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zoom RSS 箕輪初心:生方真田丸102【28話「「受難」のあらすじ】&▲『亀田城&真田幸繁5女:お田の方』

<<   作成日時 : 2016/07/18 13:45   >>

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真田丸ではルソンに向けて旅立った「たか」は豊臣秀吉の甥で関白:
豊臣秀次の娘と伝えられている。真田信繁(幸村)&豊臣秀次の娘の
間にできた娘:5女は「お田の方」である。真田信繁(幸村)の正室
は大谷吉継の娘?養女なので、豊臣秀次の娘は側室の子どもである。
お田の方は亀田藩の多賀谷宣家(岩城宣隆)の跡継ぎ:重隆を生ん
だ。お田の方の実弟、真田信繁の3男:三好(真田)幸信も岩城宣隆に
引き取られ、亀田藩に仕えている。

画像

 (★亀田城:秋田県由利本荘市)

箕輪初心●秋田由利本荘【高城&亀田城&天鷺村】亀田2万石
http://53922401.at.webry.info/201205/article_6.html
★真田幸村の5女:なほ:御田姫が岩城宣隆室:亀田城(秋田県)

箕輪初心●秋田【久保田城】=土造りの100名城
http://53922401.at.webry.info/201205/article_7.html
 ★兄:佐竹氏の城

箕輪初心▲埼玉騎西【多賀谷氏館】&多賀谷一族の歴史
http://53922401.at.webry.info/201408/article_23.html




◆ナレーター
「秀次は「拾」が生まれてから居場所を失い不安に駆られていた。
なんと・・・・・関白の座を放棄するという前代未聞の行動に出た。」

●大坂城
きりは早朝、大阪城内を歩いていた。
きりは蔵の近くで足を止め、蔵の前で何かに勘付き、
・・・素早く蔵の中に入った。

●大坂城の蔵
蔵の中には秀次がいた。身を隠しているようだ。
秀次は、下級武士の格好をして大坂城の蔵に身を潜めていた。

秀次「何もかがいやになって、蔵の中に隠れていた・・・」
きりは大きな声で叱責した。

秀次「叔父上は私が邪魔で・・・」
きり「関白とあろうお方が、・・」
秀次「うっとおしい。」
きり「殿下のことが心配だから、申しあげるのです。」
きりが内緒で寄り添い、叱咤激励する。
秀次は自分のことを考えて厳しいこどを言ってくれている
きりを愛おしく思えた。
秀次はきりを抱きよせた。

●大坂城
幸繁は「秀次の失踪」の知らせを聞いた。
信繁は、秀吉の耳に入る前に大谷刑部に知らせるべく伏見城に
向かった。


●伏見城
信幸が普請の手伝いをしている。
昌幸は信幸を『伊豆守』や『豆州』と呼ぶようになった。
昌幸「豆州」
信幸「そう呼ばないでください。」
信幸は昌幸と共に、改築中の伏見城にいる。
信幸はいまだに叙任を素直に喜ぶことができずにいる。
信幸「官位を返上しようか迷っています。」
と打ち明けた。
昌幸「お前が返上したら信繁も同じように返上するだろう。」
と言った。


昌幸「そうなってしまったら一番悲しむのは自分だ。」
と言って思いとどまるよう説得した。


昌幸「豆州と呼ばせてくれ。」
図面を渡す。

昌幸はやる気が起きない。
昌幸「伊豆守。任せたぞ。・・・くれくれも内密に・・・」

幸繁は信幸に聞いたところ刑部は体調不良で屋敷に戻った
とのこと。・・・
信繁は急いで刑部の屋敷へ向かう。


●大谷邸
刑部の娘:春「朝鮮より帰ってきて以来、具合を悪くしています。」
幸繁「存じませんでした。」
刑部「ただの風邪だ。」
と言い信繁を迎え入れた。

春は・・・ 気に入っているそぶり・・・
★流石、三谷マジック・・・

咳をする大谷・・・
「やっかいなことになったな?」
秀次失踪の件を聞いた刑部はすぐに聚楽第へ向かった。

信繁は「私は大坂へ向かいます。」

●大坂城
幸繁はなかなか姿が見つからない秀次の行方を探し始めた。
信繁は、きりが何か知っているのではないかと見当をつけた。
きりは信繁に正直に話し、秀次が隠れている蔵へと案内した。


●遊郭
昌幸は作業を信幸に任せて遊郭で酒を飲んでいた。
「安房守様・・・」

●京の真田亭



●京の真田屋敷。
「目を見なさい。」
薫は稲の心をなんとか開こうとする。
薫は、「菊亭・・・
薫は「菊亭、・・・」」
こうと一緒に京見物に出かけようと誘う。
京の公家の娘であり、京の町には詳しいのだ?
 実は嘘・・・・



●大坂城
秀次は「太閤殿下に歯向かうつもりは全くない。」
と訴えた。
信繁「事が大きくなる前に京へ戻ってください。」
と説得した。
秀次「聚楽第には戻れない。」

「いやじゃ」
と暗い表情を見せた。

昌幸「くたくたよ。」



●大坂城
信繁は大坂城のきりの元を訪ね、蔵で秀次を見つけだした。

信繁はなんとか秀次を聚楽第に帰そうと説得する。

茶々は蔵の外から拾を「関白殿下」と呼んで遊ぶ。
茶々の声が聞こえてきて秀次を絶望的な気持ちにさせる。

●京の真田屋敷
秀吉は全国の諸大名の妻は、人質として京に住むよう命じた。
京の真田屋敷で信幸の妻:稲も侍女のこうも暮らすことになった。

稲は、同じく京で暮らしている薫の前で、
「公家の出と聞いています。」
と尋ねた。
薫は、
「父は菊亭晴季・・・・」
ということは話すが、それ以外の多くは話したがらない。
薫「・・・」


その後、信繁は京の真田屋敷に秀次を連れていき、
信幸と薫、稲に合わせた。
信繁はやむを得ず、秀次を真田屋敷に案内した。
突然、関白が目の前に現れたことに、薫や稲たちは驚き戸惑っている。
信幸はそんな空気を変えようと、話題を探した。

秀次は公家衆の面識も多い。薫も公家の出であると話し始めた。
その際、話の流れで、薫の父の話がでた。
秀次は「どこの出身か?」
尋ねた。
薫は口ごもってしまう。
稲は、「菊亭様ですよね?」
としゃしゃり出る。
すると、秀次が食いついた。
「菊亭晴季・・・」
「妻が菊亭の出なのだ。菊亭晴季は自分の舅にあたる、」
と言う。秀次の妻の父、つまり舅であることが判明・・・。

薫が慌ててしどろもどろになる。
薫は話を弾ませるどころか、うろたえて話題を変えようとする。

信繁たちは薫の姿を見て、・・・・。

稲は薫を訝る。

稲は自室に戻ると、父・忠勝宛に文を書き始めた。
こうが入って来た。
書きかけの文を覗き込んだ。
稲は腹が据わっている。
「どんなに些細なことでも家康に知らせるよう、嫁ぐときに言い
聞かされている。」
という。
稲は薫が公家の出自でないと悟り、徳川家康に文を書こうとする。

***薫が公家の出というのは嘘です。*********
と、文に記していた。
稲「貴方は信幸様の最初の妻だそうですね。」
と詰め寄った。、

稲「薫様が公家?・・・、
こう「真田の内情を伝えるのがあなた様の役目なら、それを押し
   とどめるのが私の役目」
と言って、文を破った。
こう「そうであろうがなかろうが・・・どちらであろうと真田家を
   守るだけです。」
と言い放った。

秀次の仕事は刑部の取りはからいで全て延期されており、表向きは病気
ということになっている。

信繁はそろそろ秀吉に真実を話した方が良いと考える小早川秀俊に、
「もう1日だけ待ってください。」
と頼みこむ。

信繁は秀次の娘:たか
「父にこれを渡してください。・・・パードレが・・・
とパードレから届けられたある荷物を託される。

その矢先、秀吉が信繁を大坂城に呼びつけた。
「太閤殿下が呼ばれた。」


ついに失踪が秀吉の耳に入った。

信繁は、一旦真田屋敷に戻り秀吉に会う事を秀次に伝えるとともに、
たかから預かった荷物を渡す。

包みの中に入っていたのは、
「聖母マリアが描かれた小さなテンペラ画のセットだった。


死を覚悟した秀次はその中の1枚をきりに渡すこと、
「側室兼・・・この話はなかった事にする。」

「きりにやってくれ。」
ことを伝言するよう信繁に頼んだ。

●聚楽第
数日後、信繁は秀吉に呼び出された。
信繁は秀次のことを勘付かれたかと緊張しながら秀吉の到着を
待った。
信繁は、意外にも上機嫌の秀吉をみて驚く。
秀吉が壺を持って現れた。
秀吉「納屋助左に会ってきた。」
信繁「納屋?」
信繁には心当たりがない名前だったので戸惑っている。
三成「呂宋助左衛門といって、堺で一番の南蛮商人だ。」
秀吉が携えてきた壺もルソンで仕入れた貴重な逸品だという。
呂宋(離村)助左衛門から南蛮渡来の壺を献上されて喜んでいるようだ。
「ルソンから・・・」



秀吉は本題に入った。
秀吉「信繁に縁談を用意した。」
幸繁が呼ばれたのは秀次の失踪がばれたからではなかった。
 「信繁に刑部の娘を娶らせよう。」
お相手は刑部の娘とのことだ。
信繁は、秀次の件で問い詰められると覚悟していただけに、
一気に気が緩んだ。
「会ったことがことがあるそうだの。」
「はい。」
「よい返事を待っておるぞ。」
信繁「父に相談するので時間がほしい。」
と秀吉に答え、その場は収まりかけた。

縁談の件は、一旦猶予をもらうことにした。



三成が信繁を追ってきて話し掛けた。
「関白の出奔など聞いたことがない。」
「関白の件をすぐに秀吉に申し出よ。」
と言う。
「長引けば長引くほど、秀吉の怒りは大きくなる。」
信繁も納得し、正直に申し出ることに同意した。

しかしその直後、秀俊が三成に告げ口したことから、
ついに秀吉が秀次の失踪を知ってしまう。


●聚楽第
秀吉と茶々、寧、大蔵卿局たちが拾と遊んでいる。
信繁は秀次の件を報告した。
秀吉「すぐに連れてこい。」
と言う。
秀吉に、茶々も寧もきつく叱るのではないかと心配している。
ただ、周りが心配しているほど秀吉は秀次を悪くは思っておらず、
これまでも愛情を持って情けを掛けてきたと打ち明けた。
信繁は、その言葉を秀次にも打ち明けて頂けないかと願った。
「拾を守ってもらわねば、秀次に。」
怒る秀吉を寧や茶々が諭し、思いやりをもって秀次と話しあうことに
なった。

お寧 「分相応ではなかった。・・・



◆ナレーター
幸繁「高野山に向かわれた。」


秀次がすれ違いがどんどん深刻になっていく。
あとは秀吉と秀次で話し合いをして終わるはずだった。

秀次は真田屋敷を離れ高野山に入って
しまっていたのだ。
信繁が三成とともに真田屋敷に戻ると、秀次は高野山の青巌寺に
向けて出たあとだった。
「信幸とともに向かった。」
という。

信幸&秀次
秀次「ふりまわされた。・・・」
信幸「・・・」

信幸「振り回されながら、生きているのは殿下だけでは
   ございません。」
高野山には信幸も一緒に赴いており、自分も父をはじめ家族に振り回
されていることなど腹を割って話し合った。

秀次は信幸たちに官位を授けたのが関白としての実績の一つだと語り、
官位を返上する事のないよう念を押した。
「よもや返上しないだろうな?」
「いたしません。」

信幸は信繁のおまけで官位を授かったと聞かされていたが、
吹っ切れた。
信幸は素直に信繁に感謝した。


●聚楽第
秀吉「高野山?」
三成「・・・よくない噂もたち始めています。・」
秀次が高野山に入ったことで、関白の失踪を隠し通すことは難しく
なった。という。
秀吉は、秀次の高野山入りの名目を考えた。
秀吉「わしの命令で蟄居させたことにする。」
と言いだした。
秀吉「しばらく謹慎させたら、謀反の疑いが晴れたとして連れ戻す
   ことにすればいい。」
秀吉「秀次を1ヶ月ほど謹慎させてから高野山より連れ戻せ。」
   あいつにそうつたえ。」
  と決めた。


●駿府城
家康の耳にも入った。
豊臣家が先行き不安であることを確認し、本多正信らとほくそ笑む。

徳川家忠登場。
「正純にございます。」
頭のさげっこ・・・

「下がれ。」

「跡継ぎがいるということはありがたいことだ。」


●高野山
幸繁「・・・太閤様に・・・」

「腹をわって話ができたし、・・・」

「官位を・・・」
信繁は青巌寺に向かい、秀次を説得していた。
「潔く秀吉と対面して、思っていることをすべて申し上げるべきだ
と思います。」
と。
秀次はしばし考えこんだのち、静かに同意した。


福島正則が青巌寺に秀吉の使者として到着した。
信幸が秀次に取り次いで、
「お身内だと聞いた。」
と言うと、秀次は、
「身内で油断させて捕らえるつもりなのだろう。」
と言った。

秀次「???が参ったか?」
「いつしか人を信じなくなった。」
と自嘲気味に笑った。
信幸に「これを長持ちにしまってきてはくれにか?」



信繁が福島正則を案内している。
信幸が顔面蒼白でやって来た。
全員で秀次の部屋に向かうと、秀次は腹を切って果てていた。


それから間もなくして、秀次は・・・悩む。・・・
幸繁「謹慎すれば、・・・」
正則「・・孫七郎は気が優しすぎるのよ。」


秀吉の怒りが収まったと知る事なく、高野山にて自害した。
正則「孫七郎・・・」
と嘆く。

秀吉激怒・・・

情けを踏みにじられたと思い激怒した

秀吉は「秀次の首を三条河原にさらせ。・・・
秀吉は、怒り狂った。
三成はそんなことをしたら、秀吉の乱心だと世間は大騒ぎになる。
それを避けるために、三成は悪役を自ら引き受け、秀次の妻子、
側室、侍女を三条河原に連行し、処刑した。
    
◆ナレーター
妻・子ども・側室・侍女に至るまで30人以上を処刑された。
「いつも」



「??第が壊される」。」

「・・・」
「小早川英俊様もお城を召し上げられて・・・。」



片桐「ようわかったな・」
幸繁「からくり屋敷にはなれておりますので。・・」」

ところが、たかは聚楽第の一室に隠れ難を逃れていた。
三成「・・・」
信繁は聚楽第の一室に隠し部屋を見つけた。
中には秀次の娘:たかが怯えた様子で隠れていた。

●聚楽第
秀吉「孫七郎、・・
秀吉がなく・・・
秀吉「一人前の男にしたかった。」・・・」

秀吉「して、
幸繁「大谷刑部の娘を・・・」
秀吉「今、その話をするか?」
幸繁「正室:として、刑部様の娘との婚儀を謹んでお受けし、・・・
   もう一人、側室にしたい娘がいます・・・」

秀吉「して、どこのだれじゃ? 」
信繁はたかの命だけは救いたいと思案した。
秀吉に申し出た。
幸繁「秀次公の・・・

秀吉「ならぬ。」
と豪語。
幸繁「どうかお許しください。」
秀次の姫君と言うと一度は突き放された。
幸繁「ずっと気になって目をつけていた女です。」

秀吉「まこと・・」
幸繁「一生手をとりあって、・・・」
秀吉「お前もすみにおけんな?」
秀吉は好色な?スケベな顔つきをして
「あんたも好きねえ。」と言わんばかりに
側室にすることを許可した。

秀吉「もし、男子ができたら、殺せとはいわん。
   仏門にいれろ。」
***たかを側室に迎えることを条件に、刑部の娘・春との
婚儀を受ける。***
信繁はそう秀吉に願い出てなんとか承諾された。

きりはテンペラの見ながら
「・・・」
きりがなく。
「あのかたはおろかでなかった。」


幸繁「・・・春を嫁にもらう。・・・
もうひとりは側室じゃ。・・・」

たえ「そういうこととあいなりました。」
きりが絶叫・・・

幸繁「いつ秀吉の気が変わるかわかりません。
   ・・・行って参ります。

信繁は、たかの身を呂宋助左衛門に託したのだった。

◆ナレーター
 「・・・巨万の富を築いた貿易商であった。」

信繁はすぐにたかを連れて助左衛門のもとを訪れた。
初めて対面する助左衛門は想像以上の大商人であった。
貿易船をいくつも所有しているという。
ルソン助「・・力をもつと、人はかわります。・・・」
   「・・・ただ同然の壺を・・・これが手前の戦いである。
    ・・・喜んで力を貸しましょう。・・・」
翌朝、信繁はたかを貿易船に案内した。
助左衛門が快く協力してくれたおかげで、船は堺を出て
ルソンに向けて旅立って行った。



◆ナレーター
「・・・娘のとは・・・・」
「太閤秀吉に死の影が漂っている。・・・」

*************************
〜〜〜真田幸繁(幸村)の娘たち〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
正室:大谷吉継の娘?姪?・・・竹林院
側室:豊臣秀次の娘・・・・隆清院
堀田興重の娘
高梨内記の娘



さて、・・・・・ゆかりの地
秋田県由利本庄市烏川真田
真田信繁(幸村)
・・・・・・・・・・・・お田(でん)の方
豊臣秀次の次女:隆清院
真田信繁と隆清院の間に誕生した女の子は「直」(信繁の5女)
 と名付けられた。
@「亀田城」
 岩城宣隆公の正室となり、「お田の方」と呼ばれた。
御田の方は、亀田藩では良妻賢母として名高く、3代藩主:重隆
を養育した。武道にも秀でた女性として語られている。
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A「妙慶寺」
寛永6年(1629) 御田の方は父母の菩提を弔うために妙慶寺を創建
した。真田信繁の3男:真田左馬之助幸信は、御田の方の夫:岩城
 宣隆に迎えられ、亀田藩士となり「三好」の姓を名乗った。

 
 顕性院(けんしょういん):御田の方や真田幸信の墓がある。
 妙慶寺の宝物殿には御田の方が嫁入りする際に持参した甲冑など
 が多数収められている。
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 (★■訪問記・・・平成20年(2008)7月21日)
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 (★無料画像より)


【3】5女:なほ:御田姫・・・・岩城宣隆室:亀田城(秋田県)
  滝川一積が養女にした説?。
なほ)・あくり・御田殿・顕性院
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※慶長5年(1600)関ヶ原の戦い
 第2次上田合戦
 西軍の負け。
 ●▲■真田信之は井伊直政に頼んで、真田昌幸と真田幸繁などを
 殺さないように頼んだ。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 (★井伊家家譜?彦根城博物館学芸員:野田浩子著)

・慶長9年(1604) 九度山で生まれた。
 母は豊臣(三好)秀次の娘:隆清院殿。
 母三好秀次の娘(隆清院殿)は三好清海説
  真田信繁(幸村)が高野山に幽閉されてから5年が経っていた。
・慶長16年(1611) 父:真田昌幸は死去。
13人いた家臣も帰っていった。
・慶長17年(1612) 真田信繁は出家し、好白と名乗った。



・慶長19年(1614) ある日
 豊臣の使者が
 「徳川を滅ぼすため、幸村殿の力を貸していただきたい。」
 と九度山の真田幸村のもとに尋ねてきた。
豊臣から黄金200枚、銀30貫を贈られた。
 真田幸村は快諾した。
 真田信繁は上田にいる父:真田昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけた。
 14年間も住んだ九度山では農民とも親しくなっていた。
 真田幸村親子は九度山の人々に温かく見送られながら、大坂城に
 向かった。
10月13日 真田信繁(幸村)は長男:真田大助を引き連れ
  大坂城に入城し、「お田」も「母隆清院」と共に真田信繁に
  随行し大坂城に入った。

  大坂城への籠城策が決定すると、真田信繁は真っ先に豊臣秀吉が
 築城の際に悩み込んだ大坂城の最弱部であったとされる三の丸南側、
 玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城=半円形の丸馬出を築い
 た。
 ★まるっきり、海津城の縄張りである。・・・
真田信綱の目にした城は海津城→荒砥城→上田城→沼田城→
松井田城(幸繁の初戦)→箕輪城→忍城→鉢形城→小田原城
であった。従って、
後、井伊直政の旧武田山県軍家臣:早川・孕石・三科・広瀬
などを中心に彦根城を築城した。彦根城は海津城→箕輪城
→高崎城→(真田丸を見て・・・)→彦根城鐘の丸(巨大
丸馬出に繋がった。

  真田幸繁&家臣は「赤備え」の鎧を着た。
11月 大阪冬の陣
  戦闘では鉄砲隊を用いて、先鋒隊に打撃を与えた。
  徳川勢は撤退に至った。
  真田信繁は真田丸の戦いで武名を天下に知らしめることとな
った。

  徳川家康は、力攻めから心理戦に切り替えた。
  300門以上という大量の大砲を随所の陣地に配備した。
  砲撃では国友製3貫目の大砲・イギリス製カルバリン砲4門、
  イギリス製セーカー砲1門・オランダ製カノン砲:4・5貫
  目の大砲12門も含まれている。
すでに、井伊直孝家臣:宇津木泰繁は長距離狙撃用鉄炮86挺
  の試し撃ちをしていた。
  宇津木泰繁は大坂の陣で物頭(鉄砲奉行)であった。
★カルバリン砲を井伊直孝の命で撃たせたのは、宇津木泰繁
 &宇津木次郎左衛門?であろう。 
   大砲(石火矢・大筒・和製大砲)を大坂城目がけて一斉射撃を
   した。当時の大砲は、約4kgの鉛玉を1.5km程飛ばすだ
  けのものでしたが、音が大きかった。 

真田幸繁のいる真田丸にもがんがん打ち込んだ。
 (★真田太平記:池波正太郎著)

   大坂城内にいる者に与える心理効果は絶大であった。
  そのうちの一発が、たまたま大坂城天守閣の淀殿の居間に直撃
  した。大音響が鳴り響き、侍女8人が即死してした。
   女、子供は泣き叫び、修羅場になった。こ
   強硬姿勢を貫いていた淀殿もびびりまくり、・・・
   恐怖にかられて和議を受け入れることになってしまった。
「真田丸が壊させた。」
  「お田」も「母隆清院」後もしばらくの間は大坂城で過ごした

・慶長20年(1615) 3月
   「御田」・「母隆清院」は大坂城を出て京都嵯峨野にある
   豊臣秀次の母(「隆清院の母・お田の曾祖母)瑞龍院を
    訪ねた。豊臣秀吉の姉の瑞龍院日秀尼である。
    母隆清院は真田信繁の3男:幸信を身籠もっていた。

4月下旬 大坂夏の陣
5月7日 真田信繁は討ち死にした。
5月8日 豊臣秀頼が大坂城で自害・・・豊臣氏は滅亡。

     徳川方の残党刈りが始まった。
  「御田」は町人姿で居場所を転々とした。
   隆清院は姉の梅小路家に身を隠した。
7月   「御田」の弟:幸信が生まれた。

   御田は捕らえられて、身柄を江戸へ送られた。
    大奥勤めをするという軽い処分になった。
  ★伯父:真田信之が徳川家康に掛け合ったのであろう。

・元和2年(1616) 8月 岩城家は信州川中島で1万石で復帰した。
 ※岩城氏は慶長5年(1600)の上杉景勝討伐に出兵しなかった
   ために所領を没収されていた。

・元和3年(1617)? 御田は大奥を出ることを許された。
  御田は京都で母隆清院と再会した。
  御田は四条の武家屋敷に給仕人となった。

・元和9年(1623) 岩城吉隆は1万石を加増され、由利郡亀田
(由利本庄)に移封された。


・寛永3年(1626) 8月 将軍徳川家光の上洛
佐竹義宣・弟:多賀谷宣家が随行した。
   多賀谷宣家は長兄の佐竹義宣より1字を賜って多賀谷宣家
  (たがや のぶいえ)と名乗る。
  関ヶ原の戦い後に多賀谷氏が改易されたため、実家の佐竹氏に戻り、
  久保田藩(秋田)重臣となり、初め仙北白岩城主、後に山本檜山城
  主となっていた。
ある朝、佐竹兄弟が滞在していた屋敷で、鎧兜に身を固めた一人
  の女性が指南をしていた。女性は毎日、佐竹義宣・多賀谷宣家
  の身の回りの世話をしている給仕人であった。
  佐竹義宣は由緒ある家の出身ではないかと思い、その女性に尋ねると
 「真田信繁(幸村)の忘れ形見であることが分かり、名はお田と言った。
 佐竹義宣は弟宣家が正室:多賀谷重経の娘(珪台院)と不仲であること
  を日頃から心配していた。お田を多賀谷宣家に紹介した。
 お田は多賀谷宣家の側室として、桧山に嫁ぐことになった。

◆参考サイト
田 - rokumonsen.com(真田家データベース)
http://www.rokumonsen.com/source-of-future/sanada-db/s-family/sf-bunke/h-sanada-nobushige-group/01sanada-nobushige-family/d5-den/
 (★なれそめを引用させていただきました。)  

・寛永4年(1627) 多賀谷氏が治める桧山(秋田)を訪れ
  多賀谷宣家の側室になった。お田24歳であった。

    岩城吉隆の跡を佐竹常陸介義重の4男:佐竹宜隆は継いだ。
  御田殿は長男岩城伊予守重隆、さらには長女、次男岩城隆房を生む。

・寛永5年(1628) 8月
  亀田藩主で甥:岩城吉隆(佐竹義隆)が久保田藩主の兄:佐竹
  義宣の養嗣子となったため、田の息子:庄次郎(重隆)が亀田
  藩の藩主に任じられた。
 多賀谷宣家の子:庄次郎(重隆)が岩城氏の家督を継いだ理
  由は岩城吉隆は多賀谷宣家にとって甥である。
  家督は下の立場:甥から上の立場:叔父へ移ることは慣例とし
  てなかった。従って、乳幼児:庄次郎(重隆)が継ぐしかなか
  った。多賀谷宣家は岩城藩を実質的に藩主の仕事をすること
 になった。
お田は正室になり、久保田(秋田)城下にある亀田藩邸に行っ
  ている。
  その後、お田と多賀谷宣家は亀田に移り住んだ。
 
同年8月 お田は真田氏の菩提を弔うために、
越後の妙勝寺から円乗院日砌上人を招いた。
  
・寛永6年(1629) 10月、久保田(秋田)に妙慶寺を建立した。
 お田は妙慶寺に鬼子母神の像を奉納し、お百度参りをした。
後、妙慶寺は亀田に移され、岩城氏の準菩提寺として10石を与
 えられた。

・寛永10年(1663) 岩城重隆が6才の時、初めて将軍に拝謁した。
  お田は江戸まで随行した。
  
・寛永11年(1634) 多賀谷宣家は岩城氏のしきたりに従って、
  偏諱として「隆」の字を入れて岩城宣隆に改名した。

  検地を行うなどして藩政の基礎を固めた。
★博物館には、飢饉が多かったことが書かれていたが、・・・

お田は、岩城宣隆を支える良き妻であったという。
また、お田は大名の妻でありながらオムツ替え・食事・母乳
  など育児を給仕人だけに任せず自らも行ったと言われている。
  
  お田は 庄次郎(重隆)に対しては教育熱心な母親だった
  と伝わっている。庄次郎の礼儀作法・読み書き・武術などの教育
  も熱心に教えたそうである。

  お田は岩城宣隆の許しを得て、京都から弟:三好左馬之助幸信
  を呼び寄せた。

  姉・御田と岩城宣隆のもとに引き取られた。
   元服すると三好左馬之介幸信と称し、扶持380石を与えられた。
(真田4代と幸繁:丸島和洋著)
  三好左馬之助は真田幸信として岩城氏の家臣になった

・寛永12年(1635) 6月11日田が江戸にて没した。享年32。
  岩城重隆が参勤交代で江戸いる最中に江戸柳原にある亀田藩邸で
  お田が病気で亡くなった。
  江戸・下谷の宗延寺で葬儀が行われた。
 法号は顕性院。江戸下谷の宗延寺で葬儀が行われ、

  後に供養のため、 亀田城下に妙慶寺が建立された。
 なお、長男:岩城重隆など、同藩の歴代藩主には御田殿の血を引く男子
  が就任している。

   妙慶寺には御田殿や、母隆清院殿、真田幸村三男真田幸信の位牌、
  太刀がある。
田の長女(不詳)は物心が付いた頃に母:田を亡くし、心の病に
  かかってしまい、出家して妙慶寺で田の菩提を弔う生活を送った。

・正保3年(1646) お田の長女(不詳)が妙慶寺で亡くなった。
  墓は妙慶寺にあり、法号は寂寥院殿心月日證大姉です。


・明暦2年(1656) 7月25日
   岩城信隆は番代を退き、正式に家督を嫡子:岩城重隆に
   譲って隠居した。
   岩城重隆が本格的に亀田藩藩主になった。
岩城重隆は亀田藩の礎を築いた名君として今日まで伝えられて
   いる。
   お田から熱心に教育された成果だったと言われている。

現在 
岩城家後家譜には
「真田伊豆守信幸公御姪、御同氏左エ佐幸村公女」と記されている。
(★お城型の博物館)
妙慶寺にはお田の方、隆清院、幸信の位牌と大小刀がある。

『真田十勇士』の中に出羽亀田城主の末裔という三好清海入道、三好伊三
(為三)入道の兄弟が登場する。
『真田十勇士』:講談師玉田玉秀斎立川文庫の著者が三好氏から秀吉の
 養子になった豊臣秀次の孫:御田殿が出羽亀田:岩城家に嫁して、
亀田藩主の正室だったことを知って名前などが創作された可能性が大
きいと言われている。
基本的な構成は、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、
穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の
10人となっている。  

〜〜〜大阪城〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●大阪「大阪城」・・・ごめんね。古くて?
http://53922401.at.webry.info/201101/article_34.html

箕輪初心■和歌山「高野山&熊野古道」=世界遺産
http://53922401.at.webry.info/201101/article_33.html
★九度山の前をバスで通ったが、・・・
★高野山の真田の墓は見つからなかった。

〜〜〜東北〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●宮城:白石城&城下町
http://53922401.at.webry.info/201307/article_23.html
★真田幸村の3女:阿梅が片倉小十郎の妻

箕輪初心●福島:三春の滝桜&『三春城』 
http://53922401.at.webry.info/201306/article_13.html
★真田幸村4女:あくりが蒲生郷喜一族室:三春城

箕輪初心●秋田由利本荘【高城&亀田城&天鷺村】亀田2万石
http://53922401.at.webry.info/201205/article_6.html
★真田幸村の5女:なほ:御田姫が岩城宣隆室:亀田城(秋田県)



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