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zoom RSS 箕輪初心:生方▲『笠懸野御水&岡登用水』@前編『俗説』

<<   作成日時 : 2016/05/25 20:09   >>

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地元の多くの方が「代官:岡登(上)景能が造った上野笠懸野の
用水路は現在でも岡登用水として稲作に利用されている。岡登
(上)景能が善政により住民から慕われていたが、余りの名声
に妬む者の讒言により自刃した。等、思っている。英雄視され
た美談=俗説が史実と混合され、教育委員会・教育現場で広ま
っている。
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【0】高崎経済大学:西沢淳男淳教授の大学院の「岡上」講義内容
西沢淳男准教授は、@「岡上景能らが開発した笠懸野御用水&現在
の岡登用水が混同されることがあるが全く別の用水である。笠懸野
御用水は大原宿の生活用水であった。岡登用水=岡上景能が開
削した用水ではない。」A新田開発は水田だけでなく、畑だけの
場合もある。(国語大辞典)笠懸野はスイカの産地(扇状地地形)
・水田とは相容れない。当時は畑作中心であった。」等、地域史を
正しく見る目を学生に指導している。B岡登景能は、岡上景能が正
しい。遠島の判決→景能死後(自刃)、末裔が岡登を名乗ったため、
岡上景能も岡登景能と書かれるようになったという話もある。
西沢淳男准教授は2次史料である『岡登雪江伝』・『岡登景能伝略』
を根拠に、群馬全体で間違った郷土史にメスを入れている。今回は
高崎経済大学:西沢淳男淳教授の一般に云われている「岡登(上)
景能を取り上げたい。

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 オレンジ・・・岡上景能の開削した笠懸野御用水
 青・・・・・・・・明治5年〜の岡登用水



〜〜〜高崎市の用水路シリーズ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心◆「群馬:高崎の稲作と用水路@」
http://53922401.at.webry.info/201103/article_34.html

箕輪初心◆群馬:高崎市の稲作と用水路A「長野氏の開発@」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201104/article_5.html

箕輪初心◆群馬:高崎の用水路B「長野氏の用水路編A」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_6.html

箕輪初心◆群馬:高崎の稲作と用水路C「江戸時代」
http://53922401.at.webry.info/201104/article_7.html

箕輪初心◆高崎の稲作と用水路D「明治〜平成」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201104/article_8.html


箕輪初心◆高崎の長野堰=西新波堰の歴史
http://53922401.at.webry.info/201310/article_12.html

箕輪初心◆長野堰B「染色のまち高崎に流れる長野堰
:高崎広報」
http://53922401.at.webry.info/201410/article_13.html

箕輪初心:生方★高崎城【井伊直政&高崎城&彦根城の
縄張り担当:早川幸豊】
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201504/article_9.html
★玉村に残った早川与六は和田信業の娘を貰った。
 和田内匠は彦根藩の家老になった。
市川五郎兵衛真親と柳沢所左衛門も秋元長朝と関わりが深い。

箕輪初心:生方★高崎城&長野堰【井伊直政&秋元長朝&新井喜左衛門】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_10.html


箕輪初心:生方▲【長野堰を語り継ぐ会の絵図展】&【高崎城の桜】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_5.html

箕輪初心:生方「箕輪城159&【中嶋宏氏主催の長野堰を語りつぐ会
の絵図展】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_4.html


箕輪初心★江原源左衛門&滝川用水20131010
http://53922401.at.webry.info/201310/article_11.html

箕輪初心★高崎藩8代・10代松平輝貞&「右京の泣き堀」
http://53922401.at.webry.info/201310/article_14.html

箕輪初心:生方▲松平輝貞の『榛名するす岩下:右京の泣き堀』
3回目・榛名湖畔
http://53922401.at.webry.info/201604/article_25.html

箕輪初心:生方▲20151110【総社秋元公歴史まつり】:秋元長朝の功績
&光厳寺&元景寺
★市川五郎兵衛が手伝っている

〜〜〜小幡雄川堰〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
★市川五郎兵衛がお手伝いをしている。
 
箕輪初心◆群馬『織田信雄の小幡城下の桜が満開』
http://53922401.at.webry.info/201304/article_9.html

◆◆ 箕輪初心●群馬:小幡2011「小幡城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_15.html

◆◆ 箕輪初心●群馬:小幡2012「武者行列」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201204/article_9.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

箕輪初心生方▲佐久『五郎兵衛用水』:市川五郎兵衛真親と柳沢所左衛門
http://53922401.at.webry.info/201605/article_15.html
★市川

箕輪初心:生方▲武田信玄家臣:柳沢弥右衛門→所左衛門→弥左衛門
&『伊那原新田用水』
http://53922401.at.webry.info/201605/article_16.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201605/article_16.html



 



●▲■ 現地での表記
【1】史料1 『岡登霊神社案内板由緒』(顕彰保存会)
岡登霊神社(りょうじんじゃ) 群馬県太田市大原町391
祭神:岡上景能公
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『 代官:岡登次郎兵衛景能公は,武州高柳村(埼玉県児玉町)に
 生まれた。承応3年(1654)幕府代官に任用され、父景親に従い吾
 妻郡東村岡崎新田開発に榛名湖を源とする沼尾川より引水し多く
 の水田を拓いた。
 大間々扇状地帯にある笠懸野は古渡良瀬川の河床であったため、
いわゆる不毛の地であった。
景能公は寛文9年(1669)笠懸野に赴任
し鹿之川に陣屋を設けて管内を綿密に調査測量の上農民のために開
発の許可を得た。そして足尾町を起点とする銅山街道沿いに地区割
を設け、久々宇 桃頭 本町 大久保 山之神 六千石 権右衛門 
溜池 と不毛の土地2052町歩を開発し,原八ヶ村を新設した。
更にこの地に水を引くべく大間々地内の渡良瀬川右岸(蕪町)より
岩盤を割り抜いて取水口を設置し三股分水により用水を西南に二
分するなど難工事を重ね、念願の笠懸野を潤す岡登用水を完成させ
たのである。開拓住民の安住は先づ敬神崇祖の精神をと五社三寺を
創建して民心の安定に心を尽くした。偉大な事跡を重ねられた公は
貞享4年(1687)12月3日冤罪を被り自刃された。齢50余才と伝
えられている。
遺骸は笠懸町国瑞寺に葬られ、その功績を認められ、大正4年
 (1915)従五位を贈られた。
 地区農民は公の恩に報いるため,宝暦2年(1572)京都吉田神道家
に神号下付の運動を行い「顕信霊神」の神号が下付され,ただちに
本町村明神宮境内に社祠を建立「岡登霊社」とした。
時代は還り用水路再建の願いは、明治5年(1873)許可され翌年完
成した。その後、昭和31年((1956)から岡登用水の笠懸町 阿左
美沼 東貯水池に於て開催されている競艇の事業収益は周辺市町
の財政を潤している。
景能公没後300年、今尚 公の恩恵に浴しているのである。
 
追記
 昭和49年12月3日 社殿改築と共に岡登景能公顕彰300年祭
を盛大に挙行、諸費用は総べて桐生競艇関係諸団体の醵金よって賄わ
れたのである。境内は「岡登児童公園」として保存会に委託、会員に
より定期的に清掃作業が行われている。元旦の「お焚きあげ」は年々
参拝者が増え、今では大行事となっている。
 平成5年12月3日 岡登景能公顕彰保存会 会長 椎名義朗

【●】神明社・・・岡登霊神社の奥・隣
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・寛文4年(1665) 江戸幕府の代官:岡登次郎兵衛景能が、
7ヶ村の開墾に際して勧請したもので、明治5年(1872)
郷社に列した。

【●】全性寺・・・岡登の?
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・宝暦2年(1752)岡登霊神社が造られた。(★全性寺文書)




【2】史料2 銅像 『岡上次郎兵衛景能公業績略記』
(★銅像建立推進会議)
岩宿博物館
1)銅像
昭和27年(1952)11月11日、国瑞寺に置かれた岡上の墓が
群馬県指定史跡にされた。
岩宿博物館前の道路の向い側、第1駐車場に岡上景能の
銅像が建てられていた。
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2)史料内容:解説
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寛文八年足尾銅山奉行に赴任、併せて寛文十年頃この地方の代
官となり任地大間々扇状地帯の荒地を開発、渡良瀬川より用水を
引いた偉大なる郷土の恩人である。
 公は鹿ノ川に陣屋を設け、久宮村、桃頭村外郡内に計八ヶ村を
新設し、既存の村々にも増及、合計二〇五二町歩余を開発した。
一方、大間々地内渡良瀬川右岸の岩盤を切り取り取水口とし、川
底より高台の土地に送水する難工事を成し遂げ、二大事業を完成
させた。
 しかし、渡良瀬川下流の侍(まち)・矢場両堰が水利権の既得
を主張、僅少の水の外は「冬水のみ」と、厳しい「水取證文」を
渡された。公は冬水を貯めるべく岩ノ下溜井(現鹿ノ川沼)を築
いた。水は更に領民の生活用水として銅山街道沿いに流し、郡南
部(現綿内地区)に溜池を作り貯水した。しかし、この事業を理
由に湧水問題で讒訴にあい、江戸に召喚される途次、駕籠の中で
自刃したと伝えられる。
時貞享四年十二月三日であった。
 公は土木技術を父代官景親と帰化僧独堪和尚(国瑞寺開山)に
学び、灌漑・治水工事に優れた手腕の代官であった。
 明治十七年九月二十九日、生前の功が認められ、名誉回復が計
られると共に、朝旨を得て金五拾円が明治政府より下賜された。
 大正四年十一月十日、従五位を贈られた。


【3】史料3 国瑞寺 岡登次郎兵衛景能の墓
   (★群馬県教育委員会・みどり市教育委員会) 
 みどり市笠懸町阿左美の鳳陽山国瑞寺。
『史跡岡登次郎兵衛景能公墓の解説板』
 景能公は埼玉県児玉郡高柳村に生まれ、父景親の後を受け、寛
文二年将軍家綱の時幕命により笠懸野に陣屋を築き代官として
移住した。生来剛直、淡泊で国のため、人のためになることなら
ば世論に関せずただ実行に命をかけても遂行する立派な開拓人
であった。
  当時笠懸野は原野で、水利が悪く耕作皆無の状態で荒れ果てた
土地であった。景能公は、この土地に水をかんがいするために渡
良瀬川より水を引き、寛文十二年十年以上の年月をついやして岡
登用水を完成させた。
 代官岡上景能の笠懸野開発をめぐって用水堀の長さは二十四qに
達し、笠懸町、藪塚本町、新田町、 赤堀町、東村の七町村にわ
たり、荒野に農耕が可能となり、現在の笠懸町に発展した。
  しかしこの大事業も、心なき人々の悪口、同僚官吏による嫉妬、
下流住民の余水のわき出し等苦言により、幕府に召喚され貞享四年
十二月三日切腹を申しつけられ、自害した。当時五十余歳といわれ
ている。
 その後、生前の功労により大正四年十一月十日追賞を受け、従五
位を贈られた。
★独堪和尚(国瑞寺開山)は黄檗宗の宇治の本山4世となった。

西沢准教授の指摘『史料1〜3の3ヶ所の案内板』
「おおよそ岡登景能が不毛の荒れ地 に渡良瀬川から引水し、岡登用
 水を完成させ、2045町歩(約2045ha)を開発したこと、
 冤罪により最後は自刃したこと」等が共通している。




【4】史料4   『紙芝居『岡登用水ものがたり』
(★群馬県土地改良事業団体連合会)

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 「前橋市から少し東に笠懸町というところがあります。この田ん
ぼにカエルの親子が住んでいました。

(母カエル)「ねぇ、お前達、私たちの住んでる、この田んぼの水
 がどこから来てるか知っているかい?」
(兄カエル)「知ってるよ、渡良瀬川から水を引いた岡登用水の水
       だよ」
  ・・・・(中略)・・・・・・
むかしむかし、今から300年以上も昔。
赤城山の南東には荒れ地が広がっていました。
  今では豊かな田んぼが広がっているこの場所は、昔は水が無い
ため、米や野菜をつくることができませんでした。
  ここに、岡上景能という農民思いの代官がいました。    
 ある時、この地を見回っていた景能は言いました。
「この土地は水が無いのでいつまでたっても荒れ地のままだ。
 こままではせいぜい馬を放し飼いにするくらいしかできない。
 水があれば、田んぼや畑ができて、ここに住む農民の暮らしも豊か
になるのだが・・・・」
   ・・・・(中略)・・・・・・
  さっそく、景能は荒れ地を開発するための図面を作り、大間々
 の渡良瀬川へ向かいました。
   ・・・・(中略)・・・・・・
 こうして、いよいよ水を引く工事が始まりました。
   ・・・・(中略)・・・・・
  「やった !!  トンネルが完成した!」
   「おぉいー!   水が来たぞ!」
   「ちゃんと水路を流れていく!」
   「ばんざーい!   これで米が作れるぞ!」

(母カエル)「こうして、工事は9年かがりで完成し、それまでの
   荒れ地は水が来て田んぼがつくられ、他の村でも次々と新し
   田んぼがつくられたのよ。おかげで今では、立派な田んぼや
   畑が広がっているの。」
(弟カエル)「じゃあ、今の僕たちがここに住めるのも、おいしい
  スイカが食べられるのも景能さま達のおかげなの?」
(母カエル)「そうよ。でも、これは岡上用水だけのお話じゃない
   の。水に不自由した昔の人は、苦労して沢山の所に用水路を作っ
   たの。
 ・・・・ (後略)・・・・・・・・・・・
 


●西沢准教授
「史料4は、紙芝居『岡登用水ものがたり』である。史料の性格上、
 絵の一部と主要なセリフ部分を引用したものである。」



【5】史料 5  『まんが岡上景能公』(★顕彰会)

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・「荒れはてた笠懸野にもいまでは200ヘクタール余の水田が
  広がっているよ。それは代官岡上次郎兵衛景能公が渡良瀬川か
  ら用水路を引いたり荒地を開拓したおかげだよ」
・「水を引けば土地も水田にかわる」
・「用水をつくるための幕府からたまわった大金」
・「いよいよ新田開発だ」「緑したたる水田になるのだ」   
・「溜池の底がもれた事件で訴えられ」
   「罪状溜池の漏水により他領の農民を苦しめた」
●西沢准教授 
「史料5は笠懸町時代に町長が発刊の辞を記、現在でも岩宿遺跡博物
 館で販売されている『まんが岡上景能公』である。これも史料の性
 格上、マンガの吹き出しの主要な部分を抜粋したものである。」
「この史料4・5は、代官岡上景能が不毛の笠懸野に用水を引くこと
 により、水田地帯に生まれ変わり、現在もこの地を豊かに潤してい
 ることが描かれている。この他に、駐車場に岡上景能銅像の建つ岩
 宿博物館で配布されてい パンフレット「郷土の開拓偉人、岡上景能」
 がある。」

【6】桐生市小学校郷土学習
●西沢准教授
「説明は史料1〜6の趣旨と同じであり、鹿の川陣屋想定復元図が掲載
 されているが、陣屋及び周辺が水田を連想させる緑で満ちている。」



【7】某小学校4年生社会科学習指導案
  「水田開発」 


【8】岡上(岡登)次郎兵衛景能人物解説
(★足利市立教育研究所)


【9】群馬県総合教育センター小中社会科メディアコンテンツ
●西沢准教授
「また、史料9「群馬県総合教育センターの G-TAK.NET_BB
(マルチメディア コンテンツ)」に群馬県教育委員会作成の
小学校三・四年生社会科コンテンツ「岡登用水」「岡登用水2」、
中学校社会科コンテンツ「岡登用水」がある。
何れも三〜四分程度の短いものである。映像及び内容はほぼ共通し
代官岡上景能の笠懸野開発をめぐってであり、映像の随所に水田が
強調され、寛文四年に工事が始まり、代官岡登景能が用水を引いた
ことにより荒野が水田に生まれ変わり、用水名として残ったこと、
事績を妬まれ幕府に訴えられ、江戸への召還途中に切腹したことが
描かれている
。」


【10】『太田かるた』の絵札・読み札 平成18年(2006)11月発行
@「用水の 歴史を伝える 岡登」
A 『江戸時代の代官とは、幕府の直轄地を支配する役人のことです。
 勘定奉行の支配下に置かれ、江戸あるいは赴任地の代官所で年貢
 の徴収、司法検察などの民政を担当しました。岡登用水は笠懸野
 の荒野を潤すため代官「岡上次郎兵衛景能」によって寛文12年
 (1672)に開削された水路です。大間々扇状地にあって不毛の地と
考えられた笠懸野に、渡良瀬川から用水を引き岡登用水を完成さ
せ、本町宿(現太田市大原町)など29か村、20000石余り
 の新田を開発しました。』






★明日は高崎経済大学:西沢淳男淳教授の指摘を見てみる。

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