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zoom RSS 箕輪初心:生方▲保科正俊→保科正直→保科正光→保科正之【高遠の建福寺の墓】

<<   作成日時 : 2016/05/21 07:26   >>

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戦国時代、高遠は諏訪氏の一族:高遠頼継が治めていた。筆頭家老
に保科正俊がいた。高遠が武田晴信の支配下に入ると、保科正俊が
城代になった。保科正直&保科正光の墓は高遠の建福寺にある。
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 (正光・正直・勝頼母の墓)
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【1】高遠の建福寺
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@武田勝頼の母(諏訪御料人)の墓
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諏訪頼重の死で、諏訪氏は滅亡したとされていた。
  しかし、諏訪御料人の子:勝頼は諏訪宗家として
  高遠諏訪家を継いだことが高野山の文書から
  明らかになった。
   (★黒田基樹)
 そして、高遠に諏訪御料人の墓があることは、
 これを裏付けしていることになる。

A保科正直の墓
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B保科正光の墓
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【2】高遠城
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箕輪初心:生方▲保科氏館跡&霞台城&保科温泉→高遠城
http://53922401.at.webry.info/201604/article_26.html

箕輪初心:生方▲真田丸82『飯田長姫城の歴史』と
真田丸第1話「船出」
http://53922401.at.webry.info/201604/article_7.html

箕輪初心:生方▲真田丸43:第6話【迷走】のあらすじ
&「森長可の撤退」
http://53922401.at.webry.info/201602/article_19.html

箕輪初心:生方▲真田丸30【真田昌幸と滝川一益との腐れ縁:友情】
http://53922401.at.webry.info/201602/article_2.html

箕輪初心:生方▲高遠城&五郎山に眠る仁科盛信の墓
:真田丸bR「策謀」追加
http://53922401.at.webry.info/201605/article_17.html

箕輪初心:生方▲真田丸43:第6話【迷走】のあらすじ
&「森長可の撤退」
http://53922401.at.webry.info/201602/article_19.html



 ◆◆ 保科正俊・保科正直・保科正光と高遠城 ◆◆
・戦国時代

・延徳元年(1489) 保科弾正忠正利が円覚山広徳寺を開基した。

・永正10年(1513) 保科氏 VS 村上氏との戦い
広徳寺が消失した。
 
※村上氏との抗争に破れて@村上氏従属派とA高遠への逃亡派に分
  裂したという説が有力である。
  しかし、保科氏が南信濃に移った時期や系統性は不明である。 
※保科一族の大槻頼重→保科実重と続く保科家は、高遠近くの
  小豪族となった可能性がある。 
  しかし、保科氏は諏訪神党の1党であることから、諏訪氏と
  何らかの関係があったと考えられている。

*天文17年(1548) 上田原合戦
2月14日、武田晴信と村上義清による上田原合戦が起き、地
元情報を持っている真田幸隆が武田晴信の作戦に深く関わったの
であろう。しかし、武田晴信の重臣:板垣信方・甘利虎泰・初鹿
野伝右衛門、才間河内らが戦死した。武田晴信本人も負傷し、武
田方は村上方に大敗退した。
4月5日 信濃守護:小笠原長時は、好機到来と見て、
  安曇郡の仁科盛能と連合して諏訪に攻め入った。
  諏訪大社下社へ攻め込み放火した。、諏訪下社を占領した。
 
高遠城主:諏訪頼継の家老として「保科弾正忠正則」(筑前守)
 が登場する。
 




・天文11年(1542)
7月2日 高遠城主:高遠頼継が武田晴信に呼応に応じて杖突峠から
     諏訪に侵攻して安国寺附近に放火した。
(★「武田信玄」:新田次郎著では、兵2000)

諏訪頼重は高遠頼継が裏切ったのを初めて知った。
(★「武田信玄」:新田次郎著)
諏訪頼重は千野入道に高遠頼継を討つように命じた。
夜、千野入道は夜襲をかけた。しかし、戦死した。
武田晴信は「惜しい男をなくしたな。」・・・・。
(★「武田信玄」:新田次郎著)
その後、神長官:守矢頼真や有賀城:千野靱負尉
   (ゆきえのじょう)は武田晴信の家臣になっている。

   諏訪頼重は挟み撃ちを恐れて上原城を焼き払った。
★武田晴信や高遠頼継に上原城を使われないように
 するためである。
   
   夜、諏訪頼重は桑原城に移った。
       そして、桑原城に立て籠もった。
   
  
7月3日 武田晴信は桑原城下に兵を進めた。
高遠頼継も桑原城下に兵を進めた。
   3方から桑原城を包囲し攻撃した。
    
  しかし、追い詰められた諏訪軍は激しく抗戦した。
  折からの雨で、城攻めを中止した。
  武田晴信は包囲を解いて後退した。
★武田晴信の作戦であった。思った通り、
   諏訪兵の逃亡が始まった。・・・・・
「これで、兵が減れば、・・・桑原城は落ちる。」


 夕方、諏訪頼重は城の警備を検分をしに出かけた
     諏訪頼重を見た家臣が頼重が城を捨てたと思い込み
     逃げて始めた。
夜、諏訪頼重が陣に戻ってみると、大部分の兵は逃亡していた。
    
     桑原城で諏訪頼重と一緒に夜を過ごしたのは僅か20名
     程だった。
 (★NHK大河ドラマ「風林火山」などでは・・・)
桑原城に残ったのは諏訪一門とわずかな城兵だけとなった

★7月3日の夜、諏訪頼重&武田晴信は何を想ったのだろうか?
 頼重「武田晴信の妹は我が妻・・・降伏して命乞いをしようか?」
晴信「明日になれば、兵も食料ないので、降伏するだろう。
    禰々もいるので、攻撃したくはない。・・・
   それに、無駄に配下を死なせたくはない。・・」

7月4日 武田晴信は和睦の申し入れをした。
 板垣信方は降伏を勧めに行った。
(★「武田信玄」:新田次郎著)

 諏訪頼重は武田晴信の妹婿である縁を利用して、晴信に和睦を
  申し入れた。晴信はこれを受け入れた。
和睦の条件として諏訪頼重の生命は保障されていた。
(★ウィキペディアの説)

7月5日 桑原城を開城した。
諏訪頼重・弟:大祝頼高を甲府へ連行した。
しかし、2人は甲府の東光寺に幽閉された。
★騙されたと思ったが、後の祭りであった。
7月21日 武田晴信は約束を反故にして、諏訪頼重と実弟:
  大祝頼高を切腹させた。
 諏訪惣領家は事実上滅亡した。

・天文14年(1545)
 4月 高遠城に侵攻して高遠頼継を降伏させた。
 6月  福与城主:藤沢頼親を追放した。


・天文21年(1552)8月16日高遠頼継は死去。
    高遠頼継は武田晴信(信玄)の命により、自害?
    法名は大用普徹す禅定院。
★諏訪氏の力を恐れたから?

保科正俊は、高遠氏家臣団では筆頭の地位にあった。
高遠頼継の死後、保科正俊以下の旧家臣団は武田氏の傘下
となった。
●保科正俊は軍役120騎を勤める高遠城将として数々の戦いで
軍を挙げた。
甲陽軍鑑では「武田の三弾正」保科正俊・真田幸隆・香坂
 槍の弾正・・・保科正俊






・永禄5年(1562)
武田信玄の4男:勝頼が高遠諏訪家を継いだ。
 (★高野山成慶院に伝来する『甲斐国過去帳』)
 従来は、諏訪惣領家を継いだと見られていた。
(★黒田基樹著)
 ★高遠の建福寺に母:諏訪御料人の墓がある。
 そして、高遠に諏訪御料人の墓があることは、
 これを裏付けしていることになる。



〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

※保科正直は保科正俊の後を継いだ。

・天正9年(1581) 仁科盛信は信濃:高遠城に配置された。
佐久郡内山城(長野県佐久市)の城代:小山田昌成・大学助も
  副将として高遠城に入っていた。
  小山田昌成(昌行)は、猛将として知られた小山田昌辰(上原)
  の子で、都留岩殿城主・勝山城主・小山田氏とは別流である。

・天正10年(1582)
2月12日 本隊の織田信忠は岐阜城を出陣した。
      軍監の滝川一益が長島城を出陣した。

2月14日 織田信忠は岩村城に兵を進めた。

2月14日 松尾城主:小笠原信嶺も織田軍河尻に寝返った。


2月16日 木曾の鳥居峠の戦い
  今福ら武田軍は藪原から鳥居峠に兵を出した。
  織田軍は奈良井坂を登った。
  織田信忠の支援を受けた木曾義昌軍に敗北を喫した。

2月17日 織田信忠は平谷:滝沢に陣を進めた。
 (★『信長公記』

2月18日 織田信忠は飯田に侵攻した。
 飯田城主:保科正直はに籠城した。
保科正直は飯田城織田信忠による攻勢を受けて
  坂西織部亮、小幡因幡守らとともに高遠城へ逃亡した。

  仁科盛信が高遠城にいた。

 
  

 武田信廉(勝頼の叔父)らは飯田城放棄を聞いて戦意喪失
  した。
 
  武田信廉(勝頼の叔父)は大島城(下伊那郡松川町)から
    逃亡し、甲斐に逃げ帰った。
 ※武田軍は戦わずして南信濃を失った。

2月28日 河尻秀隆は織田信長から高遠城の攻略のために陣城を築け
      との命を受ける。

 織田信忠率いる3万の兵が、武田勝頼の弟:仁科五郎盛信が
 籠もる高遠城に押し寄せた。

2月29日 織田信忠は、五郎に書状を送って降伏を促した。
 「武田勝頼は不義なので退治する。木曾、小笠原らも降伏した。
  上飯田、大島まで自落したのに、城を堅く守っているのは神妙
  なことである。しかし、勝頼は昨日、諏訪を退き退いている。
  早速、出仕し忠節を誓うのであれば所領は望みのとおりにす
  る。黄金百枚を差し上げる。」  
 
  仁科五郎は、籠城衆一同の名で、ただちに返書をしたためた。
  使者だった僧侶の耳と鼻を削ぎ落して送り返した。
  
「信玄以来、信長に対しては遺恨を重ね持っている。ようやく
 残雪もなくなったので、勝頼は尾張・美濃へ織田討伐として動
  き、鬱憤を晴らそうかと思っていた。ところが、そちらが発
 向していたので籠城しているまでである。一端一命を勝頼に武
 恩として報いるものであり、不当不義の臆病な輩と同じにしな
 いでもらいたい。早々に馬を寄せて攻められよ。信玄の頃から
 鍛錬してきた武勇・手柄をお見せしよう。」
    (★『武家事紀』)


3月1日 
織田信忠軍は、飯島城から軍を動かした。
 すでに降伏していた松尾城主:小笠原信嶺の先導で、三峰川の
 浅瀬を渡って大手口まで攻め寄った。
 また、飯田城を放棄し、逃げ延びて来た保科正直は、籠城軍に加わ
  っていたが、密かに小笠原信嶺と内通し、夜中に城に火を付け、
  裏切ると約束したものの、城側に隙が無く失敗に終わった。
  (★『信長公記』)

 織田信忠は高遠城を包囲した。
     (★『甲乱記』『信長公記』)
 保科正直もいた。
  元々、高遠城は諏訪一族の高遠氏代官:保科家の城であった。
    
  高遠城(伊那市高遠町)主:仁科盛信(信盛)は籠城した。
  
▲高遠城の戦い
※織田信忠が率いる3万の兵が、武田勝頼の弟:仁科五郎盛信が
 籠もる高遠城に押し寄せた。
「翌二日早朝、決戦に至る。
 火花を散らし相戦い。おのおの疵を被り、討死は算を乱すに異ら
 ず。歴々の上掾E子供、一々に引き寄せ引き寄せ、差し殺し、切
 って出て、働くこと申すに及ばず。ここに、諏訪勝右衛門女房、
 刀を抜き切って廻し、比類なき働き、前代未聞の次第なり。また、
  十五・六の美しき若衆一人、弓を持ち、台所の詰まりにて数多
 射ち倒し、矢数射ち尽くし、後には刀を抜き切りてまいり、討死。
 手負死人上を下へと数を知らず」
(★『信長記』)

織田軍3万余は総攻撃を開始した。

@西門・・・水沢隆広軍
A東門・・・滝川一益軍
B北門・・・明智勢にお斎藤俊三軍
C南門・・・織田信忠軍
※飯田城から逃げ帰った保科正俊の後を継いだ嫡男:正直も
  高遠城将として高遠城主:仁科盛信と共に奮戦した。 

 森長可は三の丸の屋根に上がり、瓦をはがし、鉄砲を射かけた(伝)。
織田軍は三の丸を難なく落としたが、二の丸で保科正直と小山田兄弟
に阻まれた。森長可は
「殿、それがしに考えがありまする。」
織田軍と高遠城方の間に織田軍の軍使が分け入った。
「待ったあ。両軍とも兵が疲れ切っておる。ここは一端戦を止め、
和議を結びたい。保科殿、話がしたい。」
保科正直が二の丸を出た瞬間、織田軍が二の丸城門に殺到した。

「これはどういう事だ。森殿。」
森長可は
「どういう事も何も・・・保科殿の命が惜しければ、降伏せよ。」
答えた。
保科正直は降伏した。
小山田兄弟は二の丸を捨て、本丸へ逃げた。
保科正直は火の手上がる本丸を呆然と見つめるしかなかった。
※ちなみに保科正直の実弟は箕輪城主:内藤昌月である。
 後、保科正直の長男は真田昌幸の娘と結婚する。

 仁科盛信は籠城し、織田軍と激闘を繰り広げた。
 織田方の織田信家が戦死するなど大きな被害を受けた。
 織田軍に城門を突破されるに及び、ついに仁科盛信・小山田昌成
 ・大学助・飯島民部少輔らは戦死し、高遠城は落城した。

 二科五郎は、副将小山田、士隊長18名らとともに壮絶な討死を
 した。武田軍の頸は400余だった。
   (★『信長公記』)

  仁科五郎は、腹を十文字に斬り、はらわたを掻き出し投げ捨てて
  果てた(伝)。享年26歳。

仁科五郎は 約500名余りの家臣も共に討ち死にして高遠城は
 陥落した。
  織田軍も300人の死者を出した。

武田一族でさえ、続々と武田勝頼を見捨てる中で、仁科盛信
  と家臣、一族壮絶な抵抗をした。何故なのであろうか。
 


保科正俊&保科正直は箕輪城(実際は保渡田城)の内藤
  昌月(保科正直実弟)を頼って逃亡した。



3月6日  織田信長が揖斐川に着いた。
   仁科五郎の首?頭は織田信長の元に届けられた。
   (★『信長公記』)


3月11日 武田氏滅亡。

3月24日 滝川一益が佐久&上野国の支配を命じられた。
  ●内藤昌月(含:父保科正俊・正直)は織田信長に臣従
  した。


6月2日 本能寺の変
織田信長・信忠が横死。

6月19日・20日 神流川の戦い  
北条氏邦が箕輪城主になった。
 ●弟:内藤昌月・兄:保科正直は北条氏邦に帰属し、
  北条氏政に臣従した。
  
 
7月 ▲天正壬午の乱
信濃の織田勢は武田旧臣の一揆で追放されて無主状態になると、
 徳川家康・北条氏直・上杉景勝らによる旧武田領をめぐる
 天正壬午の乱が起こった。
 
北条氏政・氏直 VS 上杉景勝
信濃の旧織田領を巡って対立した。

 
8月  北条氏政・氏直 VS 徳川家康
   甲斐の旧織田領を巡って対立
北条氏直軍の別働隊として高遠城を奪取することに成功した。
7月13日 真田昌幸など13人の信濃の武将は小諸城の
 北条氏直に出仕した

保科正直は跡部勝資の長男:跡部勝忠の娘を北条氏直へ
人質として差し出した。

▲川中島の戦い
 北条氏直 VS 上杉景勝

 
7月19日頃? 北条氏直は真田昌幸&松田憲秀に殿を命じた。
※松田憲秀は山中城の城代であった。
 真田昌幸は信濃残留を申し出た。
   
 
8月  北条氏政・氏直 VS 徳川家康
   甲斐の旧織田領を巡って対立
保科正直の子:正光は真田昌幸が預かっていた。
 ★保科正光の妻は真田昌幸の娘だった。


内藤昌月は真田昌幸に
 「軍勢を貸して欲しい。」
 と願い出た。
真田昌幸は
「高遠は北条氏直から朱印状をもらっておる。今は出陣をお断り
 する。でも、昌月殿の兄なので悪いようにはしない。」
保科正直はむっとした。
真田昌幸は
「早々に高遠を乗っ取り、自分のものにしてしまえば、よいで
あろう。短気はよろしからず。・・」


8月下旬 
保科正俊・保科正直は北条氏直軍の別働隊として 
小諸城から甲斐に向けて進軍した。
 保科正直は内藤昌明の家臣:友野十郎左衛門&内藤昌明の軍
 500を借り、箕輪城から高遠城に出陣した。
★友野Hしゃん、ご先祖様かもしれませんよ。
 伴野貞長の弟の直系とわかってよかったです。
 友野十郎左衛門の子孫が箱根用水を造ることになる。
★柳沢内蔵之助も出陣した。
保科正直は徳川家康側の下条頼安を撃退した。
 保科正直は後北条氏を後ろ盾に高遠城奪還?に成功した。

 
★奪還という言葉が適切かどうか?不安であるが・・・

  ●保科正直は難なく高遠城に入城した。
 高遠は高遠継頼の旧臣保科正直が保科正俊が城主となった。
★真田昌幸の言ったとおりになったのである。

▲甲斐黒駒合戦

10月 徳川家康が優勢に経つと、依田信蕃、真田昌幸、木曾義昌、
 保科正直ら他の信濃国衆と共に徳川家康に臣従した。
 
 ●保科正俊の子:保科正直も家臣:酒井忠次を通じて、
  徳川家康に臣従した。
保科正直は、家康の妹(家康の父親が違う異兄妹)を妻にし、
  徳川家の外戚となり、本領安堵を得た。
  高遠城主としての地位を2万5,000石を領した。

 柳沢内蔵之助は保科正俊・正直について、高遠に移り住んだ。

保科正直は北条側の伊那箕輪の福与城:藤沢頼親を降伏させた。

10月29日 北条&徳川の和議
  徳川家康は北信濃を除く武田遺領を確保した。


 
箕輪初心▲箕輪城152【長野業正の長男:長野吉業の菅谷城&善龍寺】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_14.html



10月29日 和議
  徳川家康は北信濃を除く武田遺領を確保した。


11月 保科正直は徳川に臣従を進めた。
     しかし、藤沢頼親は拒否した。

    田中城(箕輪町)を攻撃し、藤沢頼親は・・・
    @松本に逃亡した。(赤羽記)
    A自害した。(高遠記集成)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・弘治元年(1555)藤沢頼親・小笠原長時は、上洛して三好長慶に
   仕えたいた。
小笠原長時・・・足利義輝の弓師範。1000貫
小笠原信定(長時弟)・・・300貫
藤沢頼親(長時の娘婿)・・300貫
  
  ・永禄7年(1564) 三好長慶の没した。
   藤沢頼親は旧領箕輪に帰り、田中城を築いて居城としていた。
  
  ・天正10年(1582)武田氏、次いで織田信長が滅んだ。
   親戚の小笠原貞慶が松本を回復しようと三河国より伊那郡に
   入った。藤沢頼親は従軍し、小笠原貞慶は松本城に入った。
   一方、保科正直は高遠城を奪って徳川家康の旗下に属した。
   保科正直は藤沢頼親にも徳川臣従を勧めたが、藤沢頼親は
   応じなかった。
   藤沢頼親は徳川氏の先鋒となった保科正直に福与城を攻めら
   れ、落城した。藤沢氏は滅亡した。
(★『伊那箕輪町史』)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  
  しかし、仁科信盛の戦死後、高遠城はあれていた。

  高遠城を取り戻した保科正直は、3月1日に焼け落ちて荒廃
   した高遠城の再建を計った。
   また、離散した保科家の旧家臣の呼び戻しに努力した。
  (★史料料ないが・・)。

保科正直は徳川家康から直参として三河への出仕を
 命じられた。
 

・天正11年(1583)? 保科正直の妹の嫁ぎ先:小川村・中条村・鬼無里
  村を領していた府中小笠原家・庶流:大日方(大日向)家
  より嫁を貰った。
  保科正重が生まれた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
大日方直長の軍役は110騎・・・
 大日方一族全てを合わせると300騎を超えた。
動員兵力は9000人〜10000人前後にも及ぶと推定されている。


箕輪初心:生方▲長野市旧中条村の城@古屋敷城山城、A大姥山城、
B柏鉢城復刻版
http://53922401.at.webry.info/201605/article_7.html

●▲■箕輪初心◆長野:旧中条町の城3&鬼無里の城1
http://53922401.at.webry.info/201305/article_6.html


箕輪初心:生方▲「鬼無里」の自然&歴史:木曾義仲伝説
 &武田家臣:大日方氏
http://53922401.at.webry.info/201605/article_8.html

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・天正12年(1584)

▲小牧・長久手の戦い
 ●徳川家康は保科正直・諏訪頼忠・小笠原貞慶ら信濃衆を木曾
  に派遣した。
  保科正直の子:正光も徳川家臣として出陣した
  木曾攻めは成果を上げられず、保科正直を抑えに残して
  撤退した。

 ●保科正直に 多劫姫(徳川家康の異父兄:久松俊勝の娘)は再々嫁し、
徳川の親戚になった。

・天正13年(1585) 徳川家康と北条氏直の和睦した。
  真田昌幸が上野沼田領の譲渡問題で徳川家康から離反した。
▲8月 第一次上田合戦
 徳川家康は大久保忠世に保科正直ら信濃衆をつけて攻撃した。
 大敗して撤退した。

11月 岡崎城代:石川数正が徳川家から出奔した。

12月3日 ▲鉾持除の戦い
羽柴秀吉側の松本城主:小笠原貞慶が4千に攻めた。
  高遠城に攻撃をかけた。
保科正直や保科正光は出陣中で、城には小笠原軍の10
   分の1以下の4百しか残っていなかった。
   農民3百を集めて旗印を持たせ、戻ってきた本軍に見せ
   かけるなどの準備を、奇襲をかけた。
   保科正俊が鉾持除の戦いで退けた。
  
 

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
 ●保科正光は徳川軍の後備えとして出陣した。


***************************
真田昌幸&真田幸繁(幸村)が箕輪城:北条氏からの受け取り
箕輪町誌・鉢形城博物館冊子などは、保科正直は箕輪城に
 いることになっている。つまり、北条氏家臣である。
 もしかして、箕郷町誌・高崎市史・榛名町誌などか、違って
 いる可能性もある。


7月5日 小田原城開城。

7月11 後北条氏が滅亡。

8月1日? 徳川家康が関東に移封。
  ●保科正直は家康に従って下総多胡で1万石を与えられた。

・天正19年(1591)九戸の一揆
 ●井伊直政の配下として保科正直も参陣した。


・文禄元年(1592) 文禄の役
九州へ出兵した。保科正光32歳も同行した。
 保科正直は名護屋城で体調を崩した。
  保科正光に家督を譲る決意をし、井伊直政に相談し、徳川家康
  から許された。

・慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い
●保科正光が参戦した。

 結果・・・徳川軍の勝ち。

 真田昌幸&真田幸繁は上田城で西軍側だった。

 真田信幸(信之に改名)は2人の助命を井伊直政に
 頼んだ。井伊直政は徳川家康に進言した。
 2人は高野山の九度山に行くことになった。
 (★彦根城博物館:野田浩子学芸員の論文)
 ★2月の講話、ありがとうございました。
  なのに、『真田丸』で、井伊直政が登場しないのは
  なぜだ?


高遠に保科正直の子:正光が2万5000石で入封した。
  高遠藩が成立した。

・慶長6年(1601)
 ●保科正直は高遠で逝った。享年66。
   墓・・・高遠の建福寺。


・慶長11年(1606)
 ●保科正光は江戸城の石垣修理に参加した。

・慶長23〜24年(1614) 大坂の役
 ●保科正光は参戦した。
真田幸繁(真田昌幸の子) VS 保科正光(妻が真田昌幸の娘)

・元和3年(1617)
 ●保科正光は見性院の縁で第2代将軍・徳川秀忠の隠し
  子:幸松(保科正之)を養育することになった。
※徳川秀忠の正室:於江与の子ではなかったため、徳川秀忠
  が保科正光に預けたのである。

  保科正光(妻は真田昌幸の娘)は嗣子がなかったので、
  保科正之は保科正光の養子になった。  
    
・元和4年(1618)
 ●保科正之の養育料として筑摩郡に5000石を加増された。


・寛永6年(1629)
 6月 保科正之は兄:第3代将軍徳川家光と対面した。

・寛永8年(1631) 11月 保科正光が死亡。
墓・・・高遠の建福寺。
  
  保科正之が家督と3万石を継いだ。



・寛永13年(1636) 7月保科正之は出羽山形藩20万石に加増移封
  された。

箕輪初心●【山形城】&山形博物館&最上義光歴史館
http://53922401.at.webry.info/201307/article_8.html

・寛永20年(1643) 保科正之は陸奥会津藩23万石に加増移封
  された。
◆◆ 箕輪初心★会津若松:新島八重ゆかりの地を巡る旅 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_21.html

◆◆ 箕輪初心★会津若松城1回目&会津の名所 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_22.html

箕輪初心●福島『会津若松城2回目』:新島八重も籠城
http://53922401.at.webry.info/201304/article_23.html

箕輪初心★会津:飯盛山&白虎隊2番隊の自刃
http://53922401.at.webry.info/201304/article_24.html

箕輪初心生方▲真田●69【林城】:小笠原長時の生涯詳細版
http://53922401.at.webry.info/201603/article_14.html
★会津に墓がある。




★明日は蟻塚城かな?

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