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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城209【新編高崎市史ベース+2016久保田順一先生→生方「長野業正の生涯」】

<<   作成日時 : 2016/09/02 08:35   >>

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平成28年(2016)8月27日、久保田順一先生の「長野業正の実像に
迫る」というテーマで群馬県立博物館での講演会があった。今回の久
保田先生の大目玉商品は、徳川光圀から以降に作られた「系図纂要」
の中の「長野氏系図」である。平成28年(2016)の11月には「長野
業正」が発売される。新編高崎市史ベースに久保田順一先生の
20160827講演会得た情報から「長野業正の生涯」をまとめてみた。
画像




箕輪初心:生方の新編高崎市史ベースの確実な歴史のまとめ
●印・・・久保田順一先生の「長野業政」

【4】「長野業政の生涯」


・延徳4年(1492) 長野業尚が榛名に長年寺を創建。
長野業政の生誕説@


・明応6年(1496)戸榛名神社安堵状

・明応6年(1497) 長野業尚か憲業が箕輪に長純寺を創建。
    (★みさとの歴史)

・明応9年(1499) 長野業政の生誕説A

・文亀元年(1501) 長年寺が創建:長野業尚

・文亀3年(1503) 長野業尚が死亡。
 (★みさとの歴史)            
  長野憲業が家督を継承。

・永正元年(1504) 上杉 VS 北条早雲  
  ・長野房兼が上杉に味方し、討ち死に
  (★近藤先生の群馬県史)

・永正3年(1506)〜4年 古河公方内の相続争い
・永正6年(1509) 宗長の『東路の津登』
宗長は長野憲業の身内で浜川の松田氏を訪ねた。
 新田:岩松〜大胡〜青柳〜荒蒔〜浜川〜大戸〜草津〜
 大戸〜依田で句会〜浜川:松田氏の元で句会・多胡碑に
 石上が載ってるねえ。子孫だってねえ。」〜鉢形・・・


永正7年(1510) 上杉顕定が越後長森原で討ち死に

箕輪初心:生方▲【関東管領:上杉顕定の戦いの人生】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_2.html

上杉憲実→房顕→顕定→顕実
周清→憲房

@顕実派・・・惣社長尾顕方・下倉備中守・桐生佐野氏・赤石氏
成田顕泰
A憲房派・・・足利長尾景長・長野憲業・寺尾左京亮・木部隼人佑
阿保丹四郎・横瀬景繁


・永正7年(1510) 長野業政が誕生説?(1490年説あり?)
長野業政の生誕説B

・永正7年(1510)長野憲業死亡説
  弟:長野信業が鷹留城主から箕輪城主となったする
  説がある。
  ★この説は間違いである。


永正9年(1512) 長野憲業が長年寺に壁書を提出。
(★榛名町誌・新編高崎市史:久保田順一先生)
 ★長野憲業の死亡1510年説は確実に違っている
  ことが分かる。  

永正9年(1512) 永正の乱
@顕実派・・・惣社長尾顕方・下倉備中守・桐生佐野氏・赤石氏
成田顕泰
B憲房派・・・足利長尾景長・長野憲業・寺尾左京亮・木部隼人佑
阿保丹四郎・横瀬景繁
長尾景春と長尾景英の親子の対立が激化して、長尾景春は出奔し、
長尾景英は上杉憲房を援けて、上杉顕実に追放に功を挙げた。

上杉憲房が山内上杉家の家督を継いだ。


・永正9年(1512)上杉憲房の禁制
    (★長年寺文書)

永正10年(1513) 長野憲業の立願状:榛名神社
   長野憲業が100疋を榛名神社に寄進。
      大戸城の攻略を祈願
        (★みさとの歴史)
(*海野棟綱の息子?娘婿?真田幸隆誕生・・・・説が4つ。)


・永正12年(1515) 上杉憲房(山内上杉家初代)が関東管領になる。
   上杉顕実の死によって関東管領職をも継いだ。



※大永元年(1521)  武田信玄が誕生。

大永4年(1524) 長尾顕景(惣社城:現前橋の総社神社付近)が
     北条氏綱(2代目)に内通した
   *北条氏綱が江戸城の奪取

大永4年(1524)「徳雲軒性福状」(上杉文書)
久保田先生・・・10年前に発見された文書
密書で10cm×15cm位の大きさ
総社城の徳雲軒=家老クラスが長野方業にあてた密書

「其夜可被仰付事」
「一、彼のくるわへ引入れ申時、らんはうの事、」
※久保田先生・・総社城の曲輪に引き入れ申す時、
乱暴はしないでくれ。

「一、其身討捕申時、おのおのたしなみの事、」
※久保田先生・・総社城の誰かの身を討捕し申す時、
各自、たしなみ=武器をきをつけてくれ。
つまり、夜なので、長い槍などは使えない。
「一、・・・・」
「一、・・・」
「一、まやはし殿御人数いそき東口へ火手あへさせ御申事、」
「一、西南之火手動、こなたのと同前ニさせられへき事、
さやうに御座なくしてはこなたのくるわへとりかけ
申へし、如件首尾あひ申候者、八まん大菩さつも御
照覧候へ、いたしそんたし申へし候、此外、行之様体之事者、
口上に申候、以上
 十二月二日(大永4年1224か?と久保田先生)
徳雲軒性福
箕輪へ参


、「徳雲軒性福宛長野方業書状」(★群馬県史)
「御覚悟之旨玄ニ条々承候間、左衛門、四郎進退並其口所帯之儀、
 兎にも角にも任可申候段、以誓詞申候き、然而八木駿河入道所
 へ被載誓詞承候、先以落付申候、乍去於此上も、直二方業方へ
 以御誓詞承候者、邪以添?可存候、八幡大菩薩・春日大明神・
 石上布留大明神御照覧、誰にも不可令口 外候、至干其元者、
 可御心易候、御返事到来候上、即時二御陣へ罷出、御返事可申
 調候、  恐々敬白 」
 11月17日
           左衞門大夫方業(花押)
 徳雲軒

画像



▲久保田先生
長野左衛門大夫方業が惣社長尾氏の重臣:徳雲斎を調略した。
長野左衛門大夫方業が箕輪城主と
  して文書を発給している。
   (★徳昌軒の文書)
 ところが、内応が発覚した徳雲斎は長尾顕景に殺害された。
 長野宮内大輔(賢忠か?)とともに惣社長尾家を攻め、追い詰め
 られた長尾顕景が既に上杉憲寛と和睦をしていた長尾為景の仲介
 で降伏した。

 長野方業=長野業政の可能性が高い。
 



★なお、長尾景誠の母は業正の姉とされているので、長野方業と
 長野業正が父子かもしれない。
 (★黒田基樹説)



家臣長尾景春の離反、扇谷上杉朝興や相模国の北条氏綱、
  甲斐国の武田信虎などとの長年の抗争による不安定な情況
  の中で病に倒れた

大永5年(1525) 3月25日、上杉憲房(山内上杉家2代)が
  59歳で死去した。
実子の上杉憲政は幼少のため、上杉憲寛(古河公方・足利高基の
 次男・晴直)が跡を継いだ。
@上杉憲寛派・・・・・・・・・上杉憲房の養子
A上杉憲政派(当時3歳?)・・上杉憲房の実子
  関東管領になる。
憲政と憲寛の間でも争いが繰り広げられた。

結局・・・上杉憲寛を追放した上杉憲政側が
 上杉憲政に家督を継がせた。

 
  上杉朝興 VS 北条氏綱 

*扇谷上杉朝興は北条氏綱に対抗するために、江戸湾の支配を巡って
後北条氏と対立関係に陥っていた小弓公方足利義明(上杉憲寛の叔父
で妻の父)と山内上杉家の当主:憲寛にも協力を求めた。
  上杉朝興 VS  北条氏綱 
兄:上杉憲寛   VS  実父:足利高基
弟:足利義明 VS  兄:足利晴氏

・大永5年(1525) 長野業政の長男:吉業が誕生?

・大永6年(1526)長野信業は長子:業氏に
   鷹留城を与えた。
(★群馬県史)
長野憲業=信業同一人物説もある。




・大永7年(1527)
11月27日 箕輪の長野左衞門太夫方業、総社長尾顕景・
白井長尾景誠の排除を徳雲軒と謀る。
12月16日 箕輪の長野左衞門太夫方業、厩橋宮内大輔と
ともに総社城を攻めすすめる。  
(★上杉家文書:山田邦明2002)

大永7年(1527)
「長尾孫四郎景誠者、景英嫡男、母ハ箕輪ノ城主長野信濃守
 業正の姉也、大永七年十二月五日景英卒シテ、四十九日於
 法事ノ席、野心之家臣有テ、景誠害ス、長野信濃守聞之、
 白井エ来リ、長尾ノ陪心ト志ヺ合、総社長尾景房を招キ、
 白井長尾の正統を継、景誠大永八年(1528)正月廿四日生害
 ス・・・(後略)」
(★そう林寺伝記:久保田順一)


大永8年(1528)正月廿四日 景誠生害
 (★そう林寺伝記:久保田順一)


・享禄元年(1528) 長尾景誠が家臣に殺された。
長野信濃守業正、これを聞き白井を攻略し、惣社長尾に景房
を招き、正統をを継承させる。
長尾景誠の母は長野信濃守業正の姉と記されている
(★史跡箕輪城発掘調査報告第8集:一般限定100部)
 

●▲■長野左衛門大夫方斎は箕輪城主とみられている。
@『日本城郭大系』では、箕輪城主の長野信業
『箕郷町誌』(箕郷町1975年)では長野信業=方斎
   (★近藤義雄先生)
A『群馬新百科事典』(上毛新聞社2008年)の「長野氏」
  (飯森康広著)
 では長野方業=長野業正(★正式名:業正である)
 同一人物説・・・花押も同じ。
B『群馬県史 通史編3』では。長野方業=方斎』
C戦国のコミュニケーション』(山田邦明著2010)
方斎ではなく、方業である。
D黒田基樹論文 方斎は方業の誤読とする。
  厩橋長野方業が箕輪長野氏に養子に行った説。
E厩橋宮内大夫も諸説ある。

◆◆ 箕輪初心●【箕輪城87:飯森康広氏の新説】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_2.html

箕輪初心★箕輪城101「長野氏」の研究:近藤・山崎・飯森・久保田
http://53922401.at.webry.info/201310/article_6.html


・大永27年(1527)

・享禄2年(1529)〜享禄4年(1531) 関東享禄の乱(黒田基樹説)


享禄2年(1529)
●「正月二十四日 長尾八郎忌同族長尾景誠(かげのぶ)振権
   窺令矢野氏害之」
(★『続本朝通鑑』:久保田順一)
 1月24日 山内上杉家家臣:白井長尾景誠が長尾八郎に謀殺される
   (『続本朝通鑑』:黒田基樹)
 「八月十四日 上杉憲寛、攻上州安中城、上杉朝興止之、
  憲寛不聴、而発兵。」
  (★『続本朝通鑑』:久保田順一)
 8月14日 上杉憲寛が上野国碓氷郡:安中城の安中氏討伐を開始
   した。同盟関係にあった扇ヶ谷上杉朝興からは制止されたが、
    これを無視した。
   (★『続本朝通鑑』黒田基樹)

 「九月二十二日 上杉憲寛部下西氏・小幡氏等叛、立故管領憲房
  子憲政、時称竜若、継山内家、而破憲寛安中陣、憲寛移上州
  程田(★旧群馬町保渡田)陣、長野一族従之 」
(★『続本朝通鑑』:久保田順一)
9月22日 西氏と小幡氏が上杉憲政を擁立した。
   上杉憲寛に対して謀反を起こした。
 ・・・・山内上杉家の内紛が発生した。
  上杉憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立が  
  あったと考えられる。
(★『続本朝通鑑』黒田基樹)
  
  長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
      VS   安中城付近で交戦
  小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政

  上杉憲寛は長野方業を随行させながら、安中城から程田
  (高崎市保渡田)に後退した。
    (★『続本朝通鑑』) 

・享禄3年(1530)
5月 
「左衛門尉」(小幡)が上野国多胡郡仁叟寺(吉井町)に対して
 禁制を与えた。
  甘楽郡高田城(富岡市旧妙義町)周辺で合戦があった。
5月21日 上杉憲寛が高田憲頼の注進により、被官:守山与五郎の
  戦勲に対して感状を発給した。
10月25日 上杉憲寛が用土新三郎(業国)領の武蔵国男衾郡赤浜
  を被官:三富平六に与えた。
・享禄4年(1531)
9月3日 上杉憲政が関東管領を継ぎ、憲寛は上総国の宮原
(市原市)に退去して、晴直と名を改めた。
 (★黒田基樹著)

◆結果
1)古河公方家では足利晴氏が公方の地位を確立し、高基は隠棲。
2)山内上杉家では上杉憲政が家督を継ぎ、憲寛は敗れて上総宮原
  (市原市)にて隠棲。
結果:足利晴氏が古河公方、上杉憲政が関東管領の地位を確立した。
(★黒田基樹)

※箕輪長野方業が敗れている。
上杉憲寛方の諸氏は許された。

長野方業の後継者とみられる長野業正(★黒田基樹)
あるいは長野方業の娘を小幡憲重に嫁がせた。
その後、箕輪長野方業の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を
安中重繁に嫁がせた。
さらに、安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせた。
これによって、和解が図られている。
◆参考文献
・『戦国関東の覇権戦争』黒田基樹著 
・『戦国北条氏五代』黒田基樹著 
・『戦国期山内上杉氏の研究』黒田基樹 
・『西上州の中世』:黒田基樹著:安中市ふるさと学習館
◆参考サイト
ウィキペディア

・享禄3年(1530)吾妻の戦い
  長野憲業 VS 大戸氏?
   長野憲業がで戦死
  (★みさとの歴史・箕郷町誌)  

●享禄4年(1531) 上杉憲政が関東管領となった。
「享禄四年(1531) 九月三日の条 
 山ノ内上杉憲政、憲広ニ代テ管領職ト成ル、憲広、晴直ト
 改ラル、宮原ノ祖ナリ」
(★『喜連川判鑑』:久保田順一)


参戦武将・・・久保田順一著
@憲寛方・・・箕輪長野氏・白井長尾氏・惣社長尾氏
高田伊豆守・守山与五郎(★長野県の森山氏?)
三富平六・寺尾左京亮
沼田顕泰
A憲政方・・・安中氏・小幡顕高・用土新左衛門・西氏・
B中立・・・・扇谷上杉氏
C沼田氏・・・沼田顕泰は憲寛側、外の沼田一族は憲政側
D斎藤氏・・・内訌を利用して、吾妻を掌握した。

◆参戦武将・・・黒田基樹著
@勝者・・・
第4代古河公方:足利晴氏(下野宇都宮城)
第2代公方足利政氏、
足利基頼(高基の弟)
宇都宮興綱(下野宇都宮城)&芳賀次郎高綱?

山内上杉氏 :上杉憲政
安中氏:宮内少輔?(上野安中城)
小幡氏:小幡顕高?(上野国峰城)
藤田業繁
用土業国(武蔵国:用土城)
成田親泰(武蔵国:忍城)
里見義豊(安房国:)
上杉朝興(武蔵国:川越城)
小弓公方:足利義明

敗者側
第3代古河公方:足利高基(古河城)
小山小四郎(小山政長の嫡子)(下野小山城)
山内上杉氏 :上杉憲寛(古河公方家からの養子:高基の次男)
長野氏:長野方業?(上野箕輪城)
高田憲顕(上野高田城)
三富平六(子孫は赤城村)
(★黒田基樹氏)


●????年 長野業正は上杉憲政への帰参が叶った。

久保田順一先生:長野業正の娘説

「浜川系図」(長野弾正系図)を例示されたようである。
@小幡上総介・・・・国峯城主
★小幡重貞=小幡信貞(武田信玄の清)=小幡信実
A小幡図書之介・・・小幡一族
★小幡重貞の従兄弟で、宮崎城&神成城主(富岡)
B成田下総守・・・・忍城主
★忍城博物館に系図なし。
★岩付城を築城した成田正等の養子は総社長尾長尾忠景の3男
  :成田顕泰である。
   成田顕泰→成田親泰→成田長泰→成田氏長
            ・小田朝興
            ・成田泰季→成田長親(のぼう)
  となるので、成田長泰か成田泰季に嫁いだ可能性もある。
 ★長野業正の姉+長尾景英の娘(景誠妹)
    →成田長泰の妻(白井局)
    (『戦国関東の覇権戦争』黒田基樹著) 
C木部駿河守・・・・木部城主
★木部範虎の父であるが、どうなのだろう?
D大戸八良三良・・・大戸城主
★大戸宮内少輔で大戸真楽斎のようだ。
永禄4年(1561)関東幕注文は檜扇・・・

E和田新兵衛・・・・和田城主
★和田業繁と考えられている。
永禄4年(1561)関東幕注文は檜扇・・・
F浜河六良・・・・・長野一族
★隆業館→浜川館200m×130m
藤井友忠(★長野業正の叔父説・従兄弟説)の子ども?

G倉賀野淡路守・・・倉賀野城主:金井淡路守
★倉賀野尚行の配下:倉賀野16騎筆頭:金井淡路守
  秀景であろう。しかし
  永禄4年(1561)武田晴信になびいた。(★新編高崎市史)
永禄8年(1568) 倉賀野尚行(直行)が上杉謙信の
 のもとに逃げたため、武田信玄の命令で金井淡路守秀景
から倉賀野淡路守秀景になった。(★新編高崎市史)
 なので、当時の呼び方からして絶対に間違いである。
 倉賀野尚行(直行)室説なら話が別であるが、・・・。  

H羽尾真田山城守・・羽尾城主
★私見:海野一族「羽尾幸全(ゆきまさ)」であろう。
  天文11年(1541)の真田幸隆(幸綱)の逃げ延び先:
   羽尾城(羽根尾城)である。
   真田幸隆の3人の妻の1人は羽尾幸全の娘である。
   しかし、羽尾真田山城守?・・・海野であって真田ではない。
永禄4年(1561)関東幕注文は檜扇・・・
  
I長尾弾正・・・・・
  ★弾正を名乗るのは誰だろう。上州にはいないのでは?
  永禄2年(1559)「長尾弾正少弼殿」=長尾景虎であるが、
  あり得ない。
J板鼻依田殿・・・・板鼻城主
★私見:依田光慶であろう。
後閑城から移り、板鼻依田徳昌軒館・板鼻城(含む鷹巣城)
主であった。
K弾正忠業固・・・・鷹留城主
  ★「長年寺長野氏系図」業固は業正の兄・業氏の子が有力。
   長野業政の従兄弟の子説もある。

◆ウィキペディア「長野正弘浜川系図」によれば娘は12人あった。
 ただし城主の実名は記載されていない。
「箕郷町誌」&『箕輪城と長野氏』(★近藤義雄、1979年)
小幡城主小幡信貞室(長女)
国峰城主小幡景定室(次女)
 ★小幡図書之介景定は当時、宮崎城・神成城主である。
  永禄3年(1560)に武田晴信に内通した小幡信貞から長野業正
  命令で国峰城を乗っ取った。・・間違いである。  
忍城主成田室(三女)
 ★成田長泰説であろうが、上記に説明した通り、
無理がある。
山名城主木部定朝室(四女)
大戸城主大戸左近兵衛室(五女)
和田城主和田業繁室(六女)
倉賀野城主金井秀景室(七女)
 ★上記の通り、無理がある。
  金井秀景は倉賀野城主になったのは永禄8年である。
羽尾城主羽尾修理亮室(八女)
浜川城主・藤井氏(箕輪長野家家老)室(九女)
厩橋城主・長野氏室(十女)
板鼻鷹巣城主・依田氏室(十一女)
室田鷹留城主・長野業固室(十二女)
やっぱり、系図は無理がある。



箕輪初心●群馬の城:旧甘楽町A国峰城=武田24将:小幡重貞
http://53922401.at.webry.info/201107/article_7.html
★24将ではなかった。根澤館長は武田晴信の騎馬軍団では
 小幡信貞が最強であった。馬が圧倒的に多かった。

箕輪初心●群馬の城「宮崎城→神成城」=小幡図書之介の城
http://53922401.at.webry.info/201107/article_16.html
 


・天文2年(1533) 長野宮内大輔が北条氏綱の鶴岡八幡宮の
  再建の助成要請に応じた。
 (★快元僧都記:高崎市史)


天文4年(1535) 長野某が榛名神社の春の祭礼に制札を出した。
(★榛名神社文書:高崎市史)
通説は長野業正である。
ちなみに制札を出したのは、上杉憲房・真田幸綱・北条氏邦・
などで、領主クラスである。



天文10年(1541) ★海野平の戦い
 「真田幸綱との交流
 箕輪城下に・・・長野業正に会った、
 平井城へ・・・・長野業正が上杉憲政に会う手伝いをした。
(★加沢記:久保田順一)
箕輪初心:生方▲真田●64「真田幸綱(幸隆)の武田晴信への臣従諸説」
http://53922401.at.webry.info/201603/article_9.html
 

真田幸綱(幸隆)ら滋野一族が敗北。
真田幸綱は羽根尾城に逃亡した。
海野棟綱・真田幸綱は長野業正・上杉憲政に海野奪還を
要請・・・長野業正が出陣。
諏訪頼重と和睦・・・
海野平・真田の里に行かず、帰還した。
(★真田三代:平山優・真田四代と幸繁:丸島和洋著)

  帰還理由は深谷上杉憲賢・長野賢忠・那波宗俊・成田親泰
  ・桐生助綱とともに金山城主:横瀬泰繁を攻めて敗退した。
上杉憲政は北条氏綱の侵攻が気になっていたのだ。
   (★由良成繁事書案)

箕輪初心:生方▲真田●59【志賀城】:笠原清繁&高田憲頼
/大虐殺&人身売買
http://53922401.at.webry.info/201603/article_4.html

・天文15年(1546) 笛吹(碓氷)峠の戦い
長野信濃守は出陣しなかった。
  (★武田晴信書状写:高崎市史)

・天文15年(1546) 武田晴信の内山城攻撃

箕輪初心:生方▲真田●44【佐久内山城】真田幸隆&大井貞清
http://53922401.at.webry.info/201602/article_20.html 


天文15年(1546) 河越の夜戦(かわごえよいくさ)
北条氏康軍
   VS  
上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の連合軍
 
蔵国の川越城(現埼玉県川越市)の付近で戦闘。
   →北条軍が勝利
川越城の奪回を図った両上杉氏は
@扇ヶ谷上杉朝定は戦死。
A山内上杉憲政は上野(群馬)平井城に逃亡。
B古河公方:足利晴氏は古河に逃亡。
 
大導寺盛昌が戦功を挙げ、河越城の城代を務めた。
  後北条氏は旧上杉氏所領を直轄領とした。
       重臣:大導寺氏を配置した。
※川越の原型は、大導寺政繁によって、建造された。
    (★川越のパンフレット他)
 
川越城・逆井城は後北条氏の北関東(栃木・茨城)進出
 の拠点となった。
 佐竹氏・多賀谷氏などと対峙した。


長野業正の嫡男:吉業が負傷した。    
@【長年寺長野系図】
吉業 左衛門大夫 武州河越に於いて、・・
 ・・・(「中略)・・・
 箕輪城に帰城して死す。
 生年16歳、子無跡絶」
 ★しかし、養子であろうが福田氏が跡を継いだ。
福田赳夫・福田康夫の先祖である。

A【長野稔所蔵長野氏系図】
「吉業 沼田腹 
 天文廿一年一六歳にて卒。」


箕輪初心▲箕輪城147【善龍寺】=長野業正長男:長野吉業の墓
・内藤昌豊&昌月の墓=会津藩
http://53922401.at.webry.info/201412/article_7.html

箕輪初心▲箕輪城152【長野業正の長男:長野吉業の菅谷城&善龍寺】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_14.html
★福田五郎兵衛が跡を継いだ。・・傍系子孫は金古:福田赳夫・康夫
なので、子はなかったかもしれないが、菅谷城・善龍寺供養塔が
 残っている。

箕輪初心:生方▲箕輪城180【長野業正の妻】&子ども
http://53922401.at.webry.info/201512/article_4.html


天文21年(1552) 上杉憲政の平井城落城
久保田先生「長野業正政の動きは見られない。」

しかし、「河西衆・・・長野業正・小幡憲重などは
  上杉憲政を裏切った。とある。(★「群馬県史」など)

箕輪初心:生方▲【水上:建明寺】&上杉憲政は水上での逃亡生活7年間?
http://53922401.at.webry.info/201505/article_11.html

武田信玄と長野業政
武田信玄書状写(★『極楽院文書』)
「去頃者上杉家諸将、於笛吹(★「うすい」と読む)」峠一戦之
 間、就其貴殿御同心無之段、小幡尾張守・真田弾正忠及聞御
 噂申、依旧縁味方於参令感心候、忠信迄可預御案内、猶可為
 本望候、  恐々謹言
十一月十五日    武田晴信(花押)
 長野信濃守殿 」

高崎市箕郷町和田山だよ。
後、武田信玄・滝川一益・北条氏邦・徳川家康が2回
 庇護した。
極楽院の亀寿=亀寿丸が本流で有ることは明白である。
「長野正夫氏系図」もあるが、「極楽院所蔵長野氏系図」
と言うべきか?

箕輪初心:生方▲真田●59【志賀城】:笠原清繁&高田憲頼/大虐殺
&人身売買
http://53922401.at.webry.info/201603/article_4.html

・弘治3年(1557) 「上野国厩橋にて長野弾正少輔興行」
「上野国長野信濃守所望、利根河近き所在原氏の人ならん。」
 (★遊行上人体光句集「石苔」:新編高崎市史)
 長野弾正少輔は賢忠か?(★秋本太郎先生)


弘治3年(1557) 長純寺の再建
画像

1)梁の寄進
「出羽守(3丁)・左衛門尉・左京亮・須賀谷・
大学助・八木原・大熊・小倉・漆原・羽田・長塩ら」
久保田先生解説
@出羽守・・・・長野業政の庶子:長野出羽守業親
A左衛門尉・・・浜川左衛門尉
B左京亮・・・・長野業政の弟:竹頭院直業

2)柱の寄進
内山・下田・松田
 ・下田大膳(第2家老)・源正左衛門尉・松田右馬助

箕輪初心★箕輪城121【長純寺】=長野業政の木造&供養塔&箕輪亭
http://53922401.at.webry.info/201403/article_27.html

箕輪初心:生方解説・・・出展は「箕郷町誌」である。
・弘治3年(1557)長野業政が菩提寺:長純寺(高崎市箕郷町
  原山)を再建した。(★長純寺文書)
   本郷堰(現黒沢川)より、長純寺堰を引いた。
   梁14丁、柱78本のうち、・・・
@出羽守・・・・長野業政の庶子:長野出羽守業親となると、
井伊直政の家老→井伊直孝の第3家老4000石という
ことになる。
 長野業正の息子は
 長野吉業・長野氏業(業盛)・長野正宣・長野業朝と
 誰が書いたが知らないが、長野氏18系図にも、
 長野正宣・長野業朝は見たことがない。

 長野業親が長野業正の子で、長野業親の子・伝蔵が井伊直政に
 仕え、第3席家老となった。
(★「彦根藩史料叢書 侍中由緒帳」第15巻)
 長野業親は長野氏の系譜に全くみえず、庶子か養子とみられる。
 (★『新編高崎市史 通史編2』)
箕輪初心★箕輪城91【井伊直政家臣:長野業親→長野業実とは?】
http://53922401.at.webry.info/201212/article_16.html

 井伊家3席家老:長野一族・・長野十郎左衛門業実の系図
3席家老の長野民部は長野一族である。
  業正(業政)の子:業親の子が伝蔵(業実、業真)である。
 ※長野業実(向坂伝蔵)は、武田氏の滅亡後、生母が井伊直
  政と知りあいだったことから、徳川家康の近習として仕え
  た後、井伊直政に仕えて4000石を賜ったとされる。
       (★彦根藩「侍中由緒帳」)

 ★箕輪初心私見「やや、年齢を考えると無理があるのでは?」
 長野業実→業輝→業利→業則→増業→業庸→業房→好業→業義
   →業壽→業賢
 (★『彦根藩井伊家文書』(彦根城博物館所蔵)「侍中由緒帳」)
 長野出羽守業親=業政の庶子か養子または近親者説。
 長野氏の系図18種に出てこないため、
 長野業正(業政)の庶子か養子、または近親者とする。
 (★『新編高崎市史 通史編2』)(★久保田順一先生)

  松田出羽守とすれば、宗長は立ち寄った松田加賀守
   の子孫ということになる。     
A左衛門尉・・・浜川左衛門尉
B左京亮・・・・長野業政の弟:竹頭院直業
長野直業は「極楽院長野氏系図」しか出てこないが、
極楽院系図が一番信憑性がある。
長野直業は山崎一氏の「童子砦」・「稲荷山砦」(箕郷町富岡)
  が発表されている。しかし、地形や白岩観音→箕輪に通じる
  道を考えると、今の車郷小学校そのものが城であった可能性
  もある。高橋家では戦国時代の石垣がある。井伊直政家臣:
  鈴木重好?重時?が在城したという説もある。
  そして、竹頭院は車郷小学校の東の榛名白川の河岸にあった。
  竹頭院は洪水で流された。 
C須賀谷(旧群馬町)・・・長野吉業の子:菅谷福田氏である。
D大学助・・・・・不明。
E八木原(現渋川市)・・・長野業正の縁戚
・永禄4年(1561)関東幕注文で長野檜扇
F大熊・・・・・★大熊ではなく、小熊でないだろか?
(★関東幕注文)
G小倉(現渋川市)・・・・八木原氏の分家?
H漆原(現吉岡町)・・・・長野業正の縁戚
・永禄4年(1561)関東幕注文で長野檜扇
I羽田(現東吾妻町柏木)・・・長野業正の縁戚(妹の夫)
元総理:羽田孜氏の先祖(羽田氏所蔵長野氏系図)
・永禄4年(1561)関東幕注文で長野檜扇
J長塩(現吉岡町)・・・・・・長野業正の縁戚。
・永禄4年(1561)関東幕注文で長野檜扇


・永禄2年(1559) 武田信玄は長野信濃守に服属を求める。
(★武田晴信書状:内田祐輔氏所蔵文書)
※偽文書の可能性がある?と新編高崎市史にある。


・永禄3年(1560) 長尾景虎の第1次関東出兵
(越後も関東だけど・・・)

6月10日 近衛前嗣は厩橋城の人質のことなどを長尾景虎に
申し送る。「みのわ」から人質が置かれた。
 (★近衛前嗣書状・上杉家文書)
9月上旬 長野信濃守業正らが味方した。
(★双林寺伝記)

10月2日 
「白井・惣社・簑匂(箕輪)?望の段風聞」
★正木時成は長尾景虎に「簑匂(箕輪)」が味方したことを伝える。
 (★正木時成書状写)

?月?日 、武田信玄は笛吹峠の戦いに参加しなかったことを
  持ち出し、服属を誘った。
(★武田晴信書状写:極楽院文書)
   

永禄4年(1561)関東幕注文で長野檜扇
 ※久保田先生「小田原に出兵した。」



箕輪初心★箕輪城135長野業政&長尾景虎の「関東幕注文」
http://53922401.at.webry.info/201405/article_9.html

箕輪衆
1)長野一族:親戚・・・旗印「檜扇(ひおうぎ)」


@長野
※近藤先生説は既に長野業政は死んでいて、秘密に
 するために「長野」しか書いていないとする。
  
★私説・・・長野氏業のことかもしれない。
「長野業政」とは書いてないのがこの時、長野業政は病気
  であって、この出兵には参加していないと思われる。
  
*永禄4年(1561)
※6月21日(=8月2日)死亡説
    ※11月22日(=12月28日)死亡説    
  ★高崎市箕郷:箕輪城 

A長野新五郎  
※近藤先生説は白川業勝と考えている。
★白川五郎業勝は箕郷町の白川砦にいた。

B南与太郎
  ※近藤先生説は小塙説としている。
  ★箕郷町富岡の長野憲業は小鼻和氏を名乗るので
   南与太郎=長野憲業(長野業政の弟の家図もある。)
としたのであろう。
  ★榛東村の南下の大藪城と考える。
   

C小熊源六郎
  ★私説・・・保渡田砦

D長野左衛門
  ※近藤先生説は長野新十郎左衞門業通:鷹留城である。
  ★近藤先生説に賛成である。  

E浜川左衛門尉
 ※近藤先生説は長野業忠か藤井友忠としている。
 ★高崎浜川砦?・・「着到帳」には藤井友忠が記載されて
  いるので、藤井家の誰かが浜川左衛門尉と名乗り、長野業
  政の娘を貰った可能性がある。藤井友安だろうか? 

F羽田彦太郎
 ※近藤先生説は羽田康文である。
長野業政の妹を貰った。
 ★東吾妻町大柏木・・大柏木城=羽田城
羽田孜元総理の先祖であるらしい?
  

G八木原与十郎
 ★渋川市八木原内出

H須賀谷筑後守
 ※近藤先生説は長野吉業(長野業政の長男)かその後継者
と考えられる。
 ★旧群馬町菅谷城

2)家臣・同心衆
I長塩左衛門四郎
 ★吉岡町長塩館・長野業政の父の親戚:叔父の家系 

J大戸中務少輔
 ★長野業政の娘&齋藤憲広の娘が妻である。
大戸真楽斎=浦野中務少輔幸次である。
 ★東吾妻町の大戸城

K下田大膳
 ★高崎箕郷支所・・・長野業政の第2家老 

L漆原
 ★吉岡町漆原城 長野業政の家老

M内山
 ★富岡市か旧群馬町の城か?長野業政の家老

O高田小次郎
 ★妙義町菅谷城 
 ★長野業政の高家客分  

P和田八郎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・檜扇
 ★長野業政の娘を貰った。
 ★高崎市和田城 

Q倉賀野左衛門五郎
 ★長野業政の娘を貰った。
 ★高崎市倉賀野城  

R依田新八郎
 ★長野業政の娘を貰った。依田光慶の子ども:業政の外孫?
 ★安中市板鼻城  

S羽尾修理亮
 ★長野業政の娘を貰った。
 ★吾妻の羽根尾城:羽尾幸全(ゆきまさ)  

2)厩橋衆
21長野藤九郎・・・・檜扇

22長野彦七郎・・・・檜扇

23大胡・・・・・・・
★大胡長野氏(★新編高崎市史)か上泉伊勢守秀綱で
 あろう。

24引田伊勢守・・・・
★旧富士見村・・・母が上泉伊勢守秀綱の姉?
  
★参考文献:資料
・群馬県史
・箕郷町誌:近藤義雄
・「箕輪城と長野氏」:近藤義雄著





・永禄4年(1561)
2月〜閏3月 小田原城→鎌倉八幡宮
関東管領は上杉憲政から長尾景虎に譲られ、上杉政虎となった。
★3つも字が付いている。

4月 厩橋に帰城した。
箕輪初心:生方▲『第4次川中島の合戦に至るまでの長尾景虎の動向』
http://53922401.at.webry.info/201604/article_31.html

4月中旬〜 上杉政虎と上杉憲政&長尾憲景&長野業政の病気
1)上杉政虎(謙信)の病気
C『上杉政虎書状:上越市史別編1・1419』
「・・・わつらいよく・・・
    くらがの(※倉賀野尚行)かね五まいくれ候、・・・
 卯月(4月)四日   」

A『武田信玄書状(群馬県史2247)』
「長尾弾正草津湯治、・・・上州衆倉賀野前後在陣之由候、・・
  卯月(4月)十三日       信玄(花押影)
  小山田弥三郎殿 」

@『上杉政虎書状写(東京大学文学部所蔵)』
「就湯治、・・・養生・・・
  四月十六日          政虎
  沼田入道殿(沼田顕泰)    」


B『近衛前嗣書状』・・・近衛は厩橋に到着
「・・・ふくちう(腹痛)いかか候や、・・
    ・・・みのわハわつらい候よし申そうろうまま、・・・」
  六月十日         花押」
※上杉政虎は腹痛・・
 ※長野業政は病気を煩っている。 

2)上杉憲政の病気
『謙信書状』
「・・・憲政事、病者被渡候之間、・・・憲政煩反複之間、・・・」

3)長尾憲景の病気
『そう林寺伝記』
「4月3日、・・・此節憲重依脳病(★意識がない)、・・嫡子」

4)長野業政の病気
『赤城神社年代記』永禄4年の条
「9月14日、赤石(館林)・厩橋彦太郎・大胡馬充?生害(死)
   両城の親類・家僕五百余人死ヌ、陣中病流行テ、敵味方共
   多死」

※久保田先生「・・・陣中で、集団感染があった。・・・」
★食中毒O157かなあ?


6月21日 長野業正の死亡。
  (★長純寺の長野業正木造背銘)

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