城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城198●『武田氏の箕輪領支配』B内藤昌豊関係の古文書史料

<<   作成日時 : 2016/06/30 09:58   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

・永禄12年(1569) 10月6日 三増峠の戦いで、浅利信種が
北条綱成の鉄砲隊に討たれて戦死した。内藤昌豊は小荷駄隊を
率いて相模津久井城で、補給部隊として後方支援していた。   
→内籐修理助昌豊は永禄12年(1569) 10月?〜天正3年
(1575)5月長篠の戦いで討ち死にするまで箕輪城代であった。
『地域文化233「みのわの歴史」』栗原修著・『戦国期上杉
・武田氏の上野支配』栗原修著・『武田氏家臣団人名辞典「内藤
昌秀」』:丸島和洋文責をベースにまとめてみた。   
画像

 (★内藤昌秀・内藤昌明の墓)






箕輪初心:生方▲箕輪城189『古文書史料に基づく長野氏
・箕輪城の関連年表』
http://53922401.at.webry.info/201606/article_24.html

箕輪初心:生方▲箕輪城187【雉郷城】&武田信玄の長野業正の
親戚衆への攻撃・調略
http://53922401.at.webry.info/201606/article_19.html

箕輪初心:生方▲箕輪城188【鷹留城】築城3説と落城3説
http://53922401.at.webry.info/201606/article_23.html

箕輪初心:生方▲真田幸綱(幸隆)・信綱・昌幸の吾妻支配A
「永禄10年〜天正10年」
http://53922401.at.webry.info/201606/article_30.html

*************************
箕輪初心:箕輪城J「武田信玄の西上州侵攻」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_16.html

箕輪初心:生方▲【武田信玄の上野侵攻】A永禄4年〜永禄9年
:箕輪城攻略
http://53922401.at.webry.info/201606/article_29.html


箕輪初心●箕輪城シリーズL6代「甘利昌忠」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_21.html

箕輪初心:●箕輪城シリーズM「第7代真田幸隆(幸村祖父)」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_22.html

箕輪初心●箕輪城シリーズN「武田信玄の箕輪城在番衆」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_23.html

箕輪初心●箕輪城シリーズO「第8代:浅利信種」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_24.html

箕輪初心:生方▲箕輪城197●『武田氏の箕輪領支配』A浅利信種の古文書史料
http://53922401.at.webry.info/201606/article_32.html


箕輪初心●箕輪城シリーズO「第8代:浅利信種」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_24.html

箕輪初心▲武田信玄:鉢形城〜滝山城〜小田原城〜三増峠の戦い
http://53922401.at.webry.info/201411/article_19.html



箕輪初心:●箕輪城シリーズP「第9代:内藤昌豊」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_25.html

箕輪初心●箕輪城シリーズQ「第10代内藤昌月」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_26.html

箕輪初心▲箕輪城147【善龍寺】=長野業正長男:長野吉業の墓
・内藤昌豊&昌月の墓=会津藩
http://53922401.at.webry.info/201412/article_7.html

箕輪初心:生方▲箕輪城183真田丸1【真田幸綱・昌幸・幸繁
と箕輪城との関わり】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_3.html


●永禄12年(1569) 10月6日 三増峠の戦いで、浅利信種が
北条綱成の鉄砲隊に討たれて戦死した。




・永禄13年→元亀元年(1570)
●4月3日付 武田信玄→和田兵衛太夫宛書状写
武田信玄→和田兵衛大夫(高崎和田城)への書簡
    @上杉に味方しないこと。
    A跡部信秋と春日弾正を信濃・上野国境に派遣
    D内藤と相談するよう指示。内藤が既に箕輪城にいた。
   (★群馬県地域文化233)
  ・栗原修氏は永禄12年11月3日→永禄3年4月3日に変更 
では、上記の文書が書き換えられている。
  『戦国期上杉・武田氏の上野支配』栗原修著
(★長野量一氏所蔵文書:高崎市史:栗原著)

和田業繁は内藤昌秀と相談して決めるように・・・
『武田氏家臣団人名辞典「内藤昌秀」』:丸島和洋文責


●年不詳 4月10日付 武田信玄朱印状8ヶ状 (龍朱印)
★漢文は写し疲れたので、意味だけ記載する。
@箕輪城代は浅利右馬助の時のように配当したり、(領土を与え)
条(命令)を口で伝えてよい。
A岩鼻(高崎市岩鼻:群馬の森付近)耕作を命令してよい。
B玉村の田んぼが荒れたので耕作の命令を出してよい。
C惣社(前橋)の井田并百姓達が怪我をしているため、いろいろ聞
 いて耕作させよ。
D上野西近辺の下知してよいは、百姓の安穏を考慮してください。
★CDは民百姓は平穏無事に暮らせるように配慮している。
 武田信玄って凄い。
E「輝虎干今沼田在滞哉、此所具被聞届、以早飛脚注進候事」
F近日、必ず出馬する。・・・上州衆に時節が来たら、参陣を
 指示するように。
G(箕輪城)在城中、箕輪&箕輪城近辺の仕置(管理)を
徹底し、油断無きように。
と宛名はないけれど、箕輪城代:内藤昌秀に命令した。

判物出すように命じられた。
『武田氏家臣団人名辞典「内藤昌秀」』:丸島和洋文責



●9月7日付 上杉方の北条高広(前橋城)→山吉豊守(上杉家家老)
  に当てた書簡
「去月29日之御直礼、一昨5日御到来、如奉拝見者、5日に御出府
 早々上田へ可為御着陣之由、被仰下候、南方を始仲、御味方中何も
 可被得勇候条、・・・(中略)・・・即小田原へも申届候、■信玄至
 干岩村田着陣に付而、箕輪城之城主内藤修理亮、為迎罷免候由、
 堺目之者、於箕輪令見聞、作戌亥告来候間、為御心得、急度申上
 候、臼井(碓氷)越山儀之者、可有如何候哉、此模様具承届重而
 可奉注進候、何扁二も如斬御噸速之御出馬、御専要之御時分与奉
 得力候、此旨可預御披露候、恐々謹言
 猶々、信玄岩村田着陣之儀者、小幡谷、御嶽筋之説も同前に候、恐々
                     北条丹後守
高広(印)
 9月7日辰刻
  山吉殿」

@上杉輝虎(謙信)が上田(坂戸城)に着くと聞いて、小田原の
 北条氏も勇気が出るのでうれしい。
A武田信玄が岩村田(佐久)に着陣し、
   箕輪城主内藤修理亮が出迎えたことを見た者がいる。
Bはやく、上杉輝虎の御出場が肝要。
  (★北条(きたじょう)高広書状:上杉家文書:群馬県史
    :群馬県地域文化233栗原修著・他)


・元亀元年(1570)
   上野箕輪城の城代となった。
  内藤昌豊(昌秀)が箕輪の出城:保渡田砦からの保渡田城を築城
  し、上州7郡を支配したと思われる。
  

●9月10日付 内藤昌秀→箕輪城在番衆&箕輪城番手衆 
「於干彼■■(前和?)田極楽院並山竹木不可被剪執者也、
 為■(後?)日執達如件
 元亀元年       内藤
    9月10日     昌秀(押印」
(長野家文書=極楽院故長野正夫氏所蔵文書:群馬県史・山梨県史)
(★関係ないけど、長野正夫氏は父の恩師だよ。)
*永禄11年(1568) 正月23日武田信玄より極楽院
@下箕輪之内3貫文・前和田之内4貫500文
A西上野年中行事職を安堵されている。
和田山の極楽院&長野氏業(業盛)の子:亀寿丸の保護。 

 家老内藤豊後守昌秀(昌豊)が現地統治。
 (★初めての文書確認=秋本先生)
   (工藤姓→内藤姓/内藤豊後守昌豊が上州7つの郡代。)
 @内藤豊後守昌豊が上州7つの郡代・・・
◆箕輪城在番衆&箕輪城番手衆 
「安中・小幡一族・後閑・一宮・高田・高山・和田・松本
 ・馬庭・酒井・依田・桃井・富所・ 猿渡・荻原・須藤
 ・小沢・市川・神保・土屋・高橋・黒沢・高瀬・上条
 ・武河・南蛇井・伴野・尾崎・湯浅・・・・
   (★永禄10年の在地領主領国安堵状:生島足島神社蔵)
*内藤豊後守昌秀(昌豊)自分の家臣50騎
   +長野氏の元家臣200余人=約250騎
  「美方民部左衛門勝業、道寺久助、町田兵衛義信、神尾図書兼、
   上泉伊勢守秀綱、寺尾豊後守長成、長塩長八郎道方、
   八木原伴七家方、久保島重蔵時頼、矢島久左衛門定勝など。
  配属・・・大熊伊賀守(高浜砦)、新井筑後守(三ッ子沢砦)、
   内山播磨守(白岩砦)、清水太郎左衛門(松の沢砦?
   →和田山砦)、青柳治部(下芝砦)
 *内藤豊後守昌秀(昌豊)に大熊備前守・塚越半七(伴七)
★・・・僕の家母方先祖
   ・吉田伊豆守(豊岡砦)は反攻。
  (★箕輪記→山崎一著「群馬の古城」) 
(★長野家文書:『山梨県史』)

●12月17日付 内藤昌秀→高山山城守(行貞)
 (高山系図:群馬県史)


・元亀2年(1571) 
●2月19日付 内藤昌秀判物::湯浅新七郎
「湯浅新七郎方屋敷之竹木之事、修理亮に不相理而不可剪取、
  若有背此旨輩者、則箕輪御城へ可被召連者也、・・」
(★湯浅家文書:群馬県史)

●4月2日付 武田信玄→奉者:内藤昌秀・市川備後守(家光)
                →(小林)松林斎(★藤岡)

下大塚(藤岡)  50貫
秩父領内   50貫
(★小林家文書:群馬県史)
★本管地は現藤岡大塚である。写真消滅・・・


●10月1日付 武田信玄→奉者:内藤昌秀→阿熊郷
戦時禁制を命じた。
(★武州文書)
『武田氏家臣団人名辞典「内藤昌秀」』:丸島和洋文責

※武田信玄の武蔵侵攻に従軍した。


●12月17日付 跡部勝資→北丹・同弥
「内藤修理亮致談合進之候」
(高橋桂猪氏所蔵文書:群馬県史)


◆内藤昌秀は和田山の統治に松の沢の清水太郎右衛門を起用
 和田山の熊野神社・・・清水内記邦正の墓あり
(★箕輪町誌)

◆白川神社の修復
(★箕輪町誌)
◆善龍寺の改修工事→善龍寺を再建。→菩提寺。 
  (★(★箕輪町誌・みのわの歴史=近藤先生監修)
◆板東15番札所:長谷寺の修理:
 大旦那内藤修理/富岡:大熊肥前/浜川北城:北爪土佐守
  /和田山:清水内記
 (★石上寺縁起:箕輪町誌)



・元亀3年(1572)
●1月23日付 武田信玄→奉者:内藤修理亮→戸榛名神社
「 高札(龍朱印)
当社戸榛名権現神木不可剪取、・・・(後略)」

●6月9日付 武田信玄朱印状→奉者:内藤修理亮・原隼人佑
            →高山彦兵衛(定重)殿(★藤岡)

多比良(吉井町)    120貫
入山(旧松井田町)   50貫
★本管地は世界遺産:高山社は平時の館である。
栗原説・・・多比良は原昌胤の所領
入山は内藤昌秀の所領
(★群馬県庁所蔵文書:群馬県史)
●6月9日付 武田信玄朱印状→奉者:内藤昌秀→高山与次殿(★藤岡)
「父主水佑討ち死に、忠節無類候、因■牛田、白塩之内200貫
  之所被下置候、・・・・(後略)」
★牛田、白塩・・・現藤岡市で隣は埼玉県神川村
(★川上欽一郎氏所蔵文書:山梨県史)
★内藤昌秀は箕輪領は
 倉賀野・高崎・安中・松井田・榛名・箕郷・群馬町・榛東
 吉岡ということになりそうである。
後の井伊直政が箕輪城に12万石で入った匹敵する。


◆元亀4年(1573)4月12日(5月13日)武田信玄が死亡。
武田勝頼が跡を継いだ。
****************************

・天正元年(1573)  
●4月23日 武田勝頼→内藤昌秀
  起請文が与えられた。
しかし、内藤昌秀の意見は聞かないと誓約を受けた。
(★京都大学総合博物館所蔵文書)
『武田氏家臣団人名辞典「内藤昌秀」』:丸島和洋文責


●7月晦日(31日) 武田勝頼→奉者:春日弾正忠・内藤修理亮
→祢津松よう軒・真田源太左衛門尉(信綱)・海野衆・
室賀大和入道・海野源一郎(真田信幸?)・小泉宋三郎
(★小泉家文書:群馬県史・栗原)
分国追放者の扱いを命じた。
『武田氏家臣団人名辞典「内藤昌秀」』:丸島和洋文責



・天正元年(1573)
●11月25日 武田信玄→奉者:内藤修理亮→坂本本郷の地下人
「信・上両州之間、往還之伝馬無怠慢相勤候之条・・・(後略)」
(坂本宿庄屋:佐藤家文書:雑録追加:山梨県史)



・天正2年(1574)
4月13日付 武田勝頼→内藤昌秀
 「4月20日に出陣する。22日談合の為、岩村田に着陣する。
 内藤昌秀に岩村田に来るように命じられた。
 (★諸州古文書:)
  箕輪城の防備を固めるため、身一つで岩村田に来るように・・・
  利根川の浅瀬を調べて報告せよ。

『武田氏家臣団人名辞典「内藤昌秀」』:丸島和洋文責


●11月9日 武田勝頼→浦野宮内少輔
 「内藤有談合、河東へ可被相勤事肝要候」
武田勝頼は利根川の東などに
行くので、参陣して欲しいです。」

(大胡城→女淵城→膳城→山上城)



●▲■武田信玄の動向***************** 
・元亀3年(1572)
1月 武田信玄が関東出陣 
 ・謙信、関東に出撃。箕輪城の出城:石倉城(前橋)を攻略。
 ・信玄も箕輪城から出撃。
   春日虎綱(高坂弾正)の指示で真田幸綱が出陣。
  謙信と対峙。
 ・北条氏康の死去後の北条氏政が和睦を申し入れでの信玄の
   全権名代であった。   


10月3日 将軍:足利義昭の信長討伐令で、信長との同盟を破棄。
    ・京都上洛のために3万人で甲府を出発。
   武田信玄は織田信長に友好的な書状で同盟を装った。
  ・秋山氏は信長の領土・東美濃に侵攻。
   ・山県氏は預けて徳川家康の領土・三河に侵攻。

・元亀3年(1572) 三方ヶ原の戦い・・・
   武田信玄の西上作戦にも参加し、武功。
  保科正俊は高遠城守備を命じらた。

・元亀4年(1573) 武田信玄の死去
  武田勝頼に仕えたが、内藤昌豊は老臣故に疎まれた。

・天正3年(1575)5月21日 長篠の戦い・・
 三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)で
 織田信長徳川家康連合軍3万8000 VS 武田勝頼軍1万5000
 ・戦況不利を悟って、武田勝頼に撤退を進言。
  受け入れられず出撃した。
  
●内藤昌豊が戦死。壮烈な戦死。享年54歳。
 保科千次郎(昌月)が内藤昌秀の養子として、内藤家の家督を
 継承した。

◆◆ 箕輪初心◎長篠の戦い前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_25.html

◆◆ 箕輪初心●愛知【長篠城】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html

◆◆ 箕輪初心★【奥平一族は群馬出身】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html

箕輪初心◎長篠の戦い後編:設楽原の激闘&上野国関係者
http://53922401.at.webry.info/201211/article_27.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


★明日は箕輪城代不在時代&内藤昌明かな?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲箕輪城198●『武田氏の箕輪領支配』B内藤昌豊関係の古文書史料 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる