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zoom RSS 箕輪初心:生方▲西伊豆R【土肥の富永一族の歴史】と『菩提寺:青雲寺』

<<   作成日時 : 2016/09/16 07:09   >>

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北条水軍の大将:富永氏の城は土肥にある。大きく3ヶ所である。
@高谷城=富永氏の本拠、A富永氏館跡、B八木沢丸山城である。
高谷城は、大藪・小土肥・中浜・平野の丘陵一帯で面積約20ha
が城跡である。その山麓に富永氏館があった。「土肥の富永一族」
では、中浜の光源寺の南側一帯で、土肥小学校の西に当たる。
「御殿」・「馬出」・「小門」・「堀小路」の地名が残っているそうで
ある。青雲寺の可能性もある。ちなみに「馬場」は牧水土肥館の
所にあったそうである。富永氏は後北条氏のbRの所領を持っ
ていた。
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【1】 富永氏館
伊豆市土肥字中浜の光源寺の南側一帯である。
光源寺は土肥金山奉行市川助右衛門尉が開祖だという。
また、土肥小学校の西に当たる。
「御殿」・「馬出」・「小門」・「堀小路」の地名が残っている。
ちなみに「馬場」は牧水土肥館の所にあったそうである。

@中浜の高級温泉街
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A土肥小学校や町役場


B馬場(牧水土肥館)
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【2】清雲寺=富永氏菩提寺
富永氏の菩提寺は土肥小学校・土肥支所の奧にある。
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 ★立花に井桁・・・・井伊直政と同じような
  家紋?

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【3】参考図書
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●▲■ 「丸山城」&「高谷城」 ■▲●
※富永氏の先祖は三河設楽郡の大伴家持の「伴一族」が有力らしい。
在原業平系図や小野系図・佐々木系図・源氏系図
などもあるそうである。

・南北朝時代  全国第2位の金の産出量であった。
        全国第1位は佐渡の金山。

  ※富永氏が高谷城築城?
       
・南北朝時代に富永氏がいた説・・・足利持氏文書
「基氏伝帳」が不確実だそうである。

・応仁のの乱頃に冨永氏は三河からやってきた説
   富永氏は三河国設楽郡発祥の御家人で、応仁の乱前後に伊豆へ
  移住してきたものと考えられている。

(土肥の富永一族:土肥教育委員会)
  (★伊豆水軍物語:永岡治著)

・室町時代    
・応仁の乱の前後・・・近江の佐々木源氏系の
初代:富永実直=政直が土肥に移住してきた。
   富永政直が「丸山城」&「高谷城」を築城?
      土肥金山の開発も進めた。
築城年代は定かではない。

・延徳3年(1491)  足利政知の死→堀越御所の内紛
        
・明応2年(1493) 北条早雲満37歳明応の政変
管領:細川政元が10代将軍義材(義稙)を追放した。
  茶々丸弟:清晃を室町殿(実質上の将軍)を擁立した。
  足利清晃は還俗して、義遐→義澄と名乗った。
  
  足利義遐=義澄は母と兄:茶々丸の敵討ちを命じた。
足利義澄は伊勢宗瑞(北条早雲)に茶々丸討伐を命じた。
  
  →伊勢新九郎(=北条早雲)は「不孝者・茶々丸の成敗」を
  大義名分に、伊豆の武士団を味方につけた。
  
伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵入を招いた。
 
@興国寺城説
 伊勢新九郎(北条早雲)は伊豆堀越御所足利政知の子:茶々丸を
急襲した。

A駿河の丸子城説
「伊豆討入りは、伊豆国の兵の多くが山内上杉家に動員され上野国
  の合戦に出て手薄になったのを好機とした。早雲の手勢200人と
  今川氏親に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船
  に乗って清水浦を出港。駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸した。」
    (★北条五代記)
住民は海賊の襲来と恐れて家財道具を持って山へ逃げた。
  (★伊豆水軍物語P86)
伊勢新九郎家臣・・約200
今川氏親の家臣・・約300
  葛山氏は今川氏に命じられて援軍として参加している。
  その後、伊勢宗瑞=北条早雲の次男:氏時を養子にむかえた。

+触れを出した。西伊豆の水軍のメンバー以下の通りである。
@三津の松下三郎右衞門
A江梨の鈴木兵庫助
B土肥の富永政直
C田子の山本太郎左衛門
E雲見の高橋将監
E妻良の村田市之助
達の水軍が加わった。

陸では、大見の3人衆:梅原・佐藤・上村などが加わった。
大見3人衆
  大見:梅原杢右衞門
  大見:佐藤四郎兵衛
  大見:上村玄蕃
  であった。

 (★土肥の富永一族:土肥町教育委員会)
・延徳3年(1491)  
 富永政直は、伊勢新九郎(北条早雲)の
   『足利茶々丸を討つから味方になってくれ。』
   という手紙に同意した。         
   富永氏は、北条の水軍の海賊衆に配属となった。


  
 @北条早雲の兵は一挙に堀越御所を急襲して火を放ち、茶々丸は山中
   に逃げ自害に追い込まれた。」
   (★北条五代記)
茶々丸側の宇佐美能登守貞与の必死の抵抗があった。
宇佐美は戦死した。
  A茶々丸は堀越御所から逃亡して、武田氏、関戸氏、狩野氏、
   土肥氏らに守られて、中伊豆から南伊豆に逃亡した。
  
 北条早雲は伊豆の国人衆を味方につけながら、徐々に南下した。
  茶々丸方を追い込んでいった。

※説1・・・「茶々丸は山中に逃げ自害した。」
    (★北条五代記)
※説2・・下田の堀の内に「茶々丸の墓」があり、深津城の関戸氏が
   かばったという説もある。
  (★下田市教育委員会)
※説3・・・茶々丸はさらに、三浦氏隠れた説もある。
      後日、三浦義同(道寸)は北条早雲の援助を受け、
      三浦時高を茶々丸のいる新井城を攻撃し、奪取した。
(★漫画「北条早雲)
※説4・・・茶々丸はさらに、甲府に逃れて、今川氏親&北条早雲に
      討たれた説もある。
(★ウキペディア)
抵抗する関戸吉信の深根城=深根津城(下田市)を攻撃して皆殺し
  にした。3000人とも言われている
(★下田市教育委員会)

★富永政直は足利茶々丸の攻撃に貢献しや。

・明応2年(1493)同年 富永政直は、興国寺城代に任じられた。

・明応3年(1494)
韮山城を居城とした。
  伊豆国内で四公六民の税制などを行い、領民の支持を得た。
富永政直は興国寺城代になった。
(★富永一族の歴史:土肥町教育委員会)

  北条早雲は伊豆:韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として
  伊豆国の統治を始めた。
  高札を立ててた。北条早雲は
  「味方に参じれば本領を安堵する。参じなければ作物を荒らして
  住居を破壊する。」
  と布告した。
  分国法=早雲寺21ヶ条を制定し、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、
  病人を看護するなど善政を施した。
※漫画:北条早雲では、風土病があったので、薬を配った。
  →暴君:茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち
  北条早雲に従った。
   (★漫画:北条早雲)
※「堀越公方家の重い税制を廃して四公六民の租税を定めたので、
  領民は歓喜し、伊豆一国は30日で平定された」と言われるが、
  江戸時代の軍記は違っていた。
 北条早雲に5年かかって、全伊豆を平定したのは事実だった。

・明応4年(1495) 北条早雲の小田原攻撃→乗っ取り成功。
伊豆:狩野氏の狩野城・関戸氏の深根城・蔭山氏の河津城の
が敵対していた。・・足利茶々丸を関戸氏が匿った。

  北条早雲は富永政直などの北条の水軍の海賊衆を強化した。

長浜(松下氏)・江梨(鈴木氏)・井田(高田氏)・戸田(勝呂氏)
  土肥(富長氏)・八木沢(富長氏)・安良里(矢野氏)
  ・田子(山本氏)・仁科(須田氏)・雲見(高橋氏)・
  妻良(村田氏)・子浦(清水氏)・長津呂白水(清水氏)
  下田(清水氏)・網代(聞間氏)などの城があり、漁船を
  軍船として使用していた。

  次第に関船という小回りの効く高速船が造られるように
  なっていった。


〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


・大永4年(1524) 富永政直は、北条氏綱の配下となった。
北条氏綱は江戸城攻撃→
    富永政直が江戸城の城代となった。
富永政直は本丸を預かることになった。
※江戸衆となった。
    
・大永5年(1525) 北条氏綱は安房に出兵。

※2代:北条氏綱は
   武蔵から下総まで侵攻。
   北条氏は水軍の組織を強化した。
 @三崎や浦賀を根拠地とする三浦水軍を組織。
        →江戸湾から里見氏の勢力を駆逐。
 A宇佐美・福浦・岩を中心に東伊豆の水軍を組織。
 B長浜・獅子浜・江梨(大瀬崎)・土肥を中心に西伊豆の水軍を組織。
  三津浜:松下三郎右衞門尉
  江梨・大瀬崎:鈴木兵庫助繁伴
  土肥:富永三郎左衞門尉
田子:山本太郎左右衞門尉
  雲見:高橋将監
妻良:村田市之助



〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・天文4年(1541) 北条氏康が継承。

・天文14年(1551) 川越の夜戦

・弘治2年(1556) 安房の里見水軍:正木らの三浦攻撃。
北条方の三浦には、梶原・三浦・三富(友達先祖)
 が守っていた。
北条氏綱は2代:富永政辰、山角・横井を
 援軍に出した。
 三浦の城ヶ島:里見水軍と戦った。

・弘治2年(1557) 北条氏康は熊野水軍に書状を送った。
  @梶原吉左衞門・・・
    梶原助五郎・・・江戸馬込32貫60文
    梶原日向守・・・六郷新井宿51貫・・・後、安良里城へ
A愛州兵部少輔・・・三浦佐原80貫文
            御蔵出130貫文500文
  B橋本四郎左衞門
  C安宅紀伊守・・・・御蔵出215貫文+1貫500文


・永禄2年(1559) 北条家臣7位の富永氏の禄高
560人中の7番目である。
 @北条幻庵、A松田左馬助(山中城)、B遠山丹波守(江戸城主)
※冨永と兼任。
 C小机三郎(小机城)、D北条綱成(玉縄城)、E太田新六郎
 ※2代:富永弥四郎政辰・・・1383貫文
・土肥中心1000貫文で、小田原・秦野・墨田区・川越など
※一族:冨永善左衞門(政辰弟) 約49貫・・・*3ヶ所

・永禄7年(1564) 国府台の戦い
 里見義広・正木時成全軍 VS 北条軍全軍
        :富永政辰・遠山綱景は先鋒で、
北条一族・松田・大導寺政繁20000
  
    2代:富永政辰が戦死。
3代・冨永政家17歳が継承。
富永政家は江戸城も城将を務めていた。
   
・永禄年間 江戸城代・栗原城代を兼任し、北条家5家老の1人に
    なった。北条家家臣のbRになっていた。
所領は約1400百貫で北条家の中でも高禄である。

富永政家は富長氏館跡に青雲寺を建立した。



・永禄9年(1566) 武田信玄が箕輪城を攻略した。
  (以後、16年支配)

 ★武田信玄は牽制の意味で、
鉢形城→滝山城→小田原城を攻撃した。
  三増峠の戦い


 武田信玄は方向先を駿河に移したのだった。。

 →今川義元亡き後の駿河に侵入した武田氏(久能山城が水軍基地)
  江尻城・袋城などへの準備に取りかかった。。

・永禄12年(1569) 甲斐武田氏と相模北条氏との甲相同盟が破綻。
   北条氏の砦跡地に三枚橋城が建設された。
   御館の乱により敵対することになった北条氏に対する
  武田氏の駿河・伊豆国境の最前線の拠点である。
   

・元亀元年(1570)
   武田信玄の三枚橋城築城説(有力説) 
   城将は高坂源五郎(春日昌元)・曽根昌長(箕輪城から)
  ・堀内政豊等であった。
  武田氏の駿河における拠点の一つが三枚橋城として
    機能し始めた。
  武田信玄が三島や韮山城に攻め込んだ。           
※武田水軍は海上から物資の支援をした。
   
   興国寺城にいた伊勢新九郎(北条早雲)は政知の子:
   茶々丸を討って伊豆の領主。
      
   韮山城を本格的に築城。

・元亀2年(1571)
●武田水軍   
  小浜景隆:安宅船1艘・小舟15艘・・・(伊勢水軍)
向井伊兵衛:5艘・・・・・・・・・・・(伊勢水軍)
伊丹大隅守:5艘 ・・・・・・・・・・・(旧今川水軍)
土屋豊前守:12艘、同心50騎・・・・・(旧今川の岡部一族)
(★甲陽軍艦)
VS  
 ■北条水軍 
  北条水軍の総裁は玉縄城代:間宮康俊であった。
間宮康俊の子:間宮武兵衛・間宮造酒丞もいた。
  三津浜:松下三郎右衞門尉
  江梨・大瀬崎:鈴木兵庫助繁伴
  土肥:富永三郎左衞門尉
田子:山本太郎左右衞門尉
  雲見:高橋将監
  
結果・・・北条水軍の負け
  間宮武兵衛・間宮造酒丞は武田信玄に1500貫文の知行で
  配下になった。

・元亀3年(1572)
●武田水軍       
  間宮武兵衛:10艘・・・(玉縄城代間宮康俊698貫の子)
間宮造酒丞:5艘・・・・(玉縄城代間宮康俊の子)
小浜景隆:安宅船1艘・小舟15艘・・・(伊勢水軍)
向井伊兵衛:5艘・・・・・・・・・・・(伊勢水軍)
伊丹大隅守:5艘 ・・・・・・・・・・・(旧今川水軍)
土屋豊前守:12艘、同心50騎・・・・・(旧今川の岡部一族)

  ・・・計53艘

徳川水軍とも対戦した。

・天正4年(1576)北条氏政の大石越後守直久(北条氏照の義弟の子)
  が獅子浜城代となって守備した。
甲斐武田氏が沼津に進攻して以降、獅子浜城は西伊豆海岸防備
  の拠点となった。
  獅子浜城には、港がなく、水軍城ではないが、水軍援護基地と
  して重視された。
  ★武蔵:滝川城にいた大石一族・・・北条氏康の2男:
北条氏照が大石一族に婿養子の形を取って、八王子付近を
手に入れた。
  
・天正5年(1577) 富永氏は土肥の天正金鉱の採掘し始めた。

・天正5年(1577) 
   武田勝頼が三枚橋城築城説。
  ●武田氏の三枚橋城
   高坂源五郎(春日昌元)・曽根昌長(箕輪城から)・堀内政豊
  〜〜狩野川を挟んで〜〜〜〜〜〜
  ■後北条氏の戸倉城:笠原政尭(政晴=松田憲秀長男:笠原家養子)
        泉頭城:笠原範定

  武田勝頼が三枚橋城を拠点に小田原北条氏の戸倉城を攻撃
  した。
  武田勝頼は獅子浜城の動向も気になっていた。

・天正7年(1579)梶原備前守景宗が重須の長浜城に着任。
北条水軍の事実上の統括者である。
熊野水軍(海賊):の梶原景宗を招いて、梶原備前守景宗と
  名乗らせ、任命し、本拠として長浜城を与えたのである。
  
  下田の整備も進めて武田勝頼との決戦に備えた。


・天正8年(1580) 武田・北条両氏水軍による駿河湾
  重須(長浜城)沖の海戦。
   武田水軍 VS 北条水軍
西伊豆の水軍。
 
 ■北条水軍 
  ※総大将として長浜城の梶原景宗が指揮を取った。
  長浜(重須)梶原梶原備前守景宗
  三津浜:松下三郎右衞門尉
  江梨・大瀬崎:鈴木兵庫助繁伴
  土肥:富永三郎左衞門尉
田子:山本太郎左右衞門尉
  雲見:高橋将監
妻良:村田市之助
これに加え、
戸田:北条幻庵の配下
  安良里:梶原日向守
下田:?
  A東伊豆の水軍
  B三浦水軍
   

  北条水軍は、梶原備前守と嫡子:梶原兵部大輔を先方として、
  松下三郎左衛門尉(三津浜)・鈴木兵庫助繁伴(江梨・大瀬崎)
北条無幻配下(戸田)、富永???(土肥)、
  山本信濃守(田子)・清水越前守(子浦?)、村田市之助(妻良)
  友永佐兵衛尉(?)、山角治部少輔(八幡野)などの船大将が、
  重須の浦に大船を多数停泊させて待ち構えていた。

  未明、武田水軍は3艘の関船をに重須の浦(長浜)に接近させ、鉄砲を
  撃って内浦に放火を始めた。
  北条水軍は10艘の大型安宅船(30m程)を出撃させた。
  武田水軍は浮島ヶ原方面(現狩野川河口付近)に退却しした。
 北条水軍は追いかけた。
 武田水軍は狩野川河口からは2艘の関舟を待機していて合流した。
 武田水軍の関舟5艘と、北条側の安宅船10艘が戦いとなった。
 北条水軍は、武田水軍のの関船を包囲する作戦に出た。
陸からが武田の曽根昌長隊が膝まで入って鉄砲攻撃をしたり、
 火の付いた弓矢を射たりした。
  
  速度が速い武田の関船は北条水軍の安宅船の攻撃をかわし、北条
  水軍の安宅船に鉄砲や弓矢を撃ちかけ、攪乱した。
 
 安宅船には、鉄板がはられ、火器を使っても無駄な抵抗だった。

 結局、夜になり、両軍とも船を引き揚げた。
 結果・・・海戦には決着がつかなかった。

・さらに、海戦は行われた。
 武田水軍の向井伊兵衛正綱(持舟城主)の活躍により北条水軍は
  逃げ始めた。向井正綱は北条の安宅船を奪った。
(★「甲陽軍鑑」)

 ★北条の富永軍 VS 武田の水軍に対して、
土屋豊前守・伊丹大隅守・伊勢水軍:小浜景驕阜井伊兵衛
 などに激しく抵抗した。

・天正9年(1581)
10月 三枚橋城主:曾根昌長から内応を持ちかけられ、
   笠原政尭・笠原範定が北条氏を離反した。
 
  笠原政尭・笠原範定が武田勝頼の支援を受け、義弟:笠原照重
  (笠原康勝の実子)を攻めて敗死させた。

  戸倉城は武田勝頼の所領となった。
 
  黄瀬川の戦い
   武田 VS  北条

忍者対決もあった。
  武田乱破 VS 風魔一族200人(足柄郡+伊豆)


・天正10年(1582) 
  2月29日 武田氏の城:戸倉城が北条氏の攻撃により落城
   した。守備兵が動揺し自落した。

  3月21日 武田勝頼・信勝父子が天目山(景徳院)で自害。
  武田氏が滅亡。
  ★2ヶ月後には景徳院の墓を紹介できると思う。     
 

〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
・天正16年(1588) 後北条氏は豊臣秀吉との関係が悪化した。
 豊臣秀吉と小田原北条氏の関係がさらに緊迫化してくると、
  北条氏は豊臣秀吉に備えて韮山城や山中城の修築を行った。
  同時に、下田に海の備えとして下田城を築城し始めた。


・天正17年(1589) 朝比奈知明が死亡した。
 朝比奈家は子がなかった。
そして、城将には伊豆衆を率いる清水太郎左衛門が配されたの
 であった。
  伊豆国は北部を笠原氏(山中城代:松田康俊の長男)、南部を
 清水氏が支配した。
 
しかし、既に関東以西は豊臣秀吉が統一していた。
 豊臣秀吉にとって「最後の敵」と呼べるのが後北条氏であった。
 豊臣秀吉との対決が避けられない状況が確実となった。
 西からの攻勢に備えるべく、軍港である下田の城が重要視された。
 豊臣秀吉の水軍勢は熊野九鬼水軍・安宅水軍・村上水軍・河野水軍
 といった西国諸水軍も吸収していた。
 伊豆半島を本拠とする後北条氏の水軍も戦時即応体制が求められ
 たからだ。
 後北条氏5代目当主:北条氏直は、南伊豆の地と水軍を掌握する
  清水康英に対して後北条水軍の母港となる下田城の再整備と
  拡充を命じたのである。

 清水康英は鵜島城をさらに修築した。
※先祖かいた本郷氏島城にちなんで、鵜島城と名付けた。
  (★伊豆水軍物語)
鵜島城=下田城は、標高68.7mに位置する鵜島山頂に主郭を置いた。
 3方向に伸びる尾根伝いに細長い曲輪を配置している。
 
 雲見(賀茂郡松崎町)の高橋氏や妻良(賀茂郡南伊豆町)の村田
 氏が戦闘準備のために入城した。
 そして、多数の武器・兵糧なども運び込まれた。
清水小太郎康英は下田城城主として伊豆水軍を率いた。

 後北条氏の戦略に基づいて、
  @下田という良港=水軍の出撃拠点とし
  て確保するために下田城が城郭として本格的に城が整えられた。
 A土肥の高谷城前から八木沢に港が建設され大型舟の入れる港を
   造った。また、丸山城を築城した、
  B長浜城の整備を強化した。
 B井田に真城(さなぎ)山に烽火台を造るように
  高橋家に命じた。
  ★これにより、内浦の長浜城〜土肥の丸山城〜下田城ねの
   西伊豆の烽火網は完備された。
 
北条氏直は
「豊臣秀吉軍は船働歴然ゆえ下田城を設けたのであり、康英は戦上手で
あるから一切任すのである。他人の差し出口は不要である。」
といった意味の手紙を送った。
 (★北条氏直の判物:清水文書)

   
8月 関白豊臣秀吉の裁定で、
   ・沼田城を含む沼田領の三分の二が北条氏の領土.。
   ・名胡桃城を含む三分の一が真田氏の領土。+伊奈
   →真田信幸は沼田城を北条氏直に渡す。
       名胡桃城は真田氏に残す。
     矢沢頼綱は沼田城から退去

10月 猪俣邦憲は南西の榛名峠城から名胡桃城を奪取(名胡桃事件)。 
北条氏邦の右腕で、沼田城主:猪俣邦憲は、名胡桃城主:
 鈴木主水の配下、中山城主:中山九兵衛を調略し、偽の
 真田昌幸からの手紙で、鈴木主水を城外に誘った。
南西の榛名峠城(=権現山城)から名胡桃城を奪取した。
鈴木主水は沼田の正覚寺で自刃した。(名胡桃事件)
※小田原征伐勃発の口火を切った城である。
{★名胡桃城の歴史・月夜野町(現みなかみ)教育委員会より}
  

 ●真田昌幸が徳川家康に苦情
    →豊臣秀吉は北条氏政に質問

11月21日 真田昌幸宛の豊臣秀吉からの書状
  「秀吉に上洛しない北条が、一部の部隊とはいえ、
   秀吉の裁断を破って真田領を侵した
   ことは〜〜〜。」と激怒。
12月 北条勢:猪俣邦憲は3方向からの岩櫃城攻撃。
岩櫃城周辺に大戸から攻撃。
    @中山口→横尾八幡城の戦い
    A白井口→中之条古城の戦い
    B大戸口→手古丸城占領→仙人窟陣城で監視
          (群馬県東吾妻町大戸)

箕輪初心●群馬【名胡桃城A】=北条氏滅亡のきっかけの城
http://53922401.at.webry.info/201202/article_22.html
★★箕輪初心●【横尾八幡城】
http://53922401.at.webry.info/201202/article_12.html

→豊臣秀吉の小田原征伐の口実・豊臣秀吉は北条氏追討の指令。
  猪俣邦憲が兵を撤退させた。 
   
※土肥の富永一族は江戸城の2の丸にいて、武蔵に8万石のbR
であった。富永一族には北条氏邦の右腕:猪俣邦憲がいる。
★猪俣邦憲は養子前は、江戸衆:富永家の一族:富永能登守助盛
 と名乗っていた。
★富永氏は西伊豆の土肥の豪族であると思われる。富永助盛は
富永政家→政辰の身内だと思われる。
富永一族は北条水軍の総裁であり、北条家のbRの支配地を持っ
ていた。推定8万石? 伊豆の土肥・武蔵も領国であった。
栗橋城や江戸城・・・・。 
★2015年の夏には富永一族を紹介したい。
  もう、文章は2年前の秋に書いてある。   
(★土肥の富永一族:土肥教育委員会)
名胡桃事件で、豊臣秀吉の小田原城攻撃をさせてしまった人物
である。(★関東古戦録:久保田順一訳)
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箕輪初心●埼玉【猪俣4城】&猪俣邦憲=北条氏滅亡へ?
http://53922401.at.webry.info/201405/article_18.html
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しかし、現在、豊臣秀吉の勝手に攻撃した説が有力になりつつある。

 後北条氏は関東の大半を領有し、東国第一の大大名になっていた。
 

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
3月 沼津を進発した豊臣の水軍が下田城を来襲した。
豊臣水軍は長宗我部元親・脇坂安治:九鬼嘉隆(くきよしたか)ら
 海戦上手の「海賊大名」である。3人を大将とする1万余りの
  軍勢で下田城を囲んだ。
長宗我部元親勢2500、九鬼嘉隆勢1500、脇坂安治勢1300という
 大軍であった。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
3月上旬
豊臣水軍は西伊豆に攻撃をしかけた。
 九鬼水軍・・3門の大砲を装備した安宅船
長宗我部の池・・・200のかいを持つ大型船
 などであった。

 
@獅子浜城・・・大石直久
 A重須砦(長浜城)・・梶原景宗?・松下?
B安良里砦・・・・梶原景宗?
   梶原梶原景宗の嫡男:梶原兼宗&三浦水軍総帥の三浦茂信
C田子砦・・・・山本常任
 D妻良砦(岩殿寺)・・清水淡路守(下田城:清水康秀弟)

 駿河湾の旧武田の清水港沿岸沖にいた豊臣水軍が安良里港を
 最初に攻めた。
 豊臣水軍は徳川の家臣:本多重次、向井正綱(旧武田)の率
いる水軍であった。
 北条方の安良里港&安良里城の守備に当ったのは、長浜城主:
 梶原景宗の嫡男:梶原兼宗&三浦水軍総帥の三浦茂信であった。
安良里城は安良里港をかかえ、港に突き出した網屋岬の上、
標高50〜100m前後の狭い丘陵上に位置していた。
徳川家康の家臣本多重次&向井正綱の率いる水軍に攻められて
 落城し、城将梶原兼宗&三浦茂信ら多数が討死にした(伝)。

豊臣水軍の本多重次、向井正綱(旧武田向井伊兵衛の嫡男)
  の率いる水軍は安良里港での海戦を制すと、安良里城に
  を占領した。
 
次に田子港の山本水軍に襲いかかった。
 向井兵庫は矢傷を受けた。・・・ようやく田子小松城を落とした。
山本常任は逃げた。
 
 豊臣水軍は北条水軍にゲリラ戦をさせないように、1つ1つの
 港を攻撃した。
 まず、大砲で脅し、入江や砦・館・城を占領した。
仁科(堂ヶ島)須田氏の安城山城を占領した。

 妻良の戦闘は不明・・・
 
 3月25日 子浦では別の豊臣水軍が攻撃した。
  岩殿寺砦の清水淡路守の手勢は善戦した。
  豊臣水軍は攻めあぐねた。
  小関加兵衛が大手柄をたてた。
 3月29日 北条氏直からの感状を貰った。
※この日、山中城も約3時間で攻略された。
  (★伊豆水軍物語P170)

 3月上旬 下田港&下田城を来襲した。
 豊臣水軍は長宗我部元親・脇坂安治:九鬼嘉隆(くきよしたか)
 ら海戦上手の「海賊大名」である。3人を大将とする1万余りの
  軍勢で下田城を囲んだ。
 長宗我部元親勢2500、九鬼嘉隆勢1500、脇坂安治勢1300と
  いう大軍であった。

4月23日 清水康英は手兵600余で約50日にわたって籠城した
 が、脇坂安治や安国寺恵瓊らと起請文を交わし、
 下田降伏、開城した。
 (★高橋文書)
  
3月29日 豊臣軍は山中城攻め。

富永政家の嫡男:富永直則は徳川家康に仕えた。

江戸時代  江戸幕府は天領とした。
天領:韮山代官所支配。江川家が管理。

   嫡男:富永直則は旗本になっている。
次男:富永勝安は結城秀康の家臣になった。


★明日は富永氏の高谷城かな?

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