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zoom RSS 箕輪初心:生方▲伊那【大島城】片桐氏系大島氏→秋山虎繁→武田信廉

<<   作成日時 : 2016/06/14 09:07   >>

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大島城(台城)は長野県下伊那郡松川町元大島にあった城である。
大島城は、天竜川へ突き出し河岸段丘の先端部に築かれている。
西側を除く三方は断崖となっている。大島城の見どころは、
@二重の三日月堀に囲まれた丸馬出、A三の郭虎口、B二の郭
と三の郭の間の空堀、C本郭と二の郭の間の空堀などである。
武田流特有の縄張りを実感できる。現在、台城公園として保存
整備され、遺構の残りが非常に良い。
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◆訪問日・・・平成28年(2016)5月13日
○高遠町の「竹松旅館」に泊まった。2回目である。
06:00仁科盛清の墓
06:40原新田用水・・・
07:00春日城
08:00 殿島城
08:50 宮田村  猿岩・・・伊那渓・・・
・宮田左近正親房(現宮田村北割城山)は探せなかった。 ×
・小田切大和守入道正則(現宮田村南割)は探せなかった。×
・大田切城 ×
・上穂伊豆守重清(駒ヶ根市赤穂:赤穂城)に向かった。
09:30 下平・・丸塚緑地・天台宗長春寺
09:50 赤須城
10:30 飯島城
11:00 大草城
   天竜川右岸のすれ違いがやっとの道を進んだ。
天竜川にかかる橋から大島城をみた。
★大島城は 北と東と南が天竜川に接していて3方が
崖である。
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11:30 大島城
0)三の郭の土塁&土塁
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1)二重の三日月堀&丸馬出
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 @三日月堀は幅が30m程ある。孤は60m〜70m
  堀底に土塁がある。つまり、2重の三日月堀である。
 ★三日月堀があまりにも大きいのでびっくりした。
  長野県「牧之島城」・「岩尾城」・「大島城」・・・
  群馬県「箕輪城」
  静岡県「諏訪原城」・・・
  
 西が台地に続くため、防御が厳重にしなければならない
  ので外郭に巨大な丸馬出と三日月堀を設置してある。
 
 A馬出も半径50〜60mの巨大なものであり、民家があった。
  しかし、馬出の外周に土塁がない。
  土塁がなければ、鉄砲に狙い撃ちにされる。
   民家の敷地にした時に崩してしまったのか?
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○駐車場
・案内板
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・標柱
・案内
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2)三の郭馬出
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  @東の堀・・・幅20m程の深い堀がある。
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A馬出と三郭を繋ぐ土橋
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B三の郭と二の郭の間の馬出・・・台形
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3)三の郭
  丸馬出の東の堀を介して三の郭である。
 @外側の堀
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 A虎口
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 B三の郭  約200m×約100mのj形〜凾フ形をしている。
   ★春日城の二の郭に似ている。
 
 C西の土塁・・・2段になっている。

 D馬出

 E東の馬出?★土橋の役目
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4)二の郭 
  @三の郭と二の郭の間の堀・・・幅約10m〜15m
説明図では木橋はだったようである。
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  A二の郭の枡形虎口
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B二の郭・・・説明図ではワ冠形をしている。
    約120m×約100m
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  C二の郭の西土塁
 D二の郭の北の堀 約10m〜15m。竪堀かもしれない。



5)二の郭と本郭の間の堀
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幅約50〜60m。深さは15〜20m。
★大きい
堀底に下りてかた本郭に上るようになっていた。

6) 本郭
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・案内板
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 「平安時代の末、南信濃源氏片桐氏は片桐郷の南に続く大島郷に
 分知しました。それは片桐兵庫助為行の八男の片桐八郎宗綱で、
 在名をもって大島八郎宗綱を名乗ったのが大島氏のはじめです。
大島氏は鎌倉幕府に仕え、以後中世を通じてこの一帯を領有・
 統治し、大島城・北の城・沼の城などを築きました。
 
 南信濃攻略をうかがっていた甲斐の武田氏は天文23年(1554)
  一挙に伊那郡に侵入し、ここを手中にした晴信(信玄)は
  秋山信友を飯田城におき伊那谷を統治しました。
 元亀2年(1571)、武田氏は大島城を東海地方攻略、ならびに
  京へ上がるための拠点とする為、伊那郡代秋山信友に命じて
  大島城の大修築を行いました。
 この時、下伊那19の郷民と2衆を城普請の人足として強制的に
  動員した事を記す武田氏の朱印状が残っています。
 
 現在の大島城はこの時に構築されたもので、武田流築城法による
  馬出しや三日月堀、3つの曲輪とそれを取り巻く迷路のような
  空堀が当時のままに残されています。
 
 信玄亡き後の勝頼の代、天正10年(1582)織田氏が伊那郡に侵入し
た時、大島城は信玄の弟の信廉が守っていましたが、信廉ら有力な
部将は織田氏の進撃に驚き、夜中に逃亡した事が「信長記」に記さ
れています。
 
 城内からは建物の礎石や雨落溝の石列、陶磁器や古銭、焼米など
が発見され、井戸跡には落城の際お姫様が金の鶏を抱いて身を
投げたという悲しい伝説も伝えられています。

・縄張り図
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 @本郭は約100m×約80m
 内部はマレットゴルフ場になっている。
 
 A北〜東〜南にかけて眼下を天竜川が下を流れる。
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B西のみに土塁がある。


▼戻った。



◆ 大島城(台城)の歴史 ◆  
・平安時代
清和天皇を祖とする源経基の弟:満快の流れを汲む源氏である。
源満快4代の孫に源為公がいる。
源為公は母親が源頼信の娘のため、源義家と従兄弟であった。

・永保3年〜(1083〜1087)後3年の役
源為公・源義家は、清原氏を滅亡させた。

源為公が信濃守に任ぜられて上伊那郡箕輪町上ノ平に居館を構えた。

箕輪初心:生方▲伊那【上の平城】知久氏→藤沢頼親家臣の城
http://53922401.at.webry.info/201605/article_31.html

源為公を祖と伊那源氏の第5子の源為基は片切源八と号した。
片切氏の祖で片切、泉、大島、名子、前沢、那須、飯島、岩間
等が分流れした。
片切為基の子:船山城主:片桐兵庫助為行が為行の3男:為綱が、
次郎太夫と称して信州飯島、岩間の祖となった。
(★「尊卑分脈」)
船山城主:片桐兵庫助為行が8男片桐八郎宗綱を置き、大島氏を
名乗った。

・鎌倉時代 大島氏は鎌倉幕府に仕え、伊那一帯を領有・
 統治し、大島城・北の城・沼の城などを築いた。


〜〜〜(中略)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
・天文14年(1545)
4月11日 武田晴信は杖突峠から高遠に入った。
4月17日 高遠頼継は戦わず、高遠城から逃亡した。
   (★『伊那箕輪町史』)
   高遠城も落城し、高遠頼継は武田晴信に降伏した。
   高遠頼継は甲府へ出仕した。
      (『高白斎記』)
4月20日 正午には箕輪に侵攻した。
    藤沢頼親の福与城(箕輪城と呼ぶ説)
    を攻めた。
※藤沢頼親の箕輪城説もある。
★従って、『箕輪町史』も福与城か箕輪城か不明である。

 藤沢氏に同心した伊那の春近衆など諸豪族が籠城していた。
★箕輪頼親=藤沢頼親

「伊那衆、残らず悉く後詰め仕りる。箕輪、福与の近辺三田丁と
 申す所に陣を取り、天竜川を隔て、足軽軍御座候。長時公も後詰
 めに上伊那の内、龍が崎と申す所を御本陣成さる。先手は北大手
 に陣を取り申し候。」

「下伊那の内、小笠原信貞より多科惣蔵を使者として、龍が崎へ
 参り候趣は、御馬を福与の城根古屋へ寄せられ、是非一軍仕るべ
 く由申し来る。伊那衆に対して御憤り思し召すことあるによりて、
 御馬を寄せられざること、御一代の御分別違いなり。それに就き
 て伊那衆、引き取り申し付け、箕輪殿城無事になりる。権次郎と
 申す弟を晴信へ人質に出し、箕輪殿牢人なり」
(★『仁木寿斎記』:箕輪町史&余湖さんHp)
 守備は固く、武田方の攻撃も手をこまねいていた。
   武田の部将の鎌田長門守が討死した。

@府中小笠原長時(藤沢頼親の妻の兄)が辰野竜ケ崎城に
A松尾小笠原信定(小笠原長時の弟)が伊那に入った。
「小笠原舎弟小笠原信定、下伊那衆・中伊那衆を将(い)て、
  鋳鍋(伊那部★春日城)に本陣を取り、右後詰として、
 長時公(兄)の一左右(いっそう=一報)、相待たれ候也。
 此旗本には下条・赤須・宮田・片桐・飯島・知久・座光寺
 ・保科弾正・溝口・平瀬・大島、此外小身衆、合わせて
  二千余人の人数なり。」
(★『小平物語』:信州の山城)

 膠着状態が続いた。

6月1日 武田軍の板垣信方は竜ケ崎城を攻略した。

6月10日 藤沢頼親は援護がなくなり、
武田一門衆の穴山信友、小山田信有、勝沼信友らの勧告を
  受けいれ、和議に応じた。

6月11日 藤沢頼親は弟:藤沢権次郎を人質に出して、
      降伏した。
藤沢頼親は起請文を提出し、穴山信友の傘下になった。


  府中:小笠原長時:松岡城:小笠原信定も箕輪城の開城により
  一戦も交えず兵を引き揚げた。

6月?日 高遠城は武田晴信により改修され、信濃支配における
   拠点となる。

・天文23年(1554) 武田晴信の伊那侵攻
 武田信玄が伊那に侵攻した際、小笠原氏とともに抵抗した。
 
武田信玄が南伊那に侵攻し、軍門に降りた。
大田切城→赤穂城→飯島城→赤須城→大草城→船山城
 →上穂城→大島城・・・・・
武田信玄の伊那進攻で片切諸氏と飯島氏が武田氏に起請文を
 差入れ武田方に降りた。
片桐氏・赤須氏・飯島氏・大島氏・上穂氏は降伏した。
 5氏は武田晴信に臣従し五十騎の兵役を担った。
飯島氏は十騎であった。

 →山吹城→松岡城→座光寺城・・・
 松岡城(高森町)の松岡氏は抵抗することなく武田の軍門に
 降った。松岡氏は自身の所領を維持することができた。
 武田氏の配下で松岡氏は50騎(200人)ほどの軍役を
 課されていた。


8月  武田晴信は小笠原の制圧にかかった。
鈴岡城主:小笠原信定は林城→平瀬城→中塔城と武田晴信
に追われた兄:府中小笠原長時と武田晴信に抵抗した。
鈴岡城・松尾城は攻撃された。

武田晴信の信濃先方衆の松尾小笠原信貴・小笠原信嶺父子は
 松尾城の攻撃に参加した。
松尾小笠原信貴(信貞)・小笠原信嶺父子は松尾城を回復した。
鈴岡城は松尾城の支配下に置かれることになった。


 下条氏の飯田黒姫城→知久氏の神之峰城を陥落させた。

 武田晴信は南信濃と美濃の国境である伊那郡を制圧した。

 ★高遠城・春日城・殿島城・飯島城などが改修されたので
 あろう。

 武田晴信(信玄)は秋山信友を飯田城におき伊那谷を統治した。

・弘治〜永禄初年頃
 年未詳8月18日付 武田晴信書状 
「秋山善右衛門尉」と室住虎光の大島城在城が確認される
  秋山善右衛門尉は秋山虎繁(信友)と推定されている。
  秋山虎繁は大島城を拠点に郡代(郡司)として伊那郡の
   支配を行った。

・永禄2年(1559) 武田信玄を名乗る。    

・永禄10年(1567) 生島足島神社の起請文
 大島長利は提出した。




・元亀2年(1571) 秋山信友の大島城大改修工事
  武田信玄は大島城を東海地方攻略、ならびに京へ上がるための
  拠点とする為、伊那郡代秋山信友に命じて大島城の大修築を行
  った。
 この時、下伊那19の郷民と2衆を城普請の人足として強制的に
  動員した事を記す武田氏の朱印状が残っている。
 ★この2衆は片切衆・飯島衆の可能性が高い。

 
 現在の大島城はこの時に構築されたもので、武田流築城法による
  馬出しや三日月堀、3つの郭とそれを取り巻く迷路のような
  空堀が当時のままに残されている。
 当初の城は本郭のみの城、あるいは二の郭付近までだったよう
  であるが、西に三の郭を増設し、堀を拡張したのであろう。

 主な城将は武田信廉(逍遥軒信綱)・日向虎頭(玄徳斎)である。
  武田信玄の遠江・三河・美濃侵攻の兵站基地である。

★天竜川の水運を利用した物資、兵員の輸送を考えてのことであろう。
 高遠城〜三峰川〜天竜川〜飯田城中継地〜天竜川〜〜〜大島城
 大島城の北の河川敷に船付き場があったと思われる。
 大島城は三河侵攻拠点としての物資集積地だったのであろう。

・天正3年(1575) 長篠の戦い
   織田信長、徳川家康に武田勝頼が敗れた。
  飯島氏・片桐氏・赤須氏・大島氏はとともに戦った。

長篠の敗戦以降は武田勝よりは守勢を余儀なくされた。
  大島城は侵攻拠点から、伊那地方の防衛拠点に変わって
  いった。
  大島城で織田軍を食い止め、背後を武田本軍が攻撃すると
  いう後詰決戦を考えていたはずである。

8月16日付 武田勝頼の伊那郡の防衛覚え書き
 保科正俊・木曾義昌・下条信氏・小笠原信嶺・大島長利・
 などは目付を命じられた。

11月26日 大島長利は岩村城籠城後、岐阜に行ったが、
  織田信長に磔にされた。


・天正9年(1581)
 9月15日付 武田逍遙軒信綱(信廉)より大島蔵人が
知行宛行を受けた。
(★大島家文書:『武田氏家臣団人名辞典』平山優文責)


・天正10年(1582) 
1月 織田信忠が武田領に侵攻した。
 織田軍は木曽義昌を寝返らせ、木曽を経由し、鳥居峠、権兵衛峠
 方面から伊那地方に侵入した。
 大島城の武田信廉の防衛構想の裏をかく機動攻撃を行った。
 大島城の背後を絶たれると防衛構想は破綻し始めた。

2月 織田信長の伊那進攻
   織田信忠の大軍が知久氏の神之峰城→下条氏の飯田長姫城
  
下条頼安は織田信長に臣従した。
飯島城主:飯島民部少輔為次(重家)&飯島小太郎父子は
  大島城に入った。
保科正直は大島城に撤退した。
★おそらくは保科正直が飯田長姫城の状況を伝えたので
あろう。
●大島城は武田信廉や国人衆=国衆が動揺・戦意を喪失した。
国衆(黒田基樹氏の使用が「真田丸」で通説化されている)
 
武田信廉ら有力な部将は織田氏の進撃に驚き、夜中に逃亡した。
 (★「信長記」)
 
 城内からは建物の礎石や雨落溝の石列、陶磁器や古銭、焼米など
が発見され、井戸跡には落城の際お姫様が金の鶏を抱いて身を
投げたという悲しい伝説も伝えられている。

大島城主:武田信廉は甲斐に逃れた。
大島城は戦わず落城した。

★もし大島城で戦いが行われたら・・・・
 守将と兵に戦意があれば、大島城簡単には落せる城ではない。
  結局、大工事が無駄になってしまったのである。

★武田信廉の大島城放棄後、織田信忠や織田信長も立ち寄ったよう
 である。何せ、兵糧、物資がたくさんあったであろう。

飯島民部少輔為次、飯島小太郎は保科正直らと仁科五郎盛信
が守る高遠城に入った。 
 

2月16日 織田信忠に飯島城は攻撃され、落城した。
  (★「信長公記」)

 伊那谷の武田氏配下の諸城とともに落城していった。
 船山城の片桐氏・赤須城の赤須氏は滅亡した?
  
 織田信忠の大軍が飯島城に入った、
 
2月17日? 織田信忠軍は飯島城を出発し、
  →春日城?・殿島城→高遠城と向かったのであろう。

3月1日 織田信忠の高遠攻め
 
3月2日 高遠城主:仁科盛信は戦死した。
   飯島民部少輔為次、飯島小太郎も討ち死にした。
   
  長子:飯島伝兵衛晴吉と家臣の一部は落ちのびた。
(★平山優氏、確証はない。)

6月2日 織田信長が本能寺の変で亡くなった。
  
  徳川家康は三河国と隣接する伊那を勢力下においた。

7月6日付 起請文 下条頼安から徳川家康への取次へ
飯島傑そう・飯島為吉・飯島為長・飯島為若・・・・
片切・
●大島甚七郎・・・(飯島衆の肩書きが付いている)
●大島介之丞・・・(片切衆の肩書きが付いている)

7月12日付 ●大島介之丞は竜千代(大島辰千代)を
下条頼安に誓約している。
※当主は大島辰千代を意味している。
  大島介之丞は大島長利の弟か?叔父か?

 山県昌景衆の飯島氏支族で飯島作右衛門大尉、原隼人正衆の
 飯島作三郎、飯島伝三郎、飯島宮内大輔らは徳川家康に臣
 従した。
 飯島右馬助、飯島弥兵衛らは小笠原貞慶の家臣となった。



・天正13年(1575) 第1次上田合戦
大島辰千代は伊那衆とともに出陣した。
飯島新助か?
  飯島伝兵衛晴吉の子?:辰千代が戦死した。
(★『武田氏家臣団人名辞典』平山優文責)
 ★大島辰千代が戦死したのではなかろうか? 
 
・慶長6年(1601) 飯島伝兵衛晴吉の子:辰千代は、
  徳川家康に召されて井伊直政の幕下に属せられた。

  @飯島半右衛門は家老として、箕輪城・高崎城・
佐和山城・彦根城に行った説。

A飯島半右衛門は保科正直の配下になった説

B大坂冬の陣後、帰農した。

★明日は松岡城かな?

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