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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸116【第2次上田合戦&明け渡し:諏訪・依田・大井・伴野】

<<   作成日時 : 2016/09/22 09:28   >>

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・慶長5年(1600) 真田昌幸・信繁の上田城明け渡しには、徳川方の
諏訪頼水・依田信守・大井政成・伴野貞吉らがいた。12月13日、
真田昌幸・信繁は高野山に向かった。・・・・・

8月、徳川家康率いる東軍は、下野国小山において
石田三成ら西軍の挙兵を知って、軍を西に返した。この時、徳
川家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、
徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢は宇都宮から中山道を進んで
西に向かった。進路に、真田父子の上田城があった。この際、
真田昌幸が守る上田城を攻略できず、足止めされ関ヶ原の戦い
に遅参するという失態を起こした。と某Hpに説明があった。
@「中山道」はウィキペディアにもあるが、間違いである。
 東山道である。歴史家のなかには「大道」と呼ぶ人もいる。
A上田城攻撃が目的であった。B「失態」とあるが、遅れたの
は、徳川家康の作戦変更命令と戦いが早まったことにあった。
ということらしい。
画像




箕輪初心:生方▲真田丸115【第36話「勝負」:沼田城の稲
→第2次上田合戦】&史実編
http://53922401.at.webry.info/201609/article_15.html

箕輪初心:生方▲真田丸116【第37話「信之」&大谷吉継&石田三成の最期】
http://53922401.at.webry.info/201609/article_28.html





【1】徳川秀忠の動向
@東山道大道隊・・・徳川秀忠(江の夫)が大将。本多正信が参謀。
     宇都宮城→

8月23日 徳川秀忠から沼田城:真田信之宛の書状
「わざわざ啓せしめ候 よって明24日にこの地を罷り立ち
 小県へ相動き候の条、その分御心得候て、彼の表へ御出張
 あるべく候 尚大久保相模守、本多佐渡守申すべく候
 八月廿三日   秀忠(花押)
   真田伊豆守殿 」

「24日に(宇都宮)を立って、小県を攻めるから、お前も出馬せよ。」
・徳川秀忠、上田城を攻撃開始・真田信之も上田に出兵。
  
★上杉景勝は何故徳川軍を追撃しなかった。
徳川秀忠軍が宇都宮から撤退したときに上杉軍が追撃し
徳川秀忠軍に打撃を与えれば歴史も違ったものとなった。
「真田丸」では、直江が
「越後を取ってから、関西に・・・」
といった。
しかし、北方には伊達、南部、最上との徳川の挟み撃ちの可能性



8月24日 徳川秀忠が宇都宮を出発した。
3万8千・・・先頭〜最後列
2列1m間隔なら・・・・19km
3列1m間隔・・・・・・13km
   
*************************
高崎で烏川増水のため3日間、足止めされた。
徳川秀忠が高崎城にいた日の類推
画像

★推定@・・・・8月27日・28日・29日
 推定A・・・・8月28日・29日・30日
推定B・・・・8月29日・30日・9月1日
????????????????????????
結果・・高崎城に3日間、烏川の増水で、行けなかったのだ。
推定A・・・・8月28日・29日・30日
 3万8千人が泊まる場所・・・高崎城の築城途中であった。
 徳川秀忠は高崎城本丸に入った。・・後で怒ったって?
 有力家臣は寺などに泊まった・・・
龍広寺・安国寺・大信寺・法華寺・恵徳寺・石上寺・法輪寺
 延養寺など・・・

※高崎には、38000人の水があったことは推定できる。
つまり、長野堰は確実に開かれたことを意味ずる。

8月30日 ★真田信幸はおそらく、この日に沼田城を出発した。
*****************************
稲(小松姫)伝説
稲は真田が2つに別れたことから、妻子を沼田城に呼び集めた。
という。その意図は・・・・
@妻子の心配をなくす。
A上田の真田に寝返らないようにさせるための人質・・・
まあ、Aが本質的な裏心であろう。

******************************
秀忠軍38000 VS  上田城2000 

まともに攻撃されたら長くは持ちこたえられない


◆第2次上田戦争
画像


東軍 (真田信之=徳川家康の養女:小松姫夫←本多忠勝娘)
      Vs
西軍 (父:真田昌幸&弟:真田幸村)
9月2日 小諸城(長野県)で徳川秀忠と真田信幸が合流した。
     
9月3日  徳川秀忠は上田城を攻めようとした。
      真田昌幸は徳川秀忠に
     「上田城城をあけ渡す準備をしているので待って欲しい」
     とだまして、戦の準備を整えた。

※真田昌幸の戦略は何だったのだろうか? 
 単なる時間稼ぎではなく、本気で過当としていたのかも
 しれない。
 西軍:石田方の勝利、上杉の上洛等を待つ。・・・
 混乱に乗じ、信濃・甲斐を乗っ取るという腹は
 石田三成に当てた書状で明白である。
 第1次上田合戦のように神川上流を本多正信に悟られたので
 もう一度、川を堰き止めた。 
 本多の作戦の裏の裏をかき、機動力と地の利で戦う。


9月4日 徳川秀忠が上田城の明け渡しを催促した。
     真田昌幸は
     「戦さの準備ができたのでどうぞ。」
      と返答した。
徳川秀忠は激怒した。
※徳川秀忠軍を挑発したのは明白である。

★徳川秀忠が真田信幸を砥石城に向かわせた理由
 @徳川首脳陣の中には、真田一族の真田信幸を疑う者が多い
  ため、真田信繁VS 真田信繁と戦わせて、真田信幸を試す
  という考えであった・
 A上田城の直接攻撃に真田信幸を参加させると、真田信幸が
  寝返る危険性があることが考えられる。

●平山優説・・・・平成28年1月7日放送TV・再放送
 真田昌幸は
@「兄弟対決をするふりをする。幸繁が仕掛ける。
  攻撃が済んだら、砥石城から南回りで逃げて、上田城に
  入れ。・・・」
 という策であった。
Aこれにより、兄の真田信幸に手柄をたて
 させ、徳川秀忠の真田信幸に対する信用を高めようというので
 ある。
B真田信幸軍を砥石城に留めることで、上田城を攻める兵の
 数を減らすことできる。
C真田一族の同士討ちを避けることができる。
 
※「真田丸」では真田信繁が考えたとあったが、・・・
  「戦わずして真田信幸に砥石城を明け渡す。」
作戦であった。

9月5日 徳川秀忠は軍を上田城に接近させた。
 徳川秀忠は
 @真田信幸の軍を真田信繁が守る砥石城(上田城支城)に
  向かわせた。
 真田信幸は虚空蔵山城(伊勢崎城・お蚕山城)・砥石城
  (上田市)を落とし、待機した。
 A上田神川の戦い
  徳川秀忠38000 VS 真田昌幸2000? 
 ・真田昌幸は、徳川を上田城近くにおびき出しては鉄砲攻撃。
 ・真田昌幸・信繁(幸村)は、秀忠軍の侵攻を阻む。
 B神川の増水で、大群が混乱。
 C上杉景勝の配下:海津城須田氏が真田根小屋城に到着。

9月7日 徳川秀忠は撤退→関ヶ原へ

 真田昌幸&真田幸村2000 vs 徳川家忠・大久保忠隣20000
  →決着着かずに真田軍の勝利
           ・・・徳川家忠は関ヶ原に遅刻
★徳川家康の兵力温存説もあるが、
     徳川秀忠はお馬鹿だったのかもしれない。

■TV・・ ・徳川秀忠は真田に興味を持っていた。
    江は「秀忠様は戦さが下手です。・・・」
    →遅刻は必至であった。
    乳母は、祠を持ち出した。
   (★大河ドラマ「江〜」9月11日TV)   
    ※江戸にあった徳川家康・・江と話


平山説
真田昌幸・信繁軍は真田信之軍を戸石城に釘付けにすることに
より、結果的に上田城に攻め寄せる兵を減った。

真田昌幸は真田信之を上田城攻めから外させ、真田一族での同士討
ちを回避しようとした。真田信繁が戦わずして戸石城を真田信之に
明け渡したことにより、東西の真田勢も城も傷つかずに済んだ。
***********************
9月7日 
 真田信之は戸石城を落とした後、徳川秀忠軍は上田城の
 攻略に取り掛かった。本多正信は短期決戦を考慮し、徳川秀忠に
「真田昌幸軍を城から誘き出すため、城下の田畑の稲を刈り取る
苅田戦法を取る。」
と進言した。

 真田昌幸は、真田幸繁に夜、染谷台の北東に潜ませた。

9月8日 牧野康成が率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始め
た。徳川方の狙い通り、苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が
城から出てきた。
*「真田丸」では、「堀田作兵衛が奪還した。」
後備えとして潜んでいた本多忠政隊が襲い掛かり、真田勢は敗れ、
上田城へと逃走した。
酒井、牧野、本多の各隊が真田勢追撃し、上田城の大手門前まで迫
った。徳川勢は大手門に到達した時は隊列・陣形は型を成さない状
態であった。
真田昌幸は門が開け、門の外側で待ち構えていた真田の鉄砲隊が射
撃を浴びせ、上田城内からも鉄砲や弓矢で攻撃した。
★第1次上田合戦とほぼ同じ作戦であった。本多正信の作戦の裏の
裏をかいた作戦であった。
徳川方の先鋒隊は混乱に陥った。撤退する先鋒隊と前進する後続隊
がぶつかり、徳川勢は城内から真田勢が討て出て徳川軍を打ち破っ
た。
真田信繁隊200が染谷台の秀忠本陣に奇襲をかけた。
信繁隊は鉄砲を一斉に撃ちかけ、秀忠本陣に攻めこんだ。
秀忠自身は家臣に馬を与えられ、小諸へと逃れた。

真田昌幸は破られた神川上流の堰=堤防を再び築き、神川を
密かに塞き止めていた。
真田信繁の合図で堤防が切られた。
大量の水が濁流となって染谷台に押し寄せ、真田勢に追われていた
神川付近の多くの徳川勢の人馬が飲み込まれた。


第2次上田合戦は真田方の勝利に終わった。
一連の流れは全て真田昌幸の作戦であった。
徳川軍が城外の稲を刈田で挑発したので、小競り合いはあり、
徳川軍に戦死者は出た。
しかし、徳川軍の本格的な総攻撃はなかった。

 森忠政と石川康長は7月24日徳川家康から真田への抑えとして
  領国信濃へと帰還するよう命じられていた
石川康長・日根野吉明と真田氏の小県郡冠者ヶ嶽砦を攻め
 大敗した。
 森忠政は出馬要請がなかったので、葛尾城代:井戸宇右衛門ら
 少数の軍勢を上田の北にある地蔵峠付近へと派遣しただけだ
 った。



9月9日 徳川秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、
  一旦全軍を小諸へと撤収させた。
次の策を本多正信と練っていた。
 しかし、徳川家康から書状が届いた。
  書状は
 「九月九日までに美濃赤坂へ着陣すべし」
 というものだった。
 徳川秀忠が上田城攻めを諦めたのは、本多正信らの諫言などでは
 なく、徳川家康の急な参陣命令に従ったまでなのである。

 徳川秀忠は上田城に押さえの兵を残した。
 海津城の森忠好・仙石秀久が押さえに指名された。
  森忠好(森長可末弟)は葛尾城に待機した。

 徳川秀忠は先を急ぐことにした。
  上田での遅延・道中の悪天候で・・・

9月15日 関ヶ原本戦
 徳川家康は遅参してしまった。


【2】第2次上田合戦後の上田近辺の様子
真田昌幸は西軍は壊滅したため、支援も望めなくなった。
「天下を相手に・・華々しく討ち死にしよう。」
といったが、・・・

9月18日 真田信繁が葛尾城に夜討した。

9月23日 真田信繁が朝駆けの攻撃を敢行した。

※真田軍は虚空蔵山城の麓に布陣する森忠政を夜襲攻撃した。
 (★「大いなる謎 真田一族」:平山優著)

真田信幸・幸繁は降服を促した。
真田昌幸は渋々承諾した。

真田信幸は切腹を命じようとする徳川家康を説得しようと
本多正信・本多忠勝に頼んだ。
本多忠勝は「真田父子を切腹にこだわるなら、婿と上田城で
   籠城して戦うのも辞さぬ。」と言い放った(伝)。
★「真田丸」が伝説を採用したことになる。
高野山の追放に留まった。



9月末   真田家は降伏・開城した。
  徳川軍の入領に対して領民の一揆が起きた。
   森忠政が一揆を鎮圧した。

平山「もし、長期戦であったならば、独壇場になっていたかも
   しれない。」
徳川家康の憎しみは激しく、当然、昌幸・幸繁を死罪と決めていた。
しかし、真田信幸は本多正信や舅:本多忠勝にすがって、助命嘆願
を行った。
徳川家康もついに折れ、死罪を免じ、高野山追放を下知した。
(【真田三代】:平山優著)

真田昌幸・信繁の上田城明け渡しには、徳川方の
諏訪頼水・依田信守・大井政成・伴野貞吉らが
いた。





12月13日、真田昌幸・幸繁は上田を後にした。
信幸(平山説では「信之」ではない。)と別れる時、
「さてもさても、口惜しきことかな。内府こそ、かくしょふと思ひ
しに」
と述べた。昌幸54歳。信繁34歳。
 上田より、池田・原・高梨内記・小山田治左衛門ら16人が従い
高野山に向かった。主従が高野山の麓:細川に落ち着いた(伝)。
その後、蓮華定院に厄介になった。蓮華定院の斡旋で、九度山に
屋敷を構えて移り住んだ。上下5町(約550m×約1100m)
の範囲内は行動自由であった。
(★『真田三代』:平山優著)

真田昌幸は配流後、九度山から、赦免の希望を書いた手紙が残って
いる 
真田昌幸は徳川秀忠に大したことはしていないと思っていた
「何で俺はこんな罰を受けねばならぬのか?
 もう上田に返してくれ・・・」
画像



●▲■ 「上田城の真田の明け渡し」箕輪初心:生方

1) 諏訪頼水
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
  諏訪頼忠・諏訪頼水が従軍した。

8月 徳川家康の関東移封
  諏訪頼忠父子は武蔵国奈良梨に所領を与えられた。

・慶長2年(1592) 上野国総社へ移封。
諏訪頼水が家督を譲られた。

・慶長5年(1600)
8月24日 徳川秀忠軍に随行した。
9月 真田昌幸・信繁の上田城明け渡しには、徳川方の
諏訪頼水・依田信守・大井政成・伴野貞吉らがいた。
12月13日、真田昌幸・信繁は高野山に向かった。
 
★後、惣社城→井伊直政後の高崎城留守居
    →高島城(日根野減封移封):先祖の地へ



2) 依田信守
 (★依田信守は平山氏の間違いだろうか?
・天正3年(1575) 長篠戦い  
  依田信守:死亡
・天正10年(1582年)3月 依田信蕃は徳川家康に田中城(藤枝市)
 を攻められたが、籠城を続けた。
3月11日 武田氏滅亡

  依田信蕃は春日城(長野県佐久市春日)へ帰還した。
  依田信蕃は依田8家の内、唯一、徳川家康の家臣となった。

 7月13日 真田昌幸・大井政成・岩尾大井行吉・望月らは
 北条に属した。
 
 8月 真田昌幸は徳川に属し、依田信蕃と組んで、
  北条の補給路を絶った。

・天正11年(1583)
 2月21日、依田信蕃は岩尾城の大井行吉を攻略に苦戦。
 2月22日、依田信蕃・実弟:信幸が大井の銃撃を受けた。
 2月23日、依田信蕃はに死去した。享年36。
 真田昌幸も五郎兵衛新田の近くに応援に来ていた。
 真田昌幸は岩尾城の城代になった。
 
 大井行吉は開城し、上野国の内藤昌月・伴野貞長・信行を
 頼った。
 ★保渡田村には起請文にある武田遺臣:内藤昌月(保科正直
 の弟)、塚越半七(伴七=My母先祖)や友松子孫・土屋一族(金丸
 虎義)の子孫などがいた。
 もしかしたら、相木昌朝・伴野貞長も保渡田にいたと考えられる。
 依田武勝氏が依田信蕃に田口城を攻められ、(大導寺政繁?
 ・北条氏邦を通じて、)上野国に逃げたとある。

 長男:依田康国が父:信蕃の菩提を弔うために蕃松院を建立した。
  依田信蕃の嫡男:依田康国は徳川家康より松平姓を貰い、
 小諸城主となった。

・天正12年(1584) 大井行吉は2年後、保渡田村で死んだ。
 享年43。

  
・天正17年(1589)
 相木市兵衛頼房(母は依田昌景の娘)は北相木で
  1000人集めた。
  伴野貞長が上野から参陣した。
 ★相木市兵衛も上野の保渡田にいたかもしれない?
  田口城で蜂起した。
  
  相木昌朝(依田能登守)の子:房頼・伴野貞長は
  佐久田口城・稲荷山城(勝間田城)
  でかつての所領回復を図った。

  佐久の木次原の戦い(稲荷山城付近)
  
 しかし、依田康国に破れた。
 伴野貞長・相木市兵衛頼房が戦死した。
 (相木市兵衛昌朝直系子孫:依田武勝氏の本の説)
 ★伴野貞長の弟:伴野信行は宗家を継いだ。
  上野国に伴野Hしゃん(拙宅4軒隣)の先祖である。
  
  

・天正18年(1590) →依田信蕃→松平康国
    天正18年(1590)前橋・石倉城で騙され死亡。
依田8家・・・どの依田氏なのだろうか?
「武家家伝」Hpによると、
依田信蕃の弟:依田信幸の子に依田信守がいる。
松平康国の従兄弟ということになる。


・慶長5年(1600)
8月24日 徳川秀忠軍に随行した。
9月 真田昌幸・信繁の上田城明け渡しには、徳川方の
諏訪頼水・依田信守・大井政成・伴野貞吉らがいた。
12月13日、真田昌幸・信繁は高野山に向かった。
 



3) 大井政成
大井貞隆の弟:貞清(玄信)の孫である。

・天文15年 大井貞清は真田幸綱の命乞いで救われた。

・永禄9年(1566) 武田の箕輪城攻略。
大井貞清・伴野助十郎は箕輪城城番。
 
・永禄10年(1567) 根小屋城(現高崎)築城
やがて、大井貞清・伴野助十郎は根小屋城城代
  高崎根小屋城代:大井貞清の没後、大井政成は大
  井家惣領として信州に1300貫文を領してした。

・天正4年(1576) 箕輪城の禰津松鴎軒政直(勝直の弟)
  ●3月27日 奉者:跡部大炊助→瀬戸神十郎
   瀬戸神十郎は信濃海野の内の15貫を宛がう。
   武具を用意して箕輪城に在城をお願いする。
   @城代・・・不在
   A在番衆・・・祢津松よう軒・大井高政・大井満安
   C番手衆・・・瀬戸神十郎は新規で箕輪城に入った。

 ★大井高政の子が大井政成である。
 
・天正10年(1582)
 3月11日 武田氏が滅亡。
  6月2日織田信長が本能寺の変に倒れた。
  8月 徳川家康の配下:依田信蕃は佐久攻撃を開始した。
依田信蕃は真田昌幸(北条を裏切った)と手を組んだ。
   依田信蕃は真田昌幸と耳取城を攻撃した。
    大井政成は降服した。
   ★佐久:耳取城主:大井政成は徳川家康に仕えた。
 

  ・天正11年(1582)
  依田信蕃は真田昌幸・大井政忠は岩尾城攻撃した。
岩尾大井行吉の籠城した鉄砲衆に狙い撃ちされ、
 弟と共に戦死した。大井行吉は開城し、箕輪城
 方面の身内を頼った。
  
  依田信蕃と子:依田康国が小諸城主となった。
  徳川家康より松平姓が与えられ、松平康国となった。
  大井政成は松平康国に仕えた。
 
・天正18年(1590)北国勢として、真田昌幸・信幸・幸繁と
 松平康国・大井政忠は上野:松井田城城攻めに加わった。
松平康国・大井政忠は石倉城受け取りに行ったが、松平
 康国は騙し打ちにあった。松平康貞(依田信蕃2男)の
 家老として、小田原城攻めに加わった。
 関東入封後は松平康貞(依田信蕃2男)に属して上州藤岡に
 1300石の家老であった。松平康貞が小栗上野介の先祖をトラブ
って改易されると高野山に大井政成と子:政吉も同行した。
 
・慶長5年(1600)、下野小山で徳川家康に拝謁した。
 徳川秀忠と共に木曽路を上がるよう命じられた。大井政成
 は病のため、大井政吉が陣代となった。上田城の受けとり
 に加わった。関ヶ原合戦後、上田城守将となった。
 後に藤岡に所領を得た。

・慶長8年(1603) 9月16日に没した。享年55。

・慶長12年(1607) 大井政成の菩提のため嫡子:
 大井政吉が木部北城玄頂寺を建てた(伝)。
  開山は斧翁舜芳大和尚(望月町康国寺兼任)。
 現在、玄頂寺の住職は大井氏。
でも、大井氏の歴史はご存じなかった。


4) 伴野貞吉
・天正10年(1582)
3月11日 武田氏が滅亡。
  6月2日織田信長が本能寺の変に倒れた。
6月19・20日 神流川の戦い
7月初旬 内藤昌月・配下:伴野十郎左衛門は北条軍に
 従軍し、小諸城に行った。

8月 高遠城を奪われていた保科正直(内藤昌明実兄)
 の高遠城奪還のため、内藤昌月配下・伴野十郎左衛門の
配下500人で攻撃して、奪還した。
伴野十郎左衛門は高遠に移り住んだ。
伴野貞長と弟:伴野信行は???


・天正17年(1589)佐久稲荷山城の戦い?
  伴野貞長は上野の箕輪か保渡田か根小屋?にいたが、
  相木昌朝と挙兵すべく、佐久に戻り、田口城を奪い
返した?奪還した?・・・
  相木昌朝、伴野貞長らの佐久地方の旧領主が挙兵した。
  松平康国は佐久の平尾城(佐久パラダ)下に集結した。
  佐久の木次原の戦い(稲荷山城付近)
  相木昌朝・伴野貞長は戦死した。
伴野貞長の弟:伴野万次郎信行が伴野総領家を継いだ。
  ★伴野万次郎信行の直系子孫は拙宅の3軒隣である。
    伴野利右衛門??と17代?続いて現当主。武田家臣の
    会に誘われているというが、入っていない。
    依田系相木家依田武勝氏は入っている。


 
 北条家臣として、上野国では内藤家・伴野信行・裄V与右衛門
 和田信業(跡部資勝の長男)・倉賀野秀景(+養子:跡部家吉)
木部高成などが有力武将が揃っていた。


・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原城攻撃
和田信業(跡部資勝の長男)・倉賀野秀景(+養子:跡部家吉)
木部高成は小田原城に籠城していた。

 北国勢:前田・上杉&真田昌幸父子・松平康国(依田信蕃
  嫡男)が上野に攻めて来る情報を得た。
  (依田信守→依田信蕃→依田康国・依田康貞)
 

  総領家:伴野信行(伴野貞長弟)が北条氏に従っていたので、
  依田信蕃系の依田氏と天正10年(1582)以降、ずうっと
  敵対していた。
 
 秩父の三峯神社(三峰神社)に逃れた。
 ここで、伴野信行が匿われた。・・・
  その後、佐久で市川五郎兵衛真親(五郎兵衛新田)
  の父に助けられた。


7月 倉賀野秀景が早川口で討ち死にした。
7月5日 小田原城開城

8月、井伊直政が箕輪城に入城した。
上野国(群馬県)出身の家老・・・
@長野十左衛門、長野伝蔵(→長野業実)
A長野無楽斎(長野業通の子)
B熊井戸姓→岡本半助(小幡家老→北条氏の上泉流家法)、
C宇津木治部右衛門(玉村:武田→北条→稲富流砲術)、
D和田信業の子:2男:和田主殿(和田城)、
E里見河内守の子?石井信房の子?:里見内蔵充(里見城)、
F萩原図書(安中):井伊直継養育係・・・
G内藤昌月の次男:内藤信矩が井伊家家臣
  保科正俊→
  ※長男:保科正直→保科正直→保科正光(妻は真田昌幸に娘)
  →徳川家忠から養子:保科正之(会津藩主)
     西郷家は会津藩第1家老
西郷能員は井伊家家老
  ※次男:内藤昌月:保渡田城主(箕輪城主)
→長男:内藤直卓は八千穂で帰農→保科家家老
       →次男:内藤直矩→内藤茂登(井伊家家老)

伴野信行&裄V弥右衛門は帰農した。

やがて、和田主殿は高崎に戻ってきた。
 おそらくは玉田寺を継いだ。

 里見内蔵充は、安房の里見の2男筋が中里見を治めた
 関係で、秋間に済んだ。
 これが「竹本英之先生発表の「里見吉政」に繋がっている。


一方、依田康国の弟・依田康貞は藤岡の芦田(第一小学校)
に移封となった。
第一家老は大井政忠1000石・第二家老は伴野貞吉500石
であった。





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●▲■参考図書

【1】【真田三代】:平山優著 P260~263
 第2次上田合戦で、真田昌幸は大勝利した。真田昌幸は信濃・
甲斐を掌握するつもりであった。しかし、西軍は壊滅したため、
真田昌幸は完全に支援も望めなくなった。
平山「もし、長期戦であったならば、独壇場になっていたかも
   しれない。」
徳川家康の憎しみは激しく、当然、昌幸・幸繁を死罪と決めていた。
しかし、真田信幸は本多正信や舅:本多忠勝にすがって、助命嘆願
を行った。家康もついに折れ、死罪を免じ、高野山追放を下知した。
12月13日、真田昌幸・幸繁は上田を後にした。信幸(平山説では
「信之」ではない。)と別れる時、
「さてもさても、口惜しきことかな。内府こそ、かくしょふと思ひ
しに」
と述べた。昌幸54歳。信繁34歳。
 上田より、池田・原・高梨内記・小山田治左衛門ら16人が従い
高野山に向かった。主従が高野山の麓:細川に落ち着いた(伝)。
その後、蓮華定院に厄介になった。蓮華定院の斡旋で、九度山に
屋敷を構えて移り住んだ。上下5町(約550m×約1100m)
の範囲内は行動自由であった。
監視は和歌山城主:浅野幸長にさせた。



【2】【真田三代と信繁】:丸島和洋著
7月21付 石田三成→真田昌幸
7月27日 真田昌幸→石田三成は7月21付手紙を受け取った。
背景
 
●石田正継→石田三成
     |  →石田重家
 姉:咬月院
●宇田頼忠→宇田頼次(石田正継の猶子)
| →女子(滝川一積養女・小山田之知室)
●真田昌幸→趙州院殿      
※真田昌幸は石田三成の取次でもあり縁戚でもあった。
 真田昌幸は会津の上杉の「取次」であった。

真田昌幸は信濃・甲斐の2国を・・・石田・毛利が協議
「真田丸」では大谷と・・

9月5日 丸島説「準備ではなく、攻めさせる策ではないか?」

※丸島説「遅刻は家康の戦況の見間違いであった。



【3】【真田幸村がよく分かる本】:押鐘太陽著
西軍は外に、青木一矩20万石・増田長盛20万石、宇喜多秀家
57万石、長宗我部盛親22万石、毛利秀包13万石、立花宗茂13
万石など・・・
押鐘「信幸→信之は幸の字をはばかったため、父との関係を絶つ
    ため、・・・」
浅野幸長より50石
※1石=10斗=100升・・・150kg・・・2俵半
 1斗=10升=約15kg
※30kgで250袋
・・・でも足りなかった。
沼田に金・酒(焼酎)の無心の書状がたくさん届いた。
書・碁・釣り・農耕などをしていた。



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