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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城208【久保田順一先生20160827「長野業正:新系図発見」】

<<   作成日時 : 2016/09/01 11:38   >>

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平成28年(2016)8月27日、久保田順一先生の「長野業正の実像に
迫る」というテーマで群馬県立博物館での講演会があった。今回の久
保田先生の大目玉商品は、徳川光圀から以降に作られた「系図纂要」
の中の「長野氏系図」である。私が知り得た長野氏系図の18番目と
なる。久保田先生が「今まで、歴史学者が誰も気づかなかった系図も
あるんですね。」と声をかけてくださった。久保田先生は、「中世前
期上野の地域社会」・「新田義重」・「新田一族の盛衰」「新田一族の戦
国史」・「室町・戦国期上野の地域社会」等、また、新編高崎市史や榛
名町誌の中世編を執筆された。最近は「上杉憲顕」・「上杉憲政」等を
著作された。平成28年(2016)の11月には「長野業正」が発売され
る。ブログ掲載は許可してくださり、ありがとうございました。
内容は変えず、多少レジュメの順を入れ替えしてまとめてみました。
飯森先生・黒田先生・近藤先生の説も掲載しています。
画像




【1】 「長野業正」の実像

1)平安時代→鎌倉時代→室町時代の「荘」と「郷」

********************************
【久保田順一先生2013年12月の講演会より】
0)はじめに
※中世の概念
「通説は武士の時代とされていたが、今は、院政期から
   中世と考えられている。」
※武士も貴族の一部である。
※荘園=私領・公領=郷の違い・・・院政期に成立
荘園・・・新田荘・桃井荘は私領である。
郷・・・・長野郷・甘楽郷などは国が支配した。

(1)中世長野郷を称する地域
@「・・長野郷内寺内」(熊野本宮大社文書)・・・応安7年
※久保田先生・・榛名町本郷にある地名である
★箕輪初心・・・高崎市浜川の寺内砦遺跡では?
A「・・長野郷内西芝村」(明月院文書)・・・応永10年
※久保田先生・・東芝があってもいい。
★箕輪初心・・・現在は上芝&下芝
B「・・長野郷内簸輪本郷村」(明月院文書)・・・応永23年
※久保田先生・・箕輪城周辺地区と旧榛名町本郷であろう。
★箕輪初心・・・高崎市沖町&高崎市箕郷町白川に隣接。
C「・・長野郷内東荒波村」(鶴ヶ岡八幡宮文書)・・・応永31年
★箕輪初心・・・現在は高崎市北新波&南新波がある。
   北新波には、北新波の砦&満勝寺砦がある。
D「・・長野本郷増長寺」(八幡宇佐宮御託宣集)・・・応永4年
※久保田先生・・東芝があってもいい。
★箕輪初心・・・現在は上芝&下芝
E「・・長野郷浜河村薬音寺」(鰐口銘文)・・・応永29年
 ★箕輪初心・・・高崎市沖町&高崎市箕郷町白川に隣接。
F「・・長野荘之内行力村中里村」(彦部文書)・・・戦国期
★箕輪初心・・彦部家は太田市にある古武家屋敷である。
 この頃になると、郷→荘=私領に変化している。
G「室田・三ノ蔵・権田」(頼院大僧正絵伝)

→※久保田先生・・榛名神社の神領は長野郷内の可能性がある。
 院政期の上野国の有力な郷であっただろう。
 長野郷・・広い範囲だったのであろう。
 ★東は箕郷町箕輪城周辺地区&旧群馬町中里〜井出〜保渡田。
南は東山道沿いの今の高崎北部:浜川町〜小塙町〜新波町〜
  沖町・我峰町〜
西は旧榛名町本郷〜榛名町室田〜旧倉渕村の三の倉・権田
北は榛名神社〜榛名湖南半分=旧榛名町・旧箕郷町唐松〜
  
(2)長野郷の支配
郷司・・・石上姓の豪族が長野郷の苗字と「長野氏」を名乗った。
しかも、在庁の構成員。
★箕輪初心・・・近藤義雄先生の説では、
「源頼朝の支配下では、国史は無用の長物になり、国府にいら
 れなくなり、東山道沿いの現高崎市浜川町の浜川運動公園内
 に屋敷を建て、住み始めた。浜川寺内遺跡は古い遺跡である。」
 また、近藤先生は
「青木荘に在原業平の子孫が住んだという伝説から、箕郷町の
 下芝:カインズホーム周辺・楽間町北・浜川町道場と考えて
 いる。」のである。
 もちろん、私などに長野郷の範囲を知るよしもない。
また、青木荘=長野氏の私領になっていることから、
久保田順一先生の説では、削除している。
近藤義雄先生の説では、成り上がりの説を採っている。
→もちろん、素人の私には分からない。
*****************************

2)戦国時代の「領」

上杉憲房・上杉憲政時代に成立した国衆の支配地域「領」

★「国衆」は黒田基樹氏が11年前頃に使った歴史用語で
NHK大河ドラマ「真田丸」で、初めて一般用語になった。
それまでは「国人衆」・「国衆」・「土豪・」「地侍(梁瀬大輔氏)」
などの言葉が使われていた。

史料用語に使われている「領」の例
「大胡領」・「箕輪領」・「長野領」・「厩橋領」・・・
「羽尾領」・「岩下領」・「沼田領」・「尻高領」・「白井領」
「惣社領」・「多比良領」・「高山領」・「安中領」・「高田領」
「那波領」・「新田領」・「小泉領」・「桐生領」・「館林領」
●不明な「領」
「小幡」・「諏訪(★松井田かなあ)」・西牧・天引・長根も「領」か?


@ 「箕輪領」の例「浦野家文書」
「別而、被抽忠節候間、於箕輪領五百貫文之所出置候・・・
・・・(後略)
  手戌九月廿二日
浦野新九郎殿

A 「長野領」の例「市ヶ谷八幡宮神社文書」
「・・・・・於干?長野領中弐拾貫之地出置候・・・(後略)」
  永禄10年丁卯五月五日 (龍朱印)
安中丹後守殿
※久保田先生「箕輪城に拠り、箕輪領を支配する国衆と長野領を
 支配する国衆がいたこと示す史料となる。



【2】 「箕輪長野氏」と「室田長野氏」
久保田先鋭「系図は信用できない。歴史学者として抹殺されるが、・・」

1)室田長年寺長野氏系図

※久保田「長野業茂の子孫が書いた可能性が高い。」
画像

業尚・・・長男:憲業・・・長男:業氏・・・業通・・・広賢
・     業固・・・業康
・ 業茂
         ・→次男:業政・・・吉業
                         氏業

     業尚の次男:方業

@長野業尚・・・箕輪城築城。長年寺開基。文亀3年病死。
A長野憲業・・・伊予守。霜月7日、吾妻で討ち死に。
B長野方業・・・左衛門大輔。(不明の人物?)
C長野業氏・・・三河守。室田鷹留城在城。



2)極楽院長野氏系図
※久保田「長野亀寿丸の子孫が書いた可能性が高い。」
画像

乙業・・・尚業・・・長男:憲業・・・(養子:業氏)
・・・・次男:信業・・・業氏・・・業通・・・業康
業固
  3男:方業・・・・業政・・・吉業
業盛・・・亀寿・・・
     直業・・・勝業

@長野乙業・・・(伊勢より来て)長野郷下箕輪在住。来迎寺に埋葬
A長野尚業・・・鷹留城築城。長年寺開基。文亀3年2月20日卒。
B長野憲業・・・伊予守。鷹留城在住。
    永正9年箕輪城築城本城とす。同11年吾妻で討ち死に。
C長野信業・・・信濃守。弾正忠。憲業の後、箕輪城在城。
        長純寺開基
※近藤義雄先生「憲業=信業説」
※黒田基樹先生「信業は存在しない説」
D長野方業・・・出羽守。
E長野業氏・・・三河守。憲業の養子。鷹留城在城。天文7年卒。



3) 「系図纂要」の「長野氏系図」(★群馬県立図書館蔵)
今回の久保田先生の大目玉商品は、徳川光圀から以降に作られた
「系図纂要」の中の「長野氏系図」である。私が知り得た長野氏系
図の18番目の系図となる。久保田先生が「今まで、歴史学者が誰
も気づかなかった系図もあるんですね。」と声をかけてくださった。

画像


長野業綱→業行→業高→業景→業久
信業→業正→業盛→業輝→業真
定俊→藤井豊前守
@長野業綱・・・小四郎。右京亮。飛騨守。
永享十年生。長禄二年嗣。文明中、属上杉顕定陣五十子。
同(文明)十八年二五 実巻合戦先陣討死
A長野信業・・・長野彦二郎。右京亮。伊予守。
大永六年四築箕輪城。天文三年七五卒。
※久保田先生「?年、長純寺が信業に下柴に造営された。」
 ★正確には「水草・・・第五保育園北隣です。」
B長野業正・・・信濃守。右衛門大夫。永禄四年六廿一卒七十一
C長野業輝・・・長野伝蔵。天正十八年属井伊直政、在小田原
※久保田「井伊家に仕えた家系伝承と一致する。」



久保田先生の講演会は6回、『長野氏』関連の講演会は4回聞いて
いる。同行旅行は1回ある。久保田氏もまた「長野業正」の資料の
少なさ故に歴史学者として、悩んでいる。




【3】 1500年以降の確実な文書史料

1) 『林泉寺開山曇英(恵応)禅師語録』
 @長年寺造営に関わる確実な史料
  「文亀元年(1501)業尚が長年寺を造営した。」
   (★)
A「信州太守長野業尚」
B「嫡嗣憲業左金吾」
C「庶子金刺明尚諏訪」
※久保田先生「業尚・憲業・諏訪明尚が確実に存在した。」
 ※黒田基樹氏「信業はいない説の根拠となっている。」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心▲箕輪城150久保田順一先生【室田長野氏:長年寺&鷹留城】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_10.html

箕輪初心●新潟『林泉寺』=和尚様と話した。
http://53922401.at.webry.info/201305/article_30.html

箕輪初心:生方▲群馬富士見【石井岡城】
&箕輪城181長野業正養子:里見義樹=石井信房
http://53922401.at.webry.info/201512/article_5.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

2) 『東路の津登』永正6年(1509)
「その日、九月儘なるべし。神無月朔日になりぬ。
 又発句、
神無月 里やふりにし 花の春

此別当俗長野姓石上也並松上野國多胡郡
 弁官府碑文銘曰太政官二品穂積親王左大臣
 正二位石上尊此文系図(★古い字)有布留社あり
布留今道
ひの光や ふしわかねは 石上ふりにし里に
花咲にけり。



★箕輪初心:生方の考察*******************************
9月9日
●浜河(高崎市浜川町)
「松田加賀守・・重陽(旧暦9月9日)の連歌会」
宗長は松田加賀守とは文通していた。
★松田加賀守は一体誰なのであろうか?
長野憲業・長野業政の家臣団の中に松田姓の
  有力家臣は出てこない。
予想される館は「隆業館、後の浜川館である。」
200m×130mの大きな館である。高崎北高
の井野川野球グランドの西隣から西に当たる。
1)寺内館:(元高崎市浜川公園南西部300m・・・
      東山道に隣接北部)
2)乙業館(おとなり)(高崎市浜川町道場火薬工場北)
3)寺内館・矢島館・北爪館・北新波砦・満勝寺砦
   住吉城(沖町)など
★矢島砦(90m×90m)・北新波砦(90m×90m)など
約20の館が長野郷浜川地区にあるが、浜川館以外
はみな小さい。
久保田順一先生の長野郷の中心地は箕輪であったとすれ
ば、現箕郷町に館があった可能性もある。

9月末〜10月1日
●浜川
「その日、九月儘なるべし。神無月朔日になりぬ。
 又発句、
神無月 里やふりにし 花の春

此別当俗長野姓石上也並松上野國多胡郡
 弁官府碑文銘曰太政官二品穂積親王左大臣
 正二位石上尊此文系図(★古い字)有布留社あり
布留今道
ひの光や ふしわかねは 石上ふりにし里に
花咲にけり。
当月異名小春にそよへて過にし花の春に
 やと申計也。武州成田下総守顕泰亭にして
あしかもの みきはゝ雁の 常世かな 
水郷也。舘のめぐり四方沼水幾重ともなく蘆の露
枯れ廿余町四方へかけて水鳥おほく見えわたり
 たるさまなるべし。同千句興行第一句発句に・・・
 ・・・(略)・・・

★宗長は浜川(高崎市浜川町)に10月1日に戻ってきた。
・・・・・重要ポイント・・・

*************************************************
箕輪初心●箕輪城シリーズB「長野氏の系譜」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_6.html

箕輪初心★箕輪城101「長野氏」の研究:近藤・山崎・飯森
・久保田
http://53922401.at.webry.info/201310/article_6.html

箕輪初心●箕輪城105久保田順一先生「箕輪城と長野氏」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201305/article_26.html

****************************************************   

上杉顕定実父:上杉房定・・・京との交流と越後府中文化
享徳の乱や都鄙合体の交渉の過程で京都との関係は深まり、将軍家や
在京公家との交流も盛んになった。
・文明18年(1486)3月、上杉房定は守護としては破格の待遇である
従四位下相模守に任じられた。この官位を得るために近衛政家と
接触して吉田神社の造営費を送り、足利義政や関係者にも莫大な金品
を贈っている。
応仁の乱で荒廃した京都からは飛鳥井雅康や聖護院道興といった一流
の教養人として知られた公家・僧侶が越後に下向するようになった。
連歌師宗祇や歌人:尭恵や太田道灌の死で扇谷上杉家のもとから離れ
た万里集九も越後を訪れた。上杉房定は文化を保護したため、越後の文
化発展にも貢献すした。越後府中や上杉房定の様子は『梅花無尽蔵』
などに記されている。
こんな中、上杉顕定も連歌や絵を嗜んだのだ。
この時、上杉顕定は養父の弔い合戦の為、上杉謙信の父:長尾為景を
退治しようと越後の長者森(八海山の麓)にいた。


9月〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●青柳(前橋市青柳)
●荒蒔(前橋市荒牧)
●浜河(高崎市浜川町)
「松田加賀守・・重陽(旧暦9月9日)の連歌会」
宗長は松田加賀守とは文通していた。
●大戸(東吾妻町)
●草津・・10日間滞在した。
●大戸
9月25日
●板鼻か後閑(安中市)
「きのふけふ(昨日今日)ふわけ出侍る。山中前後左右の
紅葉の興計なるべし。過諄九月廿五日、太守佳例の
法楽の連歌 依田中務少輔泊にして、
 菊さきて あらそふ秋の 花もなし 
 規懐紙を越後の陣へとなん。はま川並松別当(★古い字)
 にして
色かへぬ 松はくれ行 秋もなし 」
★依田中務少輔(しょうゆう)光幸の宿所で  
太守=上杉顕定主催の「法楽の連歌」に参加した。
連歌は越後上杉顕定の陣(新潟県六日町?)に送られた。

※森田真一先生は上杉顕定が板鼻2居住したと断言している。

************************************************
箕輪初心★【連歌師:飯尾宗祇】&関東管領:上杉&長尾
http://53922401.at.webry.info/201404/article_24.html

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

箕輪初心:生方▲箕輪城179●20151126森田真一先生講演会
『上杉氏・長野氏・里見氏』
http://53922401.at.webry.info/201512/article_1.html

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★私見・・しかし、依田中務少輔光幸はこの段階では後閑にいた
可能性のある。後閑に新田景純が富岡丹生城から後閑に
入るのはずっと後のことである。但し、依田中務少輔光幸の
館が板鼻にあった可能性もあるが、・・・。
森田真一先生は「徳昌軒屋敷」があったことから、上杉顕定に
依田氏も屋敷を持った。という。当時、平井から板鼻に中心が
移ったと考えている。



3)長年寺・榛名神社の長野憲業関係の確証史料
久保田先生
「・永正九年(1512)10月?日 前伊予守憲業発給壁書
   (★長年寺文書・・壁書)」
「永正十年(1513)4月吉日 大戸要害の落居の祈祷を
 巖殿寺(榛名神社)に依頼する。
 (★長野伊予守憲業の立願状写:榛名神社文書)」
画像



5)長野憲業の後継者
 前掲
「系図纂要」の「長野氏系図」(★群馬県立図書館蔵)
久保田先生「・永正11年(15149)4月1日 
  某制札
  (榛名神社文書)」
平成28年(2016)11月〜かみつけの里博物館に、
 榛名歴史民俗資料館から9つの史料が貸し出され、
 公開される。




★箕輪初心:生方のここまでの確実な歴史のまとめ*********
・延徳4年(1492) 長野業尚が榛名に長年寺を創建。

・明応6年(1496)戸榛名神社安堵状

・明応6年(1497) 長野業尚か憲業が箕輪に長純寺を創建。
    (★みさとの歴史)

・文亀元年(1501) 長年寺が創建:長野業尚

・文亀3年(1503) 長野業尚が死亡。
 (★みさとの歴史)            
  長野憲業が家督を継承。

・永正元年(1504) 上杉 VS 北条早雲  
  ・長野房兼が上杉に味方し、討ち死に
  (★近藤先生の群馬県史)

・永正3年(1506)〜4年 古河公方内の相続争い
・永正6年(1509) 宗長の『東路の津登』
宗長は長野憲業の身内で浜川の松田氏を訪ねた。
 新田:岩松〜大胡〜青柳〜荒蒔〜浜川〜大戸〜草津〜
 大戸〜依田で句会〜浜川:松田氏の元で句会・多胡碑に
 石上が載ってるねえ。子孫だってねえ。」〜鉢形・・・

●永正7年(1510) 長野業政が誕生説?(1490年説あり?)

・永正7年(1510)長野憲業死亡説
  弟:長野信業が鷹留城主から箕輪城主となったする
  説がある。

・永正9年(1512) 長野憲業が長年寺に壁書を提出。
(★榛名町誌・新編高崎市史:久保田順一先生)
★長野憲業の死亡1510年説は確実に違っている
  ことが分かる。  

・永正9年(1512)上杉憲房の禁制
    長野憲業の壁書:長年寺

・永正10年(1513) 長野憲業の立願状:榛名神社
   長野憲業が100疋を榛名神社に寄進。
      大戸城の攻略を祈願
        (★みさとの歴史)
  (*海野棟綱の息子?娘婿?真田幸隆誕生・・・・説が4つ。)

・永正12年(1515) 上杉憲房(山内上杉家初代)が関東管領になる。

※大永元年(1521)  武田信玄が誕生。

・大永4年(1524) 長尾顕景(惣社城:現前橋の総社神社付近)が
     北条氏綱(2代目)に内通した
*北条氏綱が江戸城の奪取

******************************

【3】長野方業と長野業政
1)長野方業の存在を示す史料

★箕輪初心:生方の長野氏の系譜まとめ************
箕輪初心:生方▲箕輪城170【黒田基樹説を加味した長野氏の系譜】
http://53922401.at.webry.info/201510/article_2.html


■徳雲軒の文書2説
大永4年(1524)説&大永27年(1527) 説
・大永7年(大永4年)の箕輪にいる『長野方業』
『戦国のコミュニケーション』:山田邦明著(2002)で初めて
  紹介された。
 『徳雲軒性福条書写:上杉文書』

▲久保田順一先生の以前の説明
A,大永4年(1524)「徳雲軒性福状」(上杉文書)・・・
※久保田先生・・・10年前に発見された文書
密書で10cm×15cm位の大きさ
総社城の徳雲軒=家老クラスが長野方業にあてた密書

「其夜可被仰付事」
「一、彼のくるわへ引入れ申時、らんはうの事、」
※久保田先生・・総社城の曲輪に引き入れ申す時、
乱暴はしないでくれ。

「一、其身討捕申時、おのおのたしなみの事、」
※久保田先生・・総社城の誰かの身を討捕し申す時、
各自、たしなみ=武器をきをつけてくれ。
つまり、夜なので、長い槍などは使えない。
「一、・・・・」
「一、・・・」
「一、まやはし殿御人数いそき東口へ火手あへさせ御申事、」
「一、西南之火手動、こなたのと同前ニさせられへき事、
さやうに御座なくしてはこなたのくるわへとりかけ
申へし、如件首尾あひ申候者、八まん大菩さつも御
照覧候へ、いたしそんたし申へし候、此外、行之様体之事者、
口上に申候、以上
 十二月二日(大永4年1224か?と久保田先生)
徳雲軒性福
箕輪へ参



、「徳雲軒性福宛長野方業書状」(★群馬県史)
「御覚悟之旨玄ニ条々承候間、左衛門、四郎進退並其口所帯之儀、
 兎にも角にも任可申候段、以誓詞申候き、然而八木駿河入道所
 へ被載誓詞承候、先以落付申候、乍去於此上も、直二方業方へ
 以御誓詞承候者、邪以添?可存候、八幡大菩薩・春日大明神・
 石上布留大明神御照覧、誰にも不可令口 外候、至干其元者、
 可御心易候、御返事到来候上、即時二御陣へ罷出、御返事可申
 調候、  恐々敬白 」
 11月17日
           左衞門大夫方業(花押)
 徳雲軒


▲久保田先生*********************
長野左衛門大夫方業が惣社長尾氏の重臣:徳雲斎を調略した。
長野左衛門大夫方業が箕輪城主と
  して文書を発給している。
   (★徳昌軒の文書)
 ところが、内応が発覚した徳雲斎は長尾顕景に殺害された。
 長野宮内大輔(賢忠か?)とともに惣社長尾家を攻め、追い詰め
 られた長尾顕景が既に上杉憲寛と和睦をしていた長尾為景の仲介
 で降伏した。
 ★なお、長尾景誠の妻は業正の姉とされているので、長野方業と
 長野業正が父子かもしれない。

画像



3) 天文4年(1535) 長野某が榛名神社の春の祭礼に制札を出した。
(★榛名神社文書:高崎市史)
 ★通説は長野業正である。久保田先生も長野業政としている。
「某制札写」(榛名神社文書)
「制札
一、喧嘩之事、
一、相伝之事、
一、押買狼藉之事・
右、於榛名山祭礼之町、此条有違犯之輩者、可処科之状如件、
 天文四年四月?日       花押影(写し)

内容@けんか禁止 
   A逃亡した下人をとらえる行為の禁止
  B押し売り行為の禁止
    (近藤義雄説)
内容@けんか禁止 
   A家臣の人身売買為の禁止 
  B押し買いディスカウント(自分の売り込み)の禁止
   (久保田順一説)



※久保田新説B・・・
1回目・・・久保田先生は長野方業=業政は同一人花押から
       推測できる。と、おっしゃっていた。
2回目は・・・・久保田先生は、言葉を濁している。
3回目(今回)・・・久保田先生は同一人の可能性が高い。


4)確証せきる有力史料「長純寺長野業正木造の背銘」
「永禄四年(1560)六月二十一日他界」
63歳説・・・明応7年(1498)生まれ説
71歳説・・・延徳2年(1490)生まれ説

〜〜〜徳雲軒〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●箕輪城87飯森康広説「長野方業=長野業政?」
http://53922401.at.webry.info/201212/article_2.html

箕輪初心★箕輪城101「長野氏」の研究:近藤・山崎・飯森・久保田
http://53922401.at.webry.info/201310/article_6.html

箕輪初心●箕輪城105久保田順一先生「箕輪城と長野氏」
http://53922401.at.webry.info/201305/article_26.html

箕輪初心:生方▲箕輪城168【秋本太郎先生講演会】20150912
『そうだ!箕輪城をもっと知ろう』
http://53922401.at.webry.info/201509/article_15.html

箕輪初心:生方▲箕輪城180【長野業正の妻】&子ども
http://53922401/201512/article_4.htm?i=&p=&c=m&page=1&guid=on
http://m.webry.info/at/53922401/201512/article_4.htm?i=&p=&c=m&page=1&guid=on
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

3)天文4年(1535) 長野業政?の制札:榛名神社
 ★「旧榛名町の歴史」で「
  上杉憲政の制札:榛名神社と書いてしまったが、
間違いであった。
@天文4年(1535) 長野某が榛名神社の春の祭礼に制札を出した。
(★榛名神社文書:高崎市史)
 ★通説は長野業正である。久保田先生も長野業政としている。

A天文3年(1534) ・・・秋本先生・みさとの歴史
長野業政が榛名神社の春祭りに禁令を出す
   (★業政の唯一の古文書・・・・秋本先生)
  =長野業政が榛名神社に制札を掲げる。

B天文4年(1535)4月
飯森先生
 □(長野方業) 榛名神社に制札を出す。
(★榛名神社文書)
 飯森先生・・・長野左衞門太夫方業は箕輪城に在城した。


箕輪初心:生方▲箕輪城189『古文書史料に基づく長野氏・箕輪城の関連年表』
http://53922401.at.webry.info/201606/article_24.html

箕輪初心●箕輪城130「長野業正の生涯」=武田信玄を悩ませた人物
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201405/article_2.html



★箕輪初心:生方の歴史年表*****************
・大永5年(1525) 上杉憲房(山内上杉家2代)が関東管領になる。
    上杉朝興 VS 北条氏 

●大永5年(1525) 長野業政の次男吉業が誕生?
・大永6年(1526)長野信業は長子:業氏に
   鷹留城を与えた。
(★群馬県史)
長野憲業=信業同一人物説(近藤先生)もある。








●飯森康広先生説*********************                  
@浜川・・・長野為兼=為業   
          ↓
A室田・・・   業尚=尚業→憲業・・・・・業氏?
                    ↓
B箕輪                方業=業政?→氏業

C厩橋:長野周防守?・宮内少輔→賢忠→・・・・・道賢

▲飯森康広説「長野方業=長野業政」
   ・・・あるいは業政の父である。」
飯森康広氏は「長野方業=長野業政であると思われます。」
と、言われた。
★まさなり=なりまさ・・名前が逆になっている。これは、
鷹留城主:長野尚業=長野業尚と同じようなものだと思った。
飯森氏「いずれにせよ、いままで、長野方業(まさなり)は、
厩橋城主で長野業政の叔父と考えられていましたが、
米沢の上杉家文書では、
@大永7年(1527)11月27日・・
 箕輪の長野左衞門太夫方業、総社長尾顕景・白井長尾景誠
 の排除を徳雲軒と謀る。
A大永7年(1527)12月16日・・ 
 箕輪の長野左衞門太夫方業、厩橋宮内大輔とともに総社城
 を攻めすすめる。  
B天文4年(1535)4月・・・飯森康広先生
 □(長野方業) 榛名神社に制札を出す。(榛名神社文書)
長野左衞門太夫方業は箕輪城に在城したことが、上記の
2文書から判明しました。」と飯森先生がおっしゃった。
つまり、長野方業=長野業政である。
★群馬県埋蔵文化財:飯森康広氏の考えである。

◆◆ 箕輪初心●【箕輪城87:飯森康広氏の新説】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_2.html

箕輪初心★箕輪城101「長野氏」の研究:近藤・山崎・飯森・久保田
http://53922401.at.webry.info/201310/article_6.html



▲黒田基樹氏説**********************
?????
  惣社長尾顕景&白井長尾景誠が越後の長尾為景に内通した。

11月27日・・
 箕輪の長野左衞門太夫方業が総社長尾顕景・白井長尾景誠
 の排除を徳雲軒と謀る。

 長野左衞門太夫方業は、弟の厩橋城主の左衛門大夫方業
 とともに惣社長尾顕方が後北条方に通じたことを口実に、領土
 拡大を目論んだ。
 長野左衛門大夫方斎が厩橋宮内大夫とともに総社城にあった総社
  長尾氏の長尾顕景を攻撃した。
 ※この長野左衛門大夫方斎→(今は方業)と厩橋宮内大夫は誰か諸説
  あってはっきりしない。 

長野憲業・・・1510年死亡説?・1530年死亡説もある
長野左衛門大夫方斎は箕輪城主とみられている。
@『日本城郭大系』では、箕輪城主の長野信業
『箕郷町誌』(箕郷町1975年)では長野信業=方斎
   (★近藤義雄先生)
A『群馬新百科事典』(上毛新聞社2008年)の「長野氏」
  (飯森康広著)
 では長野方業=長野業正(★正式名:業正である)
 同一人物説・・・花押も同じ。
B『群馬県史 通史編3』では。長野方業=方斎』
C戦国のコミュニケーション』(山田邦明著2010)
方斎ではなく、方業である。
D黒田基樹論文 方斎は方業の誤読とする。
  厩橋長野方業が箕輪長野氏に養子に行った説。


※厩橋宮内大夫も諸説ある。


★秋本太郎先生の講演会資料*****************
@長野方業=方斎?(厩橋城=前橋城)が惣社城長尾顕景を攻撃。
 箕輪城長野憲業+厩橋城長野宮内が、総社長尾氏が挟み撃ち
 にした。
A→惣社城長尾顕景+白井城長尾景誠が応戦。
B→越後の長尾為景(上杉謙信父)に援助要請。
C長野方業も長尾に仲裁請求。
   (★群馬県史:近藤氏・峰岸氏)
 (唯一の長野氏関係の文書上の初・・・・秋本氏)
D箕輪城主長野方業(業正?)に攻められ降伏した。
  E西上野を掌握した業正は長尾顕景を隠居させて嫡子:景孝
  に惣社長尾氏を継がせた。
 ★仲裁には関東管領:上杉憲房か長年寺・長純寺和尚が立った
 のでは?

12月16日・・ 
 箕輪の長野左衞門太夫方業、厩橋宮内大輔とともに総社城
 を攻めすすめる。  

@享禄元年(1528)白井長尾景誠が家臣に殺害された。
  ★長野方業の陰謀か?
    →長尾景誠には男子がないために、跡継ぎ争い。
(※長尾景誠は長野業政の姉が景英に嫁いで生んだ子で業政の甥)
  
  長野憲業は白井長尾氏の家督相続に介入。
 →惣社長尾氏から長尾景房を迎え白井長尾氏を継がせた。
 @白井城長尾景房は惣社城長尾氏とともに山内上杉氏に復帰説。
  A長尾顕景次男:憲景を白井長尾氏当主に擁立説
 ★長野憲業が両長尾氏の復帰は関東管領:上杉憲房を動かした
  のでは? 長野憲業は両長尾家に恩を売る形で上に立った
  のでは?
 長野一族は山内上杉氏家の最有力者に台頭したと思われる。


■関東享禄の内乱・・・黒田基樹
享禄2年(1529)〜享禄4年(1531)
第3代古河公方:高基から第4代・晴氏に継承される時にも永正の乱
よりは小規模だったものの、再び新たな抗争が生じた。
関東管領:山内上杉家でほぼ同時に家督相続争いが発生した。

1)古河公方家
・享禄元年(1528)12月27日 古河公方家嫡男:足利晴氏が元服した。
・享禄2年(1529) 安房里見義豊が古河公方足利家当主として、
足利晴氏を挙げた。
古河公方:足利高基と晴氏の抗争が始まった。
  5月晦日 足利晴氏が高基の古河城を攻撃した。
・享禄4年(1531)
 6月1日 
足利晴氏が下野宇都宮城から古河城への帰座を検討した。
 足利政氏から足利基頼宛の書状が届いた。
 6月6日 足利晴氏が古河公方として、奉公衆・田代三輝斎に対し、
   足利政氏の治療を指示した。
 6月9日 足利高基が小山小四郎に対して隠居を知らせた。
   
2)山内上杉家の内紛
・享禄2年(1529)
1月24日 山内上杉家家臣:白井長尾景誠が長尾八郎に謀殺される
   (『続本朝通鑑』)
 8月14日 上杉憲寛が上野国碓氷郡:安中城の安中氏討伐を開始
   した。同盟関係にあった扇ヶ谷上杉朝興からは制止されたが、
    これを無視した。
   (『続本朝通鑑』)
 9月22日 西氏と小幡氏が上杉憲政を擁立した。
   上杉憲寛に対して謀反を起こした。
 ・・・・山内上杉家の内紛が発生した。
  上杉憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立が  
  あったと考えられる。

  (★黒田基樹)
  長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
VS 安中城付近で交戦
  小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政

  上杉憲寛は長野方業を随行させながら、安中城から程田
  (高崎市保渡田)に後退した。
    (★『続本朝通鑑』) 
  ・享禄3年(1530)
5月 
「左衛門尉」(小幡)が上野国多胡郡仁叟寺(吉井町)に対して
 禁制を与えた。
  甘楽郡高田城(富岡市旧妙義町)周辺で合戦があった。
5月21日 上杉憲寛が高田憲頼の注進により、被官:守山与五郎の
  戦勲に対して感状を発給した。
10月25日 上杉憲寛が用土新三郎(業国)領の武蔵国男衾郡赤浜
  を被官:三富平六に与えた。
・享禄4年(1531)
9月3日 上杉憲政が関東管領を継ぎ、憲寛は上総国の宮原
(市原市)に退去して、晴直と名を改めた。

●参戦武将・・・黒田基樹著
@勝者・・・
第4代古河公方:足利晴氏(下野宇都宮城)
第2代公方足利政氏、
足利基頼(高基の弟)
宇都宮興綱(下野宇都宮城)&芳賀次郎高綱?

山内上杉氏 :上杉憲政
安中氏:宮内少輔?(上野安中城)
小幡氏:小幡顕高?(上野国峰城)
藤田業繁
用土業国(武蔵国:用土城)
成田親泰(武蔵国:忍城)
里見義豊(安房国:)
上杉朝興(武蔵国:川越城)
小弓公方:足利義明

敗者側
第3代古河公方:足利高基(古河城)
小山小四郎(小山政長の嫡子)(下野小山城)
山内上杉氏 :上杉憲寛(古河公方家からの養子:高基の次男)
長野氏:長野方業?(上野箕輪城)
高田憲顕(上野高田城)
三富平六(子孫は赤城村)


●結果
1)古河公方家では足利晴氏が公方の地位を確立し、高基は隠棲。
2)山内上杉家では上杉憲政が家督を継ぎ、憲寛は敗れて上総宮原
  (市原市)にて隠棲。
結果:足利晴氏が古河公方、上杉憲政が関東管領の地位を確立した。

※箕輪長野方業が敗れている。
上杉憲寛方の諸氏は許された。

長野方業の後継者とみられる長野業正(★黒田基樹)
あるいは長野方業の娘を小幡憲重(小幡重貞=信貞=信実)
の父)に嫁がせた。
その後、箕輪長野方業の養女になっていたとみられる沼田顕泰
の娘(長野業正の母の姉の娘)を安中重繁に嫁がせた。
さらに、安中重繁(忠政)の娘を高田繁頼に嫁がせた。
これによって、和解が図られている。
  (★黒田基樹)
◆参考文献
・『戦国関東の覇権戦争』黒田基樹著 洋泉社2011
・『戦国北条氏五代』黒田基樹著 戎光祥出版 2012
・『戦国期山内上杉氏の研究』黒田基樹 岩田書院 2013
・『西上州の中世』:安中市・・・ふるさと学習館
◆参考サイト
ウィキペディア


※黒田基樹氏はこのことから、長野憲業の後に、養子:長野方業が
 継いだ。長野方業の子が長野業正という説になった・・・
 という考えになった。


・享禄3年(1530)吾妻の戦い
  長野憲業が戦死説。
  →長野業政40歳?が家督相続した。
  (★箕郷町誌・みさとの歴史)

※飯森康広説では、長野賢忠の弟である長野方業=長野業政説
  ということになるのかなあ?

※黒田基樹説では、長野方業の後を長野業正が跡を継いだ
  という考えになるのであろう。




★明日は久保田先生の「長野業正」後編である。

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