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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸103【第29回「異変」】&大谷吉継の敦賀

<<   作成日時 : 2016/07/25 08:10   >>

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豊臣秀吉の命により、真田幸繁は大谷吉継の娘:春を正室として
迎え入れることになった。豊臣秀吉は嫡男:秀頼の将来を案ずる
が、自分自身の老いには勝てずにいた。第29話「異変」では、
秀吉は迫りくる「老い→ボケ」との戦いが始まる。そして同時
に「死」という人間にとって不可避な現実とも向き合う。慶長
3年(1598)8月、豊臣秀吉が数えで62歳・満年齢で61歳死ぬ
が、史実では豊臣秀吉は死の数年前から急激に老いが顕著とな
り、時には失禁する事もあったと言われている。「真田丸」で
は、天下人:豊臣秀吉の哀れな晩年60歳前からを描いている。
@真田幸繁の正室:大谷吉継の娘?姪?竹林院が成立→A山之
手殿の出自→B豊臣秀吉の痴呆ボケ老衰→C細川ガラシャ(明
智光秀の娘:玉)の登場→Dきりのキリスト教への興味。→
A真田昌幸の木幡伏見城築城への意欲→E真田信幸の子宝:稲
とこうのW懐妊が流れである。★私の最も興味ある史実は「豊
臣秀吉の妹:旭姫&母:なかを大切に扱ったことで、豊臣秀吉
に可愛がられた井伊直政が、徳川家康の移城命令で、箕輪城から
高崎城の移城の準備を始めた。」ことである
。「真田丸ゆかりの地」
は大谷吉継が11年治めた敦賀だった。敦賀には2回行ったこと
がある。豊臣秀吉にとっても思い出の地:敦賀である。
画像




【1】第28話「受難」の思い出
・文禄4年(1595)8月、豊臣秀次の自害
豊臣家最大の悲劇であった「豊臣秀次の切腹=自殺」という豊臣
家のターニングポイントとも言うべき重大事件が終息した。
★三谷幸喜マジックのホームドラマ「真田丸」では・・・
@真田幸繁の側室:豊臣秀次の娘「隆清院」が助左=呂栄助左衛
門にフィリピンの連れて行っってもらうという嘘っぱちは流石と
いうべきであった。
A真田信幸が高野山で秀次に境遇を語る場面も嘘くさかった。
慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉の死
 豊臣秀次の死からちょうど3年後にこの世を去った。
男の平均寿命が83歳を超える現代では「まだまだ若いのに・・」
と思われるが、戦国時代は「人間50年」と言われていた時代
であった。60歳で衰えが来るのは当然である。
豊臣秀吉の晩年は非常に哀れであったとも言われている。
天下人:豊臣秀吉は、死の間際まで幼少の嫡男:豊臣秀頼の事を
想っていたと言われている。家臣や大名に涙を流しながら自分亡き
後の秀頼の事を頼んだと言われている。
弟の秀長、甥の秀次、秀勝、秀保・・・・豊臣家の身内は豊臣秀吉
より早逝してしまった。しかし、生き残った甥であった:小早川秀
秋は、関ヶ原の戦いで西軍の石田三成を裏切って徳川家の天下を決
定的にしてしまった。


【2】第29回「異変」あらすじ
真田丸後編 (NHK大河ドラマ・ストーリー)NHK出版1188円(税込)
豊臣秀吉は類い稀な能力と強運を持って天下人に上り詰めたが、晩年
は老いによって能力を奪われ、さらに坂から転げ落ちるように運も失
っていった。そんな落ち目の豊臣家に最後まで忠義を尽くす石田三成、
大谷吉継、そして真田信繁・・・・。

◆ナレーター
「秀吉は秀次が死んだ後、お寧・茶々・拾とともに伏見城に移り。
政治の拠点を移した。それに伴い大名たちも伏見に移り住み、心
機一転を図った。これはさらなる異変の前兆でもあった。
真田幸繁は真田左衛門佐信繁は、太閤豊臣秀吉の仲介により、
豊臣家の実力者:大谷刑部少輔吉継の娘:春(竹林院)を正室に
迎えることとなった。


●京の真田屋敷
信繁は秀吉との約束どおり、大谷刑部の娘・春を正室として迎えた。
真田家の面々も春を歓迎した。
真田家では、信繁と春(竹林院)の祝言が行われた。
春のお披露目の日。
昌幸は信幸&幸繁に・・・

「・・・薫は菊亭晴季卿の娘ではない。菊亭晴季卿のの母に仕えていた
侍女だ。公家の出には違いないが、貧乏公家だがな。」
信繁と信幸の知るところとなった。
稲「菊亭晴季卿」
薫「菊亭晴季卿の娘です。」
春「菊亭晴季卿の御身内は全て殺されたとききますが、・・・」


◆真田昌幸の妻「山之手殿」の出自
真田丸では初回から登場しており、「公家の出」であるという設定
 となっていた。
 @菊亭晴季の娘説
  永禄7年(1564)頃、山之手殿は武藤喜兵衛(後の真田昌幸)に
  嫁いだ。 真田昌幸の身分は武田信玄の下級家臣であり、
  武田信玄の正室の三条家と菊亭家は同格であり、上級公家
  :菊亭家の娘を妻に迎えられる身分とは考えられない。
最近の研究では懐疑的な見方が強いが、三谷は見事な
  脚本で克服しているといえる。

 A武田信玄家臣:宇多頼忠の娘説(白川亨説:有力説)。
宇多氏説を主張するは、
  柴辻説の遠山氏なら真田氏が公式系図にそう書くのに何の不都合
  もなかったはずである。」
  「菊亭氏説としているのは、徳川幕府体制下で悪人とされた石田
   三成と縁戚であることを隠したかったからである。
  宇多氏説が最も妥当であると主張している。
丸島和洋は真田昌幸の娘:趙州院が宇多頼次に嫁いでいること
  から出た誤伝であるとしている。

 B武田信玄家臣:遠山右馬助の娘とする説(柴辻俊六説)
  遠山右馬助騎馬10騎、足軽30人持の足軽大将である。
   (『沼田記』)
  『甲陽軍鑑』には遠山の名は数か所確認されており、昌幸とも
  知己があった可能性は高く、昌幸の正室の出自としては最も説明
  が付く人物であると主張している。

 C武田信玄の養女説
  高野山蓮華定院(高野山に流された真田昌幸・信繁親子が仮寓
  していた寺院)に残る過去帳には山手殿は「武田信玄公養女」
   と記されている。
   武田信玄の養女に嫁いだという高野山蓮華定院の真田御一家
  過去帳は粉飾の可能性が高い。
(★武田家臣団人名辞典:丸島和洋文責)

D正親町実彦の姪 (『滋野世記』の説)
   菊亭家が正親町実彦の姪を養女としている。
 
 E公家ゆかりの女性
  三条の方のゆかりの侍女など京から来た女性ではないかという
  考え方である。
  「京之御前様」=山手殿説である。
  (『真田氏給人知行地検地帳』『小県郡御図帳』)

 F公家の侍女説
   京都出身であるが、公家の出身とは考えにくい。
  公家の娘ではなく侍女説が有力である。
(★武田家臣団人名辞典:丸島和洋文責)


何となく気づいていた信繁は母の気持ちを察した。

その夜、信繁は自分の率直な思いを春に語る。
正室として迎え入れた春に信繁は
「亡き妻:梅のことを今でも愛している。」
と話す。
信繁「春のことは大切にするが、しかし、私は梅の事を忘れることは
  できない。それだけは承知してほしい。」
春は誠実さに心を打たれたようである。
春は信繁のまっすぐな思いに理解をしめす。
春は人懐っこい性格で、どことなく亡き妻:梅に似ていた。

◆信繁の正室となる春(竹林院)との結婚も決まり、史実における
 信繁の正室・側室はほぼ出そろった。
〜〜〜真田幸繁(幸村)の妻たち〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
正室:大谷吉継の娘?姪?・・・竹林院
側室:豊臣秀次の娘・・・・隆清院
堀田興重の娘
高梨内記の娘


●伏見城
深夜、秀吉が突然起き上がった。
秀吉は恐怖におののいている。
三成から信繁に連絡が入った。
三成「秀吉が寝小便をした。」
 とのこと・・・・。
秀吉はうちしおれている。
三成「あとは左衛門佐と私でなんとかします。」
2人は濡れた寝具を片付けた。

片桐に薬を貰う算段をした。

戻ると
「死後の事を考えていた。」
さらに「秀吉は同じことを何度も繰り返し言うようになり、怒ると
    自分を制御できなくなっている。」
三成「新しい妻はどうじゃ?」
幸繁「・・・いいです。・・・」

信繁と三成は秀吉を見て、不安を感じていた。

秀吉は自分の変化にすっかり弱気になっていた。

秀吉「拾が元服するまで関白は置かない。と決めた。、それまでは
 お前達(三成・大谷)が奉公衆と相談の上、政を行え。」
と命じた。

信繁には三成のサポートをするよう指示した。
三成「寝小便位で・・・」
秀吉は力なく笑い、・・・・

翌日、お寧は秀吉を元気づけようと思い好物の生せんべいを作った。


きりも元気ががでない。
お寧「孫七郎に目をかけてもらったもんね。」

きりはお寧の侍女:わくさに
「伏見城の普請場に行き、大工の頭の吉蔵から細川忠興の妻:玉
(細川ガラシャ)に渡してほしいものがあるのです。」
と頼まれた。

●伏見城の普請場
真田伊豆守信幸は、豊臣秀吉から真田安房守昌幸に依頼された伏見
城の普請を昌幸におしつけられているが、なかなか思うようにはか
どっていなかった。
家人「・・・」
信幸「父が遊郭に行っている。」
信幸は昌幸のよからぬ噂を聞き顔を曇らせていた。
どうやら昌幸は遊郭に入り浸っているらしい。


きり「・・・」
信幸「殿はどこへ・・・」
きり「お城の進み具合はどうですか?」

信幸は伏見城の普請を昌幸から押し付けられててんてこ舞いで
であった。伏見城の普請は信幸一人では手に負えなかった。
信幸は一人で普請に当たらねばならず疲労困憊。

きりは吉蔵に会いに行った。
きりが事情を話す。
吉造「ガラシャ様によろしく、・・・」
 「フランシスコ吉造・・・」
きりは木製の十字架を受け取った。
わくさ・吉蔵・玉はキリシタンだった。

きりは想いを寄せられていた関白:豊臣秀次を亡くして落ち込むが、
豊臣家臣の細川忠興の正室:玉(細川ガラシャ)と知り合うことに
なった。キリシタンである細川ガラシャと関わるうちに、きりは
だんだんとキリスト教に魅せられていくのであった。


●京の真田屋敷
きりは真田屋敷を訪ね薫に挨拶した。
「新しい奥方様がどのようなお方ですか?」
「それがね。お梅に似ている。」

きり「普請場に昌幸がいませんでした。源三郎様だけでした。」
と口を滑らせてしまい、薫は昌幸に不信感を持ち始める。

●遊郭
昌幸は吉野太夫に入り浸っている。
昌幸は、昼間から遊郭に行き吉野太夫と遊んでいた。
画像

出浦も佐助もすっかり覇気を失った昌幸に失望してしまった。
「昼間から・・・ワシはみとうない。昔の殿はどこの、・・・」


●京の真田屋敷
春「きりさん、ですね。」
きり「私と青梅ちゃんのいいところを全て兼ね備えている。・・・」

深夜、信幸が屋敷に戻るとそこには昌幸の浮気に感づいた薫が怒りの
形相で待ち構えていた。
薫は信幸に昌幸が昼間何をしているのか問い詰められた。
薫「正直におっしゃい。女でしょ。」

精神的に疲れた信幸は逃げ帰った。
昌幸のことを問い詰められた信幸は何とか薫をなだめて逃げるように
・・・・
信幸はいらいらが募る

信幸が誰かに癒してほしいと思ったとき、真っ先に頭に浮かんだのは
正室:稲ではなく、元妻:こうのことだった。
こうの部屋へ向かった。

心労が重なる信幸・・・癒しを求めてこうの部屋に行った。
信幸はこうを抱いてしまう。


しかし、稲がそれに気づいてしまった。
「お話が・・・」
こうの元でしばしの癒しを得た信幸が自室へ戻ろうとしたとき、
稲が突然現れて信幸を部屋へ引き入れた。

「おこうの所に行かれていたのですか?」
「これほどの辱めはありません。父に全てを伝えます。
 もし、伝えて欲しければ、・・・・」
信幸に怒りをぶつけるのだが、・・・・
稲は信幸に心を許してはいなかったものの、自分の夫が元妻の方と
仲良くしているという状況に嫉妬していた。
稲は信幸を奪われまいと必死に抱き着いた。

信幸は優しく抱きしめた。
★結果的にそれがきっかけで2人は結ばれた。
そして・まもなくして、こうも稲も懐妊するのであった。


●伏見城
家康「太閤殿が、直々に相談・・・・」
秀吉が家康を伏見城へ呼び、今後のことを相談することになった。
秀吉「生せんべい?」

ある晩、秀吉は悪夢にうなされて目覚め、三成や信繁を呼び寄せた。
そしてその直後、秀吉は家康と対面した。

三成らは、奉行衆による合議により政を行うことに対する了承を、
家康から得るための場を設けたつもりであったが、・・・・

秀吉は自分が死んだあと、拾や豊臣家の行く末を案じて恐怖していた。
秀吉はお寧が作った生せんべいを「まずい。」
と投げ捨てだ。
秀吉「わしは政の仕組みを考え直し時がきたと思う。関白をおかず、
・・・そして、拾が元服するまでは秀次の代役は立てずに三成ら奉行
衆が政を行うことに決めた。
三成「関白を置かずに奉行衆が政治をすることを家康にも伝えた方が
   いいとおもいます。」
と、秀吉に進言した。
ところが秀吉は、
「政は家康を要とした大名たちの合議で進めて欲しい。」
と言いだし、三成を驚かせる。
秀吉は先日の話から一転して、家康ら大大名による合議で政を進めてほしい
と言い出したのだ。

家康「かしこまりました。」
秀吉「拾の将来は徳川殿の肩に掛かっている。」
突然の秀吉の心変わりに三成も信繁も戸惑った。

●刑部屋敷
その夜、信繁は秀吉のことを相談するため、療養中の刑部のもとを
訪ねた。
「良くもならず、悪くもならず、・・・」
刑部の病状は良くないらしく、首に布を巻き皮膚の赤みを隠し、体は
意のままに動かなくなっている。
秀吉の様子は日に日に悪化していた。
病床に伏してしまっている吉継もそのことを憂慮し信繁に、
「秀吉の異変を周囲に悟られないようにせよ。」
と助言した。
◆吉継に忍び寄る病魔・・
春の父:大谷吉継が患っていたとされるのは、ハンセン病だという説
が有力である。関ヶ原の戦いの時には相当病状が悪化しており、目は
ほとんど見えず、足も悪くなって輿に乗っていたという。


●細川屋敷
同じころ、きりは細川屋敷を訪れていた。
賛美歌が聞こえてきた。

◆ナレーター
「・・・一般的には、ガラシャでで知られている。」

その夜、きりは細川忠興の妻:玉に吉蔵のつくった十字架を渡した。

テンペラ画「・・・この絵はだれですか?」
キリシタン:玉(ガラシャ)は、秀次がきりに渡した絵をみて
ガラシャ「聖母マリアの絵です。」

ガラシャ「それを渡した方がきりに渡したのは、きりさんの
     ことを大切に思い、マリアの加護をと願ってのこと
     です。」
と伝えた。
きりは秀次の忘れ形見のテンペラ画に描かれた女性が聖母マリアで、
秀次がきりの守りに授けたのだと知り胸を打たれる。

お寧「・・・」



●京の真田屋敷
ある日、ついに薫は昌幸に詰め寄った。

昌幸は薫から浮気のことを問い詰められた。
しかし、昌幸はまったく意に介さず薫の話を聞き流そうとする。
昌幸「大坂にいっておったのです。材木が足らなかったのだ。」

薫は出浦に問いただそうとする。
薫「・・・」
出浦は逃げ出した。

しかし、昌幸はそれを一笑した。
信幸は昌幸に伏見城絵図を渡した。

●伏見城
「死にたくない!」
伏見城では、政治を大名たちの合議で決める事を秀吉が家康に
再度命じていた。
家康「何故、」同じことを2度命じられた。」
と不思議がる???。
三成と信繁が秀吉がおかしくなっている事を悟られまいと、上手く
ごまかした。

●ビスケット
ある日、秀吉はビスケットも
「脂臭い。」
と放り捨てて、お寧を悲しませた。



●京の真田屋敷
「誰が・・・・」
信幸「子ができた。・・・」
幸繁「おめでとうございます。」
信幸「でも、こうであった。・・・父(本多)にしられたら、と思って
   いたら、・・・・稲にも子ができた。・・・」
信幸は稲とこうが同時に懐妊したことを信繁に伝えた。


●伏見城
昌幸は伏見城の築城に意欲を燃やす。
普請奉行「・・・転ばれた。」
三成「・・・口にしてはならぬ。」


秀吉「徳川殿を呼べ。・・・」
三成「・・・・・」
その後も秀吉は同じ話を家康にしようとする。

三成はその話を制し、
「そもそも政治は奉行たちで行えとお命じになられました。」
と指摘する。

秀吉「源次郎は残れ。」

秀吉「昔のことは覚えておるが、最近のことは?」
幸繁「・・・楽しいことだけ、・・・」
秀吉「ワシは壊れてしまったのか?」
幸繁「まさか?」
・・・・
秀吉「拾様は殿下のお背中を見ながら、すくすくと育っています。」

秀吉「死にとうない。」
秀吉は三成を下がらせると
「死にたくない」と信繁に本音を漏らす。
秀吉自身も迫りくる死への恐怖と拾を思う気持ちから、信繁に泣きながら
「死にたくない。」と訴える程にまで衰えてしまった。



お寧「年をとるということは・・・」
三成「・・・・」
お寧「・・あなた達が・・・」

秀吉は残り少ない人生を、できるだけ拾と一緒に過ごしたいと願う。
三成「」
茶々「みじめな父の姿を子に見せたくないのです。」
と言って拒否するのであった。



●京の真田屋敷
昌幸「」
信幸「どうなのだ。太閤殿下の様子は?・・・」
信繁「・・・・」
秀吉が衰えているということは隠しきれず、信幸は信繁から秀吉の
ことを聞き出そうとする。
・・・・・
信幸「世が乱れたら、・・・・俺は徳川に付く。」
信繁「・・・殿下の様子が・・・・」
信幸「全ては真田のためだ。」

信繁は豊臣家の立場から内情を明らかにしなかったが、信幸は信繁に、
「秀吉の傍にいるのは真田家のために働くためなのだということを忘
れないように・・・」。」
と釘を刺すのだった。



●キリシタン寺
きりはテンペラをみた。

◆ナレーター
「・文禄5年(1596)6月27日
灰が降った。
文禄5年(1596)慶長の大地震、・・・7月13日。
マグユチュード8ともいわれる大地震が伏見を襲った。」
豊臣政権の崩壊を予兆するような大地震が伏見を襲った。


●京の真田屋敷
地震・・・不気味な揺れ。
信繁は言い知れぬ不安を覚え、秀吉の元へと駆け出すのであった。
薫「こんな時、どこへ・・・・」
昌幸「支度は調った。」

◆ナレーター
「この地震により完成間近の伏見城は天守が倒壊、一から作り直しと
なった。
伏見城の倒壊は秀吉の最期を暗示しているかのようだった。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●予告

●敦賀と大谷吉継  
「天正17年(1589)〜 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで最期をとげる
まで11年余の敦賀を治めた。」

・天正17年(1589) 敦賀城主:蜂屋頼隆の死去によって、秀吉奉
行衆:大谷吉継が敦賀城主に赴任した。5万7千石を拝領した。
豊臣秀吉は敦賀湊は日本海海運と結節点として、重要性を増してい
ったので、大谷吉継を登用したのであった。

敦賀の町割りの推進した。町割りは、笙の川(旧笙の川)と児屋川の
 両川の間をわゆる「川中」に、東西を「川東」・「川西」とした。
@「川西」に敦賀城、武家屋敷(現結城町・三島1・2丁目)など行政機関
 や茶問丸(茶問屋)など集めた茶町(現川崎町)とした。
A「川中」に道川氏が中心の川舟座を移し、商業地区とした。
B「川東」に河野座など漁業者を集めたり、町を職能別(工業別)に
 区画させたりした。
敦賀町が中世から近世に移行過程であり、現在の敦賀の原型となった。
また、商人、各寺院への許認可の発行を行った。

・天正20年(1592) 文禄の役(朝鮮出兵)で軍監として渡海した。
・文禄3年(1594) 伏見城の普請を担当した。
・慶長2年(1597)9月14日、豊臣7秀吉を自邸に招いて饗応し、
  多くの贈物をして人々を驚かせた(伝)。
・慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉の死
 大谷吉継は徳川家康に接近した。
・慶長5年(1600) 徳川家康による会津上杉景勝への攻撃
  徳川家康に従うために1千の兵を以て敦賀を発した。
  途中で近江国佐和山城で石田三成に会見した際に、家康の討伐計画
 があることを打ち明けられた。
 大谷吉継は、徳川家康に勝つ見込みの薄いことや石田三成の人望の
 なさを指摘し、計画を思いとどまるよう忠告した。
 石田三成に対して
 「貴殿は諸人に対して横柄なところがあり、評判も良くない。人の上
 に立って事を成そうとするときは世の人気を得なければならないもの
 だ。この度の大事も毛利輝元殿と宇喜多秀家殿を上に立て、貴殿はそ
 の下について事を進めるようにしなければ上手くいかないだろう。」
 と手厳しく諫めたことは有名である。
 しかし、石田三成の意志は固く、思い悩んだ末に友誼に殉じて石田
 三成に身を投じた。
  大谷吉継は一旦敦賀に戻って挙兵した。
 大谷吉継は前田利長軍を抑えて美濃国関ヶ原に進出した。
 寝返りの噂のあった小早川秀秋に備えて陣を布いた。
 対面には井伊直政・本多忠勝の軍勢がいた。
  小早川秀秋の1万5千の大軍が大谷隊の側面に討ちかかった。
 大谷吉継は一度は東軍の猛攻を退けた。
大谷吉継はハンセン氏病=癩病のために崩れた顔を白布で隠し、
 輿に乗って戦闘を指揮したという。
  しかし、小早川隊の寝返りを警戒して配した赤座直保・朽木元綱
・脇坂安治・小川祐忠隊までもが寝返った。
 側背を衝かれて大谷隊は崩れた。
 ・・・自刃したのだった。
辞世の歌は
「契りあらば 六つのちまたに 待てしばし 
  おくれ先立つ たがひありとも 」
「三成、地獄で会おうぞ。」
介錯した家臣の湯浅五助は、首を守って落ち延び、手厚く葬った。
享年42。
奮闘の末に壮烈な最期を遂げた。 


●菩提寺:永賞寺(敦賀市栄新町) 伝:大谷吉継供養塔

●西福寺

●敦賀まつり
「大谷吉継が・・・・」


******************************」
●1回目・・・敦賀市:金ヶ崎城→小谷城・長浜城・彦根城・中山道へ
●2回目・・・敦賀市:金ヶ崎城→三方五湖→小浜城→田辺城などへ

◆◆ 箕輪初心★新田義貞&豊臣秀吉【金ヶ崎城】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_29.html

箕輪初心●福井「金ヶ崎城」@新田義貞&A木下藤吉郎
http://53922401.at.webry.info/201104/article_21.html

箕輪初心★松尾芭蕉37『奧の細道26【福井〜敦賀】
&福井城・杣山城・金ヶ崎城
http://53922401.at.webry.info/201208/article_21.html

箕輪初心■福井「6回目奥・7回目」=奥の細道番外編
http://53922401.at.webry.info/201104/article_26.html

箕輪初心◆水戸天狗党3の3「信濃→越前:処刑」
http://53922401.at.webry.info/201303/article_27.html

箕輪初心:生方★映画『杉原千畝のあらすじ』:6000人の命を救った外交官
http://53922401.at.webry.info/201601/article_1.html

●▲■敦賀市の通ったこと・行ったことのある観光スポット
@氣比神宮・・・・・・御朱印を貰いにいっただけ。
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A日本海さかな街・・・海鮮丼を食いに行っただけ。

B気比の松原・・・・・ぼおっとしただけ。
画像


C人道の港「敦賀ムゼウム 」・・・・通っただけ。
 杉原千畝に助けられたナチスドイツの手から逃れたユダヤ人難民が
 日本海汽船が運航する「天草丸」に乗りこんだ。
 敦賀港に上陸した。ことに関連する展示。

Dシンボルロードモニュメント
  松本零士のキャラクターの像に気づいただけ
画像


E旧敦賀港駅舎=敦賀鉄道資料館・・通っただけ。

F赤レンガ倉庫・・・通っただけ。

G金ケ崎緑地・・・・・・・・・・通っただけ。

H金崎宮&松尾芭蕉碑・・・・・・木下藤吉郎の退却の口
画像


I金ケ崎城・・・2回
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J敦賀来迎寺(松原):水戸浪士の殺害の場
 敦賀来迎寺(松原)で353人が斬首された。

K松原神社境内のニシン蔵:水戸浪士が監禁された蔵
  記念館として残っている。
L本勝寺:武田耕雲斎(水戸天狗党を率いた元家老)の墓

M敦賀市博物館・・・通っただけ。

N西福寺:大谷吉継の手紙・・・・通っただけ。

O永賞寺(敦賀市栄新町) 伝:大谷吉継供養塔・・・通っただけ。
画像

 (★無料画像より)

Pみなとつるが山車会館:大谷吉継の像・・・・見ていない。
画像

 (★無料画像より)

Q常宮神社・・・・・・・・・・・通っただけ。

R晴明神社:陰陽師:安倍清明ゆかりの神社・・・通っただけ。
S敦賀ヨーロッパ軒本店「ソースかつ丼」・・・有名らしいから。
画像

画像

21敦賀駅・・・・・・・・・・・・見に行っただけ。


★明日の真田・武田・北条関係は未定?

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