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zoom RSS 箕輪初心:生方▲箕輪城188【鷹留城】築城3説と落城3説

<<   作成日時 : 2016/06/21 09:46   >>

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高崎市旧榛名町の鷹留城は箕輪城の最大の支城である。
【1】鷹留城築城説は@明応年間(1492〜1500)に長野業尚
によって築城された(長年寺文書・通説)、A長野業正の兄:
長野業氏が鷹留長野氏の祖で鷹留城主とする説(ウィキペデ
ィア説)、B文明(1469〜1487 )・長享(1487〜1489)・ 延徳
(1489〜1492)説(私見)、【2】鷹留城落城説は@永禄6年
(1563)2月21日、石井讃岐守信房討死説(★着到帳)。
A永禄9年(1566)5月、鷹留城落城説長野三河入道業氏
が死亡。(★浦野家文書)(黒田基樹説・峰岸純夫説など)
永禄9年(1566)9月鷹留城落城説(★関東古戦録など
★箕輪城には1000回以上いっているのに、。鷹留城の
訪問は6回目だって、車で5〜10分なのにね。
画像

・久保田順一先生の史料

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画像

 ★長野時代・・・のまんまである。





【1】鷹留城築城説

1)長年寺文書により、明応年間(1492〜1500)に長野業尚によ
  って築城された(通説)。


2)長野業正の兄:長野業氏が鷹留長野氏の祖で鷹留城主とする説
  (ウィキペディア説)
 しかし、長野業正の生誕を延徳3年(1491)説・明応8年(1499)説が
 あるが、長野業氏が鷹留長野氏の祖であるならば、文明8年(1477)
 〜文明17年(1485)までに生まれたことになる。
 長野業尚(尚業)の生誕は不明であるが、文亀3年(1503)長野業尚
 が没し、長野憲業は家督を継承した。

3)文明(1469〜1487 )・長享(1487〜1489)・ 延徳(1489〜1492)説
 (私見)
 箕輪城築城は通説は1500年頃となっている。
 しかし、●文明6年(1474)、石上寺&八幡神社が造られた。
 東明屋の石上寺:長野氏の菩提寺である。
 文明6年(1474) 六地蔵石幢(せきどう)・八幡神社(現東向観音)
 の石幢(せいどう)が根拠である。
 ★城より先にお寺を造る人はなずいないだろう。
 しかも、長野時代の箕輪城から見て鬼門にあたる。
 通説は菩提寺を来迎寺・長純寺・長年寺と前提としているので
 1500年頃説になってしまうのだ。
鷹留城には鬼門の寺がない。菩提寺:長年寺のみである。
 長年寺には@7つの墓とA長年寺記、B壁書がある。
 長野氏が箕輪城を文明6年(1474)以前に造ったとすれば、
 箕輪城は平山城で、1500人規模で守るには守りに不安が
 ある。だとすれば、一城別郭として、山城の鷹留城が必要に
 なろう。
 @箕輪城〜金敷平〜下善地砦(福島氏)〜上善地砦(後藤氏・
 生方氏)〜見返り坂(信玄伝説)〜愛宕山(信玄腰掛石伝説)
〜十文字(後、本郷氏・新田景純系後閑氏)〜鷹留城までは、
 約6km・・・
 A箕輪城〜童子砦(長野憲業の車郷小学校全体説もあるが)
〜白岩砦(??氏)&長谷寺〜高浜砦・・・或いは
遠北の砦?〜三つ子沢砦(新井氏?)〜神戸砦〜長年寺〜
鷹留城までが約8km・・・
 鷹留城は堀・郭が大きいが、縄張りは連郭式で単純で、戦国
 時代初期の構造であると想像できる。


【2】鷹留城落城説

1)永禄元戌午年(1560)箕輪城着到帳に高家「石井信房」がある。
 (但し、歴史学者の多くは信用していない。)
  →永禄5年(1562)長野業氏は死亡説
(★群馬県史・榛名町誌:久保田順一先生)
 →永禄6年(1563)2月21日、石井讃岐守信房討死。31歳。
 石井信房が鷹留城で討ち死にし、落城した。
 (安中市秋間:石井泰太郎家所蔵長野氏系図)
  石井信房の存在を信じているのは黒田基樹氏&里見繁美先生など?
  であるが、黒田先生は着到帳を信じていない。歴史学者だから。)
この説を採用すると、鷹留城は、武田信玄の松井田、安中方面への
  出撃拠点として重要な役割りを担うことになる。
 でも、どうかな?・・・
城に5〜6千は常駐できそうであるが、・・・・
場所的に使わないであろう。
真田幸綱・甘利昌忠の連絡場所とはなり得る。
・曾根昌世・金丸虎義、内藤昌豊山県昌景・三枝・土屋などは
どこにいたのであろうか?
永禄6年(1563)?には、木部城を改修しているしているので、
武田信玄の本陣は

2)永禄9年(1566)5月、鷹留城落城説
  長野三河入道業氏が死亡。(★浦野家文書)
  (黒田基樹説・峰岸純夫説など・・・)
 
3)永禄9年(1566)9月鷹留城落城説(★関東古戦録)
 長野業正は、武田信玄・北条氏康・上杉謙信の三つ巴戦いが上野国
 を舞台に勢力を争った。
 戦国地代に関東管領:山内上杉氏の再興を図って最後まで奮闘
 した武将と勘違いしている?思い込んでいる人もいるが・・・・
 関東享禄の乱で、上杉憲政と争ったり、北条が平井城に攻めて来
 る時は北条の味方したりした。
 長野業正が味方しなかったのは武田晴信のみであった。
永禄9年(1566)9月、武田信玄は2万の大軍で侵攻した。
 那波無理之助宗安が雉子ヶ尾峠を越えた。
  武田方の小宮山らが雉郷城・里見城を陥とした。
  那波無理之助宗安が高浜砦を急襲した。一時は奪取した。
 箕輪城から救援に向かった安藤九郎左衛門勝通、青柳金王らが
 よって奪回した。

  武田軍は再び箕輪城〜鷹留城の連絡路を分断した。
 (★実際は道はここだけではない。)
 鷹留城将:長野業通は弟:業勝、業固らをはじめ数百の手勢で
 迎撃した。
 鷹留城軍は武田軍の小幡信貞らの一隊を一時は烏川南岸に押し戻
 すなど善戦した。
 しかし、長野業勝は討ち死にした。
 翌日、長野業通、長野業固は山県昌景隊に突入した。
 武田方の内藤昌豊・馬場信房隊に囲まれた。
 長野方の鷹留城家老:利根木隊の救援で辛うじて囲みを突破し
 鷹留城に戻ろうとした。
 しかし、城内の内応者:男蟹谷直光らによって鷹留城内に火が
 放たれ、長野業通らはやむを得ず吾妻方面へと落ち延びた。
 鷹留城は武田軍の総攻撃の前にあっけなく落城した。
城主:長野業通は長野原に落ち延びたといわれる。
  (★長年寺記)
★でも、無理がある。北には真田幸綱の大将の岩櫃城軍・
 大戸浦野氏軍・羽田軍・

9月29日に箕輪城を攻略した。



箕輪初心▲箕輪城149:久保田順一先生
【室田長野氏:長年寺&鷹留城】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_10.html

箕輪初心▲箕輪城148【A来迎寺:長野氏の寺】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_9.html

箕輪初心▲箕輪城148【@石上寺:箕輪長野氏の最初の菩提寺】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_8.html

箕輪初心◆箕輪城144【2014築城年代私見:文明6年(1474)説】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_31.html

箕輪初心★箕輪城134長野業政の直属家臣【長野信濃守在原
業政家臣録=着到帳】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_8.html

箕輪初心★箕輪城128【築城年代7説】:私見は長野業尚1477年説
http://53922401.at.webry.info/201404/article_31.html

箕輪初心★箕輪城101「長野氏」の研究:近藤・山崎・飯森・久保田
http://53922401.at.webry.info/201310/article_6.html

箕輪初心:生方▲箕輪城172峰岸純夫説を加味した
『武田信玄の西上州侵攻&箕輪城落城』
http://53922401.at.webry.info/201510/article_7.html

『箕輪城と上州戦国史』
http://minowa1059.wiki.fc2.com/
http://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E4%B8%8A%E5%B7%9E%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%B0%8F%E8%A9%B1
青柳棟治氏のご好意で『箕輪城と上州戦国史』というテ
ーマで私のブログを見やすくまとめてくださっている。
感謝申しあげます。

『箕輪城と長野氏』
http://kouzuke1059.wiki.fc2.com/wiki/%E7%AE%95%E8%BC%AA%E5%9F%8E%E3%81%A8%E9%95%B7%E9%87%8E%E6%B0%8F

リンク集 - 岩櫃城興亡史
http://www.denno2488.com/index.php?%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF%E9%9B%86

〜〜〜高崎市旧榛名〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●箕輪城シリーズ46榛名A:鷹留城@
http://53922401.at.webry.info/201011/article_14.html

箕輪初心●箕輪城シリーズ47鷹留城A歴史&長年寺・榛名神社
http://53922401.at.webry.info/201011/article_15.html

箕輪初心●箕輪城シリーズ45「砦」A旧榛名町
http://53922401.at.webry.info/201011/article_12.html

箕輪初心●群馬「高崎の旧榛名町の全城=29城」
http://53922401.at.webry.info/201103/article_7.html

箕輪初心▲箕輪城150久保田順一先生【室田長野氏:長年寺&鷹留城】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_10.html

箕輪初心●群馬「松山城」=鷹留城支城→北条氏の真田攻撃の拠点 
http://53922401.at.webry.info/201103/article_6.html

箕輪初心●群馬『榛名山城考察』&榛名神社の氷柱4m
http://53922401.at.webry.info/201302/article_13.html

箕輪初心:生方▲2015高崎【旧榛名町の歴史散策】
http://53922401.at.webry.info/201509/article_22.html


〜〜〜高崎市旧倉渕〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
◆◆ 箕輪初心●群馬「倉渕の城砦=5城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201103/article_9.html

◆◆ 箕輪初心●群馬倉渕「権田城」 ◆◆
1回目 http://53922401.at.webry.info/201103/article_10.html
2回目 http://53922401.at.webry.info/201302/article_14.html

◆◆ 箕輪初心●群馬倉渕「大明神砦」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_15.html

箕輪初心●群馬倉渕『栗崎城=三ノ倉城』
http://53922401.at.webry.info/201302/article_16.html

箕輪初心:生方▲真田丸27【倉渕鑰掛(かぎかけ)城】:真田昌幸
の狼煙台?
http://53922401.at.webry.info/201601/article_32.html

〜〜〜真田と高崎市箕郷町〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

箕輪初心:●箕輪城シリーズM「第7代真田幸隆(幸村祖父)」
http://53922401.at.webry.info/201010/article_22.html




◆訪問記@・・・2006年11月4日(日) 
《アクセス方法@箕郷:箕輪城から》
 ○高崎→箕輪城方面へ→箕輪小を右に見ながら、左折し、榛名湖
  方面へ中善地を越え、榛名町十文字向かう。宮沢小学校を300
  m越えた所で右折し、フルーツラインに入る。
  鷹留城の小さな看板がある。車は停めづらい。
  歩くこと2分、分岐にでる。


◆訪問記A・・・2007年3月25日
《アクセス方法A榛名:長年寺から》
○高崎市から、榛名町の方へ県道29号を走る。
  鷹留城の菩提寺:長年寺を過ぎる。
  榛名町支所の手前の信号に鷹留城の看板がある。
  右に入って坂を登ると交番がある。
  さらにまっすぐ登ると、根小屋地区になる。
  根小屋地区の湯本家(真田幸隆の家臣で鷹留城城番)を思い出す。
  民家の手前に十字路がある。細い農道しばらく進む。
  果樹園をぬけ、左のカーブにかかる辺りで道が二またに分かれる。
  森へ向う正面の山道を左に入る。
  ※道はわかりづらい。
 ○車は空き地のようなところに停める。
 ○稲荷神社の些細な鳥居がある。
 ★箕輪初心「看板の整備がもっと必要か?」



◆訪問記B・・・2010年6月26日
《アクセス方法@箕郷:箕輪城から》
◆訪問記C・・・2014年11月25日
《アクセス方法@箕郷:箕輪城から》

◆訪問記C・・・2014年11月25日
《アクセス方法B榛名支所から》
榛名支所から長年寺方面に向かい、橋を渡った先50mを左折し、
道なりに1km程進む。十字路を右折し、Y字路を右に行き、
1km・・・フルーツラインの終点に出る。フルーツラインを
約1kmの処に看板がある。


●入り口
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●搦め手口に当たる。
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●2分程坂を登ると、本丸下に出る。

○道には歌碑が並ぶ。鷹留城を詠んだものである。


北西から
●奥の郭
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▼戻る。

●土橋
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●空堀
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●里見の郷の中嶋講二氏のご母堂作
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●3の郭

●巨大空堀
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●2の郭
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●帯郭・・・★武者走り

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●巨大空堀 深さ10m? 幅20m
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●本丸
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本丸・堀切などの遺構がよく残っている。
  本丸跡には碑と看板がある。碑は二つある。○看板
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 ・1492年〜 長野業尚が築城開始。(本城は箕輪城)
      70年の群馬の長野氏3代のの居城・出城。
 ・1566年 武田氏に迫られ、滅亡。・・・廃城。
     {鷹留城の歴史・・・榛名町教育委員会の立て札より}
  
○鷹留城戦没者慰霊塔


○長野氏を祀った鷹留城長野霊神

鷹留城・・・・比高:東側の根小屋のから70m程?と書いてあった。

○本丸から大手口方面に降りる階段がある。


●帯郭?武者走り?馬場のような場所に出る。

    
●大手口
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●本丸&4の郭の間の空堀

●4の郭・・大きな郭があった。

なぜか最近の墓がある。


●空堀
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●5の郭


○堀を見学。




1)高崎市観光課?Hp
鷹留城跡は明応年間(1492〜1500)に長野業尚によって下室田町字
城山の地に築城され、永禄9(1566)年に武田信玄との戦いで落城
するまでの間、長野氏四代の居城として構えられました。城跡は南北
430m、本丸の高さは東側の谷から70mあり、山城の規模としては
県内でも有数の大きさです。また、本丸跡をはじめ大手口、井戸、
水路や各種遺構が原形を残している貴重な史跡です。
指定種別:高崎市指定史跡
名称:鷹留城跡(たかとめじょうあと)
指定年月日:昭和57年4月1日

2)榛名町教育委員会:万葉集の樋口先生の著かな?
・1492年〜 長野業尚が築城開始。(本城は箕輪城)
      70年の群馬の長野氏3代のの居城・出城。
・1566年 武田氏に迫られ、滅亡。・・・廃城。
 {鷹留城の歴史・・・榛名町教育委員会の立て札より}


2)ウィキペディアの説
鷹留城は、 明応年間(1500年頃)、当地を支配する長野尚業によっ
て築かれた山城である。長野尚業の子、憲業が本拠を1512年
(永正9年)に築かれた箕輪城に移すまでの間、長野氏の本拠で
あった。その後も1566年(永禄9年)に落城までの間、箕輪城の有
力支城の一つである。
(日本城郭大系には 「箕輪城と相助ける別城一廓の関係にある」
と記されている。)
城の規模は、南北430m、東西300m、本丸の高さは東側の谷から
70mといい、群馬県内でも有数な中規模な山城である。現在にの
こる遺構として、本丸以下の曲輪、虎口、大手口、搦手口、井戸、掘
切の跡が認められる。 また、元城下に長野氏の菩提寺の室田山長年
寺があり、「長野氏累代の墓」(長野業尚、業正、憲業、業氏、業固、
業茂、業続の7基の五輪塔)がある。
◆参考資料
・別冊歴史読本「戦国古城」(新人物往来社)
・「戦国関東名将列伝」(島遼伍/随想舎)
・「群馬の古城」(山崎一/あかぎ出版)
・「日本城郭大系」(新人物往来社)
・「関八州古戦録」(ニュートンプレス)
・鷹留城 埋もれた古城 2012.5.16閲覧
  Hさん、その節はお世話になりました。
  最近は何をしていらっしゃるのでしょうか?


・鷹留城 余湖 2012.5.16閲覧
余湖さん、お久しぶりです。
2015.11,06 鷹留城に一緒に行けて良かったです。
私の畑の一つは鷹留城&箕輪城のちょうど中間地点にあり
ます。「愛宕山の信玄の腰掛石」&「見返り坂」
行きは愛宕から箕輪城を見て、帰りは落城の火を振り返って
見た坂の伝説があります。
  今回は2016,04,15の写真です。


★明日は箕輪城かな?

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