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zoom RSS 箕輪初心:生方▲伊那【上の平城】知久氏→藤沢頼親家臣の城

<<   作成日時 : 2016/05/28 04:42   >>

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長野県上伊那郡箕輪町にあった城である。箕輪町郷土資料館
で上の平城を教わった。松島城→箕輪城→上の平城に行った。
感で遠くから眺めただけで、あそこかなと分かった。看板に
「東西約450m、東西約200m」とあった。鎌倉時代は知久氏
の城であったが、発掘調査の結果、福与城の支城であることが
判明したようである。
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◆◆平成28年(2016)5月12日
◎伊那北ICで降りた。辰野町には何となく寄らず、、、
  福与城に行こう。とはいうものの史料はない。

●箕輪町郷土歴史館
  @箕輪町史中世編48ページコピー 240円
  A「戦国図代のみのわ」箕輪郷土博物館編
B箕輪町パンフレットなどをいただき、・・・
★史料をたくさんいただき感謝申し上げます。

C博物館入場・・・100円
D箕輪町4城を紹介していただいた。
★とにかく親切であった。長野の人って、素朴?
  群馬県人とは微妙に違う人なつこさがある。感謝です。
しかし、戦国時代はどうだったのであろうか?
と、思いつつ、松島城を観察した。

▲bW61松島城 上伊那郡箕輪町中箕輪字松島
   現在は箕輪町役場)になっている。

▲bW62箕輪城 上伊那郡箕輪町中箕輪字木下
天竜川西岸の河岸段丘先端部を利用した伊那谷に数多く
見られる典型的な城の1つだった。箕輪城も同じであった。

▲bW63上ノ平城 上伊那郡箕輪町東箕輪
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●遠望
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●上の平:堂の前信号を右折
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看板@
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●普済寺入り口の右折

●看板A
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●笹郭

●1の堀

●2の郭
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・知久沢方面
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●3の郭前駐車場&説明板
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●道=3の郭と4の郭の間の堀跡
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●1の郭=主郭
●右に3の郭●4の郭▲御射山平


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●堀4はあったらしい。(発掘調査で)
●堀5はあったらしい。(発掘調査で)

●5の郭
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▼戻った。
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▲bW64福与城  上伊那郡箕輪町福与字南城
▲bW65手良堀之内 伊那市手良堀之内
▲bW66蟻塚城 伊那市美篶笠原(御射山神社)
▲高遠城6回目       伊那市高遠町東高遠



上の平城の歴史

・平安時代
源為公は母親が源頼信の娘のため、源義家と従兄弟であった。

・永保3年〜(1083〜1087)後3年の役
源為公・源義家は、清原氏を滅亡させた。
 
 源為公は戦功をもって信濃守として赴任した。
 信濃に領土を賜り、伊那の小河内に居館を構えた。
 箕輪領一帯を支配することになり、そのまま土着した。
 源伊那馬大夫為公が伊那箕輪上の平城が築いた(伝)。

 源為公は、伊那源氏・信濃源氏の祖といわれている。
源為公には多くの子があったが、源為公の嫡流が代々居住した。

 源為公の子:為基が分知されて片桐氏の祖となった。

  源為公→源為基・・・子孫は中津姓を名乗った。
  中津頼継は他田(おさだ)信忠を猶子にした。
  他田氏は諏訪一族:下社金刺氏である。
  小県郡の郡司を務めており、子孫には保科氏がいる。

  中津信忠→○→中津信貞は諏訪敦光の子:知久敦俊の養子と
  なった。

・鎌倉時代
諏訪大社大祝諏訪敦光(篤光)の子:敦俊が知久沢に住み、
  「知久十郎左衛門尉」となった。
(★『諏訪氏系図』
  知久敦俊の養子:知久信貞(知久右衛門五郎)が知久家系図上
  の初代である。


  知久氏の居城となった。
知久姓の祖となり、飯島・名子・大島・赤須などの多く
  の分家に分かれ各地に勢力を持つようになっていった。

・承久3年(1221) 承久の乱
@従来の説
  上の平城主:知久信貞が承久の乱の後に下伊那の知久郷へ退去し
  て以降は改築されることなく廃城となったと考えられてきた。

上ノ平城(箕輪町)→知久郷(飯田市)は南40km程に離れている。

  
  
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A平成10年から12年(1998〜2000)の上ノ平城跡発掘調査
  調査では柱の跡や大量の炭化物、埋まっている堀などが見つか
  った。確認された遺構、遺物から戦国時代にも城として機能し
  ていたことが明らかとなった。
  また、主郭跡の地中から大量の炭化物および焦土が出土している
  ことから、何らかの理由により焼失したものと考えられている。

戦国時代の天文10年(1542)年から天文14年(1546)にかけて、
箕輪は武田晴信と藤沢頼親が度々戦った。
  藤沢頼親は武田晴信と戦っては降伏し、謀反を起こすという行動
  を繰り返していた。
 藤沢氏の本拠地:福与城は、上ノ平城の南4km程の場所にある。
 武田晴信軍に備える城の一つとして上ノ平城が存在したことになる。
*******************************

・戦国時代
 上ノ平は箕輪の諏訪系千野氏系藤沢氏が治めたので
  あろう。(福与城から4km程)

・天文10年(1542)6月、武田晴信が当主になると、諏訪へ
 侵攻した。
  まずは、諏訪頼重が武田信虎・村上義清と勝手に和睦した
 したことを盟約違反として打つことにした。
 というか、現北杜市の隣はすぐ、茅野や下諏訪・・・

・天文11年(1543)4月、高遠頼継は諏訪総領家の座を狙って武田晴信
 に味方し、諏訪頼重の本拠:上原城(諏訪市)へ侵攻した。
 
6月24日 武田晴信は諏訪頼重を攻撃するために甲府躑躅ヶ崎館
 を出立した。

  (★「武田信玄」:新田次郎著では700騎:3000の兵)

 武田晴信は甲府躑躅ヶ崎→「中の棒道」→若神子(現北杜市)
 →(長坂町)→大井ヶ森→小淵沢→葛窪(現長野県富士見町)

6月?日 諏訪頼重は武田晴信の侵攻の情報を信じなかった。
     偵察を出した。

6月28日 諏訪頼重は上原城に軍を召集した。
(★「武田信玄」:新田次郎著では350騎:800の兵
     ・・千野伊豆入道が用意した兵であった。)
(★ウィキペディア:諏訪軍の兵力は150騎、歩兵
   700〜800人。)

6月29日 諏訪郡に侵攻し、御射山(現富士見町)に布陣した。


7月1日  諏訪頼重が出撃した。
   矢崎原(茅野市)で武田軍と対峙した。

 『千野伊豆入道が兵を率いて、御射山に向かった。
  しかし、小笠原長時は塩尻峠で固まっていた。
  高遠頼継は「ご安心くだされ、応援に出陣し申す。」
  と頼重に書状を送った。・・・』
(★「武田信玄」:新田次郎著)


 武田軍と対峙した。

7月2日 高遠城主:高遠頼継が武田晴信に呼応に応じて杖突峠から
     諏訪に侵攻して安国寺附近に放火した。
(★「武田信玄」:新田次郎著では、兵2000)

諏訪頼重は高遠頼継が裏切ったのを初めて知った。
(★「武田信玄」:新田次郎著)
諏訪頼重は千野入道に高遠頼継を討つように命じた。
夜、千野入道は夜襲をかけた。しかし、戦死した。
武田晴信は「惜しい男をなくしたな。」・・・・。
(★「武田信玄」:新田次郎著)
その後、神長官:守矢頼真や有賀城:千野靱負尉
(ゆきえのじょう)は武田晴信の家臣になっている。

●千野出身の藤沢頼親や松島貞実も高遠継頼に味方した。
 

 諏訪頼重は挟み撃ちを恐れて上原城を焼き払った。
★武田晴信や高遠頼継に上原城を使われないように
 するためである。
   
 夜、諏訪頼重は桑原城に移った。
       そして、桑原城に立て籠もった。
   
  
7月3日 武田晴信は桑原城下に兵を進めた。
●高遠頼継も桑原城下に兵を進めた。
   3方から桑原城を包囲し攻撃した。
    
  しかし、追い詰められた諏訪軍は激しく抗戦した。
  折からの雨で、城攻めを中止した。
  武田晴信は包囲を解いて後退した。
★武田晴信の作戦であった。思った通り、
   諏訪兵の逃亡が始まった。・・・・・
「これで、兵が減れば、・・・桑原城は落ちる。」


 夕方、諏訪頼重は城の警備を検分をしに出かけた
     諏訪頼重を見た家臣が頼重が城を捨てたと思い込み
     逃げて始めた。
夜、諏訪頼重が陣に戻ってみると、大部分の兵は逃亡していた。
    
     桑原城で諏訪頼重と一緒に夜を過ごしたのは僅か20名
     程だった。
 (★NHK大河ドラマ「風林火山」などでは・・・)
桑原城に残ったのは諏訪一門とわずかな城兵だけとなった

★7月3日の夜、諏訪頼重&武田晴信は何を想ったのだろうか?
 頼重「武田晴信の妹は我が妻・・・降伏して命乞いをしようか?」
晴信「明日になれば、兵も食料ないので、降伏するだろう。
    禰々もいるので、攻撃したくはない。・・・
   それに、無駄に配下を死なせたくはない。・・」

7月4日 武田晴信は和睦の申し入れをした。
 板垣信方は降伏を勧めに行った。
(★「武田信玄」:新田次郎著)


  諏訪頼重は武田晴信の妹婿である縁を利用して、晴信に和睦を
  申し入れた。晴信はこれを受け入れた。
和睦の条件として諏訪頼重の生命は保障されていた。

(★ウィキペディアの説)
7月5日 桑原城を開城した。
諏訪頼重・弟:大祝頼高を甲府へ連行した。
しかし、2人は甲府の東光寺に幽閉された。
★騙されたと思ったが、後の祭りであった。
7月21日 武田晴信は約束を反故にして、諏訪頼重と実弟:
  大祝頼高を切腹させた。
 諏訪惣領家は事実上滅亡した。

◆案内板〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
天文11年(1542)7月4日、諏訪頼重は武田信玄に攻められて
上原城からのがれ、ここ(桑原城)で敗れた。
頼重は甲府に送られた。

「 おのずから 枯れ果てにけり 草の葉の
 主あらばこそ またもむすばめ 」

の時世を残して割腹し、諏訪惣領家は一旦滅亡したという
悲史を伝えている。
  今、東光寺に、頼重と弟の大祝頼高(おおほうり)を祀る
小さな五輪塔二基が建っており、また志賀神戸の頼重院
(らいじょういん)には頼重を祀る供養塔がある。
(★桑原城案内板:昭和58年)
★頼重院にも行ったが、写真が消滅している。

*****************************  
諏訪領は宮川を境に武田晴信は東半分、高遠頼継は西半分を
  支配することになった。
9月 諏訪統治をめぐって武田晴信と高遠頼継が対立した。
  また、高遠頼継は諏訪氏惣領の座を狙っていた。

  花岡城小坂氏は高遠頼継の野心を嫌って、武田晴信に組した。
  諏訪家惣領職を望む高遠頼継が福与城の藤沢頼親(現箕輪町)
  や春近衆(伊那市)らを糾合して武田晴信に対して挙兵した。

●高遠頼継は藤沢頼親、春近衆と諏訪郡へ侵攻して、武田領上原城
 を落した。  
  
武田晴信は寅王を諏訪総領家をして宣言し、諏訪一族を結束
 させた。 
武田晴信は板垣信方を先陣とする救援の軍を送った。
 
9月25日 ▲安国寺の戦い 諏訪宮川端において・・・
   高遠頼継 VS 板垣信方
  板垣信方は高遠頼継を撃破した。
   高遠頼継諏訪から退去した。
   (★『高白斎記』)
宮川橋の戦い・・・
  弟:高遠頼宗が討ち死にした。
  (★『伊那箕輪町史』)

   武田晴信は諏訪領を掌握した。

9月26日 武田方の駒井高白斎が上伊那に侵攻した。
   駒井高白斎は藤沢口に放火し、福与城を包囲した。

   板垣信方は上伊那口に兵を発し、駒井高白斎とともに
   上伊那諸豪族への示威を繰り返した。

9月28日 藤沢頼親は武田方に降伏し、甲府へ出仕した。
(★『高白斎記』)

 武田晴信はほぼ諏訪を手に入れた。
藤沢頼親は一端は武田晴信に臣従した。
 
 武田晴信は諏訪の真志野城(真志氏)・有賀城(有賀氏)と
  岡谷の小坂城(小坂氏)・花岡城(花岡氏)・高尾山城(三沢氏)
  ・諏訪神社上社の社家:「権祝(ごんのほうり)」は
   矢島城(矢島)を拠点とした「諏訪西方衆」が結成させた。


・天文12年(1543)
4月 板垣信方を「諏訪郡代(上原城代)」に任じた。
5月  板垣信方は上原城を整備した。 
  ・上原城城将:板垣信方を諏訪郡代「諏方郡司」とした。
  ・桑原城に城将を置いた。  
     (★『高白斎記』・『守矢頼真書留』)


・天文13年(1544) 
  藤沢頼親は武田晴信から離反し、信濃守護で義兄(妻の兄)
  :小笠原長時と結んで抵抗した。
10月 藤沢頼親は箕輪の北方の平出(現辰野町)の荒神山に
    砦を構え、伊那衆とともに武田勢を迎え撃った。
    武田信繁は有賀峠を越えて伊那郡に入った。
    伊那の辰野の荒神山城に侵攻した。
 武田信繁は荒神山を攻め破った。

10月29日 武田信繁は再び福与城は攻めた。
       藤沢頼親を脅かした。

11月 武田晴信は甲斐府中を出陣し、下諏訪に陣していたが、
   藤沢頼親に決定的な打撃を与えないまま甲府に帰った。  

・天文14年(1545)
4月11日 武田晴信は杖突峠から高遠に入った。
4月17日 高遠頼継は戦わず、高遠城から逃亡した。
   (★『伊那箕輪町史』)
   高遠城も落城し、高遠頼継は武田晴信に降伏した。
   高遠頼継は甲府へ出仕した。
      (『高白斎記』)

4月20日 正午には箕輪に侵攻した。
    藤沢頼親の福与城(箕輪城と呼ぶ説)
    を攻めた。
※藤沢頼親の箕輪城説もある。
★従って、『箕輪町史』も福与城か箕輪城か不明である。
 
 「伊那衆の内、箕輪と申す所6千貫、箕輪殿領知なり。福与の城に
 在城の処に、諏訪頼重、晴信の先手を仕り、3月上旬に福与の城へ
 とり懸くる。60日計り取り巻き責め申し候
 福与の城に籠り候武士、箕輪頼親侍衆、松島・大出・長岡・
 小河内・福島・木下、此衆箕輪殿家中にて大身の武士なり。
 其外、野口野や澤々に者百余騎、雑兵千五百籠り居る。右の衆、
 城際にて日夜、取り合い申し候。その時、箕輪殿内に、藤沢織部
 ・大泉上総とて強弓の射手有り。福与の城大手にて、此者共矢先
 に中り、晴信の者、多く死す。弐人の武士、後箕輪殿供仕り、
 中東の城に籠り申し候」

 藤沢氏に同心した伊那の春近衆など諸豪族が籠城していた。
●「福与城に籠もりし、武士箕輪頼親侍衆、松島・大出・長岡・
 小河内・福島・木下、此衆箕輪殿家中にて大身の武士なり。」
(★『仁木寿斎記』:箕輪町史)
★箕輪頼親=藤沢頼親

「伊那衆、残らず悉く後詰め仕りる。箕輪、福与の近辺三田丁と
 申す所に陣を取り、天竜川を隔て、足軽軍御座候。長時公も後詰
 めに上伊那の内、龍が崎と申す所を御本陣成さる。先手は北大手
 に陣を取り申し候。」

「下伊那の内、小笠原信貞より多科惣蔵を使者として、龍が崎へ
 参り候趣は、御馬を福与の城根古屋へ寄せられ、是非一軍仕るべ
 く由申し来る。伊那衆に対して御憤り思し召すことあるによりて、
 御馬を寄せられざること、御一代の御分別違いなり。それに就き
 て伊那衆、引き取り申し付け、箕輪殿城無事になりる。権次郎と
 申す弟を晴信へ人質に出し、箕輪殿牢人なり」
(★『仁木寿斎記』:箕輪町史&余湖さんHp)

●木下惣蔵(多科惣蔵)が府中小笠原長時に応援依頼の手紙
  を届けた。 
※多科惣蔵=木下惣蔵は木下城=箕輪城主であろう。
(★『箕輪町史』 )

 守備は固く、武田方の攻撃も手をこまねいていた。
   武田の部将の鎌田長門守が討死した。

 府中小笠原長時(藤沢頼親の妻の兄)が辰野竜ケ崎城に
   松尾小笠原信定(小笠原長時の弟)が伊那に入った。
膠着状態が続いた。

6月1日 武田軍の板垣信方は竜ケ崎城を攻略した。

6月10日 藤沢頼親は援護がなくなり、
武田一門衆の穴山信友、小山田信有、勝沼信友らの勧告を
  受けいれ、和議に応じた。

6月11日 藤沢頼親は弟:藤沢権次郎を人質に出して、
      降伏した。
藤沢頼親は起請文を提出し、穴山信友の傘下になった。

 @藤沢頼親が開城したと同時に武田晴信は箕輪城へ火を放っ
 たという説もある。
 箕輪城を焼かれた頼親は、実質上、敗北を喫して武田晴信
 に降った。
@福与城主:藤沢頼親を追放した説もある。
 A藤沢頼親は武田との関係は穴山氏を通じており、
    穴山信友を通じて武田晴信に降伏した。
(★『箕輪町史』)
上ノ平城が焼かれたのもこの時じゃないかと思われる。

・現在、上の平城跡は長野県指定史跡となっている。


 
  松島貞実が高遠城内で木曽義康家臣:千村内匠に謀殺された。
高遠城は木曽義康の勢力下にあり、千村内匠が城代であった。
@小笠原信貞の言として、
 「信貞被仰候は大手廃陣候へば、対陣に不及とて、伊那へ御引
 被成候」
 と保科弾正と松島貞実が武田晴信に通じている。
 (★『仁木寿斎記』:箕輪町史)
  
 A「松島対馬守貞実こそ、武田が語らいに応じて逆心の工首を刎ねて
  諸士の見懲しと成るべしと千村の下知せらる。・・・
  ・・・後略・・・・ 」
(★『高遠記集成』:箕輪町史)

  府中:小笠原長時:松岡城:小笠原信定も箕輪城の開城により
  一戦も交えず兵を引き揚げた。

●木下氏が下伊那に移った後、福与城主藤沢頼親の養子:箕輪重時
 が在城した。

6月?日 高遠城は武田晴信により改修され、信濃支配における
   拠点となる。
縄張りは山本勘助と馬場信房と云われている。


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箕輪初心■長野:第21回海野宿ふれあい祭&グルメ
http://53922401.at.webry.info/201111/article_24.html

箕輪初心:生方★【真田丸2】:実田の出自→真田幸綱(幸隆)の生涯
http://53922401.at.webry.info/201510/article_8.html

箕輪初心●「滋野一族→海野一族の歴史」
http://53922401.at.webry.info/201111/article_25.html

箕輪初心●真田3代@「実田→真田幸隆の出自」
http://53922401.at.webry.info/201111/article_26.html


〜〜〜真田氏と甲斐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲20150412武田躑躅ヶ崎(現武田神社)前編
http://53922401.at.webry.info/201504/article_13.html

箕輪初心:生方▲山梨【武田氏館=躑躅ヶ崎館】後編
http://53922401.at.webry.info/201504/article_23.html

箕輪初心:生方▲【武田の騎馬行列】&箕輪城161
「箕輪城関係の武将」
http://53922401.at.webry.info/201504/article_14.html
★真田幸隆は箕輪城代になったこともある。

箕輪初心:生方▲甲府【武田の騎馬行列写真集】&
「小竹のほうとう」
http://53922401.at.webry.info/201504/article_15.html

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【1】武田信玄&真田幸綱(幸隆)の侵攻に沿った時代順の城や戦い


箕輪初心:生方▲真田○45:【諏訪の上原城】&板垣信方と真田幸綱
http://53922401.at.webry.info/201602/article_21.html

箕輪初心:生方▲真田●46【長窪城】と真田幸綱(幸隆)
http://53922401.at.webry.info/201602/article_22.html

箕輪初心:生方▲真田丸47【芦田城】芦田氏と真田氏
http://53922401.at.webry.info/201602/article_23.html

箕輪初心:生方▲真田丸49【望月城】望月氏&真田氏
http://53922401.at.webry.info/201602/article_25.html

箕輪初心:生方▲真田丸51【海ノ口城】武田信玄初陣
&184「箕輪城」武田勝頼&真田幸繁の初陣
http://53922401.at.webry.info/201602/article_27.html

箕輪初心:生方▲真田●52『伴野氏館=野沢城』&伴野氏の歴史前編
http://53922401.at.webry.info/201602/article_28.html

箕輪初心:生方▲真田●53『前山城』&伴野氏の歴史後編
http://53922401.at.webry.info/201602/article_29.html

箕輪初心:生方▲真田●54【佐久稲荷山城:勝間城】
http://53922401.at.webry.info/201602/article_30.html

箕輪初心生方▲真田丸56【佐久田口城】&相木氏&伴野貞長の最後
http://53922401.at.webry.info/201602/article_31.html

箕輪初心生方▲真田丸56【佐久田口城】&相木氏&伴野貞長の最後
http://53922401.at.webry.info/201602/article_31.html

箕輪初心:生方▲源頼朝44【平賀義信】&『佐久平賀城』
http://53922401.at.webry.info/201603/article_1.html

箕輪初心:生方▲真田●58【大井城】&「大井一族の歴史」
http://53922401.at.webry.info/201603/article_3.html

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箕輪初心:生方▲武田信玄家臣:柳沢弥右衛門→所左衛門
→弥左衛門&『伊那原新田用水』
http://53922401.at.webry.info/201605/article_16.html

箕輪初心●【南牧村の城20城一覧】&▲黒滝山登山
http://53922401.at.webry.info/201204/article_21.html
余地峠の里:郷土研究会(会長:須賀健治)+郷土博物館
城砦11+烽火台9=20城である。

箕輪初心生方▲武田晴信の南牧侵攻&武田家臣編:市川五郎兵衛@
http://53922401.at.webry.info/201605/article_14.html

箕輪初心生方▲佐久『五郎兵衛用水』:市川五郎兵衛真親と柳沢所左衛門
http://53922401.at.webry.info/201605/article_15.html

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箕輪初心:生方▲真田●59【志賀城】:笠原清繁&高田憲頼
/大虐殺&人身売買
http://53922401.at.webry.info/201603/article_4.html

箕輪初心:生方▲真田●44【佐久内山城】真田幸隆&大井貞清
http://53922401.at.webry.info/201602/article_20.html

箕輪初心:生方▲真田●60【佐久平根白岩城:平尾氏館】&真田の本
http://53922401.at.webry.info/201603/article_5.html

箕輪初心:生方▲真田●61【佐久平尾城】&スキー11「佐久PARADA」
http://53922401.at.webry.info/201603/article_6.html

箕輪初心:生方▲真田●62【小田井城】:約20haの巨大な城
http://53922401.at.webry.info/201603/article_7.html

箕輪初心:生方▲真田●64「真田幸綱(幸隆)の武田晴信への臣従諸説」
http://53922401.at.webry.info/201603/article_9.html

箕輪初心:生方▲真田●65【小諸城】:ちょっと文学探訪&歴史
http://53922401.at.webry.info/201603/article_10.html

箕輪初心:生方▲真田●66【布引観音&布引城】:望月源三郎と真田幸綱
http://53922401.at.webry.info/201603/article_11.html

箕輪初心:生方▲真田丸67【禰津下の城】:禰津一族&真田一族
http://53922401.at.webry.info/201603/article_12.html

箕輪初心:生方▲真田●68【上田原の戦い】&4つ小説
http://53922401.at.webry.info/201603/article_13.html

箕輪初心生方▲真田●69【林城】:小笠原長時の生涯詳細版
http://53922401.at.webry.info/201603/article_14.html

箕輪初心:初心▲岡谷【花岡城】&武田晴信の諏訪西方衆の反乱
http://53922401.at.webry.info/201603/article_16.html

箕輪初心生方▲真田丸71【諏訪上社前宮〜上社本宮&
「信長と光秀&真田信繁?因縁の法華寺」
http://53922401.at.webry.info/201603/article_17.html

箕輪初心:生方▲諏訪:有賀城:鎌倉街道を守る城
http://53922401.at.webry.info/201603/article_18.html

箕輪初心:生方▲真田丸72【高島城】日根野高吉→諏訪頼水
&真田昌幸&松平忠輝&吉良義周
http://53922401.at.webry.info/201603/article_19.html

箕輪初心:生方▲『諏訪大熊城』:千野氏の城
http://53922401.at.webry.info/201603/article_20.html

箕輪初心:生方▲【諏訪:桑原城】:諏訪頼重*滅亡の舞台】
http://53922401.at.webry.info/201603/article_21.html

箕輪初心:生方▲茅野の城7分の4【上原城&千沢城&粟沢城&鬼場城】
http://53922401.at.webry.info/201603/article_23.html

箕輪初心:生方▲武田信玄痛恨の「砥石崩れ」
http://53922401.at.webry.info/201603/article_24.html


***真田の城********************
箕輪初心:生方▲真田丸41【米山城・戸石城・本城・枡形城】
真田幸隆乗取&真田兄弟対決
http://53922401.at.webry.info/201602/article_15.html

箕輪初心:生方▲真田丸42真田の里【真田氏館&真田本城
&支城群一覧】
http://53922401.at.webry.info/201602/article_18.html

箕輪初心:生方▲真田丸3【真田本城】新名所:堺&長沢の腰掛け椅子
http://53922401.at.webry.info/201601/article_5.html

箕輪初心:生方▲真田丸4【真田氏館&真田氏歴史館】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_6.html

箕輪初心:生方▲真田丸35【松尾古城】角間館の詰め城
http://53922401.at.webry.info/201602/article_8.html

箕輪初心:生方▲真田丸37【真田天白城】真田昌幸長男
:真田信綱の築城?
http://53922401.at.webry.info/201602/article_10.html

箕輪初心:生方▲真田丸38【矢沢城】&真田昌幸の叔父:矢沢頼綱の生涯
http://53922401.at.webry.info/201602/article_11.html

箕輪初心:生方▲真田●75【真田横尾城=尾引城】
:横尾氏→真田信綱の居城?
http://53922401.at.webry.info/201603/article_26.html

箕輪初心:生方▲真田丸39【真田:洗馬(せば)城】:横尾氏の詰め城
→真田氏の城
http://53922401.at.webry.info/201602/article_12.html

箕輪初心:生方▲真田丸40【真田根小屋城】:真田氏の支城
http://53922401.at.webry.info/201602/article_14.html

箕輪初心:生方▲真田丸5【真田長谷寺】真田幸綱・正妻:河原隆正妹
・真田昌幸の墓
http://53922401.at.webry.info/201601/article_7.html


***南信濃*********************
・天文14年(1545)
4月 高遠城主:高遠頼継を滅ぼした。
8月 福与城主:藤沢頼親を追放した。
箕輪初心:生方▲【高遠城】:天文14年(1545)武田晴信の
高遠城侵攻と高遠頼継
http://53922401.at.webry.info/201605/article_21.html

箕輪初心:生方▲保科正俊→保科正直→保科正光→保科正之
【高遠の建福寺の墓】
http://53922401.at.webry.info/201605/article_22.html

箕輪初心:生方▲伊那市高遠町6回の思い出
http://53922401.at.webry.info/201605/article_23.html

箕輪初心:生方▲【伊那蟻塚城】天文21年(1552)高遠城西を守る城?
http://53922401.at.webry.info/201605/article_24.html

箕輪初心:生方▲伊那:手良【内城&堀之内城付近】
http://53922401.at.webry.info/201605/article_25.html

箕輪初心:生方▲福与城(上伊那箕輪町):藤沢頼親&武田信玄&保科正直
http://53922401.at.webry.info/201605/article_26.html

箕輪初心:生方▲伊那箕輪【松島城】藤沢頼親家臣:松島氏
http://53922401.at.webry.info/201605/article_28.html

箕輪初心:生方▲【箕輪城】藤沢頼親家臣の木下氏→箕輪氏の城
http://53922401.at.webry.info/201605/article_30.html










★明日は伊那市「春日城」かな?

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