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zoom RSS 箕輪初心:生方▲【一条信長流裄V諸左衛門&内藤昌明&倉賀野秀景】→裄V家子孫探訪

<<   作成日時 : 2016/07/14 05:05   >>

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★平成28年(2016)7月1日〜2日、長野に裄V家の歴史探訪をし
た。昨日と同じ旅行であるが、裄V家視点で見ると内容が変わる。
@一条信長流裄V家、A源頼朝に殺され、青木家から一条流柳沢家、
A武田信玄の子ども一条信龍流裄V吉保家がある。「裄V弥右衛門
家」は箕輪城主:内藤昌月(保科正直弟)の目付として、旧群馬
町に在住した。
一条家・内藤家・青木家・裄V家・米倉家・・・
そして家臣:江原家(滝川用水:高崎市史説・・私は滝の慈眼寺
を創建したので、和田家家臣と考えている。)しかし、市川五郎兵衛
記念館の桜は滝の慈眼寺の桜である。つまり、井伊直政の高崎
城築城に当たって、井伊直政・新井喜左衛門・秋元長朝・泰朝・
市川五郎兵衛真親・裄V諸左衛門・江原源左衛門などが関わって
いることがさらに確認できた。
井伊直政の17家老の中に、
長野伝蔵業実(井伊家第3家老)内藤・和田内匠・里見家・・萩原図書(安中)
がいることが井伊家資料で明白になった。しかし、家老クラス・
足軽大将クラスになるべき裄V家・市川家・大井家・伴野家・瀬
下家が帰農したことが分かった。
画像






【1】裄V家+内藤昌明&金井(倉賀野)淡路守秀景
金井家の出自・・・新田岩松家の分家
もしかしたら、渋川の金井かも?・・・
 平井城の金井地区に住んだのかも・・・。
  金井・・・鉄の生産に関係したかも・・・・


・文正元年(1466) 上杉顕定が平井城大修理した。
  平井金井城(詰め城)を築城した。
  
上杉顕定の命で、金井一族が倉賀野氏の補佐に
 なった可能性が高い。


・享禄2年(1529)〜享禄4年(1531) 関東享禄の内乱
 第3代古河公方:高基から第4代・晴氏に継承される時に
 抗争が生じた。
 関東管領:山内上杉家でほぼ同時に家督相続争いが発生した。
 上杉憲寛+長野業正 VS 上杉憲政+小幡憲重+安中忠政
 結果・・上杉憲政の勝利
 倉賀野行政&倉賀野16騎は関東管領の上杉憲政に従った。

・天文15年(1546) 河越城の戦い
  倉賀野行政が討死すると、倉賀野16騎の一人「金井淡路守秀景」
 は十六騎と共に病弱であった嫡男:倉賀野為広を助け、倉賀野城を
 守った。


・天文16年(1547) 小田井原の戦い
「金井淡路守秀景」は籤引きで先鋒に選ばれ、倉賀野為広の名代=
 大将として上杉憲政勢を率い、武田晴信と戦い、大敗を喫した。
志賀城も全滅した。

箕輪初心:生方▲真田●59【志賀城】:笠原清繁&高田憲頼/大虐殺&人身売買
http://53922401.at.webry.info/201603/article_4.html

 
 その後、倉賀野為広が死去。倉賀野尚行が跡を継いだ.

・永禄2年(1559) 金井淡路守秀景は武田信玄に内通した。
倉賀野氏内部でトラブルが発生したらしい。
(★新編高崎市史)

・永禄4年(1581) 倉賀野宿の住人10名が舟により舟問屋の営業
 を始めた。

・永禄7年(1564) 武田信玄は和田城を大改修した。

・永禄8年(1565) 武田信玄は上杉謙信方の倉賀野城を攻略した。

  金井秀景は剣崎小路城にいて、若田原の戦いの
  先陣を切った。(★倉賀野の歴史散歩)

・永禄9年(1566) 武田信玄の箕輪城攻撃。
  箕輪城主の長野氏業(業盛)は自刃した。
  倉賀野尚行は上杉謙信のもとに逃亡した。

・元亀元年(1570) 金井淡路守秀景は倉賀野城主となり、武田信玄の
  命により姓を倉賀野に改めた。
この段階で、倉賀野16騎の総帥になり、町人兼武田信玄の
 家臣として、倉賀野の陸交通・水運を支配した。

・天正元年(1573) 倉賀野秀景は永泉寺を創建した。

・天正3年(1575)長篠の戦い
 内藤昌豊が戦死→保科昌月は内藤家に養子入りして家督を継承。
 武田勝頼の考えで上野箕輪城代は空席。
 内藤昌月は武田勝頼側近。

箕輪初心:生方▲【武田氏の箕輪城領国支配C不在時代、D内藤昌月〜
E北条家臣:内藤昌明】
http://53922401.at.webry.info/201607/article_4.html

・天正5年(1577)
●2月9日 内藤昌明書状(瀬下家文書)
「如承知、箕輪城之儀、被仰付候、若輩之事候之条、遠慮数多候間、
  種々雖御訴申候、頻而被仰付候条、無拠御請申、 来十一出府、
 14日吉日之由候、如何様其刻以面談余可申候、  恐々謹言
  2月9日       内藤昌明 
   瀬隼様     」
 (★『戦国期上杉・武田氏の上野支配』:栗原修著)
※年次欠のため
@永録10年説・・・群馬県史
A天正4年説・・・・箕郷町誌:近藤義雄先生

・天正5年(1577)2月9日 内藤昌月→瀬下隼人への書簡 
  内藤昌月が箕輪城着陣。
 @若輩者ですが・・・2月11日に甲府を出発。
   2月14日に箕輪城に到着。
 A瀬下隼人から引き継ぎをおねがいします。
  (★瀬下家文書:地域文化233:栗原修著)

内藤昌明の目付として「武川衆」柳沢弥右衛門が武田信玄の命で
箕輪城に付いてきた。内藤家も「武川衆」である。柳沢弥右衛門家の
家紋は花菱で武田信玄の家紋と同じである。旧群馬町のK地区に住
んだ。後、金井淡路守も娘を貰っている。
おそらく、武田信玄は一番信用のおける一門「武川衆」柳沢弥右
衛門家を内藤昌月の補佐とした。柳沢家は平安末期の一条信長の
子孫で青木家の分家であると思われる。江戸時代の柳沢吉保は
一条信龍の系統である。
(★佐久:柳沢真也氏所蔵系図)
保渡田に住む僕んちの母方先祖:塚越伴七(半七)・土屋文明
 先祖:土屋昌続の弟:昌恒、大熊さんちの先祖(大藪城):大熊
 備前守も家臣になっている。
旧佐久の伴野助十郎一族や内山大井貞清一族、岩尾大井高政・満安
・祢津松よう軒、瀬下一族(出自は富岡瀬下)も有力在番衆であった。

おそらくは、内藤昌明(保科正直の弟)の命令下に和田信業
 ・木部範虎・倉賀野秀景も置かれた。


・天正8年(1580)
●1月内藤昌明は大和守を官途とした。

・2月23日 北条氏政→北条氏邦宛て書状
 「此分に候者、当方終ニハ可向滅亡候哉、上州勝頼之物
     ニ罷成候共、慥氏政へ随身之様ニ者有間敷候、」
  (★『木村孫平氏所蔵文書』)
「由良氏と長尾氏が佐竹方として出兵した。このままでは上州は武田
勝頼のものとなり、当方終には滅亡となる。」
と嘆いている。
 (★群馬県史)

武田勝頼の上野支配は、跡部勝資・内藤昌月・土屋昌恒が奉行
となって進められ、上毛については真田昌幸が担当した。
(★『群馬県史 通史編3 』)
※武田勝頼の上野支配は跡部勝資、内藤昌月、土屋昌恒が奉行と
なって進められ、吾妻は真田昌幸が担当した。
 (★『戦国期上杉・武田氏の上野支配』栗原修著)



 ★和田信業は跡部勝資の長男(和田城)
★内藤昌月は保科正直の弟(箕輪城)
    保科正直の息子:正光の妻は真田昌幸の娘である。
    保科正光の養子は徳川家忠の隠し子:保科正之
    である。・・・山形城→会津若松城主
★土屋昌恒は土屋昌続の弟(保渡田城?)
★倉賀野家吉は跡部勝資の一族?(倉賀野城)
 武田氏の重臣:跡部大炊亮勝資の一族出身である跡部家吉が
 倉賀野秀景の養子になり、倉賀野家吉と改姓した可能性が高い。
 現在、「跡部淡路守家吉」の関係文書は4点確認されている。
(★新編高崎市史資料編)
裄V諸左衛門の妻は金井(倉賀野)秀景の娘である。


・天正10年(1582)
3月11日 甲斐武田氏が滅亡。
3月24日以降? 滝川一益は箕輪城に入城した。
(★紀氏滝川系図:群馬県史)
「内藤昌明が箕輪城明け渡し」
 (★佐久:柳沢真也氏所蔵系図)
おそらくは内藤昌明は箕輪城で滝川一益に会ったと
思われる。
一度も火事に遭ったことがない佐久浅科の柳沢家
系図では、内藤昌明が開城した。
柳沢弥右衛門の後を柳沢諸右衛門が跡を継いでいた。
 金井淡路守も娘を貰っていて、・・・・・・


3月下旬  倉賀野秀景は織田信長の武将:滝川一益に伺候する。
 倉賀野秀景は武田豊信に出仕を促し、梶原政景を仲介するなど滝川
 一益の補佐役に位置する立場にあった。
 倉賀野淡路守は、滝川一益に重用され、主に下野国・常陸国などの
 連絡の任に当たっていた。
  (★新編高崎市史資料編4 中世2)
・6月2日 本能寺の変
・6月19/20日 神流川の戦い
  滝川一益 VS 北条氏直
滝川一益軍の内藤昌月・倉賀野秀景は奮戦したが破れた。
・6月21日 滝川一益が関東から撤退。
真田昌幸・倉賀野秀景・和田信業・木部高成は滝川一益との別れを
  惜しみ、木曾まで滝川一益を警固している。
(★群馬県史・高崎市史・唐沢定市・柴辻俊六)
  
 内藤昌月・倉賀野秀景・和田信業・木部高成等と共に北条氏の軍門
  に降った。

・6月2日 本能寺の変
・6月19/20日 神流川の戦い
  滝川一益 VS 北条氏直
滝川一益軍の内藤昌月・倉賀野秀景は奮戦したが破れた。

6月 本能寺の変で、織田信長信・嫡男:信忠が死んだ。
神流川の戦い
→滝川一益が敗北。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心▲埼玉上里【金窪城】&『神流川の戦い』詳細
http://53922401.at.webry.info/201409/article_21.html

神流川で、滝川一益VS 北条氏邦&氏政の合戦があった。
内藤昌月は滝川勢として戦ったが敗北した。

滝川一益は箕輪城で、旧長野業正家臣→武田家家臣:内藤昌月らは
別れの酒を酌み交わした。

・6月21日 滝川一益が関東から撤退。
真田昌幸・倉賀野秀景・和田信業・木部高成は滝川一益との別れを
  惜しみ、木曾まで滝川一益を警固している。
(★群馬県史・唐沢定市・柴辻俊六)
 
 内藤昌月・倉賀野秀景・和田信業・木部高成等と共に北条氏の軍門
  に降った。

北条氏邦が箕輪城に入城した。北条氏直に降った。
保科正俊&長男:保科正直&3男:内藤昌月は北条氏直の家臣
となり、北条氏邦の支配下となった。
内藤昌月は後北条氏では他国衆として遇された。

※天正壬午の乱
信濃の織田勢は武田旧臣に追放されて混乱状態になった。
信濃の旧織田領での対立が起こった。
徳川家康・北条氏直・上杉景勝による旧武田領をめぐる争い
である。
北条氏 VS 徳川氏

北条氏邦軍に内藤昌月も参陣した。
北条家家臣:大導寺政繁が松井田城で合流し信濃に侵攻した。
★この際、保科正直&内藤昌月の弟:松井田の補陀寺12世
:荊室廣琳大和尚も一緒に行った可能性もある。
内藤昌月&保科正俊・正直が北条方として信濃に攻め入った。
大導寺政繁は小諸城を落とし、城主となった。
さらに、東山道を進軍した。
内藤昌月の兄:保科正直は兵を持っていなかった。
保科正直は内藤昌月の軍を借りて出陣した。
7月13日 真田昌幸など13人の信濃の武将は小諸城の
 北条氏直に出仕した

●保科正直は跡部勝資の長男:跡部勝忠の娘を北条氏直へ
人質として差し出した。

▲川中島の戦い
 北条氏直 VS 上杉景勝

 
7月19日頃? 北条氏直は真田昌幸&松田憲秀に殿を命じた。
※松田憲秀は山中城の城代であった。
 真田昌幸は信濃残留を申し出た。
   
 
8月  北条氏政・氏直 VS 徳川家康
   甲斐の旧織田領を巡って対立

※保科正直の子:正光は真田昌幸が預かっていた。
 ★保科正光の妻は真田昌幸の娘だった。


内藤昌月は真田昌幸に
 「軍勢を貸して欲しい。」
 と願い出た。
真田昌幸は
「高遠は北条氏直から朱印状をもらっておる。今は出陣をお断り
 する。でも、昌月殿の兄なので悪いようにはしない。」
保科正直はむっとした。
真田昌幸は
「早々に高遠を乗っ取り、自分のものにしてしまえば、よいで
あろう。短気はよろしからず。・・」


8月下旬 
●保科正俊・保科正直は北条氏直軍の別働隊として 
小諸城から甲斐に向けて進軍した。
 保科正直は内藤昌明の家臣:友野十郎左衛門&内藤昌明の軍
 500を借り、箕輪城から高遠城に出陣した。
 保科正直は実弟:内藤昌月から500の兵を借りて高遠奪還戦を
した。主力部隊は保渡田衆であった。
★内藤昌月(保科正直弟)
友野十郎左衛門
  友野Hしゃん、ご先祖様かも・・・・。
 伴野貞長の弟の直系とわかってよかったです。
 友野十郎左衛門の子孫が箱根用水を造ることになる。
柳沢内蔵之助・・・
 裄V弥右衛門本人または裄V弥右衛門・諸左衛門の一族であろう。
★土屋昌恒・・・金丸虎義の子ども
兄弟は土屋昌次・金丸昌直・土屋昌続・秋山昌詮・金丸定光・
 秋山親久がいる。土屋文明の先祖である。
★塚越伴七(半七)・・・私の母の先祖(上ん家)である。
 (土屋文明の妻は塚越ツヤ子・・・前ん家の従兄弟)
★片平家
★桑原家
★矢島家・・・長野業正の准家老一族

 保科正直は徳川家康側の下条頼安(2月までは
 一緒にいた)を撃退した。
 保科正直は後北条氏を後ろ盾に高遠城奪還?に成功した。
   

高遠城は高遠氏の旧臣:保科氏が内藤昌月の支援を得て奪回した。
保科正俊が城主となった。

8月 保科正俊・正直&内藤昌月は北条氏を支援する為に甲斐に
 向かった。

 保科正直は暫く北条方に留まっていた。
※内藤昌月が甲斐に呼び出された隙に、保科正直は高遠を乗っ
 取った説もある。・・・真田昌幸の入れ知恵か?

北条氏邦&大導寺政繁は甲斐にに侵攻した。
北条氏邦・・・・・若神子城
大導寺政繁・・・・獅子吼城
VS
徳川家康・・・・・新府城


※若神子城&獅子吼城の戦い(甲斐)
 服部半蔵を使い、獅子吼城を攻略した。
 ★徳川家康が優勢になった。

 北条軍が撤退し始めた。

高遠城に残されていた内藤家臣:友野十郎左衛門などの兵500は、
高遠城の外に追い出された。

 
★奪還という言葉が適切かどうか?不安であるが・・・

 ●保科正直は難なく高遠城に入城した。
 高遠は高遠継頼の旧臣保科正直が保科正俊が城主となった。
★真田昌幸の言ったとおりになったのである。

▲甲斐黒駒合戦

10月 徳川家康が優勢に経つと、依田信蕃、真田昌幸、木曾義昌、
 保科正直ら他の信濃国衆と共に徳川家康に臣従した。
 
 ●保科正俊の子:保科正直も家臣:酒井忠次を通じて、
  徳川家康に臣従した。

  保科正直は、家康の妹(家康の父親が違う異兄妹)を妻にし、
  徳川家の外戚となり、本領安堵を得た。
  高遠城主としての地位を2万5,000石を領した。

 柳沢内蔵之助は保科正俊・正直について、高遠に移り住んだ。
★柳沢村である。


●保科正直は北条側の伊那箕輪の福与城:藤沢頼親を降伏させた。

10月29日 北条&徳川の和議
●▲■交渉は井伊直政&木俣守勝が行った。

 徳川家康は北信濃を除く武田遺領を確保した。


 
箕輪初心▲箕輪城152【長野業正の長男:長野吉業の菅谷城&善龍寺】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_14.html


10月? 保科正俊の子:正直は徳川家康に服従した。
  伊那郡2万5000石の所領が宛がわれた。
  保科正直ら信濃国衆が徳川家康方に転じた。

  木曾義昌・依田玄蕃なども徳川方となり、信濃に侵攻した。
  
  その後、真田昌幸と北条高広が上杉景勝に転じた。

  しかし、内藤昌月は北条氏邦の傘下にいた。

 ・倉賀野秀景と宇津木氏久が北条家から御朱印で文書を発給できる
 扱いになり、北条家から重用された。
 特に倉賀野秀景は北条氏の伝馬制に貢献した。

・天正11年(1583) 箕輪城主:北条氏邦が厩橋城の北条高広、
 沼田城の真田昌幸を攻めた。
 内藤昌月は北条氏邦に従軍した。

・天正12年(1584) 小牧・長久手の戦い
 徳川家康は保科正直や諏訪頼忠、小笠原貞慶ら信濃衆を木曾に
  派遣した。
 木曾攻めは木曾義昌に阻まれ、成果を上げられなかった。
 保科正直を抑えに残して撤退した。


保科正直は徳川家康の異父妹:多却姫を妻(2号さん・3号さん?)
 に迎え、高遠城主としての地位を確保した。
1号・・・跡部資勝の娘
2号・・・真田昌幸の娘
3号・・・徳川家康の異父妹:多功姫
保科正直は徳川家康の異父妹:多功姫(徳川家康の母:於大の
  再婚先の久松俊勝の娘)と縁戚となって勢力を伸ばした。

・天正13年(1585) 徳川家康と北条氏直の和睦
  上野沼田領の譲渡問題で真田昌幸が徳川家康から離反した
  徳川家康は大久保忠世に保科正直をつけて攻撃した。

※8月 第一次上田戦争
 保科正直は徳川勢として、真田昌幸の上田城攻めに従軍した。
  大敗して撤退した。

11月 
石川数正が徳川家康から出奔した。
  信濃松本の小笠原貞慶も呼応して高遠に攻め入った。
※鉾持除(高遠町)の戦い
 保科正俊は小笠原軍に大勝した。

箕輪初心:生方▲保科正俊→保科正直→保科正光→保科正之
【高遠の建福寺の墓】・・・武田勝頼の母の墓もある。
http://53922401.at.webry.info/201605/article_22.html

・天正16年(1588) 内藤昌月が逝去。


倉賀野秀景と宇津木氏久が北条家から御朱印で文書を発給できる
 扱いになり、北条家から重用された。
 特に倉賀野秀景は北条氏の伝馬制に貢献した。

 
 ※先代倉賀野秀景から倉賀野家吉に継承された。
(★『新編高崎市史通史編2中世』:執筆は久保田先生か
   黒田基樹氏)
北条氏の「一手役(城代クラス)」となった。
 @戦国御用商人
 A蔵が野宿伝馬宿経営
 B鉄砲衆の編成
 C大名直轄領の年貢管理
 D厩橋城の普請をマネージメント
(★群馬県立歴史博物館学芸員:梁瀬大輔氏の講演会より)

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃。
3月5日  宇津木泰繁は山中城勤務。
(宇津木家文書)
3月17日 豊臣軍の山中城攻略
徳川家康が本郭攻撃・・・
3月19日 井伊直政は単独足柄山城攻撃。・・・
徳川家康は箱根8砦攻略
4月20日松井田城攻略・・・真田幸繁見参
      (★初見の戦い史料あり)
4月24日 箕輪城開城・・・真田昌幸・真田信幸・真田幸繁
受け取り・・・
垪和信濃守・保科正直が受け渡し。
★ちなみに保科正光は徳川家康と一緒に小田原城
攻めに参加している。
上杉景勝軍が倉賀野城を落城させた。

 ・倉賀野秀景・和田信業・木部高成等が北条方武将として
  小田原城に籠城した。
  倉賀野秀景は早川口の守備についた。
 7月5日  小田原城が落城。
 7月12日 北条氏直は北条氏政・北条氏照を介錯した。
 7月??日 和田信業・木部高成は北条氏直について高野山に
行った。
 7月27日 倉賀野秀景は没した。死因は不明である。

   
8月初旬 井伊直政が箕輪城に入封した。

箕輪初心★箕輪城90【井伊直政の箕輪城時代の家臣団一覧】
http://53922401.at.webry.info/201212/article_15.html

※上野国(群馬県)出身の彦根藩家老クラスの屋敷・・・・・・・・・・・
@長野十左衛門
 (★長野業正の次男:氏業:業盛の子:亀寿丸=鎮良の5人の子
  どもの誰かであろう。おそらくは長野伝蔵業実のことであろう。)
極楽院は武田信玄・滝川一益・北条氏邦・徳川家康2回と
保護を受けている文書が現存する。
後、5000石の第3家老家・・・
A長野無楽斎(長野業通の子)・・・
★ちなみに、鷹留長野氏業通や業固の家系は長純寺・
 安国寺・大信寺・大雲寺の住職であり、(高崎→)彦根まで
 付いていっている。
B熊井戸姓→岡本半助宣就
(武田家臣:小幡信貞第1家老→北条氏の小笠原系上泉流家法)

C宇津木治部右衛門・・・★宇津木泰繁
(玉村出身→由良国繁家老→北条氏の玉村稲富流砲術)

D和田主殿(和田城:和田信業の子ども→)●和田信業の子ども
  長男:和田信業の嫡男:和田業勝が跡を継いだ。
 子孫は会津若松藩主:保科氏の家臣として仕えた。
 次男:和田信吉→?和田主殿は彦根藩井伊家家老
(★慶長7年頃の彦根城&家臣の住宅図:彦根城博物館史料等
   箕輪初心:生方調べ)
 3男:跡部家養子:跡部業保
   →子跡部良隆の妻は柳生十兵衛宗厳の娘(孫娘?)である。
 娘(和田正直室)
 娘(跡部良保室)・・・跡部家本家養子:跡部業保・・武田耕雲斎
 娘(春日助右衛門室)
 養子:和田満業
 娘(玉村の早川与六の妻・・・早川弥惣右衛門の身内)

E里見内蔵充(里見城:里見河内守の子ども)

F萩原図書(安中)・・・井伊直政の高崎城時代、安中で井伊直継を養育した。

G内藤信矩・・・箕輪城代:保渡田城代:内藤昌月の次男の名もあった。
内藤昌明長男:内藤直矩→長男:内藤直卓は会津藩保科家家老
  内藤昌明次男:内藤信矩は箕輪城井伊家家老 →内藤信矩の
  子孫は会津若松藩主:保科氏の家臣として仕えた。


箕輪初心★箕輪城91【井伊直政家臣:長野業親→長野業実とは?】
http://53922401.at.webry.info/201212/article_16.html

箕輪初心:生方▲主に群馬・長野の【戦国〜江戸の用水新田開発】
http://53922401.at.webry.info/201605/article_34.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201605/article_34.html

 しかし、家老クラス・足軽大将クラスになるべき裄V家・市川家
 ・大井家・伴野家・瀬下家が帰農したことが分かった。


箕輪初心●【南牧村の城20城一覧】&▲黒滝山登山
http://53922401.at.webry.info/201204/article_21.html
余地峠の里:郷土研究会(会長:須賀健治)+郷土博物館
城砦11+烽火台9=20城である。

箕輪初心生方▲武田晴信の南牧侵攻&武田家臣編:市川五郎兵衛@
http://53922401.at.webry.info/201605/article_14.html

箕輪初心生方▲佐久『五郎兵衛用水』:市川五郎兵衛真親と柳沢所左衛門
http://53922401.at.webry.info/201605/article_15.html

箕輪初心:生方▲武田信玄家臣:柳沢弥右衛門→所左衛門→弥左衛門
&『伊那原新田用水』 http://53922401.at.webry.info/201605/article_16.html



しかし、家老クラス・足軽大将クラスになるべき裄V家・市川家
 ・大井家・伴野家・瀬下家が帰農したことが分かった。





【0】「裄V弥右衛門家」旧群馬町
近年、「裄V弥右衛門家」は一条家本家当主(裄V吉保の本家)からも、
目通り、当主挨拶、再来が許可となっている。
「裄V弥右衛門家」子孫からの「そっとしておいてください。」との
依頼もあり、屋敷の詳細は避けることにする。





●【長野旅行】〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【1】7月1日(金)&7月2日(土)長野旅行
1)高崎市の現「裄V弥右衛門家」

2)高崎市の「サンピア」
・高崎IC・・・上信越道・・・佐久南IC・・・・

3)佐久市の「市川五郎兵衛記念館」
  @市川五郎兵衛記念館現館長 「根沢氏」 (東大大学院) 
  A百姓代家「??家」の末裔・・・・古文書の大家
  B組頭家「市川家」・・・・・・・・★会えなかった。
  C名主家「裄V諸左衛門→裄V弥左衛門家」の末裔
  裄V真重也氏(元信州大学講師)


3)佐久市の「市川五郎兵衛記念館」
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  @市川五郎兵衛記念館現館長 「根沢氏」 (東大大学院) 
  A百姓代家「??家」の末裔・・・・古文書の大家
  B組頭家「市川家」・・・・・・・・★会えなかった。
  C名主家「裄V諸左衛門→裄V弥左衛門家」の末裔
   裄V重也氏(元信州大学の先生)
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 (★裄V家所有の五郎兵衛用水絵図)
・円筒分水
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・大久保長安認可・・・市川家の水田開発・砥石開発の
 許可状
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◆裄V諸左衛門の墓?
 裄V弥右衛門家当主&裄V弥左衛門家当主が
 先祖を供養する。
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◆新しい墓地・・・裄V3家
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●裄V重也氏の話など・・・
裄V弥右衛門→裄V諸左衛門+妻:金井淡路守秀景の娘
 
 長男:裄V弥右衛門家・・・子孫:裄V本次→裄V佳雄
次男:裄V弥左衛門家・・・・3つに分流
本家:裄V本也→裄V真也(元信州大学の先生)
    裄V京子(切り絵画家)


箕輪初心●【南牧村の城20城一覧】&▲黒滝山登山
http://53922401.at.webry.info/201204/article_21.html
余地峠の里:郷土研究会(会長:須賀健治)+郷土博物館
城砦11+烽火台9=20城である。

箕輪初心生方▲武田晴信の南牧侵攻&武田家臣編:市川五郎兵衛@
http://53922401.at.webry.info/201605/article_14.html

箕輪初心生方▲佐久『五郎兵衛用水』:市川五郎兵衛真親と柳沢所左衛門
http://53922401.at.webry.info/201605/article_15.html

箕輪初心:生方▲武田信玄家臣:柳沢弥右衛門→所左衛門→弥左衛門
&『伊那原新田用水』 http://53922401.at.webry.info/201605/article_16.html


4)上田市の「刀屋」(ランチ)「真田そば」

5)長野市の裄V京子画伯「切り絵」
裄V重也氏の妹・・・アトリエはエムウエーブ近く
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6)長野市の「八幡原」(「第4次川中島)」

7)長野市の「今日の饗」(夕食)
   ※信州長屋酒場はいっぱいで入れなかった。

8)長野市の「ホテルアベスト長野駅前店」(泊)


【2】7月2日(土)
・朝食
9)長野市のエムウェーブで行われた「大人の文化祭」
10)長野市の「松代城」
11)長野市の「松代大本営」
12)千曲市の「荒砥城」
13)上田市の「池波正太郎・真田太平記館」
井伊直孝は真田幸繁のいる真田丸に大砲で撃った
という話は確認できなかった。


14)裄V弥右衛門家の「創新館」




箕輪初心★箕輪城90【井伊直政の箕輪城時代の家臣団一覧】
http://53922401.at.webry.info/201212/article_15.html

箕輪初心★箕輪城91【井伊直政家臣:長野業親→長野業実とは?】
http://53922401.at.webry.info/201212/article_16.html

箕輪初心:生方▲主に群馬・長野の【戦国〜江戸の用水新田開発】
http://53922401.at.webry.info/201605/article_34.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201605/article_34.html




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