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zoom RSS 箕輪初心:生方★『笠懸野御用水&岡登用水』B史実編「高崎経済大学准教授:西沢淳男先生の指摘

<<   作成日時 : 2016/05/28 05:36   >>

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多くの方が「岡登用水は代官:岡登(上)景能が造った。現在
でも岡登用水として稲作に利用されている。岡登(上)景能が
余りの名声に妬む者の讒言により自刃した。等」★私は館林藩
にいた5代将軍:徳川綱吉&柳沢吉保の陰謀かなとも思った。
高崎経済大学の西沢淳男准教授によると「岡上景能が英雄視さ
れた美談・間違った歴史認識=俗説が史実と混合され、教育委
員会・教育現場まで広まっている。地域史を正確に見抜く力を
養成したい。」という。西沢淳男先生、多少、説明の順を入れ替
えたり、加筆させていただきました。
画像


箕輪初心:生方▲『笠懸野御水&岡登用水』@『俗説』西沢准教授
http://53922401.at.webry.info/201605/article_27.html

箕輪初心:生方▲『笠懸野御水&岡登用水』A岩宿&薮塚の発見&「岡上」の本8冊
http://53922401.at.webry.info/201605/article_29.html

【はじめに】
●西沢准教授の解説
「薮塚の名産は何かしっていますか?」
「・・・・」
「スイカです。・・・・
スイカと水田・・・なんか変ではありませんか?」
「・・・・」
スイカは水はけのよいところ・・・
 田んぼは水はけの悪いところ・・・

 笠懸は水はけの悪いところでした。


●西沢准教授の解説
図@「笠懸野御用水&岡登用水」
画像

 赤・・・笠懸野御用水
青・・・岡登用水
「つまり、岡上景能は笠懸野御用水を引いたので、
 岡登用水は引いていない。」

●西沢准教授の解説
図A寛永年間の笠懸野の地図



図B永禄年間の笠懸野の地図
画像


「明らかに、水田は描かれていない。」



【一】地域における岡上景能と笠懸野開発の認識
●▲■
【1】史料1 『岡登霊神社案内板由緒』(顕彰保存会)
岡登霊神社(りょうじんじゃ) 群馬県太田市大原町391
祭神:岡上景能公
『 代官:岡登次郎兵衛景能公は,武州高柳村(埼玉県児玉町)に
 生まれた。承応3年(1654)幕府代官に任用され、父景親に従い吾
 妻郡東村岡崎新田開発に榛名湖を源とする沼尾川より引水し多く
 の水田を拓いた。
 大間々扇状地帯にある笠懸野は古渡良瀬川の河床であったため、
いわゆる不毛の地であった。景能公は寛文9年(1669)笠懸野に赴任
し鹿之川に陣屋を設けて管内を綿密に調査測量の上農民のために開
発の許可を得た。そして足尾町を起点とする銅山街道沿いに地区割
を設け、久々宇 桃頭 本町 大久保 山之神 六千石 権右衛門 
溜池 と不毛の土地2052町歩を開発し、原八ヶ村を新設した。
更にこの地に水を引くべく大間々地内の渡良瀬川右岸(蕪町)より
岩盤を割り抜いて取水口を設置し三股分水により用水を西南に二
分するなど難工事を重ね,念願の笠懸野を潤す岡登用水を完成させ
たのである。開拓住民の安住は先づ敬神崇祖の精神をと五社三寺を
創建して民心の安定に心を尽くした。偉大な事跡を重ねられた公は
貞享4年(1687)12月3日冤罪を被り自刃された。齢50余才と伝
えられている。
・・・(後略)。

●西沢准教授の解説
@「不毛の土地2052町歩を開発し、」とある。
A「貞享4年(1687)12月3日冤罪を被り自刃された。」と、


【2】史料2 銅像 『岡上次郎兵衛景能公業績略記』
(★銅像建立推進会議)
1)銅像 岩宿博物館第1駐車場
2)内容:解説
寛文八年足尾銅山奉行に赴任、併せて寛文十年頃この地方の代
官となり任地大間々扇状地帯の荒地を開発、渡良瀬川より用水を
引いた偉大なる郷土の恩人である。
 公は鹿ノ川に陣屋を設け、久宮村、桃頭村外郡内に計八ヶ村を
新設し、既存の村々にも増及、合計二〇五二町歩余を開発した。
一方、大間々地内渡良瀬川右岸の岩盤を切り取り取水口とし、川
底より高台の土地に送水する難工事を成し遂げ、二大事業を完成
させた。
 しかし、渡良瀬川下流の侍(まち)・矢場両堰が水利権の既得
を主張、僅少の水の外は「冬水のみ」と、厳しい「水取證文」を
渡された。公は冬水を貯めるべく岩ノ下溜井(現鹿ノ川沼)を築
いた。水は更に領民の生活用水として銅山街道沿いに流し、郡南
部(現綿内地区)に溜池を作り貯水した。しかし、この事業を理
由に湧水問題で讒訴にあい、江戸に召喚される途次、駕籠の中で
自刃したと伝えられる。時貞享四年十二月三日であった。
 公は土木技術を父代官景親と帰化僧独堪和尚(国瑞寺開山)に
学び、灌漑・治水工事に優れた手腕の代官であった。
・・・後略。
●西沢准教授の解説
「合計2052町歩余を開発した。」とある。
「湧水問題で讒訴にあい、江戸に召喚される途次、駕籠の中で
  自刃したと伝えられる。」


【3】史料3 国瑞寺 岡登次郎兵衛景能の墓
   (★群馬県教育委員会・みどり市教育委員会) 
 みどり市笠懸町阿左美の鳳陽山国瑞寺。
『史跡岡登次郎兵衛景能公墓の解説板』
 景能公は埼玉県児玉郡高柳村に生まれ、父景親の後を受け、寛
文二年将軍家綱の時幕命により笠懸野に陣屋を築き代官として
移住した。生来剛直、淡泊で国のため、人のためになることなら
ば世論に関せずただ実行に命をかけても遂行する立派な開拓人
であった。
  当時笠懸野は原野で、水利が悪く耕作皆無の状態で荒れ果てた
土地であった。景能公は、この土地に水をかんがいするために渡
良瀬川より水を引き、寛文十二年十年以上の年月をついやして岡
登用水を完成させた。
 代官岡上景能の笠懸野開発をめぐって用水堀の長さは二十四qに
達し、笠懸町、藪塚本町、新田町、 赤堀町、東村の七町村にわ
たり、荒野に農耕が可能となり、現在の笠懸町に発展した。
  しかしこの大事業も、心なき人々の悪口、同僚官吏による嫉妬、
下流住民の余水のわき出し等苦言により、幕府に召喚され貞享四年
十二月三日切腹を申しつけられ、自害した。当時五十余歳といわれ
ている。
・・・(後略)。
 ●西沢准教授の指摘
 「景能公は、この土地に水をかんがいするために・・」
「心なき人々の悪口、同僚官吏による嫉妬、下流住民の余水のわき
  出し等苦言により、幕府に召喚され貞享四年十二月三日切腹を申
  しつけられ、自害した。」
『史料1〜3の3ヶ所の案内板』では、
「おおよそ岡登景能が不毛の荒れ地 に渡良瀬川から引水し、岡登用
 水を完成させ、2045町歩(約2045ha)を開発したこと、
 冤罪により最後は自刃したこと」
 等が共通している。


【4】史料4  紙芝居『岡登用水ものがたり』
(★群馬県土地改良事業団体連合会)
 「前橋市から少し東に笠懸町というところがあります。この田ん
ぼにカエルの親子が住んでいました。

(母カエル)「ねぇ、お前達、私たちの住んでる、この田んぼの水
 がどこから来てるか知っているかい?」
(兄カエル)「知ってるよ、渡良瀬川から水を引いた岡登用水の水
       だよ」
  ・・・・(中略)・・・・・・
むかしむかし、今から300年以上も昔。
赤城山の南東には荒れ地が広がっていました。
  今では豊かな田んぼが広がっているこの場所は、昔は水が無い
ため、米や野菜をつくることができませんでした。
  ここに、岡上景能という農民思いの代官がいました。    
 ある時、この地を見回っていた景能は言いました。
「この土地は水が無いのでいつまでたっても荒れ地のままだ。
 こままではせいぜい馬を放し飼いにするくらいしかできない。
 水があれば、田んぼや畑ができて、ここに住む農民の暮らしも豊か
になるのだが・・・・」
   ・・・・(中略)・・・・・・
  さっそく、景能は荒れ地を開発するための図面を作り、大間々
 の渡良瀬川へ向かいました。
   ・・・・(中略)・・・・・・
 こうして、いよいよ水を引く工事が始まりました。
   ・・・・(中略)・・・・・
  「やった !!  トンネルが完成した!」
   「おぉいー!   水が来たぞ!」
   「ちゃんと水路を流れていく!」
   「ばんざーい!   これで米が作れるぞ!」

(母カエル)「こうして、工事は9年かがりで完成し、それまでの
   荒れ地は水が来て田んぼがつくられ、他の村でも次々と新し
   田んぼがつくられたのよ。おかげで今では、立派な田んぼや
   畑が広がっているの。」
(弟カエル)「じゃあ、今の僕たちがここに住めるのも、おいしい
  スイカが食べられるのも景能さま達のおかげなの?」
(母カエル)「そうよ。でも、これは岡上用水だけのお話じゃない
   の。水に不自由した昔の人は、苦労して沢山の所に用水路を作っ
   たの。
 ・・・・ (後略)・・・・・・・・・・・
●西沢准教授の解説
「新田開発は水田という前提で創作されている。
近世の新田開発の意味は水田だけでなく、畑だけでもよい。
岡上景能は「笠懸野御用水を造ったのであって、岡登用水を
造ったのではない。・・・・」
  米は粘土質・・・スイカは扇状地で水はけの良い場所に
  育つ・・・」



【5】史料 5 『まんが岡上景能公』(★顕彰会)
・「荒れはてた笠懸野にもいまでは200ヘクタール余の水田が
  広がっているよ。それは代官岡上次郎兵衛景能公が渡良瀬川か
  ら用水路を引いたり荒地を開拓したおかげだよ」
・「水を引けば土地も水田にかわる」
・「用水をつくるための幕府からたまわった大金」
・「いよいよ新田開発だ」「緑したたる水田になるのだ」   
・「溜池の底がもれた事件で訴えられ」
・「罪状溜池の漏水により他領の農民を苦しめた」
○西沢准教授の講義
「トンネル工事に焼堀が使われたのは100年後である。」
画像

★調べて見ると、
 ・元禄年間(1673〜1690) 
 秋元長朝子孫:秋元喬朝が河口湖の水を都留郡
新倉村への水不足の新倉村の用水として、また河口湖の水害防止
のため工事した。河口湖の水を新倉村に流す用水トンネルである。
 12年かかって、トンネルを掘らせ通水したが、崩落と湖水の
  減水.により安定的供給ができなかった。
 秋元喬朝は国替えとなった。
・文久3年(1863) 再工事が始まった。
  河口湖の水を都留郡新倉村へ回そうと、うそぶき山(天上山)の
 岩山を掘りぬくトンネル工事を開始した。
 長島あんりゅうと元朝の親子は、村人と工事を始めた。20年も
 かかって20qものトンネルを、堀り抜いた。
 青目石といわれる堅い岩盤を堀り抜くため木を燃やし、
 脆くなった岩を砕く持殊工法 『焼堀(しょうくつ)』を用いた。 
・元治2年(1865) 長島氏など戸数250軒余の新倉村が単村で
 自普請で完成させた。掘抜延長約3700m。近世の用水トン
 ネルとしては屈指の長さを持っている。工費約7300両。
 延人足約10万人の大工事であった。
・元治3年(1866) 約11Haの開田に成功した。
 新倉村の基幹水路として大きな役割を果たした。
 トンネルをことは類を見ない壮挙である。
・昭和41年(1966) 富士吉田市史跡に指定された。              
(★富士吉田市教育委員会) 
・●西沢准教授 
「史料4・5は、代官岡上景能が不毛の笠懸野に用水を引くこと
 により、水田地帯に生まれ変わり、現在もこの地を豊かに潤してい
 ることが描かれている。」
 


【6】桐生市小学校郷土学習
●西沢准教授

「説明は史料1〜6の趣旨と同じであり、鹿の川陣屋想定復元図が掲載
 されているが、陣屋及び周辺が水田を連想させる緑で満ちている。」

【7】某小学校4年生社会科学習指導案
T、単元名『郷土に伝わる願い』  
  小単元『水田に水を』
U、考察  
 1、児童の実態
 2、教材観  
本単元は、学習指導要領の第3学年及び第 4学年の内容(5)のウ
『地域の発展に尽くした先人の具体的事例』を受けて設定したもので
ある。ここでは、地域の人々の生活の向上に尽くした先人の働きや苦
心を考える手掛かりとして、『岡登用水』を開いた岡上景能を具体的
事例として取り上げた。岡上景能は、江戸時代に代官として、荒地で
あった笠懸野一帯(笠懸町から太田市西部)を、農地として活用でき
る土地にし、地域の人々の暮らしを豊かなものにしようと考え、多く
の苦労や障害を乗り越えて、用水路開発を行った人物である。現在、
太田市内に存在する多くの用水は、広大な水田地帯に水を供給したり、
工業用水などとして使用されていたりと、幅広く活用されている。
 しかし、市内の用水は河川と混同してとらえられていることが多い。
一方、用水を開墾した岡上景能については現在ほとんど知られていな
い。そのため、新たな発見や驚きを伴いながら地域を見直し、地域の
発展に貢献した人物の業績を理解させる上で、岡登用水と岡上景能は
適した事例であると考えられる。(後略)・・・・」。
●西沢准教授の講義
「『水田に水を』といきなり、新田開発=稲作のイメージで
 単元を設定している。
「岡上景能は、江戸時代に代官として、荒地であった笠懸野一帯
 (笠懸町から太田市西部)を、農地として活用できる土地にし、
 地域の人々の暮らしを豊かなものにしようと考え、多くの苦労や
 障害を乗り越えて、用水路開発を行った人物である。」


【8】岡上(岡登)次郎兵衛景能人物解説
(★足利市立教育研究所)
埼玉県児玉郡出身の岡上(岡登)景能(次郎兵衛)は、上野国
(群馬県)の幕府の土地を治める役人(代官)として働いた人
です。
 江戸時代の初めの1662年(寛文2年)に上野国の代官
 となりました。人のためになることなら、他の言いうことに
左右されず、ただ実行することを第一とした人であったと言わ
れます。彼は1667年(寛文7年)、群馬県桐生市境野の渡
良瀬川から取水し、足利の町から北郷の村々に及およぶ用水を
作り上げました。この用水はその後取水口が何度も変更になり、
栃木県から取水することになり、柳原用水と呼よばれるように
なりました。
 この柳原用水により、足利の北の水田は水不足に悩むことが
少なくなったと言われます。またこの用水にはいろいろな技術が
使つかわれており、今福から市内にはいるところにはトンネルで
水を通おし、そこから山際を通ることで土地の高い北郷方面に向
かって流れています。さらに名草川の下を通して東に横切り、対
岸の水田を潤しています。
 そして、稲作に必要な水を運ぶだけでなく、柳原用水は遊歩道
に沿った水路として、織姫神社から東に向かうところでは、素晴
らしい風景もっています。
 さて岡上景能は1671年(寛文10年)、群馬県新田郡笠
懸町周辺の土地へ、渡良瀬川の水を引いて岡登用水堀を完成さ
せました。しかしこの用水の成功に対して、よく思わない心な
い人や、今までに比べ流量が変わることにいい思いをしていな
い用水の上流や下流の人々がそろってを訴えたため、切腹して
命を終わることになりました。
・・・後略。
★参考文献:「新編足利浪漫紀行」
●西沢准教授の講義
「・・・・・・」


【9】史料9群馬県総合教育センター小中社会科メディアコンテンツ
小学校用2本
中学校用1本
●西沢准教授の講義
「3〜4分のビデオ画像なので、・・・・」
と言って3本見せてくださった。
●西沢准教授の解説
「映像及び内容はほぼ共通し代官岡上景能の笠懸野開発をめぐって
 ており、映像の随所に水田が強調され、寛文四年に工事が始まり、
 代官岡登景能が用水を引いたことにより荒野が水田に生まれ変わり、
 用水名として残ったこと、事績を妬まれ幕府に訴えられ、江戸への
 召還途中に切腹したことが描かれている。」

【10】『太田かるた』の絵札・読み札 平成18年(2006)11月発行
@「用水の 歴史を伝える 岡登」
A 『江戸時代の代官とは、幕府の直轄地を支配する役人のことです。
 勘定奉行の支配下に置かれ、江戸あるいは赴任地の代官所で年貢
 の徴収、司法検察などの民政を担当しました。岡登用水は笠懸野
 の荒野を潤すため代官「岡上次郎兵衛景能」によって寛文12年
 (1672)に開削された水路です。大間々扇状地にあって不毛の地と
考えられた笠懸野に、渡良瀬川から用水を引き岡登用水を完成さ
せ、本町宿(現太田市大原町)など29か村、20000石余り
 の新田を開発しました。』
●西沢准教授の解説
「本町宿(現太田市大原町)など29か村、20000石余り
 の新田を・・・・開発していないのに、・・・」



●▲■地域における岡上景能と笠懸野開発の認識
1)自治体史
 @『笠懸村誌3巻』
 A『藪塚本町誌』等
2)主要な研究・解説
 B『代官岡上景能』:萩原進・牛木幸男著
 C『岡登用水史』
 D『考証岡上景能』
画像

 E『岡上景能とあかがね街道』
 F『岡登用水』企画展図録
  「笠懸野を開発した足尾銅山代官岡上景能」
  「代官岡上景能と足尾銅山街道」
  「笠懸野の開発と岡登用水開削」
  「長池寺溜池と岡上景能」
等がある。

●西沢淳男淳教授 
「しかし、一般に観光あるいは学校教育の現場において史実を知ろう
と目にするものは、研究書や研究論文ではなく、現地の観光案内、説
明板、学校副読本やメディアコンテンツ等である。WEB上でも検索
にヒットするが膨大であり、管見の限りではこれから紹介する史料の
二次利用がほとんどである。」



【二】1次史料と2次史料
  史料には、その時代に書き残された1次史料と、1次史料等を加工・
編纂した2次史料がある。
  地域史を描く場合、出来うる限り良質(客観的)な一次史料に当た
ることが望ましい。しかし、1次史料のみでは難しい場合も少なくな
い。その場合、2次史料を利用することになるが、十分な精査が必要
となる。
  第1表は、笠懸野の開発と用水に関する主要な史料を時系列に並べ、
各々の史料に1次史料と2次史料の別を付したものである。

表1 笠懸野開発及び用水開削主要史料
『代官岡上景能の笠懸野開発をめぐって』
画像

(★表1)

表にした史料により史実をみていくと、
「寛文9年に代官見立て新田(笠懸野)の申請があり、妻木頼熊と伊
奈忠臣の2名が新田場の巡察に来た。巡察の時は裁許絵図で見る限り
足尾銅山街道が新道として開通しているのみで、笠懸野は未開発であ
る。巡察使の帰着後、この申請は許可されたようで、1年3ヶ月後に
描かれた開発絵図面から、大原宿が整備(街道沿いに家並みが描かれ
ている)され、新田村の開発が進んでいることが確認できる。」

史料 14 によれば、新田(久宮・桃頭・六千石・大原本町・山之神・
大久保・権右衛門・溜池)は、入植者が請負衆へ対し地代金・年貢関
係の事等々を誓約・提出し新田村を形成した。
  一方、新田開発と併行して用水の開削も進められた。

史料 11 は、研究史においても採り上げられてこなかったものなので、
全文を示す。


【11】史料11
 二月二日埒明候、岡上次郎兵衛持参之書付
         覚
一、 水之分石を立、水之減御見分之所ハ館林領之関口か舟着之河
   岸か両所ニ相定申度奉存候、最前差上ケ申候書付も其通ニ御
   座候
一、 水引申月之定ハ十月より三月まて関口あけ、四月朔日より関
   口塞、夏満水之時分ハ関口水門よりこし水之分ハ引取候様ニ
   仕度奉存候
一、 関口之巾六尺、深サ川水へり不申程取可申候、其上川水旱ニ
   而も水関入不申候得者、増水御座候可申様無御座候、川水之
   増減次第関水も其通ニ御座候、就夫水門何尺あけニと相定申
   候上ハ、以来まて水取候分量相極り申候、以上
    子正月晦日              岡上次郎兵衛
                      高室介右衛門
 
 これまでは史料 13 の証文を以って幕府評定所から一方的に裁定さ
れたと解釈されてきた。しかし、この史料では、史料 12 にある翌月
末の論所役人の見分箇所を館林領の堰(取水口)や船着之河岸(高津
戸渡カ)を指定し申し出ている。しかもこの覚の前にもこの趣旨を含
む書付があり、提出していたことを窺わせる。
  水引に関しても、4月に井堰を閉じるが、夏場については井堰水門
を越えた分のみ利用したい。
  井堰の巾については6尺、深さは水が減らない程度にする、洪水や
干魃等によって川水の増減があった場合は、用水もその様にするが、
水門何尺開けると定めたならば、以後の取水量も決まる。という三点
を申し立てている。
  申し立ては2日後に決まったようで、史料 12 にある中山勝之と御手
洗昌義が派遣され見分し、その結果として、史料 13 にある証文が出さ
れた。岡上景能らの主張より1月長い9月からの取水とし、水門に関
しては具体的に高3尺の戸を立てることと定まったのである。用水開
削は、景能単独のものではなく、代官高室政職との立会支配であった。
延宝五年六九歳で政職勇退まで続いている。そして、貞享4年に負金
等により処断され切腹となった。これについては次章で詳細に検証す
る。
  その後の笠懸野御用水は元禄10年の新田絵図面にも確認でき、宿
用水として機能していたことがわかるが、宝暦7年段階では「古堀浚」
と記されているところから、利用継続の有無は判然としないが、街道
沿いに用水掘は確かに残っていることは確認できる。また、開削した
用水が灌漑用水ではなく宿用水としてのものであり、新田開発が水田
化を目指していなかったことは、一例として元禄10年の鹿田新田割
付状をみると田方はなく、畑方のみで新畑・林畑・芝畑・屋敷・風除
林とあることや原本が享保十七年とされる本町宿の絵図面に、街道に
面した屋敷の奥が、順に風除・新畑・林(畑)・芝(畑)・林と描かれ
ているところからも明らかで、林畑や芝畑といった名目として等級の
付かないような石盛も低い極めて地味が悪い土地である。したがって、
寛文11年の開発絵図では凡そ2千町歩を計画しており、水田であれ
ば2万石にはなるが、実際は6千石程度にとどまっているのである。
  その後、安政3年以降用水再興運動が活発化し、岡上時代の古堀を
再興した3叉分水までと、それ以降の新規開削の用水が原形となり、
取水口の変更等があるが「岡登用水」として現在へ続いていくのであ
る。史料にもとづく史実は、一章で説明されたことと随分と異なって
いる。
  では前章の説明は何を典拠としているのだろうか。それは2次史料
である『岡登雪江伝』と『岡登景能伝略 』であると思われる。

●『岡登雪江伝』は、岡上景能のもとめで開基された黄檗宗国瑞寺の
第3世:桃巌の著による景能の伝記で、死後39年を経た享保11年
(1726)に漢文体で書かれたものである。内容のポイントとなる部分の
大意としては、「不毛の地である笠懸野を灌漑すれば上にも下にも利
があるとして、村民数百人を動員して2万石の新田開発をするが、負
金があり、下僚の帳簿管理も十分ではなく、権力者の恨みにより死刑
の罪になり、切腹した。支配所では老若男女を問わず皆泣いた」
とある。

●『岡登景能伝略』は、明治15年(1882)8月に群馬県令楫取素彦か
ら追賞の上申書として出されたものとほぼ同内容で、同17年楫取の
命により県の官吏であった山崎衡がまとめたものである。同年秋には
地元主催の追賞祭典が盛大に挙行されている。内容のポイントとなる
部分の大意としては、「寛文四年渡良瀬川から用水を引き、鹿川に陣
屋を置き、笠懸ノ原八ヶ村をはじめ周辺も含め、5700石余の新田
開発をしたが、水患として上流では水涸れ、下流では水漏れにより苦
情が出され、そのため事情聴取に江戸へ召還されるが、負金もあり裁
かれることを甘受せずに、途中の駕籠の中で自決した」とある。
なお、明治20年(1887)に建設された岡登霊神社境内の『岡登景能紀
功碑文』は、略伝をやや簡略化したもので、上申書とともに三者の内
容はほぼ一致している。
 
 何れも記述の根拠となる典拠が示されておらず、2次史料としては
相当の注意が必要となるものである。一方で、同じ2次史料ではある
が、
@寛政10年(1798)を下限とした大名旗本各家の系譜を編纂した
『寛政重修諸家譜』
(文化9年(1806)完成)
@寛永期迄の系譜を編纂した『寛永諸家系図伝』
(寛永20年(1643)献上)
B慶安4年(1651)までの旗本の伝記史料集である『干城録』
(天保6年(1835)年献上)
C御家断絶となった大名・旗本家の系譜である『断家譜』
  (文化6年(1810)編纂)
A徳川家の編年史である『徳川実紀』
(天保14年(1843) 献上)
等は幕府編纂のもので信用度は高い。実際、記述内容が史実や傍証
史料と符合するものが多い。



【三】 誤認識
  地域史を描くには、前章でみてきたように基本的には良質な一次史
料を用いるべきである。この点、前掲『考証岡上景能』ではいたずら
に景能を賛美誇張することに警鐘し、新たな史料を発掘し実像を明ら
かにしょうとしたが、多分に推理・想像が入り、史料解釈にも誤りが
みられた。
  そこで、1章でみた史料の何が誤認識なのか、何に齟齬があるのか
大きな点を4つに絞りみていくこととする。

(1)新田開発
  先ず、「新田開発」という言葉である。新田開発とは、一般には文
字通りで「新しい田んぼを開発する」ことと思われている。実際に筆
者が法政大学の史学科の学生で、専門科目である「日本近世史」受講
生約150名に尋ねたところ、ほぼ10割近い学生が同様の認識であっ
た。また、本学における平成23年度教員免許更新講習(地理・歴史)
の際に受講していた小・中・高等学校の教諭40名ほどにも尋ねたが、
数人を除いて同様であった。前に示した研究史においても同様である。
研究者や歴史学専攻の学生、あるいは学校教諭であっても「新田開発」
というあまりにも安易な用語は調べずに解釈しているのであろう。し
かし、ここに盲点がある。
 新田開発を『国史大辞典』で引いてみると、「近世における新耕地
(田畑とも)造成事業の総称」とある。すなわち、開拓事業を指す言
葉であり、たとえ開発された土地が畑のみであっても新田開発という
のである。
  ところが「新田」という言葉の先入観に左右され、映像や絵に田園
が広がり、用水は水田のためという構図が先にできあがり、客観的な
史料にもとづかない誤った地域史の解釈が生まれてきたものと思われ
る。確かに、明治時代以降に引かれた岡登用水の一部地域には水田が
開けているものの、岡上景能の開発した笠懸野の中心部は現在でも畑
地とビニールハウスが広がって、まさに水持ちが悪いためにスイカの
産地ともなっているのである。
 

(2)岡上と岡登
  2つ目として、苗字が「岡上」なのか「岡登」なのかということで
ある。この混合がまた誤認識を生んでいる。1次史料では基本的に「岡
上」で記されているが、2次史料では「岡登」もみられる。景能の通
称である「次郎兵衛」も「二郎兵衛」「治郎兵衛」とも記される。近
世では、誤字・当て字は頻繁にみられ、「岡登」性を称したことに関
しても諸説あるが、とりわけ大きな問題ではない。しかし、この苗字
が混乱を招いた。  
近世において岡上景能が開削した用水は「笠懸野御用水」と称され
ていた。
代官岡上景能の笠懸野開発をめぐってその後、2章でもみたように
幕末期から明治初年にかけて再興・拡張されるが、丑木によれば 、
天保11年(1840)の藪塚村の再興運動のときには「岡登古堀筋」と
岡登が使用されているが、安政3年(1856)再興願書には「笠懸野古
用水」など様々な呼称が使用され、明治6年(1873)以降の願書等の
呼称の中に岡登の文字が確実に出てくるようである。岡登堰につい
ても、明治8年(1875)頃から「岡登用水堀」などというようになり、
15年(1882)以後は「岡登堰」と称するようになり、組合の名称も
「岡登用水組合」が使われ、同33年(1900)に水利組合の名称を
「岡登堰普通水利組合」として、以後は岡登堰が正式名称になったと
いう。何れも「岡登」を冠している。このことが、あたかも岡上景能
が引いた用水が現代の「岡登用水」であるかの混用を招いているので
ある。
 
(3)景能の処断
  3つ目としては、岡上景能の処分についてである。前出の
史料1で は「冤罪を被り自刃」、
史料2では「湧水問題で讒訴にあい、江戸に召喚される途次、駕籠の
   中で自刃」、
史料3では「心なき人々の悪口、同僚官吏による嫉妬、下流住民の余
   水のわき出し等苦言により、幕府に召喚され貞享4年12月3
   日切腹を申しつけられ、自害」、
史料5では「溜池の底がもれた事件で訴えられ」「罪状、溜池の漏水に
   より他領の農民を苦しめた」とある。  
一方、幕府編纂による2次史料3点には次のようにある。
 
 ○『寛政重修諸家譜』
 貞享四年七月六日さきに農民等村境を争論せしことにより、糾明
あるところいはれなきことのみ申陳じ、すべて其御代官所の諸事を
沙汰するにいたりても、明白ならざることおほく、前条の事糾明せ
らるゝにをよびても、証なき事まうしつのり私の非をのがれむがた
め上を掠むるがごとき、所為かさねがさね其罪かろからず、死罪に
も処せらるべしといへどもこれを宥められ、八丈島にながさるゝの
むね厳命あり、十二月三日すでに其罪を決せらるといへども数多の
負金あるのみならず、手代の輩にいたるまで指揮よろしからず。す
べておほやけをかすめしはからひ、其罪尤重しとて切腹せしめらる。
このとき手代のともがら次郎兵衛がことに坐して罪かうぶるもの凡
20余人にをよぶ。
 
○『断家譜』
 貞享四年丁卯柳沢出羽守御加増地引渡御用不調法故七月六日八丈
島江遠流、同年十二月七日切服
 
○『徳川実紀』貞享四年七月六日の条
    又代官岡上次郎兵衛某は八丈島に遠流せられ(中略)これは上総
国山辺郡萱野村。砂田村境界を論争するにより。(中略)次郎兵衛
某は。さきに其地を柳澤出羽守保明が采邑に賜りし時。引渡のさま
よろしからざりしによてなり。
 
 ○『徳川実紀』貞享四年十二月三日の条
  代官岡上次郎兵衛某さきにひが事ありて。遠流に処せられしかど。
  贓罪多きにより切腹せしめらる。
  各々の史料を補完してまとめると、貞享四年七月六日、八丈島へ遠
 島と決した。処断理由は萱野村と砂田村地境論争があり、その糾明を
した折り、この村が前に柳沢吉保領となり景能から引渡される際に不
手際や証言に不明瞭なことがあったことが判明、証拠のない申し立て
は幕府を欺くことにもなるということで、本来死罪のところ、遠島に
減免された。実際、七月付の「岡上次郎兵衛遠島ニ付浦々御証文 」が
作成されているところからも、遠島が確定していた。ところが十二月
三日、判決確定後に数多の負金・贓罪が発覚したことにより切腹となっ
た。これが幕府編纂二次史料から客観的にみた史実である。真相は別
にあるとの見方がされるが、管見の限り、その他の理由による処断も、
また在方からの湧水等の訴願史料は発見されていない。
 
  一方、史料1〜6では景能のみが敵視され、犠牲となったかのよう
な表現(景能を偉人化するためか)もみられるが、この処断はミクロ
ではなくマクロからみる必要がある。幕政からこの一件をみると、天
和・貞享から元禄期(1681〜1704)は、傍系から宗家を継承した5代
将軍:徳川綱吉による「天和の治」と称される賞罰厳明策がとられ、
大量の幕臣・大名が処断された時期に当たる 。幕領については、総代
官の未進会計調査をし、監察強化を図っている。景能の処断直前の貞
享4年6月21日にも勘定組頭に総代官の会計を査検させている 。
将軍綱吉期29年間に処断された代官は51名で、ほとんどが景能と
同様の幕初以来の世襲代官で、この内半数は「年貢負金」「贓罪・年
貢滞納」という理由、つまり景能の問われた罪状と同一である 。
  景能自身、前にみた史料 16 に「岡上次郎兵衛引負金之内拙者御請仕
候弁納金三百五拾両」とあるところからみて、処断理由の負金が相当
数あったと思われる。幕政史からみれば、取り分けて景能に照準を合
わせたのではなく、会計監査を厳格にし、傍系である将軍綱吉の神輿
を担ぐ家臣団を構成・改革実行するためのリシャッフル=「天和の治」
で処断された代官達の一人に過ぎないのである。
  また、景能の最後についての表現である。『日本国語大辞典』によ
れば、
@自刃は「刀剣を用いて自分の生命を絶つこと」、
A自害は「近世では、男の切腹に対して女がのどを刺して自殺するの
 にいう」、
B死罪は「江戸時代、御定書に規定された生命刑六種の一つ。斬首刑
    で、その死骸を試斬にされるもの」、
C切腹は「江戸時代、武士に科した刑罰の一つ。死刑のうちで、最も
    軽いもの。検死役の前で、みずから腹を切るところを介錯人
   が後ろから首を打ち落とした」
とある。
 幕府の判決は、当初死罪になるところ遠島となり、その後改めて切腹
である。切腹は、死罪や遠島と同様に刑罰の一つであって、単に腹を切る
こと、すなわち自殺ではないのである。

(4)景能の所在
  4つ目として、岡上景能の所在である。この点の指摘のない史料4
を除いて、メディアコンテンツも含め、景能は笠懸野の代官として鹿
川陣屋に在陣(陣屋に在駐すること)しており、ここより江戸に召還
されたような表現で描かれている。景能の支配所を代官名の記された
郷帳で確認してみると 、寛文8年(1668) 次に上野国内での支配所は
1万九9789石余で、新田郡内にはない。およそ20年前ではあ
るが慶安2年(1649)の武蔵国郷帳では6712石余、正保4年(1647)
信濃国郷帳では1万168石余が確認できる。岡上氏は関東十八代官
と称される八王子に集住した代官衆の1人であり 、広域代官として
信濃国や越後国、武蔵国等に名前がみられる。記載内容に明らかな誤
りもある2次史料であり、民間の書肆により刊行された「武鑑」で参
考までにみてみると 、寛文13〜貞享4年迄(処断は貞享2年)を編
年で確認できるが、上州代官の項にはなく、すべて武州代官の項に記
載される。貞享2年からは越後代官の項にも記載されるが、これは、
延宝9年(1681)松平光長改易後の越後国高田城付地を預かったための
ものである。
  以上の断片的な史料から考えると、本拠は八王子の代官屋敷で、少
なくとも寛文8年以降支配所に組み入れられた上野国新田郡内の鹿川
に出張陣屋(支庁)を設けたものと思われる。つまり、景能の所在は
鹿川に在陣したのではなく八王子の代官屋敷であり、幕府への召還も
ここからなされたものと思われる。
 
(5)学校教育における誤認識
  以上、4つの誤認識と思われる点を指摘してきた。これまでの俗説
を正しい地域史に改めていかなくては、戦前の郷土教育の二の舞にな
りかねない。次世代を担う子供達に間違った地域史像を根付かせては
ならない。当該地域出身のある女子学生は、「岡上景能は神様扱いを
されて教わりました」と述べていた。実際、次のように太田市のある

●西沢准教授の指摘
小学校での教育実践例指導案
「この教材観にもとづき実践授業をおこない、その研究結果報告書で
は、授業後の児童の感想として「『岡登さんが用水をつくったおかげで、
今でも用水のあるところはこめがとれている』、『岡上景能のおかげで
用水も造られ、生活が楽になった』、『今の私たちの生活にも用水は役
立っている』」とあり、この捉え方を評価している。
  この教諭の授業の前提となっている歴史観は、岡上景能の引いた笠
懸野御用水と岡登用水は同一である。用水が引かれ、新田開発によっ
て水田が開け地域が豊かになった。これらの事績により岡上景能は地
域の恩人である。と考えていると思われる。
  また、小学校のある太田市では、市民憲章の一環として、郷土への
理解を深めてもらう運動のためとして『太田かるた』が作成されてい
る。このかるたの内、「よ」の札は「用水の歴史を伝える岡登」とさ
れて、「岡登用水は笠懸野の荒野を潤すため代官『岡上次郎兵衛景能』
によって寛文12年(1672)に開削された水路です。大間々扇状地にあ
って不毛の地と考えられた笠懸野に、渡良瀬川から用水を引き岡登用
水を完成させ、本町宿(大原町)など29か村、20000石余りの新
田を開発しました」(傍点筆者)との解説が付されている 。
  このように誤った地域史像は、必ずしも指導する教諭に問題がある
のではなく、一章でみたように、地域一般に形づくられてきたものが
あり、教育委員会等により提供される副読本や副教材に誤りはないと
の認識のもと、一部研究者の指摘も周知されず来てしまったことが大
きいのである。」

おわりに
  以上みてきたように、1次史料を中心とした史料にもとづく史実と、
典拠が示されない2次史料を参考とする解説の内容とでは大きな隔た
りがある。
  平成6年より始まり、現在もみどり市長らも参加し岡上景能公顕彰
祭が、命日である12月3日に岩宿博物館駐車場銅像前で挙行されて
いる。これは笠懸野を潤す岡登用水を完成させた郷土の偉人として遺
徳を偲んでのものである。
  地域史は、史料にもとづき客観的に史実を明らかにしていくことが
重要である。
  改めて史実として明確にしておかなくてはならないことは、次の6
点である。
@ 笠懸野の開発は、岡上景能単独のものでなく、延宝5年代官:高
室政職の勇退までは立会支配(共同事業)であった。

A 岡上景能らの開削した用水(笠懸野御用水)は、灌漑、特に水
田を潤すためのものではなく、足尾銅山街道本町宿の宿用水と
してのものである。

B 笠懸野御用水と現在ある岡登用水は、大部は当時の水路とは別
 のものである。

C 笠懸野の新田開発(=開拓)は、水田を切り開くことではない。

D 現在水田として開かれているところは、明治期以降の岡登用水
  によるものである。

E 岡上景能は冤罪で自殺したのではなく、幕政における賞罰厳明
 策により幕領の会計監査が強化され、結果として大量に処断さ
 れた代官衆の一人として、刑罰である切腹に処せられたもので
 ある。
  これらの点は、代官岡上景能が地域に事績を残した人物であるこ
とを否定するものではなく、正しい地域史を理解した上で、改めて景
能について考えてもらいたい。そのためにも、一刻も早く県教委をは
じめとする公共的な解説等については、史実による訂正を加えていた
だきたいと願うものである。
西沢淳男:高崎経済大学地域政策学部准教授

★明日は群馬・長野の用水路開発かな?

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箕輪初心:生方★『笠懸野御用水&岡登用水』B史実編「高崎経済大学准教授:西沢淳男先生の指摘 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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