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zoom RSS 箕輪初心:生方▲西伊豆29【雲見:上の山城&高橋一族の歴史】

<<   作成日時 : 2016/09/25 06:09   >>

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松崎町雲見で、ダイビングや温泉、富士山の景観を堪能しているが、
北条家家臣:高橋丹後守の@居館・A雲見上山城〜B雲見烏帽子
山砦には、行っていない。 雲見:上の山城の遠望のみである。。
三浦(さんぽ)の岩地、石部、雲見は土地の伝承によれば、
平安時代から岩地、石部など藤原氏の末裔が住み着いたとされ
る。平治の乱で敗れた源義朝の3男:頼朝が配流された蛭ヶ島
(現韮山町)を避け、この地に逃れ「雲を見て天測した」こと
が「雲見」地名の由来とされている。松崎の円通寺に文覚上人
が源頼朝の挙兵を促したとも言われているので、信憑性がある
かもしれない。南北朝時代には高橋一族の下、多くの家臣がい
たらしい。その後は、北条家家臣として高橋丹波守が活躍した。 
戦国時代、雲見も北条水軍の根拠地であった。 

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■ 雲見の歴史
 :鷹觜氏館・上の山城(烏帽子山砦)には行っていない。 
・南北朝時代
 足利尊氏が将軍であった。
 雲見の上ノ山城には、高橋氏が城主として入っていたようだ。

正平4年(1349) 足利尊氏の関東管領:上杉顕房の時代、南伊豆
城主が見える。
  雲見上ノ山城主に高橋丹後守の名を記している。
(★『南豆風土誌』源基氏伝帖:土肥神社所蔵文書)

正平8年(1353) 高橋丹後守が雲見に入っていた。
『松崎町史年表』

・享徳3年(1454) 後花園天皇の時代である。
足利、上杉氏の争いがあって、関東は大いに乱れていた。


・延徳3年(1491)  足利政知の死→堀越御所の内紛
        
・明応2年(1493) 北条早雲満37歳明応の政変
管領:細川政元が10代将軍義材(義稙)を追放した。
  茶々丸弟:清晃を室町殿(実質上の将軍)を擁立した。
  足利清晃は還俗して、義遐→義澄と名乗った。
  
  足利義遐=義澄は母と兄:茶々丸の敵討ちを命じた。
足利義澄は伊勢宗瑞(北条早雲)に茶々丸討伐を命じた。
  
  →伊勢新九郎(=北条早雲)は「不孝者・茶々丸の成敗」を
  大義名分に、伊豆の武士団を味方につけた。
  
伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵入を招いた。
 
@興国寺城説
 伊勢新九郎(北条早雲)は伊豆堀越御所足利政知の子:茶々丸を
急襲した。

A駿河の丸子城説
「伊豆討入りは、伊豆国の兵の多くが山内上杉家に動員され上野国
  の合戦に出て手薄になったのを好機とした。早雲の手勢200人と
  今川氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船
  に乗って清水浦を出港。駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸した。」
    (★北条五代記)
住民は海賊の襲来と恐れて家財道具を持って山へ逃げた。
  (★伊豆水軍物語P86)
伊勢新九郎家臣・・約200
今川氏親の家臣・・約300
  葛山氏は今川氏に命じられて援軍として参加している。
  その後、伊勢宗瑞=北条早雲の次男:氏時を養子にむかえた。

+触れを出した。西伊豆の水軍のメンバー以下の通りである。
@三津の松下三郎右衞門
A江梨の鈴木兵庫助
B土肥の富永政直
C田子の山本太郎左衛門
E雲見の高橋将監
E妻良の村田市之助
達の水軍が加わった。

陸では、大見の3人衆:梅原・佐藤・上村などが加わった。
大見3人衆
  大見:梅原杢右衞門
  大見:佐藤四郎兵衛
  大見:上村玄蕃
  であった。

 (★土肥の富永一族:土肥町教育委員会)
堀越攻めには、対岸の遠江:清水浦から船を出して、松崎、田子などの
 浜に上陸した。
 雲見の高橋将監は、伊勢新九郎の家臣になっている。
伊勢新九郎の家臣になることによって、高橋氏の雲見は安泰であった。
  
 @北条早雲の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ち、茶々丸は山中
   に逃げ自害に追い込まれた。」
   (★北条五代記)
茶々丸側の宇佐美能登守貞与の必死の抵抗があった。
宇佐美は戦死した。
  A茶々丸は堀越御所から逃亡して、武田氏、関戸氏、狩野氏、
   土肥氏らに守られて、中伊豆から南伊豆に逃亡した。
  
 北条早雲は伊豆の国人衆を味方につけながら、徐々に南下した。
  茶々丸方を追い込んでいった。

※説1・・・「茶々丸は山中に逃げ自害した。」
    (★北条五代記)
※説2・・下田の堀の内に「茶々丸の墓」があり、深津城の関戸氏が
   かばったという説もある。
  (★下田市教育委員会)
※説3・・・茶々丸はさらに、三浦氏隠れた説もある。
      後日、三浦義同(道寸)は北条早雲の援助を受け、
      三浦時高を茶々丸のいる新井城を攻撃し、奪取した。
(★漫画「北条早雲)
※説4・・・茶々丸はさらに、甲府に逃れて、今川氏親&北条早雲に
      討たれた説もある。
(★ウキペディア)
抵抗する関戸吉信の深根城=深根津城(下田市)を攻撃して皆殺し
  にした。3000人とも言われている
(★下田市教育委員会)

・明応3年(1494)
韮山城を居城とした。
  伊豆国内で四公六民の税制などを行い、領民の支持を得た。
富永政直は興国寺城代になった。
(★富永一族の歴史:土肥町教育委員会)

  北条早雲は伊豆:韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として
  伊豆国の統治を始めた。
  高札を立ててた。北条早雲は
  「味方に参じれば本領を安堵する。参じなければ作物を荒らして
  住居を破壊する。」
  と布告した。
  分国法=早雲寺21ヶ条を制定し、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、
  病人を看護するなど善政を施した。
※漫画:北条早雲では、風土病があったので、薬を配った。
  →暴君:茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち
  北条早雲に従った。
   (★漫画:北条早雲)
※「堀越公方家の重い税制を廃して四公六民の租税を定めたので、
  領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定された」と言われるが、
  江戸時代の軍記は違っていた。
 北条早雲に5年かかって、全伊豆を平定したのは事実だった。

・明応5年(1496) 狩野道一の反乱
北条早雲の命で鎮圧した。
 北条早雲より、高橋氏は判物証文を受けた。

小田原に城を乗っ取った
  早雲「家訓21条」を残して、

・永正16年(1519) 北条早雲死亡、享年88。

※初代北条早雲は小田原を支配、二代氏綱・三代氏康は
   武蔵から下総まで侵攻。
   北条氏は水軍を組織
 @三崎や浦賀を根拠地とする三浦水軍を組織。
        →江戸湾から里見氏の勢力を駆逐。
 A宇佐美・福浦・岩を中心に東伊豆の水軍を組織。
 B長浜・獅子浜・江梨(大瀬崎)・土肥を中心に西伊豆の水軍を組織。
  三津浜:松下三郎右衞門尉
  江梨・大瀬崎:鈴木兵庫助繁伴
  土肥:富永三郎左衞門尉
田子:山本太郎左右衞門尉
  雲見:高橋将監
妻良:村田市之助

→今川義元亡き後の駿河に侵入した武田氏(久能山城が水軍基地)
  江尻城・袋城などへの準備。

・弘治2年(1557) 北条氏康は熊野水軍に書状を送った。
  @梶原吉左衞門・・・
    梶原助五郎・・・江戸馬込32貫60文
    梶原日向守・・・六郷新井宿51貫・・・後、安良里城へ
A愛州兵部少輔・・・三浦佐原80貫文
            御蔵出130貫文500文
  B橋本四郎左衞門
  C安宅紀伊守・・・・御蔵出215貫文+1貫500文


・永禄12年(1569) 甲斐武田氏と相模北条氏との甲相同盟が破綻。
   北条氏の砦跡地に三枚橋城が建設された。
   御館の乱により敵対することになった北条氏に対する
  武田氏の駿河・伊豆国境の最前線の拠点である。
   

・元亀元年(1570)
   武田信玄の三枚橋城築城説(有力説) 
   城将は高坂源五郎(春日昌元)・曽根昌長(箕輪城から)
  ・堀内政豊(子孫:高崎在住)等であった。
  武田氏の駿河における拠点の一つが三枚橋城として
    機能し始めた。
  武田信玄が三島や韮山城に攻め込んだ。           
※武田水軍は海上から物資の支援をした。
   
   興国寺城にいた伊勢新九郎(北条早雲)は政知の子:
   茶々丸を討って伊豆の領主。
      
   韮山城を本格的に築城。

・元亀2年(1571)
●武田水軍   
  小浜景隆:安宅船1艘・小舟15艘・・・(伊勢水軍)
向井伊兵衛:5艘・・・・・・・・・・・(伊勢水軍)
伊丹大隅守:5艘 ・・・・・・・・・・・(旧今川水軍)
土屋豊前守:12艘、同心50騎・・・・・(旧今川の岡部一族)
(★甲陽軍艦)
VS  
 ■北条水軍 
  北条水軍の総裁は玉縄城代:間宮康俊であった。
間宮康俊の子:間宮武兵衛・間宮造酒丞もいた。
  三津浜:松下三郎右衞門尉
  江梨・大瀬崎:鈴木兵庫助繁伴
  土肥:富永三郎左衞門尉
田子:山本太郎左右衞門尉
  雲見:高橋将監
  
結果・・・北条水軍の負け
  間宮武兵衛・間宮造酒丞は武田信玄に1500貫文の知行で
  配下になった。

・元亀3年(1572)
●武田水軍       
  間宮武兵衛:10艘・・・(玉縄城代間宮康俊698貫の子)
間宮造酒丞:5艘・・・・(玉縄城代間宮康俊の子)
小浜景隆:安宅船1艘・小舟15艘・・・(伊勢水軍)
向井伊兵衛:5艘・・・・・・・・・・・(伊勢水軍)
伊丹大隅守:5艘 ・・・・・・・・・・・(旧今川水軍)
土屋豊前守:12艘、同心50騎・・・・・(旧今川の岡部一族)

  ・・・計53艘

徳川水軍とも対戦した。

・天正4年(1576)北条氏政の大石越後守直久(北条氏照の義弟の子)
  が獅子浜城代となって守備した。
甲斐武田氏が沼津に進攻して以降、獅子浜城は西伊豆海岸防備
  の拠点となった。
  獅子浜城には、港がなく、水軍城ではないが、水軍援護基地と
  して重視された。
  ★武蔵:滝川城にいた大石一族・・・北条氏康の2男:
北条氏照が大石一族に婿養子の形を取って、八王子付近を
手に入れた。
  


・天正5年(1577) 
   武田勝頼が三枚橋城築城説。
  ●武田氏の三枚橋城
   高坂源五郎(春日昌元)・曽根昌長(箕輪城から)・堀内政豊
  〜〜狩野川を挟んで〜〜〜〜〜〜
  ■後北条氏の戸倉城:笠原政尭(政晴=松田憲秀長男:笠原家養子)
        泉頭城:笠原範定

  武田勝頼が三枚橋城を拠点に小田原北条氏の戸倉城を攻撃
  した。
  武田勝頼は獅子浜城の動向も気になっていた。

・天正7年(1579)梶原備前守景宗が重須の長浜城に着任。
北条水軍の事実上の統括者である。
熊野水軍(海賊):の梶原景宗を招いて、梶原備前守景宗と
  名乗らせ、任命し、本拠として長浜城を与えたのである。
  
  下田の整備も進めて武田勝頼との決戦に備えた。


・天正8年(1580) 重須沖の駿河湾で海戦。
   武田水軍 VS  北条水軍     



・天正8年(1580) 武田・北条両氏水軍による駿河湾海戦。
   武田水軍 VS 北条水軍
西伊豆の水軍。
 
 ■北条水軍 
  ※総大将として長浜城の梶原景宗が指揮を取った。
  長浜(重須)梶原梶原備前守景宗
  三津浜:松下三郎右衞門尉
  江梨・大瀬崎:鈴木兵庫助繁伴
  土肥:富永三郎左衞門尉
田子:山本太郎左右衞門尉
  雲見:高橋将監
妻良:村田市之助
これに加え、
戸田:北条幻庵の配下
  安良里:梶原日向守
下田:?
  A東伊豆の水軍
  B三浦水軍
   

  北条水軍は、梶原備前守と嫡子:梶原兵部大輔を先方として、
  松下三郎左衛門尉(三津浜)・鈴木兵庫助繁伴(江梨・大瀬崎)
北条無幻配下(戸田)、富永???(土肥)、
  山本信濃守(田子)・清水越前守(子浦?)、村田市之助(妻良)
  友永佐兵衛尉(?)、山角治部少輔(八幡野)などの船大将が、
  重須の浦に大船を多数停泊させて待ち構えていた。

  未明、武田水軍は3艘の関船をに重須の浦(長浜)に接近させ、鉄砲を
  撃って内浦に放火を始めた。

  北条水軍は10艘の大型安宅船(30m程)を出撃させた。

  武田水軍は浮島ヶ原方面(現狩野川河口付近)に退却しした。

 北条水軍は追いかけた。
 
 武田水軍は狩野川河口からは2艘の関舟を待機していて合流した。

 武田水軍の関舟5艘と、北条側の安宅船10艘が戦いとなった。
 北条水軍は、武田水軍のの関船を包囲する作戦に出た。
陸からが武田の曽根昌長隊が膝まで入って鉄砲攻撃をしたり、
 火の付いた弓矢を射たりした。
  
  速度が速い武田の関船は北条水軍の安宅船の攻撃をかわし、北条
  水軍の安宅船に鉄砲や弓矢を撃ちかけ、攪乱した。
 
 安宅船には、鉄板がはられ、火器を使っても無駄な抵抗だった。

 結局、夜になり、両軍とも船を引き揚げた。
 結果・・・海戦には決着がつかなかった。

・さらに、海戦は行われた。
 武田水軍の向井伊兵衛正綱(持舟城主)の活躍により北条水軍は
  逃げ始めた。向井正綱は北条の安宅船を奪った。
(★「甲陽軍鑑」)


・天正9年(1581)
10月 三枚橋城主:曾根昌長から内応を持ちかけられ、
   笠原政尭・笠原範定が北条氏を離反した。
 
  笠原政尭・笠原範定が武田勝頼の支援を受け、義弟:笠原照重
  (笠原康勝の実子)を攻めて敗死させた。

  戸倉城は武田勝頼の所領となった。
 
  黄瀬川の戦い
   武田 VS  北条

忍者対決もあった。
  武田乱破 VS 風魔一族200人(足柄郡+伊豆)


・天正10年(1582) 
  2月29日 武田氏の城:戸倉城が北条氏の攻撃により落城
   した。守備兵が動揺し自落した。

  3月11日 武田勝頼・信勝父子が天目山(景徳院)で自害。
  武田氏が滅亡。     
 

〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
・天正16年(1588) 後北条氏は豊臣秀吉との関係が悪化した。
 豊臣秀吉と小田原北条氏の関係がさらに緊迫化してくると、
  北条氏は豊臣秀吉に備えて韮山城や山中城の修築を行った。
  同時に、下田に海の備えとして下田城を築城し始めた。

・天正17年(1589) 6月
雲見の上ノ山城には高橋丹波守左近は北条氏へ鯨1頭を上納
  した。
  ※伊豆にまで鯨が回遊してきたのだろう。
狂歌@「丹波殿 女房質入れ ご出陣」
  狂歌A「丹波殿 鯨に乗って ご出陣」


・天正17年(1589) 朝比奈知明が死亡した。
 朝比奈家は子がなかった。
そして、城将には伊豆衆を率いる清水太郎左衛門が配されたの
 であった。
  伊豆国は北部を笠原氏(山中城代:松田康俊の長男)、南部を
 清水氏が支配した。
 
しかし、既に関東以西は豊臣秀吉が統一していた。
 豊臣秀吉にとって「最後の敵」と呼べるのが後北条氏であった。
 豊臣秀吉との対決が避けられない状況が確実となった。
 西からの攻勢に備えるべく、軍港である下田の城が重要視された。
 豊臣秀吉の水軍勢は熊野九鬼水軍・安宅水軍・村上水軍・河野水軍
 といった西国諸水軍も吸収していた。
 伊豆半島を本拠とする後北条氏の水軍も戦時即応体制が求められ
 たからだ。
 後北条氏5代目当主:北条氏直は、南伊豆の地と水軍を掌握する
  清水康英に対して後北条水軍の母港となる下田城の再整備と
  拡充を命じたのである。

 清水康英は鵜島城をさらに修築した。
※先祖かいた本郷氏島城にちなんで、鵜島城と名付けた。
  (★伊豆水軍物語)
鵜島城=下田城は、標高68.7mに位置する鵜島山頂に主郭を置いた。
 3方向に伸びる尾根伝いに細長い曲輪を配置している。
 
 雲見(賀茂郡松崎町)の高橋氏や妻良(賀茂郡南伊豆町)の村田
 氏が戦闘準備のために入城した。
 そして、多数の武器・兵糧なども運び込まれた。
清水小太郎康英は下田城城主として伊豆水軍を率いた。

 後北条氏の戦略に基づいて、
  @下田という良港=水軍の出撃拠点とし
  て確保するために下田城が城郭として本格的に城が整えられた。
 A土肥の高谷城前から八木沢に港が建設され大型舟の入れる港を
   造った。また、丸山城を築城した、
  B長浜城の整備を強化した。
 B井田に真城(さなぎ)山に烽火台を造るように
  高橋家に命じた。

  ★これにより、内浦の長浜城〜土肥の丸山城〜下田城ねの
   西伊豆の烽火網は完備された。
 
北条氏直は
「豊臣秀吉軍は船働歴然ゆえ下田城を設けたのであり、康英は戦上手で
あるから一切任すのである。他人の差し出口は不要である。」
といった意味の手紙を送った。
 (★北条氏直の判物:清水文書)

   
8月 関白豊臣秀吉の裁定で、
   ・沼田城を含む沼田領の三分の二が北条氏の領土.。
   ・名胡桃城を含む三分の一が真田氏の領土。+伊奈
   →真田信幸は沼田城を北条氏直に渡す。
       名胡桃城は真田氏に残す。
     矢沢頼綱は沼田城から退去

10月 猪俣邦憲は南西の榛名峠城から名胡桃城を奪取(名胡桃事件)。 
北条氏邦の右腕で、沼田城主:猪俣邦憲は、名胡桃城主:
 鈴木主水の配下、中山城主:中山九兵衛を調略し、偽の
 真田昌幸からの手紙で、鈴木主水を城外に誘った。
南西の榛名峠城(=権現山城)から名胡桃城を奪取した。
鈴木主水は沼田の正覚寺で自刃した。(名胡桃事件)
※小田原征伐勃発の口火を切った城である。
{★名胡桃城の歴史・月夜野町(現みなかみ)教育委員会より}
  

 ●真田昌幸が徳川家康に苦情
    →豊臣秀吉は北条氏政に質問

11月21日 真田昌幸宛の豊臣秀吉からの書状
  「秀吉に上洛しない北条が、一部の部隊とはいえ、
   秀吉の裁断を破って真田領を侵した
   ことは〜〜〜。」と激怒。
12月 北条勢:猪俣邦憲は3方向からの岩櫃城攻撃。
岩櫃城周辺に大戸から攻撃。
    @中山口→横尾八幡城の戦い
    A白井口→中之条古城の戦い
    B大戸口→手古丸城占領→仙人窟陣城で監視
          (群馬県東吾妻町大戸)

箕輪初心●群馬【名胡桃城A】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html
★★箕輪初心●【横尾八幡城】
http://53922401.at.webry.info/201202/article_12.html

→豊臣秀吉の小田原征伐の口実・豊臣秀吉は北条氏追討の指令。
  猪俣邦憲が兵を撤退させた。 
   
※土肥の富永一族は江戸城の2の丸にいて、武蔵に8万石のbR
であった。富永一族には北条氏邦の右腕:猪俣邦憲がいる。
★猪俣邦憲は養子前は、江戸衆:富永家の一族:富永能登守助盛
 と名乗っていた。
★富永氏は西伊豆の土肥の豪族であると思われる。富永助盛は
富永政家→政辰の身内だと思われる。
富永一族は北条水軍の総裁であり、北条家のbRの支配地を持っ
ていた。推定8万石? 伊豆の土肥・武蔵も領国であった。
栗橋城や江戸城・・・・。 
★2015年の夏には富永一族を紹介したい。
  もう、文章は2年前の秋に書いてある。   
(★土肥の富永一族:土肥教育委員会)
名胡桃事件で、豊臣秀吉の小田原城攻撃をさせてしまった人物
である。(★関東古戦録:久保田順一訳)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●埼玉【猪俣4城】&猪俣邦憲=北条氏滅亡へ?
http://53922401.at.webry.info/201405/article_18.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
しかし、現在、豊臣秀吉の勝手に攻撃した説が有力になりつつある。

 後北条氏は関東の大半を領有し、東国第一の大大名になっていた。
 

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
3月 沼津を進発した豊臣の水軍が下田城を来襲した。
豊臣水軍は長宗我部元親・脇坂安治:九鬼嘉隆(くきよしたか)ら
 海戦上手の「海賊大名」である。3人を大将とする1万余りの
  軍勢で下田城を囲んだ。
長宗我部元親勢2500、九鬼嘉隆勢1500、脇坂安治勢1300という
 大軍であった。


高橋丹波守左近は一旦東海の掛川へ逃れた。
 その後、再び雲見へと戻った。
 三島代官の支配下としてと過ごした。
 江原家の支配下になった。

現在、雲見には高橋姓が大半を占める。


〜〜〜西伊豆シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方◆西伊豆@【夕日のロマンチック街道の
 これからのブログ予定総論
http://53922401.at.webry.info/201510/article_3.html

箕輪初心:生方●西伊豆A「三枚橋城→沼津城」:武田信玄も侵攻した城
http://53922401.at.webry.info/201510/article_10.html

箕輪初心:生方★西伊豆B【若山牧水と沼津千本松原】
http://53922401.at.webry.info/201510/article_11.html

箕輪初心:生方◆西伊豆C【沼津港界隈の散策】&『グルメ記録』
http://53922401.at.webry.info/201510/article_12.html

箕輪初心:生方▲西伊豆D『沼津港口公園:本居長世の碑』〜
沼津御用邸〜
http://53922401.at.webry.info/201510/article_13.html

箕輪初心:生方●西伊豆E【獅子浜館&獅子浜城遠望&獅子浜ダイビング】
http://53922401.at.webry.info/201510/article_14.html

箕輪初心:生方▲西伊豆F『三津浜』クルージング&三津城主:松下氏
http://53922401.at.webry.info/201510/article_15.html

箕輪初心:生方▲西伊豆G『長浜城1回目の復元前』
http://53922401.at.webry.info/201510/article_16.html

箕輪初心:生方●西伊豆H『復元後の長浜城3回目』=北条水軍の城
http://53922401.at.webry.info/201609/article_6.html

箕輪初心:生方●西伊豆I『長浜城&重須の戦い:武田VS北条』詳細編
http://53922401.at.webry.info/201609/article_7.html

箕輪初心:生方▲西伊豆J【沼津市西浦平沢のグルメ】&『My伊豆ブログ集』

箕輪初心:生方▲西伊豆K『江梨鈴木氏館=海蔵禅寺&航浦禅寺』
http://53922401.at.webry.info/201609/article_11.html

箕輪初心:生方▲伊豆西L【大瀬崎散策】と『鈴木繁伴館』
http://53922401.at.webry.info/201609/article_12.html

箕輪初心:生方▼西伊豆M【2016夏:大瀬崎ダイビング15回目】
http://53922401.at.webry.info/201609/article_13.html

箕輪初心:生方▲西伊豆N沼津市井田「井田の歴史とダイビング」
http://53922401.at.webry.info/201609/article_14.html

箕輪初心:生方▲西伊豆O【戸田&プチャーチン】
http://53922401.at.webry.info/201609/article_16.html

箕輪初心:生方▲西伊豆P【伊豆市土肥の散策&グルメ】
http://53922401.at.webry.info/201609/article_17.html

箕輪初心:生方★西伊豆Q『土肥の若山牧水』
http://53922401.at.webry.info/201609/article_19.html

箕輪初心:生方▲西伊豆R【土肥の富永一族の歴史】と『菩提寺:青雲寺』
http://53922401.at.webry.info/201609/article_21.html

箕輪初心●西伊豆S【土肥高谷城】後北条bRの富永一族の本拠地
http://53922401.at.webry.info/201609/article_23.html

箕輪初心●西伊豆21:土肥の八木沢「丸山城」
=天正17年富永助盛=猪俣邦憲は?
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箕輪初心:生方▲西伊豆22【土肥DIVE】&
早食い競争「カエルアンコウVSミノカサゴ」
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