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zoom RSS 箕輪初心:生方▲清水豊先生・新編高崎市史を加味した『和田城年表改訂版2016』A和田信業

<<   作成日時 : 2016/08/22 08:50   >>

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天正3年(1573)長篠の戦いで和田業繁が戦死すると、和田業繁の
養子になっていた跡部勝資の長男:和田信業が跡を継いだ。天正
18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻撃は始まると、和田信業は小田
原城に籠城した。北条氏が滅亡すると、北条氏直に従って、高野
山に行った。和田業勝は会津の保科氏に仕えたという。和田内匠
は井伊直政の家老となったという(★彦根城城郭絵図より)。
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※平成28年(2016)3月26日の清水豊氏の講演会資料を加筆した。
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箕輪初心●群馬の城:「和田城5代:和田信業」
http://53922401.at.webry.info/201012/article_18.html

箕輪初心●群馬の城「和田城→高崎城」
http://53922401.at.webry.info/201012/article_16.html

箕輪初心:生方▲清水豊先生・新編高崎市史を加味した
『和田城年表改訂版2016』@和田業繁まで


◆◆和田氏&和田城(和田の城:赤坂)の歴史 ◆◆
●印・・清水豊先生による「新編他高崎市史資料編4の抜粋」



・永禄8年(1565) ※上杉謙信・武田信玄の和田城の争奪戦が激化。
 武田信玄にとって、箕輪城攻撃の最前線基地としての必要性
 上杉謙信にとって、関東出兵の基地厩橋(前橋)城への危機感
 武田家による和田城への援軍の配備、城郭の普請。
                 
・2月26日 和田城で上杉方の目付(=隠密忍者)を捕らえた。
        武田信玄はすでに甲府から金丸を和田城に派遣。
        武田信玄→金丸・和田への手紙
  

●S 4月9日付 上杉輝虎→富岡主税助殿(大泉城)への手紙
上杉謙信が和田城攻めの合力を富岡主税助に依頼した。
(★『上杉輝虎書状写』)

・5月   武田信玄は大熊伊賀守(★元上杉謙信家臣:箕冠城主)を
         倉賀野城に派遣。
  
・5月   上杉謙信本隊の和田城+倉賀野城攻め? 
     (久保田説推測・・・謙信→太田美濃守への手紙)
           
・7月22日 上杉方の太田金山城:由良成繁は伊勢崎の那波城に着陣。
             (永禄日記)
  
・8月1日  武田信玄→和田右兵衛太夫殿+横田十良兵衛殿への手紙
          「横田への和田城への守備固め命令。」


●21  8月2日 武田信玄は和田右兵衛門大夫の働きを褒める。 
(★『武田信玄書写状』:新編高崎市史)

・8月4日 由良成繁は厩橋城(上杉謙信前線基地:前橋)に着陣。
           (★「永禄日記」)
  
●22 8月23日 後北条氏が関宿城に侵入したため、和田之陣を
解いた。
   (★「永禄日記」)

・8月23日以前に東毛の国人衆が厩橋に集結。
    (★永禄日記)
  
・8月24日 由良成繁は厩橋内宿に在陣。
    (★永禄日記)

・8月27日 小幡口への侵攻計画・・・中止。
   (★永禄日記)    




・永禄9年(1566)   
・3月 上杉謙信は春日山城から厩橋(前橋)城に出馬。
    下総出陣
    (★久保田説)
    →後北条氏の太田金山城攻撃に失敗。桐生城攻撃。?
  
・5月  上杉謙信の願文「武田信玄の退治・・・
      +佐野・倉内(沼田)・厩橋(前橋)の安全。」
             
・7月 上杉謙信は石倉城(前橋:厩橋城の利根川の反対)を攻撃
       (※このときは利根川はここではない。)
 
▲第2次上杉謙信の和田城攻撃 
   総勢13000?という大軍。
  ◆和田業繁をはじめ叔父の和田兵部信勝ら600人
    +武田の横田虎景ら300人=900余人。
  和田30騎(酒井・反町父子・須藤・中沢・高橋・富所・など
     +地元騎馬40騎+徒歩200+雑兵・・・計600。
  横田の横田虎景(原美濃守の子で横田備中守の養子)ら300人
   
  武田からの援将横田虎景は鉄砲を駆使して上杉軍に対抗。
  上杉軍の猛攻を防御。
  上杉謙信は、越後に長尾帯刀の叛乱が起ったという報で兵が離脱。
   帰還。
  ◆和田氏の謀だった。
   (★『上毛古戦記第38話「和田記」:山崎一編著』)
       (久保田説では、???)
            
・8月 武田信玄は知らせを聞き、飛騨攻撃から上野に着陣。
    石倉城を奪回。
  
8月25日 北条氏照(北条氏康U男:滝山城→八王子城はない。)
      の書状
 「上杉謙信から北条氏に寝返った者・・
   ・下野:宇都宮・皆川・     ・上野:新田
             
・9月 ◆和田業繁が武田信玄の家臣として、箕輪城攻めに参加。
            
・9月29日 箕輪城落城。(安中越前守は出陣しなかった。)




・永禄10年(1567)
●23 8月 和田業政が生島足島神社に起請文を収めた。
(★和田業政連署起請文:新編高崎市史)
和田業繁が生島足島神社に起請文を収めた。
(★和田業繁連署起請文:新編高崎市史)


・元亀元年(1570)
?月 上杉謙信への接近?

●24 8月26日 武田信玄が梶山与三右衛門尉に、和田兵部大夫
の許諾があり、和田問屋を認める。


・元亀3年(1572)
 武田信玄は遠州に進攻。
  ◆和田業繁は武田信玄に従い各地で転戦した。

・元亀4年(1573) 4月12日(15月13日)  
   武田信玄が病が悪化して死去。
   →武田勝頼が継承。

・天正3年(1575) 長篠の戦い 
   武田勝頼軍  VS 織田・徳川連合軍   
 ◆和田業繁は、小幡氏らとともに武田信実の配下に属して参戦。
  武田信実は鳶ヶ巣山の守将で、和田業繁は鳶ヶ巣山の北方の
   君ケ臥戸砦の守将に配属。
  
・5月18日 4万の兵力の織田・徳川の連合軍は設楽が原に布陣。
・5月21日  酒井忠次を大将として雨の中、鳶ヶ巣山武田軍
       夜襲を決行。
 ◆和田業繁・和田信業は鳶ヶ巣山へ後詰で、奪い返したが、
  激しい攻防の末、弟和田兵部正盛が討死。
   侍大将等多くの将兵も討死。
 ◆和田業繁本人も鉄砲玉にあたって負傷。
  反町大膳亮幸定と矢中の郷士矢中七騎の活躍で
   和田業繁・信業は虎口を脱したが、退却の途中、信州駒場で、
   戦傷がもとで死去した。
  (★新編高崎市史)
 ※矢中七騎(秋山逢殿助、松本九郎兵衛、栗原内記、真下下野、
     大沢備後、福島嘉兵衛、長嶋因幡)
  (★新編高崎市史:元中世部会調査員:高橋浩昭氏)
 
  武対馬が和田業繁と共に討ち死?。
  武対馬信豊は徳川方の酒井左衛門尉との勝負を求め、
 大軍の中に突っ込んで多勢と渡りあって七か所に手疵を負い、
 信州駒場まで退いて死んだ。 
   (★『和田記』の『反町大膳訴状』
 (▲:新編高崎市史:元中世部会専門委員:久保田順一先生)
  
  結局、油断していた鳶ヶ巣山は陥落。
     
 ◆和田業繁は戦死。
 →武田家家臣跡部勝資の長男=和田業盛の娘婿
  :和田信業が継承。
 (和田義繁の養子説・和田業盛の娘婿説あり) 


●▲■和田信業の年譜*******************
・永禄3年(1560)
   ◆和田信業は武田氏家臣跡部勝資の長男として生。.
・永禄8年(1565) 和田城主:和田業繁の婿養子と5歳でなった。

・永禄9年(1566)   
・7月 上杉謙信は石倉城(前橋:厩橋城の利根川の反対)を攻撃。
          (※このときは利根川はここではない。)
 
            
9月 ◆和田業繁が武田信玄の家臣として、箕輪城攻めに参加。
            
9月29日 箕輪城落城。

  ★和田業繁の娘を妻として和田家に入った。
    「和田昌業(信業の最初の名前)」を名乗った。 (6歳?)


・天正3年(1575) 長篠の戦い 
武田勝頼軍  VS 織田・徳川連合軍   
       
◆和田業繁は戦死。→武田家家臣跡部勝資の長男
       =和田業繁の娘婿:和田昌業→信業。信業が継承。

    
■戦国時代:和田信業(1560〜1617)の活躍********
・天正3年(1575) 長篠合戦  義父の和田業繁が戦死。
   →家督を継承。(※15歳)
 
・天正6年(1578) 
  ※上杉謙信が死去→御館の乱・・・家督争いで上杉氏が勢力が後退。
  ※織田信長が天下統一に向けて前進。

・天正7年(1579)

・天正8年(1580)
●25 閏3月25日 和田信業が天王左衛門大夫に・・・
司職を安堵する旨を伝える。
(★『和田信業書状』)

●26 5月15日 和田右兵衛大夫信業が熊野社造り替え
料を寄進した。
(★『和田信業書状』)

●27 6月20日 和田昌繁が佐藤十介の軍功を褒める。
(★『和田昌繁書状』)
     
●28 12月晦日 武田家臣小山田昌成が和田昌繁に
         軍功を謝った。
(★『小山田昌成書状』)
     



・天正9年(1581)
●29 正月9日 和田昌繁が佐藤十弥に所領を宛がった。
(★『和田昌繁書状』)

●30 8月27日 武田勝頼が和田信業に
         和田宿の六斎市を日取りを認めた。
(★『武田家定書』)

・天正10年(1582)  織田軍の甲斐侵攻
3月11日 武田氏滅亡。 (和田信業28歳)
     →武田氏の旧領地は織田氏の支配。
  
3月 上野は織田信長の家臣滝川一益が箕輪城に入城。
   →◆和田信業は管領として入部してきた滝川一益に
     人質を差しだした。
    滝川一益の麾下に所属。
 ※滝川一益は箕輪城から厩橋城に入部。
        箕輪城は人質の城になった。
  
6月2日 織田信長は明智光秀の謀叛により京都本能寺で死去。
 ◆和田信業など諸将は滝川一益に最期まで従う決意を述べ、
     来たる北条との戦さに先陣を約束。

6月17日 滝川一益厩橋城を3千騎を率いて出陣。
6月18日 滝川一益が和田城に到着。
     倉賀野、小幡、白倉、高山、深谷、本庄、大戸、
      長根等の3千余騎。
    
6月19日・20日 神流川で戦い
   滝川一益 VS  後北条氏  
       
6月19日 神流川を渡り金久保原へ着陣。
 ※上杉謙信の和田城攻めを阻止したり、長篠で父業繁を救った
  反町大膳亮幸定は6月の時点で信業を離れ、神流川の戦いでは
  北条勢にここで元の主となっていた。
 反町大膳は一番槍の功名を上げた。
 次第に本陣の北条氏邦の鉢形勢は押され崩れていった。
 小田原から北条氏直が松田、大導寺、福島等の5千騎を率いて着陣。
 →疲れた上州勢に変わって、滝川一益本隊が出陣。
 次々と到着する北条勢に次第に圧倒されて倉賀野城へ退いた。
 北条勢も損害が多く、退却する滝川一益を追えず、戦闘が終了。
            
6月20日 滝川一益は箕輪城で酒宴を開き名残を惜しむ。。
        清洲に帰ることを決断?
 北条氏に降伏を勧めた。

  箕輪城から松井田城を経て小諸城に・・・
真田昌幸・和田信業・木部高成・倉賀野景秀は木曾まで
送って行った。
(★唐沢定市講演会説・「真田昌幸」:柴辻俊六著)
※「真田丸」・・・真田昌幸は沼田城を矢沢綱頼に乗っ取らせた。
人質の母の奪還のため、小諸城に行ったが、幸繁が捕まった。

 伊勢へ帰国。
 →清洲に逃げ帰ったが、清洲会議に遅刻。

◆和田信業は滝川一益の勧めに従い、
   倉賀野城や厩橋城と共に北条氏に降伏した。
    
6月??日  上野は後北条氏が支配。
→◆和田信業は北条氏直に降参し後、北条氏に従属。
◆和田信業は北条氏直の支配下の他国衆であった。
 


★★箕輪初心【かみつけの里友の会「まほろば」原稿】★★★
「石原家文書の「和田信業」の父の和田信繁は箕輪城主三代目の
長野業政の六女を妻にしました。城は高崎城の前身の和田城と
下之城と並榎砦を持っていました。慈眼寺付近を支配していた
江原氏や大類城の後閑氏や高崎IC近くの天田氏と手を結びま
した。父和田信繁は一五六三年には、武田信玄の家臣になり、
1566年の箕輪城攻撃にも参加したようです。その後、箕輪
城は武田氏の支配になり、真田幸隆・甘利昌忠・浅利信種・内
藤昌豊と続きますが、1575年の長篠の戦いで、内藤昌豊・
和田信繁は戦死してしまいました。
 箕輪城主不在期間中に跡部大炊守の奉書「瀬下氏(富岡→当
時、前橋市総社)への箕輪城への勤務命令」が出されます。それ
から内藤昌月(まさあき)が箕輪城主になりました。
 ・・・・・・・・中略・・・・・・
 石原家は、博物館友の会の黒崎さん(黒崎市兵衛子孫)が説明
して下さった。
@和田信業は武田家側近の跡部大炊守勝資の子で和田業繁の娘を
 もらって養子に入ったこと 
A和田信業は一五八二年の武田氏滅亡で、小田原城の北条氏直の
 家臣になり、人質として、「御料人様」(信業の娘)を小田原
 に差し出すことにした。七歳の女子が初めて帯をしめる「帯
 とき」に、後北条氏重臣の垪伯(垪和伯耆守康忠)に立ち会い
 を頼んだ。「御料人様」の慰め役に石原作右衛門(三枝一族)
 が命じられていること
B御北様(穴山梅雪の妻=信玄娘)は小田原?に百疋(反物?
 お金かも)を届けるため、同行者に大久保長安と石原作右衛門
 を頼んだこと 
C黒崎家は箕輪城主浅利信種の弟下條氏(信玄の娘婿)の末裔で
 あることなど。
古文書を読みながらの説明で、すばらしかったです。
   帰りのバスの中で、まず、石原家で聞いた黒崎さんの話の
復習や登場人物の話をした。 
「まず、父:垪和(はが)伯耆守康忠は小田原城に籠城しました
 が、子の垪和(はが)信濃守は倉賀野城主で、1590年の豊
臣秀吉の小田原攻めの時、前田軍と上杉景勝・直江+真田昌幸軍
に箕輪城明け渡しをした人物です。」
「次は、穴山梅雪(妻が信玄の娘・見性院)ですが、城は新府城
の4〜5km北の能見城です。」

           
※信長の死後、羽柴秀吉が信長の天下統一事業を継承。
   時代は天下統一の速度を速めた。〜〜〜〜〜〜〜

・天正11年(1583)  
●31  正月9日、北条氏直が和田左衛門尉に倉賀野治部少輔分
所領を安堵する。
(★「北条氏直判物」:高崎市史資料編4・505)

●32 2月28日 北条家が和田左衛門尉の到着を定めた。
(★「北条家着到書出写」:高崎市史資料編4・511)

●33  5月3日、北条氏直が和田昌繁・和田信業に出陣準備を
    命じた。
(北条氏直書状写:高崎市史資料編4・518)


●34 5月10日、和田信業が飯嶋小次郎に所領を安堵する。
    (和田信業宛行状写:高崎市史資料編4・519)

●35 7月20日、和田信業が飯嶋小次郎に所領を安堵する。
    (和田信業宛行状写:高崎市史資料編4・524)

箕輪初心:生方▲伊那『西音寺&飯島城遠望』:片切氏分流飯島氏の城
http://53922401.at.webry.info/201606/article_11.html
★後、飯嶋氏は井伊直政の家老となった。
 
●36 12月17日 和田信業が極月17日に高崎市石原町の
    清水寺の本堂再建した。
   和田家中の人々が勧進に応じたことが棟札に記禄。
   その中に対馬が柱一本を寄進しているのがある。
   (★清水寺棟札銘:高崎市史資料編4・527)。


・天正12年(1584)  
●37 2月12日 木部・和田氏は厩橋城の在番を命じられた。
(★北条家朱印状:高崎市史資料編4・530)。

●38 ?月?日 北条氏邦が和田信業の在番役を褒める。
(★北条氏邦書状:高崎市史資料編4・637)


・4月7日 「和田住対馬守」が同院に四本の月牌を依頼。
 (高崎市史:元中世部会専門委員 久保田順一平成15年:2003)

●39 7月15日 木部・和田氏は出陣を命じられた。
(★北条家朱印状:高崎市史資料編4・535)。



・天正13年(1585)  
・ 5月21日 ????が清水寺に一本寄進した。

●40 5月3日、北条氏邦が倉賀野・和田・板鼻等の
     伝馬を許可した。
(北条氏邦判物:高崎市史資料編4・544)

●41 9月10日、北条氏政が神宮武兵衛・木部宮内・和田
    左衛門・板鼻等の鉄砲衆を集め、大戸城(東吾妻町)
    攻撃をすることを命じた。
(北条家朱印状:高崎市史資料編4・544)
★真田昌幸の岩櫃城攻撃へ・・・

●42 9月晦日 和田信業→石原作右衛門尉
    栖崎の地など加増宛行をした。
 (★和田信業判物::高崎市史資料編4・547)


・天正13年(1585)〜天正14年(1586)3月 ?不明
●43 11月15日 和田信業は家臣石原作太夫・黒崎市兵衛・手島
   右近丞に奉公・用心に努めるように要望した。
 (★和田信業条書::高崎市史資料編4・634)
 つまり、和田信業娘・家臣石原作太夫・黒崎市兵衛・手島
  右近丞が小田原で人質となったことを意味する。
  手堅い用心の申付けなど5ヶ条について書かれている。
 @和田信業娘・・・後、井伊直政家臣:早川与六(玉村)と結婚
  A石原作太夫・・・石原作太夫・作右衛門は高崎市石原の利済寺
      が屋敷だった。本家は現山梨県山梨市・・・
  B黒崎市兵衛・・・浅利信種の弟下条氏の子孫。
          子孫は「かみつけの里友の会会長」・・・
  C手島右近丞・・・「群馬学」手島仁著、関係ないか? 
 ★上記の所領の安堵加増を考えると、この時期になるであろう。 




・天正14年(1586)  
●44 ?月?日 和田信業が石原氏に「相違なく着府したか」
    確認した。
 (★和田信業条書::高崎市史資料編4・938)
★年号不明だが、ここであろう。
・????年?月11日 和田信業→石原作右衛門
着府の有無・進物の事など3ヶ条を伝えた。
    (和田信業覚書)
 

●45 3月10日 和田信業が反町庄平に寺尾の地を宛がった。
(★和田信業判物::高崎市史資料編4・553)
  
・3月13日に「武対馬女中」の名で2本寄進した。
 (★高崎市史:元中世部会専門委員 久保田順一平成15年:2003)

●46 10月20日 北条氏直が、和田左衛門尉昌繁に
    北条氏邦の命令がありしだい、出陣するように命じた。
(★北条氏直書状:高崎市史資料編4・557)
    
 ◆和田信業は北条氏直に従って常陸谷田部城攻めに従軍した。
多賀谷城(現つくば市)



◆◆◆高崎市史:元中世部会調査員:高橋 浩昭氏◆◆◆
・天正13年(1585)3月〜天正15年(1586)10月 ?不明
@石原作右衛門は小田原で、和田氏の「証人衆」(★=人質)を
まとめ、「御屋敷」の警護を担当していた人物である。
  (★『新編高崎市史』資料編4・634)

A小田原の石原作右衛門と和田城の和田信業は、書状を認めて
 頻繁に連絡を取り合っていた。
 その書状から、当時の小田原が「はかま」や能の伴奏楽器、
「料紙一帖」、備前焼や樒柑などを入手できる町であったことが
わかる。
(★『新編高崎市史』資料編4・636、640、643)。

B石原作右衛門は和田城からの要請に応じて品を送る一方、
 小田原で必要とされるものを「書付」にまとめて、和田城
 から「小荷駄」(馬につけて運ぶ荷物)にして送らせている。      
   (『新編高崎市史』資料編4・634)。
 
C小田原における建物建築に際しては、和田城から「番匠」(大工)
 が派遣され、「証人衆(★=人質)」とその家臣や「御供衆」も
 人足として協力していた。
    (『新編高崎市史』資料編4・569)。
 
D和田城周辺では入手できないようなものは小田原で購入し、
 和田城から送って節約していた。
 小田原へは「屋敷之代物」30俵の分として「四貫四百拾文」、
 さらに「御台所」や人足などの必要経費として「壱貫八十七文」
 の銭が送られている。
小田原には「証人衆」など多くの和田氏関係者が屋敷に住み、
 後北条氏から課税されるなど、多くの経費が必要とされていた。
 和田信業が「屋敷畑諸役免」の御印判を入手するように石原
 作右衛門に指示しているのも、負担を少しでも軽減するためだ
 ったのであろう。

◆◆◆かみつけの里副館長:清水豊氏追加◆◆◆
・天正13年(1585)3月〜天正15年(1586)10月 ?不明

・????年?月28日 和田信業→石原・黒崎・手島
別屋敷へ移る時の家中の事など
  (★和田信業条書)

・????年?月28日 和田信業→石原・黒崎
   番並び仕置の様子の事など4ヶ条など
   
・????年11月17日
「御料人様の御機嫌伺い及び700貫文分の宛行・・・
   乗□ 石作(石原作右衛門)

・????年?月?日 
「御北様(信業の奥方)の病気は平癒したので、本城で
 能を興行する。」 
 (★某書状:高崎市史資料編4・636)

・????年?月20日 和田信業→石原 
「お年寄り様、・・・年寄煩い(病気)に付養生の事・・・」
 (★和田信業書状:高崎市史資料編4・639)




・天正15年(1587)
●47 4月11日 和田信業が興善寺(高崎市)に、
    「全忠」の13回忌供養を命じた。
 (★和田信業判物:高崎市史資料編4・559)
  
●48 10月2日 和田信業が石原氏らに屋敷地等の税を
    免除するとともに人足などについて指示を命じた
 (★和田信業判物:高崎市史資料編4・569)
  
●48 10月2日 和田信業が石原氏らに屋敷地等の税を
    免除するとともに人足などについて指示を命じた
 (★和田信業判物:高崎市史資料編4・569)
   ◆亥10月2日 和田信業→石原・黒崎市兵衛
知行地安堵など7カ条 知行不足分の宛行約束
       (★和田信業朱印状)

●49 11月20日 和田信業が伊藤孫三郎に高井式部の
     田畑を預け、年貢の弁済を命じた。
 (★和田信業定書:高崎市史資料編4・571)



・天正16年(1558)
●50 正月13日 和田信業が某寺の仕置きにつき、誉斎・
   修理を6名に命じた。
 (★和田信業判物写:高崎市史資料編4・574)


●51 5月晦日 和田信業が石原作右衛門に知行不足分の宛行
         約束した。
   (★和田信業朱印:高崎市史資料編4・579)


・天正17年(1589)
●51 6月23日 北条家が、12月北条氏政の上洛予定を
     和田左衛門尉昌繁に伝えた。
(★北条家印判状:高崎市史資料編4・584)


・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻め→
◆和田氏6代目信業は小田原に加勢。小田原城に篭城。
  和田信業は武対馬を和田城に残している。
  『高崎近郷村々百姓由緒書』・・・
  「兵衛大夫(業繁)内老竹(武)対馬」と記されている。
  和田対馬は和田業繁の老職であり、和田信業の時も最も
   信頼されていた。   
   (高崎市史:元中世部会専門委員 久保田順一先生)
◆和田城は和田信業の子:業勝を擁した柴田弥次郎らが守城。

3月 前田利家・上杉景勝の軍の攻撃。
   →和田城は前田利家・上杉景勝を大将とする北国軍に
   攻撃され、落城。
   和田業勝は城から脱出。
 
7月5日 小田原城も開城。
    →後北条氏は潰滅。
 →◆和田信業は小田原城を脱出。
   和田業勝は和田城に向かう途中で和田業勝らと出会った。
   
   ◆和田信業は豊臣秀吉に許されて紀州の高野山に北条氏直
    に随行。隠棲。
   →北条氏直は間もなく死去。
   
   ◆和田信業は徳川氏麾下の小笠原忠政を頼って、小笠原の
    支配下。
       
8月 徳川家康は関八州をゲット。
 井伊直政の上野における有力家臣  
  ※@長野一族・・・長野業親の子は第3家老
  ※A宇津木・岡本・◆和田・里見などは群馬出身。 

・慶長19年(1614) ◆和田信業が大坂の陣に出陣(伝)。

・元和3年(1617)  ◆和田信業が近江国武佐で死去(58歳)。







●和田信業の子孫
 子女・・満業(養子)、業勝、信吉、跡部業保、和田正直室、
跡部良保、春日助右衛門室がいた。

●和田信業の嫡子:業勝は信州高遠城:保科氏(恵林寺の墓石)
 に仕えた。
子孫は高遠城:保科から松平と改めた会津松平氏に仕えた。
  『会津藩諸士系譜』に和田業甫300石とある。
和田氏の家紋は「三つ引両に檜扇」である。
和田氏の家紋は、桓武平氏三浦氏一族の紋「三つ引両紋」と
 長野業政の一族を表す「檜扇紋」とを組み合わせた家紋で
 ある。

●和田主殿・・・誰かは不明であるが、彦根藩の家老か中老で
 大手門の橋の前に家があった。

****井伊直政シリーズ*******************************
◆◆ 箕輪初心●箕輪城「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201010/article_40.html

http://53922401.at.webry.info/201011/article_25.html

◆◆ 箕輪初心●井の国千年物語前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_3.html

◆◆ 箕輪初心●井の国後編:「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_4.html

◆◆ 箕輪初心●井伊直政の箕輪城時代の家臣団 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_15.html

◆◆ 箕輪初心●静岡:井伊直政の井伊谷城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_5.html

◆◆ 箕輪初心●井伊直政の造った町:高崎&彦根 ◆◆
高崎高校 VS 近江高校
http://53922401.at.webry.info/201203/article_28.html

◆◆ 箕輪初心●中村達夫氏の「井伊軍志」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_14.html

◆◆ 箕輪初心●小和田哲夫氏の「井伊直政」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_13.html


箕輪初心●群馬の城「和田城→高崎城」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201012/article_16.html
  (★高崎城の畝堀:発掘調査)

箕輪初心★箕輪城140【秋本太郎先生の箕輪城→高崎城+城下町】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_9.html

箕輪初心▲箕輪城153【長野氏の箕輪の寺社→井伊直政の
高崎移転の寺社】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_15.html

箕輪初心★箕輪城103川野辺寛「高崎誌」&井伊直政
http://53922401.at.webry.info/201310/article_8.html

箕輪初心★西田美英【高崎素奈子】&川野辺寛【高崎志】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_14.html


箕輪初心:生方▲【長野堰を語り継ぐ会の絵図展】&【高崎城の桜】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_5.html

箕輪初心:生方★高崎城【井伊直政&高崎城&彦根城の縄張り担当
:早川幸豊
http://53922401.at.webry.info/201504/article_9.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201504/article_9.html

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★このまま、井伊直政&高崎城と進めたいが、
 井伊直虎・井伊直政シリーズで書こうと思う。

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