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zoom RSS 箕輪初心:生方▲伊那『赤須城』:片桐一族の赤須氏の城

<<   作成日時 : 2016/06/10 08:57   >>

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赤須城は、長野県駒ヶ根市下平512−1にあった城である。天竜川
右岸の河岸段丘の上にある。南は宮沢川の浸食による自然堀、北は田
沢川の深い谷で遮断された地形の先端部を利用して築かれた城である。
西に向かって主郭・2の郭・出郭・添郭等の曲輪が連郭式に配置され
た縄張りで、曲輪と曲輪の間には空堀が設けられ、土塁も残っている。
丘段突端には外郭?私は笹郭か物見郭がある。
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◆訪問日・・・平成28年(2016)5月13日
○高遠町の「竹松旅館」に泊まった。2回目である。
06:00仁科盛清の墓
06:40 原新田用水・・・
07:00 春日城
08:00 殿島城
08:50 宮田村
    猿岩・・・伊那渓・・・
★光前寺3回、千畳敷カール3回(宝剣岳1回)、木曽駒ヶ岳1回

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・宮田左近正親房(現宮田村北割城山)は探せなかった。 ×
・小田切大和守入道正則(現宮田村南割)は探せなかった。×
   ※佐久小田切と同族
・大田切城 ×
・上穂伊豆守重清(駒ヶ根市赤穂:赤穂城)に向かった。
09:30 下平・・丸塚緑地・・・
  天台宗長春寺
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2軒?先の家
 「あそこです。」
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 ★私は天竜川の左岸の低地に来てしまったのだ。

09:50 赤須城への山道を行く。
宮沢川に沿って行き、Uダーンのように鋭角に
曲がる。

@主郭
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A説明板&縄張り図
  城跡に通じる道は、主郭に沿って通っている。
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B主郭内部
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  主郭内の奥は土塁で囲まれている。
   土塁も高さは1m程である。

C副郭

D空堀
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E2の郭・・・土塁が分かる。
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G出郭・・・駐車場として利用できる。
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H添郭
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▼戻って、
主郭

○カーブを下って
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I外郭
 ★実際は笹郭?物見郭?出郭状になっている郭である。
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○片桐氏の本拠地:船山城付近を彷徨いたが、見つからなかった。
目的地は松岡城だし、・・・


◆ 赤須城の歴史
・南北朝時代 船山城主片桐氏の一族:片桐孫三郎為幸
   赤須を分知され、赤須城を築いた。
片桐為幸は赤須を名乗った。
赤須氏はこの地を代々領した。

・天文14年(1545)
4月11日 武田晴信は杖突峠から高遠に入った。
4月17日 高遠頼継は戦わず、高遠城から逃亡した。
   (★『伊那箕輪町史』)
   高遠城も落城し、高遠頼継は武田晴信に降伏した。
   高遠頼継は甲府へ出仕した。
      (『高白斎記』)
4月20日 正午には箕輪に侵攻した。
    藤沢頼親の福与城(箕輪城と呼ぶ説)
    を攻めた。
※藤沢頼親の箕輪城説もある。
★従って、『箕輪町史』も福与城か箕輪城か不明である。
 「伊那衆の内、箕輪と申す所6千貫、箕輪殿領知なり。福与の城に
 在城の処に、諏訪頼重、晴信の先手を仕り、3月上旬に福与の城へ
 とり懸くる。60日計り取り巻き責め申し候
 福与の城に籠り候武士、箕輪頼親侍衆、松島・大出・長岡・
 小河内・福島・木下、此衆箕輪殿家中にて大身の武士なり。
 其外、野口野や澤々に者百余騎、雑兵千五百籠り居る。右の衆、
 城際にて日夜、取り合い申し候。その時、箕輪殿内に、藤沢織部
 ・大泉上総とて強弓の射手有り。福与の城大手にて、此者共矢先
 に中り、晴信の者、多く死す。弐人の武士、後箕輪殿供仕り、
 中東の城に籠り申し候」

 藤沢氏に同心した伊那の春近衆など諸豪族が籠城していた。
●「福与城に籠もりし、武士箕輪頼親侍衆、松島・大出・長岡・
 小河内・福島・木下、此衆箕輪殿家中にて大身の武士なり。」
(★『仁木寿斎記』:箕輪町史)
★箕輪頼親=藤沢頼親

「伊那衆、残らず悉く後詰め仕りる。箕輪、福与の近辺三田丁と
 申す所に陣を取り、天竜川を隔て、足軽軍御座候。長時公も後詰
 めに上伊那の内、龍が崎と申す所を御本陣成さる。先手は北大手
 に陣を取り申し候。」

「下伊那の内、小笠原信貞より多科惣蔵を使者として、龍が崎へ
 参り候趣は、御馬を福与の城根古屋へ寄せられ、是非一軍仕るべ
 く由申し来る。伊那衆に対して御憤り思し召すことあるによりて、
 御馬を寄せられざること、御一代の御分別違いなり。それに就き
 て伊那衆、引き取り申し付け、箕輪殿城無事になりる。権次郎と
 申す弟を晴信へ人質に出し、箕輪殿牢人なり」
(★『仁木寿斎記』:箕輪町史&余湖さんHp)

●木下惣蔵(多科惣蔵)が府中小笠原長時に応援依頼の手紙
  を届けた。 
※多科惣蔵=木下惣蔵は木下城=箕輪城主であろう。
(★『箕輪町史』 )

 守備は固く、武田方の攻撃も手をこまねいていた。
   武田の部将の鎌田長門守が討死した。

@府中小笠原長時(藤沢頼親の妻の兄)が辰野竜ケ崎城に
A松尾小笠原信定(小笠原長時の弟)が伊那に入った。
「小笠原舎弟小笠原信定、下伊那衆・中伊那衆を将(い)て、
  鋳鍋(伊那部★春日城)に本陣を取り、右後詰として、
 長時公(兄)の一左右(いっそう=一報)、相待たれ候也。
 此旗本には下条・赤須・宮田・片桐・飯島・知久・座光寺
 ・保科弾正・溝口・平瀬・大島、此外小身衆、合わせて
  二千余人の人数なり。」
(★『小平物語』:信州の山城)

 膠着状態が続いた。

6月1日 武田軍の板垣信方は竜ケ崎城を攻略した。

6月10日 藤沢頼親は援護がなくなり、
武田一門衆の穴山信友、小山田信有、勝沼信友らの勧告を
  受けいれ、和議に応じた。

6月11日 藤沢頼親は弟:藤沢権次郎を人質に出して、
      降伏した。
藤沢頼親は起請文を提出し、穴山信友の傘下になった。

 @藤沢頼親が開城したと同時に武田晴信は箕輪城へ火を放っ
 たという説もある。
 箕輪城を焼かれた頼親は、実質上、敗北を喫して武田晴信
 に降った。
 A福与城主:藤沢頼親を追放した説もある。
B藤沢頼親は武田との関係は穴山氏を通じており、
    穴山信友を通じて武田晴信に降伏した。
(★『箕輪町史』)

松島貞実が高遠城内で木曽義康家臣:千村内匠に謀殺された。
高遠城は木曽義康の勢力下にあり、千村内匠が城代であった。
@小笠原信貞の言として、
 「信貞被仰候は大手廃陣候へば、対陣に不及とて、伊那へ御引
 被成候」
 と保科弾正と松島貞実が武田晴信に通じている。
 (★『仁木寿斎記』:箕輪町史)
  
 A「松島対馬守貞実こそ、武田が語らいに応じて逆心の工首を刎ねて
  諸士の見懲しと成るべしと千村の下知せらる。・・・
  ・・・後略・・・・ 」
(★『高遠記集成』:箕輪町史)

  府中:小笠原長時:松岡城:小笠原信定も箕輪城の開城により
  一戦も交えず兵を引き揚げた。

6月?日 高遠城は武田晴信により改修され、信濃支配における
   拠点となる。
縄張りは山本勘助と馬場信房と云われている。


・天文23年(1554) 武田信玄の南伊那侵攻
 武田信玄が伊那に侵攻した際、小笠原氏とともに抵抗した。
 
武田信玄が南伊那に侵攻し、軍門に降りた。
大田切城→赤穂城→飯島城→赤須城→大草城→船山城
 →上穂城→大島城・・・・・

 片桐氏・赤須氏・飯島氏、大島氏、上穂氏は降伏した。
 5氏は武田晴信に臣従し五十騎の兵役を担った。

 →山吹城→松岡城→座光寺城・・・
 松岡城(高森町)の松岡氏は抵抗することなく武田の軍門に
 降った。松岡氏は自身の所領を維持することができた。
 武田氏の配下で松岡氏は50騎(200人)ほどの軍役を
 課されていた。


8月  武田晴信は小笠原の制圧にかかった。
鈴岡城主:小笠原信定は林城→平瀬城→中塔城と武田晴信
に追われた兄:府中小笠原長時と武田晴信に抵抗した。
鈴岡城・松尾城は攻撃された。

武田晴信の信濃先方衆の松尾小笠原信貴・小笠原信嶺父子は
 松尾城の攻撃に参加した。
松尾小笠原信貴(信貞)・小笠原信嶺父子は松尾城を回復した。
鈴岡城は松尾城の支配下に置かれることになった。


 下条氏の飯田黒姫城→知久氏の神之峰城を陥落させた。

 武田晴信は南信濃と美濃の国境である伊那郡を制圧した。

・弘治2年(1556) 伊那部重親は武田信玄に叛き捕囚となり狐島
  (伊那市狐島にて)殺戮され家名を失った。
(★『伊那武鑑根元記』:「信州の山城」飯塚政美文責)
武田晴信に味方した伊那部昌吉は春日氏を名乗った。

・元亀2年(1571) 武田信玄は秋山信友に大島城の改修を命じて
 いる。
  
・天正3年(1575) 長篠の戦い
 
 赤須氏は、宗家片桐氏とともに武田氏に臣従していた。

・天正10年(1582) 
2月 織田信長の伊那進攻
  織田信忠の大軍が知久氏の神之峰城→下条氏の飯田長姫城
  保科正直は高遠城に撤退した。・・・
  大島城にいた武田信廉は居城を捨てて甲斐に逃げた。
  伊那谷の武田氏配下の諸城とともに落城していった。
  船山城の片桐・赤須城の赤須氏は滅亡した。
  織田信忠の大軍が飯島城出発し、→春日城・殿島城→高遠城と
  陥落させたのであろう。

6月2日 織田信長が本能寺の変で亡くなった。
  徳川家康は三河国と隣接する伊那を勢力下においた。

***南信濃*********************
・天文14年(1545)
4月 高遠城主:高遠頼継を滅ぼした。
8月 福与城主:藤沢頼親を追放した。
箕輪初心:生方▲【高遠城】:天文14年(1545)武田晴信の
高遠城侵攻と高遠頼継
http://53922401.at.webry.info/201605/article_21.html

箕輪初心:生方▲保科正俊→保科正直→保科正光→保科正之
【高遠の建福寺の墓】
http://53922401.at.webry.info/201605/article_22.html

箕輪初心:生方▲伊那市高遠町6回の思い出
http://53922401.at.webry.info/201605/article_23.html

箕輪初心:生方▲【伊那蟻塚城】天文21年(1552)高遠城西を守る城?
http://53922401.at.webry.info/201605/article_24.html

箕輪初心:生方▲伊那:手良【内城&堀之内城付近】
http://53922401.at.webry.info/201605/article_25.html

箕輪初心:生方▲福与城(上伊那箕輪町):藤沢頼親&武田信玄&保科正直
http://53922401.at.webry.info/201605/article_26.html

箕輪初心:生方▲伊那箕輪【松島城】藤沢頼親家臣:松島氏
http://53922401.at.webry.info/201605/article_28.html

箕輪初心:生方▲【箕輪城】藤沢頼親家臣の木下氏→箕輪氏の城
http://53922401.at.webry.info/201605/article_30.html

箕輪初心:生方▲伊那【上の平城】知久氏→藤沢頼親家臣の城
http://53922401.at.webry.info/201605/article_31.html

箕輪初心:生方▲伊那『春日城=伊奈部城』:伊那武(部)氏兄の城
http://53922401.at.webry.info/201606/article_8.html

箕輪初心:生方▲伊那『殿島城』:伊那武(部)氏弟の城
http://53922401.at.webry.info/201606/article_9.html





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