城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城193【武田信玄の上野侵攻】詳細編@天文15年〜永禄4年

<<   作成日時 : 2016/06/25 07:16   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

武田信玄の上野侵攻は@天文15年(1546)南牧から始まる。A天文
16年(1547)には松枝(松井田)→B天文18年(1549)の三寺尾(
高崎)侵攻、(★不明)、C弘治3年(1557)〜瓶尻(かめじり)
の戦い→箕輪城侵攻、D永禄2年(1559)板鼻(安中)・若田原
(高崎)の戦い、▲永禄4年(1561)▲第4次川中島の合戦・・・
国盗り合戦は上野国が舞台になっていった。
画像

  (★典厩寺の信玄の絵)

箕輪初心:生方▲武田信玄&真田幸綱(幸隆)の侵攻:上野編(永禄年間)
http://53922401.at.webry.info/201606/article_17.html



●▲■武田信玄の上野侵攻と箕輪城攻略への過程



【1】武田晴信の南牧侵攻****************
※大井貞清と市川真治は親戚同士であった。
 
1)武田晴信の南牧侵攻
・天文年間    市川豊前守重信の次男:右馬佐の
         羽沢市川家の住居・・・
  市川氏は大井貞清の同心であった。親戚関係である。

・天文5年(1536) 市川真治は武田軍の先駆けとして
 兵を送った。

・天文6年(1537) 武田晴信の市川真治への感状+金襴1反
(★伊藤著は間違っているかもしれない。
  まだ、当主になっていない。元服していない)

・天文15年(1546) 笛吹(碓氷)峠の戦い
長野信濃守は出陣しなかった。
  (★武田晴信書状写:高崎市史)
★小田井の戦いと同一とする説もある。

・天文15年(1546) 武田晴信の内山城攻撃
箕輪初心:生方▲真田●44【佐久内山城】真田幸隆&大井貞清
http://53922401.at.webry.info/201602/article_20.html 


・天文15年(1546) 武田晴信は大井貞清の同心:市川氏の南牧に
  侵攻した。
武田晴信は余地峠・田口峠と南牧を支配する南牧衆:市川氏を
 調略した。
 市川真治は武田晴信に臣従した。
 (★別史料は天文6年)
 砥沢を拠点とし、上野侵攻の足がかりとした。
画像
 
画像
 
箕輪初心:生方▲武田晴信の天文15年(1546)の隠れた上州侵攻
&武田家臣:市川氏
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201605/article_14.html   

・天文16年(1547)
5月4日 大井貞清父子は翌躑躅ヶ崎館への出仕した。
  駒井高白斎を仲介として武田晴信に臣従した。
(★『高白斎記』)
 大井貞清は上野国の上杉憲政や信濃小県郡の村上義清に通じた。

 市川真治は瀬戸(佐久市瀬戸)120貫を武田晴信より領した。
  市川右馬助殿・市川右近助殿・市川縫殿助殿
(★北佐久郡浅科村:五郎兵衛記念館市川家文書)

 市川真治が亡くなった。
・???? 6月5日付 武田晴信書状
  「今度内山へ移り射手候処ニ、・・・」
   市川右馬助殿
箕輪初心●【南牧村の城20城一覧】&▲黒滝山登山
http://53922401.at.webry.info/201204/article_21.html

箕輪初心:生方▲武田晴信の天文15年(1546)の隠れた上州侵攻
&武田家臣:市川氏
http://53922401.at.webry.info/201605/article_14.html



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


【2】武田晴信の松枝(松井田)への侵攻***********
・天文15年(1546) 河越の夜戦(かわごえよいくさ)
北条氏康軍
   VS  
上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の連合軍
 
蔵国の川越城(現埼玉県川越市)の付近で戦闘。
   →北条軍が勝利
川越城の奪回を図った両上杉氏は
@扇ヶ谷上杉朝定は戦死。
A山内上杉憲政は上野(群馬)平井城に逃亡。
B古河公方:足利晴氏は古河に逃亡。
 
大導寺盛昌が戦功を挙げ、河越城の城代を務めた。
  後北条氏は旧上杉氏所領を直轄領とした。
       重臣:大導寺氏を配置した。
※川越の原型は、大導寺政繁によって、建造された。
    (★川越のパンフレット他)
 
川越城・逆井城は後北条氏の北関東(栃木・茨城)進出
 の拠点となった。
 佐竹氏・多賀谷氏などと対峙した。
●長野業正の嫡男:吉業が負傷した。    

河西衆・・・長野業正・小幡憲重などは上杉憲政を裏切った。

 箕輪初心:生方▲真田●64「真田幸綱の武田晴信への臣従諸説」
http://53922401.at.webry.info/201603/article_9.html
★平山優・丸島和洋説はこの時を考えている。


・天文16年(1547)・閏7月から8月 小田井原の戦い
(長野県佐久市)
武田晴信(=信玄)の佐久の志賀城攻撃開始。 
志賀城主:笠原清繁の関東管領:上杉憲政への援軍要請
関東管領:上杉憲政は志賀城救援の軍勢を派遣。
※長野業政は参加せず。
金井秀景を大将とする関東管領軍は東山道の入山峠?
 (軽井沢プリンススキー場)あるいは碓氷峠?を越えて信濃へ
 入った。
 
甲斐守護武田晴信 VS 関東管領上杉憲政
武田晴信は板垣信方を迎撃に派遣。
両軍は小田井原にて合戦に及んだ。
小田井原(長野県東御市)で武田軍に迎撃され敗走。
武田軍の圧倒的勝利。
志賀城は落城。
武田晴信は佐久郡の制圧を完了する。

箕輪初心:生方▲真田●59【志賀城】:笠原清繁&高田憲頼
/大虐殺&人身売買
http://53922401.at.webry.info/201603/article_4.html


・同天文16年(1547) 
武田晴信が碓氷峠を越え、愛宕山城に駐留の浅利・小宮山ら
が松井田(松枝)衆と競り合ったことが記述されている。
この戦いで松井田衆は32人討ち取られた?
  (★『甲陽軍鑑』)
武田信玄は、勢いに乗って碓氷峠を越えて、上野に乱入。
東山道の坂本に拠点を築いて、上野勢と対峙した。
画像

★おそらく、武田晴信が築いた臨時の砦=陣城が、坂本城
では、ないかと思われる。
武田信玄は愛宕山城も築城したのではないだろうか。
@入山峠から来ると坂本城がある。
A碓氷峠から来ると愛宕山城がある。
★碓氷峠はこの時代は使用している可能性が少ない。
もちろん、東山道は1本ではないだろうが、
仮に東山道だとしても、中仙道以前の道であり、
馬が通るには困難な道ように思える。特に、
覗きや馬の背は・・・。
従って、入山峠から入ったのであろう。
江戸時代、中山道の碓氷峠は難所で、松代藩は鳥居峠経由で
参勤交代をしたし、中山道に和宮道も整備された。

関東管領:上杉憲政軍はおそらく、松枝城=松井田城
で待機したのであろう。

★松枝城から坂本城を攻めようとすると、虚空蔵山が
あり、その先に碓氷川の深い渓谷がある。川を越えても
急峻な細尾根がある。つまり、城山=坂本城の北が切り
立った崖斜面になっていている
松井田城から直接の攻城は結構、無理がある。

松井田城を本拠とする数百人からなる武士団があった。
松井田城主は安中忠政である。
諏訪城(松井田西城)は長野憲業の弟:諏訪某である。
 (★黒田基樹説)
画像

(★愛宕山城:松井田)

村上義清が佐久に侵攻する情報が入った。

武田晴信は坂本城または愛宕山城から撤兵し、中信の村上
義清を叩くことにした。せっかく取った佐久が村上義
清に狙われたからである。

箕輪初心:生方▲真田丸25【坂本城2回目&虚空蔵山烽火台】:武田信玄の築城?
http://53922401.at.webry.info/201601/article_29.html

◆◆ 武蔵の五遁さん「上野:坂本城」 ◆◆
http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1395.html

◆◆ 箕輪初心●群馬:旧松井田の城8城一覧 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_3.html

箕輪初心●群馬松井田:坂本城&愛宕山城=武田信玄の築城か?
http://53922401.at.webry.info/201210/article_4.html

◆◆ 武蔵の五遁さん「上野:坂本城」 ◆◆
http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1395.html

箕輪初心:生方▲真田丸26【松井田愛宕山城】:真田幸繁の初陣説
http://53922401.at.webry.info/201601/article_31.html


・天文17年(1549)
2月 上田原の戦い
武田晴信 VS 村上義清

武田晴信の田口城攻撃。
  田口信能を攻略した。
 大井貞清は再び降伏し、武田晴信に仕えた。
  


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【3】武田晴信の三寺尾(高崎)への侵攻***********

・天文18年(1549) 武田晴信が上州に侵入。
★侵攻のコースが難しい。・・・納得できない。
 余地峠→南牧→下仁田?→(富岡)→小幡→・・・寺尾?
 鬼面ってどこかなあ?

※三寺尾の合戦・・・現高崎市乗附町、石原町、寺尾町での戦い?
画像



◆和田業繁は安中越前守や倉賀野三河守らとともに参加。   
『天文18年8月18日の巳の刻 武田晴信は甲府を発って
 上野へ軍を進めた。鬼面というところまで敵地を焼き払い、
 奪った。
 そこで上野の安中越前守は上野国の城主たち9人とともに
 総勢6000程で、上野三寺尾に陣をしいて、各勢が力合わせて
 晴信に対して、進攻をくいとめようとした。
 9月3日卯の刻(朝6時)に合戦を始めた。』
  (★甲陽軍鑑)
三寺尾(高崎寺尾)の戦い
画像

武田晴信 VS 安中忠政・和田信景・倉賀野の金井秀景等
上野軍527の首が討ち取られた。
目的は平井城攻撃であった。
★ 三寺尾の合戦は史実かどうか疑問である説=多数説。
しかし、 安中のふるさと館での富原道晴氏の資料
『三寺尾の戦い』(江戸時代の資料・・・陣立図)があった。

画像


箕輪初心●群馬【平井城後編】関東管領:【15代:上杉憲政 】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_31.html


棟治「上野の戦国史」三寺尾の戦い
http://kouzuke1059.wiki.fc2.com/wiki/02.%E4%B8%89%E5%AF%BA%E5%B0%BE%E3%81%AE%E5%90%88%E6%88%A6


●長野業正のおまけ・・・・・・・・
・弘治3年(1557) 長野業政が菩提寺:長純寺(高崎市
   箕郷町原山)を再建。
  (★長純寺文書)
   梁14丁、柱78本の寄付を家団にして貰った。 
(★箕郷町誌)

・弘治3年(1557) 「上野国厩橋にて長野弾正少輔興行」
「上野国長野信濃守所望、利根河近き所在原氏の人ならん。」
 (★遊行上人体光句集「石苔」:高崎市史)
長野弾正少輔は賢忠か?
 (★箕輪城発掘調査8集:秋本太郎先生:高崎市史より)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【4】武田晴信の松井田・安中侵攻・瓶尻(かめじり)の戦い**

・弘治3年(1557)4月 武田信玄が西上野:松枝に侵攻
 武田信玄の嫡子義信は13000の兵を以って上州に侵入した。
 
▲瓶尻(かめじり)原の戦い 
※瓶尻の所在は不明。
 妙義から松井田にかけた人見城付近か磯部西地域?
 現安中市松井田人見:人見城の東下磯部温泉2~300b西
 の大王寺付近?
画像
 
 長野業政を大将とする和田・倉賀野・小幡・安中・後閑
 ・白倉ら西上野の諸将は武田軍を迎撃した。
長野業政(正式は業正)は全軍の総司令官だった。・・
 近藤先生曰く一緒に戦った人を同心と呼ばれる。
同盟軍のようなものである。
67歳?の長野業政は巧みに武田軍の出鼻を挫き、全軍に総攻撃
を命じた。
しかし、西毛の諸武将の足並みがうまく揃わず突撃に失敗し、武田
軍の反撃に会い、
上州勢は次第に武田勢に押され総崩れとなり退却した。
結果・・上州勢の敗北。
画像

長野業政は箕輪城に退却した。
武田軍は勢いづいて・・
3日後、武田勢は箕輪に兵を進め、東の法峰寺(現箕郷文化会館
 南隣)に陣して、攻撃を開始した。
法峰寺(当時は箕郷文化会館東=現大須賀家)
から箕輪城を攻撃した。 
武田軍は長野業政の居城:箕輪城まで肉迫した。
武田軍は長野業政の巧みな指揮で損害が多くなっていった。

しかし、長野業政の巧みな指揮で城を落とす
ことができなかった。
 上杉謙信の信濃侵入の報を受けた。
4月25日には箕輪城の包囲を解き、帰陣し甲州へ引き返した。

 
結果・・・西上州侵攻開始・・・失敗。
 
*武田軍は、この戦いで鉄砲(天文12年1543年に鉄砲伝来)
 を使用した。
TV「風林火山」では、山本勘助が根来衆から鉄砲を購入?
 →長野業政は、箕輪城と倉賀野城などの支城網を駆使し
 撃退。

■弘治4年(1557) 第三次川中島決戦
・永禄元年(1558) 箕輪城着到帳
@一般家臣・・・509人 
A準特別職・・・・83人
B家老・・・・・・・5人
C客分高家・・・・12人
合計・・・・・・609人
★騎馬は4人1組で1500人と推定されている。
(★歴史学者が着到帳は信じていない)

峰岸先生は客分高家:石井信房を鷹留城主と認めず、永禄9年
 (1566)5月に長野三河入道業氏が戦死したとする。
 黒田基樹氏は石井信房(石井泰太郎氏所蔵系図)の存在を信じ
 ているが、禄9年 (1566)5月に長野三河入道業氏が戦死した
 とする。

・永禄元年(1558) 弟:武田信繁、家訓99ヶ条制定。
 佐久郡松原神社に願文を捧げ、信濃攻略を祈願。信玄名初見。


・永禄2年(1559) 武田信玄は長野信濃守に服属を求める。
(★武田晴信書状:内田祐輔氏所蔵文書)
※偽文書の可能性がある?
  (★史跡箕輪城跡発掘調査報告第8集:秋本太郎他)

・永禄2年(1559)
 2月  武田晴信は出家して信玄と称した。
     真田幸綱(幸隆)も出家し、「一徳斎」と改める。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【5】武田晴信の上野侵攻・・・若田ヶ原の戦い***** 

■永禄2年(1559)長尾景虎の上洛
武田晴信は長尾景虎が上洛し、近衛前嗣・正親町天皇に
会って、関東管領の資格をゲットしている間に
「鬼のいぬ間に洗濯」と考え、上野に侵攻した。

5月 武田信玄が松原諏訪神社(長野県小海町)に越後の滅亡を
   祈った。願文・・・
  「占いをしたら、最吉とでた。したがって、信州奥郡越後境に
   出陣する。勝利したら、毛糸の具足一両・神馬一匹を
   献納する」「釈信玄」と署名。
   ※「信玄」と記された現存最古の文書である。


9月  武田信玄は上州に出兵D  20000の軍勢
おそらく、余地峠→家臣:市川氏の砥沢城→・・
 永禄3年の長尾景虎の「関東幕注文」に見られる小幡三河守は
  下仁田の鷹巣城:小幡三河守信尚である。
下仁田がいけないとすると、・・・・どこを通ったのであろうか?


箕輪初心●群馬【下仁田町12城一覧】&「物語山メンベ岩伝説」
http://53922401.at.webry.info/201204/article_19.html


箕輪初心●小幡一族の歴史@=武田か上杉か北条か
 http://53922401.at.webry.info/201107/article_17.html


▲板鼻の戦い
 (★関東古戦録では板鼻の戦いと称している)
武田信玄は現少林山達磨寺の西の山に陣を置いた。

 武田信玄が板鼻に陣取った際に倉賀野氏が従った? 
  (★倉賀野の歴史より)
 倉賀野16騎の筆頭:金井淡路守景秀である。
 →倉賀野氏の内部分裂があったと見られている。
 (★新編高崎市史) 
 
▲若田原(高崎市八幡町)の戦い
  武田信玄は安中城を攻めるべく鼻高(少林山の西)に布陣した。
  急報を受けた長野業正は直ちに手勢を率いて若田原で武田軍と
  対陣した。
  睨み合いが続く中、雨が降り出した。
   長野軍が武田軍の眼前から消えた。
 武田信玄が雨宿りかなと思っていると・・・
  長野軍が背後から襲いかかった。
 そして、敵陣をかき乱すと去っていった。
 武田信玄は
 「長野業正を生け捕りにせい!・・」
 と、悔しがった。・・・とさ。
(★上毛古戦記)
  長野業政は武田軍を迎撃し撃退。

 10月28日〜11月1日 長尾景虎家臣が祝儀に参集した。
 「侍衆御太刀之次第」・・・長尾一族・有力家臣61名
 に太刀を送った。
 長尾景虎は天皇・幕府との関係・権威をバックに
 権力基盤を固めた。
(★上杉家文書・『真田三代』:平山優著)
 信濃国人衆では、村上義清・高梨政頼・・・
  栗田永寿(武田についた鶴寿弟)
 ・島(嶋)津左京亮泰忠(武田についた矢筒城主)
 ・須田左衛門太夫信正(武田についた福島条主・須田城主)
 がいる。
 
●11月13日〜 信濃国衆の「直太刀持参之衆」
 信濃国衆が自分の太刀を持参し、臣従の意を表す儀式
 ※村上義清・高梨政頼・・・
 粟田永寿・須田信頼・井上左衛門尉・屋代政国・仁科盛昌
 ・市川信房・河田蔵人?・清野寿軒・
 嶋津泰忠・保科左近尉・東条信広?・西条治部少輔
 ・綱島兵部介?・大日向直武・・・室賀信俊
 それになんと・・・
 真田幸綱・望月信雅・禰津信直・海野幸忠の滋野系
 の一族がいた。
 (★『上杉家文書』「直太刀持参之衆」・信濃史料)
平山優説・・・武田信玄に所属しながら、長尾景虎につくのが
 容認されていた当時の社会通念であろう。
 つまり、「半手」「半納」・・・敵味方半分づつ年貢を
  納める慣習が容認されていた。
  従って、しばしば両方に人質を置くことになった。
 また、軍を両方に送ることもあった。どちらに奉公の
 比重を置くかは国人衆の判断に委ねられていた。
 境目の国人衆は武田晴信に臣従しながらも、
 長尾景虎にも折衝ルートを確保しておきたかった
 のであろう。
 (★『真田三代』:平山優著)

※丸島和洋説・・・関東管領就任の祝儀であると考えたれるが
真田幸綱も春日山城に赴いたことになっている。
 武田が敗北した場合の逃げ道を作っておく必要が北信濃の
 国衆にはあった。
(★『真田四代と信繁:丸島和洋著』
★武田信玄のショックも大きかった。 
 第4次川中島の合戦は武田信玄にも引くに引けない事情が
 あったと推測できる。 




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い
※織田信長が今川義元15000を破る
  →今川家が衰退 
★武田信玄は密かに駿河侵攻を視野に入れていた=考えていた。




【6】武田信玄の西牧→妙義→松枝・安中への直接攻撃&国峰城奪還
・永禄3年(1560) 長尾景虎の第1次関東出兵
(越後も関東だけど・・・)
6月10日 近衛前嗣は厩橋城の人質のことなどを長尾景虎に
申し送る。「みのわ」から人質が置かれた。
 (★近衛前嗣書状・上杉家文書)
9月上旬 長野信濃守業正らが味方した。
(★双林寺伝記)

10月2日 正木時成は長尾景虎に「簑匂(箕輪)」が
味方したことを伝える。
 (★正木家文書)

箕輪初心★箕輪城135長野業政&長尾景虎の「関東幕注文」
http://53922401.at.webry.info/201405/article_9.html

・永禄3年(1600)
 5月 小幡憲重・重貞父子が草津温泉に湯治中に、箕輪城の
    長野業政・小幡図書介景純が国峰城を奪取。
(★『関東古戦録』:久保田順一訳)
@小幡憲重の妻は長野業正の母の妹の娘である
 (★『西上州の中世』:黒田基樹著)
A小幡重貞(信実→信貞)の妻は長野業正の長女である。
 小幡氏が武田氏に走った報復と考えられる。
画像

小幡重貞は武田氏配下 VS 長野業政は長尾景虎の同心
  
※武田信玄は小幡重貞に信濃国大日向で五千貫を与えた。 
※伊藤一明氏説
 宮崎城主:小幡尾張守が羽沢に逃れ、市川氏を頼った。
市川氏は武田晴信の援軍をまって、宮崎城を奪還した。
★しかし、宮崎城主・神成城主は小幡図書介景澄なので、
 伊藤説は違っている。本当は国峰城である。

小幡憲重は笹の平城(南牧村磐戸)を北小幡領の最前線として
 築城した。
従兄弟の小幡図書之介に国峰城を乗っ取られてから、武田晴信に
 完全に臣従した。従って、南牧の笹の平城にいて、奪還の機会を
 まった。

5月6日付 武田家朱印状写 
 小田切・高野(佐久市小田切・佐久穂町)120貫
  ■田・桑山(佐久市)80貫
  海瀬・三分(佐久市)130貫
  崎田(佐久穂町穂積)70貫  
  所領充行・・・
  市川右馬助殿・市川右近助殿・市川縫殿助殿
(北佐久郡浅科村:五郎兵衛記念館市川家文書)


■永禄4年(1561) 
2月 上杉謙信は小田原城攻めに失敗。
   鎌倉八幡宮で、関東管領の地位を獲得。上杉姓に改称。 
   上杉謙信は帰路途中、松山城(東松山市)上田氏を攻略
   ・・上杉憲勝が城主。
6月21日*長野業政が死去(★長純寺長野業正木造背銘)
  @説・・・長野業盛(箕輪軍記・小説箕輪城興亡史)が継ぐ。
  A説・・・長野氏業(群馬県史の近藤先生は業盛=氏業)が継ぐ。
 ※死亡を隠していたが、武田信玄にばれてしまった。
  ★風雲=不運、急を告げる。 
・永禄4年(1561) 長野業正死亡。
(★長純寺の長野業正木造背銘)

 
・6月 上杉謙信が越後に戻ると武田・北条が反攻開始した。
  (西は武田・東は北条・北は上杉)



・永禄4年(1561) 4月 笹渡戸の戦い(笹の平・檜平)
  武田信玄の攻撃で、小幡図書介景純の笹の平落城。
  武田信玄の祠・・・箕輪城攻撃戦勝祈願。
    上野進出の足がかりになった戦である。
(★南牧村史)
 ※黒田基樹氏・平山優氏の研究では南牧村史と1年違っている。

・永禄4年(1561) 卯月(4月)17日付 武田家朱印状写
  所領安堵状・・・・
  市川右馬助殿・市川和泉守殿・市川四郎右衛門殿
  ・市川神四郎殿・市川半次郎殿・市川孫六殿

◆◆ 箕輪初心★小幡信貞  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_16.html

箕輪初心●群馬の城:旧甘楽町A国峰城=武田24将:小幡重貞
http://53922401.at.webry.info/201104/article_16.html

◆◆ 箕輪初心★小幡一族の歴史2「武田二十四将へ」  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201107/article_18.html

箕輪初心★小幡一族&熊井土一族&三方原の戦
http://53922401.at.webry.info/201304/article_10.html



・9月10日 ▲第4次川中島大決戦(武田VS上杉)
  甲軍は軍師・山本勘助の「啄木鳥の戦法」。
  真田幸隆父子は妻女山を攻撃。
  越軍は甲軍の動きを察知し「車懸かりの陣」。
   武田信玄VS上杉謙信の一騎うちの直接対決?
   ★「嘘かも?」
  *川中島の決戦跡の碑
 「山本勘助はきつつき戦法の失敗の責任を取って死にに行った。」
   両軍6,000人余の死者?
 第四次川中島の戦いは最大規模の合戦=死亡者となった。
 @武田信玄の実弟で武田軍副将武田信繁・・・
 A武田家重臣:諸角虎定・・・★八幡原西300mに墓
 B足軽大将:山本勘助・・・・・★胴合橋
 C足軽大将:三枝守直・・・有力家臣を失った。
 武田信玄も負傷し、甲府で温泉療養。

  武藤喜兵衛(真田昌幸)は武田信玄の近習として参戦。
  初陣といわれる。
9月21日 ▲川中島の合戦 
  真田幸隆&真田信綱が参戦。


※第四次川中島合戦を契機に武田信玄の信濃侵攻は
 一段落し、以後は西上州の出兵を開始した。
武田信玄と上杉輝虎の戦いは川中島から関東に舞台を変えてい
   った。

■参考文献・図書
画像

・・・★ベースである。
・群馬県史
・新編高崎市史 
・箕郷町誌(近藤義雄執筆)・・・ベース
・「箕輪城と長野氏」
・近藤義雄先生の論文・講演会
・榛名町誌(久保田順一共著)
・関東古戦録(久保田順一訳)  
・上毛古戦記(山崎一著)
・群馬の古城(山崎一著)
・境目の城(宮坂武雄著)
・「戦国期の上杉・武田氏の上野支配」:栗原修著2010年
・「真田三代」:平山優著
・「真田四代と幸繁」丸島和洋著
・史跡箕輪城跡発掘調査報告第8集:秋本太郎他文責
・・・などなど多数。

画像


★箕輪初心:生方▲箕輪城192【武田信玄の上野侵攻A永禄3年〜永禄9年】
永禄4年(1561)の第4次川中島の戦い後、上杉政虎(輝虎→謙信)
と武田信玄の決戦の場は上野となった。今回は武田信玄の上野侵攻
と箕輪城攻略までの過程を追っていこうと思う。
   


テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲箕輪城193【武田信玄の上野侵攻】詳細編@天文15年〜永禄4年 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる