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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城189『古文書史料に基づく長野氏・箕輪城の関連年表』

<<   作成日時 : 2016/06/22 10:24   >>

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鎌倉時代〜永禄4年(1561)長野氏関係・箕輪城関係の古文書史料を
史跡箕輪城跡調査報告第8集:一般販売100部(秋本太郎先生文
責)・新編高崎市史・群馬県史をベースに史実にまとめてみた。
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◆ 『古文書史料に基づく長野氏・箕輪城の関連年表』
・建久元年(1190) 在庁官人:石上氏
(★榛名神社文書)

・正嘉2年(1258) 永野刑部丞跡子孫の永野次郎太郎は宗尊将軍の
奉公人であった。

・応永23年(1416) 北条得宗家が長野郷を支配した。
永野氏が没落?・・・被官?・・・
(★明月院文書))

・永享12年(1440)〜嘉吉元年(1441)結城合戦
「長野周防守」・「長野宮内少輔」・長野左馬助」は上杉方
で参加した。
(★足利持氏文書)
★「長野宮内少輔」・・・厩橋長野氏の成立?

・文安5年(1448) 「長野入道」は長尾景仲に何か申し上げる。
舞木に変わって、上杉の傘下になった。



■応仁の乱(永享の乱→関東の戦国時代)
 「上州旗揚げ一揆→下克上の時代」


■享徳3年(1454)〜文明14年(1482) 享徳の乱
上野国には守護として途中から山内上杉顕定が平井にいた。

▲文明初期  箕輪城が造られた。(箕輪初心:生方私見)

▲文明6年(1474)、石上寺&八幡神社が造られた。 
箕輪城築城は通説は1500年頃となっている。
 しかし、●文明6年(1474)、石上寺&八幡神社が造られた。
 東明屋の石上寺:長野氏の菩提寺である。
 文明6年(1474) 六地蔵石幢(せきどう)・八幡神社(現東向観音)
 の石幢(せいどう)が根拠である。
 ★城より先にお寺を造る人はなずいないだろう。
 しかも、長野時代の箕輪城から見て鬼門にあたる。
 通説は菩提寺を来迎寺・長純寺・長年寺と前提としているので
 1500年頃説になってしまうのだ。
鷹留城には鬼門の寺がない。菩提寺:長年寺のみである。
 長年寺には@7つの墓とA長年寺記、B壁書がある。
 長野氏が箕輪城を文明6年(1474)以前に造ったとすれば、
 箕輪城は平山城で、1500人規模で守るには守りに不安が
 ある。だとすれば、一城別郭として、山城の鷹留城が必要に
 なろう。
 @箕輪城〜金敷平〜下善地砦(福島氏)〜上善地砦(後藤氏・
 生方氏)〜見返り坂(信玄伝説)〜愛宕山(信玄腰掛石伝説)
〜十文字(後、本郷氏・新田景純系後閑氏)〜鷹留城までは、
 約6km・・・
 A箕輪城〜童子砦(長野憲業の車郷小学校全体説もあるが)
〜白岩砦(??氏)&長谷寺〜高浜砦・・・或いは
遠北の砦?〜三つ子沢砦(新井氏?)〜神戸砦〜長年寺〜
鷹留城までが約8km・・・
 鷹留城は堀・郭が大きいが、縄張りは連郭式で単純で、戦国
 時代初期の構造であると想像できる。


■文明3年(1471)享徳の乱で功績のあった長野左衛門尉は
     足利義政から感状(感謝状)をゲット。
 ★箕輪初心私見「1470年代には、長野氏と小幡氏は上野
  国人層の有力武将に成長。」

■文明8年(1476)関東管領山内上杉氏の家臣長尾景春(群馬白井城主)
  が鉢形城を築城。
  長尾景春の乱・・・鉢形城に立て籠もり、上杉氏と対立
 山内上杉(平井城) VS 古河側長尾景春(白井城:旧子持村)
                 +長野為兼  
6月、長尾景春は五十子を襲った。長尾景春は鉢形城に戻った。
 

■文明9年(1477)
正月18日 上杉顕定は五十子城を放棄し、越後の上杉定昌は白井城、
 上杉顕定は阿内城、扇ヶ谷上杉定正は細井に陣を移し、岩松明純は
 武士の城山に陣を敷いた。
 
 3月8日 ▲針谷原の戦い
  太田道灌は手兵を率いて長尾景春を破った。
  大石源左衛門、長野左衛門尉為兼(業)が討死した。 
  長野左衛門尉為兼は上杉顕定を裏切って討ち死にした。
(★関東古戦録・松陰私語)
 ★長野左衛門尉為兼の2説)
  @長野左衛門尉為兼・・長野氏は「兼」系・「業」系がいた説
A長野左衛門尉為兼=長野為業 (★飯森康弘先生)

 ?月広馬場(榛東村:箕輪城から北北東4km)の戦い
  山内上杉顕定(平井城) VS 長尾景春+古河公方
  旧榛名町白岩砦:長谷寺→×(旧榛東村)←渋川:白井
上杉の挟み撃ち作戦
(★「関東古戦録」久保田順一先生訳→秋本太郎先生)

■戦国時代・・近くて安心な城=箕輪城の築城。
 詰め城として鷹留城(★近藤義雄先生の講演会での説)

 烽火城として金古城。=惣社長尾氏対策
 東毛本面拠点として厩橋城=前橋城(現在の前橋の県庁)

★箕輪初心私見「箕輪城は1477年、以前に存在した可能性も
 ある。浜川からみると、そこしかないと地形から考えられる。」
   2008年の私の考え。
※久保田順一先生は、2012年から、長野氏はこの時には
 箕輪城付近にいたのではないかという説を展開している。

▲近藤義雄説・山崎一氏説
長尾景春の乱(1476〜1480)など戦い、さらに扇谷上杉との対立で
山内上杉氏の力は年々衰えていった。
このような情勢の中で長野郷(現高崎市浜川町周辺)で勢力を
張っていた長野氏が勢力を持った。

▲秋本太郎先生の2009年頃の考え
  箕輪城築城・鷹留城築城は1480年代か?
 一時の秋山太郎説・・・であるが、・・
 2014年、箕輪城パンフレットで1500年頃と戻した。
 
★私みたいに、残された墓石から1474年説をとる人は
 おらんかに・・・

・文明18年(1486) 堯恵は上野国国府の長野陣所に行った。
  関東管領:藤原(上杉)顕定に会った。

・文明19年(1487) 堯恵の「北国紀行」
長野陣所小野景頼も元に寄った。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★箕輪城143【尭恵「北国紀行」の上野国府長野陣所】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_29.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
★この段階で、長野氏は上杉顕定の有力被官になっている
ことが分かる。・・・箕輪城あるいは鷹留城がないという
のが変である。


■長享元年(1487)〜長享の乱 
 山内上杉(平井城) VS 扇谷上杉(川越城)

■延徳4年→明応元年(1492) 
  伊予太守長野業尚が榛名に長年寺を創建?
(★長年寺縁起并由来記:高崎市史)

▲明応年間(1492〜1500)室田に鷹留(たかとめ)城を築き、
長野郷浜川(高崎市浜川町)から移り、 その子憲業が箕
輪城を築き本拠を移したといわれる。
(★『長年寺記』・群馬県古城累祉の研究下巻)
 ★群馬県古城累祉の研究下巻や現地案内板などに書いてあるから、
  全てのブログは右から左、同じ文章である。
 「境目の城上野国編(宮坂武雄著)に宮坂武雄氏がもっと以前に
  鷹留城が造られたのではないかと疑問視している。
 
★榛名町誌:久保田順一先生は、同時期といっているが、築城
  年代を榛名町誌にも明確に示していない。
※久保田先生は講演会では「
「鷹留城→箕輪城に行った可能性もある。信憑性が高い。」
  と言っている。
 しかし、私は箕輪城築城は1474以前説を採っている。
 根拠@
 菩提寺:石上寺に石憧は1474年、東向観音も1474年
 であることから、1574年以前に箕輪城、或いは屋敷が造ら
 れたのであろう。鬼門寺としての方角を考えると、現箕輪城
 にあったと考えられる。
確かに石上寺には長野氏の墓はない。来迎寺・長純寺・長年寺
だけであるが、・・・箕輪に菩提寺・祈願神社が造られているの
 は確かである。
根拠A
 長尾景春 VS 上杉顕定の対立が続いていたことを想定すると
 、上杉顕定が文正元年(1466)平井城を拡張工事した。詰め城:金
 井城を築城したという。であるとすると、有力家臣となった長野
 氏の城があってもおかしくはない。 
「浜川長野正弘所蔵系図」に従えば、浜川道場に乙業館→隆業館
 (200×130m)→尚業(業尚)は箕輪・鷹留両城は一城別郭
 とした可能性がある。
 つまり、箕輪城が造られ、後に詰め城:鷹留城が造られたと考える。
 鷹留城の里城:平時の居城は「堀之内」(松山城の南西部)である。
  (★久保田順一先生講演会)城下町があった。
●長野乙業→長野隆業・・・・・
→@長野業尚(尚業)→A信業(=憲業)
   →業氏(鷹留城)→業通
    ↓       ↓    女子5人
  →方業(厩橋城)  ↓           勝業
             ↓          男子2人
  →B業政→吉業
   C業盛(=氏業:近藤説)→亀寿丸:鎮良
    女子12人
※信業(=憲業)は近藤説
 ※信業はいない説・・憲業の弟は諏訪??

■明応6年(1497 ) 長野業尚が長純寺を創建
  (★みさとの歴史・箕郷町誌)


■文亀元年(1501) 長野業尚か憲業が雲英(+恵応)和尚を招いて
         長年寺を創建?(★秋本太郎先生)
長野氏系図には、鷹留城を築くとある。箕輪城も築くともある。

■文亀3年(1503) 長野業尚が死亡。
    (★みさとの歴史・箕郷町誌)

・永正元年(1504)武蔵立河原の戦い
上杉顕定の方の長野房兼が討ち死にした。

・永正6年(1509) 宗長が浜川:松田加賀守宗繁宅に寄った。
  『東路の津登』
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心★『宗長の生涯』:世捨て人の彷徨
http://53922401.at.webry.info/201404/article_25.html

箕輪初心:生方▲箕輪城179●20151126森田真一先生講演会
『上杉氏・長野氏・里見氏』
http://53922401.at.webry.info/201512/article_1.html
★上杉顕定の晩年は板鼻が中心であった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・永正4年(1507) 上杉顕定の養子:上杉憲房と上杉朝良の妹の婚姻
 が成立して山内・扇谷両家の同盟関係が復活した。
★私見・・この時、同時に長尾顕忠の娘は扇谷上杉朝良の室になった
 のではないだろうか。

・永正7年(1510)長森原の戦い(永正の乱の一部)
山内上杉顕定が戦死すると山内上杉憲房も撤退した。

・永正9年(1512) 6月 上杉憲房の長年寺禁制を出した。

10月 前長野憲業の壁書・・・吾妻出陣祈願。
(★長年寺文書)
・永正10年(1513) 長野憲業が 榛名神社巌殿寺宛に
  大戸要害の落居を願文を出した。
(★長年寺文書)
★何故、長年寺か?
最初の長純寺は水草(箕郷町下芝)にあり、
水害で流されていた。

  箕輪初心:生方▲箕輪城180【長野業正の妻】&子ども
http://53922401.at.webry.info/201512/article_4.html

「長野業正の正妻は扇谷上杉朝良の娘である。」
 私は理由を考えた。★上杉憲房が自分の妻の兄:上杉
朝良の娘を長野業正に嫁がせることで、権勢を維持しようとした
からであると考えた。

・永正11年(1514) 長野一族?榛名神社に制札をだした。

・大永4年(1524)
惣社長尾家の長尾顕景と白井長尾家の長尾景誠が北条氏綱・長尾為景
と結んで関東管領上杉憲寛に叛旗を翻した。
長野方業が惣社長尾氏の重臣:徳雲斎を調略したことが知られている。
(★久保田順一先生講演会より)
箕輪初心:生方▲箕輪城180【長野業正の妻】&子ども
http://53922401.at.webry.info/201512/article_4.html



・大永6年(1526)長野信業は長子:業氏に
   鷹留城を与えた。
(★群馬県史)
 ※長野憲業=信業同一人物説もある。(近藤義雄先生)

・大永7年(1527)
11月27日 箕輪の長野左衞門太夫方業、総社長尾顕景・
白井長尾景誠の排除を徳雲軒と謀る。
12月16日 箕輪の長野左衞門太夫方業、厩橋宮内大輔と
ともに総社城を攻めすすめる。  
(★上杉家文書:山田邦明2002)

・享禄元年(1528) 長尾景誠が家臣に殺された。
長野信濃守業正、これを聞き白井を攻略し、惣社長尾に景房
を招き、正統をを継承させる。
長尾景誠の母は長野信濃守業正の母と記されている
(★史跡箕輪城発掘調査報告第8集:一般には限定100部)
★でも、長野業正の母ではなく、

●▲■長野左衛門大夫方斎は箕輪城主とみられている。
@『日本城郭大系』では、箕輪城主の長野信業
『箕郷町誌』(箕郷町1975年)では長野信業=方斎
   (★近藤義雄先生)
A『群馬新百科事典』(上毛新聞社2008年)の「長野氏」
  (飯森康広著)
 では長野方業=長野業正(★正式名:業正である)
 同一人物説・・・花押も同じ。
B『群馬県史 通史編3』では。長野方業=方斎』
C戦国のコミュニケーション』(山田邦明著2010)
方斎ではなく、方業である。
D黒田基樹論文 方斎は方業の誤読とする。
  厩橋長野方業が箕輪長野氏に養子に行った説。
E厩橋宮内大夫も諸説ある。
◆◆ 箕輪初心●【箕輪城87:飯森康広氏の新説】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_2.html

箕輪初心★箕輪城101「長野氏」の研究:近藤・山崎・飯森・久保田
http://53922401.at.webry.info/201310/article_6.html



・享禄2年(1529)〜享禄4年(1531) 関東享禄の乱(黒田基樹説)
・享禄2年(1529)
1月24日 山内上杉家家臣:白井長尾景誠が長尾八郎に謀殺される
   (『続本朝通鑑』)
8月14日 上杉憲寛が上野国碓氷郡:安中城の安中氏討伐を開始
   した。同盟関係にあった扇ヶ谷上杉朝興からは制止されたが、
    これを無視した。
   (『続本朝通鑑』)
9月22日 西氏と小幡氏が上杉憲政を擁立した。
   上杉憲寛に対して謀反を起こした。
 ・・・・山内上杉家の内紛が発生した。
  上杉憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立が  
  あったと考えられる。

  (★黒田基樹)
  長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
     VS 安中城付近で交戦
  小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政

  上杉憲寛は長野方業を随行させながら、安中城から程田
  (高崎市保渡田)に後退した。
    (★『続本朝通鑑』) 
・享禄3年(1530)
5月 
「左衛門尉」(小幡)が上野国多胡郡仁叟寺(吉井町)に対して
 禁制を与えた。
  甘楽郡高田城(富岡市旧妙義町)周辺で合戦があった。
5月21日 上杉憲寛が高田憲頼の注進により、被官:守山与五郎の
  戦勲に対して感状を発給した。
10月25日 上杉憲寛が用土新三郎(業国)領の武蔵国男衾郡赤浜
  を被官:三富平六に与えた。
・享禄4年(1531)
9月3日 上杉憲政が関東管領を継ぎ、憲寛は上総国の宮原
(市原市)に退去して、晴直と名を改めた。
 (★黒田基樹著)
●結果
1)古河公方家では足利晴氏が公方の地位を確立し、高基は隠棲。
2)山内上杉家では上杉憲政が家督を継ぎ、憲寛は敗れて上総宮原
  (市原市)にて隠棲。
結果:足利晴氏が古河公方、上杉憲政が関東管領の地位を確立した。

※箕輪長野方業が敗れている。
上杉憲寛方の諸氏は許された。

長野方業の後継者とみられる長野業正(★黒田基樹)
あるいは長野方業の娘を小幡憲重に嫁がせた。
その後、箕輪長野方業の養女になっていたとみられる沼田顕泰の娘を
安中重繁に嫁がせた。
さらに、安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせた。
これによって、和解が図られている。
◆参考文献
・『戦国関東の覇権戦争』黒田基樹著 
・『戦国北条氏五代』黒田基樹著 
・『戦国期山内上杉氏の研究』黒田基樹 
・『西上州の中世』:黒田基樹著:安中市ふるさと学習館
◆参考サイト
ウィキペディア

・享禄3年(1530)吾妻の戦い
長野憲業 VS 大戸氏?
   長野憲業がで戦死
  (★みさとの歴史・箕郷町誌)  

・天文2年(1533) 長野宮内大輔が北条氏綱の鶴岡八幡宮の
  再建の助成要請に応じた。
 (★快元僧都記:高崎市史)

・天文4年(1535) 長野某が榛名神社の春の祭礼に制札を出した。
(★榛名神社文書:高崎市史)
★通説は長野業正である。
ちなみに制札を出したのは、上杉憲房・真田幸綱・北条氏邦・
などで、領主クラスである。

・天文10年(1541) ★海野平の戦い
真田幸綱(幸隆)ら滋野一族が敗北。
真田幸綱は羽根尾城に逃亡した。
海野棟綱・真田幸綱は長野業正・上杉憲政に海野奪還を
要請・・・長野業正が出陣。
諏訪頼重と和睦・・・
海野平・真田の里に行かず、帰還した。
(★真田三代:平山優・真田四代と幸繁:丸島和洋著)

  帰還理由は深谷上杉憲賢・長野賢忠・那波宗俊・成田親泰
  ・桐生助綱とともに金山城主:横瀬泰繁を攻めて敗退した。
上杉憲政は北条氏綱の侵攻が気になっていたのだ。
   (★由良成繁事書案)



箕輪初心:生方▲真田●59【志賀城】:笠原清繁&高田憲頼
/大虐殺&人身売買
http://53922401.at.webry.info/201603/article_4.html

・天文15年(1546) 笛吹(碓氷)峠の戦い
長野信濃守は出陣しなかった。
  (★武田晴信書状写:高崎市史)

・天文15年(1546) 武田晴信の内山城攻撃
箕輪初心:生方▲真田●44【佐久内山城】真田幸隆&大井貞清
http://53922401.at.webry.info/201602/article_20.html 

・天文15年(1546) 河越の夜戦(かわごえよいくさ)
北条氏康軍
   VS  
上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の連合軍
 
蔵国の川越城(現埼玉県川越市)の付近で戦闘。
   →北条軍が勝利
川越城の奪回を図った両上杉氏は
@扇ヶ谷上杉朝定は戦死。
A山内上杉憲政は上野(群馬)平井城に逃亡。
B古河公方:足利晴氏は古河に逃亡。
 
大導寺盛昌が戦功を挙げ、河越城の城代を務めた。
  後北条氏は旧上杉氏所領を直轄領とした。
       重臣:大導寺氏を配置した。
※川越の原型は、大導寺政繁によって、建造された。
    (★川越のパンフレット他)
 
川越城・逆井城は後北条氏の北関東(栃木・茨城)進出
 の拠点となった。
 佐竹氏・多賀谷氏などと対峙した。
●長野業正の嫡男:吉業が負傷した。    

河西衆・・・長野業正・小幡憲重などは上杉憲政を裏切った。

箕輪初心:生方▲真田●64「真田幸綱(幸隆)の武田晴信への臣従諸説」
http://53922401.at.webry.info/201603/article_9.html

・弘治3年(1557) 「上野国厩橋にて長野弾正少輔興行」
「上野国長野信濃守所望、利根河近き所在原氏の人ならん。」
 (★遊行上人体光句集「石苔」:高崎市史)
長野弾正少輔は賢忠か?(★秋本太郎先生)


・永禄2年(1559) 武田信玄は長野信濃守に服属を求める。
(★武田晴信書状:内田祐輔氏所蔵文書)
※偽文書の可能性がある?

・永禄3年(1560) 長尾景虎の第1次関東出兵
(越後も関東だけど・・・)
6月10日 近衛前嗣は厩橋城の人質のことなどを長尾景虎に
申し送る。「みのわ」から人質が置かれた。
 (★近衛前嗣書状・上杉家文書)
9月上旬 長野信濃守業正らが味方した。
(★双林寺伝記)

10月2日 正木時成は長尾景虎に「簑匂(箕輪)」が
味方したことを伝える。
 (★正木家文書)

 ?月?日 、武田信玄は笛吹峠の戦いに参加しなかったことを
  持ち出し、服属を誘った。
(★武田晴信書状写:極楽院文書:)
   
・永禄4年(1561) 長野業正死亡。
(★長純寺の長野業正木造背銘)



★明日は武田信玄の上野侵攻と箕輪城攻略の過程

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