城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心:生方▲武田信玄家臣:柳沢弥右衛門→所左衛門→弥左衛門&『伊那原新田用水』

<<   作成日時 : 2016/05/16 20:23   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

武田信玄の家臣:柳沢家は一条流武川衆で3系統ある。当然
柳沢弥右衛門家・柳沢所(諸)左衛門家は山梨県北杜市武川町
柳沢の武川衆の出身である。武田信光→4男:一条信長系子
孫と考えられる。柳沢内蔵之助は武田信玄の重臣であった。
内藤昌豊は上野国箕輪城代になると、目付として、箕輪城に
来た。高崎旧群馬町金古に住んだ。長篠の戦いで内藤昌豊が
戦死すると、保科正直の弟:内藤昌明が箕輪城城代になった。
柳沢内蔵之助は内藤昌明に仕えた。天正10年(1582)柳沢内
蔵之助は保科正俊・正直について、高遠に移り住んだ。柳沢
内蔵之助は67歳で亡くなった。柳沢弥右衛門が跡を継いだ。
柳沢弥右衛門は高崎の旧群馬町金古に住んだ。孫の柳沢
弥左衛門は伊那の原新田用水に関わった。柳沢家の家紋
は武田菱の一つ「武田花菱」である。
画像


箕輪初心●【南牧村の城20城一覧】&▲黒滝山登山
http://53922401.at.webry.info/201204/article_21.html
余地峠の里:郷土研究会(会長:須賀健治)+郷土博物館
城砦11+烽火台9=20城である。

箕輪初心生方▲武田晴信の南牧侵攻&武田家臣編:市川五郎兵衛@
http://53922401.at.webry.info/201605/article_14.html

箕輪初心生方▲佐久『五郎兵衛用水』:市川五郎兵衛真親と柳沢所左衛門
http://53922401.at.webry.info/201605/article_15.html



【1】高遠城
★柳沢家は高遠には柳沢家は3軒ある。伊那では20軒程ある。
 @柳沢呉服店は新潟から引っ越して3代目・・・
 A後2軒は分からず・・・
画像


【2】柳沢弥右衛門家宅・・・★高崎市旧群馬町金古
★柳沢弥右衛門家は「花菱」である。



【3】分家:柳沢所左衛門家「柳沢弥左衛門家3代の原新田」
・高遠から〜
・黒松仙醸の鞠ヶ鼻
画像

・川を越え
画像

・看板
画像

画像

・現在の用水路
画像

・原新田十字路
画像

・原新田
画像

・原新田のお宮
画像

画像

画像

画像

・現在の田園地帯
画像


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【1】柳沢家出自
1)武田信義→武田信光→4男:一条信長→信経→時信・・・
・応永23年(1416) 上杉禅秀の乱
武田信満と武田信長父子は上杉禅秀方に与して鎌倉府 足利持氏軍
 に対抗した。
・応永24年(1417)  敗走した武田信満が自刃した。
  信満の子:信重や信満の弟・信元は高野山に逐電、
  武田信長も国外に逃亡した。
  小笠原政康が上杉禅秀の乱後に甲斐国を立て直すべく守護代
  として小笠原氏の一族:跡部氏を赴かせた。
   叔父:武田信元のあとを継ぎ甲斐守護になるはずの息子:
  武田伊豆千代を囚えた。
 武田信長は跡部氏の専横に怒り、都留郡の豪傑:加藤梵玄と
  ともに甲斐源氏復興のために立ち上がった。
  武田信長を助けたのが日之出城を本拠とする日一揆と呼ばれる
  甲斐国守に仕える農士の集団であった。

  武田信長は伊豆千代の奪回に成功した。
 日一揆と共に跡部氏に荒川畔で決戦を挑んだ。

・応永28年(1421) 荒川の戦い
 武田信長が日之出城(武川町)に篭った。
武田右馬助信長の率いる日一揆は、逸見・跡部・於曽らの諸将
 の率いる輸宝一揆と激戦を交えた。
 日一揆側は惨敗した。
 柳沢・山寺・牧原ら武川の3将、河内・鷹野・吉田・矢作
 ・林戸・山県などの諸将を失った。
 日之出城は落城した。

・永享5年(1432)4月29日 柳沢
『一蓮寺過去帳』
※荒川合戦に柳沢氏が部将として参戦していることは、
 柳沢氏の発祥が康応(1389〜1390) ・明徳(1390〜1394)
  応永(1394〜1428)頃であるとも考えられる。

・戦国時代〜
柳沢内蔵之助義保→柳沢弥右衛門□□→
  @柳沢弥右衛門□□→柳沢弥右衛門□□→柳沢弥右衛門□□→
   ・・群馬県議会議長:柳沢本次氏→箕輪城奉賛会:柳沢佳雄氏
    (★日本一のブロック会社:エスビック)            
  A柳沢所左衛門□□→柳沢弥左衛門□□→柳沢弥左衛門□□
   →柳沢弥五右衛門 ・・柳沢真也→現:柳沢本也氏




2)武田信義→武田信光→4男:一条信長→信経→時信
甲斐守護一条時信の6男:青木十郎時光→○→○→○→○→○→
青木尾張守安遠→次男:青木弥十郎信興が柳沢村に封を受け、
柳沢信興を称した。
  (『寛政重修諾家譜』青木家譜:武川村誌)

・長禄2年(1458) 武田信興の兄:青木義虎が生まれた。
・????年 青木信興が生まれた。
・????年 青木弥十郎信興が柳沢村に封を受け柳沢信興を称した。
★柳沢家に婿養子に入った可能性が高い。
・明応5年(1497) 柳沢信興が晩年に出家し、菩提所竜華山柳沢寺に
  六地蔵石瞳を寄進した。瞳身に銘が彫られている。
 「明応五年丙辰三月二日願主□透謹白」
・永正8年(1511)武田信興の兄:青木義虎は53歳で没した。 



3)武田信玄→弟:一条信竜系柳沢氏


箕輪初心:生方▲【諏訪:桑原城】:諏訪頼重*滅亡の舞台】
http://53922401.at.webry.info/201603/article_21.html

・天文11年(1542)
7月1日  諏訪頼重が出撃した。
   矢崎原(茅野市)で武田軍と対峙した。
7月2日 高遠城主:高遠頼継が武田晴信に呼応に応じて杖突峠から
     諏訪に侵攻して安国寺附近に放火した。

  武田晴信に攻められた諏訪頼重は上原城を焼き、桑原城に
  籠城した。
7月3日籠城兵の戦意が次第に乏しくなり、逃亡者が続出した。
7月4日武田晴信の軍門に降りた。
7月22日、諏訪頼重は東光寺で自刃した。

8月16日 高遠頼継 死去(自害?)した。
武田晴信(信玄)が 諏訪における名声の増大を恐れ自害させた説
 もある。
●高遠城主:高遠(諏訪)頼継の家老として「保科弾正忠正則」
 (筑前守)が登場する。
箕輪初心:生方▲保科氏館跡&霞台城&保科温泉→高遠城
 http://53922401.at.webry.info/201604/article_26.html

高遠頼継の死後、保科正俊以下の旧家臣団は武田晴信の傘下とな
 った。
保科正俊は、高遠氏家臣団では筆頭の地位にあった。
★甲陽軍鑑では「武田の三弾正」保科正俊・真田幸隆・香坂
 槍の弾正・・・保科正俊

保科正俊は軍役120騎を勤める高遠城将として軍功を挙げた。
★保科正俊は高遠城代であった。
柳沢内蔵之助が目付であった。

・天文16年(1547) 高遠城は信濃への進出拠点として足軽大将
の山本勘助や譜代家老の秋山虎繁(信友)に命じて大規模な
改築が行われた。

*天文17年(1548) 上田原合戦
2月14日、武田晴信と村上義清による上田原合戦が起き、地
元情報を持っている真田幸隆が武田晴信の作戦に深く関わったの
であろう。しかし、武田晴信の重臣:板垣信方・甘利虎泰・初鹿
野伝右衛門、才間河内らが戦死した。武田晴信本人も負傷し、武
田方は村上方に大敗退した。

4月5日 信濃守護:小笠原長時は、好機到来と見て、
  安曇郡の仁科盛能と連合して諏訪に攻め入った。
  諏訪大社下社へ攻め込み放火した。、諏訪下社を占領した。
 

・弘治2年(1556) 秋山虎繁が高遠城主となり、坂西氏などを
  伊那衆とした。



・永禄9年(1569) 武田信玄は箕輪城を攻略した。

・永禄10年(1570) 8月7日 生島足島神社起請文
武田信玄麾下の武将たちは信州小県郡塩田下之郷、諏訪明
  神社前において、武田信玄に対し六か条の起請文を捧げた。
  「武川衆」の名もある。
 武川衆(六河衆)は柳沢壱岐守信勝・青木兵部少輔重満・横手監物
  満俊・宮脇清三種友・山寺源三昌吉・青木与兵衛尉信秀
  ・馬場小太郎信春の7士が連署した。
  柳沢壱岐守信勝の自署・花押・血判は現存している。


▲駿河花沢の戦い
  柳沢信俊(武川衆12騎衆)
  青木信立の3男:青木信俊は兄:横手信国がで討死すると、
  横手家の家督を相続した。
  北巨摩郡武川村柳沢を領し、柳沢姓とした。
  子:柳沢信忠は徳川家に仕え、孫:柳沢吉保は徳川綱吉の
  側近になった。


・永録12年(1569) 武田信玄の小田原城攻撃。49歳。
8月24日 武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府躑躅ヶ崎館を出立
 した。
   (★『甲陽軍鑑』)
柳沢内蔵之助も出陣した。


西上野の碓井峠を越えて南下し、安中・・藤岡・・
 
 武田信玄・武田勝頼・武田信廉・
 山県昌景・内藤昌豊(松本城)・馬場信春
 ・曽根昌世・浅利信種・小幡信貞・・・・・etc。
9月10日  鉢形城を包囲し、北条氏邦を攻撃した。
  (★『上杉家文書』)


9月26日 別働隊岩殿城主:小山田信茂1000が出陣し、
  小仏峠を越えた。
(★『甲斐国志』)
 北条家臣:横地監物・中山勘解由ら2000は檜原で、待ち
 受けた。

箕輪初心▲埼玉飯能市『中山家範館』:北条氏照の重臣
http://53922401.at.webry.info/201407/article_2.html

9月27日 武田勝頼が拝島から北条氏照の滝山城を攻撃した。
 1日で、攻撃をやめたが、滝山城は落城寸前だった。
箕輪初心▲滝山城:北条氏照の武蔵進出拠点の城
http://53922401.at.webry.info/201411/article_3.html

箕輪初心▲東京【八王子城】:北条氏照築城
http://53922401.at.webry.info/201411/article_4.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201411/article_4.html
 ★八王子城を造るきっかけになった。

9月28日 武田信玄は小仏峠から入った小山田氏らと合流した。
  牛ヶ渕の合戦・・・
 相模国へ進入した。・・・

10月1日 武田信玄は上杉謙信同様、幸田門(今の幸田門でない。)
 に着陣した。
  北条氏康の小田原城を囲んだ。
※小田原城は有名な惣構えが着工前であった。
 武田信玄は上杉謙信と同じく、幸田門(今の幸田門より二の丸
 より)・・小田原城を包囲し3度にわたって挑発した。

○箕輪初心●神奈川:小田原城=百名城
http://53922401.at.webry.info/201106/article_19.html

 しかし、北条側は小田原城を出なかった。

10月4日 小田原の守りが固いと見るや撤兵した。
 (★『上杉家文書』『甲陽軍鑑』)。

10月5日 小田原城城下周囲を放火して軍勢を引き上げた。
 小田原を出発し、平塚から相模川沿いに厚木→中津→角田
 →三増と進んだ。
 
 北条氏康は北条氏照・氏邦に先回りさせ、三増峠付近で待ち伏せ
 することとした
 (★『甲陽軍鑑』)。

※滝山城などの北条方
甲州街道守備軍の北条氏照・・・滝山城
秩父方面守備軍の北条氏邦・・・鉢形城
北条綱成 北条氏忠 高城蔵人 原胤栄
上田朝直
八王子片倉城で合流した。
箕輪初心▲東京八王子【片倉城】:カタクリの里
http://53922401.at.webry.info/201411/article_18.html

・軍勢2万が要所である三増峠
(相模原市緑区根小屋〜愛甲郡愛川町三増)に着陣した。

武田信玄は小幡重貞を迂回させて、三増峠の北側にある後北条
 氏方の津久井城の抑えとした。
 武田信玄は後詰の遮断と帰路の確保を目的に小幡憲重&
 信貞父子(国峰城)の軍に津久井城を囲ませた。
★小幡憲重は小幡信貞の父。
   妻は長野業正の母の妹の娘
★小幡重貞→信貞→信実→
  妻は長野業正の娘

箕輪初心●相模:津久井城=三増峠の戦いの地
http://53922401.at.webry.info/201411/article_17.html

また山県昌景らに志田峠を越えさせて、待ち伏せする後北条軍の背後
に回らせた
(★『甲陽軍鑑』)。

10月6日 早朝、武田軍と北条軍が対陣した。
さらに北条氏政が2万余りを率いてやってきた。
北条氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃し、殲滅する作戦であった。

 内藤昌豊は、小荷駄隊を中心にして志田峠を進んだ。
 (『甲陽軍鑑』)
 小荷駄隊が武田軍の先頭だった。
 北条氏照の攻撃を受けて被害を負っている。
 (『山吉文書』)。


10月7日 北条氏政本隊は到着前であった。
 北条氏照・氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようと
 していた。
 武田信玄はこれを察知して、部隊を3隊に分けた。
@本隊・・北条軍の攻撃を正面から受けて立つ
 A左翼・・浅利信種隊や浦野重秀(大戸城)隊・・・上野隊
 B右翼・・山県昌景隊 
 ・・・2部隊は北条軍を横から急襲する作戦であった。

10月8日 三増峠の戦い
現神奈川県愛甲郡愛川町の三増周辺

武田信玄2万  VS 北条氏照&北条氏邦 6,000〜2万
北条氏は甲斐に帰国しようとする武田軍相手に有利に展開した。
 武田軍は損害を受けた。
 北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃により左翼の浅利信種や浦野
 重秀が討ち死にした。
浅利信種は鉄砲に当たって討ち死したのだ。
  (★『北条記』)
 浦野重秀(上野国大戸城)も戦死したのだ。
  一説には、武田側は200余人の犠牲者を出したとされる。

緒戦では、北条氏照の奮戦で、武田氏の先手衆を押し切り、成果を
 上げた
 (★『上杉文書』『北条五代記』『北条記』)。

しかし、山県昌景率いる武田の別働隊が志田峠 (三増峠南西約1km)
に機動した。高所から奇襲に出ると戦況は一気に武田に傾いた。
 山県昌景が突撃すると、挟み撃ちの形となり、北条氏は退却・敗北
 した。
  (★『甲陽軍鑑』『戦国合戦大事典』)

北条軍は背後の津久井城守備隊の内藤隊などの予備戦力が、武田軍別
働隊に抑えられて救援に出なかったこともあり、大きな被害を受けた。
左翼隊は戦死した浅利に代わって軍監:曽根昌世が代わりに指揮を
とった。
北条綱成の軍勢を押し戻すことに成功した。

緒戦では苦戦したものの、最終的には武田軍の勝利とされている。
先に三増峠に布陣したのは武田軍で、布陣をを知らなかった北条軍が
不意の攻撃を受け、敗退したという。
(★『北条五代記』『北条記』)

有利に戦いを進めていた北条軍に対し、武田信玄は伏兵で反撃をし、
形勢を逆転させた。

武田信玄は、北条氏康本隊の到着を恐れ、迅速に戦いを進めた。
武田信玄は自軍の勝利と見ると、軍勢を反畑(相模原市緑区)まで
移動させ、勝ち鬨を挙げた。その後、武田軍は甲斐に撤退した。
★武田信玄は賢明であった。
北条氏康&氏政父子の北条本隊2万は荻野(厚木市)付近に到着して
いたが、北条軍の敗北を聞いて小田原城に退いた。
 (★『甲陽軍鑑』)
結果・・・
@武田側・・・・1,000余(北条五代記)
900(甲陽軍艦)
A北条側・・・・ 2,000余(諏訪家文書・武田信玄書状)
         3,269(甲陽軍鑑)
しかし、本当に武田軍が勝ったのかは疑問である。


内藤昌豊が箕輪城代になった。
 内藤は保渡田城を改修して住んだ。
武田氏系一条信長流?柳沢内蔵之助は内藤昌豊の目付と
 して、武田信玄に命じられ、上野国にやってきた。
 旧群馬町金古に在住したと思われる。

  

・天正3年(1575)5月21日 長篠の戦い・・
 三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)で
 織田信長徳川家康連合軍3万8000 VS 武田勝頼軍1万5000
 ・戦況不利を悟って、武田勝頼に撤退を進言。
内藤昌豊は受け入れられず出撃した。
  
●内藤昌豊が戦死。壮烈な戦死。享年54歳。
 保科千次郎(昌月)が内藤昌秀の養子として、内藤家の家督を
 継承した。

・天正5年(1577)
2月9日 内藤昌月→瀬下隼人への書簡 
  内藤昌月が箕輪城着陣。
 @若輩者ですが・・・2月11日に甲府を出発。
2月14日に箕輪城に到着。
 A瀬下隼人から引き継ぎをおねがいします。
  (★瀬下家文書)
柳沢内蔵之助は内藤昌月に仕えた。

5月 内藤昌月は父の遺骸を奉じ、善龍寺に
  葬った。
家臣の大熊備前が持ち帰った首級を善龍寺に葬った。


・天正16年1588)内藤昌月もに逝去し、昌豊の隣に葬られた。
(右が昌豊、左が昌月。)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心●箕輪城シリーズQ「第10代内藤昌月」
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201010/article_26.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・天正7年(1579)
内藤昌月は不在であった箕輪城代として赴任し、大和守を
  称した。

8月 内藤昌月は北条右衛門尉、宇津木氏久と謀り、上杉景虎方
 であった厩橋城、大胡城を領有する北条高広を武田方に転じ
 させた。
 
8月28日 武田勝頼→北条氏への書簡
  内藤昌月が家臣に箕輪城を伝える。=演説をする
  (★新編高崎市史:秋本先生) 

★内藤昌月が善龍寺を再建したのはこの年かもしれない。 
 善龍寺は曹洞宗の寺で、山号は満行山善龍寺となった。 
 


●天正10年(1582) 〜
2月17日 織田信忠は平谷:滝沢に陣を進めた。
 (★『信長公記』)

2月18日 織田信忠は飯田に侵攻した。
  飯田城主:保科正直(保渡田城主&箕輪城代)は飯田城を
   捨てて仁科盛信の高遠城へと逃亡した。

   武田信廉(勝頼の叔父)らは飯田城放棄を聞いて戦意喪失
  した。
  武田信廉(勝頼の叔父)は大島城(下伊那郡松川町)から
   逃亡した。
  ※武田軍は戦わずして南信濃を失った。

2月28日 河尻秀隆(妻は武田信廉の娘)は織田信長から高遠城の
  攻略のために陣城を築けとの命を受ける。

 織田信忠率いる3万の兵が、武田勝頼の弟:仁科五郎盛信が
 籠もる高遠城に押し寄せた。

3月1日 高遠城(伊那市高遠町)主:仁科盛信(信盛)
     は籠城した。
   佐久郡内山城(長野県佐久市)の城代:小山田昌成・
   大学助も副将として高遠城に入っていた。
   織田信忠は高遠城を包囲した。
     (★『甲乱記』『信長公記』)
    飯田城から逃げ帰った保科正直もいた。
   元々、高遠城は諏訪一族の高遠氏代官:
     保科家の城であった。

  織田信忠は仁科盛信に黄金と書状を送り、開城を促した。
  しかし、仁科盛信は要求を拒絶した。


3月2日 織田軍3万余は総攻撃を開始した。
   仁科盛信は籠城し、織田軍と激闘を繰り広げた。

 織田方の織田信家が戦死するなど大きな被害を受けた。
 織田軍に城門を突破されるに及び、ついに仁科盛信・小山田昌成
 ・大学助らは戦死し、高遠城は落城した。
(★ 『信長公記』)

 保科正直は降伏した。
 
 
小山田兄弟は二の丸を捨て、本丸へ逃げた。
保科正直は火の手上がる本丸を呆然と見つめるしかなかった。


森長可はこの功績により、信濃川中島四郡と海津城20万石を
与えられた。
その後、信濃入領統治、越後侵攻と続いた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲真田丸43:第6話【迷走】のあらすじ
&「森長可の撤退」
http://53922401.at.webry.info/201602/article_19.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
     
※高遠城の戦い
その後、保科正俊&正直父子は保科正直の実弟:内藤昌月を
 頼った。内藤昌明は箕輪城代であったが保渡田城に住んで
 いた。


3月11日
柳沢信勝(武川12騎衆)は松平元康から柳沢郷70貫
  (北杜市)を安堵された。
徳川家康文書の安堵状 12名の名前
 青木尾張守時信 柳沢兵庫丞信俊 折井市左衛門次昌
 折井長次郎次正 米倉六郎右衛門信継 米倉左大夫豊継
 米倉加左衛門定継 曲淵彦正正吉 小沢善大夫
 横手源七郎 青木弥七信安 折井九郎次郎次忠

7月 ▲天正壬午の乱 
北条氏政・氏直 VS 上杉景勝
信濃の旧織田領を巡って対立した。

7月13日 真田昌幸など13人の信濃の武将は小諸城の
 北条氏直に出仕した

 保科正直は跡部勝資の長男:跡部勝忠の娘を北条氏直へ
人質として差し出した。


7月19日頃? 北条氏直は真田昌幸&松田憲秀に殿を命じた。
※松田憲秀は山中城の城代であった。
 真田昌幸は信濃残留を申し出た。
 保科正直の子:正光は真田昌幸が預かっていた。
 ★保科正光の妻は真田昌幸の娘だった。

 保科正直・内藤昌月兄弟は小諸城から甲斐に向けて進軍した。
 
8月  北条氏政・氏直 VS 徳川家康
   甲斐の旧織田領を巡って対立

保渡田城代:内藤昌明から500を借り、高遠城を
奪還を図った。
内藤昌月は「軍勢を貸して欲しい。」と願い出た。
真田昌幸は「高遠は北条氏直から朱印状をもらっておる。今は
出陣をお断りする。でも、昌月殿の兄なので悪いようにはしない。」
保科正直はむっとした。
真田昌幸は
「早々に高遠を乗っ取り、自分のものにしてしまえば、よいで
あろう。短気はよろしからず。・・」

保科正直は内藤昌明の家臣:友野十郎左衛門&内藤昌明の軍
 500を借り、箕輪城から高遠城に出陣した。
友野Hしゃん、ご先祖様かもしれませんよ。
 伴野貞長の弟の直系とわかってよかったです。
友野十郎左衛門の子孫が箱根用水を造ることになる。
 柳沢内蔵之助も出陣した可能性がある。


保科正直は難なく高遠城に入城した。
真田昌幸の言ったとおりになった。

保科正俊・保科正直は北条氏直軍の別働隊として高遠城を奪取
することに成功した。
仁科信盛の戦死後、高遠城はあれていた。

▲甲斐黒駒合戦
徳川家康が優勢に経つと、依田信蕃、真田昌幸、木曾義昌、
 保科正直ら他の信濃国衆と共に徳川家康に臣従した。

10月29日 北条&徳川の和議
  徳川家康は北信濃を除く武田遺領を確保した。


保科正直も徳川家康に臣従した。
   高遠城主としての地位を2万5,000石を領した。
柳沢内蔵之助は保科正俊・正直について、高遠に移り住んだ。
 

箕輪初心▲箕輪城152【長野業正の長男:長野吉業の菅谷城&善龍寺】
http://53922401.at.webry.info/201412/article_14.html





・天正18年(1590)
(★一条信竜流柳沢信興→貞興→信景→信房→信兼→信俊)
柳沢信俊は武川衆とともに武蔵の鉢形領(埼玉県寄居町)へ
移っている。


●天正19年(1583)10月9日 柳沢内蔵之助が亡くなった。
  67歳。
その子:柳沢弥右衛門が跡を継いだ。
 ★柳沢弥右衛門も目付として高遠城に残った。
 でないと、後の用水路開発に繋がらない。

●文禄元年(1592)
柳沢所左衛門が生まれた。
  柳沢弥右衛門は浪人して、所左衛門を連れて、
妻の実家:富岡一の宮に住んだ。
 (★柳沢弥右衛門家系図では金井淡路守秀景の娘である。)
その後、上野国金古(現高崎市
  旧群馬町金古)に移り住んだ。

柳沢家の家紋は「花菱」で、武田菱の一つである。

・文禄元年(1592) 秋元泰朝は井伊直政の斡旋で徳川家康に拝謁し、
 徳川家康の近習となった。
 父:秋元長朝は井伊直政の推挙で上野国総社4千石を領した。
 興廃していた蒼海城(現総社神社)に入った。 


・慶長3年(1598)に徳川四天王の「井伊直政」が本城を
 箕輪城→高崎城に移した。この時、高崎城の縄張りは早川幸豊
であっただろう。長野堰からの新井堰の取水口&新井堰は秋元
長朝、新井喜左衛門などに命じて作らせたのでないかと思われ
る。
この時、市川五郎兵衛真親&柳沢弥右衛門は秋本長朝・新井
 喜左衛門の元で新井堰掘削の手伝いをした可能性がある。
 
箕輪初心◆高崎の長野堰=西新波堰の歴史
http://53922401.at.webry.info/201310/article_12.html

箕輪初心◆長野堰B「染色のまち高崎に流れる長野堰
:高崎広報」
http://53922401.at.webry.info/201410/article_13.html

箕輪初心:生方「箕輪城159&【中嶋宏氏主催の長野堰を語り
つぐ会の絵図展】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_4.html

箕輪初心:生方▲【長野堰を語り継ぐ会の絵図展】&【高崎城の桜】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_5.html

箕輪初心:生方★高崎城【井伊直政&早川幸豊】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_9.html

箕輪初心:生方★高崎城&長野堰【井伊直政&秋元長朝&新井喜左衛門】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_10.html

・慶長6年(1601)  井伊直政の近江の佐和山城18万石で
  移封。
  諏訪頼水が高崎城代となった。
(★新編高崎市史)
  諏訪頼水が諏訪高島城へ移封。
 →秋元長朝が惣社(前橋市総社町総社神社本丸)入封。     
※秋元長朝は6千石が加増され1万石の所領の大名となった。
  秋元長朝は天狗岩用水も企画した。

箕輪初心:生方★高崎城&長野堰【井伊直政&秋元長朝&新井喜左衛門】
http://53922401.at.webry.info/201504/article_10.html
秋元長朝はおそらく高崎城の内堀・用水路・遠構え
 建築に貢献したのだ。
 この時、市川五郎兵衛真親&柳沢弥右衛門は秋本長朝・新井
 喜左衛門の元で天狗岩用水掘削の手伝いをした可能性がある。

箕輪初心:生方▲20151110【総社秋元公歴史まつり】:秋元長朝の功績
&光厳寺&元景寺
http://53922401.at.webry.info/201511/article_10.html

箕輪初心:生方▲【上野総社藩2代目:秋元泰朝の生涯】
http://53922401.at.webry.info/201511/article_11.html

箕輪初心★江原源左衛門&滝川用水
http://53922401.at.webry.info/201310/article_11.html
秋元長朝は江原源左衛門の滝川用水築造に大きな
 貢献をしたのだ。市川五郎兵衛真親・柳沢所左衛門も
 お手伝いをした可能性が高い。


●慶長15年(1610) 柳沢所左衛門18歳は市川五郎兵衛真親
 従って、佐久に行った。


●元和元年(1615) 織田信雄は小幡2万石・宇田を領した。
 雄川堰を掘削した。市川五郎兵衛も開削に貢献した。
 (★根澤館長説明)
 ★おそらく、柳沢所左衛門も手伝った。

●元和9年(1624) 「楽山園」完成した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心◆群馬『織田信雄の小幡城下の桜が満開』
http://53922401.at.webry.info/201304/article_9.html

◆◆ 箕輪初心●群馬:小幡2011「小幡城」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_15.html

◆◆ 箕輪初心●群馬:小幡2012「武者行列」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201204/article_9.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

●寛永2年(1625)  
南牧村はほとんどが急傾斜地で稲作はできなかった。
広い平地の佐久に目を付けた。
 
●同年 柳沢所左衛門35歳は佐久に移り住んだ。 

  佐久で新田開発を始めた。
  三河田新田・市村新田を開発した。

●寛永3年(1626)
  市川五郎兵衛真親は佐久の浅科の用水路・新田を開発準備に
  取りかかった。。
柳沢弥右衛門家一族:柳澤所左衛門&弥左衛門父子も五郎兵衛
 の右腕として一緒に開発に携わった。
(★五郎兵衛記念館)
★長野県南佐久郡佐久穂町千代里柳沢に住んでいたと思われる。
その後、浅科の名主となった。


●12月 小諸藩から「開発許可状」をもらい、五郎兵衛新田
  の開発に取りかかった。
  蓼科山の山中の湧水を水源として岩下川に落とし、湯沢川との
  合流点、現在の望月町春日でせき止めて取水し、そこから山に
   沿い、トンネルを掘ったり、川の上を掛け樋(どい)で通す
  などして、約20kmの用水路を開削して矢嶋原まで引いた。
    
・寛永8年(1631)頃? 用水路が完成した。
そして、五郎兵衛用水を基に五郎兵衛新田を開発した。

・寛永19年(1642) 五郎兵衛は功績が認められて小諸藩から、
150石の土地を褒美領として与えられた。

  五郎兵衛さらに御牧原を開発しようとしていた(伝)。
  しかし、それは実現しなかった。

柳沢弥左衛門&『原新田用水』〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
明暦元年(1655) 伊那の高遠の原新田村が水不足に悩み、
  三峰川から取水して開田しようとした。
  農民達は高遠藩の許可を得た。
  農民達は佐久の五郎兵衛新田の開発に実績のあった佐久の
  柳沢一族:柳沢弥左衛門を招いた。
  柳沢弥左衛門は妻子とともに原新田へ移住し、農民達と
  ともに水路開削に取り組んだ。
  三峰川から富県・みがた→東春近まで多くの水田を潤す
  用水路である。

・万治元年(1658) 用水路が完成した。
   しかし、難所:鞠ヶ鼻(まりがはな:高遠町河南、
   叶蜿の酒造工場近くの段丘中腹)が洪水で崩壊した。
高遠に泊まった時、黒松仙醸を飲んだ。旨かった。
  
その後も失敗続き、村は多額の借金を背負ってしまった。
   資金も底をつき計画は失敗に終わった。
  弥左衛門は失意のうちに集落を去った。
・その後、桜井村(現伊那市富県桜井)の用水を分け
 てもらい、開田し田畑併せて170石余とした。
 そして、集落の名を「原新田村」とした。

・明和6年(1769) 柳沢弥左衛門の孫:柳沢弥五右衛門が再び
  原新田村に依頼され高遠藩に用水路建設の許可と費用の借財
  を申し入れた。110年後のことであった。
 しかし、柳沢弥五右衛門の願いは許可されず、柳沢弥五右衛門
  は原新田を去った。
 

結局、原新田に柳沢家が3代約100年に渡って関わった。


(★伊那市史・小諸市史)


※伊那市東春近原新田に「原新田集落発祥の地」の名残りの
  石の祠「雨宮・風宮」がある。





★明日は?

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心:生方▲武田信玄家臣:柳沢弥右衛門→所左衛門→弥左衛門&『伊那原新田用水』 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる