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zoom RSS 箕輪初心:生方▲【箕輪城】藤沢頼親家臣の木下氏→箕輪氏の城

<<   作成日時 : 2016/05/27 08:33   >>

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長野県上伊那郡箕輪町にあった城である。箕輪町郷土資料館
で箕輪城を教わった。しかし、行ってみて分かるが、箕輪城
で戦った事実を想像すると、こんなちゃっちい城(小さな城)
に藤沢頼親がいたとは思えない位のちっこい城であった。戦
えない城&籠城の不可能の城あった。つまり、藤沢氏本城は
福与城であったと云わざるを得ない。
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***南信濃*********************
・天文14年(1545)
4月 高遠城主:高遠頼継を滅ぼした。
8月 福与城主:藤沢頼親を追放した。
箕輪初心:生方▲【高遠城】:天文14年(1545)武田晴信の
高遠城侵攻と高遠頼継
http://53922401.at.webry.info/201605/article_21.html

箕輪初心:生方▲保科正俊→保科正直→保科正光→保科正之
【高遠の建福寺の墓】
http://53922401.at.webry.info/201605/article_22.html

箕輪初心:生方▲伊那市高遠町6回の思い出
http://53922401.at.webry.info/201605/article_23.html

箕輪初心:生方▲【伊那蟻塚城】天文21年(1552)高遠城西を守る城?
http://53922401.at.webry.info/201605/article_24.html

箕輪初心:生方▲伊那:手良【内城&堀之内城付近】
http://53922401.at.webry.info/201605/article_25.html

箕輪初心:生方▲福与城(上伊那箕輪町):藤沢頼親&武田信玄&保科正直
http://53922401.at.webry.info/201605/article_26.html

箕輪初心:生方▲伊那箕輪【松島城】藤沢頼親家臣:松島氏
http://53922401.at.webry.info/201605/article_28.html


 
◆◆平成28年(2016)5月12日
◎伊那北ICで降りた。辰野町には何となく寄らず、、、
 というよりは、三州街道を以前に回ったのだ。
 写真は消滅したけれど、・・・・・・
 福与城に行こう。とはいうものの史料はない。

●箕輪町郷土歴史館
  @箕輪町史中世編48ページコピー 240円
  A「戦国図代のみのわ」箕輪郷土博物館編
B箕輪町パンフレットなどをいただき、・・・
★史料をたくさんいただき感謝申し上げます。
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C博物館入場・・・100円
D箕輪町4城を紹介していただいた。
★とにかく親切であった。長野の人って、素朴?
  群馬県人とは微妙に違う人なつこさがある。感謝です。
しかし、戦国時代はどうだったのであろうか?
と、思いつつ、松島城を観察した。

▲bW61松島城 上伊那郡箕輪町中箕輪字松島(箕輪町役場)


▲bW62箕輪城
上伊那郡箕輪町中箕輪字木下1382ー3
箕輪郷土歴史館で教えていただいた通り「木下」に向かった。
しかし、保育園は見つからない。
車を駐めて、城の場所を聞いた。
1本北側の道を来てしまったのがわかった。
保育園の駐車場に車を止めた。

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●堀切・・・結構でかい。
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 L字方に堀があった。しかし、北の道も堀であろうから、
 ワ型になっていることが分かった。
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●土塁の上・・・7〜8mの高さ
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●主郭・・・・・墓になっていた。
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●南の堀
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●副郭?・・・城の規模は明確ではない。

▼戻った。
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●車で下る。
3方に土塁と空堀で囲まれていていた。

●箕輪城の大手口
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●箕輪城は、養泰禅寺の裏山に築かれていた。
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●養泰禅寺をのぞっこんだ。
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★天竜川西岸の河岸段丘先端部を利用した伊那谷に数多く
見られる典型的な城の1つだった。
箕輪城も同じであった。 





▲bW63上ノ平城 上伊那郡箕輪町東箕輪
▲bW64福与城  上伊那郡箕輪町福与字南城
▲bW65手良堀之内 伊那市手良堀之内
▲bW66蟻塚城 伊那市美篶笠原(御射山神社)
▲高遠城6回目       伊那市高遠町東高遠



u 箕輪城の歴史◆


u 伊那箕輪城の歴史 ◆
・南北朝時代?
木曽氏の一族:箕輪氏によって築かれ、箕輪氏代々の居城であった。

・戦国時代

  天文年間(1532〜) 福与城の支城となった。
   木下惣蔵(多科惣蔵)が居城した。 

・天文10年(1542)6月、武田晴信が当主になると、諏訪へ
 侵攻した。
  まずは、諏訪頼重が武田信虎・村上義清と勝手に和睦した
 したことを盟約違反として打つことにした。
 というか、現北杜市の隣はすぐ、茅野や下諏訪・・・

・天文11年(1543)4月、高遠頼継は諏訪総領家の座を狙って武田晴信
 に味方し、諏訪頼重の本拠:上原城(諏訪市)へ侵攻した。
 
6月24日 武田晴信は諏訪頼重を攻撃するために甲府躑躅ヶ崎館
 を出立した。

  (★「武田信玄」:新田次郎著では700騎:3000の兵)

 武田晴信は甲府躑躅ヶ崎→「中の棒道」→若神子(現北杜市)
 →(長坂町)→大井ヶ森→小淵沢→葛窪(現長野県富士見町)

6月?日 諏訪頼重は武田晴信の侵攻の情報を信じなかった。
     偵察を出した。

6月28日 諏訪頼重は上原城に軍を召集した。
(★「武田信玄」:新田次郎著では350騎:800の兵
     ・・千野伊豆入道が用意した兵であった。)
(★ウィキペディア:諏訪軍の兵力は150騎、歩兵
   700〜800人。)

6月29日 諏訪郡に侵攻し、御射山(現富士見町)に布陣した。


7月1日  諏訪頼重が出撃した。
   矢崎原(茅野市)で武田軍と対峙した。

 『千野伊豆入道が兵を率いて、御射山に向かった。
  しかし、小笠原長時は塩尻峠で固まっていた。
  高遠頼継は「ご安心くだされ、応援に出陣し申す。」
  と頼重に書状を送った。・・・』
(★「武田信玄」:新田次郎著)


 武田軍と対峙した。

7月2日 高遠城主:高遠頼継が武田晴信に呼応に応じて杖突峠から
     諏訪に侵攻して安国寺附近に放火した。
(★「武田信玄」:新田次郎著では、兵2000)

諏訪頼重は高遠頼継が裏切ったのを初めて知った。
(★「武田信玄」:新田次郎著)
諏訪頼重は千野入道に高遠頼継を討つように命じた。
夜、千野入道は夜襲をかけた。しかし、戦死した。
武田晴信は「惜しい男をなくしたな。」・・・・。
(★「武田信玄」:新田次郎著)
その後、神長官:守矢頼真や有賀城:千野靱負尉
(ゆきえのじょう)は武田晴信の家臣になっている。

●千野出身の藤沢頼親や松島貞実も高遠継頼に味方した。
 

 諏訪頼重は挟み撃ちを恐れて上原城を焼き払った。
★武田晴信や高遠頼継に上原城を使われないように
 するためである。
   
 夜、諏訪頼重は桑原城に移った。
       そして、桑原城に立て籠もった。
   
  
7月3日 武田晴信は桑原城下に兵を進めた。
●高遠頼継も桑原城下に兵を進めた。
   3方から桑原城を包囲し攻撃した。
    
  しかし、追い詰められた諏訪軍は激しく抗戦した。
  折からの雨で、城攻めを中止した。
  武田晴信は包囲を解いて後退した。
★武田晴信の作戦であった。思った通り、
   諏訪兵の逃亡が始まった。・・・・・
「これで、兵が減れば、・・・桑原城は落ちる。」


 夕方、諏訪頼重は城の警備を検分をしに出かけた
     諏訪頼重を見た家臣が頼重が城を捨てたと思い込み
     逃げて始めた。
夜、諏訪頼重が陣に戻ってみると、大部分の兵は逃亡していた。
    
     桑原城で諏訪頼重と一緒に夜を過ごしたのは僅か20名
     程だった。
 (★NHK大河ドラマ「風林火山」などでは・・・)
桑原城に残ったのは諏訪一門とわずかな城兵だけとなった

★7月3日の夜、諏訪頼重&武田晴信は何を想ったのだろうか?
 頼重「武田晴信の妹は我が妻・・・降伏して命乞いをしようか?」
晴信「明日になれば、兵も食料ないので、降伏するだろう。
    禰々もいるので、攻撃したくはない。・・・
   それに、無駄に配下を死なせたくはない。・・」

7月4日 武田晴信は和睦の申し入れをした。
 板垣信方は降伏を勧めに行った。
(★「武田信玄」:新田次郎著)


  諏訪頼重は武田晴信の妹婿である縁を利用して、晴信に和睦を
  申し入れた。晴信はこれを受け入れた。
和睦の条件として諏訪頼重の生命は保障されていた。

(★ウィキペディアの説)
7月5日 桑原城を開城した。
諏訪頼重・弟:大祝頼高を甲府へ連行した。
しかし、2人は甲府の東光寺に幽閉された。
★騙されたと思ったが、後の祭りであった。
7月21日 武田晴信は約束を反故にして、諏訪頼重と実弟:
  大祝頼高を切腹させた。
 諏訪惣領家は事実上滅亡した。

◆案内板〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
天文11年(1542)7月4日、諏訪頼重は武田信玄に攻められて
上原城からのがれ、ここ(桑原城)で敗れた。
頼重は甲府に送られた。

「 おのずから 枯れ果てにけり 草の葉の
 主あらばこそ またもむすばめ 」

の時世を残して割腹し、諏訪惣領家は一旦滅亡したという
悲史を伝えている。
  今、東光寺に、頼重と弟の大祝頼高(おおほうり)を祀る
小さな五輪塔二基が建っており、また志賀神戸の頼重院
(らいじょういん)には頼重を祀る供養塔がある。
(★桑原城案内板:昭和58年)
★頼重院にも行ったが、写真が消滅している。

*****************************  
諏訪領は宮川を境に武田晴信は東半分、高遠頼継は西半分を
  支配することになった。
9月 諏訪統治をめぐって武田晴信と高遠頼継が対立した。
  また、高遠頼継は諏訪氏惣領の座を狙っていた。

  花岡城小坂氏は高遠頼継の野心を嫌って、武田晴信に組した。
  諏訪家惣領職を望む高遠頼継が福与城の藤沢頼親(現箕輪町)
  や春近衆(伊那市)らを糾合して武田晴信に対して挙兵した。

●高遠頼継は藤沢頼親、春近衆と諏訪郡へ侵攻して、武田領上原城
 を落した。  
  
武田晴信は寅王を諏訪総領家をして宣言し、諏訪一族を結束
 させた。 
武田晴信は板垣信方を先陣とする救援の軍を送った。
 
9月25日 ▲安国寺の戦い 諏訪宮川端において・・・
   高遠頼継 VS 板垣信方
  板垣信方は高遠頼継を撃破した。
   高遠頼継諏訪から退去した。
   (★『高白斎記』)
宮川橋の戦い・・・
  弟:高遠頼宗が討ち死にした。
  (★『伊那箕輪町史』)

   武田晴信は諏訪領を掌握した。

9月26日 武田方の駒井高白斎が上伊那に侵攻した。
   駒井高白斎は藤沢口に放火し、福与城を包囲した。

   板垣信方は上伊那口に兵を発し、駒井高白斎とともに
   上伊那諸豪族への示威を繰り返した。

9月28日 藤沢頼親は武田方に降伏し、甲府へ出仕した。
(★『高白斎記』)

 武田晴信はほぼ諏訪を手に入れた。
藤沢頼親は一端は武田晴信に臣従した。
 
 武田晴信は諏訪の真志野城(真志氏)・有賀城(有賀氏)と
  岡谷の小坂城(小坂氏)・花岡城(花岡氏)・高尾山城(三沢氏)
  ・諏訪神社上社の社家:「権祝(ごんのほうり)」は
   矢島城(矢島)を拠点とした「諏訪西方衆」が結成させた。


・天文12年(1543)
4月 板垣信方を「諏訪郡代(上原城代)」に任じた。
5月  板垣信方は上原城を整備した。 
  ・上原城城将:板垣信方を諏訪郡代「諏方郡司」とした。
  ・桑原城に城将を置いた。  
     (★『高白斎記』・『守矢頼真書留』)


・天文13年(1544) 
  藤沢頼親は武田晴信から離反し、信濃守護で義兄(妻の兄)
  :小笠原長時と結んで抵抗した。
10月 藤沢頼親は箕輪の北方の平出(現辰野町)の荒神山に
    砦を構え、伊那衆とともに武田勢を迎え撃った。
    武田信繁は有賀峠を越えて伊那郡に入った。
    伊那の辰野の荒神山城に侵攻した。
 武田信繁は荒神山を攻め破った。

10月29日 武田信繁は再び福与城は攻めた。
       藤沢頼親を脅かした。

11月 武田晴信は甲斐府中を出陣し、下諏訪に陣していたが、
   藤沢頼親に決定的な打撃を与えないまま甲府に帰った。  

・天文14年(1545)
4月11日 武田晴信は杖突峠から高遠に入った。
4月17日 高遠頼継は戦わず、高遠城から逃亡した。
   (★『伊那箕輪町史』)
   高遠城も落城し、高遠頼継は武田晴信に降伏した。
   高遠頼継は甲府へ出仕した。
      (『高白斎記』)

4月20日 正午には箕輪に侵攻した。
    藤沢頼親の福与城(箕輪城と呼ぶ説)
    を攻めた。
※藤沢頼親の箕輪城説もある。
★従って、『箕輪町史』も福与城か箕輪城か不明である。
画像
 
 「伊那衆の内、箕輪と申す所6千貫、箕輪殿領知なり。福与の城に
 在城の処に、諏訪頼重、晴信の先手を仕り、3月上旬に福与の城へ
 とり懸くる。60日計り取り巻き責め申し候
 福与の城に籠り候武士、箕輪頼親侍衆、松島・大出・長岡・
 小河内・福島・木下、此衆箕輪殿家中にて大身の武士なり。
 其外、野口野や澤々に者百余騎、雑兵千五百籠り居る。右の衆、
 城際にて日夜、取り合い申し候。その時、箕輪殿内に、藤沢織部
 ・大泉上総とて強弓の射手有り。福与の城大手にて、此者共矢先
 に中り、晴信の者、多く死す。弐人の武士、後箕輪殿供仕り、
 中東の城に籠り申し候」

 藤沢氏に同心した伊那の春近衆など諸豪族が籠城していた。
●「福与城に籠もりし、武士箕輪頼親侍衆、松島・大出・長岡・
 小河内・福島・木下、此衆箕輪殿家中にて大身の武士なり。」
(★『仁木寿斎記』:箕輪町史)
★箕輪頼親=藤沢頼親

「伊那衆、残らず悉く後詰め仕りる。箕輪、福与の近辺三田丁と
 申す所に陣を取り、天竜川を隔て、足軽軍御座候。長時公も後詰
 めに上伊那の内、龍が崎と申す所を御本陣成さる。先手は北大手
 に陣を取り申し候。」

「下伊那の内、小笠原信貞より多科惣蔵を使者として、龍が崎へ
 参り候趣は、御馬を福与の城根古屋へ寄せられ、是非一軍仕るべ
 く由申し来る。伊那衆に対して御憤り思し召すことあるによりて、
 御馬を寄せられざること、御一代の御分別違いなり。それに就き
 て伊那衆、引き取り申し付け、箕輪殿城無事になりる。権次郎と
 申す弟を晴信へ人質に出し、箕輪殿牢人なり」
(★『仁木寿斎記』:箕輪町史&余湖さんHp)

●木下惣蔵(多科惣蔵)が府中小笠原長時に応援依頼の手紙
  を届けた。 
※多科惣蔵=木下惣蔵は木下城=箕輪城主であろう。
(★『箕輪町史』 )

 守備は固く、武田方の攻撃も手をこまねいていた。
   武田の部将の鎌田長門守が討死した。

 府中小笠原長時(藤沢頼親の妻の兄)が辰野竜ケ崎城に
   松尾小笠原信定(小笠原長時の弟)が伊那に入った。
膠着状態が続いた。

6月1日 武田軍の板垣信方は竜ケ崎城を攻略した。

6月10日 藤沢頼親は援護がなくなり、
武田一門衆の穴山信友、小山田信有、勝沼信友らの勧告を
  受けいれ、和議に応じた。

6月11日 藤沢頼親は弟:藤沢権次郎を人質に出して、
      降伏した。
藤沢頼親は起請文を提出し、穴山信友の傘下になった。

 @藤沢頼親が開城したと同時に武田晴信は箕輪城へ火を放っ
 たという説もある。
 箕輪城を焼かれた頼親は、実質上、敗北を喫して武田晴信
 に降った。
@福与城主:藤沢頼親を追放した説もある。
 A藤沢頼親は武田との関係は穴山氏を通じており、
    穴山信友を通じて武田晴信に降伏した。
(★『箕輪町史』)



●松島貞実が高遠城内で木曽義康家臣:千村内匠に謀殺された。
高遠城は木曽義康の勢力下にあり、千村内匠が城代であった。
@小笠原信貞の言として、
 「信貞被仰候は大手廃陣候へば、対陣に不及とて、伊那へ御引
 被成候」
 と保科弾正と松島貞実が武田晴信に通じている。
 (★『仁木寿斎記』:箕輪町史)
  
 A「松島対馬守貞実こそ、武田が語らいに応じて逆心の工首を刎ねて
  諸士の見懲しと成るべしと千村の下知せらる。・・・
  ・・・後略・・・・ 」
(★『高遠記集成』:箕輪町史)

  府中:小笠原長時:松岡城:小笠原信定も箕輪城の開城により
  一戦も交えず兵を引き揚げた。

●木下氏が下伊那に移った後、福与城主藤沢頼親の養子:箕輪重時
 が在城した。

6月?日 高遠城は武田晴信により改修され、信濃支配における
   拠点となる。
縄張りは山本勘助と馬場信房と云われている。

・天文16年(1547)
●松島満清(清満)は諏訪上社に役料減免を願い出たが、
断られた。
★福与城落城後のことで、収穫もままならなかったと
 考えられる。

・天文17年(1548)
2月14日 上田原の戦い

  武田晴信は小県郡の村上義清に敗退した。
 
4月3日 高遠頼継は甲府から高遠城へ帰城した。
   (★『高白斎記』)

●藤沢頼親は再び義兄:小笠原氏と結び、武田晴信から離反した。

4月?日 小笠原長時・村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡
     へ侵攻する
     (★「神使御頭之日記」:守矢頼真著)
★村上義清が諏訪下社を攻めたかどうか不明である。

6月10日 小笠原長時は再び塩尻峠を越えて諏訪大社下社に討ち
 入った。
 しかし、下社の配下・地下人たちに反撃された。

6月中旬 小笠原長時は諏訪西方衆らを迎合して諏訪侵攻
     を行った。
   (★「神使御頭之日記」:守矢頼真著)
 
7月?日  諏訪西方衆が謀反を起こした。
  (★『高白斎記』『勝山記』)

7月10日 小笠原長時は武田家に臣従していた岡谷の三沢氏・花岡氏、
 小坂氏・有賀氏・諏訪矢島氏の「諏訪西方衆」に内通した。
 「諏訪西方衆」は小笠原長時の傘下になった。
 諏訪西方衆は諏訪郡宮川以西の西方衆と呼ばれる諏訪神家の一族
 で矢島満清(諏訪上社本宮の三之鳥居)、花岡(諏訪湖の取水口の
 山上)小坂(花岡南東)らが、小笠原長時に通じ、 反旗を翻した。
南の有賀城などの攻撃態勢に入った。

 そのため、武田方の神長官:守矢頼真や有賀城:千野靱負尉
 (ゆきえのじょう)らは 上原城へ 逃げ込んだ。
 (★神使御頭之日記:守矢頼真著)  

7月11日 小笠原長時は花岡・矢嶋・小坂の応援するため塩尻峠へ
 出陣した。小笠原長時は諏訪郡代・板垣信方を失ってしまって、動揺
 の激しい上諏訪に押し寄せた。
武田晴信に知らせが入った。 
  武田晴信は反乱の情報が甲府に届くとすぐに出馬した。
  @武田晴信は甲斐の大井森(現北杜市長坂町)に軍勢を集結させた。
  しかし、軍事指揮権の両輪を失った武田晴信は動こうとしなかった。
先の上田原の戦いの敗戦が尾を引いていた?
「風林火山」作戦だったのかもしれない?
  A小笠原長時軍は兵力的にも戦況でも優位にあったが、小笠原長時
   は武田晴信に対抗するための寄せ集め軍団で結束力が難しかった
  途中、小笠原長時の舅:仁科盛能が作戦方針をめぐって小笠原長時
  と対立して軍を率いて退去した。
  家老:山家氏や三村氏などの武将らは武田晴信の調略で内応した。
三村駿河守長親の離反は小笠原長時の大敗の原因となった。

小笠原軍は内部分裂で塩尻峠まで撤退せざるを得なかった。

  武田晴信の行動は慎重で18日まで甲斐に留まっていた。
本来なら甲府〜諏訪までは2日間あれば行ける。
8日もかかっても来ないので、小笠原方が油断していた。
 

7月18日 武田晴信がようやく軍勢を動かした。  
  大井の森(現北杜市長坂町)より上原城に入った。
  深夜、上原城を密かにを発った。
武田晴信は奇襲を敢行した。

  
7月19日 塩尻峠の戦い=塩尻:勝弦峠〜桔梗ケ原の戦い
 未明、武田晴信は「風林火山」のごとく隠密裏に軍を移動させた。
 塩尻峠の嶺上にいる小笠原軍5000余を急襲した。
 小笠原軍勢は昨日まで甲斐にいた武田軍が、まさか来襲するとは
思ってもいなかった。
 小笠原軍は寝込みを襲われ、完全に意表を突かれた。  
 不意をつかれた小笠原勢は具足も満足につける間もなく、散々に
 打ち負かされた。
 しかし、小笠原長時は崩れかかる自軍を立て直して防戦につとめた。
 小笠原長時と埴原・桐原ら旗本衆は狭い峠道を強引に攻め登ろうと
 する武田軍を押し返した。
 当然、武田晴信に反旗を翻したかつての花岡・矢嶋・小坂ら「諏訪
 西方衆」も加わっていた。
 武田晴信は同母弟:武田信繁に別働隊を与えて勝弦峠越えで小笠
 原軍の背後に移動させた。そして、小笠原軍の背を急襲させた。
 また、武田晴信に内応の約束を交していた西牧・三村・山家らも
 小笠原勢の後方にいて、背後から襲いかかったのである。 
 はさみ撃ちにされた小笠原軍は総崩れとなった。
   (★小和田哲男)
結局、小笠原軍は将兵1000余人が戦死した。
 小笠原長時の家老:村井氏は村井館(=小屋城館)を拠点に府中の
 防衛拠点としていたが、塩尻峠の村井氏は討ち死にした。
小笠原長時は居城の林城に逃走した。
武田軍は府中:松本へ侵入し、林城付近を焼き払い引き上げた。

小笠原長時は敗戦の傷跡は深かった。武田晴信に恐怖心を抱いた。

 武田晴信は小笠原長時に大勝。武田氏は再び優位を回復した。
★武田晴信は上田原の大敗を塩尻峠の大勝で埋め合わせることに
 なり、本人自身、少し自信を回復した。

小笠原長時が大敗北し、小坂城・花岡城・高尾山城も廃城となった。
 
武田晴信の諏訪五十騎の1人:桑原城代:田中淡路玄儀が居城したと
も言われているが、不明である。
 
 

★上伊奈の上の平城・・・・・

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