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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸113【第34回「挙兵」のあらすじ】&「ちょっと福島正則]

<<   作成日時 : 2016/09/03 19:58   >>

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石田三成の伏見徳川屋敷襲撃&家康暗殺の失敗→@前田利家の調停
→A石田三成の大坂蟄居→B前田利家の死→C秀吉直臣7人の大坂
石田屋敷の襲撃失敗(「真田丸」では雰囲気は伏見にある屋敷)→
D石田の伏見城治部少丸在城→E石田の7人押さえ作戦=徳川家康
に援助仲裁依頼→F佐和山城に蟄居、G徳川家康は伏見城代→徳川
家康は真田幸繁を味方に引き入れようとしたが、断られた。
画像


★1月10日  豊臣秀頼は前田利家と徳川家康に警護され、伏見
  城から大坂城へ居を移した。
◆ナレーター
「・・・・石田三成は徳川家康の襲撃が未遂に終わった。・・・
 三成は徳川屋敷に攻めかけ、家康を排除しようとしたが失敗
 した。三成は、その責を取らされて謹慎する事となった。


●伏見の石田屋敷
三成妻「・・・こうしてゆっくりするのは久しぶりです。」
三成「・・・そうでもない。」
妻「・・・」

幸繁「この文書は何ですか?・・・」
三成「・・・出陣の記録など・・伏見城から持ち出しておいた。」
幸繁「石田様らしいですね。」


幸繁「妻のことですが、以前石田様がおっしゃっていたことが
   気になっています・・・」
三成「なんだ。」
幸繁「あの女(お春)は苦労するぞ。
    とおっしゃいました。・・・どういうことですか?」
*回想シーン」
三成「・・よければ、おつかいください。」
とハンカチ?を渡した。
春は三成の妻に「・・・私たち、愛し合っているんです。
  別れてください。」」
「・・時のこと・・・・阿智帯私にほれてしまった。・・
 「・・・思いおうております。」
「 すべた思い違いじゃあ・・・」
「いやあ」と・、寝っ転がって・・泣き叫ぶ。」
***********************
幸繁「・・・・苦労しそうですね。」 
三成「・・・・しっかりな」


●大坂城

春「・・・お帰りなさい。」
・・・???をいただきました。」
「石田様の所によってきた。石田様はこのところ・・・・」


★「2月18日・19日  豊臣秀吉の葬儀が京都の方仏寺で
     2日間に渡り、行われた。」

★「2月26日 徳川家康は4大老・五奉行の詰問に対し、
        誓書を交換し和解した。」

◆ナレーター
「2月29日、前田利家は徳川家康を訪ねた。」

●伏見城 
利家「三成のこと、水に流してくだされ。」
家康「・・・」
しぶしぶ承諾した。


●伏見の前田屋敷
★3月12日 徳川家康は病床の前田利家を見舞いに赴いた。

 家康「いかがでござるか?」
 前田「すまんなあ。・・・
 徳川「・・・」

◆ナレーター
「三成は謹慎をとかれ・・・」




●伏見の前田屋敷
加藤など朝鮮組が前田利家に直談判のため乗り込んだ。・・・
加藤「前田殿、治部を許せません。」

加藤「食うか食われるか?」
利家「ワシはもう長くはない。
・・・
  「治部と力をあわせて、豊臣をまむりぬけ・・・」


●大坂城
お寧「・・・葬儀も済みました。」
幸繁「  ??」
お寧「・・・出家するつもりです。
   ・・・整理し始めました。
    きりには細川家に行くようにすすめておきました。」

●伏見の徳川屋敷・・・

●伏見の真田屋敷・・・
「京・伏見が混乱する。今のうちに、ここを離れよ。・・・」
・・
きり「・・・私、キリシタンになる。」
幸繁「本当か?」
きり「なれないけど、・・・」
・・・
幸繁「上田に帰れ。」
きり「そういうの大好き・・・2人で一緒に切り抜けましょう。
信繁は、幼馴染のきりに対して信濃上田城へ帰るよう忠告するが、
・・・きりは信繁の忠告を聞かずに細川忠興の正室:細川玉
 (細川ガラシャ)の元へと身を寄せることとなった。


●大坂城

桃の木の話・・
「桃のはな?・・・子の成長を・・

三成「徳川内府を信じてはなりません。」

茶々「・・」ものを植えるのは。・・・」

◆ナレーター
「閏3月3日  前田利家が死去した。享年62。
 事は収まるかに見えたが、加藤清正や福島正則ら秀吉子飼い
  の武断派武将たちは三成の謹慎では収まらず、三成襲撃を
  企てる。」

●加藤屋敷?
「天命じゃ。・・」

●大坂城
福島「治部少を渡せ。」

長塚「・・待ってくれ。・・」
加藤「引き渡せ、・・・」

長塚「左衛門佐に任せよう。」

●大坂の石田屋敷 ばつ
清正らの襲撃によって危機に立たされることとなった
三成を救おうと信繁は一計を案じ、
兄・信幸の協力の下、三成を救出すべく策を巡らせるのであった。

「あにうえここまで・・」


●細川
玉「・・・・」
きり「・・・」

玉「石田様のお屋敷に好きなお方がいると聞いたが・・・。」
きり「・・片思いですけど。・・」
玉「それはどうでもよい。
石田様の屋敷が襲われる。

●伏見の真田屋敷
きり→幸繁
きり「加藤・福島・黒田・藤堂・細川・加藤・浅野」
幸繁「・・みな子飼いの・・・
きり「私はいつも役にたつでしょう。」
幸繁「たまにな・・・」



●伏見の治部屋敷
三成「なぜ、わたしを、45・・・・」
幸繁「・・とにかく、お逃げください。
三成「治部少丸に行く。」

幸繁「 左近、兄上を呼んできてくれ・・・」

〜〜〜〜

信幸「話は聞いた。」

信幸「とにかく蔵に運ぼう・・・」
幸繁「やってしまいましょう。」

そこへ、7人がやってきた。
幸繁「兄上、ここまでです。」


※幸繁と信幸は将棋をさしていた。
幸繁「・・・」
加藤「治部を出せ。」
幸繁「ここにはいません。」

幸繁「なんの咎で・・・」
加藤「大罪人じゃ。治部は勝ってに政治を独り占めした。」
福島「・・・内府様の命をねらった」

信幸「豊臣家同士の戦いではござらぬか?、・・・・」
加藤「治部はどこだ。」
信幸「真田と一戦交えるのなら、国同士の戦いになる。それでも
   よろしいか? お受け申すが・・・」


加藤「ほかを探そう。」
7人は引き下がった。
信幸「お前の番だ。」・


誰かが将棋板をひっくりした。
幸繁・信幸は「・・お主の負けじゃ。」

隠れていた三成
「伏見城に入る。」
◆ナレーター
「後藤又兵衛であった。後に、真田幸繁と後藤又兵衛は大坂城で
  活躍することになるが、この時は黒田官兵衛の家臣であった。」


幸繁「お共ともします。
三成「お前はここまでじゃ・・」
と三成を制す。



●大坂城

幸繁「・・・秀頼様を・・・」
お寧「・・・秀頼を巻き込むのは・・・・」
茶々「板挟みになりませんか・・・
   秀頼殿のためになりますか?・・・」



●伏見の大谷屋敷
大谷「難しいことになったな」

大谷「一人だけ・・」


●徳川屋敷(★実際は大坂城にいた)
幸繁は家康に会いに行った。
幸繁「・・石田様を・・・」

家康「ワシ一人がしゃしゃり出るのはわけにはまいらぬ。・・・」


正信「7人と石田様・・まとめて始末するというのはどうでしょう。」
家康「加藤・福島・・・はまだ、何かの役に立つ。」


7人はイライラしながら、待っている。・・・
「いつまで待たせるのだ。・・」

忠勝がにらみをきかせる。

家康・・・7人と対面・・
家康「・・・石田とうばつ・・・誠に御苦労でござった。」


幸繁が別の部屋で待っている。
正信「引き下がりました。治部少様は蟄居・・・
   政ごとから身をひいていただくことにした・・・」

●伏見城治部少丸
幸繁は報告した。
三成「何故だ。・・・殿下に全てをささげ、・・」
幸繁「・・・」
三成「何故、伏見を追われねばならぬ。」
幸繁「 太閤殿下はわかっています。・・・
    誰寄りも・・・」
三成「頼みをきいてくれ。
   1つだけ・・虎の助(加藤清正)に会わせて欲しい。」

●伏見の徳川屋敷
江雪斎「太閤殿下が・・・


●伏見城治部少丸

三成「謹んでお受けいたします。・・・」

三成は加藤清正に内緒ごと・・・
「?***」

★推理
「私はいずれ徳川と戦う。もしも私が死んだら、お主が家康から
秀頼様をお守りしろ。今は徳川につけ。徳川と豊臣は戦さになった
ら、秀頼様をを熊本城でお守りしろ?」
かなあ?

三成「参るとしよう・・」


石田は幸繁をみて
  「今生の別れだ」

◆ナレーター
「蟄居の3日後・・・家康が伏見城に入った。

★閏3月10日  石田三成は佐和山城へ隠退を余儀なくされた。
★閏3月13日  徳川家康は伏見向島の邸宅から伏見城の西の丸へ

●伏見城
家康「わはっは・・・」

徳川家康に幸繁は呼ばれた。
家康「これから、どうする。」
幸繁「全く考えていません。」
家康「ワシの下につかぬか?」
幸繁「・・・お断り申します。」

家康は手を差し伸べる。
家康「お主をかっているのだ。」
幸繁「・・・」
家康「・・・・」
幸繁「お断りいたします。」
家康「何故、」
幸繁「・・・・石田様が誰よりも豊臣家のことを考えておりました。
 ・・・」
家康 「・・・」
幸繁「どう思われようと勝ってです。」
家康「最後にもう一度だけ言う、わしの家来になれ。」
幸繁 「お断りいたします。」


家康「下がれ・・」
幸繁「失礼いたします。」

きちんと挨拶した。
家康はにがにがしく思った。

●真田屋敷
幸繁「これで、おやくごめんだ。」
春「春のところにいてくれるのですね。
・・・・・
・・・・
幸繁「いずれ、上田にに・・・」
春「楽しみでございます。」


●大坂城
片切「・・・断ったそうだな。」
幸繁「・・もうお耳に入りましたか?」

桜の木・・・枯れそうである。
茶々「そちは田舎育ち故、桃の木の育て方を知っている
   であろう。」
幸繁「知りません。」
茶々「役に立たないこと、・・・」
幸繁「水が多すぎると根が腐ります。」

幸繁「三十郎・・・」

茶々「・・・正直、好きではごさいません。石田様が
  何を考えているかわかりません。」
幸繁「・・・」
三十郎「・・・折れてしまいます。」
片桐が転んだ。
秀頼が笑った。



★5月19日  長宗我部元親が伏見にて死去した。享年61。

★9月7日  徳川家康は伏見より大坂に向かった。
      徳川家康の暗殺の噂がたった。
★9月9日  徳川家康、重陽(ちょうよう)の節句に、豊臣
      秀頼に賀意を表するという名目で大坂城に登城し、
      そのまま大坂城西の丸に移り住んだ。
****************************
●伏見城
 徳川家康は、天下取りを虎視眈々と狙っている。
 8月、領国会津に戻った上杉景勝に対して謀反の疑いをかける。

●会津
上杉景勝は家康からの上洛命令を断固拒否した。

◆ナレーター
「それから、1年が過ぎた。・・・・」
  直江兼続は・・・

◆「直江状」の朗読・・・

「・・・・」
★痛烈な批判

家康は直江状を破り捨てた。
家康「許せん。上杉景勝、・・」

●伏見の真田屋敷
幸繁「出陣しますか?」
信幸「その上杉と一戦まじえるか」
昌幸「・・・家康を討とうと思う。
   ・・本陣へ・・・は
幸繁「のそ先は・・」
昌幸「・・・信玄公の領地を奪い返す。・・・」
   ・・氏政は死ぬ間際、生きていれば、楽しいものが
    見られるとおっしゃった。
   ・・わしのわがままきいれくれんか?」
幸繁「源二郎は父上に従います」」
昌幸「そっちは?」・・
信幸「私は真田安房守の嫡男・・・。父上に
    従うのに決まっているではありませんか
   稲の父と戦うことになりますが、・・・?


手をとる。・・・
〜〜〜〜

信幸「再び、戦乱の・・・
幸繁「上杉様は上には立ちません。」
「なんとか、なります。
  宇喜多様は・・・・・・
秀頼様は聡明な・・・
   
信繁「混乱がおきない・・・」

●伏見城
家康は名目を欲しがるが・・・

「・・・」
・片桐「豊臣の名目は出しません・・・」

片切はことわった。・・・


●大坂城
幸繁「とよとみ VS うえすぎ の戦いに・・」

家康「豊臣公の・・・」
お寧「なりません。」

家康「陣中見舞いということで・・・」
家康は茶々
上杉征伐に・・・
「2万両・・2万石・・・ 」

茶々は承諾した。

侍女は「すぐに手配・・・」

家康「太閤殿下のひょうたんとはたのぼりがあれば、更に
   士気が上がります。」

◆ナレーター
「6月16日・・ 家康は軍旗をかかげ・・高らかに・・
そして大坂では


●大坂城
片桐「伏見城を出たようです。」」
宇喜多「内府を弾劾すべき時が来たのじゃ・・・」


別の部屋に
宇喜多「これでよいのだな?」
石田三成がいた。
治部「・・・あと、毛利様が到着されれば・・・」


●真田屋敷
昌幸「・・・未曾有の大戦さになるな?・・」



1)福島正則の生まれ故郷・・・・愛知県あま市
   ★行っていない。
2)福島正則の清州城24万石

箕輪初心●愛知「清洲城」=NHK「織田信長&江の城」
http://53922401.at.webry.info/201103/article_5.html

箕輪初心●愛知「清洲城2回目」 =織田信長の城
http://53922401.at.webry.info/201206/article_7.html


3)安芸・備後2ヶ国49万石の大出世
  西軍総大将だった毛利輝元
  福島正則の築いた城・・・・広島城
改修工事・・?・・
箕輪初心●広島【広島城】&【縮景園】
http://53922401.at.webry.info/201105/article_24.html



4)福島正則の左遷された館・・・長野県高山村

箕輪初心:生方▲真田丸88【須田満親&真田昌幸】&『福島正則陣屋』
上高井郡高山村散策3回
http://53922401.at.webry.info/201604/article_28.html



*************************
閏3月13日
■前田利家が死んだ。

■武断派七将の三成襲撃事件=石田三成暗殺未遂事件が発生。
  石田三成と対立していた武断派の武将7名が結託し、
  石田三成の襲撃を計画したのだ。
  メンバーは福島正則・加藤清正・黒田長政・藤堂高虎
   ・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長の7人である。
  
  石田三成は事前に察知し、襲撃前に姿をくらました!
  石田三成は徳川家康の屋敷に逃げ込んだとも、家康次男:結城秀康
   に仲裁を頼んで自分の屋敷に逃げたとも言われているが、
  徳川家康の屋敷であった。
  (★大河ドラマ「江〜」では)
  →ライバルである徳川家康が仲裁。
  石田三成は居城:佐和山城に蟄居(結城秀康が見張り番)
 (★NHK大河ドラマ「江〜」)
 徳川家康が事件の調停に乗り出して七将の矛を収めさせたが、
 代わりに石田三成を謹慎処分とした。
 つまり、石田三成は実質的に失脚してしまったことになる。
  事件によって豊臣家を牛耳るうえで最大の目の上のたんこぶで
  あった石田三成の政治生命を実質断つことに成功したした。
  
  ほかの五大老達も領地に帰った。
  政務の中心は徳川家康になった。

「上杉景勝が無断で軍備の増強を進め、城の防備も固めており、
  合戦の準備をしている。」という噂話は流れていた。

★徳川家康は、次に五大老の1人で、最も反徳川家康の色彩を鮮明
  にしていた会津の上杉景勝に目をつけ、上杉景勝に「謀反の疑い
  あり・・・。」と言いがかりをつけ、会津征伐の口実を作ったの
  かもしれないが・・・・。

・慶長5年(1600)
徳川家康の上杉景勝への会津攻撃の経過
     (★会津城)

1月 徳川家康は、各地の大名家に年賀の挨拶を求めた。
    上杉景勝だけは断った。
 
3月 越後:堀秀治、出羽:最上義光から、会津の上杉景勝に軍備を
   増強する不穏な動きがあるという知らせを受けた。
    
  上杉氏の家臣で津川城城代:藤田信吉が会津から出奔し、
  江戸の徳川秀忠へ
  「使者であった家臣:某を処罰しようとしています!
  その上「内府様(家康)に上杉景勝が謀反の気配があります。」
  と報告した。
  →徳川家康は上杉景勝の元へ伊奈昭綱を正使として派遣した。
  
  徳川家康は、釈明を求める手紙を上杉景勝に送った。

〜〜〜〜直江状〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜^^^^  
上杉景勝の重臣:直江兼続が『直江状』と呼ばれる書簡を返書
  として送ってきた。
「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので、
 釈明の必要もない。軍備を進めているのは東北の大名に対する
 備えをしているだけだ。そちらは京都で茶器でも集めているん
 だろうが、こちらは田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思っ
 ている。だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをしていたくせ
 に、人に違約違反を言うのはおかしい。前田家をお仕置きした
 らしいが、大層なご威光だ。あらぬ噂を真に受けて汚名を着せ
 ようというのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもか
 かってきなさい。」という勇ましいものであったそうだ。 
     
■徳川家康に堂々と挑戦状を叩き付けた有名な「直江状」
★平成21年(2009)夏・・新潟県六日町の博物館で公開。
★平成21年(2009)春・・長浜城博物館企画展でも公開。
 直江状については様々な説がある。しかし、
 「関ヶ原の戦い」 の引き金になったことは確かである。

    
★徳川家康は激怒しまくった。
徳川家康 は、「上杉家の謀反の疑いはもはや確実、討伐する
 ために出陣する!」と会津征伐を宣言した。

 

 徳川家康に後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜された。
豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石を下賜された。
 →これにより、朝廷と豊臣氏から家康の上杉氏征伐は
 「豊臣氏の忠臣:家康が謀反人の景勝を討つ」大義名分を得た。     
(★NHK大河ドラマ「天地人」)
★徳川家康は「会津征伐は豊臣秀頼の命令である。」という形
 を整えた。豊臣秀頼の命とあれば、豊臣家の大名たちは従わざ
 るを得ない。前田利家すでに亡く、石田三成も失脚してしまって
 いる状態では、豊臣家家臣には、徳川家康に逆らえるものは誰も
  いなかった。  


★徳川家康は豊臣政権のために働くという考えより、
 自分が大阪を離れれば、石田三成が挙兵するだろうという
 考えがあった。つまり、徳川家康は石田三成に挙兵させる機会を
 つくるために会津征伐を利用したらしい。              
(★NHK大河ドラマ「江〜」)

徳川家康は会津討伐を発令した
ここに関ヶ原の戦いが始まりを告げたのであった・・

徳川家康が上杉景勝を討伐するために軍を東に向けて行軍している
時に、失脚し謹慎中であった石田三成が打倒家康のために挙兵する。

・・・・→関ヶ原の戦いが始まるまでの一連の流れとなる。

「石田三成&上杉景勝も共謀説」
一説によれば「上杉景勝と石田三成は既に呼応しており、上杉景勝
は徳川家康軍を釘付けにして、石田三成の挙兵を促したという説が
ある。
【真田丸】は説を「石田三成&上杉景勝も共謀説」応用して、
「動乱」の中で上杉景勝と石田三成にだきあい、上杉景勝は石田に
協力して、徳川家康と戦う決意をするシーンが出ていた。今回は
その「動乱」の延長家にある。



石田三成が大人衆(五大老)bQ前田利家を後ろ盾にしていたため、
手を出せなかった。従って、前田利家が死亡した日の夜、武功派の
に「三成討つべし」の声が一気に沸騰した。

・閏3月3日武 断派七将の三成襲撃事件
 石田三成暗殺未遂事件が発生。
石田三成と対立していた武断派の武将7名が結託し、石田三成の
襲撃を計画したのだ。朝鮮での戦いの評価をめぐり、加藤清正ら
7将が石田三成の大坂屋敷を即座に襲撃したのであった。
メンバーは福島正則・加藤清正・黒田長政・藤堂高虎
 ・細川忠興・加藤嘉明・浅野幸長である。
 
情報を入手にした石田三成は事前に察知し、襲撃前に姿をくらま
した。
舞台は大坂→京都・伏見に移った。
石田三成は宇喜多秀家を頼った。

閏3月4日、石田三成は親交が深かった佐竹義宣の援助を受けて
伏見城に逃げ込んだ。
石田三成は伏見城治部少郭に立て籠もった。
7将は堀を挟んで対峙した。
膠着する。・・・・
というよりは、豊臣政権のおひざ元:大坂城下と伏見城下を騒がす
のは、得策ではないことを十分に心得ていたからである。

石田三成は事態打開のため、ある人物に調停役を頼むことにした。
その人物とは常に対立関係にあった徳川家康だった。
そして、とうとう政敵の徳川家康を頼ったのである。
@石田三成は徳川家康の屋敷に逃げ込んだともいわれている。
A徳川家康の次男:結城秀康に仲裁を頼んで自分の屋敷に
 逃げたとも言われている。
いずれにしても逃げ込んだ先・入り込んだ先は伏見の徳川家康
の屋敷であった。
 (★大河ドラマ「江〜」では)
??「殿、石田治部少輔殿が参られております。」
伏見の徳川屋敷にいた徳川家康のもとに、石田三成が突然やって
きた。
徳川家康は、眉をひそめる。
「治部が?いったい何用か?」
と聞くと、
?? 「子細は存じませぬが、『命を狙われているゆえ身を隠させて
ほしい。』と…。」
家康は「別室にお通ししろ。」と命じた。
徳川家康は「なぜ?」と不思議だった。
三成を保護するか、斬るか・・・
家康が選択を迫られた。
徳川家康は石田三成に対面した。
三成「こたびは、突然参上致し大変ご迷惑をおかけいたします。
   加藤殿、福島殿ら7人がそれがしを襲撃せんとしている
   との報を受けまして、恥ずかしながら逃げてまいりまし
   た。」
家康 「・・・治部殿がよもやこのワシのところに逃げてくると
   はの。」
徳川家康は石田三成を救うことにした。
家康 「治部殿、いまワシは政敵たる貴殿を討つこともできる。
   されど、懐の鳥は撃たぬものよ。こたびは加藤、福島ら
   はわしが説得し、貴殿を佐和山まで警護をつけて安全
   に送らせよう。それでよいな?」
三成「かたじけない。ご配慮、痛み入りまする。」

閏3月5日、伏見の徳川屋敷に浅野幸長がやってきた。
浅野「三成の身柄を引き渡していただきたい」
家康「三成は確かにワシのところにいる。何かあればこちらから
   伝える。」と三成を引渡さなかった。
徳川家康は7将を説得した。
家康は「今後も襲撃の可能性はあろう。貴殿がために言うが、
   職を辞し隠居されるがよろしかろう。」
石田三成は佐和山に送り届けられ、隠居した。
→徳川家康ライバル:石田三成と武断派を仲裁することにした。
石田三成は居城:佐和山城に蟄居させた。(結城秀康が見張り番)
 (★NHK大河ドラマ「江〜」)
閏3月10日 徳川家康の次男・結城秀康の警護のもと、
  石田三成は伏見を去って、佐和山城に蟄居した。

閏3月13日 徳川家康は伏見の向島の徳川屋敷から、伏見城内に
  移った。


閏3月19日 徳川家康ら大人衆(五大老)の評定
石田三成が失脚により、発言力を高めた徳川家康は五大老会議
を招集した。
「蔚山(ウルサン)倭城の戦い」
軍目付の福原長堯・熊谷直盛・垣見一直は、蔚山救援軍の陣所に
明軍部隊が攻撃を仕掛けたとき、先鋒の蜂須賀家政・黒田長政が
「合戦をしなかった」と豊臣秀吉に報告した。
太閤秀吉の不興を蒙り、蜂須賀家政は三城放棄案の件と併せて
領国への逼塞が命じられた。目付の早川長政・竹中隆重・毛利高政
も秀吉の不興を蒙り領国への逼塞が命じられた。
一方、福原長堯・熊谷直盛・垣見一直には報告の褒美として豊後国内
に新地が与えられていた。
「蔚山(ウルサン)倭城の戦い」の責任を取たされた黒田長政と
蜂須賀家政、蔚山城救援諸将に「落ち度がなかったことは歴然と
している」との裁定を下し、処分の撤回と名誉回復の処置がとられ
た。所領を没収された早川長政には豊後府内城とその領地を返還す
る、という決定を下した
朝鮮遠征の際に生じた亀裂が深いものであった。
    
徳川家康は、石田三成を助けて豊臣政権の内部分裂を狙っていた
のかもしれない。
結果・・・豊臣政権に対して有利な状況を作り出した。

ほかの五大老・毛利・宇喜多・上杉達も領地に帰った。
政務の中心は徳川家康になった。

「上杉景勝が無断で軍備の増強を進め、城の防備も固めており、
  合戦の準備をしている。」という噂話は流れていた。

徳川家康は上杉景勝・直江兼続の動きも気になっている。
大人衆(五大老)&五奉行の中で、関ヶ原の戦いになる過程での
主要な人物が徳川家康 と 石田三成である。



★明日は?

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