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zoom RSS 箕輪初心:生方▲武田信玄&真田幸綱(幸隆)の侵攻:上野編(永禄年間)

<<   作成日時 : 2016/06/17 08:01   >>

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上野国(群馬県)西吾妻は滋野系海野一族支流が開拓し、
住み着いた?地である。下尾・羽尾・鎌原・西窪・湯本・
横谷・浦野・海野・・・永禄年間(1558)〜武田氏・上杉氏
・後北条氏・織田氏の侵攻で、目まぐるしい動きをし
ている。真田幸綱(幸隆)&長男:真田信綱・次男:真田
昌輝。3男:武藤喜兵衛尉(真田昌幸)&真田幸綱(幸隆)
弟:矢沢綱頼などが武田軍団として上野国の戦国の歴史
を刻んだ。相変わらず、難しいことを難しく書いている。
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●参考書籍
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●▲■ 吾妻のブログ集等〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

箕輪初心:生方『箕輪城と上州戦国史』
http://minowa1059.wiki.fc2.com/

http://minowa1059.wiki.fc2.com/wiki/%E4%B8%8A%E5%B7%9E%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%B0%8F%E8%A9%B1
★青柳棟治氏のご好意で『箕輪城と上州戦国史』というテ
ーマで私のブログを見やすくまとめてくださっている。
感謝申しあげます。




青柳棟治様『上野の戦国史』

http://kouzuke1059.wiki.fc2.com/

青柳棟治様『箕輪城と長野氏』
http://kouzuke1059.wiki.fc2.com/wiki/%E7%AE%95%E8%BC%AA%E5%9F%8E%E3%81%A8%E9%95%B7%E9%87%8E%E6%B0%8F

富澤豊前守様『岩櫃城興亡史』
http://www.denno2488.com/

富澤豊前守様『リンク集 - 岩櫃城興亡史』
http://www.denno2488.com/index.php?%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF%E9%9B%86
★岩櫃城あざみの会会長:富澤朗氏。
 吾妻のブログのbPである。
 お世話になっております。


・鎌倉時代 
源頼朝が三原の牧を選んだのは・・・・
おそらく、牧の経営者として吾妻でも力を発揮した木曾義仲
配下の海野一族系&寺尾(現高崎)の新田義重系を配下に
しようとした意図ががうかがわれる。
『治尾の牧』3説のうち羽根尾説もある。
滋野一族は後世でも血縁を繰り返し、結束をしていったの
であろう。




・天文10(1541)海野平合戦
海野棟綱、真田幸隆らは武田信虎、諏訪頼重、村上義清の連合軍に
 攻められ海野平を追われた。

 海野棟綱、幸隆らは羽尾幸全入道を頼って上州羽根尾城に逃れた。
矢沢綱頼は村上義清に降った。
上野国の同族:羽尾城の羽尾(羽根尾)幸全を頼った。
 羽尾幸全の娘に真田清鏡を産ませたと言う伝説がある。
 ※羽尾幸全の娘は真田幸隆の正室とする説がある。
  (★『羽尾記』)
 ※柴辻俊六先生は根拠に弱いとしている。
 (★真田昌幸:芝辻俊六著)
★真実なら、真田幸隆の次男となる。真田信綱の弟という
 ことになる。
 真田幸隆は羽尾(羽根尾)幸全の娘を側室とした。
→箕輪城に3年逗留した。     

6月14日 甲斐で武田信虎は嫡男武田晴信により今川氏の駿河へ
 追放され、武田晴信が家督を継承した。

関東管領:上杉憲政が海野棟綱&真田幸綱(幸隆)の要請を利き、
信濃佐久郡・小県郡へ侵攻した。

@黒田基樹説では、大将は長野業正で、海野棟綱&真田幸綱(幸隆)も
同行したと思われるとしている。
諏訪頼重は独断で山内上杉憲政と和睦を結び、芦田郷を支配地と
して割譲した。
A平山優説では、大将は不明だが、・・・
★諏訪頼重が長野業正との和睦で芦田城・長窪城を支配地とした。

上杉憲政の意向で佐久は武田の支配が弱まった。
再び、大井一族が勢力を盛り返した。
この間隙をぬって、佐久の岩村田大井城にいた大井貞隆は本拠地:
長窪城を奪い返した。
芦田(依田)守信(信守)芦田信守&芦田(依田)系の相木昌朝は
大井貞隆に帰参した。


箕輪初心:生方▲真田●64「真田幸綱(幸隆)の武田晴信への臣従諸説」
http://53922401.at.webry.info/201603/article_9.html
臣従時期は諸説ある。
天文12年(1543)〜天文17年(1548)説と幅が広い。
平山優氏は臣従時期・理由として、
@上杉憲政が信濃侵攻は退潮期になった時、
A武田晴信が上杉憲政よりBigになった時、
B武田VS村上・・本領奪回できるかもと思った時
が臣従時期の決め手である。としている。



・永禄元年(1558) 吾妻には、真田氏同族=滋野一族
 (下尾・羽尾・鎌原・西窪・湯本・横谷・浦野・海野)がいた

△斎藤越前守憲広は滋野一族を支配下にしようと圧力をかけた。
岩櫃に近い者の多くは服従。
 斉藤憲弘は羽根尾幸全・海野幸光は岩櫃城家老に抜擢。
 浦野氏(大戸真楽斎)・・・★正妻は長野業政の娘だったが、
 斎藤憲広の娘をもらった。
  吾妻郡では鎌原氏と羽尾氏が領土を巡って対立していた。
  吾妻郡は岩下城主(史料では岩櫃城が出てこない。)
 :斎藤憲広が勢力を広げていった。羽尾幸全や海野幸光
も鎌原幸重の敵対しているので傘下に入っていた。
 斉藤憲広は直に吾妻郡一円の支配をしようと画策していた。

※鎌原城主:鎌原宮内少輔幸重(海野・真田と同族)は領土争いで
 斎藤氏と反目。

上野の吾妻<領土問題(八ッ場ダム西10km)長野原の南地区
 の領土            
羽根尾幸全(幸隆の妻兄・岩下城斉藤家家老) 
   VS 
鎌原幸重(幸隆弟の子)

△斎藤憲広は、鎌原城を攻撃準備。
鎌原幸重は一族をつれて信濃へ逃亡、
 △鎌原城に斎藤氏の臣:羽尾幸全(道雲)が入城。
 ●鎌原氏は真田幸隆→小諸城主:甘利昌忠を経由して
   武田信玄に内応した。
 ◆武田信玄は鎌原幸重に知行を授与。

・永禄2年(1559)47歳
 2月  武田晴信は出家して信玄と称した。
     真田幸綱(幸隆)も出家し、「一徳斎」と改める。

 10月28日〜11月1日 長尾景虎家臣が祝儀に参集した。
 「侍衆御太刀之次第」・・・長尾一族・有力家臣61名
 に太刀を送った。
 長尾景虎は天皇・幕府との関係・権威をバックに
 権力基盤を固めた。
(★上杉家文書・『真田三代』:平山優著)
 信濃国人衆では、村上義清・高梨政頼・・・
 栗田永寿(武田についた鶴寿弟)
 ・島(嶋)津左京亮泰忠(武田についた矢筒城主)
 ・須田左衛門太夫信正(武田についた福島条主・須田城主)
 がいる。
 
●11月13日〜 信濃国衆の「直太刀持参之衆」
 信濃国衆が自分の太刀を持参し、臣従の意を表す儀式
 ※村上義清・高梨政頼・・・
 粟田永寿・須田信頼・井上左衛門尉・屋代政国・仁科盛昌
 ・市川信房・河田蔵人?・清野寿軒・
 嶋津泰忠・保科左近尉・東条信広?・西条治部少輔
 ・綱島兵部介?・大日向直武・・・室賀信俊
 それになんと・・・
 真田幸綱・望月信雅・禰津信直・海野幸忠の滋野系
 の一族がいた。
 (★『上杉家文書』「直太刀持参之衆」・信濃史料)
平山優説・・・武田信玄に所属しながら、長尾景虎につくのが
 容認されていた当時の社会通念であろう。
 つまり、「半手」「半納」・・・敵味方半分づつ年貢を
  納める慣習が容認されていた。
  従って、しばしば両方に人質を置くことになった。
 また、軍を両方に送ることもあった。どちらに奉公の
 比重を置くかは国人衆の判断に委ねられていた。
 境目の国人衆は武田晴信に臣従しながらも、
 長尾景虎にも折衝ルートを確保しておきたかった
 のであろう。
 (★『真田三代』:平山優著)

※丸島和洋説・・・関東管領就任の祝儀であると考えたれるが
真田幸綱も春日山城に赴いたことになっている。
 武田が敗北した場合の逃げ道を作っておく必要が北信濃の
 国衆にはあった。
(★『真田四代と信繁:丸島和洋著』
★武田信玄のショックも大きかった。 
 第4次川中島の合戦は武田信玄にも引くに引けない事情が
 あったと推測できる。 



・永禄3年 (1560) 48歳
1月 織田信長、桶狭間で今川義元を敗った。





・永禄3年(1560) 真田幸隆の上野侵攻 
▲第1次岩櫃城(*この時、岩櫃城の名はない?)攻め計画
 上野の吾妻領土問題(八ッ場ダム西10km)・
 長野原の南地区の領土
 
羽根尾幸全(幸隆妻兄説) VS鎌原幸重 (幸隆弟の子)     
 ↓            ↓
斎藤憲広 VS 鎌原宮内少輔幸重+真田幸隆+甘利昌忠
     


8月 長尾景虎の第1次関東出兵
△斎藤憲広は鎌原が武田信玄方と知り、上杉謙信に助けを依頼。
   (★真田三代:清水昇)
宮野城(猿ヶ京)→(沼田説あり)岩下→明間→沼田→厩橋(前橋)
   

 武田信玄は吾妻計略の好機と見て出兵。

つまり、上野国では武田信玄に臣従者は
 鎌原幸重&小幡信実(重貞→信貞)&市川真親&木部範虎
であっただろうと思われる。関東幕注文に名前がない。


箕輪初心★箕輪城135長野業政&長尾景虎の「関東幕注文」
http://53922401.at.webry.info/201405/article_9.html

長尾景虎の第一次関東出兵
理由@・・過去に村上義清の塩田城を最後に葛尾城などを捨て、
 越後の上杉謙信に助けを依頼していた。
理由A安房里見家の正木家から出陣要請があった。
理由B箕輪初心私見:庇護していた上杉憲政の権力の回復。
理由C箕輪初心私見:上杉姓のブランドが欲しかった。」
→長尾景虎の関東への越山。
 長尾景虎(上杉謙信)「関東幕注文」
 +白井城長尾+惣社長尾+足利長尾+長野氏がすぐ参陣
  した。
  白井長尾氏・惣社長尾氏・・3番目に長野氏といち早く
  長尾軍に応じて北条氏康と戦ったとみられている。

8月26日 安房稲村城・館山城主:里見義堯からの救援要請が
  あった。
(★『正木家文書』)
 里見義堯は久留里城で北条氏康に包囲されていた。
★里見義堯の妻は長野憲業の娘である。長野業正は里見義樹を
 養子とし、富士見の石井→榛名の鷹留城の城主に任命した。
 (★中世の西上州:黒田基樹著・『箕輪城着到帳』)

8月29日 ▲第一次関東出兵
 「関東を支配してよい。」という大義名分を得た長尾景虎は
  越後勢8000余りを率い北条氏康を討伐するため、関東へ
  出陣した。
  長尾景虎は関東管領:上杉憲政(平井城)を擁立して
・・・
  直江実綱(与板城)・北条高広(柏崎北条城)・柿崎景家
(柿崎城)を引き連れて・・・・

※越後も関東であるが・・・・・

 ★箕輪初心私見「庇護していた上杉憲政の権力の回復。
    +上杉姓のブランドが欲しかった。」
 →長尾景虎の関東への越山。
長尾景虎は北条氏康を討伐するため越後から関東へ向けて
  出陣、三国峠を越えた。
(+白井城長尾+総社長尾+足利長尾+長野氏がすぐ参陣)
■@説:群馬県史説
※経路は明らかではない。(『加沢記』・『沼田記』がベース)
@宮野城(猿ヶ京)
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箕輪初心●群馬:みなかみ【宮野城】=ホテル湖城閣
http://53922401.at.webry.info/201202/article_19.html
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10月初旬 
→A沼田城に侵攻。
 城主:北条孫次郎(北条氏秀=沼田康元)ら数百人を討つ取
  った。
 ※北条孫次郎は撤退し、沼田顕泰は降伏した説もある。
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箕輪初心●群馬【沼田城】=北条・武田・上杉の狭間で揺れ動いた城
http://53922401.at.webry.info/201112/article_3.html

→B岩下城(岩島飽間氏出身斉藤憲弘)
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箕輪初心■群馬【岩下城】=小田原攻めに参加した斉藤憲弘の城
http://53922401.at.webry.info/201201/article_16.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201201/article_16.html
→C明間城(群馬県史では安中市)
 (★箕輪初心説=川戸城の秋間氏と考えている。
   秋間7氏がいるが、・・・明間城という名前の城はない。)
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箕輪初心●群馬【川戸内出城】=長尾景虎の第一次関東出兵
「明間」では?
http://53922401.at.webry.info/201201/article_12.html
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同族白井城:長尾憲景・惣社城:長尾顕景は長尾景虎の陣所に来た。
箕輪城:長野業正(群馬県史:「政」の字を使用)も加わった。
★実際には、長野業正は病気のため、長野氏業(業盛)が参加した。

→D厩橋城(=後、前橋城)

赤城三夜沢神社に戦勝祈願・・・・

12月→
今村城・→赤石(伊勢崎)落城・・・

E那波城:那波顕宗(伊勢崎)
那波顕宗は激しく抵抗した。・・・
堀口城で降伏し、人質を出した。
北条高広は那波氏と同族:大江広元の子孫であるが・・・
  
→国峯城(富岡):小幡氏

里見義弘の家臣:正木時茂の戦勝を祝う書状がある。
「@明間城→沼田城の順になっている。」
(★群馬県史P576・★千葉県里見一族の正木家文書)

■ A説:黒田説
『長尾景虎は、長野業正らの支援を受けながら小川城・名胡桃城
・明間城・沼田城・岩下城・白井城・那波城・厩橋城など北条方
 の諸城を次々に攻略した。厩橋城を関東における拠点とし、厩橋
 城で越年した。この間、関東諸将に対して北条討伐の号令を下
 し、檄を飛ばして参陣を求めた。景虎の攻勢を見た関東諸将は、
 次々に景虎のもとへ結集、兵の数は日増しに膨れ上がった。』
 (黒田基樹説)
★白井城は同族で変である。

長尾景虎の「関東幕注文」を作成したが、
  箕輪衆、厩橋衆は24で、最大規模である。
 
◆◆ 関東幕注文
【0】近衛前嗣・山内憲政・長尾景虎=上杉輝虎

【1】白井衆
長尾孫四郎・・・白井憲景
外山民部少輔・・土岐一族?
大森兵庫助
神保兵庫助・・・・・・・・★長野業政の着到帳にある
高山山城守・・・高山行重★長野業政の着到帳にある
小林出羽守・・・・・・・★長野業政の着到帳にある
小嶋弥四郎
三原田孫七郎
上泉大炊助・・・・・・・上泉秀胤★上泉伊勢守秀綱の子ども
父は★長野業政の着到帳にある


【2】惣社衆
安中・・・・・・★安中忠政か忠成(ただしげ)長野業政親戚
小幡三河守・・・小幡信尚★下仁田鷹ノ巣城
多比良・・・・・
 大類弥六郎・・・
 萩原
高庭・・・・・・★馬庭
被官 高津
瀬下
小串
神谷
多胡
諏方
荒蒔
苅部
反町
栃淵
長尾能登守殿・・・・高津景総(★ウキペディア)
★何故、「殿」がついているのであろうか?
    長尾景虎が同格と見ているからであろう。


【3】箕輪衆
1)長野一族:親戚・・・旗印「檜扇(ひおうぎ)」
@長野
※近藤先生説は既に長野業政は死んでいて、秘密に
 するために「長野」しか書いていないとする。
  ★私説・・・長野氏業のことかもしれない。
「長野業政」とは書いてないのがこの時、長野業政は病気
  であって、この出兵には参加していない。
  *永禄4年(1561)
※6月21日(=8月2日)死亡説
    ※11月22日(=12月28日)死亡説    
  ★高崎市箕郷:箕輪城 

A長野新五郎  
※近藤先生説は白川業勝と考えている。
★白川五郎業勝は箕郷町の白川砦にいた。

B南与太郎
  ※近藤先生説は小塙説としている。
  ★箕郷町富岡の長野憲業は小鼻和氏を名乗るので
   南与太郎=長野憲業(長野業政の弟の家図もある。)
   としたのであろう。
  ★榛東村の南下の大藪城と考える。
   
C小熊源六郎
  ★私説・・・保渡田砦

D長野左衛門
  ※近藤先生説は長野新十郎左衞門業通:鷹留城である。
  ★近藤先生説に賛成である。  

E浜川左衛門尉
※近藤先生説は長野業忠か藤井友忠としている。
 ★高崎浜川砦?・・「着到帳」には藤井友忠が記載されて
  いるので、藤井家の誰かが浜川左衛門尉と名乗り、長野業
  政の娘を貰った可能性がある。藤井友安だろうか? 

F羽田彦太郎
 ※近藤先生説は羽田康文である。
 長野業政の妹を貰った。
 ★東吾妻町大柏木・・大柏木城=羽田城
 羽田孜元総理の先祖であるらしい?
  

G八木原与十郎
 ★渋川市八木原内出

H須賀谷筑後守
 ※近藤先生説は長野吉業(長野業政の長男)かその後継者
と考えられる。
 ★旧群馬町菅谷城

2)家臣・同心衆
I長塩左衛門四郎
 ★吉岡町長塩館・長野業政の父の親戚:叔父の家系 

J大戸中務少輔
 ★長野業政の娘&齋藤憲広の娘が妻である。
大戸真楽斎=浦野中務少輔幸次である。
 ★東吾妻町の大戸城

K下田大膳
 ★高崎箕郷支所・・・長野業政の第2家老 

L漆原
 ★吉岡町漆原城 長野業政の家老

M内山
 ★富岡市か旧群馬町の城か?長野業政の家老

O高田小次郎
 ★妙義町菅谷城 
 ★長野業政の高家客分  

P和田八郎・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・檜扇
 ★長野業政の娘を貰った。
 ★高崎市和田城 

Q倉賀野左衛門五郎
 ★長野業政の娘を貰った。
 ★高崎市倉賀野城  

R依田新八郎
 ★長野業政の娘を貰った。依田光慶の子ども:業政の外孫?
 ★安中市板鼻城  

S羽尾修理亮
 ★長野業政の娘を貰った。
 ★吾妻の羽根尾城:羽尾幸全(ゆきまさ)  
【2】厩橋衆
21長野藤九郎・・・・檜扇
22長野彦七郎・・・・檜扇
23大胡・・・・・・・★大胡長野氏(★新編高崎市史)であろう。
24引田伊勢守・・・・上泉伊勢守秀綱はいなかったらしい。
 ★旧富士見村・・・母が上泉伊勢守秀綱の姉?
  
★参考文献:資料
・群馬県史
・箕郷町誌:近藤義雄
・「箕輪城と長野氏」:近藤義雄著

・永禄4年(1561)49歳
▲第1次岩櫃城攻撃・・・横谷氏の居城より出陣。
 (*唐沢定市先生説・・・この時、岩櫃城の名はない?)
 斎藤憲広 VS 真田幸隆+甘利虎康+鎌原宮内小輔幸重
   結果・・・斎藤憲広が降伏→反撃。(「真田三代」)

▲第2次岩櫃城攻撃・・・横谷氏の居城より出陣。
9月〜 第4次川中島の合戦
  武藤喜兵衛(真田昌幸)は武田信玄の近習として参戦。
  初陣といわれる。
9月21日 ▲川中島の合戦 
  真田幸隆&真田信綱が参戦。


11月2日 武田信玄が佐久松原神社で祈願状奉納
 「・・・・その意趣は、殆ど西牧・高田・諏訪の三城二十有日
  を経ずして或いは幕下に降り、或いは撃砕散亡せば、偏に
  当社の保護あるべし。」
 ▲@西牧・・・西牧城か根小屋城
 ▲A高田・・・高田城・菅谷城
 *高田右衛門佑憲頼の上杉憲政の家臣である。
 上野国(群馬県)旧妙義町の高田城主&菅原城主である。
 ・享禄年間 関東享禄の内乱=山内上杉家の内紛
  長野氏・高田氏が擁する上杉憲寛
    VS
  小幡氏・安中氏・藤田氏らが擁する上杉憲政
 結果・・箕輪長野方業が上杉憲寛陣営の中心的存在であったと
  みられているが敗れている。
上杉憲寛方の諸氏は許されて、長野方業の後継者とみられる長野業正の
 娘を小幡憲重に嫁がせ、その後、箕輪長野方業の養女になっていたと
 みられる沼田顕泰の娘を安中重繁に嫁がせた。
 安中重繁の娘を高田繁頼に嫁がせることで当事者間の和解が図られて
 いる。
 (★西上州の中世:黒田基樹著)
  これが、黒田基樹先生の特徴のある説である。
・天文16年に志賀城で高田憲頼、高田繁頼(養子:笠原繁頼)
   父子も討死したことになっているが、・・・。
  ・永禄3年(1560)『関東幕注文』には、箕輪衆
 「高田小次郎 にほひ中黒」と記されている。
   高田繁頼か高田憲頼の実子であろう。
・永禄4年(1561)武田勢が内山峠から上野国に侵攻。
 武田氏が上野に侵攻すると、西牧・小坂の支城を攻略。
 高田憲頼の子:繁頼は激しく武田氏に抵抗。→降伏。
 →高田氏は武田晴信の家臣になった。(★和田記)
 ・永禄10年(1570)『生島足島神社』の起請文
  高田繁頼の名がある。
B▲諏訪城・・・★おそらくは松井田西城(金剛寺)
   長野憲業の弟:諏訪明尚であろう。
   (★『春日山林泉寺開山曇英禅師語録』))
  諏訪明尚以外に長野憲業の弟はいなかったとする。
   (★黒田基樹説)     

11月 武田信玄が西上州に侵攻
 新田信純(丹生城)→高田繁頼(妙義)

11月19日付 武田信玄→宛名なし(鎌原幸重・重澄)
武田信玄は小幡付近にいる時、
 「調略故其許時宜可然様ニ候、、此表追日任存分候、就中高田降参、
  今日ハ休馬、明日■向干国嶺及行候、近日分人数其筋へ可遣条、
  弥相調候様無油断計策専一候、」
(★『鎌原家家譜』・『加沢記』)
(★『信濃真田氏』丸島和洋編集:唐沢定市文責P98)
 ★意味・・・「高田城を落として味方につけました。今日は馬を
  休めます。明日は(永禄3年に小幡図書介に乗っ取られた)
  国峰城を攻略するつもりです。近日中に鎌原支援の軍兵を
  其の筋(吾妻筋)に遣わすことを約束します。油断しない
  で調略を進めてください。(待っててね〜〜。)恐れながら
  謹んで申し上げます。」

つまり、鎌原氏は上野進出以前に武田信玄に臣従している
  ことが分かる。
(★『戦国期上杉・武田氏の上野支配』:栗原修著)


・小幡信実(重貞・信貞:天正16年から〜臣従)も
   当然、加わっていたのだ。小幡氏の分家筋?本家筋かも
  しれないが一の宮氏(貫前神社宮司系)も加わっていた。
 高田繁頼・高田信頼も参戦した。・・
高田憲頼の実子は武田信玄の一字をもらって高田信頼
となった。
  ・元亀3年(1572)三方ケ原の戦い
    戦傷を負った高田繁頼は翌年死去した。
   高田信頼が家督を継いだ。子は高田直政である。
(★妙義町史)


11月?日 長年寺(高崎市旧榛名町)の僧:受連覚書
  小幡(富岡市)に行って、金を払って、武田信玄から制札
  (寺を襲わない約束札)をもらった。
 (まんが箕郷の歴史・秋本太郎氏・榛名町誌:久保田順一先生)

・永禄5年(1562)50歳
5月17日付 武田信玄書状(『真田宝物館伏島文書』)
「其地之番勢、海野、祢津、真田之衆申付候、先為初番
  常田新六郎・小草野孫左衛門・海野左馬允己下相移候」
  ちまり、鎌原城に武田麾下が在番していた。境目の城
であることがわかる。
(★『戦国期上杉・武田氏の上野支配』:栗原修著)   
 
 ●真田幸隆の吾妻侵攻
 ●真田幸隆の誘いに武田氏方に大戸城:浦野氏が乗る。
  →浦野氏が権田・室田(旧榛名町)に放火。
  →浦野氏が長野三河守入道(たぶん業氏)ら80名を
     討ち取る。
   (★関東古戦録:久保田順一訳)
    長野三河守入道=たぶん長野業氏だろう。
   (★まんがみさとの歴史・秋本太郎氏・近藤義雄先生)
峰岸純夫先生と黒田基樹先生は永禄9年5月説である。

  甘利昌忠は浦野氏を武田信玄に取り次いだ。

6月 真田幸隆・信綱連名で四阿山:白山神社奥宮に戸張を
    寄進した。

6月27日付 武田信玄書状
 鎌原幸重は甲府に参府した。
 (★『戦国期上杉・武田氏の上野支配』:栗原修著)   
 武田信玄は祢津・芦田(依田)・甘利に鎌原城&長野原城の
 強化を命じた。真田幸隆の弟:常田新太郎隆永を総大将とし、
長野原城主:湯本善太夫や依田・室賀などが配下となった。

斉藤憲弘は海野氏系鎌原氏と海野氏系羽尾氏が対立しているのを
 利用して、羽尾氏を支援して鎌原氏を滅ぼそうとした。

・永禄6年(1563)51歳
鎌原城主:斎藤憲弘家老:羽尾幸全(幸隆の妻兄?)から
鎌原城を奪還。

8月 長野原の合戦
@長野原城(群馬県長野原町役場上)羽尾幸全(幸隆の妻の父)
 を攻略。
 →真田幸隆の弟:常田俊綱が長野原城(群馬県長野原町)を攻略
  へ入城。
A柳沢城(長野原)・丸岩城(長野原)・王城(長野原)を攻撃。
A真田幸隆は手古丸城(+大戸城)大戸中務少輔の城に陣を置いた
  大戸氏は人質を出して、真田の配下になった。

9月 ●第1次岩櫃城攻め  
斎藤憲広 
  VS 
真田幸隆+甘利昌忠+鎌原宮内小輔幸重(幸隆の甥)

岩櫃城攻めが開始された。
  岩櫃城は要害堅固であることと上杉謙信から救援部隊が
 来たために、真田幸隆は攻め落とすことができなかった。

9月15日 真田幸隆は岩櫃衆より起請文をとる。
武藤喜兵衛尉・真田信綱のそば近くにいて、上野岩櫃城攻略
  で功を立てた。
 武藤喜兵衛尉は吾妻郡の平定で先頭に立って働いた。
 
9月下旬▲長野原の戦い
・斉藤憲弘軍が岩櫃城を出発した。
 斉藤憲弘の先発隊は斉藤弥三郎則実&羽尾入道&海野幸光
 +植栗・荒巻・浦野・蟻川・塩野谷・割田などであった。
 長野原城を攻略し、稲刈り仕事の多い中、真田幸綱(幸隆)
  の弟:常田新太郎隆永は、援軍の来ないまま長野原城で討
  ち死にした。農繁期=稲刈り時期で人が集まらなかったと言う。
   (★加沢記)

 真田家臣は鎌原城に逃げ帰った。
 鎌原幸重は武田信玄に知らせを走らせたが、川中島戦いで、
 援軍は来なかった。
 長野原城には、羽尾入道が入城した。
(★吾妻郡略記&加沢記)  
 長男:常田俊綱も戦死した。
 常田家は河原隆正の3男:隆頼(幸隆の甥)を養子にした。

10月13日 真田幸綱(幸隆)が岩櫃城を攻略。
10月14日あり。羽尾幸全(幸隆義父)は戦死した。
  岩櫃城主:斎藤憲広は越後の上杉謙信のもとへ逃げた。
 

 中之条の横尾八幡城まで、傘下に収めて最前基地にして、上杉謙信
 の傘下にある名久田川以東に進出を伺っていた。




・永禄7年 (1564)52歳
1月22日付 武田信玄書状(★東洋文庫所蔵『鎌原文書』
 「岩下之人質悉執之、三枝土佐守有談合被勤番之由、祝着候、
  如被申越候、??の人質ニ候之条、斎藤弥九郎ニ加下知、
  急度此方へ可召寄候」
 武田信玄は鎌原幸重が岩下衆から人質をとり、三枝土佐守
  と在番を務めさせていた。そして、斎藤弥九郎に人質を甲府
  に送るように指示した。・・・つまり、1月22日以前に
岩下城を攻略していることになる。

2月15日 湯本善太夫に草津温泉25貫を安堵した。
(★群馬県史)

2月17日 鎌原幸重に「従赤川百貫之所」を安堵した。
(★『真田宝物館伏島文書』)

2月24日付 
 岩下衆の折田氏・八須賀氏らに所領安堵した。
★四万川左岸の四万のトンネル手前の場所である。
仙蔵の砦を含んでいるのであろう。
(★群馬県史:折田文書)

3月?日 武田信玄から真田氏へ送られた書状
  「一徳斎」「信綱」の連名での名前が書かれるようなった。
  真田幸綱(幸隆)は真田信綱に家督を譲って隠居し、
  剃髪して「一徳斎」を名乗り始めた可能性もある。

▲第五次川中島の合戦。


3月13日付 武田信玄書状(加沢記)
  武田信玄は川中島の清野刑部に岩櫃城の真田幸綱(幸隆)
  救援を命じた。真田の指示に従え・・・。

 馬場美濃守信房は武田信玄より和田城の大修理を命じられた。
★幅20m程の堀が4つある。

3月20日 飯島小太郎は上杉謙信の倉賀野城からの物見を捕縛した。
(★『和田業繁・金丸忠経の連署の書状』)

5月 武田信玄が上杉謙信方の倉賀野城を攻略した。

8月下旬、武田信玄は真田昌幸&三枝松虎吉
を検視とし、真田幸隆を大将として、斉藤憲弘の岩櫃城攻撃
を進めた。〜〜〜(中略)〜〜〜。
真田幸隆の命令で息子:武藤喜兵衛(真田幸隆3男→真田昌幸)
は岩櫃城を攻撃の準備のため、旧六合村赤岩〜暮れ坂峠〜沢渡
〜内山城(仙蔵の要害)に進撃した。(★現在のロマンチック街道)
 内山城は斉藤憲弘の家臣:折田将監と富澤加賀守が守ってい
たが、人質を出して、降伏した。真田昌幸は内山城に西窪治部
(本城は嬬恋村西窪)&川原左京(?)を城将にした。その後、
有笠山で唐沢杢之助を家臣にした。「嶽山城の城虎丸&池田
佐渡守重安が籠城と知った」。・・・
真田昌幸は「仙蔵の城を押さえ、大戸城を固めている部隊に呼応
し、岩櫃城の南北に、攻撃準備を完了した。」と報告した。

★その後、真田昌幸は内山城に四万川右岸の方面に→吉城→
桑田城→山田城へと侵攻したのでは。しかし、「東の稲荷城・
柳沢城・高野平砦の守りが堅固であった。
★知略で岩櫃城を攻略した。


・永禄8年 (1565)53歳
2月吉日 武田信玄の新海三社神社へ願文奉納
  箕輪・惣社・嶽山・尻高の攻略を祈願した。
9月15日、矢沢綱隆の元に、海野兄弟=
(★羽根尾幸全&海野幸光)&斉藤弥三郎(=★斉藤憲弘甥)
&植栗安芸守&富沢但馬守父子&唐沢杢之助&富沢加賀守&
蜂須賀伊賀&浦野中務太輔等は家臣になると申し出て来た。
 第3次岩櫃城・・・
10月14日、真田幸隆は手古丸城(大戸)を出撃。
 *真田の調略A 斎藤家家老羽尾幸全
 (真田幸隆の親戚・・・妻の兄?)を味方に
   引き入れ、内側から門を開けさせ、進入。
 (★真田三代:清水昇著)
  真田幸隆は500の手勢で奇襲。
   内応者が城に火を放ち、総攻撃。落城。
   →斎藤憲広の子:城虎丸は残党に護られ、
   嶽山城に逃亡。
  その後は真田幸隆の城代として海野幸光・輝幸兄弟を
   岩櫃城に入城。
  →吾妻氏子孫の斎藤越前守憲弘は真田幸隆に降参。
  真田氏の上州進出の拠点。
 白井城攻め・箕輪城攻めに鎌原幸重は参加していくことに
 なった。
  武藤喜兵衛が一時、岩櫃城代を勤めた。

●『加沢記』
10月中旬、真田幸隆は「時は来た。」と2500騎で出陣した。
岩櫃城攻撃の開始である。そのうち、真田信綱(幸隆長男)
&室賀義平(信濃上田)&三枝松虎丸(山梨の武田家臣)は
2000騎は沼田&白井(旧子持村)の援軍を押さえるため、
暮坂峠経夕で、内山城=仙蔵の砦を突破した。    
   (★上毛古戦記・『加沢記』の要約)
11月、真田幸隆は池田重安親子を嵩山から招き、説得した。
池田父子が寝返った。真田一徳斎は、時を移さず自ら先駆け
として、鎌原・植栗・大戸・池田等300騎を引きつれて出陣し
た。この時、真田一徳斎は黒糸縅の鎧に鍬形の兜を着て、三尺
五寸の太刀を腰に佩き、十文字の槍をかかげ、荒井黒と名付け
た馬にのって仙蔵の砦へと駆け上がった。そして、五反田の台
での戦闘の指揮を取った。

11月10日付 池田佐渡守宛武田家来朱印状写(★群馬県史)
  嶽山城の池田佐渡守らが真田幸綱(幸隆)の仲介で
  武田信玄に臣従した。
「本領山田郷百五十貫」を約束した。
 常田氏・海野氏らの協力があった。

11月12付 武田信玄書状
 日向大和入道に、謙信越山情報により、大戸浦野氏に
 懐柔を努めるよう命じ、岩櫃城で真田幸綱に協力するように
 と指示した。

 11月17日
  ▲嶽山城を攻撃。斎藤城虎丸は飛び降り自殺→落城。
(★『加沢記』)
   家老:池田氏は真田家臣となった。
 
 ▲白井城(渋川市子持)を攻撃。

 
・永禄9年
3月晦日 武田信玄の西窪千世宛感状
 「父:治部於嶽山戦死、・・然者知行等之事、無異儀可相続者也」
※栗原修氏・・・加沢記は必ずしも正しいとは限らない。
  しかし遅くとも3月までには嶽山城は落城した。


★真田幸綱(幸隆)は吾妻郡での戦いの中で、領地だけでなく、
 有能な家臣達をも得ることができ、真田家臣団の戦力は
 一段とアップした。
 特に真田幸綱(幸隆)は旧滋野一族:禰津・望月・海野を家臣と
 結集させることができた。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
お世話になります
一応ペンネームは「箕輪棟治」で行きたいのでよろしくです。お師匠さんが弟子はとらないとおっしゃるならしかたない。「藤原棟治」にするしかないかな。

これは置いといて、話を変えますが「井伊直政」の研究はこれから載せていくんでしたっけ?来年の「直虎」に合わせてそっちを優先に「上州戦国史」を編集したほうがいいかなとも考えています。 ではまた
箕輪棟治
2016/06/18 00:47
「箕輪棟治」いいかもしれません。でも、師匠レベルではありません。参考にしている本が多いだけです。
西伊豆〜今川・武田信玄の駿東・駿河・遠江・・井伊谷に入り、自動的に徳川・井伊となります。越後・北陸はあまりにも写真が5年分150城程消滅したので後回し、甲斐の信玄家臣の館20城程も後回しかな?と思っています。
箕輪棟治様
2016/06/18 10:50

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箕輪初心:生方▲武田信玄&真田幸綱(幸隆)の侵攻:上野編(永禄年間) 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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