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zoom RSS 箕輪初心:生方▲【武田氏の箕輪城領国支配C不在時代、D内藤昌月〜E北条家臣:内藤昌明】

<<   作成日時 : 2016/07/05 09:46   >>

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・天正3年(1575)5月21日 長篠の戦い・・三河国長篠城(現愛知県
新城市長篠)で織田信長徳川家康連合軍3万8000 VS 武田勝頼軍1万5000
戦うことになった。内藤昌秀は戦況不利を悟って、武田勝頼に撤退を進言。
受け入れられず出撃した。内藤昌豊が戦死。壮烈な戦死。享年54歳。
保科千次郎(昌月)が内藤昌秀の養子として、内藤家の家督を継承した。
しかし、2年間は箕輪城は城代はいなかった。城番衆と番手衆はいた。
・天正5年(1577)2月14日、内藤昌月は箕輪城に到着した。
●印『地域文化233「みのわの歴史」』栗原修著・『戦国期上杉
・武田氏の上野支配』栗原修著・『武田氏家臣団人名辞典「内藤
昌月」』:丸島和洋文責をベースにまとめてみた。
画像

 (★箕輪城)
画像

 (★保渡田城本郭・・公民館)



箕輪初心●箕輪城シリーズQ「第10代内藤昌月」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_26.html

箕輪初心▲箕輪城147【善龍寺】=長野業正長男:長野吉業の墓
・内藤昌豊&昌月の墓=会津藩
http://53922401.at.webry.info/201412/article_7.html

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◆◆ 箕輪初心◎長篠の戦い前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_25.html

箕輪初心◎長篠の戦い後編:設楽原の激闘&上野国関係者
http://53922401.at.webry.info/201211/article_27.html

◆◆ 箕輪初心●愛知【長篠城】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html

◆◆ 箕輪初心★【奥平一族は群馬出身】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html
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・天正3年(1575)長篠の戦い
内藤昌豊が戦死→保科昌月は内藤家に養子入りして家督を継承。
 武田勝頼の考えで上野箕輪城代は空席。
 内藤昌月は武田勝頼側近。



【4】武田氏の箕輪城支配C不在時代
・天正4年(1576)
3月27日 奉者:跡部大炊助→瀬戸神十郎
 瀬戸神十郎は信濃海野の内の15貫を宛がう。武具を用意して
 箕輪城に在城をお願いする。

@城代・・・不在
A在番衆・・・祢津松よう軒・大井高政・満安
C番手衆・・・瀬戸神十郎は新規で箕輪城に入った。


11月21日 奉者:跡部大炊助→大井満安宛武田朱印状



・天正5年(1577)
3月24日 奉者:跡部大炊助→大井満安宛武田朱印状

箕輪領内に79貫900門及び籾子743俵8升6合を
宛がわれた。
しかし、奉書に箕輪城代の記載がないので、不在であること
が分かる。

・天正6年(1578)
3月、上杉謙信の没→御館の乱が発生 
  上杉景虎 VS 上杉景勝
  武田勝頼は上杉景虎支援のため越後へ出兵した。
  武田勝頼は景虎・景勝間を和睦を調停した。
 8月 武田勝頼の撤兵中に乱が再発・・・
    上杉景虎は自刃。
  武田・後北条氏の間で甲相同盟が破綻し、領国の接する西上野は
  緊張化した。

【5】武田氏の箕輪城支配D内藤昌月〜
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箕輪初心●箕輪城シリーズQ「第10代内藤昌月」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201010/article_26.html
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●内藤昌月「武田24将内藤豊後守昌豊の子で、武田勝頼側近の武将」 
・天文19年(1550) 保科昌明が誕生。
 
 保科昌月は武田勝頼の側近となった。
 
 御館の乱・・・甲相同盟の破綻により西上野における武田氏と
 北条氏との関係が緊張化した。

 内藤昌豊には実子があった。・・・・
@有力説・通説・・・信濃の保科正俊の3男で、内藤昌豊の養子説
A少数説・・・・・・内藤昌秀(内藤昌豊)の実子説
        (★内藤征治家文書)
 内藤征治家文書によれば、昌豊には
  長男の昌月、二男の昌茂、三男の昌直、四男の昌家
  という4人の子供がいた。
★公的な文書では「内藤昌秀」である。

内藤昌豊は保科正俊から保科昌月を養子にした。
 武田信玄の死後、武田勝頼に疎まれた。
 @内藤昌豊がお家の安泰のために、武田勝頼の信頼厚い側近の昌月
 を養子に迎えた?
 A武田勝頼が内藤昌豊を懐柔のために昌月を養子にすすめた?、
 どちらかではないか。
 (★「内藤昌豊公とその子孫」:長篠城歴史博物館)


・天正5年(1577)
2月9日 内藤昌明書状(瀬下家文書)
「如承知、箕輪城之儀、被仰付候、若輩之事候之条、遠慮数多候間、
  種々雖御訴申候、頻而被仰付候条、無拠御請申、 来十一出府、
 14日吉日之由候、如何様其刻以面談余可申候、  恐々謹言
  2月9日       内藤昌明 
   瀬隼様     」
※年次のため
@永録10年説・・・群馬県史
A天正4年説・・・・箕郷町誌:近藤義雄先生

・天正5年(1577)2月9日 内藤昌月→瀬下隼人への書簡 
  内藤昌月が箕輪城着陣。
 @若輩者ですが・・・2月11日に甲府を出発。
   2月14日に箕輪城に到着。
 A瀬下隼人から引き継ぎをおねがいします。
  (★瀬下家文書)

◆内藤昌明の目付として「武川衆」柳沢弥右衛門が武田信玄の命で
箕輪城に付いてきた。内藤家も「武川衆」である。柳沢弥右衛門家の
家紋は花菱で武田信玄の家紋と同じである。旧群馬町のK地区に住
んだ。後、金井淡路守も娘を貰っている。
★おそらく、武田信玄は一番信用のおける一門「武川衆」柳沢弥右
衛門家を内藤昌月の補佐とした。柳沢家は平安末期の一条信長の
子孫で青木家の分家であると思われる。江戸時代の柳沢吉保は
一条信龍の系統である。
(★佐久:柳沢真也氏所蔵系図)
★保渡田に住む僕んちの母方先祖:塚越伴七(半七)・土屋文明
 先祖:土屋昌続の弟:昌恒、大熊さんちの先祖(大藪城):大熊
 備前守も家臣になっている。
旧佐久の伴野助十郎一族や内山大井貞清一族、岩尾大井高政・満安
・祢津松よう軒、瀬下一族(出自は富岡瀬下)も有力在番衆であった。



・天正5年(1577)5月 内藤昌月は父の遺骸を奉じ、善龍寺に
  葬った。
家臣の大熊備前が持ち帰った首級を善龍寺に葬った。
 内藤昌月も天正16年1588)に逝去し、昌豊の隣に葬られた。
(右が昌豊、左が昌月。)
画像



・天正7年(1579)
2月 内藤昌月は箕輪城代に任命され、大和守と改称。
内藤昌月は不在であった箕輪城代として赴任し、大和守を
  称した。

8月 内藤昌月は調略してあった北条右衛門尉、宇津木氏久と謀り、
  上杉景虎方であった厩橋城、大胡城を領有する北条高広を
   武田方に転じさせた。
『新編高崎市史 通史編2中世』(高崎市市史編さん委員会2000年)

8月 内藤昌月は北条右衛門尉、宇津木氏久と謀り、上杉景虎方
 であった厩橋城、大胡城を領有する北条高広を武田方に転じ
 させた。
 
8月28日 武田勝頼→北条氏への書簡
  内藤昌月が家臣に箕輪城を伝える。=演説をする
  (★新編高崎市史:秋本太郎先生) 


9月 武田勝頼は後北条氏に対抗する外交的基盤として、常陸国の
   佐竹氏と甲佐同盟を締結する。
  武田勝頼は佐竹義重と東毛に出兵した。
  由良国繁の金山城、長尾顕長の館林城、富岡秀高の小泉城の
  城下を荒らし、河田備前守の膳城を落城させた。
★素肌攻めで有名・・・
 内藤昌明は更に河田重親(膳城)、長尾憲景(白井城)、
  那波顕宗(伊勢崎那波城)を臣従させた。

※甲斐の武田氏と常陸の佐竹氏による上野侵攻の勢いは凄まじかった。



11月12日 内藤昌月奉書→宇津木左京亮への書簡
  (★宇津木家文書)
 前年、天正6年(1578)御館の乱で北条高広は北条氏政の命で
 越後樺沢城(上越国際スキー場そば)まで迫って、坂戸城を
 覗ったたが、雪が降ってきたので、息子を越後に置いて、
 自分は厩橋城に帰還した。上杉景勝と武田勝頼は講話を結び
 ・・・上杉景勝の妻は武田勝頼の妹・・・
 武田勝頼は東上野に侵攻した。
厩橋城の北条(きたじょう)高広を調略した宇津木氏(玉村)
 の功績をたたえ所領を与える。



・天正8年(1580)
1月内藤昌明は大和守を官途とした。


・」2月23日 北条氏政→北条氏邦宛て書状
 「此分に候者、当方終ニハ可向滅亡候哉、上州勝頼之物
     ニ罷成候共、慥氏政へ随身之様ニ者有間敷候、」
  (★『木村孫平氏所蔵文書』)
「由良氏と長尾氏が佐竹方として出兵した。このままでは上州は武田
勝頼のものとなり、当方終には滅亡となる。」
と嘆いている。
 (★群馬県史)

武田勝頼の上野支配は、跡部勝資・内藤昌月・土屋昌恒が奉行
となって進められ、上毛については真田昌幸が担当した。
(★『群馬県史 通史編3 』)
※武田勝頼の上野支配は跡部勝資、内藤昌月、土屋昌恒が奉行と
なって進められ、吾妻は真田昌幸が担当した。
★跡部勝資の長男は和田信業(和田城)
 ★内藤昌月は保科正直の兄(箕輪城)
 ★土屋昌恒は土屋昌続の弟(保渡田城?)

(★『戦国期上杉・武田氏の上野支配』栗原修著)


●『戦国期上杉・武田氏の上野支配』栗原修著 P314
 内藤昌明の発給文書
32「白井之内小幡分・下沼田之内」宛行
(★渋川市白井城内小幡信貞の所領・・・)
33「白河・松原・同所屋敷竹木保護」
  (★高崎市箕郷町白川&松原)
34「信州之内」宛行
    五十嵐は信濃を与えられた。
35「仁田山」宛行
(★みどりの市)
36 人返し令
37「武州之内」宛行
宇津木氏久に200貫文の地を与えることを約束した
38「沼上之内高山分」宛行
(★旧高山村)
39 人返し令  工藤長門守と内藤昌明連署・・・

40「小鼻輪郷之内稲荷山大明神領」宛行
(★高崎市小塙・・・烏子稲荷神社)

●栗原修説・・・武田勝頼から北条氏政・氏直・・・
★実際には北条氏邦対策であった。



・天正10年(1582)織田信長による甲州攻撃が開始された。
2月  信長の嫡男信忠率いる織田軍の進軍
    信濃の武田勢は次々と降伏していった。
  高遠城を守る武田勝頼の異母弟:仁科盛信は織田信忠の降伏勧告
  を拒絶して果敢に抗戦した。

2月28日 箕輪城に武田氏の滅亡前に北条氏邦が進駐?
  (★群馬県史・ウキペディア)
箕輪城の城代は、内藤昌月に任されていたが、北条氏に
  臣従した。


3月3日 織田軍の高遠城攻撃
    高遠城を1日で落城させた。城主:仁科盛信は自害した。
    武田家は仁科盛信の玉砕で総崩れになり、武田勢の退去。

3月2日 岩櫃城の真田昌幸の「上州岩櫃城に・・・。」
  の言を退けた。
3月3日 武田勝頼は真田昌幸縄張りの新府城入城60日後、
  火を放ち、小山田信茂の岩殿城へ退避。
 笹子峠で小山田信茂は叛乱→

3月11日 天目山の戦いで武田勝頼が妻子と死去。
 

3月23日 小諸城にて
織田信長は家臣・滝川一益に上野(群馬県)と信濃国の
 小県郡・佐久郡を与えた。
 真田昌幸は岩櫃城・沼田城などを明け渡すことになった。
同時に、名馬「海老鹿毛」と短刀を下賜された。
 滝川一益を関東統治の取次役=東国取次を命じられた。
滝川一益の役名は「関東守護」「関東ノ主」「関東御警護」
 「関東管領:など・・・
※エピソード
 滝川一益は領地よりも、茶器:「珠光小茄子」を所望し
 たが叶わなかったことを悔しがった。

3月24日 滝川一益は箕輪城に入城した。
(★紀氏滝川系図:群馬県史)
「内藤昌明が箕輪城明け渡し」
 (★佐久:柳沢真也氏所蔵系図)
★おそらくは内藤昌明は箕輪城で滝川一益に会ったと
思われる。
一度も火事に遭ったことがない佐久浅科の柳沢家
系図では、内藤昌明が開城した。
柳沢弥右衛門は金井淡路守も娘を貰っていて、
柳沢諸右衛門が跡を継いでいた。



3月26日?〜
次に厩橋城に入った。
関東の鎮定にあたることになる。〜〜〜〜〜〜〜〜

滝川一益は新領地統治にあたり、国人衆に対して本領は安堵すること
を申し渡した。近隣の諸将が人質を伴い、次々と出仕した。


●信濃衆(出仕者)
真田昌幸(上田城主、岩櫃城主・旧沼田城主)
依田信蕃(春日城主)

●上野衆(出仕者:武田家旧臣)
@内藤昌月(保渡田城主:旧群馬町・含旧箕輪城主:旧箕郷町?)
 ★保科正俊の2男:旧武田時代の実質的な高崎近辺の総まとめ役
A和田信業(和田城主:高崎市・・・後、井伊直政の高崎城)
 ★跡部勝資の長男・・
B倉賀野秀景(倉賀野城主:高崎市倉賀野町)
 金井淡路守→倉賀野秀景・・・滝川一益の側近。
C木部貞朝=木部高成(木部城主:高崎市木部町)=
D白倉重家(白倉城主:甘楽町)
D小幡信貞(小幡城主:甘楽町小幡)
F安中久繁(安中城主・安中市)・・・安中景繁の子ども
(★甘利昌忠の娘の生んだ子の可能性有り)
G高山定重(高山城主:藤岡の世界遺産:高山社・・本城は高山城)
H大戸真楽斎(大戸城主:東吾妻町)
I藤田信吉(沼須城主:沼田市の上沼須の金剛院が城址である。
・天正9年(1581)6月、真田昌幸は藤田信吉に沼須の城を与えた。
 藤田は倉内に在城し、妻子は沼須城にいた。森下、阿曾両城の
 繋ぎの城であった
・天文10年(1582) 北条氏邦の夜襲を受けて阿曾の城を逃れた金子
  美濃守は沼須城に辿りついた。
  (★群馬県古城塁址の研究:山崎一著)


●上野衆(出仕者:旧上杉景虎方)
北条高広(旧厩橋城主)・・★柏崎北条城(元は上杉謙信家臣)
長尾憲景(白井城主)・・・★真田昌幸の白井城城代であった。


●上野衆(出仕者:旧北条氏政方)
由良国繁(金山城主&桐生城主)
長尾顕長(館林城主&長尾足利城:両崖山城主)
那波顕宗(那波城主&茂呂城主)
富岡秀高(小泉城主)・・・大泉町

●下野衆(出仕者)
宇都宮国綱(宇都宮城主)
皆川広照(長沼城主)
佐野宗綱=天徳寺宝衍(唐沢山城)・・・滝川一益の側近


●武蔵衆(出仕者)・・・北条家臣
成田氏長(忍城主)・・・★行田市 「のぼう君」の叔父様
上田朝直(松山城主)・・★東松山ICすぐ300m
上杉氏憲(深谷城主)・・★妻は北条氏政の娘
本庄近朝(本庄城主)・・★
北条氏邦(鉢形城主)・・★北条氏康の実質3男
※関東の北条氏政父子、佐竹義重、里見義頼も臣従したのだ。
@ 北条氏政に下野祇園城を元城主:小山秀綱に返還させた。
A北条氏に太田城を追われ、佐竹氏のもとに身を寄せていた
  太田資正、梶原政景父子は、織田信長の直参となることを望
  んで滝川一益のもとに伺候している。

※天正10年に主君の武田勝頼を失った後も箕輪城を守っていたが、
 北条氏の侵略を受け降伏したという。
 (★内藤家系譜『甲州の豪将内藤昌豊公とその子孫』
  愛知県鳳来町立長篠城趾史跡保存館67頁)
 (・『善龍寺記』)
  


〜〜〜保科正俊〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・天正10年(1582)
2月 保科正俊・保科正直は飯田城を守備した。
  織田信忠の飯田城攻め
   保科正俊・保科正直は大島城
   武田信廉は甲斐に戻った。
   保科正俊・保科正直・飯島氏は高遠城へ
3月1日〜織田信忠の高遠城攻め  
●織田信忠の高遠城攻撃
保科正俊&保科正直父子は逃亡した。
@保科正直の妹の嫁ぎ先・・・松本の小日向家だった。
A保科正光の妻の実家・・・・上田の真田家であった。
真田昌幸の娘が妻である。
B保科正俊3男:内藤昌月がいる保渡田城へと逃れていった。
●父保科正俊&兄:保科正直は高遠城を追われ、実弟:内藤
昌月の保渡田城に住んだ。
★内藤昌月は信濃を追われた父:保科正俊と兄:保科正直を箕輪城
または保渡田城に迎え入れた。
 
3月11日 織田信長の武田攻めで武田勝頼が自害
  →武田氏が滅亡。

 
そして、上野一国を拝領した滝川一益が入国すると他の上野国衆
と同様に滝川一益に降り、箕輪城を明け渡した。
織田家家臣:滝川一益が箕輪城に入城した。
 
保渡田城の内藤昌月らと旧武田家臣は滝川一益の家臣と
なって、人質を箕輪城に差し出した。
保科家&内藤家は武田氏滅亡→後北条氏に臣従した。

北条高広は厩橋城を、真田昌幸は沼田城を明け渡した。
滝川一益が本拠を厩橋城に移した。

6月 本能寺の変で、織田信長信・嫡男:信忠が死んだ。
神流川の戦い
→滝川一益が敗北。
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箕輪初心▲埼玉上里【金窪城】&『神流川の戦い』詳細
http://53922401.at.webry.info/201409/article_21.html

6月19日・20日 神流川の戦い
  滝川一益VS 北条氏邦&氏政の合戦があった。
 内藤昌月は滝川勢として戦ったが敗北した。

6月20日 滝川一益は箕輪城で、旧武田遺臣:内藤昌月らは
別れの酒を酌み交わした。


北条氏邦が箕輪城に入城した。北条氏直に降った。
保科正俊&長男:保科正直&3男:内藤昌月は北条氏直の家臣
となり、北条氏邦の支配下となった。
内藤昌月は後北条氏では他国衆として遇された。

※天正壬午の乱
信濃の織田勢は武田旧臣に追放されて混乱状態になった。
信濃の旧織田領での対立が起こった。
徳川家康・北条氏直・上杉景勝による旧武田領をめぐる争い
である。
北条氏 VS 徳川氏

北条氏邦軍に内藤昌月も参陣した。
北条家家臣:大導寺政繁が松井田城で合流し信濃に侵攻した。
★この際、保科正直&内藤昌月の弟:松井田の補陀寺12世
:荊室廣琳大和尚も一緒に行った可能性もある。
内藤昌月&保科正俊・正直が北条方として信濃に攻め入った。
大導寺政繁は小諸城を落とし、城主となった。
さらに、東山道を進軍した。
内藤昌月の兄:保科正直は兵を持っていなかった。
保科正直は内藤昌月の軍を借りて出陣した。
保科正直は実弟:内藤昌月から500の兵を借りて高遠奪還戦を
した。主力部隊は保渡田衆であった。
この中には、主力は伴野氏・土屋文明の先祖もいた。土屋昌恒である。
兄弟は土屋昌次・金丸昌直・土屋昌続・秋山昌詮・金丸定光・
秋山親久がいる。
 

高遠城は高遠氏の旧臣:保科氏が内藤昌月の支援を得て奪回した。
保科正俊が城主となった。

8月 保科正俊・正直&内藤昌月が北条氏を支援する為に甲斐に
 向かった。

 保科正直は暫く北条方に留まっていた。
※内藤昌月が甲斐に呼び出された隙に、保科正直は高遠を乗っ
 取った説もある。・・・真田昌幸の入れ知恵か?

北条氏邦&大導寺政繁は甲斐に侵攻した。
北条氏邦・・・・・若神子城
大導寺政繁・・・・獅子吼城
VS
徳川家康・・・・・新府城


※若神子城&獅子吼城の戦い(甲斐)
 服部半蔵を使い、獅子吼城を攻略した。
 ★徳川家康が優勢になった。

 北条軍が撤退し始めた。

高遠城に残されていた内藤家臣:十郎左衛門の兵500は、
 高遠城の外に追い出された。

10月 保科正俊の子:正直は徳川家康に服従した。
  伊那郡2万5000石の所領が宛がわれた。
  保科正直ら信濃国衆が徳川家康方に転じた。

  木曾義昌・依田玄蕃なども徳川方となり、信濃に侵攻した。
  
  その後、真田昌幸と北条高広が上杉景勝に転じた。

しかし、内藤昌月は北条氏邦の傘下にいた。

・天正11年(1583) 箕輪城主:北条氏邦が厩橋城の北条高広、
 沼田城の真田昌幸を攻めた。
 内藤昌月は北条氏邦に従軍した。

・天正12年(1584) 小牧・長久手の戦い
徳川家康は保科正直や諏訪頼忠、小笠原貞慶ら信濃衆を木曾に
  派遣した。
 木曾攻めは木曾義昌に阻まれ、成果を上げられなかった。
 保科正直を抑えに残して撤退した。


保科正直は徳川家康の異父妹:多却姫を妻(2号さん・3号さん?)
   に迎え、高遠城主としての地位を確保した。
1号・・・跡部資勝の娘
2号・・・真田昌幸の娘?
3号・・・徳川家康の異父妹:多功姫
保科正直は徳川家康の異父妹:多功姫(徳川家康の母:於大の
  再婚先の久松俊勝の娘)と縁戚となって勢力を伸ばした。

・天正13年(1585) 徳川家康と北条氏直の和睦
  上野沼田領の譲渡問題で真田昌幸が徳川家康から離反した
  徳川家康は大久保忠世に保科正直をつけて攻撃した。

※第一次上田戦争
 保科正直は徳川勢として、真田昌幸の上田城攻めに従軍した。
  大敗して撤退した。

・天正13年(1585)
11月 
石川数正が徳川家康から出奔した。
  信濃松本の小笠原貞慶も呼応して高遠に攻め入った。
※鉾持除(高遠町)の戦い
  保科正直 VS 小笠原貞慶
  保科正直が退けた。
保科正俊は小笠原軍に大勝した。


・天正16年(1588) 5月25日
   正月  内藤昌月は逝去。(内藤家系図)
  内藤昌豊のの隣に葬られた。
  享年39歳。3男:内藤直矩が継承した。

  

内藤昌月のお墓・・・・2つ
@ 内藤塚(群馬県群馬郡箕郷町)善龍寺の寺前
 五輪塔が二基・・・右が内藤昌豊、左が嫡子内藤昌月の墓である。
 ※「天正5年5月の長篠の戦いで戦死した内藤昌豊の遺骸を奉じ
 て、昌月が埋葬した。内藤昌月も天正16年(1588)正月、
 ここに葬られた。
 (★看板)
画像


A高遠の桂泉院 
 武田信虎の墓&内藤大和守修理昌月之墓がある。
 保科正直、内藤昌月、荊室廣琳大和尚は兄弟だった。



開山荊室廣琳大和尚は上野国松井田の大泉山補陀寺12世であった。
★補陀寺には大導寺政繁の墓がある。群馬最初の曹洞宗の寺である。
  




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・天正17年(1589) 保渡田城は中川武蔵守に攻められ落城し
したという説もある。
保渡田城主:内藤外記が中川武蔵守に攻められ善竜寺で自害
  した。
 しかし、内藤昌月は前年に死去しているため、内藤外記は
 昌月の子かそれに準ずる身内の者と考えられる。
 (★『日本城郭大系』の『総社記』)
 前田家臣:中川光重がいる。1年のずれがあるものの、小田原
 の攻撃の際に保渡田城は攻め落とされたとも考えられる。

・天正18年(1580) 豊臣秀吉の小田原城攻撃
箕輪初心■箕輪城シリーズ25「箕輪城&北条氏滅亡」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201010/article_39.html

■天正18年(1590) 豊臣秀吉の北条攻撃
 豊臣軍約200000騎?  VS  北条軍34250騎    
   (★豊臣秀吉が調べた北条家人数覚書:毛利家文書)
*北条氏邦・・・・・5000騎
 (鉢形城・深谷城・倉賀野城・厩橋城・箕輪城・沼田城)
*大導寺政繁・・・1500騎(川越城・松枝城)
*波賀駿河守・・・見失     
  (★毛利家文書・・・鉢形城博物館の本)
 
◆近藤先生説は(垪和信濃守=垪和伯耆守康忠説である)
*私見・・・芳賀信濃守=塀和伯耆守康忠の嫡子説? 
理由・根拠
@塀和康忠は年齢的に高い。塀和康忠は倉賀野城の城主。
A多米出羽守平長定が山中城に行ったため、箕輪城に北条氏邦が派遣?
*近藤説・・・「北条氏が籠城手配は白井城・松井田城・西牧城
  ・館林城の4城。」
1)白井城
2)松井田城
3)西牧城
4)館林城
          
A、秀吉軍の北国軍(前田・上杉・真田昌幸ら)が北条の城を攻撃。
3月?日 前田利家が福井経夕→東山道木曽→佐久郡へ到着。
        上杉景勝と真田昌幸が合流、北国軍。
3月15日 真田氏先兵が碓氷峠で大導寺政繁と交戦。
3月18日 北国軍が碓氷峠で北条先兵を破る。 
      (★松井田の坂本愛宕山城か?)
3月28日 松井田城を包囲攻撃、落ちず。
    大道寺政繁は北国軍に備えて、碓氷川から石を運んで工事。

4月?日 西牧城(多米元忠)への攻撃
     →多米元忠が西牧砦で討死。
4月?日 厩橋城(?)を攻略。・・・・浅野長政ら
4月7日 豊臣秀吉から真田昌幸が松井田に付城普請を命じられる。
4月12日 真田昌幸が手勢を連れて碓氷峠で80人を討取る。
4月20日 松井田城(大導寺政繁+子直繁1500騎)落城
       →大導寺政繁は前田の道案内。

4月?日 和田城(和田○繁)も落城・・・・・前田・上杉
4月?日 倉賀野城(併和○○)も落城。

4月24日 →大導寺政繁は前田の道案内で
  前田・上杉・真田が箕輪城へ・・。
 (★鉢形城開城:鉢形城博物館)
・箕輪城(垪和康忠の子)も降伏開城・・・・
 ・前田・上杉軍の前に4月24日、闘わずに降伏開城。
  真田昌幸が入場。
  @北条氏の塀和氏・保科氏が守備(高崎市史の資料)
  A北条氏の芳賀信濃守・保科正直が降伏。(みさとの歴史)
  B芳賀信濃守は逃亡し、保科正直が降伏。
   (近藤先生:箕輪町誌の松城通記)
  C4月24日、塀和信濃守は北国勢に降伏。
   (近藤先生:箕輪町誌の「箕輪城と長野氏」)
  D去弐四日書状今日弐九披見候箕輪城之儀羽賀信濃守追出
    保科居残城相渡候付て羽柴孫四郎・・・
   (近藤先生:箕輪町誌の4月29日の秀吉書状4月24日の
     真田の報告に答え、箕輪城で在城処理。
4月29日 秀吉から真田昌幸は、箕輪城の武具受領や百姓環住など
   の仕置きを指示。・・・人身売買の禁止など。  
         
★北国軍:前田利家&上杉景勝は松井田城を降伏させた。松井田
城主:大導寺政繁は、真田昌幸を道案内して、箕輪城に来た。
箕輪城代:塀和伯耆守康忠は直前に逃亡した。
保科正直が箕輪城を真田昌幸に渡した。真田昌幸の娘は
保科正直の妻である。・・・しかも、保科正直は徳川家康の異父
妹:久松氏と縁戚となって勢力を伸ばしたのだ。
しかし、8年前には、徳川家康に臣従している。近藤義雄先生の
説は間違っているのだろうか?

天正18年(1590) 小田原攻撃
 ●保科正直は徳川軍の後備えとして参戦した。
  後北条氏が滅亡。
  徳川家康が関東に移封された。
 
■保科正直は徳川家康に下総多古で1万石を与えられた。
 徳川家康の正直は徳川家康の家臣と
 して、上総の多古城に入ったのだ。
 保科正直&跡部越中守資勝の女の間に保科正光がいた。
 やがて、徳川家康の孫:保科正之(父:徳川秀忠:母:浄光院)
 が生まれた。
 徳川秀忠は武田信玄の次女:見性院(穴山信君未亡人)に預けた。
・元和3年(1617) 見性院の縁で旧武田氏家臣の信濃高遠藩主:
 保科正光の養子:保科正之となった。
 やがて、保科正之は会津藩主となった。



●▲■内藤昌月の子孫**********************
【1】内藤昌月の嗣子:昌定は母の実家:上田城に母に伴われて
 上田城に向かった。
  内藤昌定が宗家を継いだ。
  大きくなって、帰農した。
 ※藤原系の子孫で初めて農民になったと言われている。
 (★箕郷町誌)
  山梨県北巨摩郡須玉町若神子村に蟄居していたが病死。
  長男:内藤昌定は若くして亡くなった。が、その子、
 太兵衛昌康(昌時)は若神子を出て、佐久郡にやって来た。
 最初、小諾の仙石氏の足軽となって、佐久郡内の年貢の督促
 役を2年務めたと書かれている。・・・★つまり、名主
 その後、上州の白井村に行き、堀川家の婿として3年を過ご
 した。
  それから崎田の服部家の世話になったが、その間に仙石氏の
 役人に許可を得て、穴原の開発を行ったという。
 内藤太兵衛昌時が、現在の長野県南佐久郡八千穂村穴原を開拓し、
 一集落を形成した。現在は日本各地に分家がある。
 系図は以下の通り  
 内藤昌豊(修理)−昌月−昌定−昌時
穴原は標高850m程で、千曲川の右岸の台地にあって、北南東を山
に囲まれた西向きに下る緩やかな斜面にある。内藤一族38戸が一
集落をつくっており、裏山には広大な一族の墓地がある。
(★内藤昌秀の子孫Hpより)

【2】内藤昌月の2男:内藤昌茂
  内藤昌茂は妻子と甥:昌定(昌月の子)と箕輪城を出て、甲州
  の若神子(山梨県北巨摩郡須玉町若神子村)に帰り、帰農した。
  病死。
  内藤昌茂の子:内藤太兵衛昌康(昌時)は若神子を出て、佐久郡に
  行った。
  最初は小諾の仙石氏の足軽となって、年貢の督促役を2年務めた。
    
  その後、上州の白井村の堀川家の婿として3年を過ごした。
  その間に仙石氏の役人に許可を得て、穴原(現長野県佐久穂町
  穴原)の開発を行った。
  内藤昌康の子:内藤太兵衛昌時が移り住んだ。
  穴原は千曲川の右岸の台地にある。現在も内藤一族38戸が
  あるそうである。
  昌康は江戸時代の承応2(1653)年に亡くなっている。これらの
  事柄は、昌康の二男である昌房が寛文3(1663)年に書いた記録や、
  明和9(1772)年に穴原の近右衛門らが平賀役所に提出した
  内藤家由緒書(内藤征治家文書)によるものである。
  ※自成寺・・・内藤家の菩提寺
   穴原より北へ5kmほど行った海瀬にである。
  後に内藤昌茂の子孫は代々尾張藩に仕えた。
(★内藤家の子孫HPより)

【3】3男の内藤昌直=信矩は箕輪城に入った井伊直政に
 仕え、子孫は彦根藩士になった。
★井伊直政の17家老の一人である。
 彦根城には「内藤内匠」とある。
 (★彦根城博物館:城下町図)

  内藤源助自卓(よりたか)は会津公の居候になった。
保科正之は、
「内藤家は養父:正光公の傍系である。」
として、2000石の知行を与えた。
内藤自卓の孫:内藤近之助信清は会津藩家老になった。
代々、源助を名乗り、家老職を継いだ。 
★会津での屋敷は西郷家の反対の会津若松市役所である。

【4】4男の内藤昌家
   相模国に住んだとされている。


●内藤昌明の有力家臣*******************
1)目付:裄V家・・・帰農・・
@柳澤弥右衛門家隠居・・・旧群馬町
A裄V諸左衛門家→裄V弥左衛門・・佐久浅科3つの系統へ
五郎兵衛新田のサブ・・・伊奈原新田用水の開発

2)市川家?
徳川家康の家臣への誘いを3回断った。
帰農し、佐久浅科・・・南牧での砥石生産・五郎兵衛新田

3)伴野家・・・・・・伴野貞長系・・・箕郷で帰農

4)土屋昌恒家・・・・保渡田で帰農

5)塚越伴七・・・・・保渡田で帰農

6)内山大井家・・・・・・?
岩尾大井家・・・・・・?

7)瀬下家・・・・・・・・佐久で帰農

8)祢津松よう軒・・・・・徳川家康の鷹匠


1)〜7)は井伊直政の家老でもおかしくはなかったが、
帰農した。

井伊直政の17家老
@内藤直矩、A里見、B和田、C萩原・・・・
宇津木泰繁(玉村)、岡本半助宣就(小幡信貞の家老:熊井戸)

  山県昌景家臣・・・孕石・三科・広瀬・・・石原主膳が家老

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箕輪初心:生方▲【武田氏の箕輪城領国支配C不在時代、D内藤昌月〜E北条家臣:内藤昌明】 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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