城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲沖縄10-E【中城城跡2回目】戦略的芸術的曲線美を持つ城

<<   作成日時 : 2016/07/20 05:34   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

★世界遺産「中城城跡」は中城村と北中城村にある。北東から
南西に伸びた標高150m〜170mの石灰岩丘陵にある山城であ
る。南東側は15m以上の切り立った崖、北西側は勾配のきつ
い傾斜面となっている。中城城内に入るには正門や裏門に面し
ている南北の丘陵尾根沿いしかない。守りやすく攻めにくい構
造である。中城城の縄張りは6つの郭からできている。城壁は
琉球石灰岩で積まれ、自然の地形を生かした凄い城だった。
(★看板・パンフレットより編集)ガイドさん、ありがとうござい
ました。

画像




◆訪問日・・平成19年(2008)3月31日(土)
宮古島ダイイングの翌日、宮古島から那覇に飛んだ。那覇市散
策は、空港からタクシーを利用した。中村家住宅→中城城→
壺屋焼と巡った。



◆訪問日2・・平成28年(2016)7月8日(金)
レンタカーで駐車場に着いた。・・小雨だった。

画像


●中城城入り口・・・400円をはらった。
 ボランティアガイドさんをお願いした。
「一人でも、大丈夫ですか?」
「ガイドは無料です。」
「中村さんというらしい。」
★70歳以上の叔母さんである。
「平成14年(2002)に「グスクの会」が発足しました。」
「私も箕輪城というところでボランティアガイドをしています。
 こちらのガイドさんは今、何人いますか?」
「グスクの会の会員は50人以上います。」

●石碑
画像
   
●ジオラマ
画像


●裏門の手前・・・かなり広い芝生の広場がある。
「かつて、小学校がありました。」

画像

 「石垣の手前は一段上がった平らな所でイベントをします。
 8月、歌舞伎役者さんが来るとか?」

 
@裏門前
ツワブキの葉が青々してる。 

「城壁は相方積みといわれる新しい時代の方法で石積み
 されていています。護佐丸の時代に作られたといわれて
 います。 」

A裏門=搦め手口
画像


B北の郭
画像


○北の郭→水の手
右手に下がる。
「ウフガーといわれる井戸があります。護佐丸が井戸を取り込み
 増築したと考えられています。」
「北の郭は周囲に木々が生い茂っているため余り広くは感じられま
 せんが、城としての戦略上欠かせない水の確保のための井戸を
 覆うように石垣が作られています。」

・井戸跡
画像

画像

画像

「中城城は連郭式の山城です。6つの郭で構成されています。」
あいかた積み=亀甲乱れ積み・・・北の郭、三の郭、物見台

左手に上がると三の郭・・・・・、
●階段・・・急である。
「戦いの意図が感じられます。」

ここで、ざあざあ雨が、・・ヤッケを着る。

大きな城壁で両側を守られた急な階段を登って三の郭に行く。
画像

画像

C三の郭
城壁を半周・・・行く。
画像

画像

「二の郭を守る城壁は、三の郭と同じような真ん中を半円状に凹
 ませたような同じ形をしていますが、よく石の積み方を見ると
 横方向に目地の揃った布積みで築かれていて、作った年代の違
 いを感じられます。
  護佐丸以前はここが中城城の西の端だったと思われます。
 護佐丸が入城後に北の郭、三の郭を増築し、今に残る六連郭の
 見事なグスクにしたと伝えられています。
  周囲は断崖と急勾配の斜面には、丘陵の尾根沿いにある正門や
 裏門しかなく、守りやすく攻めにくい戦国時代特有の構造だった
 のでしょう。
 二の郭と三の郭とはつながっておらず、三の郭は新城(ミーグスク)
 とも呼ばれ、どのような目的で造られ、使用されたのかは定かではあ
 りませんが・・・ここが見えないようになっているので、登ってしま
 ってから、2の郭から一斉に矢を放ったのではないでしょうか?。」
 とガイドさんが説明する。
 ★確かに横矢かがり要素・・・袋のネズミ攻撃ができるよなあ。
やっぱり、ガイドさんがいるといいねえ。
1440年に座喜味城から移ってきた護佐丸ゴサ●は、築城家としても
  有名らしい?・・・山本菅助・馬場美濃守・山県昌景
藤堂高虎・加藤嘉明・加藤清正・・・に匹敵する。
画像


画像

グスクからの眺望は風光明媚な景勝地となっている。
東に中城湾や太平洋、
西に宜野湾市や東シナ海、
北に勝連半島や読谷方面、
南に与那原や知念半島〜〜〜〜。

・拝所
画像


D西の郭
画像

「長い馬場でした。・・・兵馬の訓練に使われていたと言われて
  います。長さが東西に120mあります。・・・今は入れません。」

@二の郭
画像


布積み=豆腐積み・・・一の郭、二の郭、
「 護佐丸(ごさまる)中城城が、いつ誰によって建てられたのか確かな
 ことはまだわかっていません。
 この部分は豪族「先中城按司」の居城だったと伝えられています。」
「伝承では、天下を狙う阿麻和利が首里と勝連の間に立ちふさがる
  中城按司・護佐丸を除くため、護佐丸が謀反を企んでいると
 尚泰久王に讒言をし、王はこの報告を信じて、阿麻和利に護佐丸
 討伐を命じた。護佐丸は首里王府軍の旗を掲げて攻めてきた阿麻
 和利軍を見て謀りごとと見抜きつつも、王への忠誠心から「王府
 軍には逆らえぬ」と、幼児だった3男を乳母に託して落ちのび
 させ、妻子もろとも自害した。その後、阿麻和利も讒言がばれて
 王府軍によって滅ぼされたと伝えられている。」・・・
「護佐丸・阿麻和利の乱」と呼ばれています。

★「忠臣・護佐丸、逆賊・阿麻和利」か?
 阿麻和利英雄説・・・・
 琉球の歴史上・・・最大の謎に包まれた事件です。」

○門
また。雨がひどくなってきた。
二の郭の雅なアーチ門を抜けると、そのまま一の郭につながっている。
「14世紀後半〜15世紀前半の中国製青磁器が発見されています。
 また、中国明代に開発された銃器の弾丸と推測される金属弾や
 石弾が発見されています。」
★石弾・・・へえ、そうなんだ。元寇以前の話見てえだのう。
画像



画像


F一の郭
一の郭は、中城城跡で最も広く、最も標高が高い場所だ。
画像

「琉球王朝時代には正殿がありました。歴代の先中城按司や中城
 按司:護佐丸が居城していたと伝えられています。その後、
間切番所(まぎりばんしょ)が建てられ、廃藩置県後も建物は
そのまま中城村役場として使用されました。
 ・・・が、残念ながら沖縄戦によって焼失しまいました。
1853年に来島したペリー提督も
『要塞の資材は、石灰石であり、その石造建築は、賞賛すべきもので
あった。石は非常に注意深く刻まれてつなぎ合わされているので、
漆喰もセメントも何も用いていないが、その工事の耐久性を損なう
ようにも思わなかった』と日本遠征記で、その石垣のすばらしさを
讃えているそうです。」
画像


・観月台
画像


 「護佐丸が宴を催したと言われている観月台です。」
画像
 
 中城高原ホテルの残骸が見えた。
画像



G南の郭
  野面積みの石垣
画像

雨乞いの御嶽、
  御當藏火の神、
 小城のオイベなどがある
  ここは霊域となっており神聖な場所である。」
画像


画像


H大手口

画像

画像



●段違いの階段
「王様の駕籠がゆれないようにしています?」
画像

1458年中城城主であった護佐丸を攻めた阿麻和利(あまわり)の軍勢
1853年5月に来琉したペリー探検隊一行も・・・
正門から城内に入ったと考えられています。


●カンジャーガマ
画像

「鍛冶屋跡です。目的は城のためか集落のためなのか不明です。」

●井戸・・・
画像

「城郭内に水を確保しています。」

●「ホテルの為に造られた道を戻ります。」


●中城城跡の案内所でCD「中城城讃歌」が販売されている。

×護佐丸の墓 :・・・城郭の200mほど東には護佐丸の墓があるが、
  前回行っているので、行かないことにした。


●中城村護佐丸歴史資料図書館
平成28年(2016)5月30日(530=ごさまるの日)OPEN
「護佐丸」や「中城城跡」を中心とした琉球史が学ぼう。




◆ 護佐丸(ごさまる)&中城城跡の歴史

・1390年頃 護佐丸が生まれた。
     護佐丸は山田城で生まれ、山田按司を継いだ説。
     山田城城主の養子となり読谷山按司を継いだ説。
護佐丸の豊見城出身説

護佐丸「王を護り、補佐する男」の意味か?

1406年 佐敷城を拠点としていた尚思紹と子:尚巴志が浦添城に
     攻め入って察度の子:武寧王を滅ぼした。
    察度王統は2代56年続いた。
尚思紹は武寧王の世子を称して明国の冊封を受け「琉球国中山王」
 になった。
  尚思紹は、拠点を首里城へと移して各地へ侵攻を続けた。

  中山王国の拠点が浦添城・・・→220年・・・
 首里城が築かれた。  
 
1416年 尚思紹&尚巴志父子が北山征伐の軍を興こした。
  護佐丸は連合軍に参加した。
  た護佐丸は第2軍大将に抜擢された。
  海路を通った尚巴志の本軍と分かれて陸路を北に向かった。
  今帰仁城に突入。
  首尾よく北山王国を滅ぼした。
  尚思紹は北山の今帰仁城を攻略した。

  尚巴志は、今帰仁城主の血筋である護佐丸を北山守護に
   任命した。
   尚巴志は北方を監視するために座喜味城の築城も命じた。
 読谷山按司として尚巴志王の琉球統一事業に尽力した。

1416〜1422年 読谷山按司護佐丸(ごさまる)が築城した(伝)。
護佐丸は座喜味城に18年居城し、中国や東南アジアとの交易
   で第一尚氏王統の経済を支えた。

   その後護佐丸は山田城を崩して得た石材を運び、中城城を
   築いたので、築城家としての名声を高めた。


1421年 尚思紹が死去した。
    尚巴志が王位を継承した。


1422年 第一尚氏王統2代国王となった尚巴志は、次男:尚忠を
   北山監守に任じ、護佐丸を座喜味城に移して北山の統治体制
    を堅固にした。
    
  尚巴志の中山王朝の勢力が増し、統一への動きを見せた。

1429年 尚巴志が南山城を攻略して三山統一を果たした。
護佐丸は第一尚氏王統時代の英雄として知られる尚巴志とともに、
   三山統一を成し遂げた。「按司」とは領主・支配者のことです。

  中山王国から琉球王国・・・
  尚巴志によって琉球王国が成立した。

 勝連城を根拠地とする茂知附按司が勢力を拡大した。

 尚巴志は中城の地領を護佐丸に与え、中城の改築を命じた。
 尚巴志はさらに息子の尚布里を江洲、尚泰久を越来に置き
 牽制した。

 その後、阿麻和利が勝連城の茂知附按司を滅ぼし、交易で実力を
 つけてきた。
勝連城主の阿麻和利を牽制するため、王の命によりほどなく中城城
 に移され中城按司となった。

1440年 尚忠が第3代国王となった。
 護佐丸は再度、中城城に居城を移した。
 座喜味城主「読谷山按司:護佐丸」が王府の命令により
 移ってきた。

14世紀中頃
  先中城按司の初代が台城に居城を構え中城城を築き始めた。
  数世代で、南の郭、西の郭、一の郭、二の郭を築造した。


1454年、王位継承権をめぐる王族の内乱が起きた。
  尚泰久が第6代国王として首里に入った。

 尚泰久王は護佐丸の娘を正室としていた。
 尚泰久王は長女:百度踏揚を阿麻和利に嫁がせ、護佐丸・阿麻和利
 との姻戚関係で内乱で失墜した王権の復興を図ろうとした。



1458年  旧暦8月15日、月見の宴の最中、勝連按司阿麻和利が
 首里王府軍の総大将として中城城を急襲した。
護佐丸自刃する・・・滅亡・ 


伝承********************
1458年、護佐丸は阿麻和利に対抗するため兵馬を整えた。
     阿麻和利が「護佐丸に謀反の動きがあり。」
     と王府につげた。
尚泰久王は最初は信じなかったが、再三の訴えで
    阿麻和利を信じてしまった。

  泰久王は阿麻和利を大将に任じて中城城を包囲した。
  護佐丸は「王府軍である。」
  と聞いた護佐丸は反撃せずに妻子とともに自害した。

  その後、阿麻和利は首里を急襲した。
  阿麻和利の妻:百度踏揚が勝連城を脱出して、知花城の
  鬼大城に助けを求め、王府に事態を伝えた。

  阿麻和利は王府軍鬼大城により滅ぼされた(伝)。
   王府の歴史書
(★琉球王国の正史『中山世鑑』
   17Cに羽地朝秀によって編纂された。)
「伝承では、天下を狙う阿麻和利が首里と勝連の間に立ちふさがる
  中城按司・護佐丸を除くため、護佐丸が謀反を企んでいると
 尚泰久王に讒言をし、王はこの報告を信じて、阿麻和利に護佐丸
 討伐を命じた。護佐丸は首里王府軍の旗を掲げて攻めてきた阿麻
 和利軍を見て謀りごとと見抜きつつも、王への忠誠心から「王府
 軍には逆らえぬ」と、幼児だった3男を乳母に託して落ちのび
 させ、妻子もろとも自害した。その後、阿麻和利も讒言がばれて
 王府軍によって滅ぼされたと伝えられている。」

 いくつかの推論があり、今も不明である。

★ガイドさんも、以前行った勝連城パンフレットでもそんなことが
書いてあった。

14C後半
 城跡内の発掘調査から出てくる遺物が14世紀後半
 この頃から城として使用されていたと考えられる。
北の郭、三の郭を当時の最高の築城技術で増築した(伝)。


1458年〜1469年  中城城は王府の直轄地となり、王族又は代理者
 が管理したようである。

1470年〜 中城城と中城の領地は、世子である中城王子の採地と
      なった。

1729年   中城城一の郭に、中城間切番所が置かれた。

1853年 アメリカのペリー提督一行は日本の開国を促すため、
   日本本土へ向かう途中に来琉した。
   島内探検隊を派遣して中城城跡の視察調査を行って中城城の
   状況を描いた絵図や測量図面等を残した。
   ペリー提督奥地探検隊のハイネが4枚のスケッチを残して
  いる。
画像

 (★無料写真より)
 「日本遠征記」
 「〜要塞の資材は石灰岩であり、その石造建築物は賞讃すべき構造
  のものであった。・・・非常に注意深く刻まれてつなぎ合わされ
  ているので、漆喰もセメントも何も用いてないが、この工事の耐
  久性を損なうようにも思わなかった。〜」
  ★400年以上の風雨に耐えた城壁を築いた琉球人の建築技術の高さに、
   アメリカの軍人たちも大変驚いたであろう。


・明治12年(1879) 明治政府「琉球処分」を強行。沖縄県設置
廃藩置県により琉球は沖縄県となる。

中城間切番所は一の郭に存続。

・明治15年(1882) 番所の一室を利用して、中城小学校を開設。


・明治19年(1886) 城郭東側の広場に、瓦葺き一棟4教室と
運動場を建設して、中城小学校を移す。


・明治30年(1897)「中城間切番所」は「中城間切役場」に改称された。

・明治41年(1908) 町村制の実施により、中城村役場となる。

・大正9年(1920) 城郭東側の広場の「中城小学校」は屋宜に移され、
その跡地は馬場になった。

・昭和20年(1945) 第2次世界大戦により、中城城内の村役場は焼失。

・昭和21年(1946) 中城村役場は、奥間に再建されたため、城郭内は
無人地域となる。

・昭和30年 (1955) 琉球政府文化財保護委員会により重要文化財の
史跡・名勝の指定が行われた。

本丸に中城高原ホテルを建設する計画が立てられ問題となった。

・昭和47年(1972) 5月15日(沖縄県の日本復帰の日)国史跡に
指定された。

・平成12年(2000) 11月、琉球王国のグスク及び関連遺産群として
ユネスコの世界遺産にも登録された。

・平成18年(2006) 4月6日、日本100名城99番に選定された。



◆参考サイト
中城城跡の歴史
http://www.nakagusuku-jo.jp/history

◆参考資料
・球王国のグスク及び関連遺産群
・中城村の文化財
・中城城跡パンフレット
・中城村地域散策
・ボランティアガイドさんの話




★明日は

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲沖縄10-E【中城城跡2回目】戦略的芸術的曲線美を持つ城 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる