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zoom RSS 箕輪初心:生方▲福与城(伊那箕輪町):藤沢頼親&武田信玄&保科正直

<<   作成日時 : 2016/05/25 06:26   >>

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福与城(箕輪城)は長野県箕輪町にあった城である。戦国時代、藤沢
頼親の居城であった。天文14年(1545)武田信玄により攻略され落城
した。天正10年(1582) 織田信長の甲州攻撃で武田氏が滅亡すると、
藤沢頼親は福与城を奪還した。8月下旬、高遠城を奪還した?保科
正直に11月に田中城を攻められ落城した。藤沢氏は滅亡した。
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【1】箕輪町郷土館
・福与城の縄張り図
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・福与城のジオラマ
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・福与城出土の兜
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・箕輪町史:戦国編コピー

・「戦国時代のみのわ」:箕輪町郷土資料館
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【2】箕輪町の4城散策の計画
 @野島城、A箕輪城、B上の平城、C福与城とした。

【3】福与城
・赤穂
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・大手口
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・権次郎(弟の名前)
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・宋仙屋敷
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・南郭
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・空堀
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・腰郭から主郭部へ
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・本郭T
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・主郭の東
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・主郭北東部
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・北郭
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・北郭&本郭U
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・西の郭?
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・主郭から大手方面
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▼戻った。


【4】 【藤沢頼親と武田信玄と保科正直

・天文10年(1542)6月、武田晴信が当主になると、諏訪へ侵攻した。
まずは、諏訪頼重が武田信虎・村上義清と勝手に和睦した
 したことを盟約違反として打つことにした。
 というか、現北杜市の隣はすぐ、茅野や下諏訪・・・

・天文11年(1543)4月、高遠頼継は諏訪総領家の座を狙って武田晴信
 に味方し、諏訪頼重の本拠:上原城(諏訪市)へ侵攻した。
 
  
6月24日 武田晴信は諏訪頼重を攻撃するために甲府躑躅ヶ崎館
 を出立した。

  (★「武田信玄」:新田次郎著では700騎:3000の兵)

 武田晴信は甲府躑躅ヶ崎→「中の棒道」→若神子(現北杜市)
 →(長坂町)→大井ヶ森→小淵沢→葛窪(現長野県富士見町)

6月?日 諏訪頼重は武田晴信の侵攻の情報を信じなかった。
     偵察を出した。

6月28日 諏訪頼重は上原城に軍を召集した。
(★「武田信玄」:新田次郎著では350騎:800の兵
     ・・千野伊豆入道が用意した兵であった。)
(★ウィキペディア:諏訪軍の兵力は150騎、歩兵
   700〜800人。)

6月29日 諏訪郡に侵攻し、御射山(現富士見町)に布陣した。


7月1日  諏訪頼重が出撃した。
   矢崎原(茅野市)で武田軍と対峙した。


 『千野伊豆入道が兵を率いて、御射山に向かった。
  しかし、小笠原長時は塩尻峠で固まっていた。
  高遠頼継は「ご安心くだされ、応援に出陣し申す。」
  と頼重に書状を送った。・・・』
(★「武田信玄」:新田次郎著)


 武田軍と対峙した。

7月2日 高遠城主:高遠頼継が武田晴信に呼応に応じて杖突峠から
     諏訪に侵攻して安国寺附近に放火した。
(★「武田信玄」:新田次郎著では、兵2000)

諏訪頼重は高遠頼継が裏切ったのを初めて知った。
(★「武田信玄」:新田次郎著)
諏訪頼重は千野入道に高遠頼継を討つように命じた。
夜、千野入道は夜襲をかけた。しかし、戦死した。
武田晴信は「惜しい男をなくしたな。」・・・・。
(★「武田信玄」:新田次郎著)
その後、神長官:守矢頼真や有賀城:千野靱負尉
   (ゆきえのじょう)は武田晴信の家臣になっている。

   諏訪頼重は挟み撃ちを恐れて上原城を焼き払った。
★武田晴信や高遠頼継に上原城を使われないように
 するためである。
   
   夜、諏訪頼重は桑原城に移った。
       そして、桑原城に立て籠もった。
   
  
7月3日 武田晴信は桑原城下に兵を進めた。
高遠頼継も桑原城下に兵を進めた。
   3方から桑原城を包囲し攻撃した。
    
  しかし、追い詰められた諏訪軍は激しく抗戦した。
  折からの雨で、城攻めを中止した。
  武田晴信は包囲を解いて後退した。
★武田晴信の作戦であった。思った通り、
   諏訪兵の逃亡が始まった。・・・・・
「これで、兵が減れば、・・・桑原城は落ちる。」


 夕方、諏訪頼重は城の警備を検分をしに出かけた
     諏訪頼重を見た家臣が頼重が城を捨てたと思い込み
     逃げて始めた。
夜、諏訪頼重が陣に戻ってみると、大部分の兵は逃亡していた。
    
     桑原城で諏訪頼重と一緒に夜を過ごしたのは僅か20名
     程だった。
 (★NHK大河ドラマ「風林火山」などでは・・・)
桑原城に残ったのは諏訪一門とわずかな城兵だけとなった

★7月3日の夜、諏訪頼重&武田晴信は何を想ったのだろうか?
 頼重「武田晴信の妹は我が妻・・・降伏して命乞いをしようか?」
晴信「明日になれば、兵も食料ないので、降伏するだろう。
    禰々もいるので、攻撃したくはない。・・・
   それに、無駄に配下を死なせたくはない。・・」

7月4日 武田晴信は和睦の申し入れをした。
 板垣信方は降伏を勧めに行った。
(★「武田信玄」:新田次郎著)


  諏訪頼重は武田晴信の妹婿である縁を利用して、晴信に和睦を
  申し入れた。晴信はこれを受け入れた。
和睦の条件として諏訪頼重の生命は保障されていた。

(★ウィキペディアの説)
7月5日 桑原城を開城した。
諏訪頼重・弟:大祝頼高を甲府へ連行した。
しかし、2人は甲府の東光寺に幽閉された。
★騙されたと思ったが、後の祭りであった。
7月21日 武田晴信は約束を反故にして、諏訪頼重と実弟:
  大祝頼高を切腹させた。
 諏訪惣領家は事実上滅亡した。

◆案内板〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
天文11年(1542)7月4日、諏訪頼重は武田信玄に攻められて
上原城からのがれ、ここ(桑原城)で敗れた。
頼重は甲府に送られた。

「 おのずから 枯れ果てにけり 草の葉の
 主あらばこそ またもむすばめ 」

の時世を残して割腹し、諏訪惣領家は一旦滅亡したという
悲史を伝えている。
  今、東光寺に、頼重と弟の大祝頼高(おおほうり)を祀る
小さな五輪塔二基が建っており、また志賀神戸の頼重院
(らいじょういん)には頼重を祀る供養塔がある。
(★桑原城案内板:昭和58年)
★頼重院にも行ったが、写真が消滅している。

*****************************  
諏訪領は宮川を境に武田晴信は東半分、高遠頼継は西半分を
  支配することになった。
9月 諏訪統治をめぐって武田晴信と高遠頼継が対立した。
  また、高遠頼継は諏訪氏惣領の座を狙っていた。

  花岡城小坂氏は高遠頼継の野心を嫌って、武田晴信に組した。
  諏訪家惣領職を望む高遠頼継が福与城の藤沢頼親(現箕輪町)
  や春近衆(伊那市)らを糾合して武田晴信に対して挙兵した。

●高遠頼継は藤沢頼親、春近衆と諏訪郡へ侵攻して、武田領上原城
 を落した。  
  
武田晴信は寅王を諏訪総領家をして宣言し、諏訪一族を結束
 させた。 
武田晴信は板垣信方を先陣とする救援の軍を送った。
 
9月25日 ▲安国寺の戦い 諏訪宮川端において・・・
   高遠頼継 VS 板垣信方
  板垣信方は高遠頼継を撃破した。
   高遠頼継諏訪から退去した。
   (★『高白斎記』)
宮川橋の戦い・・・
  弟:高遠頼宗が討ち死にした。
  (★『伊那箕輪町史』)

   武田晴信は諏訪領を掌握した。

9月26日 武田方の駒井高白斎が上伊那に侵攻した。
   駒井高白斎は藤沢口に放火し、福与城を包囲した。

   板垣信方は上伊那口に兵を発し、駒井高白斎とともに
   上伊那諸豪族への示威を繰り返した。

9月28日 藤沢頼親は武田方に降伏し、甲府へ出仕した。
(★『高白斎記』)

 武田晴信はほぼ諏訪を手に入れた。
藤沢頼親は一端は武田晴信に臣従した。
 
 武田晴信は諏訪の真志野城(真志氏)・有賀城(有賀氏)と
  岡谷の小坂城(小坂氏)・花岡城(花岡氏)・高尾山城(三沢氏)
  ・諏訪神社上社の社家:「権祝(ごんのほうり)」は
   矢島城(矢島)を拠点とした「諏訪西方衆」が結成させた。


・天文12年(1543)
4月 板垣信方を「諏訪郡代(上原城代)」に任じた。
5月  板垣信方は上原城を整備した。 
  ・上原城城将:板垣信方を諏訪郡代「諏方郡司」とした。
  ・桑原城に城将を置いた。  
     (★『高白斎記』・『守矢頼真書留』)


・天文13年(1544) 
  藤沢頼親は武田晴信から離反し、信濃守護で義兄(妻の兄)
  :小笠原長時と結んで抵抗した。
10月 藤沢頼親は箕輪の北方の平出(現辰野町)の荒神山に
    砦を構え、伊那衆とともに武田勢を迎え撃った。
    武田信繁は有賀峠を越えて伊那郡に入った。
    伊那の辰野の荒神山城に侵攻した。
 武田信繁は荒神山を攻め破った。

10月29日 武田信繁は再び福与城は攻めた。
       藤沢頼親を脅かした。

11月 武田晴信は甲斐府中を出陣し、下諏訪に陣していたが、
   藤沢頼親に決定的な打撃を与えないまま甲府に帰った。  

・天文14年(1545)
4月11日 武田晴信は杖突峠から高遠に入った。
4月17日 高遠頼継は戦わず、高遠城から逃亡した。
   (★『伊那箕輪町史』)
   高遠城も落城し、高遠頼継は武田晴信に降伏した。
   高遠頼継は甲府へ出仕した。
      (『高白斎記』)

4月20日 正午には箕輪に侵攻した。
    藤沢頼親の福与城(箕輪城と呼ぶ説)
    を攻めた。
※藤沢頼親の箕輪城説もある。
★従って、『箕輪町史』も福与城か箕輪城か不明である。
 
   藤沢氏に同心した伊那の春近衆など諸豪族が籠城していた。
   守備は固く、武田方の攻撃も手をこまねいていた。
   武田の部将の鎌田長門守が討死した。

  府中小笠原長時(藤沢頼親の妻の兄)が辰野竜ケ崎城に
   松尾小笠原信定(小笠原長時の弟)が伊那に入った。
膠着状態が続いた。
6月1日 武田軍の板垣信方は竜ケ崎城を攻略した。

6月10日 藤沢頼親は援護がなくなり、
武田一門衆の穴山信友、小山田信有、勝沼信友らの勧告を
  受けいれ、和議に応じた。

6月11日 藤沢頼親は弟:藤沢権次郎を人質に出して、
      降伏した。
藤沢頼親は起請文を提出し、穴山信友の傘下になった。
(★箕輪町史)

 しかし、藤沢頼親が開城したと同時に箕輪城へ火を放ったという。
  府中:小笠原長時:松岡城:小笠原信定も箕輪城の開城により
  一戦も交えず兵を引き揚げた。
  箕輪城を焼かれた頼親は、実質上、敗北を喫して晴信に降った。

「伊那衆の内、箕輪と申す所6千貫、箕輪殿領知なり。福与の城に
 在城の処に、諏訪頼重、晴信の先手を仕り、3月上旬に福与の城へ
 とり懸くる。60日計り取り巻き責め申し候」
「福与の城に籠り候武士、箕輪頼親侍衆、松嶋、大山・・・・・
 其外、野口野や澤々に者百余騎、雑兵千五百籠り居る。右の衆、
 城際にて日夜、取り合い申し候。その時、箕輪殿内に、藤沢織部
 ・大泉上総とて強弓の射手有り。福与の城大手にて、此者共矢先
 に中り、晴信の者、多く死す。弐人の武士、後箕輪殿供仕り、
 中東の城に籠り申し候」
「伊那衆、残らず悉く後詰め仕りる。箕輪、福与の近辺三田丁と
 申す所に陣を取り、天竜川を隔て、足軽軍御座候。長時公も後詰
 めに上伊那の内、龍が崎と申す所を御本陣成さる。先手は北大手
 に陣を取り申し候。」
「下伊那の内、小笠原信貞より多科惣蔵を使者として、龍が崎へ
 参り候趣は、御馬を福与の城根古屋へ寄せられ、是非一軍仕るべ
 く由申し来る。伊那衆に対して御憤り思し召すことあるによりて、
 御馬を寄せられざること、御一代の御分別違いなり。それに就き
 て伊那衆、引き取り申し付け、箕輪殿城無事になりる。権次郎と
 申す弟を晴信へ人質に出し、箕輪殿牢人なり」
(★『仁木寿斎記』:箕輪町史)




6月?日 高遠城は武田晴信により改修され、信濃支配における
   拠点となる。
縄張りは山本勘助と馬場信房と云われている。


・天文17年(1548)
2月14日 上田原の戦い

  武田晴信は小県郡の村上義清に敗退した。
 
4月3日 高遠頼継は甲府から高遠城へ帰城した。
   (★『高白斎記』)

●藤沢頼親は再び義兄:小笠原氏と結び、武田晴信から離反した。

4月?日 小笠原長時・村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡
     へ侵攻する
     (★「神使御頭之日記」:守矢頼真著)
★村上義清が諏訪下社を攻めたかどうか不明である。

6月10日 小笠原長時は再び塩尻峠を越えて諏訪大社下社に討ち
 入った。
 しかし、下社の配下・地下人たちに反撃された。

6月中旬 小笠原長時は諏訪西方衆らを迎合して諏訪侵攻
     を行った。
   (★「神使御頭之日記」:守矢頼真著)
 
7月?日  諏訪西方衆が謀反を起こした。
  (★『高白斎記』『勝山記』)

7月10日 小笠原長時は武田家に臣従していた岡谷の三沢氏・花岡氏、
 小坂氏・有賀氏・諏訪矢島氏の「諏訪西方衆」に内通した。
 「諏訪西方衆」は小笠原長時の傘下になった。
 諏訪西方衆は諏訪郡宮川以西の西方衆と呼ばれる諏訪神家の一族
 で矢島満清(諏訪上社本宮の三之鳥居)、花岡(諏訪湖の取水口の
 山上)小坂(花岡南東)らが、小笠原長時に通じ、 反旗を翻した。
南の有賀城などの攻撃態勢に入った。

 そのため、武田方の神長官:守矢頼真や有賀城:千野靱負尉
 (ゆきえのじょう)らは 上原城へ 逃げ込んだ。
 (★神使御頭之日記:守矢頼真著)  

7月11日 小笠原長時は花岡・矢嶋・小坂の応援するため塩尻峠へ
 出陣した。小笠原長時は諏訪郡代・板垣信方を失ってしまって、動揺
 の激しい上諏訪に押し寄せた。
武田晴信に知らせが入った。 
  武田晴信は反乱の情報が甲府に届くとすぐに出馬した。
  @武田晴信は甲斐の大井森(現北杜市長坂町)に軍勢を集結させた。
  しかし、軍事指揮権の両輪を失った武田晴信は動こうとしなかった。
先の上田原の戦いの敗戦が尾を引いていた?
「風林火山」作戦だったのかもしれない?
  A小笠原長時軍は兵力的にも戦況でも優位にあったが、小笠原長時
   は武田晴信に対抗するための寄せ集め軍団で結束力が難しかった
  途中、小笠原長時の舅:仁科盛能が作戦方針をめぐって小笠原長時
  と対立して軍を率いて退去した。
  家老:山家氏や三村氏などの武将らは武田晴信の調略で内応した。
三村駿河守長親の離反は小笠原長時の大敗の原因となった。

小笠原軍は内部分裂で塩尻峠まで撤退せざるを得なかった。

  武田晴信の行動は慎重で18日まで甲斐に留まっていた。
本来なら甲府〜諏訪までは2日間あれば行ける。
8日もかかっても来ないので、小笠原方が油断していた。
 

7月18日 武田晴信がようやく軍勢を動かした。  
  大井の森(現北杜市長坂町)より上原城に入った。
  深夜、上原城を密かにを発った。
武田晴信は奇襲を敢行した。

  
7月19日 塩尻峠の戦い=塩尻:勝弦峠〜桔梗ケ原の戦い
 未明、武田晴信は「風林火山」のごとく隠密裏に軍を移動させた。
 塩尻峠の嶺上にいる小笠原軍5000余を急襲した。
 小笠原軍勢は昨日まで甲斐にいた武田軍が、まさか来襲するとは
思ってもいなかった。
 小笠原軍は寝込みを襲われ、完全に意表を突かれた。  
 不意をつかれた小笠原勢は具足も満足につける間もなく、散々に
 打ち負かされた。
 しかし、小笠原長時は崩れかかる自軍を立て直して防戦につとめた。
 小笠原長時と埴原・桐原ら旗本衆は狭い峠道を強引に攻め登ろうと
 する武田軍を押し返した。
 当然、武田晴信に反旗を翻したかつての花岡・矢嶋・小坂ら「諏訪
 西方衆」も加わっていた。
 武田晴信は同母弟:武田信繁に別働隊を与えて勝弦峠越えで小笠
 原軍の背後に移動させた。そして、小笠原軍の背を急襲させた。
 また、武田晴信に内応の約束を交していた西牧・三村・山家らも
 小笠原勢の後方にいて、背後から襲いかかったのである。 
 はさみ撃ちにされた小笠原軍は総崩れとなった。
   (★小和田哲男)
結局、小笠原軍は将兵1000余人が戦死した。
 小笠原長時の家老:村井氏は村井館(=小屋城館)を拠点に府中の
 防衛拠点としていたが、塩尻峠の村井氏は討ち死にした。
小笠原長時は居城の林城に逃走した。
武田軍は府中:松本へ侵入し、林城付近を焼き払い引き上げた。

小笠原長時は敗戦の傷跡は深かった。武田晴信に恐怖心を抱いた。

 武田晴信は小笠原長時に大勝。武田氏は再び優位を回復した。
★武田晴信は上田原の大敗を塩尻峠の大勝で埋め合わせることに
 なり、本人自身、少し自信を回復した。

小笠原長時が大敗北し、小坂城・花岡城・高尾山城も廃城となった。
 
武田晴信の諏訪五十騎の1人:桑原城代:田中淡路玄儀が居城したと
も言われているが、不明である。
 
 福与城主:藤沢頼親を追放した説もあるが。
  藤沢頼親は武田との関係は穴山氏を通じており、
    穴山信友を通じて武田晴信に降伏した。

・天文18年(1549)
7月 武田晴信は箕輪城(福与城)の大改修を行った。
(★『戦国時代のみのわ』:箕輪町郷土博物館編集)


・天文21年(1552)8月16日高遠頼継は死去。
  高遠頼継は武田晴信(信玄)の命により、自害?
  法名は大用普徹す禅定院。


・弘治元年(1555)藤沢頼親・小笠原長時は、上洛して三好長慶に
   仕えたいた。
小笠原長時・・・足利義輝の弓師範。1000貫
小笠原信定(長時弟)・・・300貫
藤沢頼親(長時の娘婿)・・300貫
  
・永禄7年(1564) 三好長慶の没した。
   藤沢頼親は旧領箕輪に帰り、田中城を築いて居城としていた。
  
・天正10年(1582)
3月11日武田氏滅亡。
6月2日 織田信長が滅んだ。
7月 ▲天正壬午の乱
信濃の織田勢は武田旧臣の一揆で追放されて無主状態になると、
 徳川家康・北条氏直・上杉景勝らによる旧武田領をめぐる
 天正壬午の乱が起こった。
 
北条氏政・氏直 VS 上杉景勝
信濃の旧織田領を巡って対立した。
7月13日 真田昌幸など13人の信濃の武将は小諸城の
 北条氏直に出仕した

 保科正直は跡部勝資の長男:跡部勝忠の娘を北条氏直へ
人質として差し出した。


7月 上杉景勝の支援を受けた小笠原貞種(長時弟:貞慶叔父)が
  木曾義昌を追い出して、深志城(松本城)にいた。
  しかし、小笠原貞種の家臣は上杉景勝のいいなりになっている
ことに不満を持ち、三河の小笠原貞慶に手紙を送った。
 (★三河小笠原氏:寺部城)

  藤沢頼親の親戚(義兄の子:甥)の小笠原貞慶が松本を回復しよう
  と三河国より伊那郡に入った。
  藤沢頼親は従軍した。

  
7月15日 徳川家康の命令で下条頼安が高遠城に入った。
  藤沢頼親・小笠原貞慶がいない隙に・・・
   
7月16日 小笠原貞慶は松本に入った。
叔父のいる深志城を攻撃した。
藤沢頼親の家臣:野島・平出が鉄砲で戦死した。
(★『戦国時代のみのわ』:箕輪町郷土博物館編集)
7月17日 叔父:小笠原貞種が撤退した。
小笠原貞慶は33年ぶりに松本に復帰した。


 
  ▲川中島の戦い
 北条氏直 VS 上杉景勝





7月19日頃? 北条氏直は真田昌幸&松田憲秀に殿を命じた。
※松田憲秀は山中城の城代であった。
 真田昌幸は信濃残留を申し出た。
 保科正直の子:正光は真田昌幸が預かっていた。
 ★保科正光の妻は真田昌幸の娘だった。

  
8月7日 

▲甲斐黒駒合戦
  徳川家康が優勢になった。

8月下旬 保科正俊・保科正直は北条氏直軍の別働隊として 
小諸城から甲斐に向けて進軍した。
 保科正直は内藤昌明の家臣:友野十郎左衛門&内藤昌明の軍
 500を借り、箕輪城から高遠城に出陣した。
★友野Hしゃん、ご先祖様かもしれませんよ。
 伴野貞長の弟の直系とわかってよかったです。
 友野十郎左衛門の子孫が箱根用水を造ることになる。
★柳沢内蔵之助も出陣した。
保科正直は徳川家康側の下条頼安を撃退した。
 保科正直は後北条氏を後ろ盾に高遠城奪還?に成功した。

 高遠城に入城した。
 高遠継頼の旧臣保科正直が保科正俊が城主となった。

  木曾義昌が徳川家康に臣従した。

9月下旬 依田信蕃の誘いで真田昌幸が徳川家康に臣従した。

 保科正直は酒井忠次を取次として家康の旗下に属そうとした。

10月
 保科正直ら他の信濃国衆と共に徳川家康に臣従した。
  
10月 
 ●保科正俊の子:保科正直も家臣:酒井忠次を通じて、
  徳川家康に臣従した。

  保科正直は、家康の妹(家康の父親が違う異兄妹)を妻にし、
  徳川家の外戚となり、本領安堵を得た。
  高遠城主としての地位を2万5,000石を領した。

 柳沢内蔵之助は保科正俊・正直について、高遠に移り住んだ。
  
10月24日 徳川家康は保科正直に伊那半分を安堵した。

10月29日 徳川家康と北条氏政が和議。

11月保科正直は藤沢頼親にも徳川臣従を勧めたが、藤沢頼親は
   応じなかった。
   藤沢頼親は徳川氏の先鋒となった保科正直に田中城を
   攻められ、落城した。
@松本に逃亡した。(★赤羽記)
  A藤沢頼親は息子の藤沢頼広とともに自害した。(★高遠記集成)
  B藤沢氏は滅亡した。
(★『伊那箕輪町史』)

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