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zoom RSS 箕輪初心:生方▲【武田信玄の上野侵攻】A永禄4年〜永禄9年:箕輪城攻略

<<   作成日時 : 2016/06/26 08:10   >>

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※永禄4年(1561)9月 第4次川中島合戦を契機に武田信玄の
信濃侵攻は一段落し、11月からは西上州(上野国)の出兵を
本格化した。武田信玄と上杉輝虎の戦いは川中島から関東に
舞台を変えていったのである。この段階での、武田信玄に臣従
していた上野国武将は長尾景虎の「関東幕注文」に名前のな
い武将・・・@鎌原幸重、A小幡重貞(→信貞・信実)B市川一族、
C木部範虎、 &D新田景純(丹生城)?であろうか?

画像

 (★典厩寺の絵)

【6】武田信玄の西牧・高田・諏訪侵攻&国峰城奪還


箕輪初心●群馬:富岡の城:「丹生城」
http://53922401.at.webry.info/201107/article_19.html


9月 武田信玄は小幡重貞を砥沢の羽沢城に(南牧村砥沢
  :旧羽沢小学校)に転勤させた。
  (★上毛古戦記28話)            
  市川馬之助兄弟など南牧地衆を配下とした。
    
 
10月11日付 武田晴信書状写   
 「市川右馬助殿・市川右近助殿・市川縫殿助殿
 其地出陳之由、辛労察入候、年来小幡殿申談義云々」
  市川氏は小幡憲重・信実の同心衆に編成替えされた。
(★黒田基樹)
 武田信玄命令で市川一族を家臣団に取り入れた。
   (★真田三代:平山優著)



11月 西上州への本格攻撃開始E
11月2日 武田信玄が佐久松原神社で祈願状奉納
 「・・・・その意趣は、殆ど西牧・高田・諏訪の三城二十有日
  を経ずして或いは幕下に降り、或いは撃砕散亡せば、偏に
  当社の保護あるべし。」
武田信玄は佐久郡松原社(小海町)で高田・諏訪(松井田)の
 撃砕の祈願文を捧げた。

 ▲@西牧・・・西牧城か根小屋城
   ★下仁田の小幡三河守か家臣の城か?高田氏の城か?
   ・武田信玄は西上州の根小屋城(西牧)築城説もあるが?
 ▲A高田・・・高田城・菅谷城
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箕輪初心●群馬の城:富岡(旧妙義)菅原城&高田館
http://53922401.at.webry.info/201107/article_20.html

箕輪初心●群馬の城:「旧富岡27・旧妙義5」@城一覧表
http://53922401.at.webry.info/201107/article_15.html

箕輪初心:生方▲真田●59【志賀城】:笠原清繁&高田憲頼
/大虐殺&人身売買
http://53922401.at.webry.info/201603/article_4.html

  ▲B諏訪・・・★おそらくは松井田西城(金剛寺)
   長野憲業の弟:諏訪明尚であろう。
   (★『春日山林泉寺開山曇英禅師語録』))
  諏訪明尚以外に長野憲業の弟はいなかったとする。
   (★黒田基樹説)     
  ・
 小幡信実(重貞・信貞:天正16年から〜臣従?)も
 当然、加わっていたのだ。小幡氏の分家筋?本家筋かも
 しれないが一の宮氏(貫前神社宮司系)も加わっていた。

 

  小幡三河守・高田繁頼・高田信頼も参戦した。・・
 高田憲頼の実子は武田信玄の一字をもらって高田信頼
 となった?。  


 
安中八幡陣城・磯部城拡張+文殊寺城築城
松井田城・安中忠政 と 安中城:安中忠成の分裂を
  図った。

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箕輪初心●安中の武田信玄築城【磯部城・八幡平陣城】
http://53922401.at.webry.info/201211/article_15.html

★安中→宇田城・(貫前神社)・宮崎城→富岡→甘楽国峰城
 貫前神社の南西部500mが宮崎城である。

箕輪初心●群馬の城:富岡「宇田城」
http://53922401.at.webry.info/201107/article_21.html

箕輪初心●群馬の城「宮崎城→神成城」=小幡図書之介の城
http://53922401.at.webry.info/201107/article_16.html



11月?日 武田信玄は小幡信貞の従兄弟の小幡図書之介に
 乗っ取られた国峰城を奪い返して、小幡憲重・信実
 (重貞→信実→信貞)に復帰させた。
 
※霜月(11月)24日
  小幡に晴信様が御出張の時、直ちに参上し申し出て受け取った。
(★「長年寺文書」の「天産受連覚書」)
    武田信玄は国峰城:長野業政2女の娘婿の小幡図書介を攻略
 した。
 
 →@長野業政長女の娘婿:小幡重貞(図書介従兄弟)が国峰
  城主に返り咲いた。 
 小幡信貞は国峰城を取り戻して貰ってからは、武田信玄の
 上野国の家臣団として、南牧の市川一族を同心として
 配下に加え、山県昌景同等クラスの騎馬軍団に成長して
 いった。市川家は佐久で馬の管理をしていたからである。
当時、モンゴル馬も唯一管理していたそうである。
  モンゴル馬は日本馬より大きく、タフで速かった。
(五郎兵衛記念館:根沢氏の話・・・根沢氏も南牧出身)

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箕輪初心●群馬の城:旧甘楽町A国峰城=武田24将:小幡重貞
http://53922401.at.webry.info/201107/article_7.html
★24将ではなかった。根澤館長は武田晴信の騎馬軍団では
 小幡信貞が最強であった。馬が圧倒的に多かった。



 武田信玄は貫前神社に制札を出した。

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箕輪初心■群馬パワースポットA「貫前神社 」
http://53922401.at.webry.info/201011/article_28.html




・永禄4年(1561)武田信玄の平井城攻撃
武田信玄→小林監物宛の手紙
「味方になれば、所領安堵する。」
高山行重・高山定重・高山衆・
小林平八郎監物は武田信玄に臣従した。
 藤岡を支配下に置いた。
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箕輪初心▲群馬:【高山館&高山城】&高山氏の戦国時代
http://53922401.at.webry.info/201505/article_20.html
世界遺産:高山社は平時の館跡である。
★小林館の写真は消滅してしまった。




【7】長野業正の死去→大戸浦野氏+真田幸隆&甘利昌忠の榛名侵攻1
 ・滋野系の同族:真田幸隆は大戸城の大戸浦野氏に味方に
 なるように説得した。大戸浦野氏が話に乗った。
 →浦野氏が室田(旧榛名町)の長年寺に放火。

・永禄4年(1562)
 11月19日付 武田信玄→宛名なし
(鎌原幸重・重澄)武田信玄は小幡にいる時、
 「調略故其許時宜可然様ニ候、、此表追日任存分候、就中高田降参、
  今日ハ休馬、明日■向干国嶺及行候、近日分人数其筋へ可遣条、
  弥相調候様無油断計策専一候、」
(★『鎌原家家譜』・『加沢記』)
(★『信濃真田氏』丸島和洋編集:唐沢定市文責P98)
 ★意味・・・「高田城を落として味方につけました。今日は馬を
  休めます。明日は(永禄3年に小幡図書介に乗っ取られた)
  国峰城を攻略するつもりです。近日中に鎌原支援の軍兵を
  其の筋(吾妻筋)に遣わすことを約束します。油断しない
  で調略を進めてください。(待っててね〜〜。)恐れながら
  謹んで申し上げます。」

  つまり、鎌原氏は上野進出以前に武田信玄に臣従している
  ことが分かる。

(★『戦国期上杉・武田氏の上野支配』:栗原修著)





【8】大戸浦野氏+真田幸隆&甘利昌忠の榛名侵攻2
■永禄5年(1562) 
2月? 長野氏業(業盛)は三夜沢赤城神社に戦勝祈願

真田幸隆の誘いに武田方に上州鎌原城(鎌原氏:海野一族)
  →浦野氏が室田(旧榛名町)に放火。
  →浦野氏が長野三河守入道(たぶん業氏)ら80余名を討ち取る。
   (★関東古戦録)
  ★長野三河守入道=たぶん長野業氏だろう。
   (★まんがみさとの歴史・秋本太郎先生)

※峰岸純夫先生・黒田基樹氏は永禄9年(1566)5月と考えている。
※『群馬県史 資料編7』No.2728は長野三河入道が戦死した。
  年次はなく、日付のみで『群馬県史』による比定である。
 浦野氏は榛名の稲を刈り取った。
    (★受連の文書)
  →甘利昌忠は武田信玄に浦野中務少輔を家臣に推挙した。


真田幸綱(幸隆)&真田昌幸が甘利昌忠の
 サポートにより、大戸氏(→浦野氏)ら
 吾妻衆と永禄5年(1562)〜9年(1566)にかけて数回にわたり、
 北から岩櫃→大戸→倉渕→榛名に侵攻した。
 この間、長野三河守ら80人を討ち取ったり、長野氏菩提寺:
 長年寺を焼いたり、受連以外の僧を殺害したり、田の稲の
 穂狩りをしたりした。
 関東幕注文では大戸10騎なので、40人。多くて50人。
これでは80数名は殺せない。
当然、真田幸隆&甘利昌忠がバックにいた。
 


・永禄5年(1562)上杉政虎は北条(きたじょう)高広を厩橋城代とし、
   那波城・伊勢崎城を支配した。
  北条高広はこのあと30年近く、厩橋城・片貝城にいた。
(★『大江・毛利の一族』:関久著)
    



【9】武田信玄の西上州への安中への直接攻撃&築城
■永禄6年(1563)2月21日、石井讃岐守信房討死。31歳。
  ★鷹留城の攻撃があったのだろう。
(★秋間石井泰太郎系図)
***************************************************
箕輪初心●箕輪城81「大悍猿=風「見繁美氏の講演会」
http://53922401.at.webry.info/201209/article_12.html

箕輪初心:生方▲群馬富士見【石井岡城】
&箕輪城181長野業正養子:里見義樹=石井信房
http://53922401.at.webry.info/201512/article_5.html

箕輪初心:生方▲箕輪城170【黒田基樹説を加味した長野氏の系譜】
http://53922401.at.webry.info/201510/article_2.html


・永禄6年(1563)  
 那波顕宗(あきむね)が北条高広の妹を正室にした。
 ★政略結婚ではあるが、2人とも先祖は大江一族である。
  
 
 長男:那波無理之助=名和宗安は武田信玄の家臣として
  箕輪城攻撃に参加していた。
 

・永禄6年(1563)武田信玄の吉井攻撃
箕輪初心●群馬の城:高崎旧吉井38城@「吉井陣屋他」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_11.html

箕輪初心●群馬の城:高崎吉井38城A「多胡館他」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_12.html
 
箕輪初心●群馬の城:高崎旧吉井38城B「一郷山城・奥平城他」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_13.html

武田信玄は甘楽・多野地方を掌握。   
吉井:長根50騎(長根氏+小河原氏)+多比良氏などを
 味方にした。  
 

若田原(高崎市八幡町)の戦い
 長野氏業の家老藤井友忠が中心になって反撃した。
※箕輪城の城兵は板鼻、若田ヶ原などで反撃した。


6月 鎌原幸重 VS 羽尾幸全
    (領土争いに真田幸隆は叔父?鎌原幸重に味方
     羽尾も同族であった。でも、斉藤家家老であった。)
   真田幸隆  VS  斉藤憲弘

10月 真田幸隆は岩櫃城を攻略した。
  やがて、斉藤憲弘の子:城虎丸も嶽山城で自殺させた。

12月 武田信玄は倉賀野城攻撃のため、木部城を再興して、
  陣をはった。
 (★浦野家文書)


12月5〜6日 大規模な箕輪城攻撃
 武田軍は箕輪に向かって『行(くわだて)』を行い、城外はもちろん
 長純寺まで悉く放火した。
  (峰岸先生・浦野家文書:榛名町誌:久保田順一先生)
 
箕輪軍記は落城をこの年にしているが、間違いである。
〜〜〜関東古戦録〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・安中氏息子と依田(あしだ)氏(この時は板鼻城)を攻撃
  →武田方につく。
 ・国峯城の小幡重貞(箕輪城の長野業政の長女が妻)は敗北
  →武田方に参陣
▲若田原(高崎市八幡町)の戦い
   長野氏業の家老藤井が中心になって反撃。
 *中曽根氏(中曽根康弘氏の親戚で、高校先輩 ・
  おそらく曽根昌世系の子孫・・数学者中曽根真吾の曾孫)が曰く
 「若田原の俺んちの畑から武具(刀や槍の先・鎧の一部)が多数
  出土している。」
 ★私見「この年の戦いか否かは不明だが、確実に若田浄水場付近
  で戦いがあったろう。」

 ・武田軍は箕輪城を激しく攻撃。落城しないので、
  城外の長純寺(長野氏の菩提寺)・白岩の長谷寺(板東16番)
 を放火。 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 


12月5日 武田信玄の長年寺への制札
 ・・・乱妨狼藉・波却の事、これを停止おわんぬ。
(★榛名町誌:久保田順一先生)
 

@12月 長年寺受連覚書(高崎市旧榛名町)・・・・
   甘利は木部城に逗留(★浦野家文書)
   受連は甘利昌忠→武田信玄に2回目の制札を金持って貰いに
  行った。木部城(高崎市木部町)に行って、
 金を払って、信玄から制札(寺を襲わない約束札)をもらった。
 でも、長年寺に武田軍が侵攻し、殺害。生き残ったのは独り。
  (★まんが箕郷の歴史・峰岸純夫著・久保田先生など)
 
 ※武田信玄は北条氏康との連合軍で松山城(武州)上田氏を
  攻撃中であった。


12月 *和田城主:和田業繁が武田氏に降伏した。
   (★山田博久氏:残雲・・中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)
   後、跡部資勝の長男5歳が和田業繁の養子:信業となった。
   和田業繁は譜代並みの扱いになっていった。


閏12月 武田信玄は利根川を越えて、太田金山城の由良成繁を
  攻撃した。
(★峰岸純夫著)




【9】武田信玄の西上州侵攻
■永禄7年(1564)
5月 武田信玄が西上州侵攻
  @適地の麦を刈り、・・・
  A和田城(高崎)を攻撃
  B天引城(吉井)を攻撃
  C高山城(藤岡)を攻撃
  D倉賀野の苗を薙ぎ払い、・・・倉賀野城を攻略。
 E安中・松井田の苗を薙ぎ払い・・・
松井田城、安中城が陥落した。

  F本庄・久々宇に放火。

・永禄7年(1564)
  武田信玄が替佐城(中野市)を築城した。
  武田信玄が上杉謙信側の壁田城(中野市)を乗っ取った。
 城将は小幡信貞・・・
 ★市川氏も入った可能性が高い。


・永禄7年(1564) 和田城大改修 
武田信玄は馬場信房(信春)に命じて、上杉謙信側の
  倉賀野城に対抗するため、和田城の大改修を行った。
(★新編高崎市史)
 ★おそらく、幅20mの堀が4つ・・・

・同永禄7年(1564) 松井田城・安中城:落城。
  →A長野業政の叔父の娘婿:安中忠政・安中忠成が
  武田信玄の支配下となった。
安中忠成は甘利昌忠の妹説(有力説)・娘?を貰った。
以後、安中景繁を名乗ったようである。
 

6月27日付 上杉謙信→里見義弘
  倉賀野直行は若輩故油断があった。・・
  私が川中島に侵攻し、信玄を背後から襲うのでよろしく・・ 
 
 (★峰岸先生・久保田先生)


11月17日 長野氏業→赤城神社:奈良原紀伊守の手紙
  河西の戦乱を鎮められるよう、・・妙法僧を送ってくださり、
  ありがとうございました。・・・鎮められた暁には、代官を
  参内させます。
(★峰岸先生・榛名町誌:久保田先生)





【10】武田信玄の甘楽富岡への直接攻撃
■永禄8年(1565) 信玄の箕輪城攻撃
2月 信州佐久の臼田の新海三社神社に戦勝祈願説 
(★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)
2月7日 諏訪明神・新海三社神社(佐久)
 で戦勝祈願。
 「箕輪城(高崎市)を攻略した後は、惣社(前橋市)・白井(渋川市)
・嵩山(中之条)の四邑、たやすく予の掌握に属し、凱歌を奏し
   帰楽安泰せば、・・・」
(★新編高崎市史)


3月 武田信玄は倉賀野に出陣した。
  (★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)
→田口峠→築城していた砥沢城(群馬の南牧村磐戸)→下仁田
  →富岡宮崎城→
 (1562年築城の安中の磯部城・八幡陣城)+国峯城(富岡)
  の小幡信貞→
 ・富岡・吉井の城を次々に攻略し傘下に。
 ・奥平城(徳川家臣奥平信昌の父)・庭谷城など吉井の約20城に
  侵攻。

 ・一郷山城の侵攻・・・藤岡の牛伏山の東250m
    安部中務尉之友は、武田の攻撃を受け、戦死。落城。
  (★一郷山城の資料)
  
3月 倉賀野城落城→倉賀野尚行が逃亡。
   倉賀野城主となった。
   金井淡路守秀景→倉賀野秀景→と信玄が命名。
  (★子孫の会・高崎市の街巡りパンフレットを参考)

3月5〜6日  さらに、箕輪城を攻撃した。
 其の5日6日向箕輪被及御行、城外為始長純寺被成放火、一昨日
 至宇干当地木辺(木部)被寄陣、・・・略・・・
 (★浦野家文書)
 長純寺を焼いた後、木部に引き上げた。そして、10日程で木部
 城を再興して陣城とした。・・・
(★峰岸純夫著)
「箕輪城に詳しい元長野業政の娘婿を味方に抱き込んでの
    出陣計画。
  ・箕輪城1500 VS  武田35000人の兵。
   (★ほとんどの小説)
 ★私見「攻撃数は資料がないからわからないが、甲州+信濃勢の
  メンバー全員。」


・3月16日 長野氏家臣:中室田の田中隼人佐は
  成田氏長のもとに使者で行く途中長楽寺に寄った。
  義哲は酒&肴を振る舞った。
  (★長楽寺永禄日記:峰岸先生)


7月20日 武田信玄は金敷平(榛名白川を挟んだ西)から撤退した。
  と由良家臣:小此木左衞門から聞いた。
  (長楽寺永禄日記:義哲著)


8月23日 武田軍は和田の陣を引き払った。


9月 長野氏業は赤城神社神主に書状を送った。



★私見「@武田本隊・倉賀野城金井氏・和田城和田氏・国峯城小幡氏
 →南ルートからの侵攻。  

A岩櫃城の真田幸隆+大戸城の浦野氏→北ルートからの侵攻
11月 真田幸隆が嶽山城の池田佐渡守を調略し味方につけた。
    斉藤憲宗・・・嶽山城の東峰から飛び降り自殺した。

12月
@武田軍が金敷平(大手虎蹈門西の岸)に在陣し箕輪城を攻撃。
   (★秋本先生)
 ★「愛宕の腰掛け石」&「見返り坂」伝説・・・箕郷町善地
 鷹留城と箕輪城の中間地点である。

11月〜12月 北条高広が上杉謙信を裏切った
  後北条氏の家臣になった。
 (★互尊文庫・謙信→本庄氏への手紙:群馬県文書:峰岸先生)


12月 厩橋城の上杉謙信の家臣:北条(きたじょう)高広が
    後北条氏に内通した。



・永禄8年(1565) 倉賀野城:倉賀野八郎?直行が落城。
  倉賀野尚行(直行)上杉謙信を頼った。
 →倉賀野16騎の筆頭:金井小源太秀景が倉賀野城主となった。
  武田信玄の命令で、倉賀野淡路守秀景と名乗った。



箕輪初心:生方▲梁瀬大輔「真田丸時代の高崎」&『箕輪城・和田城の加筆』
http://53922401.at.webry.info/201606/article_4.html
・元亀元年(1570) 倉賀野衆の頭目金井秀景は跡部家吉を養子に
した。倉賀野氏を再興し、倉賀野秀景を名乗った。

【10】武田信玄の箕輪城攻撃→西上州支配
■永禄9年(1566)
5月説 鷹留城が落城説。
  (★浦野家文書)
城主:長野三河入道業氏が死亡。
  長野三河守ら80人余りを討ち死にさせた。
(★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著・黒田基樹氏の2人のみ)
久保田先生は榛名町誌で変更を表記・・・
 

6月  跡部伊賀(資勝)→ 小暮弥四郎殿への手紙
 長野氏業家臣:小暮弥四郎が武田信玄に通ずる
    
(★小暮文書:榛名町誌:久保田順一文責ほか)


閏8月 金山城の由良成繁・国繁が後北条氏に通ずる。
    宇都宮・皆川・成田が後北条氏に通ずる。
    (閏8月25日の北条氏照→正木氏への手紙)
(★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)

 
9月 由良成繁・国繁が北条氏康・氏政と同盟を結んだ。
(★中世の合戦と城郭:峰岸純夫著)





****************************
※箕輪城は孤立・・・丸裸状態。

●真田幸綱(幸隆)の調略により敵となった長野業正の娘婿・親戚衆
@長野原の羽根尾城:羽尾幸全・海野幸光など
・永禄7年(1654)岩櫃城:斎藤家家老:羽尾幸全・海野幸光
   は寝返り、岩櫃城は陥落した。武田晴信に臣従した。
   
A東吾妻の大戸城:大戸真楽斎・大戸浦野氏
 ・永禄5年(1662) 真田幸綱の調略
5月2日 「去る2日、味方の色を顕はされ・・・
   権田に放火。室田に放火。長野三河守を始め
・・80余名人を討ち捕らえ候、。具に能うべく候。
  恐々謹言
 海野中務少輔殿(大戸)    信玄押印 」
(★武田信玄5月7日付 武田信玄文書:榛名町誌)
★大戸氏は元は海野一族であった。
忠節を示す証としての攻撃であった。
久保田順一先生は「永禄9年説→永禄5年説に変更」
「味方の色を顕はされ・・」が根拠である。
※峰岸純夫先生・黒田基樹氏は永禄9年説のまま?
甘利昌忠の取次で武田信玄に臣従した。
・永禄7年(1654)真田幸綱本隊は大戸城から岩櫃城攻撃をした。
B東吾妻の大柏木城:羽田氏
・永禄5年(1662) 真田幸綱の調略
 ★長野弾正系図でいうと、@ABは元々、海野一族

●武田信玄の攻略により敵となった長野業正の娘婿・親戚衆
@旧妙義の高田城:高田繁頼(父は妻が安中重繁娘)・高田直政
・永禄4年(1561)11月 武田信玄の侵攻
   高田繁頼が武田信玄に臣従した。
A安中の松井田城:安中重繁(長野業正の叔母の娘の婿)
 ・永禄4年(1561)11月 武田信玄の松井田・安中侵攻
  ・永禄7年(1564) 松井田城、安中城が陥落した。
   安中の安中城:安中景繁(甘利昌忠の娘婿?妹婿) 
 &家臣:松本・須藤・・・後閑の萩原が臣従した。
後閑城には丹生城主:新田景澄が入り、後閑姓になった。
  甘利昌忠は配下・見張りとして共に行動したようである。
  ただし、安中景繁の秋間攻めは単独行動かもしれない。

B小幡の国峰城:小幡信貞(業正娘婿)(重貞→信貞→信実)
 &小幡城:熊井戸(後、岡本姓)
 小幡重貞は武田信玄推薦の2人目の妻を断った。
 武田信玄の「信」の字を貰った。
・天文16年(1546)頃から3重契約(上杉憲政・北条氏康
 ・武田晴信)をしているが、次第に武田に比重が高くなった。
(★真田三代:平山優著)
・永禄3年(1600)に従兄弟の小幡図書之介に国峰城を乗っ取られ
 てから、完全に武田信玄の臣従した。  
  (★真田三代:平山優著)
(★上毛古戦記・関東古戦録)
 小幡信貞は南牧の笹の平城にいて、小幡図書之介の攻撃に勝ち、
  国峰城を武田晴信と奪還した。
  市川一族は武田信玄の命令で小幡信貞の配下になった。
(★市川家文書)
・永禄4年(1561)国峰城を取り戻して貰ってからは、武田信玄の
 先方衆として活躍した。
 ・永禄7年(564)替佐城・壁田城(北信濃中野市)の城代も
兼ねた。
 (★信濃史料)
 ・永禄9年(1566) 箕輪城攻略後には約4万石程度の所領があった。
C高崎の和田城:和田業繁(業正娘婿)
 ・永禄5年(1562) 和田和田業繁は自分から志願して
武田晴信に臣従した。
和田信業=跡部勝資長男5歳が養子となった。
   (・・・長篠の戦い以後、娘婿となった。)
 ・永禄7年(1564)和田城攻撃
(★峰岸説?)
 上杉謙信家臣:和田喜兵衛の和田城乗っ取り作戦
 ・・・失敗して、殺された。
 ・永禄7年(1564)武田信玄は馬場信房に命じて大改修。
(★新編高崎市史)
 小宮山・馬場は配下・見張りとして共に行動したようである。

D高崎の山名城:木部範虎(業正娘婿)木部10騎 
・永禄7年(1564) 木部範虎(業正娘婿)は喜連川に逃亡?
   いなかったかも? 
 ・永禄8年(1565)武田信玄の木部城(山名城か堀之内の改修。)
甘利昌忠は入っていた。(★受連の制札:長年寺文書)
 大井貞清は配下・見張りとして共に行動したようである。
E高崎の倉賀野城:倉賀野秀景等倉賀野16騎
・永禄8年(1565) 武田信玄の謙信方:倉賀野城攻撃
  倉賀野直行(尚行)逃亡。金井秀景→倉賀野秀景
 伴野助十郎は配下・見張りとして共に行動したようである。
 一時、真田幸隆も在番があった。
F伊勢崎の那波宗安=無理之助・・・
 ・永禄3年(1560)臣従した。父と兄は長尾景虎側・・・
G吉井:長根50騎(長根氏+小河原氏)+多比良氏など
 ・永禄6年(1563)武田信玄の吉井攻撃で臣従した。
G藤岡の高山行重・高山定重・高山衆・小林平八郎監物
・永禄6年(1563)武田信玄の藤岡攻撃で臣従した。

など、天文年間〜早い時期に南牧の市川氏・・富岡の小幡氏・
熊井戸氏が臣従していた。
永禄4年(1561)以降、下仁田小幡氏・富岡の小幡系一の宮氏
・丹生の新田氏(→後閑城後閑氏を名乗った。)
・妙義の高田氏
・安中の安中氏・須藤氏・松本氏・萩原氏など・・・
・吉井の長根氏・庭谷氏など・・・・
・藤岡の高山氏・小林氏
・旧高崎の和田氏・木部10騎・金井など倉賀野16騎など・
吾妻では高山村以西の鎌原氏・海野氏・大戸氏・羽田氏・・
真田幸綱の家臣になった横谷・富沢・割田・折田・湯本など
有力な元長野業正の同心衆・長尾輝虎の家臣が武田信玄に5
年間に旧榛名・旧箕郷・高崎浜川・旧群馬町・榛東村吉岡・
前橋北部・富士見・大胡を残すだけの勢力範囲となった。
この間、前橋の石倉城攻撃もあった。

****************************

・永禄9年(1566)
 
?月・・・武田信玄の作戦命令
5月・・・武田信玄は二万の大軍で侵攻・・・
○信州余地峠→南牧→下仁田→高田→安中八幡陣城
○伊勢崎の那波無理之助宗安が先発隊で秋間(飽間)の
  蔵人城:島崎蔵人や礼応寺城:赤見藤九郎などを攻撃し、
  攻略した。
 (★箕郷町誌)
安中忠政は秋間の八貝戸・内出・蔵人・礼応寺を攻略した。
  (★上毛古戦記)
○那波無理之助宗安が200〜250で雉子ヶ尾峠を夜間に越えた。
    高浜砦を急襲。奪取。
○武田方の飯富(おぶ)・小宮山(こみやま)隊が里見城・雉郷城
 を陥落させた。
 ※茗荷沢砦(=御嶽山砦)・雉郷城・里見城は
  里見河内宗義の支配であった。    
○安中忠政・小宮山・飯富隊は烏川北岸の長野業通弟:業勝を攻撃。
 突破し、那波無理之助が高浜城に火をかけた。
 (★上毛古戦記)
鷹留城将の長野業通は弟:業勝・業固ら数百の手勢で迎撃。
 (★箕郷町誌)
武田軍の小幡信貞らの一隊を一時は烏川南岸に押し戻すなど善戦。
   しかし、業勝は討ち死。
  (★上毛古戦記)
○那波無理之助は白岩まで進軍した。
   白岩観音堂(=長谷寺)で狼藉。
 長谷寺の僧が仏像・教典を持って箕輪城に逃亡した。
○箕輪城から高浜城主:鷺坂(匂坂)長信・安藤九郎左衛門勝通・
  青柳金王丸らが高浜城奪還を目指して進軍。
  (★上毛古戦記)
○安藤九郎左衛門勝通100と那波無理之助200が激突。
→安藤九郎左衛門勝通が戦死。
 「老の身は いずこの土に なるとても
   君がみのわに 心とどまる 」
 (★上毛古戦記・上州治乱記巻之三)
○青柳金王丸・新波新左衛門ら200は白岩から高浜城・烏川の
 南岸まで那波勢を追い返した。
○翌日、飯富・小宮山隊は神戸から白岩を占領した。
 神戸(ごうど)城:桜沢伊賀守(榛名町神戸)はいち早く、武田
  の支配下になった。
 →遠北の陣屋(榛名町高浜)を設置し、箕輪城と鷹留城を分断した。
○鷹留城の長野業通・業固は覚悟を決め、山県昌景隊に突入した。
★既に鷹留城は落ちていた。
○武田方の応援の内藤昌豊・馬場信房隊に包囲された。
○長野方の利根木隊の救援で辛うじて、小幡重貞隊の囲みを突破し、
 鷹留城に戻ろうとした。
○しかし、このとき小幡重貞の鷹留城内の内応者、男蟹谷直光らによって
 鷹留城内に火が放たれ、鷹留城は落城した。(伝)
 武田信玄は馬場・山県隊と穴山・小山田隊などを出撃させていた。
 →箕輪城・鷹留城を分断。
○長野業通らはやむを得ず吾妻の長野原火打花に逃げ延びた。
○高浜砦(榛名町)・白岩砦を占領した。鷹留城は箕輪城と分断された。
  武田信玄は、本隊を東の若田原(高崎市)へ向け、進軍した。




【1】蓑輪軍記:箕郷町誌のP1157~近藤義雄氏
 武田信玄は那波無理之助に秋間の城(口碑によれば、蔵人城
 主:島崎蔵人、礼応寺城主:赤見藤九郎)を攻略させた。
 那波無理之助は夜暗を利用して、二百の少勢をもって雉ヶ尾
峠を越え、雁又、茗荷沢、雉郷、里見の各砦に配した長野方、
 里見河内等の警戒網の間隙を縫い、烏川を渡って高浜の砦に
 襲い掛かった。
砦の将、鷺坂常陸守介長信はあたかも箕輪城にあって
「留守の家人防戦するも、敵は目にあまる大軍なれば、
 留守部隊は敗れ・・」と各戦記は記している。

 
※近藤義雄氏の意見〜〜〜〜〜
 もし無理之介が、雉郷城か里見城にかかって里見河内と一戦
 していたとすれば、鷺坂は急遽高浜の砦に帰り、箕輪からも
 援兵が加わって砦を固めていたはずである。
 この砦から東、白川が烏川に合する地点に至る間には、所
謂本郷崖の絶壁が続いていて渡河点はなく、以西は鷹留城の
防御範囲であって、そこからの進撃は、鷹留城の強力な反撃
を受けやすい。その切際部を固めた高浜の砦は、箕輪方が放
棄するわけがなく、事実、この砦の失陥が箕輪の落城を早め
たのである。
 無理之介の行動は、その名の如く無理な作戦であって、これ
が成功したことから、雉ヶ尾峠突破は夜間行動であり、任務は
強行偵察を兼ねていたものと判断される。しかも、精強な武田
勢は機を失せず、戦果を利用し、突破口を拡大するため、那波
隊の直後に飯富、小宮山の有力部隊を進めていたのである。
那波隊が砦に突入放火し、守兵が箕輪に向かい敗走した頃には、
飯富、小宮山勢は雉ヶ尾里見両城に攻めかかり、背後の高浜の
砦にあがった火の手を見て、動揺した城兵を圧倒してたちまち
城を占拠したと思われる。
このことは、箕輪城に関するどの戦記にも記されていないが当
 然のあるべき戦況かと考えられよう。
  雉郷峠の失陥が、この稜線に備えた第一戦防衛陣の無力化を
 意味する。
 『敵は目に余る大群』というのは、200の那波軍を呼ぶにはあ
 まりな誇張であるが、砦を焼いた那波隊は、白岩に向かって
 突進した。
(★箕輪軍記:箕郷町誌のP1157~近藤義雄氏)

【2】上州治乱記→上毛古戦記:山崎一氏
 武田信玄は安中忠成を先鋒として秋間の諸城を攻略した。
 八貝戸、内出、蔵人、礼応寺の諸砦は追い落とされ、里見河内
 の守る雉郷、里見の両城も落ちて鷹留城は正面から敵を受ける
 ことになった。
 武田方先鋒は烏川北岸に備えた長野業勝(業通弟)の軍を突破
 して渡河に成功した。那波無理之助は手勢250余騎を率い、
 高浜の砦を襲った。砦将、匂坂常陸守介は箕輪城にあって
 留守の小部隊は防戦のあと、砦を捨てた。那波無理之助は
 ・・・(中略)・・・
那波無理之助は白岩砦に進んだとき、箕輪城から出撃した
 安藤九郎左衞門の100余騎と遭遇。白岩観音堂付近で激戦と
 なった。安藤九郎左衞門は戦死した。・・・那波勢が観音堂の
 仏像や教巻などを担いで・・・
 そこで、青柳金王・新波新左衛門は200の兵を率いて、白岩に
 向かった。・・那波勢を破って、烏川の南岸まで追いやった。
(★上毛古戦記:山崎一氏)

★若田ヶ原から里見河内守の城:高橋隼人正の守る
 雉郷城(旧榛名町)を攻撃した。
 武田信玄に家臣になった安中忠成(甘利昌忠の娘婿か妹婿)
 は旧支配下の礼応寺城(安中市秋間)などを攻略した。
 箕輪城の大支城:鷹留城(旧榛名町)は正面に見えるよ
 うになった。
@5月説 鷹留城が落城した。
A9月説
 武田信玄は2万の大軍で侵攻し、高浜砦を突破して、箕輪城・
 鷹留城の連絡を分断した。そして、小幡信貞の率いる一隊が
 鷹留城攻略に向かった。
鷹留城将の長野業通は、業勝・業固(共業通の弟)をはじめ
 数百の手勢で迎撃した。一時は烏川南岸に撃退するなど善戦
 したが、 鷹留方も長野業勝を失った。
 翌日、長野業通、業固は山県昌景隊に突入したが、武田方の
 内藤昌豊、馬場信房隊に囲まれて、 長野方の利根木隊の救援
 で辛うじて囲みを突破した。鷹留城に戻ろうとしたが、城内
 の内応者、 男蟹谷直光らによって放たれた火によって鷹留
 城は既に火焔につつまれていた。
 長野業通らはやむを得ず吾妻方面へと落ち延びてた。
 鷹留城は落城した。


9月29日(=新暦11月2日)箕輪城を攻略。
9月29日 箕輪城は落城し、城主:長野氏業(業盛)は
  箕輪城内の御前曲輪の持仏堂で自刃した。
 ★御前曲輪は江戸時代の浅野家文書の表現なので、長野氏の
時代に御前曲輪なんぞなかったとであろう。しかも、
持仏堂・・・は昭和初期までそれらしいものが有ったらしい
が、玉置山=霊置山の意味であるから、玉置山にあったと
考えるのが妥当であろう。上杉謙信の春日山城の毘沙門堂が
  主郭の東隣にあるように・・・・

 以後、16年、箕輪城は武田信玄の支配下になった。


9月27日 武田軍は総攻撃を開始した。
●武田信玄は保渡田砦から箕輪城を攻める際に、現ドンレミー前
&諏訪神社にあった善龍寺を焼いた。

9月28日
箕輪城内に残る城兵は1500人からわずか200程に減少して
いった。戦死する者、降参する者、逃亡する者が出たから
である。

9月29日
死力を尽くして戦う長野勢・・・しかし多勢に無勢では、
いかんともしがたい状況になっていった。

■参考文献
・群馬県史
・新編高崎市史 
・箕郷町誌(近藤義雄執筆)・・・ベース
・「箕輪城と長野氏」
・近藤義雄先生の論文・講演会
・榛名町誌(久保田順一共著)
・関東古戦録(久保田順一訳)  
・上毛古戦記(山崎一著)
・群馬の古城(山崎一著)
・境目の城(宮坂武雄著)
・「戦国期の上杉・武田氏の上野支配」:栗原修著
・「真田三代」:平山優著
・「真田四代と幸繁」丸島和洋著
・・・などなど多数。
1) 『箕輪軍記』
 城主である業政の子業盛は19歳。
  ★永禄9年説では23歳である。

A永禄6年(1563)
  武田信玄は15000の兵で箕輪城を囲んだ。
 城兵は城主長野業盛以下1500人。
  大手口は山県昌景、馬場信房。搦手口は武田勝頼、
  原胤元、内藤昌豊といった信玄旗下の猛将達。
  この時、長野家の家臣:藤井友忠という武将がわずかな
  兵を率いて城外に打って出て、搦手攻撃軍を襲い、一時は
  武田勝頼を討ち取る寸前まで行ったが、多勢に無勢。
  背後に回った原胤元に斬られてしまった。箕輪城の曲輪が
  落とされた。
最後、突撃した業盛は自ら薙刀を揮って28人の敵兵を切り
  伏せた.。業盛はひと反撃して帰城した。
   これまでと観念した城主長野業盛は御前曲輪に入ると、業政
  の位牌を拝み自刃した。
  「春風に梅も桜も散り果てて 名のみ残れる箕輪の山里」
   (長野業盛辞世の句)
  一族とともに長野業盛が自刃して落城した。
箕輪城が落城し、・・・長野氏が滅亡した。
   しかし、落城直前に長野業盛の一子亀寿丸は家臣に
   連れられて城を脱出し、和田山(箕輪城の南南西約3km)
   の極楽院で匿われた。
  (★箕輪軍記)
  現在の長野家の当主は、亀寿丸の子孫である。 
   
 

2) 「関東古戦録」より久保田順一先生訳
  箕輪の城に飯富(おぶ)兵衛・馬場信房・小山田信有
   らが・・(中略)・
   一隊は搦め手口、自身は法峰寺の一の門に押し寄せた。
   城主左衛門太夫業政(本当は1561年死去)は
    「吾は・・・関東管領の上杉様を再び関東にお迎えし
    たい。・・・・・・・・。」
    と業盛に語った。
   大熊は越後の譜代の武士で、輝虎(謙信)に背いて、
    飯富の手下になった。 
   (*大熊備前守は元上杉謙信家臣で箕冠城主
      (春日山城の南東部)。
   大勢の中かに割って入り、5人の突き伏せた。
   その首を取って引き上げたが、指物を落とし、   
     城兵に奪われてしまった。・・・・(中略)・・・
   後日、信玄はこの働きに感じて、備前守と改名させ、
   同心30名、足軽5名を預け、
   小畑山城入道日意の娘・・・と娶らせ、遠州小山
    の城代に据えた。・・(後略)・・                        
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●箕輪城93【上泉伊勢守秀綱】箕輪城落城
〜流浪の旅へ
http://53922401.at.webry.info/201212/article_24.html
★永禄9年(1566) 武田信玄が箕輪城を攻撃時、
上泉伊勢守秀綱は箕輪城在城し、活躍したのは本当だろ
うか?上泉伊勢守信綱が本当に箕輪城での長野氏業
=業盛の自決後に修行の旅に出たのだろうか?

箕輪初心★箕輪城136【長野氏業=業盛】:永禄9年箕輪城落城。
http://53922401.at.webry.info/201405/article_10.html

★永禄9年(1566)、武田信玄の攻撃で箕輪城落城。
箕輪初心私見
「長野氏時代の箕輪城は、小規模な平山城と考えられるので、
 箕輪城を攻めるには東から入るのが一番手っ取り早いのでは?
そして、武田信玄との攻防戦における最大の激戦地だったの
 ではないだろうか?・・・
 後、北東部に丸馬出を造った。
長野業盛は持仏堂に籠もり、辞世の句を詠んだ。一般的には
「春風に 梅も桜も 散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里」
であるが、文書資料では、
「陽風に 氷肌(むめ)も桜も散り 果てて名のみ残れる みわの郷かな」
である。
★箕輪城語り部の会:岡田会長
「16種類の歌がある。」
とおっしゃっていた。

→そして、持仏堂で自刃した。
多くの小説では、御前曲輪であるが、御前曲輪は井伊直政の時
代のなので、間違いの記載である。ましては、長野時時代には
御前曲輪堀はなく持仏堂は玉置山にあったと考えるのが妥当で
あろう。御前曲輪の北から西にかけての水堀はなかった。
これは、秋本太郎先生の発掘調査の第一期の説明からも証明さ
れつつある事実である。
「長野氏の遺構は基本的には本丸・御前曲輪付近だが、木俣に
も遺構が発見された。」
(★秋本太郎先生)



★明日は武田の箕輪領国支配かな?

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