の忠臣:徳川家康が謀反人:上杉景勝を討つ」という
大義名分を得た。     
(★NHK大河ドラマ「天地人」)
   
★徳川家康は豊臣政権のために働くという考えより、
 自分が大阪を離れれば、石田三成が挙兵するだろうという
 考えがあった。つまり、徳川家康は石田三成に挙兵させる機会を
 つくるために会津征伐を利用したらしい。              
(★NHK大河ドラマ「江〜」)
▲丸島説・・・ 「激怒したのではなく、激怒したように装った。
  というのが正しいであろう。相手は前田利長でもよかった。
  とにかく、豊臣秀吉正規軍を使えば、よかった。軍権の
  代行者になることが目的で、諸大名に知らしめる=認め
  させることがことになる。十分な政治的意義がある。」  


6月16日 徳川家康は大阪を出発。
 会津征伐は豊臣家の武断派の武将が多く従軍していた。
 
 豊臣秀吉の死後、徳川家康は会津に移封の上杉景勝が
 反抗する。
 伏見城から、55000兵力で会津征伐へ向かった。
   
 徳川家康は江戸に行った。
 徳川家康は佐竹義宣に対する危険から江戸城に1ヶ月程留まった。
 160通近い書状を諸大名に回送した。
 
※徳川家康は西軍の小早川秀秋&吉川広家を味方に
     引き込んでいた。
  
※直江兼続と石田三成は同盟を組んでいた。
     (★NHK大河ドラマ「天地人」)

7月17日 石田三成は徳川家康の糾弾の書状を発送。
  
■石田三成は徳川家康の会津征伐に行って大阪にいない隙が絶好の
 チャンスと考え、親友:大谷吉継と相談し五大老の毛利輝元を
 総大将に迎えた。諸大名には徳川家康の弾劾文を送って味方を
 集めた。・・・西軍の成立

▲丸島説・・・徳川家康にとって想定外のできごとだった。
 石田三成は佐和山城19万4000石で蟄居のままだった。
 @石田三成は重用してきた大谷吉継の説得に成功した。
 A安国寺恵瓊を抱き込み、毛利輝元を大坂城に入城させた。


7月19日 徳川秀忠は江戸を出発。

【1】石田三成の挙兵
7月1日 宇喜多秀家が豊国社で出陣式を行った。
7月11日 石田三成は大谷吉継に「家康打倒」を打ち明けた。
     大谷吉継を味方にに引き込んだ。
7月12日 石田三成は佐和山城で大谷吉継、増田長盛、安国寺
     恵瓊と秘密会議をした。
   「毛利輝元への西軍総大将就任要請。」を決定した。

  愛知川(えちがわ)関所(滋賀県)を設けた。
  長宗我部盛親、鍋島勝茂、前田茂勝(玄以の子)らが足止め
  を食らい、結果的に西軍への参加を余儀なくされた。

▲丸島説・・・
「@増田長盛は大谷吉継の病気で行軍をストップさせた。」
「A石田三成出陣の噂を徳川家康家臣:永井直勝に伝えた。」
「→徳川家康は早い段階で、石田三成・大谷刑部の動きを
察知していた。」

7月17日 毛利輝元は大坂城に入城した。

7月18日 石田三成の西軍は鳥居元忠が預かる伏見城に毛利輝元
     の名で開城要求した。
     鳥居元忠は拒絶した。
7月19日  
■石田三成は徳川家康の会津征伐に行って大阪にいない隙が絶好の
 チャンスと考え、親友:大谷吉継と相談し五大老の毛利輝元を
 総大将に迎えた。諸大名には徳川家康の弾劾文を送って味方を
  集めた。(西軍の成立)  
徳川家康がいた西の丸を接収し西軍の総大将に就任した。

石田三成は増田長盛・長束正家・前田玄以三奉行の連署
 による挙兵宣言「内府ちがひの条々」を発した。
 石田三成は徳川家康の糾弾の書状を発送。
結果・・・中国・四国・九州の諸大名が約10万の兵力となった。
  
しかし、吉川広家や鍋島直茂は東軍への内応を画策した。

 石田三成は会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に
  取る作戦を発動した。

  しかし、
@加藤清正や黒田如水の妻子が逃亡した。
 A細川忠興の正室:細川ガラシャが自害した。

結果・・細川忠興ら諸将を痛憤させた。

7月19日 伏見城の戦い
  西軍は宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万の大軍に
  伏見城を攻撃した。
  鳥居元忠らの奮戦

8月1日 伏見城は陥落した。
     伏見城に徳川方の細川幽斎が籠城。
石田三成は
 @丹後攻撃・・・小野木重勝を総大将に1万5,000
 A伊勢攻撃・・・宇喜多秀家を総大将に毛利秀元や鍋島勝茂など
         約3万の軍勢を、伊勢国平定に送り込んだ。
B北陸攻撃・・・大谷吉継
 C美濃攻撃・・・石田三成自身は美濃方面へ

8月10日 石田三成は佐和山城から西軍の大垣城に入った。
   岐阜城・・・織田信長嫡孫:織田秀信が豊臣秀頼の後見
   と美濃・尾張加増を条件に西軍へ入った。

〜〜〜真田昌幸・信之・幸村(幸繁)の動向〜〜〜〜〜〜〜〜       
7月上旬 真田昌幸・信幸・信繁(幸村)も徳川家康の発した号令
 に従った。
 真田昌幸・信幸・信繁(幸村)は徳川家康の3男:徳川秀忠の
 率いる軍勢約3万8000にに合流するために上田を出発。
 (沼田?で信幸と合流したのかもしれないが?)
 下野:宇都宮城へ向った。
 徳川秀忠の軍勢は徳川家の中でも 旗揚げ以来、姉川・三方ヶ原
 の精鋭に、天正壬午の乱で獲得した旧武田遺臣もいた。
 小牧長久手の戦いで活躍した家康の旗本もいた。
 徳川家康は武将として未熟な3男:徳川秀忠を先陣として、
 4男:松平忠吉井伊直政の元に付かせ、武功を立てさせる
 ことを意図したのであろう。
★井伊直政は小牧長久手の戦いで池田恒興・森長可を討ち取る大
 活躍した。井伊直政の娘:政子は忍城主:松平忠吉正室となって
 いた。婿婿なのだ。


7月21日 真田親子が下野国宇都宮城の手前:犬伏に到着し
 陣所を構えた。そこへ、石田三成の密使が到着した。
 石田三成からの書状(密書)が真田父子の元に届いた。

 書状は長束正家、増田長盛、前田玄以の連署状であった。
 内容は以下の通りであった。
「急度申し入れ候。今度景勝発向の儀、内府公上巻之誓紙ならびに
太閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ、出馬候間、おのおの
 申し談じ、楯鉾に及び候。内府公御違の条々、別紙に相見え候。
此旨尤と思い召し、太閤様御恩賞を相忘れられず候はば、秀頼様
  へ御忠節あるべく候。恐々謹言。
                       7月15日
                       長大正家(花押)
                       増右長盛(花押)
                       徳善玄以(花押)

★意味は、「上杉景勝の討伐は豊臣秀吉の遺言に背き、
  豊臣秀頼を見捨て出馬した徳川家康に罪がある。
  豊臣秀吉の恩を忘れていなければ、豊臣秀頼に
  忠節を誓って下さい。」
・・・だから、西軍に味方をするように促している。




【真田家が生き残る手段は何か?】        
★過去60年知略で生きた3代で7主君に仕える真田家の
   総集編。
 3人の親子は長い激論・協議の途中、家老:河原綱家が様子が
 気になって部屋の戸を開けて伺いたてた。真田昌幸は
「何人も部屋には入るなと申し付けたはず!」
と言って履いていた下駄を投げつけた。
河原綱家は下駄を顔に受けて前歯を砕かれたという。
★河原綱家は河原隆正の嫡子で叔母は真田幸綱(幸隆)の
 正室:河原隆正の妹である。真田昌幸にとっては、近い
 身内である。

激論の結果・・・。
    
●結論・・【犬伏の別れ(栃木県佐野市)】
(アウトレットの信号を北上し、大きな旧道東山道?
を右折。「あけみずしの反対地点」。唐沢山城の手前4km)
下野の佐野「犬伏の陣」で東軍・西軍に分かれた。
上田城真田昌幸(父)・幸村(次男)・石田方に所属・・西軍
沼田城真田信幸(昌幸長男)は徳川方に残留・・・・・東軍


【何故、昌幸と信繁は三成につき、信幸は家康についたのか?】
東西に別れた理由〜〜〜〜〜〜 
1)真田生き残り説
 敵味方となっていればどちらが勝っても真田家は残るという説
 「一見、兄弟で戦うように見えるが、生き残り作戦を賭けた
     真田氏の知恵ではないだろうか?。」
真田昌幸が西軍・東軍どちらが勝っても真田家滅亡を防ぐ
  生き残りの作戦であるという考えである。

3)3人が妻の縁で東西に別れた説
 @真田信繁(幸村)の妻は石田三成の親友:大谷吉継の娘であった。
 
 A真田信幸の妻は徳川家重臣・本多忠勝の娘で徳川家康の
  養女:小松姫であった。
  第1次上田合戦(神川合戦後、豊臣秀吉の取り成しで徳川家康
  の下に仕えた。徳川家康は徳川家の重臣:本多忠勝の娘:稲姫
  を徳川家康の養女として真田信幸の正妻:小松殿として嫁がせ
  ていた。徳川家康からの信頼も厚かった。


 ★真田兄弟の決断は婚姻関係からも自然な流れであろう。
 では、真田昌幸は?
@真田昌幸の妻は石田三成の妻と姉妹だった?(異説あり)
  真田昌幸の妻:山手殿(「真田丸」では薫様・・
  「高畑淳子さん、おやげねえ。」)は出自について諸説
  あるが、旧武田家臣・宇多頼忠の娘説が有力説である。
  石田三成の正室も宇多頼忠の娘である。
  つまり、山手殿が宇多頼忠の娘説が真実であれば、
  真田昌幸と石田三成は義兄弟ということになる。
A真田昌幸の娘も石田三成縁者に嫁いでいた。
  義兄弟であれば、石田三成に味方するのは当然であろう。

3)「真田丸」の説・・真田昌幸が武田の領土復活説
   石田三成に賭けた説・・・「真田丸」に要素もある。
  「真田丸」では山手殿の出自は、京の公家:菊亭晴季の
   侍女説を採っている。
  「真田丸」では、「真田昌幸の野望説」を加味している
   のであろう。
  真田昌幸は最初からこの戦いで上野・信濃で徳川勢に釘付けに
  し、西軍の合戦を有利に導こうと考えたのかもしれない。
  勝利の暁には真田家に武田旧領を得ようという戦国武将らしい
  発想を持っていたのかもしれない。
  もしかしたら、真田昌幸は第一次上田合戦(神川合戦)の
  遺恨が残っており、徳川家康を嫌っていたのかもしれないが。

   

・真田信之妻:小松殿(家康養女で本多忠勝娘)と
 矢沢薩摩守(昌幸の伯父)で、真田昌幸・幸村を沼田城に入れず。
→真田昌幸は「流石、本多の娘、これで真田安泰だ。」
 と言ったとか?

7月27日 真田信之宛に徳川家康からの安堵状
      「小県郡(上田城・真田館)を安堵。」
    (★真田宝物館)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


【2】徳川家康の小山評定
6月 豊臣秀吉の死後、徳川家康は会津に移封の上杉景勝が
   反抗すると考えに頭に来ていた。
  伏見城から、55000兵力で会津征伐へ向かった。

7月初旬
徳川家康は会津征伐のために江戸城に居た。

7月19日 西軍首脳の一人:増田長盛から一通の書状が徳川家康に
  届けられた。
  「石田三成らが家康打倒の謀議を行っている。」

7月21日 徳川家康は江戸城を出発した。

7月24日 下野:小山に到着。
 小山に本陣にいた徳川家康に鳥居元忠の使者
 「石田三成が挙兵し伏見城攻撃を開始した。」
  ことを知らされた。

 徳川家康は会津征伐に従軍した諸大名を招集した。
 「石田三成が豊臣秀頼をおし立てて挙兵との知らせが入った。]
と伝えた。

7月25日 【小山評定】
  徳川家康にとって最大の問題は、
「東海道・東山道の豊臣恩顧の武将がどう行動するか。」
であった。

徳川家康→黒田長政(如水)
 @「福島正則に豊臣秀頼には害が及ばないこと」
 A「石田三成が豊臣秀頼のためにならないこと」
 を説明し、東軍につくよう説得した。

 ※この時点では、毛利輝元が大坂城で豊臣秀頼を擁して石田方の
  総大将になっていることは、知らなかった。

 小山の本陣において軍議を開いた。
※小山評定が開かれた場所の説
 @JR小山駅北東の結城街道沿い説


  (★2回目の時には石碑があった。)
 A市役所付近説・・・ここにも石碑がある。


 (★祇園城パンフレットより)

 B祇園城(小山城)址説


●小山市の一覧表・・・★凄い。

 (★祇園城パンフレットより) 
本多忠勝・井伊直政ら譜代の家臣
+福島正則・山内一豊ら豊臣秀吉の恩顧の外様
 大名も参加。

→会津征伐を中止し、石田三成征伐のため大坂に向かう
      ことを決断。


小山評定では、徳川家康の考えが伝えられた。
@山岡道阿弥・板部岡江雪斎から情勢の説明
「妻子が人質になっているため、進退は各自の自由
である。」
徳川家康の意向が伝えられた。



★明日は?もう伊豆にしようかな?

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