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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城201井伊直政19▲【箕輪城時代〜高崎城時代の家臣団】修正版

<<   作成日時 : 2016/07/17 09:54   >>

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井伊達夫氏は【井伊軍志】の中で、天正18年(1590)の
箕輪城入城時〜慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いまでの期間は、
士(侍)大将&準(准)将クラスを17名、
足軽大将&準衆クラスを18名+3名〜4名としている。

天正18年(1590)年の秋=旧暦の8月3日〜7日の間に
箕輪城に入封して井伊直政の家臣が増えた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い=高崎城時代には、
井伊直政の精鋭部隊800人を先峰とした3600人
が出陣した。秋山太郎先生は、「総数1250騎5000
人の大部隊になっていった。」と話された。しかし、多く
見積もると7000人かもしれない。木俣などは馬一騎
に対して8〜10人1セットである。
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 (★箕輪城の井伊の旗)

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・井伊達夫氏サイン付
画像

@旧与板藩主・・・中村達夫→井伊達夫(京都甲冑博物館長)
A旧彦根藩主・・・井伊岳夫(彦根城博物館長)





◆◆ 家臣団の増加 ◆◆
【1】第1期・・・井伊家先祖代々の家臣
   井伊家宗家+家臣+親戚衆家臣
        

【2】第2期・・天正3年(1575) 虎松(=井伊直政)が
   松平元康(=徳川家康)へ出任時。
   松平は万千代の名+300石を与えた。
+井伊直政付与力など

【3】第3期・・天正10年(1582) 武田氏滅亡後?
  1月 木曾義仲は織田に臣従。
     今福などと戦った。
  2月 織田の伊那侵攻
     正確には徳川家康の取次:下条頼安・・・ 武田氏滅亡
  8月 天正壬午の乱の途中から
  徳川家康の命により井伊直政付きになった者
    250騎=1000人程の家臣ではないだろうか?

  ※山県昌景の家臣は75人が含まれている。
  (★高崎市史)
    箕郷に山県昌景の子孫もいるという。
    井伊直政は井伊谷4万石に加増。  
    
※天正12年(1584) 小牧長久手の戦い後、
4万石→6万石に加増。



【4】第4期 ・・天正18年(1590)北条氏滅亡後、
   箕輪城12万石の加増。 
   徳川家康の命により井伊直政付きになった者  
  +庵原朝昌(今川家老家→武田勝頼→・・)


【5】第5期・・・天正18年(1590)以降〜
井伊直政家臣団の増強で加入した者
@旧長野業政・業盛の関係者・旧家臣団
   侍大将:安藤重勝など・・
     墓は松下家同様、高崎箕郷の龍門寺
 A旧後北条家家臣であった者


【6】第6期・・・慶長5年・・慶長5年(1600)以降
  高崎城時代には、1250騎5000人〜7000人の
  大部隊になっていた。




●● 井伊直政の箕輪城時代の家臣団 ●●
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数字・・・中村達夫氏は掲載した代表的な家臣
印・・・Hpなどで、私が調べた家臣
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@木俣土佐守守勝 (?〜?)
div align="center">画像
・天正10年(1582) 10月29日徳川&北条の和議
 井伊直政&木俣守勝が和議の交渉に当たった。
  

  徳川家康の命により
  井伊直政付家老。筆頭家老。
  木俣守勝の妻は、新野左馬之助の再婚の娘。
◆◆ 箕輪初心★【木俣守勝】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201012/article_1.html





A松下源太郎=松下豊前守・志摩守清景
井伊直政の母の再婚相手=井伊直政の養父
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 ○松下源太郎の養子:松下一定 
   中野直之の子(中野三孝の弟)。
   松下清景の養子。志摩守。 
  墓は上州箕輪龍門寺。
 ○松下源太郎の実子:松下高冬 (?〜1640年)
    松下一定の子。
  墓は箕輪(高崎市箕郷町)龍門寺。
   3代で断絶。
 ★高崎市箕郷町西明屋に子孫がいる。
  松下染め物店・・・家紋が同じ。(★西原巌氏調べ)

 
◆◆ 箕輪初心★【松下源太郎】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201102/article_24.html
◆◆ 箕輪初心★【きつねの嫁入り&稲荷曲輪】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201209/article_29.html
浅野家文書に「木俣」「松下」・広さが見られる。
画像




B鈴木石見守重好=井伊三人衆:鈴木重時の子
★鈴木重時の妹は、父:直親の母。
  鈴木重時は井伊直政の実の祖母の兄。
★鈴木重時も井伊直親も奥山朝利の娘が妻。
★鈴木重好の次男は井伊直政の娘:采女が妻。
画像
  


C近藤秀用=井伊谷三人衆:近藤康用の嫡子
・天正12年(1584) 小牧・長久手合戦
 徳川家康の命により、井伊直政付家老。 
  
  井伊直政と仲はすっきりしないのだ。
  箕輪城移封直後、ただ一人、
  「江戸へ帰る。」と言い張ったが、青森九戸
  出陣で、たちぎれた。
(★『井伊軍志』井伊達夫著)

 ※高橋さんの話
 「おそらく、箕輪城南500mの車郷小学校の南=箕輪町富岡
 の高橋家の場所に屋敷を持っていた。元は長野業政の
 従兄弟:長野直業の城で、車郷小学校やJAはぐくみをも
 含めた広大な城であったと考えている。
 私も賛成している。




D菅沼忠久 (?〜?) 井伊三人衆。
 ★菅沼忠久の妻は、鈴木重時の娘。 
・天正12年(1584)  小牧・長久手合戦
 徳川家康の命により、井伊直政付家老。


E椋原(むくはら)次郎左衞門政直(?〜?)
 ・天正10年(1582) 徳川家康の命により
  木俣守勝とともに井伊直政付家老。
 

F西郷伊代守正員=正友・市十郎・藤左衛門(?〜1604)
・先祖の西郷稠頼が岡崎城築城。
・永禄3年(1560)桶狭間の戦い
   今川義元が戦死
 松平元康(=徳川家康)が岡崎城に入城。松平氏を再興。
 西郷正勝は次男:清員を人質に出して徳川家康に従属。
・永禄5年(1562)浜松の朝比奈の侵攻を受けて、西郷正勝と
  嫡男:西郷元正が戦死。
  西郷元正の子:義勝が継ぎ、叔父:西郷清員が後見。

・天正3年(1575) 武田氏の秋山信友が三河設楽郡に侵攻。
西郷義勝が戦死。
 徳川家康は清員の嫡男:家員に西郷宗家を継がせた。
  西郷義勝の妻は西郷清員の養女として徳川家康の側室:
  西郷局となり、3男:徳川秀忠と4男・松平忠吉を産んだ。
 後・・・・4男:松平忠吉の妻は井伊直政の娘。

・天正15年(1587) 徳川家康の命により井伊直政付家老
 2000石。
・天正18年(1590) 関ヶ原合戦
 西郷正友が箕輪城留守居城代となった。
2代:西郷重員が参戦し戦功をあげた。
 井伊家筆頭家老:鈴木重安と並ぶ勢力を誇った。
○西郷重員 (?〜1609) 3000石。 早世
○西郷員吉 (?〜?)
 大坂の陣後、わずかな加増で3500石。
第4席家老。
  妻は椋原正長の娘。
 

G中野助太夫=中野越前守三信 (?〜?)
 
※井伊直氏の弟:中野直房を祖とする親戚衆。
  

H河出主水良則 
 三河の河手城主:河手主水助景隆の嫡子。
 武田家山県隊に所属。
・天正3年(1575) ◆長篠戦い→武田軍の敗戦。
徳川家康の配下
・天正10年(1582)徳川家康の命により井伊直政の配下
※妻は井伊直政姉:高瀬姫(春光院)。


I広瀬美濃守景房 (?〜?)
  武田家の板垣衆→山県衆へ。
 ・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家康の命により井伊直政付家老。
  井伊直政付大将になり、三科形幸・早川幸豊らと
  赤備えを作った。
  彦根城築城にも功があった。


K三科肥前守形幸 (みしななりひで) (?〜?)
 武田家家臣:山県衆
 ・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家に仕え井伊直政付家老。
 ・天正12年(1584) 小牧長久手の戦い
  長篠の敗戦から、井伊直政の一騎駆けを諫めた。
  徳川家康は石川数正が徳川家を出奔し信濃松本城主
  になったため、徳川家の戦略が筒抜けになることを恐れて、
  井伊直政に広瀬や三科より山県昌景の兵法戦術を学ばせた。


石黒将監(?〜?)  
 ・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家康の命により井伊直政付足軽大将。
高崎市に子孫がいる。



今福求馬介  
・天正10年(1582) 木曾義仲の織田臣従。
   木曾軍と戦った。
   2月、飯田城落城後、徳川家臣になった。
   3月 武田家滅亡後、
   徳川家康の命により井伊直政付足軽大将。


辻弥兵衛盛昌 
  ・天正10年(1582)武田家滅亡後、
   40騎の部下を引き連れて徳川家康に出仕。
  徳川家康の命により井伊直政付き侍大将。
  

越石(輿石)主水  
  ・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家康の命により井伊直政付御供衆
  

小幡孫次郎
  小幡重貞=信貞=信実の「赤備え」(上野国甘楽出身)の子。
 小幡光重の子孫:小幡正俊は徳川家康に仕えた。




◆◆天正18年(1590)の小田原城攻撃前後?
L石原主膳吉次(?〜?)
武田家家臣:山県昌景の鉄砲奉行。
  叔父は武田24将:三枝
  (★石原家文書)。
 ・天正10年(1582)武田氏滅亡後
  後北条家家臣(★中村達夫氏の研究)
  北条氏政の鉄砲奉行
 ・天正18年(1590)北条氏滅亡。
 徳川家康に旧領を賜り、井伊直政付家老。
   井伊直政の旗奉行
 ★高崎市にも子孫がいる。


M孕石備前守泰時
  駿河出身。山県昌景家臣。
 ・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家に仕え井伊直政付家老。 
  井伊直政に仕えて1500石。旗奉行。
  彦根城築城にも功があった。


N三浦与三郎元貞(?〜?)

  ・天正18年(1590)北条氏滅亡。
  井伊直政付家老


O横地与三郎吉晴 (?〜?)
 ・母:源頼朝妹&父藤原鎌足系工藤→遠州二階堂家→
  横地一族の本家。分家は戸塚左太夫正次
  1000石→加増。
 

P奥原六左衛門朝忠
甘利昌忠の妹婿:安中景繁=
   忠成の家老

 ・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家康の命により井伊直政付御供衆



Q長野伝蔵業実

高崎市箕郷町に子孫がいる。
箕輪初心★箕輪城91【井伊直政家臣:長野業親→長野業実とは?】  
http://53922401.at.webry.info/201212/article_16.html



内藤昌月(まさあき)
 内藤昌豊の養子=保科正俊の子&保科正直弟説が有力説
 
・天正10年(1582)
  3月、武田勝頼自刃。
箕輪城代:内藤昌月は、織田家家臣:滝川一益の
 家臣になった。父のいた保渡田城に移った。 
6月、本能寺の変→神流川の戦い。
北条氏邦の家臣
  兄:保科正直は武田信玄家臣→北条家家臣になった。
 ・天正16年(1588)内藤昌月が死亡。
   
 ・天正18年(1590)の豊臣秀吉の北条攻めの北国軍
  前田利家&上杉景勝軍の真田昌幸3000に箕輪城
  塀和信濃守と兄:保科正直が明け渡した。
  北条家滅亡。
    
 長男・次男は甲州若神子で帰農。
 ★長篠城祉保存館の元館長:丸山先生は、
「長野県旧八千穂村に内藤昌豊の子孫がいる。」
と書いている。
 
 →3男:内藤信矩は井伊直政家老
  (彦根城博物館の本・彦根城初期の地図)
  
  @保科正直は、徳川家康とは異父兄弟の間柄であり、
  孫は保科正之で、後に会津藩主となった。
内藤昌月のB男系も会津藩家老になった。
  家は西郷頼母の家の西隣(現会津若松市役所)。
  A幕末の会津藩家老:西郷頼母は、井伊家家老:西郷
  家の分家である。
  B遠い先祖の分流には薩摩西郷氏の西郷隆盛がいる。
 

箕輪初心:生方▲【武田氏の箕輪城領国支配C不在時代、D内藤昌月
〜E北条家臣:内藤昌明】
http://53922401.at.webry.info/201607/article_4.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201607/article_4.html

箕輪初心▲箕輪城147【善龍寺】=長野業正長男:長野吉業の墓
・内藤昌豊&昌月の墓=会津藩
http://53922401.at.webry.info/201412/article_7.html
画像






【3】井伊直政の足軽大将クラス
19 脇又市豊久
※旧武田家家臣。足軽大将本郷八郎左衛門の甥。
  土屋昌恒の物頭(鉄砲奉行)。
  長篠の役で鉄砲傷を受け退却
・天正10年(1582)武田家滅亡後、
土屋惣蔵昌恒の妻子を守り駿河に落ち延び、
徳川家に仕官・
  徳川家康の命により、井伊直政付家老職720 石。




20戸塚左太夫正次(横地家分流)
母:源頼朝妹&父藤原鎌足系工藤→遠州二階堂家→
  横地一族の分家:戸塚家
徳川家の血縁閑係で徳川家重臣や井伊直政の重臣へ
  @徳川家康&戸塚忠春娘:於愛との血縁 
  A徳川家康義弟:松平定勝の筆頭家老:戸塚政輝
  B井伊直改の家老職:戸塚正次&同族:横地吉晴
  C井伊貫名家と戸塚左太夫家子孫(正紹・正札)養子縁組
高崎市箕郷町西明屋・原中にも子孫がいる。
  友達のマーちゃんも。




21 長坂十左衞門(?〜?)
・天正10年(1582)武田家滅亡後、
  徳川家康の命により井伊直政付御供衆
高崎市浜川?にも子孫がいる。
 


22 岡本半介宣就
  小幡信貞の第1家老:熊井土の息子
・天正10年(1582)武田家滅亡後、北条氏政家臣。
   小笠原流上泉流軍学作法の継承者。
・天正18年(1590)
  徳川家康の命により井伊直政付軍監
★群馬県富岡市岡本:サファリパークが所領:父の隠居所。
高崎市箕郷町柏木沢にも子孫がいる。

箕輪初心★箕輪城96【井伊直政家臣:岡本半介宣就】
http://53922401.at.webry.info/201301/article_9.html

23松居武太夫清易


24長田権右衞門


25小野田小一郎為祐


26川(河)手 新左衛門
※河出一族


27安居東右衞門


28海老江庄右衞門里勝


29宇津木治部右衛門泰繁 (?〜?)
・宇津木氏久は武田氏家臣
 北条家臣・・・・御朱印使用

 宇津木氏久(上野国玉村)の子・宇津木泰繁。
  砲術稲富流を学ぶ。
・天正18年(1590)
3月5日 山中城勤務(★宇津木家文書)
3月17日 山中城落城。
    ★おそらく、宇津木泰繁は井伊直政傘下に
3月19日 足柄山城を攻略に貢献しのであろう。
6月     井伊直政は小田原城笹郭に侵攻。
7月5日  小田原城開城。12日北条氏滅亡。

7月下旬 宇津木泰繁は箕輪城付近の北条反乱分子
   の収拾役として石原主膳らと乗り込んだ。
  父:氏久に代わりに井伊直政付 御鉄炮吟味役。
 
 九戸の乱(青森)に出陣。
 戦功功により上野福島(高崎市吉井)に600石を賜った。
 徳川家康より拝領した具足と脇差も賜った。
・天正20年(1592) 父の258石を継ぐ。
・慶長5年(1600) 関ヶ原合戦で物頭(鉄砲奉行)。
・慶長7年(1602) 井伊直政の遺言により200石を加増。
・慶長17年(1612) 徳川家康はイギリスから
  カルバリン砲4基など新式大砲を購入した。
 宇津木泰繁は長距離狙撃用鉄炮86挺の試し撃ちを
  敢行した。

・慶長19年(1614)大坂の陣で物頭(鉄砲奉行)。
カルバリン砲を井伊直孝の命で撃たせたのは、宇津木泰繁
 &宇津木次郎左衛門?であろう。 たまたま大坂城天守閣
  にあたって、淀殿がびびって和議を申し込んだ。 


  真田幸繁のいる真田丸にもがんがん打ち込んだ。
 (★真田太平記:池波正太郎著)
・元和元年1615) 徳川秀忠に鉄炮の腕を上覧。
計2200石の家老に昇進。
高崎・玉村・前橋にも子孫がいる。
 

30早川弥惣左衞門幸豊
 旧武田家家臣。武田信玄→武田勝頼に仕えた。
  馬場美濃守信房流・山本勘介流(甲州流)の築城法を
  山県昌景より伝授された。
 ・天正10年(1582)徳川家康の命により井伊直政付
  足軽大将になった。
 ★甲州・徳川流・後北条流をマスター
 @箕輪城の改修工事  
 A高崎城の築城(北条流畝堀が残存・5角形の丸馬出)
画像

 (★高崎城本丸の畝堀
    発掘調査平成21年1月6日)
 B彦根城の築城(一城別郭構造・鐘の丸は丸馬出)
 ★築城術は早川弥惣左衞門幸豊が東日本bPであろう。



西山内蔵丞
 ・天正10年(1582)武田滅亡後、井伊直政の家臣。
 ★子孫は、高崎市箕郷町原山にいる。

齋藤半兵衛 (?〜?)
 ・天正10年(1582)武田滅亡後、井伊直政の家臣。
 

飯島半右衛門 (?〜?)
 信濃飯島城主→和田城勤務。
 ・天正10年(1582)武田滅亡後、井伊直政の家臣。

箕輪初心:生方▲伊那『西音寺&飯島城遠望』:片切氏分流飯島氏の城
http://53922401.at.webry.info/201606/article_11.html

 
成嶋勘五郎 (?
 ・天正10年(1582) 武田滅亡後、井伊直政の家臣。

曲淵正左衛門吉景 (1518-94)
 信濃境の曲淵村。
 旧武田家家臣・・板垣信方板垣同心→山県隊。百貫。
 ・天正10年(1582)井伊直政の家臣


庵原朝昌(いわらともまさ)
 @旧北条氏照家臣:狩野一庵の子:庵原主膳説
     ★新野左馬之助の6女は狩野一庵の妻。
      新野左馬之助の娘は庵原主膳を連れて、
      木俣守勝と再婚。
A北条氏照落胤説?
   B旧今川家家老:庵原之政の子孫説? 
   父は今川家家老。今川義元の軍師:太原雪斎も一族。
  
  武田信玄→戸田勝隆→井伊直政1500石
  井伊直政と喧嘩して出奔→水野勝成200石
 →井伊家に再仕官。井伊家家老
・慶長20年(1615)5月、大坂夏の陣
豊臣軍・・・木村重成。長宗我部盛親
  徳川軍・・・・井伊軍
   井伊家家臣:安藤重勝(元長野家重臣)か庵原朝昌
  が木村重成を討った。庵原朝昌が戦攻を譲ったらしい。
・・・400石加増。4000石

  大坂夏の陣では筆頭家老:木俣守勝の代わりに兵を指揮。
  庵原朝昌は後に4000石の家老。
  いわら・・・中村達夫氏のふりがな。
  いはら・・・多くのHpのふりがな。
  

31三浦十左衞門安久
旧北条家家臣
・天正18年(1590)北条氏滅亡後に仕官か?
・文禄元年(1592) 文禄の役
  井伊直政は挑戦に出兵しなかった。三浦十左衞門安久が
  使者として戦いに加わり、人質を捕らえて帰国した。
  井伊直政から褒賞された。
(★元禄4年1691 彦根藩士由緒書記:彦根博物館)

 ・慶長19年(1614)大阪冬の陣
真田丸の攻防戦で、松平忠直軍と先を争って攻撃し、
  井伊軍が敵の砦の塀下に攻めよっていた。
  徳川家康から命が下され、井伊直孝から三浦安久と岡本
  半介宣就に兵の引き上げが命令が下された。
  三浦は、「自分が言っても引き上げることはできないの
  で、(直接)井伊直孝様の采配=指示を下さるようにお
  願いいたししまする。」申し上げたので、引き下がった。
(★中村達夫氏=井伊岳夫氏「井伊年譜」)



32沢村角左衞門全道・・・★不明


33大久保新右衞門定秀
・天正3年(1785) 井伊直政が徳川家康に出仕。
そのまま、徳川家臣から井伊直政付同心衆。

34大鳥居玄蕃満経・・・★不明


35今村源右衞門正盛
★古くからの家臣・・井伊直政の
幼少時代に、鳳来寺から、伊那(長野県飯田)
松岡城に送り届けた。

36今村小兵衛正□
今村源右衞門正盛の子。

37熊井戸半右衛門 (?〜?)
小幡信貞の第1家老:熊井土(岡本)家一族
・天正10年(1582)井伊家家臣。足軽鉄炮隊隊長。
・天正12年(1584) 小牧長久手の戦い
 3000挺の足軽頭(鉄砲奉行)
 
 
38八股甚左衛門 (?〜?)
 ・天正3年(1575) 井伊直政が徳川家康に出仕。
同時に井伊直政付同心衆。


柏原総左衞門
 武田家の原隼人衆→井伊家
 ・天正18年(1590)箕輪で井伊家に仕官。
  井伊家の赤備え。
 ・慶長7年(1602) 800 石。

犬塚求之介正長
武田家臣:小幡信貞の家臣で、小幡孫次郎の相棒。
・天正10年(1592)武田氏滅亡後、
徳川家臣から、井伊直政付同心衆。

 
野呂助惣・・(★中村達夫氏は宇津木家文書では)
★小牧山の戦いで死去した野呂助豊の一族。

萩原図書 (?〜?)
 上州群馬県:後閑の武将。旧安中景繁=忠成の家臣。
 ・文禄4年以降、井伊直孝を養育。
 (★西原巌氏の「箕輪城考」で掲載)
 ★安中市にも子孫がいる。


加藤新左衛門 (1559〜1591)
 ・天正19年(1591) 青森県の九戸征伐に従軍。
  井伊直政の命で、自刃。
 

長野無楽斎 (?〜1649)
 上州群馬県の長野業政叔父:長野業通の子。


 
長野常陸介主善・・・★不明  
 姉川の合戦で朝倉家臣:真柄十郎左衛門直澄を
 討ち取った。
 上野箕輪の長野業盛の息子と(伝)・・・★不明。
 徳川家康の関東移封。
 井伊直政付き家老:高崎で国家老。
画像


箕輪初心★箕輪城91【井伊直政家臣:長野業親→長野業実とは?】
http://53922401.at.webry.info/201212/article_16.html

箕輪初心▲箕輪城141【永禄9年(1566)箕輪城落城後の長野氏】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_12.html







◆◆ 井伊直孝の井伊家家臣 ◆◆
 1659年(万治2年)井伊直政が死去。享年70歳。
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 ○井伊直継・・・直政の長男。彦根藩2代当主。
  幼少の頃より病弱で直孝に当主の座をすぐに譲る。
  後に直継は直勝と改名して、上野国安中3万石。
 
○井伊直孝・・・井伊直政の次男。彦根藩3代当主。





元禄4年(1691)の【彦根藩士由緒書記:彦根博物館】
@筆頭家老・・木俣家10000石。
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 木俣守勝は土佐郭から月に20日は、本丸西の櫓台
 に詰めていた。
  (★井伊軍志:井伊達夫著)

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 (★彦根城通用門枡形の右の木俣家)

A次席家老・・・庵原(いわら)家5000石
 

B3席家老・・・長野家4000石 
   ※箕輪城の長野業政業盛の子孫。養子:業親子孫。
 


C河手家4000石
  ※井伊直政姉:春光院の嫁ぎ先の家系。(側室)

D西郷家3500石
  ※徳川家康臣:西郷元正の子。西郷局の従兄弟。

E中野家3500石  
  ※井伊直氏の弟:中野直房を祖とする家系。
  
F小野田家3000石
  ※旧後北条家家臣
  
G横地家2600石
  ※旧後北条家家臣
  
H三浦家2500石
  ※旧後北条家家臣
  
I宇津木家2500石
  ※上野国の玉村の領主。
  北条氏滅亡の時、玉村にいた。→井伊家へ
  
J貫名家2300石
  ※井伊良直の弟:貫名政直を祖とする家系。
  
K新野家2000石
  ※井伊直政を助けた譜代重臣の家系。
  
L脇家2000石  
  ※旧武田家家臣。足軽大将本郷八郎左衛門の甥。
   土屋昌恒の物頭。
  


M岡本家1950石
  ※武田24将の一人:小幡重貞の家老。
 ★長野家と親戚の家系という説もある。

箕輪初心★箕輪城96【井伊直政家臣:岡本半介宣就】     
http://53922401.at.webry.info/201301/article_9.html   


N松下家200石
   ※井伊直政の実母の再婚相手
   養父・継父の松下清景の家系。3代で断絶。
   墓は高崎市箕郷町西明屋の龍門寺。


◆その他の有力家臣・・・足軽大将クラス
沢村角右衛門家 2000石
増田次右衛門家 2000石

内藤五郎左衛門家 1500石
 

内藤昌豊の養子=保科正俊の子&保科正直弟説
→内藤信矩・・・

印具徳右衛門家 1500石
 (井伊直孝の母生家)

西山内蔵丞家 1300石

犬塚求之介家 1200石
椋原治右衛門家1200石
松平倉之介家 1200石

勝平次右衛門家 1000石
広瀬郷左衛門家 1000石
吉用隼之丞家 1000石


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