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zoom RSS 箕輪初心:生方▲「鬼無里」の自然&歴史:木曾義仲伝説&武田家臣:大日方氏

<<   作成日時 : 2016/05/08 07:11   >>

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「鬼無里」ってなんて読むの?「きなさ」である。奥裾花渓谷
や奥裾花自然園が有名である。鬼女紅葉伝説や木曾義仲伝説が
残っている。戦国時代、上水内郡の一部として村上義清方の
大日方氏が武田晴信の支配下に入った。明治時代、長野県上
水内郡鬼無里村であった。現在は長野市鬼無里になった。
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◆訪問日@・・・平成18年(2010)5月25日
マーちゃんに
「鬼無里に水芭蕉を見に行こう。」
と誘われた。
長野市善光寺より西に約20km。・・・国道406線に入
るや急に道は狭くなり曲がりくねった道になる。
谷底は切れ落ち、怖い。
スピードも出せず、遠く感じた。
「鬼無里村」の看板を見つけた時は
「やっと着いた。」
と思わず、声が出てしまった。遠かった。!!
まさに「陸の孤島」であると感じた。
僕んちよりもっともっと山の中だった。
更に奥の奥裾花渓谷〜奥裾花自然園と
進んだ。

◆訪問日A・・・平成25年(2013)5月5日
富岡武蔵さんと城巡りで鬼無里に来た。
有沢城などに登った。


【1】古代の鬼無里
◆太古 
2,500万年前〜 フォッサマグナ
 @フォッサマグナの西端:糸魚川静岡構造線:
   糸魚川市〜諏訪〜富士市
A南北に火山の列が貫く。北から新潟焼山、妙高山、草津白根山、
  浅間山、八ヶ岳、富士山、箱根山、天城山などである。
 Bフォッサマグナの東端:新発田小出構造線〜群馬県太田断層

800万年前〜 鬼無里は海であった。
貝の化石出土。
    海底に砂や泥が堆積して堆積岩層になった。
木の葉の化石出土。
   巨大象:ステゴゾンゾウの下顎の化石出土

500万年前  造山活動
   →戸隠・荒倉凝灰角礫岩層となった。

1)奥裾花渓谷
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●堆積岩層・凝灰角礫岩層&断層
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2)奥裾花自然園:日本の秘境100選
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【2】平安時代の鬼無里
松厳禅寺&「鬼女:紅葉」伝説
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平維茂が「紅葉」は妖術使い「鬼女:紅葉」討伐の勅命
  を受け、「紅葉」を討ちとる伝説である。
 鬼無里における伝承では医薬、手芸、文芸に秀で、
 村民に恵みを与える「貴女:紅葉」としている。

★鬼女紅葉(きじょもみじ)の引用
http://www.city.nagano.nagano.jp/archives/kinasa/info/legend/legend.htm
 今から千年ほど前のこと、会津の伴笹丸・菊世夫婦は第六天の
魔王に祈って娘呉葉(くれは)を授かりました。娘が才色備えた美
しい女性に成長した時、一家は都に上って小店を開き、呉葉は紅葉
(もみじ)と名を変えて琴の指南を始めました。
 ある日、紅葉の琴の音に足をとめた源経基(つねもと)公の御
台所は、紅葉を屋敷に召して侍女といたしました。紅葉の美しさは
経基公の耳にも届き、公は紅葉を召して夜を共にしました。
 経基公の子を宿した紅葉は、公の寵愛を自分のものだけにしようと、
邪法をつかい御台所を呪い殺そうと謀りました。
 しかし比叡山大行満津師の法力で企みが露出し、紅葉は捕えられ、
経基公は生まれ来る子を哀れんで、罪を減じて彼女を信濃戸隠へ流し
ました。
 信濃に至り、川をさかのぼると、根上り(ねあがり)の山里に
出ました。
「我は都のもの。御台所の嫉妬で追放の憂き目にあいなった」
と語る麗人を純朴な里人は哀れみ、内裏屋敷を建てて住まわせまし
た。紅葉は喜び、里人が病に苦しむと占いや加持祈祷をもって病
を治してあげたのでした。
 紅葉は、付近の里に東京(ひがしきょう)、西京(にしきょう)、
二条、三条、四条、五条などの名をつけて都を偲んでおりましが、
月満ちて玉のような子を産むと、一目経基公に見せたい思いに
かられました。そして、兵を集め、力ずくで都へ上ろうと考えま
した。
 そこで、良く尽してくれた根上りの里人には
「経基公より迎えが参ったので京にもどります」
と言いおき、戸隠の荒倉山の岩屋に移ると、戸隠山中の山賊を配下
にし、村々を襲わせて軍資金を集めました。
 その悪事が冷泉天皇の知るところとなり、天皇は平維茂
(これもち)に紅葉討伐を命じました。
 維茂軍は山賊どもを打ち破り、紅葉の岩屋へ押し寄せますが、
紅葉が妖術をつかうと、たちまち道に迷いました。妖術を破るには
神仏の力にすがるよりほかないと維茂は悟り、別所温泉北向観音堂
に籠って満願の日に一振りの宝剣を授かりました。
 意気あがる維茂軍を、またも紅葉は妖術で退けようとしましたが、
術が利きません。やむなく雲に飛乗って逃げ出ました。
 このときに、維茂が宝剣を大弓につがえて放つと、紅葉の胸に
刺さり、紅葉は地面に落ちて息絶えました。享年33歳と伝わります。
 維茂は水無瀬(みなせ)の厳上に一堂を建立し、紅葉の持仏の
地蔵尊を祀り、五輪塔を建てて「釜石紅葉大禅尼」の法名をおくり
紅葉の菩提を弔いました。

◆鬼女紅葉太鼓・・・・4月下旬  奥裾花開山祭で。 
◆鬼女もみじ祭り・・・10月上旬 そば処の裏の公園。
 


【3】平安時代末期の木曾義仲伝説
 地元の方から「木曾殿城」の話を聞いた。 
「源頼朝の木曾義仲の残党狩りが厳しく、木曽義仲の次男:力寿丸
 護衛のため鬼無里に入り、木曾殿城を造ったという伝承がある。」


・治承4年(1180)
8月17日 源頼朝の挙兵
9月7日  木曾義仲が信濃で挙兵した。
      長男:木曽義高を源頼朝に人質に出した。
10月13日 木曾義仲は亡父:源義賢の根拠地:上野国多胡庄
       (高崎市吉井町)人材集めをした。
多胡の多胡家包・富岡の瀬下四郎、藤岡の高山党、
    玉村の那波太郎弘澄伊勢崎の佐位七郎広助、
    境の木角六郎、榛東の桃井五郎など・・・・、
   (★平家物語)

12月24日、木曾義仲は信濃へ引き上げた。
       

12月?日 依田城(上田市丸子)を拠点とした。
     
  依田次郎は木曽義仲を依田城に迎えて旅のねぎらいやら
   接待でごったがえした。
    (★『吾妻鏡』)

※依田為実の子:依田次郎実信は木曾義仲と従兄弟同士だったのだ。
  ※初代:依田為実の母が源義賢(義仲の父)の娘だった。
※根井行親・・・佐久を支配。信濃武士を組織し、子:楯六郎親忠
   と共に最後まで従軍した。
※樋口兼遠・・・育ての親・・木曾義仲の擁立者。
※海野幸広・・・小県の海野郷の大豪族。望月・禰津・真田先祖
・寿永元年(1182)
6月 越後:城長茂が10000の軍勢で信濃へ進軍しているという報
   を受けた。
   依田城には樋口兼光・今井兼平・海野幸広・根井行親・
   矢田義清(新田義重の養子説あり・吉井矢田にいた。)
   が集まった。
   木曽義仲は依田城を発した。
  木曾義仲は城氏軍を迎え撃つため、小県の大豪族:海野幸広の
   根拠地:海野郷白鳥の河原に兵を集めた。
★上山田伝説がある。

6月13・14日 横田河原合戦・
   木曾義仲が城氏軍を破った。

6月15日 
 北陸を経由して上洛するため、北陸に向かった。

●木曾義仲の出兵3説
@上田→長野→鬼無里→大町→糸魚川→富山
 ☆木曽義仲伝説@・・・・鬼無里伝説
  
A上田→保福寺峠→松本→大町・・・(新東山道コース)

B上田→上田丸子の依田城→麻積→大町→糸魚川→
 (★『方丈記』:徳間書店)


・寿永2年(1183)  平家軍北国下向
   燧(火打)城落城。
  般若野の戦い。

5月 倶利伽羅峠の戦い・・越中と加賀の県境

〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・元暦元年(1184) 宇治川の戦い
近江(滋賀県大津市)粟津が原の義仲寺の埋葬
  {義仲の墓と俳人芭蕉の墓がある。}
  「木曾殿と背中あわせの寒さかな」 又玄  

義仲寺(滋賀県大津市) 
 松尾芭蕉が生涯で一番好きだという義仲と一緒に
 永い眠りについた。
 「むざんやな 甲の下の きりぎりす」 松尾芭蕉



▲木曾義仲の鬼無里伝承
☆鬼無里木曽義仲伝説@詳細編〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
6月15日 木曾義仲は横田河原の戦いに勝利した。
 北陸を経由して上洛するため、北陸に向かった。
 木曾義仲は裾花川沿いに鬼無里へ入った。
 白髯神社で平家追討の祈願をした後、村人を道案内にたてて
 裾花川に沿って北上した。
 木曾義仲は両京から3km程遡った土倉の文殊堂に立ち寄った。
 道案内をした村人に姓を名乗ることを許し、守護仏を与えた。
  さらに裾花川沿いに遡ると、濁川との合流地点付近に木曽殿アブキ
 と呼ばれる岩穴がある。
 木曾義仲軍は木曽殿アブキ野営した。
  
 裾花川源流の奥裾花湿原から奥西山を越えた。
 小谷村の奉納温泉に行った。
 姫川沿いの千国街道「塩の道」へ抜けた。


●白髭神社(国重文)・・・木曽義仲の平家追討の祈願の場所。
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●文殊堂・・・日本三文殊の1つとされる。
 木曽義仲公没後、村人は供養のため御堂を建立し
 「大聖智慧文殊菩薩」を安置した(伝)   
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●旭社・・・木曾義仲=旭将軍

●木曽殿アブキ
 ※江戸時代の「信濃の奇勝録」によれば、
 「経80間(約145m)、奥の深さ40間(約73m)もあり、岩屋の
  上から水 簾の滝が落ちていた。」そうである。
 木曽義仲は岩屋に兵馬300騎を休めて、野営した。
 アブキはアイヌ語で岩窟の意という説もあるそうである。
 善光寺地震で大部分が崩落したとされる。

●木曾殿城

●信越古道・・・木曽義仲が利用した。 
東筑摩郡麻績(おみ)村〜鬼無里〜乙見山(おとみやま)峠
〜焼山〜梶屋敷(かじやしき)〜糸魚川
 ※信越古道は姫川沿いの「塩の道」と平行して山の中を通っていた。
●奉納温泉・・・★小谷村の雨飾山の途中にあった。

☆鬼無里木曽義仲伝説A詳細編
元歴元年(1184) 木曾義仲が敗死した。今井兼平も戦死した
 2男の木曾力寿丸義重が鬼無里へ逃れた。
 力寿丸は巴御前の子である。後見人:仁科盛遠の庇護を受け
 ていたが、源頼朝の詮議が厳しくなり、鬼無里へ逃れ土倉に
 住んだ。

☆鬼無里木曽義仲の家臣伝説B詳細編
@樋口兼光が木曽殿城を築かせた。
A今井兼平の山角の城跡
B今井兼平の観音堂・・・・今井兼平の守護仏:菩薩像が祀られている。
C今井兼平の勧請による新井の児安大明神。
木曾義仲の家臣には鬼無里へ土着した者もいる。
鬼無里には樋口兼光・今井兼平の後裔とされる今井姓、樋口姓の
住民がいる。
★樋口兼光子孫:高崎吉井の馬庭念流も樋口姓である。


******木曾義仲の関係********************************
箕輪初心●木曽義仲(1154〜1184)=征夷大将軍に
なった人物。
http://53922401.at.webry.info/201107/article_29.html

箕輪初心★木曾義仲:上野国多胡庄2ヶ月
    →信濃依田城で蜂起
http://53922401.at.webry.info/201310/article_3.html

箕輪初心●埼玉嵐山町【大蔵館】&源義賢の生涯
http://53922401.at.webry.info/201406/article_15.html

箕輪初心★新田義重&茶臼山城
http://53922401.at.webry.info/201309/article_27.html

箕輪初心★2代目:里見義成
http://53922401.at.webry.info/201309/article_30.html

箕輪初心●群馬藤岡編「芦田城」&依田一族の歴史
http://53922401.at.webry.info/201107/article_9.html

箕輪初心★木曾義仲Cゆかりの地:埼玉→信濃→上野→信濃→北陸へ
http://53922401.at.webry.info/201406/article_17.html


【4】室町時代〜戦国時代の鬼無里


 小笠原長棟には子がなく、弟:長利を養子とした。
 ところが小笠原長棟に嫡男:小笠原長時が誕生した。
 小笠原長利と小笠原長時は不和となった。
 
 小笠原長利は小笠原家を出て、安曇郡広津村大日方
 (現長野県生坂村 )に館を構えて大日方氏を称した。

 大日方長利は香坂安房守忠宗を後見人とし、村上顕国
 に臣従した。

 
・永正2年(1505) 香坂安芸守忠宗は村上顕国の命を受けて、
  小川氏の古山城(布留山城・小川城:小川村)を攻撃した。
  大日方長利は従軍して攻略で功を上げた。
  
  大日方長利は小河荘(小川庄)を与えられた。
  大日方長利は大日方長政と名を改め、小川・古山城を
   本城とした。

   大日方長政の嫡男:大日方直政の子どもには男子がいなか
   った。
   次男の大日方直忠が惣領を継承した。

・天文19年(1550)
7月 武田晴信は府中(現松本市)の林城:小笠原長時を攻略
    し、安曇平に進出した。

・天文21年(1552)飯富(山県)昌景は小岩岳城(現穂高町有明)
  を攻め落とした。
  
当時、長尾景虎の与力となった村上義清の配下であった
  大日方長政、香坂宗重等がいた。
  大日方長政(現小川村・旧中条村・旧鬼無里村)、
  香坂宗重(牧城:現信濃新町)

  
武田軍は山県昌景が仁科方面から侵入して小川・古山城への
  入口に位置する千見城(大町市美麻千見)を攻略した。
  守将:大日方長辰(は敗死した。
 
  大日方直忠の本拠地の小川城(古山城:小川村)に迫った。


◆大日方家のお家騒動 
   大日方氏は武田氏への恭順派と、抗戦派に2分した。

   恭順派:武田晴信についてお家を存続するか、
   抗戦派:村上義清について義を通し抗戦するか、
   
大日方直忠の子どもは5人いた。
 直経、直武、直長、直龍、直親。
 
 恭順派:大日方直忠・2男:直武、3男:直長、4男:直龍、5男直親
抗戦派:長男:直経
 武田氏に通じようとする4人の弟は兄:直経の説得に努めた。
 4人の弟は謀議によって文道古城の兄:直経を襲撃した。
 ※抗戦派:長男:直経・2男:直武説もある。
 
 直経は重傷を負って裾花川に身を投じて自害した。
●金吾淵・・・大日方金吾直経の死
   淵の近くにある丘に登り、「もうこれまで」と割腹して
   崖から裾花川に身を投げて悲壮な最後をとげた。

これによって大日方氏は武田晴信への恭順が認められた。

長男:金吾直経・・・・・文道古城・・・・・・・・・・自殺。
 2男:左門直武・・・・・上新倉の左門屋敷
 3男:筑後直長・・・・・蓬平(よもぎだいら)館
 4男:直龍・・・・・・・・・蓬平館の詰め城か?
   蓬平城から荒倉神社を通り1km程進んで行くと
  「ふるさとの館」に到着する。
  「ふるさとの館」南の山が城址である。
   超小型の模擬天守がある。
  (★「信濃の山城と館」宮坂武男著)
  
 5男:大日方直親・・・小川城。宗家の家督を継承した。
  
  大日方氏は、武田晴信の越後への備えの任を担った。
  
  香坂宗重は、村上義清に組して武田信玄に対抗した。


・天文22年(1553)
 4月9日 村上義清が越後に逃れた。
    牧城(現信濃新町)香坂宗重が武田晴信に出仕した。
    武田晴信に属した。
(★ 『高白斎記』)


●「有沢城」
小笠原貞慶(長時の嫡男)の家臣の城
★寺のお子さんが城の登山口を教えて下さった。
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  (★宮坂武男氏の鳥瞰図)
箕輪初心◆長野:旧中条町の城3&鬼無里の城1
http://53922401.at.webry.info/201305/article_6.html

▲第1次川中島の戦い
 
 大日方氏は武田氏に従い参戦した。
川中島平の中央部広田にも所領を与えられて居館を構えた。

3男:大日方直長は長尾景虎によって陥落した千見城を奪還し、
武田信玄から感状を受けた。

・天文23年(1554) 安曇野の中塔城で信濃守護小笠原長時
  が逃亡した。
 二木氏が赦免を願い出た際、大日方氏が仲介をし、功績が
 認められた。

・永禄元年(1558) 中条村の支配権を与えられた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲長野市旧中条村の城@古屋敷城山城、A大姥山城、
B柏鉢城復刻版
http://53922401.at.webry.info/201605/article_7.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・永禄4年(1561) 第4次川中島の戦い

  大日方直長の軍役は110騎・・・
  大日方一族全てを合わせると300騎を超えた。
動員兵力は9000人〜10000人前後にも及ぶと推定されている
春日虎綱の100騎
  屋代秀正の70騎
  栗田鶴寿の60騎
  室賀正俊の20騎
  麻績(青柳)清長の10騎
  
  


【5】江戸時代の鬼無里
・鎌倉時代?  
   信越古道により、麻績(おみ)の麻栽培が伝わり、麻糸
紡ぎが行われていた。

・戦国時代・・・鬼無里では冬に麻糸紡ぎが行われた。

・江戸時代・・・麻は衣服・畳糸・細目糸、蚊帳の原料として
    仲買人に買い取られ江戸などに出荷された。
   鬼無里には「麻蒔(おま)き 桜に肥辛夷(こぶし) 」の
   農事暦がある。
   コブシの花がほころぶ頃、山桜の花の頃、畑に肥料を
   撒き、麻の種を蒔く。
   
   麻は重要な換金作物であった。
   信越古道等により鬼無里では塩・海の幸も売られていた。

・明治時代・・・・麻が東京、大阪、名古屋方面に出荷された。
稲作意外に、現金収入となる畜産、たばこ、きのこ栽培など
が行われるようになった。
  林業も盛んであった。

・昭和40年代・・麻栽培は化学繊維に押され衰退した。

 
【6】明治時代
・★鬼無里は、読み・書き・そろばんのできる人材の多かった村
  であったのであろう。

★★寺島数右衛門宗伴(そうはん)★★
宮城流&最上流の鬼無里の生んだ和算の大家であることが
  分かった。
  高次方程式や平方根を駆使して図形問題を解いた。
 
群馬では最上流の大家が前橋の南橘にいた。
  群馬県藤岡市の「和算の大家 関孝和」は関流の和算の大成者
  で微分積分を駆使し、円の面積も出し、日本のbPになった。
  安中の小野栄重や榛名の中曽根総理の先祖も関流の和算の
  大家である。


  
【7】現在の鬼無里
最盛期には、人口が6000人程でいたが、現在は2000人程と
人口減少し、過疎化が進んでいるとHpにあった。
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1)鬼無里ふるさと資料館 長野市鬼無里1659
  ふるさと資料館「祭りの屋台4台」
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2)そば処
手打ちそば体験、おやきづくり体験ができる。
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★蕎麦が旨かった。

3)農林産物直売所
山野草、手作りの製品、農産物、あざみやふきなど山菜の
   加工品などが売られている。
酒があった。川場(群馬)の永井酒造と分かった。
永井酒造「谷川岳」を年間100本飲んでいるのだ。
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・あじさい釉・均よう?
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4)いろは堂
おやきを販売している。

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★明日は武田・真田系は未定・・・

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