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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田幸綱(幸隆)・信綱・昌幸の吾妻支配A「永禄10年〜天正10年」

<<   作成日時 : 2016/06/27 23:21   >>

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・永禄10年 (1567)55歳
    昌幸に次男:信繁(幸村)生まれた。
3月  真田幸隆と信綱は計略により上野白井城:長尾憲重を攻略
    した。長尾憲重を箱田城代(後白井城代)にした。
3月6日 武田信玄の感状
3月8日 真田幸隆が箕輪城代になった。
箕輪城は前線基地にした。というより、上野国の半分を手に
  入れたので、駿河を侵攻先にした。
武田信玄に真田幸綱(幸隆)はずいぶんと信用された。
画像



◆◆ 箕輪初心●三島根小屋城&浦野一族 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201202/article_17.html

◆◆ 箕輪初心●箕輪城&浦野安孫氏の文書 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201109/article_21.html
★箕輪城の長野業盛の子:亀寿丸の資料も
 ある。

義信事件・・・甲相駿が崩壊。
箕輪初心:生方▲真田丸6【生島足島神社】武田信玄の起請文
・真田信之の起請文
http://53922401.at.webry.info/201601/article_8.html


 8月 生島足島神社の起請文・・・武田信玄に起請文を提出。
 武田信玄は組織固めのため、家臣から起請文を集め、生島
 足島神社に奉納した。
(起請文の現存部分に信濃先方衆筆頭だった真田幸隆・信綱父子
  のものはない)
  海野氏など小県郡の家臣の起請文は残っている。
 ★僕んちの母方の一族「塚越伴七」もいる。
  「前の家」の塚越一恵さん系図がある。


  ほかに、上野国の国衆・信濃国衆が多かった。

 武田氏が今川氏と国交を断絶したことで、吾妻郡は
 北からは上杉氏、南からは北条に攻められることになった。
 2強に挟まれた真田幸綱(幸隆)は窮地に立たされた。

上杉氏と北条氏の間に挟まれた吾妻郡・・・・

?月 武田信玄は真田幸綱(幸隆)を支援するために、
   箕輪城へ佐久郡の祢津信直や大井高政などを加勢させた。
  真田幸綱(幸隆)が死守した
  
10月 甘利昌忠・真田幸綱(幸隆)・金丸虎泰が箕輪城城代となった。
   城番・・・曽根昌世・伴野助十郎・大井貞清など

11月 武藤喜兵衛尉は昌幸は高遠城に武田勝頼の嫡子誕生祝いの
   使者として赴いた。
義信事件・・・武田信玄は嫡男・義信を自殺させる。
  
  義信事件後、今川氏との関係が悪化した。


・永禄11年 (1568)56歳
  2月 武田信玄は上杉謙信の飯山城を攻めた。
  越後と信濃の国境での上杉氏との交戦に備え、小県から
  芦田氏・丸子氏・武石氏などを出陣させた。
 9月  織田信長、足利義昭を奉じて京都に入る。
     武田信玄は今川領国への駿河侵攻が開始した。
10月 武田義信が甲府の東光寺に幽閉された。
 今川義元の娘と強制的に離縁された上、後継者の地位を失った。
  (★『甲陽軍鑑』)
12月 武田信玄は徳川家康と組んで今川氏真を攻め始めた。
   真田信綱と真田昌輝や依田信守も参戦した。

・永禄12年 (1569)57歳
2月  武田信玄が駿河蒲原城を攻略した。
    陣中から真田幸綱(幸隆)、真田信綱に戦況を報せた。

4月 上杉輝虎(上杉謙信)が白井城に在陣していたため、
    武田信玄は真田信綱に状況を報告するように書状を
    出した。
武田信玄より真田信綱は単独で作戦に参加するようになった。
真田幸綱(幸隆)も真田の郷の支配も任せることにしたよう
 である。
 
 9月16日 織田信長は足利義昭に会うため京へ上洛した。
 足利義昭は織田信長に危機感を感じて、反織田の大名に向けて
 織田討伐を打診する密書を送った。
 ・・・織田包囲網である。
 武田も密書が届きました。

上杉謙信の動向次第で今川・北条への攻撃ができなくなる
 可能性があった。
 武田信玄は織田信長に上杉謙信の動きを封じるように要請した。

箕輪初心▲武田信玄:鉢形城〜滝山城〜小田原城〜三増峠の戦い
http://53922401.at.webry.info/201411/article_19.html

10月 ▲三増峠の戦い
   真田幸綱(幸隆)と武藤喜兵衛(真田昌幸)も参戦した。 
   真田昌幸が使番を勤め、一番槍の功をたてた。

12月  武田信玄が駿府を再占領した。
今川氏真は掛川城に逃げた。

永禄13年(1370)
1月   駿河花沢城攻めに参陣する。
4月  武田信玄は花沢城の戦後処理・在番を真田信綱に任せた

(4月23日までが永禄年間)
  真田幸綱(幸隆)は白井城を再び攻撃した。
  一時開城となった?・・・
  その後、真田勢が撤収した。
  長尾憲景は再び白井城に戻った。

・元亀元年 (1570)58歳
   春日虎綱(高坂弾正)に、伊豆の武田軍に参陣を命じた。

 10月 信玄は、上洛計画を進め始めた
  織田・徳川両氏との同盟を解消した。
徳川家康は上杉輝虎と同盟を結び武田信玄への攻勢を強めた。
武田信玄は徳川家康への攻撃を始めるために北条氏康に和睦を
 持ちかけた。

・元亀2年 (1571)59歳
9月  織田信長が比叡山を焼く。
10月 北条氏康が病死。
   家督が北条氏政に継がれた

12月 武田信玄と北条氏政は同盟を結んだ。
   真田幸綱(幸隆)は上杉謙信だけを相手にすればよいこと
   になった。
  真田幸綱(幸隆)が白井城に侵攻した。

・元亀2年(1571)
【信玄公沼田発向之事】・・・★謙信公の間違いである。
永禄年中沼田万鬼斎父子没落沼田乱れければ、元亀二年(1571)に
信玄公岩櫃の城に御着有て、先陣真田弾正幸隆、清野刑部左衛門を
先手として尻高の城へ掛られ給へば、尻高左馬介は降参して嫡子源
次郎を人質に参らせ御先手に加り中山に討ち入り給いは、中山斎藤
安芸守も取物も取りあえず金の馬鎧を打かけ五十人ばかりの供廻り
にて添はずが森に出向いて降参したりければ、家老平形丹波守父子
を人質に出し御手に加え不動峠に御陣をすえさせ給いければ、名胡
桃城主鈴木主水、小川城主小川可遊斎を始め北能登守参陣したりけ
り。発知図書・山名信濃守も同日に御礼に申したりけり。その頃沼
田は謙信公の持分なり。〜〜〜〜(中略)〜〜〜〜尻高・中山を始
め景虎公{信玄公の誤り}に属したりければ、謙信入道吾妻郡を責
め取るべしとて度々大道峠の辺りまで出馬あるけるが・・・
〜〜〜(後略)〜〜〜〜。」
(★加沢記・・・脇屋真一著「加沢記釈文より転記) 

箕輪初心●岩櫃城探検隊第8弾【中山城2回目】
http://53922401.at.webry.info/201311/article_13.html

箕輪初心●群馬旧高山村の城:中山城1回目&並木城
http://53922401.at.webry.info/201201/article_23.html
  
・元亀3年(1572)60歳
3月  真田幸隆は上杉輝虎(上杉謙信)と親戚の
   長尾憲重を計略し白井城を攻略した。
3月6日 武田信玄が賞賛し、
  箕輪城に在城して高坂弾正の指示を受けるよう指示した。
3月8日 真田幸隆は箕輪城主となり吾妻郡を支配した。
     真田信綱を上田・小県郡を支配した。

10月 武田信玄は上洛を開始した。
   信濃と甲斐の軍隊を結集させ、重臣:山県昌景と秋山信友
  の軍隊を徳川氏の三河と美濃へ攻め込ませた。
  西上作戦が本格的に始まった。
12月22日  遠江三方ヶ原の戦い
  真田信綱・武藤喜兵衛が率いる真田衆も参戦した。
  武田信玄は徳川・織田連合軍を破った。
  徳川家康の曳馬城(浜松城)近くまで攻め込んだ。
★徳川家康の脱糞伝説
★徳川家康の苦虫を潰したよう絵千説

 徳川家康は上杉氏に武田方の上野国を攻めるよう要請した。


・天正元年 (1573)61歳
3月  白井城が上杉軍に奪われた。
    さらに吾妻郡にも攻め込んできた。
    真田幸綱(幸隆)は武田信玄が西進する中、
    北条氏と上杉氏に対処しなければなたなかった。

4月12日  武田信玄は三河からの帰陣の途中、伊那駒場(飯田市)
      で病没した。享年53。
       武田信玄の4男:武田勝頼が家督を継いだ。
  武田勝頼がまだ武田家当主になるには経験不足であると感じていた
  武田信玄は自らの死を3年間秘密にしておくように遺言した。

  武田信玄が病死したことは直ぐに上杉輝虎(上杉謙信)・
  徳川家康に知られた。
 徳川家康は織田信長に信濃へ侵攻することを提案した。
  徳川家康は武田信玄に攻落された長篠城を奪還した。
奥平信昌が入城した。

  武田勝頼は甲府からすぐに出兵せざるを得ない状況へ追い込
  まれた。

  上杉輝虎は真田幸綱(幸隆)が守っている吾妻郡を攻めた。
   しかし、真田幸隆の病気?は悪化していった。
   老衰が急激に進んだ。

・天正2年 (1574)62歳
?月?日 真田幸隆:真田昌幸が上杉謙信傘下の尻高城を
  攻撃した。尻高城主:尻高景家は海野三河守輝幸に攻められ、
  尻高景家は敗死した。子の尻高義隆は落ち延びた。
  遺児の尻高義隆は猿ヶ京で宮野城(現湖城閣)を築城?
  吾妻郡から真田昌幸の圧迫を受けた沼田以北は武田軍の傘下
  となった。
 ・・・尻高義隆は孤立。 

5月19日 真田幸綱(幸隆)が死亡した。 享年62。
  @岩櫃城説
  A砥石城説 
 真田信綱が家督を継いだ。

5月28日付 武田勝頼が高天神城を攻撃。
★後日、掲載予定  




武田勝頼が真田幸隆の病状を案じた書状が届いた。

・天正3年(1575) 5月 長篠の戦い
真田信綱 真田昌輝 禰津元直 禰津月元 望月甚八郎 
常田永助 河原正良 河原正忠 河野通秀
鎌原重澄 湯本善大夫 富沢勘十郎 富沢治部など
が討ち死にした。

重傷 植栗河内守 横谷左近など


 武藤喜兵衛尉(真田昌幸)も長篠合戦には参加していたが、
 武田勝頼旗本衆として参加していたため、戦死は免れた。
 
  真田家を武藤喜兵衛尉が継いだ。
 真田昌幸を名乗った。
 
 真田昌幸は真田領の仕置のために真田の郷に戻った。
 真田氏の本拠は砥石城になっていた。

 しかし、武田勝頼への甲府出仕も多かった。
 本領と甲斐を往復する事を繰り返したらしい。
  矢沢頼綱は真田昌幸に従い、吾妻郡の経営や沼田領侵攻の指揮を
 執った。

◆◆ 箕輪初心◎長篠の戦い前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_25.html

箕輪初心◎長篠の戦い後編:設楽原の激闘&上野国関係者
http://53922401.at.webry.info/201211/article_27.html

箕輪初心▲伊香保温泉&【文人墨客】復刻版
http://53922401.at.webry.info/201503/article_30.html
★伊香保温泉の石段街は武田勝頼が真田昌幸に命じて造らせた。


・天正4年(1576) 
   1月 武田勝頼は岩櫃城城代に海野長門守幸光・海野能登守
   輝幸兄弟を任命した。
    (★『武田勝頼朱印状案』)

 一端は白井城は真田信綱→真田昌幸の支配下であったが、
 白井城の長尾左衛門入道憲重は上杉謙信の命で
 岩井堂城、柏原城に度々侵入した。
 
 真田昌幸は白井城の最前線基地として、吾妻川左岸の
 岩井堂城・吾妻川右岸の柏原城(旧東村)に多くの武将を
 配置した。 
 岩櫃城代の海野幸光・海野輝幸に指揮をとらせた。

 柏原城   植栗河内守 湯本左京進 荒卷宮内少輔
 岩井堂城  富沢伊代守 富沢豊前
         塩谷掃部介 佐藤将監
         割田下総 割田新兵衛 唐沢玄蕃 
         山田与惣兵衛   
 手子丸城  大戸真楽斎
 三島     浦野中務少輔
 厚田     一場太郎左衛門 
 蟻川岳要害  蟻川入道 蟻川庄左衛門 蟻川新保佐左衛門
 嶽山城     池田佐渡守 桑原大蔵 町田 鹿野

 
・天正5年(1577) 真田昌幸は白井城を攻略した。
 ・真田昌幸は真田幸隆から白井城代を命じられた。
  長尾憲景は八崎城(旧北橘村)・箱田城に逃れた。

・天正6年(1578)   
3月吉日 上野国の白岩観音が観音堂が完成した。
(武田信玄の家臣:那波無理之助が燃やして以来の
     再建になった。)
棟札に武田勝頼・内藤昌月・北爪土佐守(高崎市浜川町)
がある。

3月13日(4月19日)上杉謙信が死去。

5月〜6月 ▲御館の乱・・・★御の写真が消滅。
上杉景虎(上杉謙信の姉:仙桃院+長尾政景の子:甥)
  VS
 上杉景虎(北条氏康の7男→上杉謙信の養子)

6月11日 旧上杉謙信重臣:かつての沼田城在城の河田重親
 (河田長親の叔父・・・)
  は厩橋城の北条高広・景広らと上杉景虎の支持を表明した。
  (★6月11日付北条氏政判物写:群馬県史等)
  沼田の後北条氏の勢力が拡大した。
  河田重親は上杉景勝方に属した沼田城代:上野家成らと戦い
  沼田城を奪取した。

そこで、上杉景虎(北条氏康7男)は兄:北条氏政に応援を要請
した。
北条氏政は甲相同盟を結んでいる武田勝頼に上杉景虎
の支援を要請した。

武田勝頼は2万の軍勢を率いて信濃国から越後へと侵攻した。
また、旧上杉謙信の支配下の沼田への調略を真田昌幸に命じた。
真田昌幸は調略を開始し、高山村中山城・尻高城から、また、
白井城からに上杉の勢力を取り込んでいた。

上杉景勝は劣勢になった。領土の割譲と黄金譲渡を条件に武田
勝頼と同盟を求めた。武田勝頼に沼田領が割譲する条件を提示
した。

6月?日
武田勝頼は、上杉景勝の求めに応じて同盟を結んだ。
武田勝頼の妹:菊姫が上杉景勝に嫁いだ。

8月 武田勝頼は上杉景勝と上杉景虎の2人を和睦させること
 に成功した。
 三河の徳川家康が武田勝頼の留守を突いて、武田勝頼の
 駿河高天神城へと侵攻した。

 武田勝頼は越後からの撤退を余儀なくされた。

すると、上杉景勝は上杉景虎との和睦を破棄して上杉景虎を
攻めたのである。

北条氏政は、佐竹義重らに足止めされていたが、ようやく上杉景虎
の支援に乗り出した。
北条の軍勢3万余が上杉景虎の擁護のために沼田に出張っ
 てきた。
鉢形城主兼任箕輪城主:北条氏邦ら30000で沼田城に侵攻。
猪俣能登守邦憲(旧名富永助盛:北条bSの富永一族)が
 沼田城の城代?沼田城主?に置いた。
 藤田信吉(北条氏邦の妻:大福御前の弟)・金子美濃守泰清
 (沼田顕泰の側室の兄)を城将に入れた。 

 沼田城主:河田重親&厩橋城主北条高広と合同での
 坂戸城攻めを命じられた。

 河田重親・北条高広は上杉景勝側の宮野城:兵:を追って三国峠
 を越えた。

しかし、雪が降る気配はしてきた。
・・・撤退となった。

河田重親&北条高広は越年体制となったため沼田領から
 切り離されて越後に滞陣した。

 武田勝頼と北条氏政は東上野の領有を巡り抗争が始まった。

10月 真田昌幸は北条氏邦の名胡桃館&小川城攻撃
     大雪のため、失敗。  

東上野では厩橋城の北条高広・太田金山城:由良氏、伊勢崎の
那波氏らが武田勝頼に転じた。
 
12月 河田重親・小中彦兵衛らも武田勝頼に服属した。
 厩橋城:北条(きたじょう)高広は子:景広と共に上杉景虎を
 支持して上杉景勝と戦った。

沼田地域の後北条勢は孤立した。
   
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲【大江広元→越後毛利氏〜北条(きたじょう)高広】
http://53922401.at.webry.info/201512/article_16.html
★越後毛利何条→毛利元就・毛利輝元へ

箕輪初心▲2015スキー19新潟『Last神楽』&「湯沢荒砥城」
「二居温泉」&「浅貝寄居城」
http://53922401.at.webry.info/201506/article_2.html

箕輪初心:生方▲新潟:【居館→坂戸城詰め城1回目:夏編】
&坂戸城の歴史詳細
http://53922401.at.webry.info/201505/article_12.html
箕輪初心:生方▲新潟【坂戸城大城2回目→搦め手道:春】後編
&清津峡温泉
http://53922401.at.webry.info/201505/article_14.html

箕輪初心:生方▲新潟【坂戸城→詰め城2回目:春編カタクリ
の山】前編
http://53922401.at.webry.info/201505/article_13.html

箕輪初心◆2013群県博:新潟県「上杉氏」関興寺・瀧澤寺・雲洞庵
・坂戸城・管領塚
http://53922401.at.webry.info/201310/article_21.html
瀧澤寺に仙桃院の遺品がある。川を挟んだ南東隣は樺沢城である。

箕輪初心◆三国街道1:高崎〜金古〜渋川〜金井〜北牧〜横堀〜中山峠
http://53922401.at.webry.info/201311/article_16.html

箕輪初心◆三国街道A【中山宿〜須川宿〜猿ヶ京〜永井宿〜▲三国峠】
http://53922401.at.webry.info/201311/article_17.html

箕輪初心◆三国街道B:17浅貝宿〜20湯沢宿〜22塩沢宿〜25浦佐宿
http://53922401.at.webry.info/201311/article_18.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201311/article_18.html

箕輪初心◆三国街道C:26堀の内〜30長岡〜31与板〜35寺泊
http://53922401.at.webry.info/201311/article_19.html

箕輪初心▲真田丸14【真田道→三国街道】2016スキー@新潟『神楽』
http://53922401.at.webry.info/201601/article_17.html

 
・天正7年(1579)
 武田勝頼の下で政務を執る真田昌幸に代わり、矢沢綱頼が
  沼田城の攻略に従事した。
 9月 真田昌幸は武田勝頼の命令で北条氏政の沼田領へ侵攻
  した。真田昌幸は沼田衆:金子美濃守を調略によって切り
  崩し、叔父:矢沢頼綱に沼田城を攻めさせた。
  一方、名胡桃城の鈴木重則と小川城の小川可遊斎を誘降させて
  両城を手に入れた。そして沼田城を攻撃したが、北条氏邦が
  援軍に駆け付けたために撤退した。

・天正8年(1580) 
1月 上杉景勝は
「北条丹後守(景広)さえ討ち取れば、景虎は如何にもなるべし。」
と配下を叱咤した。

2月1日 上杉景勝は配下諸将に御館の上杉景虎総攻撃を命じた。
 北条景広が府中八幡宮に参籠し、柏崎の北条城に帰りを
 狙い、景勝軍の荻田長繁は数名の兵を連れて待ち伏せした。
 北条景広は槍を受け負傷し、致命傷となり死去した。
 上杉景虎派の中心人物の一人であった景広の死によって、景虎派は
 離反者が続出し、敗北することになった。 
 柏崎の本城:北条城などを落とされた。
 荻田長繁が方々に火を放った。

小田原北条勢の前線基地:樺沢城も上杉景勝方に奪回された。
 雪に阻まれて北条勢からの救援も望めなかった。
 
 
【御館の乱】の終結
3月17日 謙信の養父:上杉憲政が御館から脱出し、和議を求めて
 上杉景虎の長子:道満丸を連れて上杉景勝の陣に出頭する途中で、
 上杉景勝方に包囲され、道満丸もろとも殺害された。
 御館は放火され落城した。
 上杉景虎は上杉景虎への総攻撃を命じた。
 御館を脱出して逃亡中、鮫ヶ尾城に寄った。
 景勝方に寝返った城主:堀江宗親に攻められ
3月24日 上杉景虎は自害した。

越最終的に乱が収束したのは、それから1年余りかかった。

★上杉景虎は自刃。上杉景勝の勝利によって沼田城を支配していた
 北条方はこの事態に動揺した。
 北条氏康の子:上杉景虎が国主になるはずだった越後一国が
仇敵となってしまった。
 岩櫃城にいた真田昌幸にも伝わった。

 武田勝頼は上杉景勝から沼田城の攻略の許可をもらった。
 武田勝頼は真田昌幸に利根川の渡河点警護と沼田城攻略の
 命令を出した。
真田昌幸は名胡桃城・沼田城攻略を企図した。

 一方で、長尾憲重を家臣として調略し、白井城代とした。


● 真田昌幸の謀計
真田昌幸は動揺に付け込み、謀略をめぐらせた。
内から城将:藤田信吉・金子美濃守に内応を説き、
外から叔父:矢沢頼綱を総大将にして 名胡桃攻略へ出陣
させた。

2月 真田昌幸は小川可遊斉を味方につけ、
  真田昌幸は元々いた小川城の小川可遊斉を城代とした。

 小川可遊斉を使って名胡桃館を攻略した。
 名胡桃城主:鈴木主水正重則の調略に成功した。
矢沢綱頼は戦功を挙げ、武田勝頼から感状を受けている。

●名胡桃城の築城開始。
 真田昌幸に後北条氏から沼田城・沼田領を奪取するための
 前線基地として名胡桃城を築いた。
 *名胡桃城築城・・・・城代は鈴木主水重則とした。
★八木節に出てくる「主水」である。

3月 北条氏邦が名胡桃城&小川城再攻撃
   名胡桃城は矢沢頼綱が死守した。
   小川可遊斎が撃退した。

3月 武田勝頼が矢沢頼綱に北条から死守を褒め、
   調略を進めるように指示した。
    真田昌幸を送ることを伝えた。   

閏3月 真田昌幸は沼田城攻撃を再開した。
  (★加沢記)
再び沼田城を攻めたが、北条氏邦などの援軍により撤退した。

4月 名胡桃城に入った真田昌幸の下に金子美濃守が降伏した。
  以後、金子美濃守泰清(老神出身)は真田昌幸の家臣になった。

5月 北条氏邦は明徳寺城(旧月夜野町後閑)を対岸に
築城した。※関越自動車道脇
     
→権現山城(=榛名山峠城)の戦い
   ※権現山城(=榛名峠城)・・・名胡桃城の南西の峠
   

●沼田城の攻略
5月4日 矢沢頼綱に包囲された沼田城は藤田信吉が開城。
真田勢の矢沢頼綱は沼田城を攻略。 
 実際には矢沢綱頼の金子美濃守を味方につけ、攻略した。
 沼田城を無血開城させた。
  調略で沼田城を手に入れることに成功した。
   ★藤田は矢沢の調略に乗った可能性がある。        
   ★藤田信吉は北条氏邦の大福御前の弟:義弟に当たる。    
  名胡桃城は沼田城と岩櫃城の中継地となった。
   武田氏の沼田城代:藤田信吉が誕生。    
 
★要害・要衝:沼田城を簡単に手中に収めることに成功した
  真田昌幸というより、矢沢頼綱は見事だった。
叔父:矢沢頼綱は父:真田幸隆と同等の知略を持っていると
安心して任せていたのであろう。
 
6月〜
沼田城代:海野能登守が宮野城を包囲した。
         尻高義隆は自刃?
 宮野城(猿ヶ京城)も攻め落とした。 
 ※地衆の中沢半右衛門宛に武田氏方である真田昌幸の判物
   「猿ヶ京三之曲輪を焼き払った。」ことが書かれている
 →二の曲輪のさらに外側に三の曲輪があったのだ。
 三国峠を挟んで武田側にとって宮野城が堺目の城であった。
 上杉側にとっては、三国峠上の砦・浅貝城・荒砥城が
  押さえの城であった。
 
 真田喜兵衛尉を改め、従五位下・安房守に叙任された。


●武田勝頼家臣:真田昌幸は真田〜嬬恋〜草津〜中之条〜高山に
 加えて、水上・沼田・利根を手中に治めることになった。
 群馬県の北毛地域で4分の1程になる。


・天正9年(1581)
 武田勝頼の命で新府城の人夫動員を通達された。
  @真田昌幸の新府城築城は作事奉行説
A真田昌幸の縄張り説
  A真田昌幸は麾下の諸将に人夫動員を通達しているだけという説
 
箕輪初心:生方▲山梨【新府城】:武田勝頼60日の城&出浦盛清
 http://53922401.at.webry.info/201504/article_25.html
 元沼田城主・沼田景義が旧領奪回を図った。
 真田昌幸は家臣:金子泰清に命じて沼田景義を討ち取った。


・天正9年(1581)
2月 矢沢頼綱は武田勝頼から沼田城攻略の戦功を称
   えられて太刀を拝領した。

11月  海野幸光、輝幸による謀反疑惑???
  矢沢頼綱が海野氏を討伐すべきであると真田昌幸に進言したこと
  により、真田昌幸は海野氏が城代を務める岩櫃城・沼田城を攻略、
  海野氏を一掃した。
   真田氏の組織内部の結束は確かものになった。


・天正10年(1582)
2月28日 北条氏邦は箕輪城に入城した。
(★新編高崎市史4)
 
3月11日 武田氏が滅亡。


〜〜〜甲斐での真田家の動向〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
※真田昌幸は一方で武田滅亡以前から北条氏直との接触していた。
@石原家(兄は三枝家への養子)文書
 真田昌幸が8歳の娘の「帯解きの儀」を八王子城の垪和(はが)
 伯耆守康忠にお願いしている。
つまり、真田昌幸が、ただ、真田一族の領土への執着心からした
ことである。
 (★石原家文書:かみつけの里友の会:黒崎会長)
A長尾憲景文書
真田昌幸は武田家の滅亡前から、八崎城(渋川市旧北橘村)
 の長尾憲景を通じて、北条氏政と帰属交渉を開始していた。


1月  新府城築城
  甲斐の領民に重税を課した。
  織田信長の来襲に備えて新築した城であった。
  武田勝頼:妹の夫:木曽義昌が税と不易に不満を持ち、
  離反した。織田信長に臣従した。

2月14日 浅間山噴火

3月1日 穴山梅雪が離反し、徳川家康に付いた。

3月2日 軍議
@武田信勝・・・新府城に籠城
A真田昌幸・・・岩櫃城に「潜龍院」を築城
          し、来るように伝えた?
   
B小山田信茂・・岩殿城に


・・・新府城は未完成。守り切れない。
岩殿城で籠城&迎撃・・・


3月11日 武田氏が滅亡。



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