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zoom RSS 箕輪初心:生方▲『笠懸野御水&岡登用水』A岩宿&薮塚の発見&「岡上」の本8冊

<<   作成日時 : 2016/05/26 10:03   >>

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私は館林藩にいた5代将軍:綱吉&柳
沢吉保の陰謀で岡上景能は切腹したかなとも思った。
高崎経済大学の西沢先生による
と「英雄視された美談・間違った歴史認識=俗説が史実と混合
され、教育委員会・教育現場で広まっている。」という。
とにかく、薮塚に行こう。岡登霊神社に行く
のは3回目であるが、世界不思議発見や相沢忠洋先生みたいな
岩宿の発見:新発見があるかもしれないと期待して出かけた。
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 (★鎌倉時代・・・笠懸野は源頼朝は
   三原の巻狩り→笠懸野の笠懸?→那須の巻狩り
  と続いた?のかもね。




◆1回目・・・平成28年(2016)4月26日
 @論文をくださった。
   平成23年度高崎経済大学特別研究助成金による研究。

A論文を簡略した資料をくださった。



◆2回目・・・平成28年(2016)5月17日
簡単レジュメで説明前編

@はじめに
西沢「笠懸の名産品を知っていますか?」
   「・・・」
西沢「スイカです。」
★その通りなのだ。

つまり、きっかけは
1)米・・・・・・水はけの悪い場所・・・
2)スイカ・・・・水はけの良すぎる場所
 
★きっかけが面白かった。
 笠懸のスイカ・・水はけの良すぎる大間々大地・・・
 
★「新田にはわき水が多いです。例えば、反町城・・・」
ということで、大間々扇状地の南:薮塚も水がもぐって
  しまう水はけのよい地形ということになる。


◆平成28年(2016)5月24日
簡単レジュメで説明後編


●▲■スイカ(西瓜)の歴史*****************
・BC7000 スイカの原産地はアフリカのサバンナ地帯である。
(★乾燥気味の荒れた土地に生息していた。)
トマト・ジャガイモ・ゴーヤの原産地はアンデス地方
・BC6000 エジプトでは農耕と牧畜が始まっていた。
      壁画や絵画に西瓜が描かれている。
・AD11~12 シルクロードで中国に伝わった。
 水分が多いので、「水瓜」。
   夏できるので「夏瓜」。
 西域から伝わったので、「西瓜」。

・AD12 『鳥獣戯画』鳥羽僧正(1053〜1140)作に西瓜らしい
    絵が描かれている。

・AD14 『空華集』 義堂(1359)作に「西瓜の詩」がある。

・AD 17 隠元和尚が黄檗宗・インゲン・西瓜を日本に伝えた。

●萬福寺・・・・黄檗宗大本山(1661年隠元禅師開山)
箕輪初心■京都E「京都宇治へ高速バスで:4人組」
http://53922401.at.webry.info/201012/article_3.html

★岡上景能の墓は黄檗宗:国瑞寺
ガイドさんの話
  初代の和尚様は萬福寺の和尚様になった。
  4代目の和尚様が記述を書いた。
  


・AD17 『農業全書』(1696)に西瓜の記述がある

・AD19 本草図譜(1828) 西瓜の記述がある。

・天保年間  絵馬には西瓜の切り売りの様子が描かれている。
       無地皮になっている。※縞々ストライプではない。

・天保年間  前橋藩は、西瓜を換金作物として西瓜を推奨した。
三斎市?六斎市?の朝市で売られていた記述がある。
 武士も買った。(★群馬町史)

・明治時代 西洋種がアメリカから輸入されて改良が進み、本格
  的な西瓜栽培が始まった。
黒皮、無地皮なので「鉄カブト」と呼ばれていた。

・大正時代
奈良中心の大和西瓜
  関東地方の都西瓜・・・緑の地に黒い縞模様の西瓜が
    栽培され始めた。いわゆるシマシマ西瓜が出てきた。
  2大品種郡が形成された。
 
・大正9年 薮塚で地方市場向けの大玉スイカの栽培が始まった。

・昭和初期〜薮塚で作付け統制が行われ、スイカの栽培は減少した。

・昭和26年 京都大学の木原均先生が種なし西瓜を開発した。
   生産面での欠点があり、いつのまにか消えていった。

・昭和28年頃〜 薮塚のスイカ栽培が再開された。
 
・昭和30年〜 薮塚ではユウガオ(かんぴょう)台木を用いた
   接ぎ木栽培が導入され、栽培面積が急増した。

・昭和35年頃〜 トンネル栽培が導入され、作期の早め、
  産地間競争に対抗した。品質の向上も図られた。

・昭和37年頃〜 薮塚で小玉スイカの栽培が始まった。
出荷時期は3月〜最盛期4月〜5月になるからである。
 
・昭和42年頃〜  「紅こだま」がハウス栽培された。
赤堀村では、国道50号線沿いに露天が並んだ。
「すいかの名産地」高田三九三訳詞・アメリカ民謡 が
小学校で歌われた。

・昭和47年頃〜 薮塚のスイカは京浜市場向けに出荷を開始し、
      全国的に知られるようになった。
 
・平成元年 群馬県のブランド産地に指定された。

・現在   約180戸の生産者が110ha程栽培している。
  藪塚本町は、高品質な小玉スイカの産地として、全国的に知られ
  ている。  
スイカ生産量は旧赤堀から薮塚に群馬bPが移った。

高崎東農支部センターの広告・・・※と、いうように 全国にも
ファンが多い。
2玉入り(6キロ) 秀品で
「藪塚こだま西瓜」JAでは1980円
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「藪塚こだま西瓜」ぐるなび2980円〜
「藪塚こだま西瓜」楽天では3980円〜4680円

平成28年2月26日、JA太田市藪塚野菜センターで小玉スイカを
初出荷した。
品種名は、「ひとりじめ」と「まなむすめ」である。
平成28は、13万ケース(1ケース8s)の出荷を予定している
という。
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平成28年3月1日 薮塚スイカの東京青果市場キャンペーン

キャッチコピーは
「皮が薄く、甘みがギュッと凝縮されています。 甘さと水分がのど
から全身にしみわたる美味しさ・・・
 尚、「藪塚こだま西瓜」は7月中旬ごろまで味わえます!!」


・最近 生産量は1位熊本、2位千葉、3位新潟、4位山形、5位秋田、
 6位青森、7位北海道。
 
・現在 小玉西瓜の生産が4〜5月が旬で、茨城県、群馬県、埼玉県が
  中心である。時期を外すことを狙った栽培である。

★今年、私は西瓜を7本植えたが、既に2本が枯れた。





◆訪問日・・・平成28年(2016)5月24日
●高崎経済大学地域政策学部准教授:西沢淳男先生の講義
→検証の痔ドライブへ・・・北関東道・・・桐生薮塚ICで降りた。
太田焼きそばの「岩崎屋」にも行きたいし、
岡登用水に貢献したやぶつか温泉「伏島屋」の屋上『露天風呂』
にもはいりたいし、
生田さん・大島さんちも10分位だし、・・・


1)銅街道
太田薮塚ICから銅街道に入り〜大原仲〜銅街道を北上する。
※岡上景能は現在の太田市大原宿の元をつくった。
銅輸送の効率化を図るための大原宿であった。
そのため、笠懸野の原野を縦断する直線ルートとなった。
(大間々〜大原宿〜平塚河岸間)
 ★発見@・・・宿の古地図を見たら、西沢先生の説明以前に
 宿用水とすぐ思ったが、・・・・
西沢先生「笠懸野御用水は宿用水として開削された。」
新田開発することも目的とされるというのが地図史料からは読み取れ
ない。現場にくれば、町並があるが、周りに田んぼが少なく畑はかり
であった。時々はスイカのハウスが見られる。
足尾銅山の銅生産の向上と輸送の効率化を図るなら、輸送業を中心
 と畑作でも生きてゆけるかもしれない。
新田開発説では生産力が向上すれば人が集まり、宿も発展する。
 しかし、安中宿も安中城しかないところに宿ができた。
 真田信之も荒廃した上田城の周りに逃げ出した農民を
 城修理賦役・年貢無料の対策で帰農させた。
荒れた村の場合、他藩からの農民割り当てもあった。
 薮塚の大原宿は新規の宿であった。ここはどうだった
 のだろうか?


2)阿佐美信号手前で、現在の岡登用水を見た。
発見A・・・銅街道沿いでなくとも田んぼなんてない。
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3)昼食「蕎麦貴石」
 
限定15食分の蕎麦定食は前の方で終わった。
  「貴石」が200m近くの人にスマホで説明しても分からず、
探すのに10分以上余分にかかって13:50になってしまった
からだ。
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 ハムタマゴチーズガレット700円&蕎麦湯コーヒー300円
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 ★★★旨かった。
  蕎麦が食いたかった。  
発見B「蕎麦貴石というこんな面白い美味しい店があったのだ。
 「近くし、大きなスイカのハウスがあります。」
 「スイカを見るなら、JAへ・・・」
 と言われたが、時間がなかった。




4)全性寺&岡登霊神社&神明社・・・3回目
@全性寺
 A岡登霊神社
 B神明社
●▲■ 『岡登霊神社案内板由緒』(顕彰保存会)
岡登霊神社(りょうじんじゃ) 群馬県太田市大原町391
祭神:岡上景能公
『 代官:岡登次郎兵衛景能公は,武州高柳村(埼玉県児玉町)に
 生まれた。承応3年(1654)幕府代官に任用され、父景親に従い吾
 妻郡東村岡崎新田開発に榛名湖を源とする沼尾川より引水し多く
 の水田を拓いた。
 大間々扇状地帯にある笠懸野は古渡良瀬川の河床であったため、
いわゆる不毛の地であった。景能公は寛文9年(1669)笠懸野に赴任
し鹿之川に陣屋を設けて管内を綿密に調査測量の上農民のために開
発の許可を得た。そして足尾町を起点とする銅山街道沿いに地区割
を設け、久々宇 桃頭 本町 大久保 山之神 六千石 権右衛門 
溜池 と不毛の土地2052町歩を開発し,原八ヶ村を新設した。
更にこの地に水を引くべく大間々地内の渡良瀬川右岸(蕪町)より
岩盤を割り抜いて取水口を設置し三股分水により用水を西南に二
分するなど難工事を重ね,念願の笠懸野を潤す岡登用水を完成させ
たのである。開拓住民の安住は先づ敬神崇祖の精神をと五社三寺を
創建して民心の安定に心を尽くした。偉大な事跡を重ねられた公は
貞享4年(1687)12月3日冤罪を被り自刃された。齢50余才と伝
えられている。
・・・(後略)。
 平成5年12月3日 岡登景能公顕彰保存会 会長 椎名義朗
 神明社・・・岡登霊神社の奥・隣
・寛文4年(1665) 江戸幕府の代官:岡登次郎兵衛景能が、
7ヶ村の開墾に際して勧請した。
画像

 ★発見C・・・とっても広い範囲と図示されている。
画像

 ★発見D・・・ハヤブサ?だと思うが、(ワシタカ科)の
  ♂♀でラブコールしていた。
2匹もいるなんて、・・・鳴き方が全然違う。
♂の鋭い高い鳴き声「キーンキーン」に対して
♀のよどんだ低い鳴き声「グーウー」とが響く。
高いケヤキの木の上で、接近したり離れたり、・・
♂の積極性に折れるのか?・・・・・
10分以上観察してしまった。


4)銅街道を北上・・・陣屋
陣屋探しをしたが、見つからない。
  聞いても2人とも知らない
  
「鹿の川」という店に泊めた。

  両毛線の踏切前で写真をとった。
 車に乗りながら、・・・
画像

後で、岩宿博物館館長さんに聞いたら、ここだった。
帰りに写真を撮った。
  しかし、スマホから取り出せない。
 ※岩宿博物館パンフレットに想像図が
  載っている。

発見E・・・俺って城砦探しの名人だな。僕ちゃん、凄い。



5)岩宿博物館
 
●岩宿博物館第1駐車場
画像

 銅像と対面説明文を繰り返し読んで、・・・
『岡上次郎兵衛景能公業績略記』
(★銅像建立推進会議)
寛文八年足尾銅山奉行に赴任、併せて寛文十年頃この地方の代
官となり任地大間々扇状地帯の荒地を開発、渡良瀬川より用水を
引いた偉大なる郷土の恩人である。
 公は鹿ノ川に陣屋を設け、久宮村、桃頭村外郡内に計八ヶ村を
新設し、既存の村々にも増及、合計二〇五二町歩余を開発した。
一方、大間々地内渡良瀬川右岸の岩盤を切り取り取水口とし、川
底より高台の土地に送水する難工事を成し遂げ、二大事業を完成
させた。
 しかし、渡良瀬川下流の侍(まち)・矢場両堰が水利権の既得
を主張、僅少の水の外は「冬水のみ」と、厳しい「水取證文」を
渡された。公は冬水を貯めるべく岩ノ下溜井(現鹿ノ川沼)を築
いた。水は更に領民の生活用水として銅山街道沿いに流し、郡南
部(現綿内地区)に溜池を作り貯水した。しかし、この事業を理
由に湧水問題で讒訴にあい、江戸に召喚される途次、駕籠の中で
自刃したと伝えられる。時貞享四年十二月三日であった。
 公は土木技術を父代官景親と帰化僧独堪和尚(国瑞寺開山)に
学び、灌漑・治水工事に優れた手腕の代官であった。
・・・・・・(後略)。
 
●館長と話す。・・「1月城に企画展も良かった。」
 ★発見F・・・箕輪城の出土品の写真が非常に多く掲載されている。
本丸・二の丸・三の丸から。・・・
「あれ、楽茶碗がありません。」
館長「急いでいて、取り忘れました。」
俺って、めざとい。
        でも、館長さん、凄い。
       箕輪城の展示写真が一番多い
       冊子である。

  購入・・・・
  @企画展「群馬の戦国の城」600円
  A企画展「岡登用水」400円
  Bまんが「岡上景能」1000円
  Cパンフフレット無料

●見学
 @相沢忠洋記念館・・・・2回
 A岩宿博物館・・・・・・・・1回
 ★発見G・・・博物館には、発見時の黒曜石が展示されていた。
「相沢忠洋さんを偉人・学者と認めるか認めないかで
   論争があった。当初、岩宿博物館は複製品であった。 」
   今は仲良くなって、良かったね。


●洞窟・・・2回目

6)分水
画像

発見H・・・ここにも岡上景能の本物の遺構がない。


7)黄檗宗:国瑞寺
★発見I屋根に「葵のご紋」・・・この紋所が目に入らぬか?
墓に詣で・・・合掌。
 岡登次郎兵衛景能の墓
   (★群馬県教育委員会・みどり市教育委員会) 
『史跡岡登次郎兵衛景能公墓の解説板』
 景能公は埼玉県児玉郡高柳村に生まれ、父景親の後を受け、寛
文二年将軍家綱の時幕命により笠懸野に陣屋を築き代官として
移住した。生来剛直、淡泊で国のため、人のためになることなら
ば世論に関せずただ実行に命をかけても遂行する立派な開拓人
であった。
  当時笠懸野は原野で、水利が悪く耕作皆無の状態で荒れ果てた
土地であった。景能公は、この土地に水をかんがいするために渡
良瀬川より水を引き、寛文十二年十年以上の年月をついやして岡
登用水を完成させた。
 代官岡上景能の笠懸野開発をめぐって用水堀の長さは二十四qに
達し、笠懸町、藪塚本町、新田町、 赤堀町、東村の七町村にわ
たり、荒野に農耕が可能となり、現在の笠懸町に発展した。
  しかしこの大事業も、心なき人々の悪口、同僚官吏による嫉妬、
下流住民の余水のわき出し等苦言により、幕府に召喚され貞享四年
十二月三日切腹を申しつけられ、自害した。当時五十余歳といわれ
ている。
・・・・・・(後略)。
 ★スマホから写真が取り出せない。
●ガイドさんの説明
@岡上景能が黄檗宗国瑞寺を開基されました。
A初代は・・・
B3世:桃巌和尚は『岡登雪江伝』を書かれました。後、
 黄檗宗本山:萬福寺4世になられました。
  「岡上景能は不毛の地である笠懸野を村民数百人を動員して
  2万石の新田開発をしましたが、讒言や権力者の恨みにより
  切腹しました。と、書かれています。
  きっと息子も長男・次男・3男も切腹したのでしょうね。
  手代も20人、切腹したそうです。ところが一人だけ生き残った
  らしく、岡登姓になってしまいました。」



●箕輪初心:生方追加書籍『岡上景能』〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【1】「郷土歴史人物物語」萩原進著 昭和3年(1928)
画像

「?〜1687 幕府代官。大久保長安を頭とした18代官の
 1家:岡登家の一人。父:景親が江戸時代初期、上野国天領の
 代官の時、これに従い、父亡き後代官になり、旧白井領であった
 吾妻郡地方をはじめ各地に治積を残す。特に吾妻郡東村の岡崎
新田開発は有名。越後・下野にも治政が及んだ。延宝・寛文時代
新田郡鹿ノ川(現笠懸村)に陣屋を置き、渡良瀬川から岡上用水を
引き、新田平原を開拓し、新田村を造った。貞享4年に工事の?訴
にあい、江戸でとり調べられ、12月3日斬罪に処せられた。
・・・(後略)。


【2】「代官岡上景能」萩原進、丑木幸男共著 新人物往来社 1976
『 岡登用水は、江戸時代初期に当時の将軍徳川家綱の代に、この
 地方を支配していた岡上景能によって寛文4年(1664)に事業を着
 手し、同12年(1672)に開削された水路である。
 取水量については自由に取水できるのは毎年9月1日から3月
末日(非かんがい期)までで、4月1日から8月末日(かんがい期)
までは取入口に3尺の戸を立てて塞ぎ止め、それを越した水のみ
引き入れるように指示されていた。
又、これと平行して溜池の新設整備が行なわれたと伝えられてい
る。これは渡良瀬川から常時必要な水量を確保することが困難であ
ることから、調整池として溜池が考えられた。
旧随道完成した岡登用水は、開削後水田の用水にはほとんど使わ
れなかったようである。
このことは三栗谷堰他と明治26年(1893)
以後に取入口変更につき、争った時の「岡登事件始末」と言う史料に
岡登用水の沿革について、「開削は成功せしも故ありて180 有余
 年間空溝に委し安政3年(★1857)に至り」と記されており、整備が
 始まったとあることでわかっている。
このようになった理由としては、水田が砂礫地で水持ちが悪く用
水から引水しても地下へしみこんでしまい、田の収穫が悪く自然と
用水も利用しなくなったので、荒廃してしまったという説と、岡登
用水開削と同時に各地に溜池を設置したが、そこから水が浸み出し
て、近傍の農民が用水に反対し、彼らと渡良瀬川下流の農民とが岡
登用水の開削に反対して取入口に大石を投入したり、溜池を破壊し
たりして用水路を荒廃させたとも言う。
  改修された鹿の川沼調整池岡上景能は苦労して用水を造ったも
 のの維持管理ができず、同時に用水としての効用が発揮されず、又
 下流農民からは悪政と騒がれ訴えられたため、ついには幕府に召喚
 されることになり、その途中で自害して果てた、と言われている。
   永い間放置されていた岡登用水を安政年間になり、再興して利
 用したいと山田郡下新田村、天王宿村の2ケ村から幕府に願い出て
 許可された。
  完成した取入口が自然取水のため、洪水のたびにトンネル内に
 土砂が流入し堆積した。この土砂の搬出は非かんがい期の10月頃
 からおよそ20人程度の人夫で40〜50日間ぐらいの期間で行な
 われたが、短期間のため完全除却が困難であったため、トンネル断
 面がその都度縮小されていったと言われている。
  このようなな状態をくり返し取水して来たが、昭和48年高津戸
 ダムの建設に伴い取入口はダムの放水口に接続され現在に至った。



【3】「郷土に光をかかげた人々T巻」昭和60年(1985)
画像

 「笠懸の豊かな村々をつくった代官 岡上景能」
岡上景能の支配地は新田郡・勢多郡・甘楽郡など・・・
 
足利郡小俣・葉鹿など5ヶ村に水を引きました。
ほかにも2つ造りました。
 ・寛文9年(1669)足尾銅山の代官になりました。
 
銅を運び出すための道は大間々〜平塚まで曲がりくねって
いました。
代官:高室吉成と協力して

 大原(薮塚本町)の銅問屋を置きました。・・・
 途中の道を火事にそなえ、「く」の字にしました。
 飲み水も必要になりました。
 大原は砂地で深く掘らないと水が出ません。
 景能はあちこちに井戸を掘りました。
大原・山の神、大久保、六千石、権右衛門、溜池(新田町)
久宮、桃頭の8村です。
 新しく畑の増えた村は25ヶ村です。
 しかし、渡良瀬川の下流の人は水が減るのを恐れて、取水口を
 塞いでしまいました。
 ・・・(中略)・・・・・・

【4】群馬県を築いた人々(小川寧彦文責?) 昭和61年(1986)
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「銅は重いだろう。」
「はい、これが仕事ですかから・・・、」
「馬で運ぶ気はないか?」
・・・中略・・・・・・・・
「馬を買う金をかしてあげよう。払えるようになったら払えばよい。」

岡上景能が代官になってから銅の産出量が増えていった。

「ここに水を引き、新田をつくったら、たくさん米がとれる。」
・寛文4年(1664) 工事を開始した。
・寛文12年(1672) 工事が終了した。
29ヶ村の村がつくられ、20000石の新田が開発された。
・貞享3年(1686) 岡上景能が支配していた上総国の2村
  (萱野・砂田)に境界の争いがおきたとき、、責任をとら
  されて、翌年流罪の刑を受けた。 その後の調べで、
  
笠懸野を初めとした大事業に多額の借金があったことなどを
  理由に死罪となった。景能にねたみや憎しみを持つ人々が
景能の失脚を狙って、死に追いやったのである。
景能は切腹という厳しい処罰を受けた。。
   (道中の駕籠の中で切腹自殺したとも伝えられている。)

 
  

【5】岡登用水(岩宿文化資料館)平成15年(2003)
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『笠懸野御用水の古堀跡』

笠懸野は厚い砂礫層に覆われ・・・水田に適さない地形であった。
・・・(中略)・・・・・・
古文書には「笠懸野御用水」とある。
・寛文12年(1672) 工事が完了したが、幕府から厳しい取水制限が
 つけられた。・・・下流域に堰のある館林藩から既得水利権への配慮
 で、4月〜8月まで3尺の戸を立て、その戸を越えた余り水のみを
とり、・・・9月〜3月までは取水してよいというものだった。
景能は冬水の貯水池として麓の鹿の川沼をつくり、阿佐美沼の
拡張工事をした。
しかし、景能の死後、本町宿の人や馬の使う宿用水として機能
していたが、農業用水としては荒廃した。



【6】『歴史的農業用水』群馬県農政部農村整備課平成21年(2019)
画像


「岡登用水は笠懸野の荒野を潤すため、・・・岩盤を掘り割って
 導水口および隧道、・・・導水路340mの難工事をはじめ、
 三俣分水まで開削4100m、鹿ノ川まで1800m、市野井
 までの8000mの総延長14kmの水路および溜池を開削した。」

【8】郷土の開拓偉人:岡上景能 平成11年(2009) 
画像

(顕彰会・笠懸町教育委員会)
岡上次郎兵衛景能公は江戸時代初めに前期に笠懸地域を治めていた
 幕府の代官です。その頃の笠懸は、川がなく、荒れ地が広がってい
 ましたが、景能公7の発案で渡良瀬川から用水を引くことになりま
 した。その用水が現在の岡登用水です。

岡登用水の工事は、実際には水路工事より渡良瀬川から水を取り入
 れる許可を得る方が難しかったといわれています。それは、岡登用
 水の取水口より下流の侍・矢場の両堰が取水権を持っていたからで
 す。従って、最も需要の多い夏場には殆ど取水することができず、
 需要のない冬場に貯水しておかなければならない、ということにな
 りました。そこで、新田開発を予定している最も上流に溜池を設置
 することになり、岩ノ下溜井(鹿ノ川沼)が造られました。
  
また、景能公は1668年から足尾銅山奉行代の職を兼ねること
になります。そこで、笠懸野新田開発と同時に新しく銅山街道を
整備しました。この新しい銅山街道は、足尾銅山から渡良瀬川沿
いの大間々宿まで下り、そこから南に真っ直ぐに鹿の川沼の西を
通って、利根川の平塚河岸へと続くもので、新たに大原宿が設置
されました。岡登用水は、大原宿の宿用水としても利用されまし
た。
 景能公による新田開発によって、新たに久々宇村と桃頭村がで
きました。ところが、幕府の通水試験を受けて完成した岡登用水も
、用水下下流域の農民とのトラブルが原因で廃渠となってしまい
 ました。
 さらに、景能は公金使用の決算の不明瞭や、用水の溜池の漏水
問題で江戸に召喚されて死罪を申し渡され切腹して果てました。
 しかし、景能公失脚の理由は江戸幕府内での政争に巻き込まれた
ためという見方が有力です。おして、地元民の努力によって再び
用水が復興されるのは、約180年の後のことになります。


【8】みどり市ボランティアガイド
「江戸時代初期、笠懸は「笠懸野」と云われ、水利に恵まれず天水に依存
した寒村でした。明暦3年(1657年)に代官に就任した岡上景能公は、
渡良瀬川からの用水路開削(現在の岡登用水)と新田開発を計画し実行
しました。(寛文12年:1672年完成) 
さらに、1668年より足尾銅山奉行を兼務し、新田開発と共にあかがね
街道の整備にも力を注ぎました。
しかしながら、完成した用水は下流域の農民とのトラブルが原因で廃渠
となり、景能公はその他の要因もあり失脚し、切腹させられました。
180年後、岡登用水は地元民の努力で復興され、今も活用されています。」
 (★文を引用させていただきました。)


【9】みどり市議会議員 宮崎武氏のブログ
宮崎武の活動彼是を皆様にお伝えする 公式ブログbyみどり市紀行
http://blog.goo.ne.jp/tdddm281/e/a19cf465a35d9bc3fb526b7e77aa28c7






★明日は西沢准教授の史実編?

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箕輪初心:生方▲『笠懸野御水&岡登用水』A岩宿&薮塚の発見&「岡上」の本8冊 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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