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zoom RSS 箕輪初心:生方▲2016【高崎の用水路開発&長野堰の歴史】大修正版

<<   作成日時 : 2016/07/01 07:01   >>

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高崎台地の水田開発・・・弥生時代には高崎市並榎町の水田跡、
古墳時代には、将軍塚古墳(前方後方墳)〜保渡田古墳群〜
綿貫古墳群〜倉賀野古墳群があることから当然用水路が引かれ
水田耕作をしていた。古墳時代には、高崎台地に水田があった
こと分かる。矢中には長野堰に相当する巨大用水路があった。
天文年間(1531〜)から箕輪城主:長野業正は祭戸用水・十二堰
&早瀬川を開発し?天文20年(1551)頃〜 長野堰、弘治年間
(1555〜)?本郷堰&弘治3年(1557)長純寺堰を開発した。
慶長3年(1598)井伊直政が本城を箕輪城から高崎城に移す際、
長野堰から現住吉町の新井堰の工事をし、高崎城のお堀=城の
防御用水・防火用水・生活用水・農業用水の役割を担った。ま
た、鍛冶町に武器製造業、紺屋町(こうや町)に染め物業(工
業用水)などを置いた。明治に「でぬぐいの町」・製糸業・製紙を
発展させるきっかけを造った。私は長野堰研究は7〜8年前
から始めている。高崎市から委嘱で『箕輪城→高崎城』の研究を
している。今日の内容は大学院論文の素案である。
画像


※平成28年(2015)6月24日〜28日まで高崎シティギャラリ
ーで、中嶋宏氏の主唱する【長野堰を語り継ぐ会】の長野堰
の絵図展が開催された。。★中嶋氏・西山氏・清塚氏・井田氏
らの「長野堰」研究は実に素晴らしかった。ジオラマの作成に当た
っては史料?資料を根拠に作成した。また、同級生の協力体制も
見事であった。客は2056人?。
ガイド:西山氏のSubであったが、「真田丸」と井伊直政・箕輪城
→高崎城の関係を話をして、たくさんの拍手をいただいたので
充実はしていた5日間であった。関係の皆さんに、感謝申し
あげます。


【1】弥生時代
1)弥生時代初期
   佐賀県の菜畑遺跡・・初期の水田跡や木製農具などが発見。
   福岡県の板付遺跡・・初期の水田跡や木製農具などが発見。
■新保遺跡(高崎市新保町)・・農具発見。
 関越自動車道建設に伴う発掘調査では、弥生時代前後の古い川の跡
  から大量の木で作られた農具が発見された。
  形は今の農具とほとんど同じであった。
  ほとんど木で作られていた。当時、鉄は貴重品であり、農作業用
  などの製品として使われていなかったと考えられている。堅い木
  を選び、石斧(おの)で木を切り薄く加工していた。
          (★群馬県埋蔵文化財の本より編集) 

2)弥生時代中期
  静岡県の登呂遺跡・・矢板で囲まれた水田跡と、竪穴住居跡や
    掘立柱建物の倉庫跡などが発見。
■A並榎北遺跡(高崎市並榎町)・・・水田跡


3)弥生時代後期
 青森県垂柳(たれやなぎ)遺跡・・・・水田跡  
  暖かい地方から==(北上)==寒い地域に
■A群馬県の並榎北遺跡(高崎市並榎町)
   群馬県内で二番目に古い水田で、弥生時代中頃の水田である。
               (高崎市教委調査報告書)

■B日高遺跡(高崎市日高町:日高病院北200m線路脇)
 ・昭和47年(1972) 関越自動車道の建設に伴う発掘調査開始。
 ・昭和51年(1976)〜53年(1978) 日高の発掘調査。
  4世紀古墳時代始め頃に浅間山が噴火した火山灰で埋もれた
    水田跡を発見。
  ※弥生時代の水田跡、方形周溝墓、壺棺墓、井戸跡、木製品、
    土器類、獣骨類、種子類などが出土した。
  1,700年前の水田跡・
     周囲より一段低く湿った低地に不規則な形にあぜや水路。
     水田面の足跡・・・2人の足跡。
     1人は身長161p前後で少しやせ型と判明。   
  ※平安時代も水田跡、木製品、土器類、獣骨類、種子類など
    多数の発見。
 ・昭和54年(1979) 国指定史跡指定のための範囲確認調査が実施。
   ※弥生時代の住居跡、墓址を検出。谷地形における弥生水田跡
    の範囲の確認。
   →弥生時代後期の小規模な村落を知る上で極めて重要である。
   (昭和60年10月1日現在未告示)
 ・平成元年11月9日に国指定史跡に指定。
   日高遺跡は、古墳時代の田んぼが現在まで残った全国的にも
   めずらしい遺跡である。
 ・平成22年(2010) も発掘調査をしている。
      (★群馬県埋蔵文化財・高崎市教委より編集)

■C下芝遺跡(旧箕郷町さわやか交流館南)
   区画整備事業の際、千枚田跡が発見された。
    保渡田古墳群の北西500mの所であり、
   下芝谷つ古墳の北、300m地点に当たる。
     そして、井野川の北に当たる。



【2】古墳時代
1)萩原団地遺跡&元島名将軍塚古墳  
  萩原団地遺跡・・高崎ICの南東部に当たる。
   造成前に千枚田跡が発掘された。
  ★元島名古墳の主が水田開発をしたのであろう。
 若狭徹氏の「濃尾平野からの移民説」では、井野川の中流域の開発には、
  弥生人の技術がなく、長良川・揖斐川・木曽川の下流域の水田耕作を
  制した人々の移民によるものだと考えている。4世紀の遺構である。
※高崎市立歴史民俗資料館に出土品の壺が3個体ある。
★私は学芸員:大工原美智子先生に
  「壺の厚さから群馬県の土では、粘りけがなく、こんな40〜50
   cmの壺で厚さ5〜6mmは無理です。おそらくは、尾張など、
   美濃焼?(常滑焼?)の可能性があるのではないでしょうか?」
と話したが、鑑定中である。

2)三ツ寺遺跡&御風呂遺跡&保渡田古墳群 
 ●三ツ寺遺跡(旧群馬町:群馬南中学校西300m・上越新幹線の東)
 ■訪問記・・・発掘調査中に行ったが、記憶は定かではない。
 現在は上越新幹線の高架下に埋め戻され、遺跡自体は見られない。
 ※発掘調査で、全国で初めて古墳時代の豪族の館として発掘された
  遺跡。発掘調査が群馬町時代の若狭徹先生である。現高崎市文化財
  保護課課長である。
  
  @館・・・出土遺物から5世紀後半から6世紀始めの頃のものと
   考えられている。
     水濠で囲まれた中に柵をめぐらせ、堅穴住居や掘立柱の建物、
     石敷の遺構 館、倉庫、祭祀の場、従者の住居などがあったと
     考えられている。
  A水堀・・古墳の葺(ふ)き石と同じように石を葺いた水濠がめぐっ
      ていた。壕の中から建物や祭祀の跡が発見された。
  B墓・・・・館の主は、近くの保渡田古墳群の大きな前方後円墳に埋葬
    されたと考えられている。
   →三ツ寺I遺跡が発見されたことで、古墳時代の豪族の館や暮らし
       の様子がわかるようになった。
 (群馬県埋蔵文化財)
  
 ※「かみつけの里博物館」・・・館想像模型図・出土遺物が展示。
 (★若狭先生)
    
 C御風呂遺跡(=現浜川運動公園)・・千枚田跡
 1980年頃の約30年前に発掘調査現地説明会に参加 
 榛名山の2回の大噴火があった。   
  1回目・・5世紀末。火砕流が山麓を流れて下ってくるタイプ。
  2回目・・6世紀中頃。焼けた人頭〜拳の大きさの軽石が空
       から降ってくるタイプ
  高崎の箕郷地区や長野地区は大規模の噴火で壊滅した。
 もちろん、北部の渋川にも壊滅した。黒井峯遺跡からは足跡や鋤が
  発見された。
  発掘調査は、3〜2mの軽石層&黒い土石流の層をはがした下から、
  「噴火以前黒土の台地」を発見した。
   そこは、現在の浜川運動公園である。
造成前の発掘調査では、規則正しい2m×2mの畦のある水田である。
 「千枚田」である。
これは、棚田の一種である。本の少しだが南傾斜している土地を少ない
 労力で水田開発を
する古代の稲作の知恵である。
 この稲作の推進者は、三ツ寺の館に住む大王である。
御風呂遺跡から三ツ寺館までは、井野川を挟んで、400m程である。
 そして、大王は
保渡田古墳群に埋葬されたのである。
     (高崎千年物語:若狭徹著・遺跡調査報告を参考に編集)

3)北谷(きたやつ)遺跡(群馬県高崎市旧群馬町引間)
 ・平成12年(2000)三ツ寺I遺跡から約3kmの北谷遺跡が、
   5C末の豪族居館と判明。
  北谷遺跡はほぼ三ツ寺I遺跡と極似。石積の堀の立ち上がり、張
   り出し部、内側の
  盛土などが顕著に出土。
 弁天谷と染谷川に挟まれた旧地形を利用した上に盛土跡があった。
       (群馬県埋蔵文化財・高崎市市教委報告書)
  後に箕輪城主:長野業政の家臣:小沢?・依田?が引間城として
    使用している。 帰農した依田一族・・・・

4)倉賀野古墳群
  @浅間山古墳 (墳丘長:171.5m国史跡)
  A大鶴巻古墳(墳丘長122m、国史跡)
  B小鶴巻古墳(墳丘長80m)

5)綿貫観音山古墳&不動山古墳
  井野川西岸に築造されている。
 綿貫観音山古墳(墳丘長97m)

6)佐野古墳群・・・80基あまりあった
漆山古墳(墳丘長70m)

古墳を造った人々(韓国系)の田畑が必要で当然、用水路が
 築かれていた。
 (★若狭徹博士に確認済)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心◆【高崎の古墳群9地区】復刻版
http://53922401.at.webry.info/201410/article_11.html

箕輪初心◆群馬の古墳@元島名将軍塚古墳
http://53922401.at.webry.info/201103/article_21.html

箕輪初心◆群馬の古墳A浅間山古墳172m=東日本bR
http://53922401.at.webry.info/201103/article_22.html

箕輪初心◆群馬の古墳C=保渡田古墳群
http://53922401.at.webry.info/201103/article_24.html

箕輪初心◆群馬の古墳D「八幡古墳群&若田原古墳群」
http://53922401.at.webry.info/201103/article_25.html

箕輪初心◆群馬の古墳F「高崎:上小塙稲荷山古墳&箕郷の古墳」
http://53922401.at.webry.info/201103/article_27.html

箕輪初心◆群馬の古墳H「綿貫古墳群」=群馬最大の石室
http://53922401.at.webry.info/201103/article_29.html


【3】白鳳時代

・607年  各国に屯倉(みやけ)を設置した。
(★日本書紀)
    屯倉は天皇:ヤマト朝廷の直轄地である。
・???年頃   緑野屯倉(みどののみやけ)が置かれた。
・610年頃   佐野の屯倉(みやけ)が置かれた
   高崎市の佐野〜倉賀野? 

・645年 大化の改新 ★信憑性が疑問視されている。
・7C後半頃 漆山古墳が造られた。
  ヤマト王権の直轄地「佐野屯倉(三家)=さののみやけ」の推定地
  にあたる。
  山上碑は、佐野屯倉(三家)管理者の子孫:僧:長利(ちょうり)
  が建てたもので、金井沢碑も佐野屯倉(三家)ゆかりの氏族が建
  立者であることがわかっている。
漆山古墳は、上野三碑の山上碑、726年金井沢碑を建てた一族の
  祖先であり佐野屯倉(三家)の管理者であった豪族が葬られている
 可能性が高い。
 
・681年・大宝元年(701) 大宝律令ができた。


・文武4年(700)  安楽寺古墳(倉賀野)ができた?

◆◆ 上毛3碑の歴史 ◆◆
★上毛3古碑を年代順に追うと、以下のようになる。
@681年の高崎市山名:山上碑
  10月3日  (辛巳歳集月三日)山上碑ができた。
  ・・・放光寺の僧:長利が、
 自分の系譜を記し、母の黒売刀自を供養したものである。

A711年の高崎市吉井:多胡碑
  ※通説・・・和銅4年(711)羊(ひつじ)という渡来人が東国移住し、
   多胡郡を建郡。朝廷は羊に支配を任せる。
  ※熊倉靖先生「生き物の羊を賜った。」
  ※大工原美智子先生説「羊=羊僧で、へりくだる言葉である。」

 

   【現代語訳】
朝廷の弁官局(べんかんきょく)からの命令があった。
上野国の片岡郡・緑野郡(みどのぐん)・甘良郡
(かむらぐん)の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡を
つくり、羊(ひつじ)という人に支配を任せる。
郡の名前は多胡郡としなさい。
和銅4年(711年)3月9日の甲寅(きのえとら)の日
に宣(の)べられた。
左中弁正五位下:多治比真人(たじひのまひと)の宣旨である。
また、多胡郡を作ることを決めたときの太政官は
二品(にほん)位:穂積親王(ほづみのみこ)、
左太臣正二位:石上(麻呂=いそのかみのまろ)様、
右太臣正二位:藤原(不比等=ふじわらのふひと)様。

  (★多胡碑博物館の説明書き)
★ここにも物部氏系石上氏の名がある。・・・

B726年の高崎市山名:金井沢碑・・石碑を建てて神仏に誓
 った。=先祖供養の仏教碑なのである。群馬への仏教の伝来
 が東大寺・国分寺建立以前にあったことを意味している。
金井沢の碑文
 佐野三家の子孫である女性の3人の孫のうちの一人は、
  物部君午足(もののべのきみうまたに)という。
 物部君は碓氷郡(安中)、磯部(安中)、八幡(高崎)・片岡(高崎)
 を治めた石上部君(いそのかみべきみ)の一族である。
 佐野三家で生まれた女姓は石上部一族と婚姻関係にあった。
 石上氏は奈良県天理市の石上神社(物部氏の氏神)周辺に勢力を
 張った物部同族である。


・710年 奈良時代*******************
・下毛野氏・・・現栃木県佐野市・三かも・栃木市
・上毛野氏・・・
 @太田天神山古墳を中心に・・・上毛野久比の子孫
 A前橋大室古墳を中心に・・・上毛野小熊の子孫
  上毛野氏族は対朝鮮外交で活躍した。
   (★『日本書紀』)   
・大野氏・・・・旧大間々
・三輪族・・・・旧大間々〜桐生
・池田氏・・・・現玉村
・佐味氏・・・・藤岡
・車持氏・・・・旧榛名町・箕郷町
その他の豪族
・長柄族・・・・館林
・朝倉の君・・・前橋の天川付近 前橋天神山古墳
・有馬の君・・・渋川八木原・有馬・渋川・子持・伊香保
・物部の公・・・倉賀野・・・・・・・ 浅間山古墳・鶴巻古墳
・佐野屯倉・・・高崎佐野
・緑野(みどの)屯倉・・・藤岡・鬼石
・碓氷の君・・・高崎八幡  
・磯部の君・・・安中
・坂本の君・・・安中市松井田
・新羅人・・・・吉井〜下仁田
 
箕輪初心:生方▲群馬『豊城入彦命の子孫:上毛野氏の歴史』
http://53922401.at.webry.info/201509/article_11.html

箕輪初心:生方▲2015高崎【倉賀野の歴史&倉賀野一族】
  http://53922401.at.webry.info/201510/article_1.html
箕輪初心★多胡碑&「多胡碑研究の歴史」
http://53922401.at.webry.info/201403/article_19.html

箕輪初心■群馬「多胡碑シンポジウム」3月6日
http://53922401.at.webry.info/201103/article_8.html

箕輪初心■山上碑・多胡碑・金井沢碑+山上多重塔
http://53922401.at.webry.info/201310/article_4.html

箕輪初心:生方▲熊倉浩靖先生【世界記憶遺産を目指す上毛3碑】&新解釈
http://53922401.at.webry.info/201507/article_27.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201507/article_27.html
箕輪初心■群馬「多胡碑シンポジウム」3月6日
http://53922401.at.webry.info/201103/article_8.html
<< 作成日時 : 2011/03/07 06:47 >>

箕輪初心■山上碑・多胡碑・金井沢碑+山上多重塔
http://53922401.at.webry.info/201310/article_4.html
<<作成日時 : 2013/10/04 07:20 >>

箕輪初心●群馬の城「山名城&山上の碑」(高崎編)
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201012/article_21.html

箕輪初心★多胡碑&「多胡碑研究の歴史」
http://53922401.at.webry.info/201403/article_19.html
<< 作成日時 : 2014/03/19 06:51 >>

箕輪初心◆群馬「金井沢の碑=『群馬』の地名由来
http://53922401.at.webry.info/201103/article_12.html

箕輪初心●群馬【山上城】&『山上多重塔』
http://53922401.at.webry.info/201205/article_20.html

箕輪初心★群馬『多胡碑&周辺遺跡現地説明会20140309』
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201403/article_20.html


【3】奈良時代
 ※榛名山の裾野で利根川と烏川に挟まれた台地は、多くの遺跡
  ・古墳群や国府・国分寺もあることから、古墳時代から奈良
  時代にかけて、群馬県の中心地であった。
  裾野からの湧水と天水にたよる水田が発達していたことは、
  榛名山二ツ岳の噴火による埋没遺跡で伺える。冷水

1) 菅谷遺跡・・・旧群馬町イオン北200mでも、わき水を使った
   水田耕作があった。

2)国府&国分寺&東山道
 ★国府(前橋市総社町&旧群馬町国府)&国分寺・国分尼寺
    ♂・・・・国府の近道・・・・
 ★東山道・・・安中市板鼻→高崎八幡→長野郷中北脇→現浜川運動公園
  =御風呂遺跡→旧群馬町とりせん→桜山小学校→群馬高専・・
  総社(真北の300m程で国府)・・



【4】平安時代
1) 平安時代初期 
@水田をつなぐ大型の水路
   A鋳銅製「物部私印」高さが4cm2mm
     ・印面は一辺3cm7mmの正方形である。
   矢中中学校建設の前に行われた発掘調査。
   水田で行っていた祭祀の様子や古代の有力豪族:物部氏の勢力
   が分かった。
物部氏の水田開発が検証されている。
▲布留山(ふるさん)山石上寺&石上神社
物部氏(石上氏)の崇拝する神は布都御魂大神(ふつみたまのおおかみ)
である。奈良県天理市布留(ふる)の石上神宮に祀られている。
布都御魂大神は人格神ではなく、神武天皇が東征で使った剣で、
物部氏の祖と言われる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)を御神体
として祀ったのが始まりとされている。

物部(もののべ)の「物」は打ち物(武器)を意味し、部(べ)は
職業・職能名である。物部氏は朝廷内の軍事担当の氏族だった。
「鍛冶も得意としていた。それだけではないげどね。・・・」
(★大工原美智子先生:高崎歴史民俗資料館学芸員)



・承和元年(834)阿保親王(在原業平の父)は上野守となったが、
  上野国には赴任はしなかった。
  上野国(群馬県)・常陸国(茨城県):上総国(千葉県の一部)は
  親王任国で「守」は親王が任命されても現地には行かず、代わり
  に赴任した「介」がその国の事実上の最高官となる。
  また、在原業平が上野介として赴任したという記録はない。


・守(かみ)は国の最高官(国司)で、朝廷から任命されて現地に赴く。
 任期は5年・・・現在でいえば県知事である。
 (★久保田順一著)


2)・延長6年(928)   長野康業が長野堰を開発開始? 
        (中島宏氏の「長野堰の水と光」より) 
@江戸時代? 長野正弘氏系図・・・・長野康業
A明治34年 長野堰功徳碑・・・・ 
  高崎藩最後の藩主:大河内輝声の長男:大河内輝耕は
  「長野康業が長野堰を造った。・・・」
B昭和?年「長野堰改修紀功碑」
    上並榎町の高小田堰・・・「長野康業が長野堰を造った。」

★残念ながら、平安時代の第一級史料には長野氏は出てこない。
古墳時代〜白鳳時代〜奈良〜平安時代に長野氏と名乗っていない
のである。
「物部氏」「石上氏」は出てくるが、
奈良の石上神宮で、物部氏・石上氏と、長野氏を
 調べたが・・・「長野氏と石上神宮を結びつきの史料はない。」
  と言われた。


◆平安時代末期
1)八幡の庄(高崎市榛名町・高崎市八幡町・高崎市豊岡町・安中市板鼻)
   源氏:新田義重が寺尾に在住し、新田開発を推進した。
   の里見一族が新田の庄(太田市)から入封。
   後、義重の子供らはさらに開発した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏の上野国:八幡荘』後編
http://53922401.at.webry.info/201412/article_12.html

河内源氏@源頼信→A源頼義→B源義家→C源義国→
D新田義重
箕輪初心★久保田順一先生20141129『河内源氏&上野国:八幡荘』
http://53922401.at.webry.info/201412/article_11.html

●【1】新田義重の関係〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★高崎:新田義重&茶臼山城
http://53922401.at.webry.info/201309/article_27.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201309/article_27.html

●【2】里見氏関係:里見義俊〜


●【3】山名氏関係:山名義範〜
箕輪初心●群馬:高崎「山名義範館」=子孫は山名宗全
http://53922401.at.webry.info/201102/article_31.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

2)山名の庄(高崎市寺尾町・高崎市山名町)
   源氏:新田義重の山名義範が新田の庄(太田市)から入封。
   足利からの養子説もある。 

3)赤坂の庄(高崎市赤坂町)
  赤坂の庄→三浦一族の和田氏が没落し、旧箕郷町和田山に在住
  した後、高崎の和田に支配した可能性もある。
しかし、いつの時代か不明である。
  鎌倉上道(鎌倉→東京府中→埼玉嵐山→群馬藤岡→高崎山名
  →高崎倉賀野・石原→高崎・・・高崎赤坂に至る。・・・)
 ※和田氏は戦国時代も「和田」という言葉を使わず、
「赤坂」を使用している。

4)青木の庄(高崎市旧箕郷町下芝・高崎市浜川町青木:
   箕郷カインズホーム周辺)
   +長野郷→長野氏支配か?
  再開発された可能性もある

900年代の有力氏族は源氏である。八幡の庄の支配者である。
また、高崎台地には秩父有道氏系大類氏がいたことは確認できる
従って、長野堰付近の開発は大類氏が関わった可能性が高い。
長野氏ではないと思われる。
東毛は平氏系・藤原系がぼつぼつ入ってくる。



【5】中世鎌倉時代〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・建久3年(1190)  12月「上野国留守所下文」・・・
「目代左衞門尉藤原」
「惣検校石上」
「散位石上」・・・
らが、榛名寺領への健児(こんでい)・検非違使(けびいし)
 の入部を止める。」
 (★榛名神社文書)
*近藤義雄先生・・・藤原某の所領で・・・
現地に、bQの石上&bRの石上が来た。
しかし、2年後の鎌倉幕府の成立に伴い、石上は無用の長物に
なった。
→石上氏(後の長野氏?)上野国司bQ目代・bR
 散位として国府に在野した。
 
★これは最初の石上氏の国司の補佐の名前である。
  上野国・常陸国・上総国は天皇の子:親王国なので、
「守」は親王また子どもくらいしか「守」になれない。
しかも、藤原氏の所領である。

・建久4年(1193)5月 源頼朝の巻き狩り
  三原(上信国境:三原借猪)→赤城の巻き狩り→那須野
  (下野国)→富士野(駿河国)の各地で大規模な狩りを
  おこなった。
 ★源頼朝は上野国で新田義重のいる寺尾(高崎)に寄った。
山名宿(高崎)→寺尾→榛名→倉渕→三原の借猪で巻き狩り・・・・
 または、山名宿→碓氷→三原(北軽井沢)コースかもしれない。
 滋野一族の望月・海野・禰津(平安時代の鷹匠bP)
 も参加した。
 
赤城(上野国)の巻き狩り?笠懸野巻き狩り?
 「大胡(秀郷流)・大室(秀郷流)・深栖・山上(秀郷流)
 ・寺尾(新田系)・長野(石上系?)・那波(大江系)
 ・大類(秩父有道系)・新田(新田系)・鳥山(新田系)
 ・佐野(秀郷流)・佐貫(秀郷流)・佐井(秀郷流)・園田(秀郷流)
 ・・・」が、夜も昼も警護に当たったという。
(★『曾我物語』巻第5)
(★岩宿歴史博物館資料

初めて、長野氏が登場する。


 石上神宮はヤマト朝廷の武器庫だったという伝承もある。
つまり、物部系石上氏系となる。
 また、石上寺は在原業平の屋敷という伝承もある。

@正嘉2年(1256) 3月1日「永野刑部丞跡永野次郎太郎」・・
(★吾妻鏡)
※久保田先生・・・跡とは子孫の意味である。
*近藤先生は「出家し、坊主になった意味。」と言っていた。
 
A健治元年(1275) 5月 「六条八幡宮造営注文」
「長野刑部丞跡 八貫 」
※久保田先生・・・8貫を寄付した。
  刑部丞は6位であり、下級貴族である。
  しかし、寄進により、中央政府と結び着いている。

※久保田新説A・・・箕輪長野氏は最初から、東山道よりではなく、
 板東の寺:長谷寺&水沢寺の間、すなわち、箕輪の西明屋か
 東明屋に住んだのではないか?
★久保田先生説・飯森先生には、近藤義雄先生や山崎一氏の説の
 高崎市浜川定住説がでてこないのが特徴である。
 しかし、高崎市来迎寺には35基〜36基の長野氏の累代の
 墓がある。

 鎌倉時代には「永野氏」「長野氏」として吾妻鏡に2度登場
 するが、永野氏は長野氏ではないかもしれない。
 永野氏=長野氏でとすれば、従6位では、上野国のトップなど
 なれようはずもない。
鎌倉時代の「守」は上野国出身は山名伊豆守義範一人しかいない。
山名義範は伊豆1国を支配した。
もし、鎌倉時代の長野氏系図に「守」がある場合は、江戸時代に
造られた系図で歴史学者が信用しない、系図業を生業としていた
江戸時代の系図作成業者の作ということになる。
 新編高崎市史はサンプル例として多数の長野氏系図を掲載している。
 箕輪町誌では近藤義雄先生は長野弾正系図・長野正弘系図
を重んじている。
しかし、黒田基樹氏は安中秋間石井泰太郎系図を重んじている。
 17系図もある。
ちなみに在原業平は「伊勢物語」を書いたが、伊勢安濃津(三重県津市)
 に、長野氏がいた可能性がある。つまり、鎌倉時代には浜川長野氏で
 なく、安濃津長野氏かもしれない。
 @織田信忠が伊勢に攻め込んだ。長野氏は織田氏に従属した。
 A井伊直弼の家臣:長野主膳は安濃津の出身である。
 (★Aは野田浩子:彦根城博物館学芸員の系図説明)


・????年 武蔵児玉党の子孫が倉賀野氏を名乗り、土着した。
  
・嘉禄2年(1226) 正六観音菩薩現在地に祀る。
・建長5年(1253) 倉賀野三郎高俊が飯玉神社の社殿建立。

箕輪初心:生方▲2015高崎【倉賀野の歴史&倉賀野一族】
http://53922401.at.webry.info/201510/article_1.html         

箕輪初心●群馬の城「高崎:倉賀野城関係」
http://53922401.at.webry.info/201012/article_23.html

箕輪初心●高崎【大類城】&『大類氏の歴史』
http://53922401.at.webry.info/201410/article_15.html

鎌倉時代、石上氏→長野氏は土豪として、青木の庄を引き継ぎ、
 水田開発を進め、経済的な基盤を確立した可能性もある。
しかし、武蔵児玉党の倉賀野氏・大類氏が高崎台地の水田開発に
 関わった可能性が大きい。





【6】南北朝時代
・至徳3年(1386)  僧「秀乗」が養報寺開山。
                      
・応永元年(1394) 倉賀野三郎左衛門尉光行が倉賀野城を築城した。
   戦略的に重要な拠点として倉賀野城を築城した。              
★当然、用水路開発をした。     


【7】室町時代中期
・応仁元年(1467) 長野氏は応仁の乱後、箕輪城を築城した
★箕輪初心:生方説では1474年以前説を採っている。


高崎市浜川町の「御布呂」は布留が訛ったものであるという。


文明6年(1474)、石上寺&八幡神社が造られた。 
箕輪城はそれ以前に造られた可能性が高い。
 東明屋の石上寺:長野氏の菩提寺である。
 文明6年(1474) 六地蔵石幢(せきどう)・八幡神社(現東向観音)
 の石幢(せいどう)が根拠である。

■延徳4年→明応元年(1492) 
  伊予太守長野業尚が榛名に長年寺を創建?
(★長年寺縁起并由来記:高崎市史)
長年寺系図には、鷹留城を築くとある。箕輪城も築くともある。

■明応6年(1497 ) 長野業尚が長純寺を創建
  (★みさとの歴史・箕郷町誌)

■文亀元年(1501) 長野業尚か憲業が雲英(+恵応)和尚を招いて
         長年寺を創建?

・明応年間(1492~1500) 鷹留め城を築城した。
 「長野業尚は石上朝臣長野伊予守業尚」と書かれている。
(★長年寺文書(高崎市下室田))

箕輪初心:生方▲箕輪城190【箕輪城の築城】と
【縄張り図の変遷&秋本太郎先生の発掘調査報告】の確認
http://53922401.at.webry.info/201606/article_26.html

・永正6年(1509) 連歌師:宗長が浜川の長野氏系松田加賀守の館に
  立ち寄った。多胡碑から・・・「長野氏の姓は石上なり」
  と記している。
松田氏は弘治3年(1557)の長野業正の長純寺再建に
最も多くの木を寄進している。
 (長純寺の文書:箕郷町誌)

箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

・1500年後半・・応仁の乱→永享の乱以降、長野氏は山間部に
   守りの砦・城を築城。
 鷹留城&箕輪城+家臣団の砦62?&厩橋城を築城。
 大胡長野氏(★新編高崎市史)

  箕輪長野氏の直接の勢力範囲
 並榎町・浜川町・沖町・大八木町・旧箕郷町・旧群馬町・榛東村・
  吉岡町・

●長野氏の新田開発(高崎箕郷・長野郷)
 ※関東管領上杉氏支配の長野氏の勢力拡大し、新田開発を進めた。

@わき水の利用・・・榛名山系の伏流水
例1、高崎菊地町うなぎ神社の御神池・・・
例2、高崎市行力町の玉清水・・・行力上屋敷・中屋敷・下屋敷
例3、井出・冷水など地名の場所 

A祭戸用水・・・榛名白川
  箕輪城の脇→箕輪城尾根口・・・3本に分流。
   箕輪城下町・・・早瀬川に流れ込む。

B本郷堰&長純寺堰
・弘治3年(1557)、長野業正の長純寺再建と長純寺堰を
 開削した。
 本郷堰は本郷氏・新田景純子孫後閑氏によって、
 開削されていた。

C早瀬川=十二堰・・・長野康業(長野正弘氏系図では
   乙業の5代前・業政の8代前)の功績であろうか?
 (箕郷西明屋→上芝水車→下芝→楽間→井野館前→北新波砦前
  →北爪館前→大八木)
白川の分流を利用した早瀬川=十二堰を用水路として開発した。
環濠屋敷への用水や田んぼの用水として利用した。
早瀬川はやがて、長野堰に流れ込む。

D長野堰
(高崎沖町→高崎農業普及所南→高崎飯塚町→高崎大類→烏川合流)
・享禄2年(1529)〜享禄4年(1531) 関東享禄の乱(黒田基樹説)
  ★既に長野業正は享禄の乱以降、西上州の有力土豪に
    娘を嫁がせている。
箕輪初心:生方▲箕輪城189『古文書史料に基づく長野氏・箕輪城の関連年表』   
http://53922401.at.webry.info/201606/article_24.html

  
・天文20年(1551) 箕輪城主4代目:長野業政は長野堰を開発。
  (★中嶋宏氏資料)
 ★系図では、長野氏は近在の土豪:倉賀野氏・和田氏に娘をくれ、
   親戚衆・・・同心になっている。1530年〜
   和田氏の有力同心:反町氏(現高崎駅東300m付近、
   天田氏・島野氏などと協力して用水路・水田開発を
   した可能性がある。長野業正も手伝った可能性が
   大きい。長野堰の水を使った和田氏・倉賀野氏の
   家臣団の環濠屋敷の遺構が長野堰近くに多く
   点在している。


  当時、榛名白川は高崎市沖町の繁華街の北:現在の取水口付近
   で烏川に合流していた。
  ため、本来の取水口は、高崎市沖町上沖の諏訪神社北付近だと
  想像できる。
  
・永禄7年 (1567) 武田信玄が馬場信房に命じて、
   和田城の大規模改修をした。


・永禄9年(1566)〜 箕輪城が落城。
  箕輪城代は武田信玄家臣:春日弾正+甘利・金丸・真田幸綱
  →浅利・内藤昌秀→不在→内藤昌月が入った。

   高崎台地の水路整備は不明?(資料なし)
内藤昌秀は保渡田城内(現場)に水路が流した。

・天正10年(1582)〜箕輪城主:北条氏邦・猪俣邦憲などの水路整備?
 (資料なし)

・天正18年(1590) 井伊直政は箕輪城主になった。
  8年間、箕輪城にした。箕輪城主8年→
  長野氏子孫・和田氏子孫・里見氏子孫・内藤昌月子孫
  は井伊直政の17家老の内の5人が家老となった。
 (★詳しくは9月の井伊家関係シリーズで掲載予定)


・慶長元年(1598)  高崎城主:井伊直政が
  高崎城築城開始・・・・
  中山道の:倉賀野宿・高崎宿・板鼻宿・安中宿・
  松井田宿・碓氷関所・坂本宿・碓氷峠・・・
  三国街道・・・金古宿・渋川宿・金島宿・吾妻川
  までが支配地で、街道整備を考慮して、・・・
  街道の分岐点・長野堰の水があることを考えて
  高崎に移転が決まった。 

  しかし、井伊直政と家臣2000は1年6ヶ月
  伏見城・京都にいて、徳川家康の警護に
  当たっていたため、高崎にはいなかった。
  実際の作業は
   中心人物は井伊直政の姉の結婚相手:川手良則
  であった。
  縄張りは旧武田遺臣:孕石・広瀬・三科(井伊家家老
  &早川弥惣右衛門であった。西郷正友も関わった
  かもしれない。

 新井堰は新井喜左衛門・秋元長朝・それに
  市川一族・柳沢一族は関わったと思われる。


★長野堰から現住吉町から新井堰を開削
  高崎城+城下町一体型の「遠構え」であった。
  小田原城の総構えをモデルとした。
  (後、彦根城総構え、秋元の館林城総構えに
   繋がっている。)
遠構え7つの門(京都がモデル)の近くには寺を
戦闘態勢に備え配した。また、精神的支柱とした。
12の寺・5つの神社を移したり、末寺・末社としたり
した。
     安国寺・大雲寺・大信寺は鷹留長野氏の子孫が
  僧になっていた。
  恵徳寺は井伊直政の叔母の寺を移した。
  龍広寺:菩提寺は箕輪竜門寺の末寺とした。
  家老:西郷正友は日蓮宗法華寺を開基した。
  ★この寺+長純寺・龍広寺:龍たん寺が彦根に行く


*『高崎寿奈子』『高崎志』による箕輪から高崎への町の移転した町
連雀町・田宿→田町・椿町・(本町)・鞘町・新紺屋町・鍛冶町
・本紺屋町・磬撃町であった。
 

 @城防備のお堀の水
 A防火用水
 B城下町生活用水
   飲料水・食器洗いの水・洗濯水
   箕輪城下では、戦後まで11時〜おしめ洗いの
   時間の風習が残っていた。
    水車の水(赤坂・龍広寺下の水車)
 C工業用水・・・染め物業・武器産業など
 D農業用水・・・下流への用水路
  

・慶長2年(1599) 高崎城は完成。
  
・慶長3年(1600) 関ヶ原の戦い
 徳川秀忠軍(含む真田信幸軍)3万は烏川の
 増水で3日間高崎城遠構え内にいた。
 徳川家忠は高崎城内に・・・
 家臣は寺などに待機した。
 つまり、長野堰は3万の水・食料の調達に役立った。

 すでに井伊直政は娘婿:松平忠吉を伴って、小山(栃木)
 から関ヶ原に向かって東海道を急いだ。

後、井伊直政は
「自分が入っていない高崎城に入った。」
 と徳川家忠に文句をいったという。
 文句を言える立場であった。
  
 長男:岡崎信康の母は築山殿で、井伊直政・関口
 通じ徳川家康とは親戚であった。
 次男:結城秀康
 3男:徳川秀忠
 4男:松平忠吉(忍城)妻は井伊直政の娘    



・文政年間(1818〜)・天保年間(1830〜)・嘉永年間(1848)
 長野堰をめぐる水争い
 
・明治23年(1890) 長野堰組合が発足
・明治26年(1893) 上並榎に佐賀野川用水が開設。・・・水車4基。
 
・明治37年(1904) 榛名湖より天神峠トンネルから引水し長野堰へ補助用水。
 
・大正3年(1914)  板紙製紙工場が長野堰の水を使用。

・大正12年(1924) 下小塙堰の完成。
・昭和2年(1927)   長野二段締め切り頭首口(高崎市金井淵町)
    →堰・・・烏川横断・
   高崎市我峰町→高崎市新井団地→環状線新井の信号東を横断→
   高崎市立北部小北面を東へ→真木病院西で本長野堰に合流・・・
         (後に、本長野堰+貝沢堰新築・・・・)
・昭和6年(1931)  長野堰の石積み工事開始。
・昭和28年(1953)〜昭和43年(1968) 長野堰の三面コンクリート工事。
              染色業の染色原料の芳流が長野堰・一貫堀川増加。
・昭和35年(1960) 上並榎に瀧谷不動近くにポンプ堰を建設。
・昭和37年(1962) 円筒形分水工事。
・昭和47年(1972) 高崎市旧榛名町本郷に長野堰頭首口が完成。
  高崎市沖町「長野堰頭首工」・・烏川から長野堰にへと取水。
 最大時、6.797立法m取水。
   ※高崎市榛名町本郷・・・「頭首工竣工記念碑」 

・昭和49年(1974) 〜昭和54年(1954) 水質汚濁解消工事。
・平成20年(2008) 長野堰の感謝祭イベント実施。 
 (中島宏氏の本などを編集)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲201610624~0628世界かんがい遺産候補:長野堰展準備完了
http://53922401.at.webry.info/201606/article_27.html

箕輪初心:生方▲世界灌漑遺産候補【長野堰展2016】6月24日〜28日
at高崎シティギャラリー
http://53922401.at.webry.info/201606/article_25.html

箕輪初心:生方「箕輪城159&【中嶋宏氏主催の長野堰を語りつぐ会
の絵図展】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_4.html

箕輪初心:生方▲【長野堰を語り継ぐ会の絵図展】&【高崎城の桜】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_5.html

〜〜〜高崎市の用水路シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心◆「群馬:高崎の稲作と用水路@」
http://53922401.at.webry.info/201103/article_34.html

箕輪初心◆群馬:高崎市の稲作と用水路A「長野氏の開発@」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201104/article_5.html

箕輪初心◆群馬:高崎の用水路B「長野氏の用水路編A」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_6.html

箕輪初心◆群馬:高崎の稲作と用水路C「江戸時代」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_7.html

箕輪初心★江原源左衛門&滝川用水20131010
http://53922401.at.webry.info/201310/article_11.html

箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_14.html

箕輪初心◆高崎の長野堰=西新波堰の歴史
http://53922401.at.webry.info/201310/article_12.html

箕輪初心●箕輪城シリーズK「長野・井伊時代の用水路開発」と現在
http://53922401.at.webry.info/201010/article_17.html


箕輪初心:生方★高崎城&長野堰【井伊直政&秋元長朝&新井喜左衛門】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_10.html
★秋元長朝はおそらく高崎城の内堀・用水路・遠構え
 建築に貢献したのだ。

箕輪初心◆長野堰B「染色のまち高崎に流れる長野堰:高崎広報」
http://53922401.at.webry.info/201410/article_13.html

箕輪初心:生方▲主に群馬・長野の【戦国〜江戸の用水新田開発】
http://53922401.at.webry.info/201605/article_34.html




★今日は2回目の「市川五郎兵衛用水&五郎兵衛新田&
 柳沢所左衛門家→柳沢弥左衛門・・・現在の当主に会いに
 行く。

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内 容 ニックネーム/日時
拝啓

市川五郎兵衛用水&五郎兵衛新田・・・・。

東奔西走、ご疲れさまです。
大井氏慎三郎氏の「江戸時代」の「新田大将」「開発人」を思い出しました。

またお話伺える機会を楽しみにしています。

  夢寅 拝

夢寅
2016/07/01 22:06
誤変換、訂正。大井氏慎三郎氏→大石慎三郎氏。

(^^ゞ

   夢寅 拝
夢寅
2016/07/01 22:09
「五郎兵衛新田」用水を開拓者:市川五郎兵衛真親を秋元長朝は関係が深いことが分かってきています。大久保長安・伊奈忠次・岡上景親ら旧武田氏遺臣・金堀衆とも繋がっている。また、井伊直政・井伊直継とも関係が深かったようです。大石慎三郎は知りませんでした。お仕事、頑張ってください。
夢寅様
2016/07/03 09:18

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箕輪初心:生方▲2016【高崎の用水路開発&長野堰の歴史】大修正版 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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