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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸112【豊臣秀吉の朝鮮侵略&「火の女神ジョンイ」&出番のなかった真田:丸島説】

<<   作成日時 : 2016/08/31 14:59   >>

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天正18年(1590)豊臣秀吉は日本の天下統一を果たした。豊臣秀吉は
大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立
ち上げた。豊臣秀吉は「明」の冊封国である李氏王朝14代ソンジョ
王(宣王)に服属を強要したが拒まれた。・・・豊臣秀吉の朝鮮侵略
は日本では文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と言っている。
豊臣秀吉の個人的な野望から始まり、豊臣秀吉の死によって終わった
無謀な侵略戦争であった。
画像



【0 】 韓国ドラマ「火の女神ジョンイ」の中の「豊臣秀吉」
平成28年(2016)6月22日〜8月30日、「火の女神ジョンイ
全46話」全46回が東京TVで放映された。@主人公「ユ・
豊臣秀吉の意識変化では、
@陶工ジョンの「井戸茶碗」気に入り、「陶工ジョンを探して
買ってこい」→倭国の武士:ケンゾウが王や商団に商談をする。
A「陶工ジョンを日本に連れてこい。高い地位で優遇してやろう。」
倭国の武士:ケンゾウが陶工を日本に連れ去り、始める。
B「朝鮮を平定し、陶工・陶磁器を自分の物にしてしまえ。」
 倭国の朝鮮侵攻が始まった。
 倭国の武士:ケンゾウが将軍として、
 指揮を執る。
 李氏王朝14代ソンジョ王(宣王)は李氏王朝15代クァンヘグン
 (光海君)にセジャ(世子=跡継ぎ)とし、漢城(現ソウル)
  から王明国の遼東半島に逃げようとする。漢城が攻略された。
  クァンヘグン(光海君)を大将に反撃を開始する。
  イ・スンシン(主舜臣)は慶尚道で倭船40隻を撃破した。
しかし、倭国:ケンゾウ将軍にプノン(王宮の分院=宮廷御用
窯)を占拠され、朝鮮初の宮廷陶工ジョンが日本に旅立つことに
なってドラマは終了した。

・文禄元年(1592) 豊臣秀吉軍(倭軍)の侵攻の始まった。
1)日本
豊臣秀吉は冊封国の意識はなく、明王と自分は同じ立場と考え
ていた。

2)朝鮮(李朝)・・・・
  1392年に李成桂によって創始されてから
  ちょうど200年目に当たる。
(★「火の女神」)
 李氏王朝14代ソンジョ王(宣王)の時代、朝鮮は高度な文明を生み
 出していた。
 しかし儒教(朱子学)の大義名分観によって政治は形骸化していた。
 支配階層:ヤンバーン両班(日本の大名)は東人派と西人派に分かれ
 て党争を繰り返していた。 
 しかも、朝鮮は「明」の冊封国(属国)であった。

2)中国(明朝)・・・
  
  明は、永楽帝時代が室町3代将軍:足利義満を日本国王に冊封
  した。
  明は万暦帝は、朝鮮の宗主国としていた。
   朝鮮は「明」の冊封国(属国)であった。
  織田信長は室町幕府を倒してあと、豊臣政権となったため、
  明は豊臣政権の正統性を認めていなかった。
  つまり、未だ、日本を冊封国(属国)と見ていた。   
  しかし、北東方面からの女真(後の清)の侵攻に苦しんで
  いた。国力も衰退にしていた。
 

箕輪初心:生方▲真田丸104【第30回「黄昏」】秀吉のボ
&韓国D「火の女神ジョンイ」
http://53922401.at.webry.info/201608/article_5.html

箕輪初心:生方▲「全46話火の女神ジョンイ」のあらすじ1〜15
&「ちょっと自分の陶芸作品」
http://53922401.at.webry.info/201608/article_36.html

箕輪初心:生方▲「火の女神ジョンイ全46話」3−Aあらすじ16話〜32話
http://53922401.at.webry.info/201608/article_37.html

箕輪初心:生方▲「火の女神ジョンイ全46話」3−B30話〜46話&「豊臣秀吉関連」
http://53922401.at.webry.info/201608/article_38.html







【1】 豊臣秀吉の朝鮮侵略・文禄の役=壬辰の倭乱
・天正15年(1587) 豊臣秀吉はキリスト教禁教令(バテレン追放令)
  を出した。ヨーロッパ勢力の進出を抑える姿勢を示した。

・天正16年(1588) 検地と刀狩りを出し、封建支配体制を
  作り上げた。
 海賊停止令を出して倭寇取り締まりを強化して、明に対する勘合
 貿易の再開を迫った。
・天正18年(1590) 豊臣秀吉は九州平定後、天下統一に乗り出した。
 6月、奥州伊達政宗を服属させた。
 7月5日、北条氏直に小田原城を開城させた。
 8月 徳川家康を関東に移封し、天下統一=国内統一を果たした。
 豊臣秀吉は、世界に目を転じた。
 
●「真田丸」・・・豊臣秀吉の朝鮮侵略の出兵の理由  
豊臣秀吉は、自らを「日輪の子」と称した。
豊臣秀吉は百戦百勝し天下を治めた。しかし、これで満足して
いなかった。
豊臣秀吉は朝鮮への出兵にあたり、朝鮮国王に示した国書で、
「自分は母が身籠もったとき日輪が懐中に入った入った夢を見て
 生まれた「日輪の子」である。」
「大明国に入り、日本の風俗を中国の四百余州に及ぼしたい。
自分が明へ兵を出すときは、士卒をひきいて軍営に臨むように、」
と求めた。
「予の願は他に無し、ただ佳名を三国(日本、中国、天竺=インド)
に顕(あらわ)さんのみ。」
と結んだ。
豊臣秀吉の朝鮮出兵は、個人的な野心から発したことであった。
天下統一によって部将たちが新たな恩賞を得ることができず、不満が
生じることを恐れた。としている。
豊臣秀吉は戦争を継続して新たな恩賞を与えると考えていた。
豊臣秀吉の構想では明を征服し、天皇を北京に移すというものだった。
豊臣秀吉は、「高麗」=李氏朝鮮に「朝鮮の服属と明への討伐」
への協力を要請したが、朝鮮ソンジョ王(宣王)は拒絶した。

豊臣秀吉は、対馬の宋義智(よしとし)宗義調らに交渉をさせたが、
ソンジョ王(宣王)は拒絶した。

・天正19年(1591)
8月、身分統制令を出した。
   武士が百姓に帰農することを禁じて、兵を確保した。
   
  豊臣秀吉は「唐入り」を宣言した。
  「翌年春に決行する。」ことを全国の大名に告げた。
  豊臣秀吉は肥前の名護屋に前線基地としての城を築造するように
  九州の大名に命じた。

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▲「真田4代と幸繁」:丸島和洋著
 @織田信長の段階で構想があった。豊臣秀吉の独創ではない
≪ルイス=フロイス≫
A天下統一後、「兵の働き場」を作ったという側面がある。
B戦国大名の傭兵は農民であり、「刀狩り」・「兵農分離」は
間違いである。
初期段階だけである。中世では刀を身につける「刀差し」の
儀式が成人したと世間から認められた。
「刀狩り」は「刀・脇差・弓・槍・鉄砲」であったが、実際には
刀と脇差だけであった。・・・刀と脇差がないことで、武士と
百姓を見分けることができた。・・・徹底したものではなかった。
百姓は弓・槍・鉄砲を持ってくれれば、よかった。
「兵農分離」は信長・秀吉の配下は職業兵士といわれているが
事実ではない。「兵農分離は村雇いの傭兵がなくなった江戸時代
からである。」
 (★映画「七人の侍」→「荒野の7人は真実だった。)
C日本周辺の琉球・台湾(高山国)にも「惣無事令」をはっしようと
した。台湾(高山国)は未統一で誰に出してよいか分からなかった。

*******************************


9月、朝鮮出兵を各大名に命じた。
  前線基地として、黒田孝高(如水)に命じ、肥前名護屋城を
  縄張りをさせた。

・10月上旬、全国の諸大名約130が名護屋へ到着し、名護屋城の
  普請に取りかかった。
 普請奉行は黒田長政、加藤清正、寺沢広高・松浦
 鎮信らがなった。九州の諸大名を中心に突貫工事が行われた。
*****************************
▲「真田4代と幸繁」:丸島和洋著
真田は700人を率いて名護屋にやってきた。
「真田安房守昌幸 父子」・・・
 真田昌幸・真田信幸・真田幸繁であろう。
「五百人 真田安房守」
  (★真田家家老:小山田茂誠(昌幸長女の婿)覚書)
丸島・・・豊臣政権の軍役は100石で5人が本役であった。
 真田は65000国・・・3250人となるが、賦役は
 5〜6分の1程度となる。

****************************

・文禄元年(1592)
3月 名護屋城が8か月で完成した。
名護屋城周辺には約130中、118ヶ所の陣跡が確認されている。
 西国衆を中心に総勢15万8000の兵が9軍に編成された。
 (★名護屋城博物館の冊子)
箕輪初心●佐賀【名護屋城】=豊臣秀吉朝鮮出兵の城
http://53922401.at.webry.info/201112/article_15.html

箕輪初心:生方▲百名城G【85〜97】九州の城
http://53922401.at.webry.info/201506/article_33.html

箕輪初心:生方▲真田丸100【26話「仮装大会:瓜売」】&名護屋城
http://53922401.at.webry.info/201607/article_3.html



3月26日(5月7日)豊臣秀吉は京都聚楽第をに出発した。
4月1日(5月12日) 第一陣が小西行長・宗義智率いる兵が朝鮮へ
 出兵した。・・・
 「次々続々」と名護屋を出発した。
*****************************
▲「真田4代と幸繁」:丸島和洋著
 東国では、伊達政宗・上杉景勝が渡海した。
 徳川家康・前田利家・真田昌幸などは渡海しなかった。

******************************

4月25日(6月5日)豊臣秀吉はに名護屋城に到着した。
 豊臣秀吉は在城中、渡海した諸将に指示を出した。
 一方で、山里曲輪に築いた茶室で茶会を楽しんだり、
 瓜畑で仮装大会を催したりした。
 (★真田丸29)
箕輪初心:生方▲真田丸100【26話「仮装大会:瓜売」】&名護屋城
http://53922401.at.webry.info/201607/article_3.html

 文禄の役では最終的に、20万以上の兵が名護屋から朝鮮に
 渡った。そして、名護屋には西国衆の渡海後も、東国衆と豊臣秀吉
 旗本衆の約10万の兵が駐屯していた。
 (★ウィキペディアより)
20万5570余りの兵が高麗へ渡った。
  10万2415の兵は名護屋在陣し、待機した。
  総計10万7985の兵で陣立てされた。
  (★『松浦古事記』・佐賀県立名護屋城博物館冊子)
名護屋城は補給・連絡の中継地として重要な役割を果たした。


諸隊は壱岐・対馬を経て朝鮮に渡った。
 釜山に上陸し、小西行長や加藤清正らの侵攻が始まった。
 豊臣軍は漢城を目指して、破竹の勢いで北上した。
******************************
韓国ドラマ「火の女神ジョンイ」では、倭国が攻めて来る
とソンジョ王(宣王)は信じていなかったので、戦闘準備を
していなかった。準備が遅れてしまった。
倭国の武士:ケンゾウが将軍として、指揮を執った。
  ケンゾウ=小西行長なんだろうな。
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  李氏王朝14代ソンジョ王(宣王)は李氏王朝15代クァンヘグン
 (光海君)にセジャ(世子=跡継ぎ)とし、漢城(現ソウル)
  から王明国の遼東半島に逃げようとした。
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  漢城が攻略された。
王が行こうとした場所に明の船がなかった。
「女真族がいる。」
「倭軍に負けました。」
ソンジョ王(宣祖)はどうしてよいか悩んだ。
  ソンジョ王(宣祖)が遼東半島ににげようとしたが、
  明の船が朝鮮から撤退していて、1隻もなく、王は明に亡命
   できなかった。王は戻った。

  クァンヘグン(光海君)を大将に反撃を開始した。
  朝鮮の義勇兵の抵抗が始まった。
  明の援軍が反撃した。
  イ・スンシン(主舜臣)は慶尚道で倭船40隻を撃破した。
画像

イ・スンシン(李舜臣)指揮の朝鮮水軍が補給路を断った。
  クァンヘグン(光海君)は更に指揮が高まった。
宮廷陶工ジョンが相思相愛のクァンヘグン(光海君)に
会いにきたが、プノン(分院)のみんなの命を守るため、
ケンゾウ将軍に「倭国行き」を承諾し、ケンゾウの船で、
倭国に旅立った。
画像


  それを間に合わなかったクァンヘグン
(光海君)が川岸で見送る。
画像

王になったクァンヘグン(光海君)が宮廷陶工ジョンを
回想する・・・で終わった。
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画像

****************************


 倭軍は釜山に上陸した。

 各地で破壊と略奪をしながら首都:漢城を目指して北上した。
@小西行長は中央を北上した。
A加藤清正は東部を北上した。慶州の仏国寺(新羅時代の仏教寺院)
 や芬皇寺などが焼き、多くの文化財が消失させた。略奪された文
 化財もある。
画像

 (★仏国寺)
画像

画像

 (★下が芬皇寺)
 縦断し、満州のオランカイまで北上した。
 

はじめは、ヤンバン(両班)は抵抗しないでいた。
 民衆は各地で激しく抵抗し始めた。
 
漢城が倭軍に攻略された。
 
画像


 やがて、朝鮮の民衆の抵抗がさらに激しくなった。
 次第にヤンバン(両班)や僧侶が指導する義兵が挙兵して
     抵抗した。

「明」の冊封国の朝鮮国王:ソンジョ王(宣祖)は明に援軍を
 要請し、連合軍で抵抗しようとした。 
明は兵糧を負担しなければならず、大きな負担でもあった。

朝鮮国王:ソンジョ王(宣祖)は混乱した首都:漢城を放棄した。 
国王ソンジョ(宣祖)は涙を流しながら都を捨て、北の平壌へ
 と避難した。

小西行長らに率いられた倭軍は朝鮮の都:漢城を落とした。
倭軍はさらに平壌まで進んだ。

倭軍が明と朝鮮の国境鴨緑江に迫ってきた。
明は豊臣政権の朝鮮への派兵を、明領への侵攻と捉えた。
明は戦闘が遼東半島まで及ばぬように倭軍の侵攻を阻むために
 出兵を決断した。平壌へ明軍の派遣を行った。
明の「李如松」の指揮する援軍14万人が平壌を奪還した。
 倭軍の前進が止まり、苦戦に陥った。
 
碧蹄館の戦い・・・倭軍は勝って戦線を持ちこたえた。
 戦線は膠着し、長期戦に転じた。
 
その間、海上では、イ・スンシン(李舜臣)は、亀甲船を工夫して
海上で活躍し、朝鮮水軍が豊臣方の水軍を各地で破った。
倭軍の補給路を断って苦しめるようになった。
豊臣軍は補給に苦しむこととなった。
イ・スンシン(李舜臣)勝ったということではない。
 制海権を握った訳ではない。苦しめられたという意味である。

史実は文禄元(1592)年8月29日 李舜臣は釜山港を占領していた
 日本軍に戦いを挑むが、敗退した。文禄3年(159510月、
福島正則は朝鮮水軍を 率いる李舜臣が場門浦を攻撃した時
  (場門浦海戦)には軍船に乗って指揮を執り、敵船を焼き討ち
  するなどしてを撃退した。
   


 以後、戦線は膠着した。
 小競り合いが続いていた。
 決定的な戦果のないまま、時が過ぎた。
*****************************
▲「真田4代と幸繁」:丸島和洋著
小西行長軍は明の援軍を得た朝鮮の反撃に遭い、戦線を縮小し、
 明と講和交渉に入った。
 軍事・外交の違い・豊臣秀吉との報告の違いから
小西行長・石田三成ら VS 加藤清正・黒田長政ら
*******************************

 日本軍諸将が戦いに嫌気がさしてきた。
 大名の中には、厭戦意識の強く、撤退を画策する者も出始めた。
 未決着のまま終息した。
 西国大名の中には戦利品を持ち帰ったり・陶工多数の奴婢
 (戦利品)を連れ帰るなどして損害を弁済した大名もあった。

 豊臣家にも武断派と文治派に分かれ、内紛をもたらした
 対馬の宋氏は偽使を用いて国交の修復を試みた。

 朝鮮は明へのお礼に「囚人を倭国兵捕虜」と称して明に献上した。
 日本は苦戦した。明へのお礼が出せないのであった。
 
*****************************
▲「真田4代と幸繁」:丸島和洋著
文禄年間、真田は豊臣秀吉から伏見城の普請役を命じられた。
 親子3人で100石につき2人本役・・・14人
 杣板150枚を上田から運んだ。
 (★書類はあるが、年次不明)
******************************

・文禄2年(1593)
4月 豊臣秀吉は講和交渉した。
  交渉が破談した。
  豊臣秀吉は、再出兵を決めた。
★諸大名に与える土地は日本国内にはなかったからである。

・文禄3年(1594)
明は戦争の長期化を避けようとして講和交渉に応じた。
 一旦停戦が成立した。

  豊臣秀吉は朝鮮各地に倭城を築かせ部将を配置して、
  朝鮮南部の領有をはかった。

・文禄4年(1595)




【2】 豊臣秀吉の朝鮮侵略慶長の役=丁酉の倭乱
・文禄5年(1596)
小西行長の勧めで明の国王が動いた。
明の使節が豊臣秀吉との講話を折衝した。
 豊臣秀吉は「日本国王」冊封(属国)を受け入れた。  
豊臣秀吉の交換条件は
   @明が降伏すること、
   A皇帝の娘を天皇に嫁すること、
   B朝鮮の南半分を割譲すること、
   などとした。
*****************************
▲「真田4代と幸繁」:丸島和洋著
堺の使者歓迎のレセプションをした際。
明が小西行長の「朝鮮方の全面撤兵と要求してはならない。」
ことを忠告していたが、
「朝鮮からの全面撤兵」の書状を言いつけたことで
事態が急変した。
 豊臣秀吉は「日本国王」冊封(属国)・・明への朝貢を受け入れた
 が明が降服した形での講和と認識していたからである。
朝鮮の南半分を割譲はが大前提であった。
 豊臣秀吉は「全く違う。」と激怒した。
 講話は決裂した。
*****************************



・慶長元年(1596)
  朝鮮王朝第14代王「宣祖(そんじょ)王は第2回朝鮮通信使
  を送り、豊臣秀吉に面会させた。
 
 明の使節が豊臣秀吉との講話を折衝した。
   秀吉は
   @明が降伏すること、
   A皇帝の娘を天皇に嫁すること、
   B朝鮮の南半分を割譲すること、
   などを条件とした。
   講話は決裂した。

  豊臣秀吉は再出兵を決意した。

・慶長2年(1597)
1月、  第2次出兵
1月3日 毛利秀元等の援軍が到着した。
1月4日 倭軍が水陸から明・朝鮮軍を攻撃し敗走させて勝利した。
  
2月21日付 『立花家文書』朱印状
「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」
「これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中
 心として築城すること」
   (★『立花家文書』等)
 朝鮮半島の南西部を侵攻し、半島南部にさらに城を築き城主を
 定めて領土化とするという計画だった。
「慶長の役」は朝鮮平定・・・支配下に置くことが目的であった。
2月〜 豊臣秀吉は14万人を朝鮮に上陸させた。

その後、倭城郭群が完成し、九州衆が城の守備のために
  朝鮮に残留した。
慶長の役でも、名護屋城は補給・連絡の中継地として重要な役割
 を果たした。
 
 
 @明は14万人の兵を送ってきた。
A朝鮮民衆の義軍も激しく抵抗した。
B朝鮮水軍は亀甲船の追撃・補給路を断つ作戦に出た。

朝鮮南部で戦闘が繰り返された。
※李舜臣が倭国の海上補給路を断ったという記録・事実はない。


結果・・・倭軍の食糧事情も悪くなった。
     倭軍は撤退に転じ始めた。  
 四国衆・中国衆と小早川秀秋は順次帰国して、
  3回目の派遣に備えた。
  
 しかし、加藤清正と小西行長は戦略上で対立した。
 国内の大名たちも朝鮮出兵に嫌気がさしていた。

 ★史実では、加藤清正、福島正則ら VS 石田三成ら
との対立が決定的になったと言われている。

*****************************
▲「真田4代と幸繁」:丸島和洋著
10月 宇都宮国綱が改易になった。
 真田昌幸は浅野長政と事後処理に当たった。
※丸島・・・真田家が豊臣政権のために働いた数少ない事例の
一つである。

*****************************

12月22日 蔚山倭城に明・朝鮮連合軍56,900人が襲撃してきた。
  加藤清正をはじめ日本軍は、食糧準備の出来ていないままの
   籠城戦となり苦戦した。
  多大な戦死者がでた。

朝鮮出兵の期間中、豊臣秀吉は名護屋城に延べ1年2ヶ月
 滞在した。

・慶長3年(1598)
3月、醍醐三宝院で盛大な花見を催した後、
 体調を崩して床に伏す。

閏8月18日 豊臣秀吉が没した。
  全軍撤収した。

※慶長3年(1598)11月18日 露梁海戦
  李舜臣は明国と朝鮮の連合軍の指揮を執りながら、日本軍の
  圧倒的な戦力の前に、戦死した。

※「真田丸」では・・11月から12月下旬まで撤退が順番に
行われた。
名護屋城もその役割を終えた。
戦争は終わったが・・・・


【3】豊臣秀吉の文禄・慶長の役=壬辰・丁酉の倭乱の結果

1)日本
 @文禄・慶長の役で領土拡大の成果がなく終わったことから
  豊臣政権が急速に崩壊に向かい、豊臣政権は間もなく倒れた。
 A捕虜となって日本に連行された朝鮮人によって、日本の
 織物技術・金属鋳金・活字出版技術・儒学朱子学の興隆、陶芸
 技術の飛躍的発展などがもたらされた。
日本から見れば、「朝鮮文化の伝承」となったが、実際は
 「朝鮮文化の略奪」であった。 

 、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱は「焼き物戦争」
 といわれるように多くの陶工が日本に連れ去られた。
  日本では文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱

2)朝鮮
戦場となったのは朝鮮半島全土であっが、特に慶長の役=丁酉の倭乱
 朝鮮南部が大きな被害を受けた。
  国土は荒廃した。人口の激減した。
  また、技術の継承者が少なくなっため、朝鮮の陶芸や出版は一時
  停滞せざるを得なくなるなどの被害を受けた。
国土の荒廃、人口の減少によって国力は低下し、生産と文化の
 停滞のなかで、李朝政権李氏王朝15代クァンヘグン(光海君)
 セジャ(世子=跡継ぎ)は支配維持のために儒教理念による
  体制強化に向かうこととなった。
それ故、朝鮮では評判の悪王と言われているようだ。


3)中国
 明の衰退が進み、明も間もなく清によって滅ぼされ、清に王朝の座を
 明け渡すこととなる。




★明日は、伊豆の城に戻るかな?

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