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zoom RSS 箕輪初心:生方★小栗上野介17『小栗祭り20160522』

<<   作成日時 : 2016/06/02 05:07   >>

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安政5年(1858)6月19日(17月29日)小栗上野介忠順は江戸幕府
の日米修好通用条約批准書交換=調印の使節団の一員として渡米した。
帰国後にワシントン海軍工廠など日本近代化の礎を築いた。毎年5月
の命日に近い日曜日に高崎市倉渕町権田の菩提寺:東善寺(村上泰賢
住職)で小栗上野介忠順(ただまさ)をしのぶ「小栗まつり」を開催
している。今年は5月22日にで開かれた
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東善寺(027ー378ー2230)の村上泰賢先生から、手紙が来た。
小栗上野介忠順公の卒塔婆を建てるというものであった。

・10:00 墓前祭
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    参列者が献花、献香した。
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●中嶋講二氏・・・

●村上泰賢先生のお嬢様

●倉渕支所長:内山匡氏

・11:00 昼市
・11:00 東洋大教授:岩下哲典先生の講演会
  「幕末情報社会と小栗上野介」
 ●「幕末情報社会と小栗上野介」岩下哲典先生


【0】はじめに
●講演会の流れ
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【1】幕末情報社会とは何か?

例「金海奇観」黒船来航絵巻 
  原本所蔵 早稲田大学図書館(大槻家旧蔵)
大槻磐渓編 鍬形赤子ほか画 
全2軸(乾巻:30×947cm 坤巻:30×1017cm)箱入
解説:岩下哲典(前明海大学院応用言語学研究科教授)
本体280,000円+税 
・嘉永7年(1854)9月頃成立
・●大槻磐渓の
1)@父:大槻玄沢・・・蘭学者の「解体新書」。
  A本人:大槻磐渓:漢学者・儒学者仙台藩藩校「養賢堂」学頭
  B子:大槻文彦:国語学者『言海』編者
2)大槻磐渓
・少年時代 
  父・大槻玄沢が訳したオランダ語の文章を漢文体の文章に翻訳
  させるため、蘭学を教えた。

・青年時代  
  大槻磐渓は昌平坂学問所で林述斎らに学んだ。
  西日本旅行に出た。頼山陽の賞賛を受けた。
  蘭学にも興味を持ち、仙台藩に長崎遊学を願い出た。
  しかし当事長崎はシーボルト事件でオランダ人との接触ができな
  かった。
  高島秋帆の武蔵・徳丸ヶ原の演習を見学した。
  江川英龍に入門し西洋砲術を学んだ。
・嘉永6年(1853) ペリーが来航
  大槻磐渓は幕府に上書して開国論を主張した。
・嘉永7年(1854) ペリーが浦賀に再来航。
  大槻磐渓は仙台藩の命を受けて浦和に出向き、見聞して回った。
  大槻磐渓は中国人通訳:羅森に漢詩を送った。
  吉田松陰は大槻磐渓の情報で、黒船に乗りこもうとした。
3) 大槻磐渓『金海奇観』
・嘉永7年(1854)アメリカ合衆国海軍東インド艦隊司令官:ペリーは
  再び浦賀沖に姿を現し金沢沖に滞舶した。
  大槻磐渓は仙台藩主の命により、横浜の応接所に赴き、ペリー一行
  の様子を観察、報告した。
 
 「金海」とは「金川(=神奈川)の海」の意味である。 
題字・・・河田迪斎によるもので、跋に代えて磐渓がペリー艦隊
  の通訳である中国人羅森に贈った詩が添えられている。
 巻は乾、坤の二軸に分かれている。
@乾の巻(上巻)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ペリー艦隊が碇泊している本牧沖の景観
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  「横浜村応接所と岬の突端に「本牧」の文字、ついで手前に
  「神奈川宿」の文字、そして横列のペリー艦隊9隻・・・
   その艦船名一覧が書いてある。
 応接所の見取図

 蒸気船と帆船の図
  「ポーハタン号(第2回来航時のペリー旗艦)ほか軍船5隻
  (ロシア船が1隻混入)の拡大図  
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 乗組員の服装

 コルト拳銃
 コルト銃の分解

 携帯火薬入れ瓶
 鉛弾の鋳型

  榴弾砲
 蒸気機関車と客車〜〜〜線路
※【機関車】

 河田八之助(迪斎)が乗った。
 4分の1の大きさの機関車であった。
 「火発して機活き、筒、煙を噴き、輪、皆転じ、迅速飛ぶが如く、
 旋転数匝極めて快し」と日記に記した蒸気機関車である。
 河田迪斎は日米和親条約の草案起草者の一人である。、
 後にこの機関車は江戸に送られ、江川太郎左衛門が運転した。
 開成所から神戸海軍操練所に移されたが、元治元年(1864)の火災
によって焼失し、現存しない。
『ペリー日本遠征日記』には
「この美しい小さな模型の機械は、円環状の線路をぐるぐる回り、
かん高い汽笛の音で大気を満たしたが、この行事は、呼び集めら
れた莫大な数の人びとの群れを驚かせ、かつ喜ばせた。」
 とある。
 
※【電信機】
  モールス電信機。米国大統領フィルモアからの献上品の一つで
  ある。送信側の電信機でモールス符号を打つと、受信側の電信機
   の紙テープがエンボス(凹凸)されて信号を送ることができる。
  ペリーは電線や電池など装置一式を持参し、横浜の応接所から約
  1kmの間に電線を架して通信実験を行った。
  平成9年(1997) 実物は国重要文化財に指定され、郵政博物館に
  収蔵されている。
『ペリー日本遠征随行記』には、日本人通訳の手を借りて日本語を送
  信し、日本人が
 「この実験に満足し、どんな作用をする仕組なのかわからないなり
  にも、おおよその概念は理解した風である」
  と記されている。

 岩下先生「精密に描かれている。」
●坤の巻(下巻)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ホイッスル砲
 ペリーほかの肖像
 「ペリー艦隊側も、画家ハイネと銀板写真のカメラマンで&画家
  のブラウンJr.による写生画を多く残している。
  これらの絵画・図像は歴史の具体像をより明確にする。  
  林大学頭(復斎)と米国東インド艦隊司令長官ペリーは横浜村
  で日本史上初の条約:日米和親条約を平和裏に締結した。

鍬形赤子、磐渓、関藍梁、高川文荃によるものもある。
※鍬形赤子・・・「江戸一目図屏風」:鍬形寫ヨの子で、
         津山藩の御用絵師。
※関藍梁・・・・・磐渓の友人で膳所藩の儒者、
※高川文荃・・・・松代藩医の養子で絵師。
坤の巻の末尾には当時の事を詠んだ関藍梁の詩2首がある。
「金海奇観」は、仙台藩儒者・大槻磐渓が編纂した絵巻で、
「黒船来航絵巻」の元祖といえる。黒船来航に備える警備の諸藩が
絵師を総動員して克明に記録した図像を収めている。
 本絵巻の作成にかかわった人物は、題字を揮毫した幕府儒者林家
塾長:河田迪斎、松代藩医:高川文筌、膳所藩儒者:関藍梁、
津山藩御用絵師鍬形寫ヨの子:鍬形赤子等で、儒者のネットワーク
が光る。



【2】小栗上野介は幕末情報社会をどう生きたか
例『ポサドニック号事件=ロシア軍艦対馬占領事件』
・安政6年(1859)4月 イギリス軍艦「アクチオン号」が対馬尾崎
 浦に来訪し、近海を測量した。5月に退去した。
 10月 再訪した。対馬藩は「アクチオン号」に撤退を強訴し、
  11月、撤退させた。
(★『江戸の海外情報ネットワーク』:岩下哲典著)

・文久元年(1560)ロシア艦隊の太平洋司令官:リハチョーフ大佐は、
不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くことを提案した。
 ロシア政府はリハチョーフの提案を却下した。しかし、海事省
 大臣で大公コンスタンチン・ニコラエヴィチが、対馬への艦隊
 派遣を許可させたため、リハチョーフ司令官の命令によりポサ
ドニック号が派遣された。ポサドニック号はロシア太平洋艦隊
 に所属する新鋭軍鑑(全長53.6m、排水量887t)で、
 艦長ビリリョフ海軍中尉ほか360名のロシア水兵が乗船して
 いた。
※ロシアの意図は、極東での根拠地獲得だけではなく、南海航路
 の確保し、アジアの植民地化を狙っていた。アジア一帯に広大
 な植民地を持っていたイギリスに対馬を租借されるのを恐れて
 いたと考えられている。


・文久元年(1861) 2月3日(3月14日)、ロシア帝国海軍中尉:
 ビリリョフは軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投
 錨し測量・・・浅茅湾内に進航した。
 幕府がロシアと結んだ和親条約では、箱館・下田・長崎、新潟
 ・神奈川を開港したが、対馬は開港地は対象外であった。
 対馬藩は、ただちにロシア側に来航の目的を尋ねた。
  しかし、ビリリョフ艦長は船が難破して航行に耐えられない
 ので、修理のために来航したと回答した。
 さらに修理工場の設営資材や食料・遊女を要求した。
 藩主:宗義和は重臣を集め、相談した。速やかに退帆するよう
 抗議した。
 対馬藩は条約の規定では、難破船などに対して救助・協力する
 ことになっているため、ロシアの要求を受け入れざるを得なか
 った。
 対馬藩は幕府に状況を報告すると
 「対馬藩内には紛争をおこさず穏便に対応するように。」
 と指示した。

3月4日 ビリリョフ艦長は芋崎に無断で上陸して兵舎の建設など
 を始めた。その後、船体修理を名目に工場・練兵場などを建設
 した。

 対馬藩内では対応を巡って、攘夷派と穏健派で論争で混乱した。
 宗義和は穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック
 号に派遣し、その不法を何度か詰問した。
  
 ビリリョフは「自分は太平洋艦隊司令長官の指示で動いている
   だけなので、上官と直接交渉してくれと。」
 と言い逃れた。
 また、ビリリョフは条約違反に関しても、
 「それは通商関係の約束事であって、軍事に関することは別だ。」
 と回答した。

 さらに、ビリリョフはは無回答を貫き、武力で脅かしたり、住民を
 懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して
 滞留の準備を整えた。
  また、ロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回
 って野獣を捕獲したりした。住民としばしば紛争が起こった。

3月23日 ビリリョフ艦長は対馬藩に対し藩主への面会を再三
  要求し、芋崎の租借を求めて来た。
  ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、既成事実と
  して幕府に認めさせる思惑であった。
  対馬藩側は面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣し
  て幕府の指示を仰いだ。

4月12日 
  イギリス軍艦「レーベン号」が対馬に来航した。
対馬は藩主も農民も動揺した。

 ▲ロシア兵による島民殺害事件
  対馬藩の警備兵:松村安五郎は、ロシア短艇が大船越の水門を
  通過しようとしたので制止した。ロシア兵は銃殺した。さらに
  郷士2名を捕虜として拉致し、軍艦に連行した。吉野数之介が
  拉致・拷問され、吉野は捕虜となった恥辱に耐えかねて舌を噛
  み切って自殺した。
  ロシア軍の番所を襲撃し武器を強奪し、数人の住民を拉致し、
  7頭の牛を奪って帰船した。


4月13日 ロシア兵100余人が大船越の村で略奪を行った。

  対馬藩主:宗義和はポサドニック号に速やかに退去することを
 要求しながらも、米・塩・薪炭を贈り懐柔策を図った。
 藩内士民には軽挙を戒めると同時に密かに沿岸に砲台を築造した。
  

長崎奉行:岡部長常は対馬藩に対し紛争を回避するように慎重な対
応を指示する一方で、不法行為を詰問する書をビリリョフ艦長に送り、
佐賀、筑前、長州をはじめ隣藩諸侯に実情を調査させ、対策を議した
が有効な手は打てなかった。

●幕府の対応
@箱館奉行:村垣範正に命じて、駐在のロシア総領事:ヨシフ・
ゴシケーヴィチにポサドニック号退去を要求させようとした。
A外国奉行:小栗忠順を咸臨丸で対馬に送り込んで、事態の収拾に
 当たらせようとした。
岩下先生「小栗は老中安藤信正に命じられていたのは、謁見は対馬
  居留を認めることになるので許可できないので、阻止しろ。
  であった。」


・5月7日、小栗忠順は目附:溝口八十五郎などを率いて対馬に到着
  した。
・5月10日 第1回の会談 
  小栗忠順は艦長ビリリョフと会見した。
   ロシア側は贈品謝礼を口実に藩主への謁見を強く求めた。
   小栗忠順は謁見を許可する旨を回答した。

・5月14日 第2回の会談
   小栗忠順はロシア兵の無断上陸を条約違反であるとして抗議
   した。
  さらに、松村安五郎がロシア水兵に殺害された事件を
  追及すると、
  「マツムラから先に攻撃してきた。」と主張した。
  「マツムラはロシア側の手当てを受け、すでに全快している
   はずだ」
   と責任を逃れをした。


・5月18日 第3回会談
  小栗忠順は藩主謁見の実現を求めるビリリョフに対して、前言撤回し
 「謁見はできない。」と回答した。
  ビリリョフは猛抗議を行った。
  小栗忠順は「私を射殺して構わない」と言い切り交渉を押し切った。


・5月20日 小栗忠順は対馬を離れ江戸に向かった。
結局、話し合いでは、解決しなかった。
 小栗は対馬現地での交渉に見切りをつけ、江戸に戻って幕府に進言
 することにした。

・5月26日 対馬藩では藩主謁見を実現せざるを得なくなった。
  ビリリョフは藩主:宗義和に謁し、短銃、望遠鏡、火薬および家禽
 数種を献じた。しかし、ビリリョフは芋崎の永久租借を要求。大砲
 50門の設置、警備協力などを提案した。
 ★本音はロシア海軍基地の確保であった。
 対馬藩は幕府に直接交渉して欲しいと回答して要求をかわした。
 沿道警備にあたった藩士はロシア兵の傲岸な態度に激怒した。

・6月?日 小栗忠順は江戸に戻った。
※岩下先生「小栗忠順は、阿部信正から言われたことはできた。
      経緯の小栗日記でも書いてあれば、・・・」
★今の北朝鮮のように言って分かる相手ではなかった。


 @大国ロシア相手に、対馬藩のような小藩では対応できるはずがない。
  対馬を幕府の直轄地としたうえで、対馬を直轄領とすること、
  そして、幕府が直接、事件の折衝を正式外交形式で行うべきだ
  と提案した。
 Aさらに、国際世論に訴えることなどを提言した。
 しかし、老中:阿部信正は小栗の意見を受け入れなかった。
 
・7月 小栗忠順は交渉失敗?の責任を取って外国奉行を辞任した。

・6月?日 箱館奉行:村垣範正はロシア総領事:ヨシフ・
 ゴシケーヴィチにポサドニック号退去を要求させた。

・6月10日 ゴシケーヴィチはポサドニック号の退去命令を海軍
 提督:リハチョフに手紙を書いた。

老中:安藤信正は、事件解決のために勝海舟の策を受け入れた。
『勝海舟の策:氷川清話』によれば、
 勝海舟は列強国=イギリスの軍事力を利用して、ロシア軍艦を退去
 させるという考えだった。
  イギリスは、ロシアの南下策に警戒し、対馬をめぐって対立関係に
 あった。幕府は、イギリスに軍艦を出動させ、ロシアに圧力を加え
 ることで、ロシア軍艦の退去にもち込もうと考えたのである。
 安藤信正は、勝海舟の懸案を取り入れながら、話し合いによる交渉
 を続けながらも、イギリス公使オールコックを呼び寄せ、ロシアに
 よる対馬不法占拠を訴えることにした。

★個人的には、勝海舟の考えも非常に危険である。
 対馬はロシア割譲ではなく、代わりにイギリス割譲の危険性が
 あった。結果がバランス Of パワーって所か?


★勝海舟・・・個人的に、どうしても好きになれない人物の一人
である。
対馬事件の小栗をぼろくそに評価した嫉妬深い人物で
 あるように思えてならない。

・7月9日 老中:安藤信昌、イギリス公使ラザフォード・オール
 コック東インド・極東艦隊司令長官:中将:ホープ提督が会談し
 た。
  イギリス艦隊の圧力で、ロシア軍艦を対馬から撤退させる策を
 提案について協議した。
・7月9日、


・7月23日 イギリス東洋艦隊の軍艦2隻
 :「エンカウンター号(全長67.2m、排水量1934t)」
 :「リンドーブ号(全長54.9m、排水量860t)」
 が対馬に回航し威圧を試みた。
 ホープ提督はビリリョフ艦長と会見し、
 「たとえ徳川幕府からの依頼がなくても、東インド艦隊を呼び寄せ
 て、ロシア艦を排除する」
 とロシア側に通告した。イギリス軍艦の艦砲の照準は、ポサドニック
 号に合わせたままだった。
 ホープ中将はロシア側に対して「5ヶ国条約に違反している。」
  と激しく抗議した。

・7月?日 老中:安藤信正は再度、箱館奉行・村垣範正に命じて
  ロシア領事に抗議を行わせた。
  ロシア領事:ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て
 形勢不利と察し、軍艦「ヲ(オ)フルチニック号」を対馬に派遣した。

・7月26日 軍艦「ヲ(オ)フルチニック号」が対馬に到着した。
  ゴシケーヴィチの書簡でビリリョフを説得した。


・8月2日付 オールコックはイギリスによる対馬占領を本国政府に
  提案していた
 (★『小栗上野介の生涯』坂本藤良著:講談社)


・8月15日(19月19日) ポサドニック号は対馬から退去した。
ロシア総領事ゴシケビッチは、イギリス海軍が動き出したのを
 みて形勢不利と判断し、対馬のビリリョフに退去を指示した。
 約半年間居座りつづけたロシア軍艦は対馬から去っていた。
 ロシアはイギリス海軍の力によって、対馬占領計画は失敗に
 終わった。

・9月 外国奉行:野々山兼寛らは幕命で対馬に渡航した。
  箱館談判の決議にもとづいて、ロシア人の造営物は破壊し、材料
  は長崎に保管した。

※勝海舟は、『氷川清話』の中で
 「彼によりて彼を制す」
 と外交交渉の秘訣を説いている。


●『高橋泥舟&山岡鉄舟&勝海舟と江戸無血開城』

・慶応4年(1868) 鳥羽・伏見の戦い
2月12日 幕府の敗戦後、帰京した徳川慶喜に恭順を説いた。
 勝海舟が徳川家処分の交渉のため、西軍の西郷隆盛への使者として
 選んだのは、高橋泥舟であった。しかし高橋泥舟は江戸の不安な
 情勢なので徳川慶喜の傍を離れることができなかった。代わりに
 義弟:山岡鉄舟を推薦した。
     

3月9日 山岡鉄舟は駿府で西郷隆盛に会った。
  山岡鉄舟は勝海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に
  取り計らうよう頼んだ。
 この際、西郷から5つの条件を提示された。
1、江戸城を明け渡す。
2、城中の兵を向島に移す。
3、兵器をすべて差し出す。
4、軍艦をすべて引き渡す。
5、将軍慶喜は備前藩にあずける。

 山岡鉄舟は最後の5条件を拒んだ。
 西郷隆盛は主張を認め、将軍慶喜の身の安全を保証した。
 これによって江戸無血開城と繋がった。

3月13日・14日
 山岡鉄舟は勝海舟と西郷隆盛の江戸城開城の最終会談にも
 立ち会った。

 
4月11日(5月3日) 江戸城開城。
  高橋泥舟は江戸城から上野東叡山に退去させた。
  徳川慶喜を護衛して水戸へ下った。
 幕府の敗戦後、帰京した徳川慶喜に恭順を説いた。
 勝海舟が徳川家処分の交渉のため、西軍の西郷隆盛への使者として
 選んだのは、高橋泥舟であった。しかし高橋泥舟は江戸の不安な
 情勢なので徳川慶喜の傍を離れることができなかった。代わりに
 義弟の山岡鉄舟を推薦した。
     

3月9日 山岡鉄舟は駿府で西郷隆盛に会った。
  山岡鉄舟は勝海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に
  取り計らうよう頼んだ。
 この際、西郷から5つの条件を提示された。
1、江戸城を明け渡す。
2、城中の兵を向島に移す。
3、兵器をすべて差し出す。
4、軍艦をすべて引き渡す。
5、将軍慶喜は備前藩にあずける。

 山岡鉄舟は最後の5条件を拒んだ。
 西郷隆盛は主張を認め、将軍慶喜の身の安全を保証した。
 これによって江戸無血開城と繋がった。

3月13日・14日
 山岡鉄舟は勝海舟と西郷隆盛の江戸城開城の最終会談にも
 立ち会った。

 
4月11日(5月3日) 江戸城開城。
  高橋泥舟は江戸城から上野東叡山に退去させた。
  徳川慶喜を護衛して水戸へ下った。

鳥羽・伏見の戦い
2月12日 幕府の敗戦後、帰京した徳川慶喜に恭順を説いた。
 勝海舟が徳川家処分の交渉のため、西軍の西郷隆盛への使者として
 選んだのは、高橋泥舟であった。しかし高橋泥舟は江戸の不安な
 情勢なので徳川慶喜の傍を離れることができなかった。代わりに
 義弟の山岡鉄舟を推薦した。大槻磐渓にも相談していた。
     

3月9日 山岡鉄舟は駿府で西郷隆盛に会った。
  山岡鉄舟は勝海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に
  取り計らうよう頼んだ。
西郷から、5つの条件を提示された。
1、江戸城を明け渡す。
2、城中の兵を向島に移す。
3、兵器をすべて差し出す。
4、軍艦をすべて引き渡す。
5、将軍慶喜は備前藩に預ける。

 山岡鉄舟は最後の5条件を拒んだ。
 西郷隆盛は主張を認め、将軍慶喜の身の安全を保証した。
 これによって江戸無血開城と繋がった。

3月13日・14日
 山岡鉄舟は勝海舟と西郷隆盛の江戸城開城の最終会談にも
 立ち会った。

 
4月11日(5月3日) 江戸城開城。
  高橋泥舟は江戸城から上野東叡山に退去させた。
  徳川慶喜を護衛して水戸へ下った。

   かつて、江戸無血開城は、勝海舟の一人手柄のように
 語られていた。
  『高邁なる幕臣 高橋泥舟』:岩下哲典著(教育評論社)
 
★鉄舟7回忌での高山への旅&高山陣屋
箕輪初心●岐阜の城10−A『高山陣屋』
http://53922401.at.webry.info/201210/article_15.html



【3】小栗上野介をめぐる諸問題
1)新発見 松岡神社文書

 2)小栗はどのように記述されてきたか

3)小栗を惨殺した者たちのその後
@原保太郎
 岩倉具視の食客となり。戊辰戦争では、東山道総督岩倉具視次男
:岩倉具定・3男:岩倉具経に随行、上野国巡察使兼軍監として従
軍した。元勘定奉行:小栗忠順と家来を罪状もないまま捕らえ、
取り調べもせず、一方的に斬首した。
明治4年(1871) アメリカ合衆国のへラトガース大学に留学した。
明治7年(1874) イギリスのキングス・カレッジ・ロンドンで
  経済学などを学んだ。
明治9年(1876) 帰国した。

   帰国後、兵庫県少書記、同県大書記官、山口県令などを歴任した。
・明治19年(1886) 初代山口県知事に就任した。
・明治26年(1895) 日清戦争の下関講和会議
3月 清国大使:李鴻章狙撃・・・知事を辞任した
  7月、福島県知事に任命された。
さらに、北海道庁長官、農商務省山林局長兼林野整理局長を
務めた。

・明治34年(1903) 貴族院議員に勅選された。
  同和会に属し死去するまで在任した。

2)豊永貫一郎
土佐藩の元陸援隊士であった。小栗のアメリカから連れ帰っ
  たアラビア馬を略奪して乗り回していたという。
その後、不明・・・・・。
  
3)大音龍太郎(おおとりょうたろう)・・・
近江伊香郡大音村(現滋賀県長浜市木之本町大音)で柳ヶ瀬
の関守の家に生まれた。
若い頃、箕輪城:井伊直政の菩提寺であった「竜門寺」に
3年程いたと言われている。
その後。江戸の昌平黌に入り
岡山藩校の教授となった。岩倉具視に認められた。
・明治元年(1868) 上野の巡察使となった。
閏4月 6日  取り調べなく、水沼川原で家臣とともに斬殺。
    大井礒十郎・渡辺太三郎・荒川祐蔵・・斬首。
    小栗上野介を斬首。   
 ・安中藩徒目付:浅田五郎作が原保太郎に命じられ、斬首した。
閏4月 7日  高崎藩牢屋敷処刑場で
       養子:小栗又一・用人:塚本真彦、
       沓掛藤五郎、多田金之助を斬首。


4月   大音龍太郎の届け出 
「小栗上野介は松平容保・小笠原壱岐守と結託し、碓氷峠で
   官軍の待ち伏せを計画するため、権田村に引き込んだ。
   百姓が蜂起すると、罪のない百姓を殴打した。
   官軍たりとも我が地に踏み込んだ者は取ってやる・・・
   そこで、高崎・安中・吉井の3藩を・・差し向けたところ
   機械を隠し・・・「中略」・・・鉄砲数十挺を土の中に・・
   上野介父子並家来六人を斬罪にしました。・・・」
   ★捏造だった。
小栗忠順を処断した黒幕は大音龍太郎ではないか
  という説もある。
巡察使:大音龍太郎は江戸から運ばれた家財を高崎へ運び、
商人に入札で売り払って軍資金とした。
 ・「(慶応四年閏四月)廿四日、小栗公の諸道具決所(闕所)に相成、
  町内嶋屋にて入札有之候」
  (★「柴田日記」)

 大音龍太郎は名主の佐藤藤七に25両を渡し、
「これで供養してやるように・・・」
と言って去った。
 強盗殺人で奪った小栗家の財産の一部の金を渡したようなものである。
(★村上泰賢先生)

軍監兼岩鼻県知県事に任命された。
岩鼻知県事として、博徒を、次々に斬首刑とした。日に80余級
にもなったこともあったという。人々は「首切り龍太郎」と恐れた。
厳しい統治から半年で失脚した。
 (★群馬県史・新編高崎市史)
・明治2年(1869) 彦根藩大参事となった。
・明治4年(1571) 廃藩置県
大蔵省に出仕した。
・大正元年(1912) 11月 死去した。


・12:00 ビデオ
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後に小栗忠順は大隈重信や東郷平八郎に近代化政策の功績を
  称えられた。
 

・12:20 昼食
鱒の塩焼き
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海軍カレー
手打ち蕎麦
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  海軍コーヒー 
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  小栗公最中
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・12:30 高崎市立倉渕中学音楽部演奏会
    「小栗のまなざし」などの曲を演奏した。
 
小栗の先祖は徳川家康の親戚だった。

●田口先生と話した
小栗上野介の主な知行地は
@上総国武射郡稲葉村(千葉県芝山町)     152石
A下総国香取郡五反田村(多古町)       117石
天正18年(1590) 保科正直が移封となった。
B  同  堀内村、大川村、田部村(香取市ほか) 156石
C下野国高橋村、大沼田村(栃木県佐野市)   1354石
D上野国群馬郡権田村(高崎市)        375石
E   同  下斉田村(高崎市)        170石
戦国時代 箕輪城主:長野業正の重臣:田口業佑の
 所領・・・
F   同  与六部(よろくぶ)村(玉村町)    88石
高崎城・彦根城の縄張り作成の中心人物:早川弥惣右衛門
   の身内:早川与六・・・和田城主:和田信業の娘を娶った。
   和田信業は北条氏直と一緒に高野山に行った。
和田信業の子:知矩は彦根藩家老になった。
    
遣米使節から帰国後の加増地として
G 同 多野郡森村(藤岡市)         56石
H 同   小林村(藤岡市)        100石
平安末期〜戦国時代 秩父氏系高山氏分流小林氏の所領
であった。


その他細・・・・・
合計2700石

小栗忠順の実績(横須賀造船所・製鉄所など)を接収するに
 あたって、小栗の功績を認めない薩長史観となって行った。

箕輪初心●群馬藤岡編「芦田城」&依田一族の歴史
http://53922401.at.webry.info/201107/article_9.html  

箕輪初心★高崎藩最後の藩主19代:松平大河内輝聲(てるな)
http://53922401.at.webry.info/201310/article_17.html

〜〜〜箕輪初心:小栗全集〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

◆◆箕輪初心★小栗上野介@「先祖」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_28.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介A「遣米使節団」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_29.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介B「業績と提唱」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_30.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介C「権田での隠遁生活」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201107/article_1.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介D「ヴェルニー&東郷平八郎」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201107/article_2.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介E「東善寺&村上泰賢先生」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_10.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介F「道子夫人の会津への逃避行」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_11.html

◆◆箕輪初心★小栗G「道子夫人の逃避行と北越戦争&会津戦争」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_12.html

◆◆箕輪初心★小栗H「遣米使節VS咸臨丸」の歴史的意義 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201108/article_17.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介I「東善寺訪問」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201109/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介J「佐賀の8人&大隈重信」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201110/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介K「大隈重信&三野村」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201205/article_23.html

◆◆箕輪初心★小栗上野介L「名残」=築地 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_11.html

箕輪初心★小栗上野介M童門氏VS村上泰賢先生TV討論
http://53922401.at.webry.info/201212/article_18.html

箕輪初心★高崎:小栗上野介15【小栗上野介忠順の抹殺】
http://53922401.at.webry.info/201410/article_20.html

箕輪初心:生方▲小栗上野16:岩下哲典先生の講演会
『幕末情報社会と小栗上野介』
http://53922401.at.webry.info/201606/article_1.html

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