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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城197●『武田氏の箕輪領支配』A浅利信種

<<   作成日時 : 2016/06/29 07:34   >>

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浅利信種は永禄11年(1568)1月〜永禄12年(1569)10月の三増
峠の戦いで討ち死にするまでの約1年10ヶ月箕輪城代であった。
箕輪城の在番衆は祢津逍遙?軒や岩尾大井高政であった。
『地域文化233「みのわの歴史」』栗原修著・『戦国期上杉
・武田氏の上野支配』栗原修著2010年5月初版400部:を
ベースにまとめた。史跡箕輪城発掘調査報告第8集も参考
にした。
天正10年(1582)8月26日、井伊直虎死去
画像



箕輪初心●箕輪城シリーズO「第8代:浅利信種」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_24.html

箕輪初心▲武田信玄:鉢形城〜滝山城〜小田原城〜三増峠の戦い
http://53922401.at.webry.info/201411/article_19.html


箕輪初心:生方▲【武田信玄の上野侵攻】A永禄4年〜永禄9年
:箕輪城攻略
http://53922401.at.webry.info/201606/article_29.html

箕輪初心:生方▲箕輪城189『古文書史料に基づく長野氏
・箕輪城の関連年表』
http://53922401.at.webry.info/201606/article_24.html

箕輪初心:生方▲箕輪城187【雉郷城】&武田信玄の長野業正の
親戚衆への攻撃・調略
http://53922401.at.webry.info/201606/article_19.html

箕輪初心:生方▲箕輪城188【鷹留城】築城3説と落城3説
http://53922401.at.webry.info/201606/article_23.html

箕輪初心:生方▲真田幸綱(幸隆)・信綱・昌幸の吾妻支配A
「永禄10年〜天正10年」
http://53922401.at.webry.info/201606/article_30.html

*************************
箕輪初心:箕輪城J「武田信玄の西上州侵攻」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_16.html

箕輪初心●箕輪城シリーズL6代「甘利昌忠」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_21.html

箕輪初心:●箕輪城シリーズM「第7代真田幸隆(幸村祖父)」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_22.html

箕輪初心●箕輪城シリーズN「武田信玄の箕輪城在番衆」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_23.html

箕輪初心●箕輪城シリーズO「第8代:浅利信種」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_24.html

箕輪初心:●箕輪城シリーズP「第9代:内藤昌豊」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_25.html

箕輪初心●箕輪城シリーズQ「第10代内藤昌月」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_26.html

箕輪初心▲箕輪城147【善龍寺】=長野業正長男:長野吉業の墓
・内藤昌豊&昌月の墓=会津藩
http://53922401.at.webry.info/201412/article_7.html

箕輪初心:生方▲箕輪城183真田丸1【真田幸綱・昌幸・幸繁
と箕輪城との関わり】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_3.html

・永禄10年(1567)
8月7日/8日 武田信玄は家臣団に信玄への忠誠を誓わせた起請文
   を生島足島神社に奉納した。
浅利信種も提出した。
浅利信種は吉田信生とともに「下之郷起請文」の宛所と
なっている。
 (★武田氏家臣団人名辞典:丸島和洋文責)


箕輪初心:生方▲真田丸6【生島足島神社】武田信玄の起請文
・真田信之の起請文
http://53922401.at.webry.info/201601/article_8.html

***************************



●永禄11年(1568)
正月19日
「?????不可被?????者也。・・」
正月19日 信種(押印)
箕輪在番衆
同 番手衆
(★浅利信種判物:漆原文書:群馬県史)
★箕輪初心・・・簡単にいうと、浅利信種が漆原家(吉岡町)に
何らかの禁制を出した。
栗原説・・・・・竹木伐採の禁止令か?

・永禄12年(1568)
5月17日
 「武・上之境取出之地利、与浅利右馬助令談合築之可在城、
  然者其方以調略被相集人数等、可為同心之旨、被仰出者也、
  ■如件、」
永禄12己巳歳
5月17日 朱印      原隼人佐
奉之
(高山鶴治糸所蔵文書:群馬県史)
武田信玄は高山定重に浅利信種に相談して、
武蔵・上野国境に砦を築いて在城せよと指示した。

5月17日 原昌胤→高山彦兵衛:定重
  浅利に協力して、武蔵と上野の国境に城を造り在城する
  ように指示。
  高山定重は白井城の長尾を永禄10年に
  滅ぼした武田配下高山行重の一族?
  (★群馬県地域文化233栗原修著)


◆高山氏***********************
  大本家の高山城主:高山遠江守定重は上野国
  緑野郡高山を本拠としていた。
世界遺産:高山社は平時の館である。
箕輪初心▲群馬:【高山館&高山城】&高山氏の戦国時代
http://53922401.at.webry.info/201505/article_20.html
 高山山城守・・・高山行重★長野業政の着到帳にある
(※高山系図では、越後上杉房能の子ども:→
父が謙信の父に殺されて3歳で高山満重の養子となった。)
・永禄4年(1561)武田信玄の平井城攻撃
 武田信玄→小林監物宛の手紙
「味方になれば、所領安堵する。」
・永禄7年(1564) 高山山城守行重・高山遠江守定重の
  所領安堵(生島足島神社) 
・永禄9年(1566) 9月29日 箕輪城落城
・永禄10年(1567) 4月29日 所領安堵状
高山遠江守定重が白井城攻撃の参加のお礼と考えられる。
  (生島足島神社)
高山行重・高山定重・高山衆の安堵状が出ている。
★浅利信種・高山行重がいる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

閏5月16日
「不図駿州表へ出入衆候 然者武州筋為行、浅利右馬助箕輪へ
 遣候、在所自分之備、又者被対信玄忠節二候之状、別■被催人数
 如浅利異見無表裏、戦功為本望候。恐々謹言」
 閏5月16日 信玄 朱印
 浦野宮内左衛尉殿
(★源喜堂古文書目録)
武田信玄は武蔵での戦闘に備えて浅利信種を箕輪城に派遣して
浦野宮内左衛尉殿に信種に従うように指示した。
★大戸浦野宮内少輔の一族の宮内左衛尉は箕輪衆に属した。
箕輪初心●群馬【手子丸城=大戸城】=吾妻の巨大な要塞
http://53922401.at.webry.info/201201/article_14.html

閏5月16日 武田信玄→浦野宮内左衛門尉
 (大戸城主浦野中務少輔の同族?)の書簡
  浅利に従い、軍功を立てるように武田信玄が指示。
      (★甲陽軍艦)

 
8月10日大井小兵衛尉(佐馬充から独立?)が足軽10人の
      箕輪城在番
     (★大井文書)
 ★箕輪初心私見・・・・
 「武田の知行編成は以前の長野箕輪衆・長尾白井衆の
   完全消滅を意味する。」 
 

 ★2つの文章から、浅利信種はいつも箕輪城にいた
  訳ではないことが分かる。


・永録12年(1569)武田信玄49歳。
8月24日 武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府躑躅ヶ崎館を出立
 した。
   (★『甲陽軍鑑』)
西上野の碓井峠を越えて南下し、安中・・藤岡・・
 ★おそらく、箕輪城代:浅利信種と合流した。

  浅利信種の軍装は飯富虎昌の赤備えを受け
  継いでいた。

  富岡国峰城主:小幡憲重・信貞も合流した。

 武田信玄・武田勝頼・武田信廉・
 山県昌景・工藤(内藤)昌豊(松本城)・馬場信春
 ・浅利信種・曽根昌世・小幡憲重・信貞・・・・・etc。

9月10日  鉢形城を包囲し、北条氏邦を攻撃した。
  (★『上杉家文書』)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●箕輪城115「北条三鱗会に井伊直政の手作り
甲冑作成依頼」
http://53922401.at.webry.info/201311/article_29.html

箕輪初心●『鉢形城の歴史詳細』&47回寄居北條まつり2008
http://53922401.at.webry.info/201305/article_15.html

箕輪初心◆埼玉『第52回寄居北條まつり2013鉢形城』
http://53922401.at.webry.info/201305/article_14.html

箕輪初心●埼玉『鉢形城』&北条氏邦の箕輪城の大改修
http://53922401.at.webry.info/201305/article_16.html

箕輪初心■箕輪城シリーズS「第12代:北条氏邦」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_34.html


9月26日 別働隊岩殿城主:小山田信茂1000が出陣し、小仏峠を越えた。
(★『甲斐国志』)
 北条家臣:横地監物・中山勘解由ら2000は檜原で、待ち受けた。

箕輪初心▲埼玉飯能市『中山家範館』:北条氏照の重臣
http://53922401.at.webry.info/201407/article_2.html

9月27日 武田勝頼が拝島から北条氏照の滝山城を攻撃した。

1日で、攻撃をやめたが、滝山城は落城寸前だった。

箕輪初心▲滝山城:北条氏照の武蔵進出拠点の城
http://53922401.at.webry.info/201411/article_3.html

箕輪初心▲東京【八王子城】:北条氏照築城
http://53922401.at.webry.info/201411/article_4.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201411/article_4.html
 ★八王子城を造るきっかけになった。


9月28日 武田信玄は小仏峠から入った小山田氏らと合流した。
  牛ヶ渕の合戦・・・
相模国へ進入した。・・・

10月1日 武田信玄は上杉謙信同様、幸田門(今の幸田門でない。)
 に着陣した。
  北条氏康の小田原城を囲んだ。

※永禄3年(1560) 12月上杉謙信が10万以上の兵力で落とせなかっ
 た堅城であった。・・・・ 
  
※小田原城は有名な惣構えが着工前であった。
 武田信玄は上杉謙信と同じく、幸田門(今の幸田門より二の丸
 より)・・小田原城を包囲し3度にわたって挑発した。


○箕輪初心●神奈川:小田原城=百名城
http://53922401.at.webry.info/201106/article_19.html

 しかし、北条側は小田原城を出なかった。

10月4日 小田原の守りが固いと見るやすぐさま撤兵した。・・・
 (★『上杉家文書』『甲陽軍鑑』)。

10月5日 小田原城城下周囲を放火して軍勢を引き上げた。
 小田原を出発し、平塚から相模川沿いに厚木→中津→角田
 →三増と進んだ。
 
 北条氏康は北条氏照・氏邦に先回りさせ、三増峠付近で待ち伏せ
 することとした
 (★『甲陽軍鑑』)。

※滝山城などの北条方
甲州街道守備軍の北条氏照・・・滝山城
秩父方面守備軍の北条氏邦・・・鉢形城
北条綱成 北条氏忠 高城蔵人 原胤栄
上田朝直
八王子片倉城で合流した。
箕輪初心▲東京八王子【片倉城】:カタクリの里
http://53922401.at.webry.info/201411/article_18.html

・軍勢2万が要所である三増峠
(相模原市緑区根小屋〜愛甲郡愛川町三増)に着陣した。


武田信玄は、小幡重貞を迂回させて、三増峠の北側にある後北条氏方
の津久井城の抑えとした。
 武田信玄は後詰の遮断と帰路の確保を目的に小幡憲重&
 信貞父子(国峰城)の軍に津久井城を囲ませた。
★小幡憲重は小幡信貞の父。重貞、重定ともされる。
   妻は長野業正の娘?妹とも?
★小幡重貞→信貞→信実→
  妻は長野業正の娘・・・長野正弘系図(高崎浜川来迎寺)
箕輪初心●相模:津久井城=三増峠の戦いの地
http://53922401.at.webry.info/201411/article_17.html


また山県昌景らに志田峠を越えさせて、待ち伏せする後北条軍の背後
に回らせた
(★『甲陽軍鑑』)。

10月6日 早朝、武田軍と北条軍が対陣した。
さらに北条氏政が2万余りを率いてやってきた。
北条氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃し、殲滅する作戦であった。

 内藤昌豊は、小荷駄隊を中心にして志田峠を進んだ。
 (『甲陽軍鑑』)
 小荷駄隊が武田軍の先頭だった。
 北条氏照の攻撃を受けて被害を負っている。
 (『山吉文書』)。


10月7日 北条氏政本隊は到着前であった。
 北条氏照・氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようと
 していた。
 武田信玄はこれを察知して、部隊を3隊に分けた。
 @本隊・・北条軍の攻撃を正面から受けて立つ
 A左翼・・浅利信種隊や浦野重秀(大戸城)隊・・・上野隊
 B右翼・・山県昌景隊 
2部隊は北条軍を横から急襲する作戦であった。

10月8日 三増峠の戦い
現神奈川県愛甲郡愛川町の三増周辺・・・・

武田信玄2万  VS 北条氏照&北条氏邦 6,000〜2万
北条氏は甲斐に帰国しようとする武田軍相手に有利に展開した。
 武田軍は損害を受けた。
 北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により左翼の浅利信種や浦野重秀
 が討ち死にした。
浅利信種は鉄砲に当たって討ち死した。

  (★『北条記』)
 浦野重秀(上野国大戸城)も戦死したのだ。
  一説には、武田側は200余人の犠牲者を出したとされる。

緒戦では、北条氏照の奮戦で、武田氏の先手衆を押し切り、成果を
 上げた。
 (★『上杉文書』『北条五代記』『北条記』)。


しかし、山県昌景率いる武田の別働隊が志田峠 (三増峠南西約1km)
に機動した。高所から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾いた。
 山県昌景が突撃すると、挟み撃ちの形となり、北条氏は退却・敗北
 した。
  (★『甲陽軍鑑』『戦国合戦大事典』)

北条軍は背後の津久井城守備隊の内藤隊などの予備戦力が、武田軍別
働隊に抑えられて救援に出なかったこともあり、大きな被害を受けた。
左翼隊は戦死した浅利に代わって軍監:曽根昌世が代わりに指揮を
とった。
北条綱成の軍勢を押し戻すことに成功した。

緒戦では苦戦したものの、最終的には武田軍の勝利とされている。
先に三増峠に布陣したのは武田軍で、布陣をを知らなかった北条軍が
不意の攻撃を受け、敗退したという。
(★『北条五代記』『北条記』)

有利に戦いを進めていた北条軍に対し、武田信玄は伏兵で反撃をし、
形勢を逆転させた。

武田信玄は、北条氏康本隊の到着を恐れ、迅速に戦いを進めた。
武田信玄は自軍の勝利と見ると、軍勢を反畑(相模原市緑区)まで
移動させ、勝ち鬨を挙げた。その後、武田軍は甲斐に撤退した。
★武田信玄は賢明であった。
北条氏康&氏政父子の北条本隊2万は荻野(厚木市)付近に到着して
いたが、北条軍の敗北を聞いて小田原城に退いた。
 (★『甲陽軍鑑』)
結果・・・
@武田側・・・・1000余(北条五代記)
900(甲陽軍艦)
A北条側・・・・ 2000余(諏訪家文書・武田信玄書状)
         3,269(甲陽軍鑑)
★しかし、本当に武田軍が勝ったのかは疑問である。

★もし、戦が長引いて、北条氏康&氏政父子の部隊が到着していたら、
武田軍は挟み撃ちにされて、大敗していた可能性があった。

★5回の川中島の戦いを期に上杉謙信との戦いをやめたのに続いて、
 三増峠の戦いを期に、後北条氏との決戦を避けているように
 感じられる。2年後には北条氏康が上杉謙信と手を切り、武田信
玄と再同盟するきっかけともなったのだ。
やがて、武田信玄は今川〜徳川〜織田へと戦いを挑んだ。


10月6日 三増峠の戦い・・・浅利信種が北条綱成の鉄砲隊に
    討たれて戦死した。
     
(★『大成』武田氏家臣団人名辞典:丸島和洋文責)
子どもは浅利彦次郎がいたらしい。
 子孫は群馬町の黒崎氏である。


内藤昌豊は小荷駄隊を率いて補給部隊。
      相模津久井城にいて、後方支援。
  →内籐修理助昌豊が箕輪城就任。
  (★みのわの歴史・箕郷町誌:近藤義雄先生)
 
箕輪初心●相模:津久井城=三増峠の戦いの地
http://53922401.at.webry.info/201411/article_17.html


箕輪初心▲武田信玄:鉢形城〜滝山城〜小田原城〜三増峠の戦い
http://53922401.at.webry.info/201411/article_19.html



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