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zoom RSS 箕輪初心:生方▲武田晴信の天文15年(1546)の隠れた上州侵攻&武田家臣:市川氏

<<   作成日時 : 2016/05/13 19:37   >>

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i南北朝時代、上野国南牧に市川一族が住んだ。天文15年(1546)、
武田晴信が佐久内山城を攻略すると、同心であった南牧の市川氏
に上州侵攻の拠点として南牧に砦を築せた。永禄3年(1560)頃、
市川一族は小幡憲重・信実(信貞)の配下になった。永禄4年
(1560)第4次川中島の戦いにも従軍した。天正10年(1582)武
田氏の滅亡後、市川氏は帰農して庄屋となった。江戸時代も砥
山の経営や信州佐久郡の五郎兵衛新田開発にも大きな功績を残
した。また、砥沢の関所の関守を勤めた。
画像

 (★羽沢城)

箕輪初心●【南牧村の城20城一覧】&▲黒滝山登山
http://53922401.at.webry.info/201204/article_21.html
余地峠の里:郷土研究会(会長:須賀健治)+郷土博物館
城砦11+烽火台9=20城である。


 



【1】市川氏(市河氏)の出自
  甲斐国八代郡市川を発祥とする清和源氏新家三郎義光流、
  桓武平氏城氏流、橘氏流、佐々木流、武田流などの諸流がある。

●清和源氏新家三郎義光流甲斐市川氏の家紋・一条信長流柳沢氏
  武田流の家紋は「丸に花菱・丸に松皮菱」である。
  市川氏は新羅三郎義光の子:市川別当刑部卿阿闍梨覚義を祖に
  している。

・久寿2年(1155)大蔵合戦=大蔵の戦い
  悪源太義平&源頼朝 VS 源義賢+秩父重隆
★源家・・・兄弟対決、実質は甥VS 叔父
 +畠山重能    VS +秩父重隆
  ★秩父家・・・孫 VS  祖父の対決となった。
 
 大蔵館で源義朝の長男:悪源太義平(源義賢の甥)と
 源義賢と争った。・・・源義賢は討たれた。
 ★源義朝の命を受けた源義平が源義賢は討ったのだ。
 畠山重能は叔父:秩父重隆と秩父重隆の婿源義賢を討った。
 市川覚義は、源義賢の味方し、大蔵の館に拠った。
箕輪初心●埼玉嵐山町【大蔵館】&源義賢の生涯
http://53922401.at.webry.info/201406/article_15.html

市川覚義は家臣馬場頼房・頼直らとともに甲斐国市川に落ちのび、
八代郡市川に居住したという。
 覚義の長男:覚光は甲斐国市川寺の別当となった。
 次男:倶義は父:覚義とともに住した。

●市川覚義→長男:覚光→清房(行房)系
   市川別当行房は市川氏女と刑部三郎義清との間の子である。
   (★恵林寺蔵の武田氏系図)
『吾妻鏡』にも登場する。
  市川行房の子息
  嫡男:市川行重
   市川寺表門神社の神主家「行重→行政→行照→行宗→行氏・・・」
   と続く。
 
  次男:市川別当次郎定光(★曽我物語)

   「定光→祐光→高光(掃部允)」信州の市川氏となる。
  子孫の北信濃の市川梅隠斎等長は10騎足軽50人の足軽
   大将である。

・天文22年(1553)
 市川等長は長沼城主:島津家が長尾景虎につくと、長沼城へ
  移った。
     (★『甲陽軍鑑』)


・弘治2年(1557)
 7月19日付 武田晴信は高井郡の市河信房に安田遺領を安堵した。
 8月8日付  真田幸綱に尼飾城の城番を言い渡した。
  (★真田三代:笹本正治著)  

・永禄3年(1560) 信濃市川氏は海津城の二の曲輪を守備した。
 


●●市川覚義→倶義系
  →諸義→喬儀→直義→佑光→教光
・元弘2年(1332) 市川教光は新田義貞に属して鎌倉攻めに
  参加した。
  ▲由比浜の戦い
   市川教光は戦死した。
   市川教光子:五郎忠光は新田義興に従った。
   新田義興は武蔵に侵入して入間川周辺でゲリラ戦を展開し
   足利尊氏方をてこずらせた。
・延文3年(1358)
▲矢口の渡しの戦い
 鎌倉公方の執事:畠山国清の謀略で義興は江戸遠江守・竹沢右京
 亮らに討ちとられた。
 市川忠光もともに戦死したという。
 甲斐にいた弟:正光が市川氏を継いだ。
 新田義興の家臣:市川五郎忠光の子ども
 @長男:太郎光重・・・世良田政義に属して信州浪合にて戦死した。
三河市河氏へ
 A次男:藤次郎・・・・上州広沢(現太田市)に居住した。
   砥沢(南牧村)に転居した。
●上州南牧市川氏の祖となった。
   武州半沢郡に出た市川一族子孫もいた。

 A3男:藤三・・・・・上州広沢(現太田市)に居住した。 
   (★新田家臣祖裔記)
 
●武蔵国比企郡田中村の市川家系図が伝えられている。
  新羅三郎源義光の子息覚義を始祖とする。
・天文12年(1543)  
「甲斐源氏市川家の系図被見の處、表出の由惣て相違之れ無し仍て
件の如し 印 
天文十二年卯三月 左京太夫信虎 印  
飯富兵部少輔承之 花押」
東大史料編纂所が裏書き・印・花押は本物と鑑定している.
  (★市川家系図)

◆南牧系市川氏
市川満義→満久→真重→清信→信保→真保
 @砥沢市川真乗→久乗→久光
画像

 A羽沢市川真治→真貞→真久→真親(五郎兵衛新田)→真利
         →真因
画像

 B大潮沢市川真好→真成→真令→(養子:真因)


・延文3年(1358) 10月10日
新田義貞の次男:新田義興(28歳)が、多摩川の「矢口の渡し」
 で謀殺された。
畠山国清は、元新田の家臣で江戸高重のとしなしで足利に寝返っ
 た馬込(六郷)の国人:竹沢右京亮に新田義興の殺害を命じた。
 足利尊氏が亡くなると、竹沢右京亮は再び新田に寝返ったと装
 い、鎌倉奪還のチャンス到来と新田義興をそそのかした。
※ちなみに竹沢右京亮は「蒙古来襲絵図の竹沢です。」
(★五郎兵衛記念館:根澤館長)
 新田義興は右京亮の言葉を信じ、12騎の従者とともに、配下の
 兵2000人が待つ鎌倉を目指した。
  ところが、多摩川の「矢口の渡し」を、小舟で、川崎側に渡る
 最中・・・・
 竹沢右京亮の息がかかった船頭の頓兵衛に船底に仕掛けられた穴
 の栓を抜かれ、小舟は沈みかけた。右京亮は150の兵を潜ませて
 おり、川崎側にも江戸高重の兵500が待ち伏せてあり、逃げる
 ことができない。 謀られたと知ったときは時すでに遅く、新田
 義興は船上で自刃して果てた。
 従者12名も壮絶な戦いの末、討ち死にした。

『・・其中に水が船に湧き入つて腰までも来た時、井弾正は兵衛佐殿
 を抱き奉つて宙に差揚げたので、佐殿、
 「日本一の不道人どもに、詐られたことの腹立たしさよ。七生まで
 汝等の為めに恨みを報じよう。」と、腰の刀を抜き、左の脇から右
 の肋骨まで掻き廻し掻き廻し二刀まで切られると、井弾正は腸を引
 切つて河中へがばと投げ入れ、己が喉笛二所刺し切つて髪束を掴み、
 自分の首を後へ圻りつけた、其音が二町許り向ふまで聞こえた。』
 (★ 『太平記:西村真次訳)

『土肥三郎右衛門、南瀬口六郎、市河五郎は各各はかまの腰引
 ちぎりて裸になり、太刀を咥えて河中に飛び入りけるが、水の
 底をくぐりて向かいの岸へ駈け上り敵300騎の中に走り入り
 半時ばかり切り合いけるが、敵5人を討ち取り、13人に手負
 わせて、同じ枕に討たれける。・・・』
(★『太平記』)
 ★市河五郎は市川満久である。
 (★五郎兵衛&用水:伊藤一明著)

・甲斐市河荘に住むことができず、南牧村に逃れ、入った。

・???? 羽沢城:市川豊前守重信の出城→屋敷
         (市川五郎兵衛屋敷)

・天文年間    市川豊前守重信の次男:右馬佐の
         羽沢市川家の住居・・・
  市川氏は大井貞清の同心であった。親戚関係である

・天文5年(1536) 市川真治は武田軍の先駆けとして
兵を送った。

・天文6年(1537) 武田晴信の感状+金襴1反
(★伊藤著は間違っているかもしれない。
まだ、当主になっていない。元服していない)

・天文15年(1546) 武田晴信の内山城攻撃
箕輪初心:生方▲真田●44【佐久内山城】真田幸隆&大井貞清
http://53922401.at.webry.info/201602/article_20.html

5月3日 海ノ口に着陣。
5月6日 前山城に布陣した。
     ※伴野助十郎の居城である。宗家は拙宅から50m。
     内山城の大井貞清・貞重父子を攻めた。
大井貞清が立て籠もる内山城を包囲した。
5月10日 内山城の水の手を断った。
5月14日 主要な曲輪をほとんど陥とした。
  大井貞清は本城で抵抗した。武田軍は総攻めをしかけて
5月20日 大井貞清は内山城を開城した。
大井貞清は捕えられた。
真田幸隆の口利きで大井貞清は助命された。
      大井貞清は野沢城に蟄居した。
?月?日  大井貞清は内山城代を任された。

●武田晴信は余地峠と南牧を支配する南牧衆市川氏を調略した。

 7月18日 上原伊賀守昌辰(小山田備中守昌辰・小山田虎満)
      が内山城代を任じられた。
  長窪城(現長和町)の大井貞隆&内山城の弟:大井貞清の
  大井一族が壊滅状態になったことで佐久郡の大半が武田晴信
  に制圧された。

・天文16年(1547)
5月4日 大井貞清父子は翌躑躅ヶ崎館への出仕した。
  駒井高白斎を仲介として武田晴信に臣従した。
(★『高白斎記』)

 大井貞清は上野国の上杉憲政や信濃小県郡の村上義清に通じた。

・天文17年(1549) 大井貞清は再び降伏し、武田晴信に仕えた。

●天文16年(1547) 市川真治が亡くなった。

●天文17年(1549) 武田晴信の田口城攻撃。
  田口信能を攻略した。

  市川真治は瀬戸(佐久市瀬戸)120貫を
  武田晴信より領した。

 市川右馬助殿・市川右近助殿・市川縫殿助殿
(★北佐久郡浅科村:五郎兵衛記念館市川家文書)


●???? 6月5日付 武田晴信書状
  「今度内山へ移り射手候処ニ、・・・」
   市川右馬助殿

  
・天文21年(1553) 北条氏康が平井城を攻略。 
  平井城主:上杉憲実は長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃亡。
  上杉憲政が没落

〜〜〜上杉家15代:上杉憲政〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲箕輪城179●20151126森田真一先生講演会
『上杉氏・長野氏・里見氏』
http://53922401.at.webry.info/201512/article_1.html

箕輪初心●群馬【平井城後編】関東管領:【15代:上杉憲政 】
http://53922401.at.webry.info/201405/article_31.html

箕輪初心●群馬「平井城」=関東管領:上杉憲政の城
http://53922401.at.webry.info/201107/article_7.html

箕輪初心●群馬藤岡編:平井城の城郭群=「金井城」など
http://53922401.at.webry.info/201107/article_8.html
★額金山城は平井城の詰め城である

箕輪初心:生方▲【水上:建明寺】&上杉憲政は水上での
逃亡生活7年間?
http://53922401.at.webry.info/201505/article_11.html

箕輪初心●山形【米沢城】&上杉家墓所・林泉寺・照陽寺
http://53922401.at.webry.info/201307/article_5.html
★上杉憲政公の墓は米沢の照陽寺にある。

箕輪初心:生方▲群馬【平井金山城】後編&猪之田温泉
http://53922401.at.webry.info/201505/article_18.html
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

●????年 武田信玄は国峰城主:小幡憲重・信実父子を従属
  させた。小幡憲重は北条氏康にも通していた。
 ※どちらかとすれば、武田晴信よりであった。
(★真田三代:平山優著)
※小幡重貞(箕輪城の長野業政の長女が妻)は敗北
  →武田方に参陣か?
★長野業政絶頂期での小幡一族の様子       
 ※箕輪城主の長野信濃守業政は上州一揆の旗頭である。
   小幡氏は同心である。 (★群馬県史:近藤先生)
 ※長野業政は女子が12人の内の長女・次女を小幡氏に配している。
  @長女・・・国峰城の小幡重貞(=後に信貞)
  A次女・・・宮崎城&神成城の小幡図書介景貞
       (小幡重貞の従兄弟説が有力説)

箕輪初心●群馬の城:旧甘楽町A国峰城=武田24将:小幡重貞
http://53922401.at.webry.info/201107/article_7.html
★24将ではなかった。根澤館長は武田晴信の騎馬軍団では
 小幡信貞が最強であった。馬が圧倒的に多かった。

箕輪初心●群馬の城「宮崎城→神成城」=小幡図書之介の城
http://53922401.at.webry.info/201107/article_16.html
 
・永禄3年(1560)
5月 小幡憲重・重貞父子が草津温泉に湯治中に、箕輪城の
    長野業政・小幡図書介景純が国峰城を奪取。
(★『関東古戦録』:久保田順一訳)
@小幡憲重の妻は長野業正の母の妹の娘である
 (★『西上州の中世』:黒田基樹著)
   A小幡重貞(信実→信貞)の妻は長野業正の長女である。
   小幡氏が武田氏に走った報復と考えられる。

   小幡重貞は武田氏配下 VS 長野業政は長尾景虎の同心
  

   ※武田信玄は小幡重貞に信濃国大日向で五千貫を与えた。 
※伊藤一明氏説
    宮崎城主:小幡尾張守が羽沢に逃れ、市川氏を頼った。
市川氏は武田晴信の援軍をまって、宮崎城を奪還した。

★しかし、宮崎城主・神成城主は小幡図書介景澄なので、
 伊藤説は違っている。本当は国峰城である。

  小幡憲重は笹の平城(南牧村磐戸)
   北小幡領の最前線として築城した。

●永禄3年(1560) 5月6日付 武田家朱印状写 
 小田切・高野(佐久市小田切・佐久穂町)120貫
  ■田・桑山(佐久市)80貫
  海瀬・三分(佐久市)130貫
  崎田(佐久穂町穂積)70貫  
  所領充行・・・
  市川右馬助殿・市川右近助殿・市川縫殿助殿
(北佐久郡浅科村:五郎兵衛記念館市川家文書)

 
 9月 武田信玄は小幡重貞を砥沢の羽沢城に(群馬県南牧村砥沢
    :旧羽沢小学校)に転勤。(★上毛古戦記28話)            
    市川馬之助兄弟など南牧地衆を配下とした。
    
    国峯城主:小幡図書介景純は砥沢を攻略するため、
    檜平付近で戦ったが敗退した。


●永禄3年(1560)?10月11日付 武田晴信書状写   
 市川右馬助殿・市川右近助殿・市川縫殿助殿
 其地出陳之由、辛労察入候、年来小幡殿申談義云々

 ※砥沢城に小幡信実は在城した伝説があり、
市川氏は小幡憲重・信実の同心衆に編成替えされた。
(★黒田基樹説)

・永禄4年(1561) 4月 笹渡戸の戦い(笹の平・檜平)
  武田信玄の攻撃で、小幡図書介景純の笹の平落城。
  武田信玄の祠・・・箕輪城攻撃戦勝祈願。
    上野進出の足がかりになった戦である。
(★南牧村史)
 ※黒田基樹氏・平山優氏の研究では南牧村史と1年違っている。


●永禄4年(1561) 卯月17日付 武田家朱印状写
  所領安堵状・・・・
  市川右馬助殿・市川和泉守殿・市川四郎右衛門殿
  ・市川神四郎殿・市川半次郎殿・市川孫六殿

・同年 第4次川中島の合戦
 山本勘助が実在していたことは確認されている。
 昭和44年に発見された武田信玄直筆の「市川文書」の中に
 山本勘助の名が記された書状がある。

@永禄6年(1563) 武田信玄の箕輪城直接攻撃  
  佐久の新海三社神社参詣・・・田口峠・・・南牧へ
 ★既に、市川一族が南牧に城を築城・・・13城?

・武田信玄の信州:佐久→上野国侵攻開始
・上野国(群馬県)の豪族の中で、一番最初に武田信玄の家臣
  になったのは南牧村を治める「南牧六人衆」である。
  ・武田信玄は「南牧六人衆」のうちの一人:市川四郎左衛門
   貞保の砥沢城を拡張工事を開始させた。
  
 ・武田信玄砥沢城を起点に上野国の国盗り合戦を開始。
 
 ・南牧に砥沢砦(南牧村磐戸)を築城。 
   市川氏を在城させ、近隣の丹生城:新田景澄と手を結んだ。
   
   砥石城は、甲州からの最短コースなので、砥石城が前線の
   作戦場所ということになる。
   +碓氷城(松井田妙義湖手前)
  +愛宕山城(松井田坂本)
   +安中八幡陣城・磯部城拡張(1562年)
   +文殊寺城が前線基地である。
  ・安中氏息子と依田(あしだ)氏(この時は板鼻城)を攻撃
    →武田方の傘下。
  
 ▲若田原(高崎市八幡町)の戦い・
    長野氏業の家老藤井友忠が中心になって反撃した。

・永禄7年(1564)
  武田信玄が替佐城(中野市)を築城した。
  武田信玄が上杉謙信側の壁田城(中野市)を乗っ取った。
城将は小幡信貞・・・
★市川氏も入った可能性が高い。



・永禄9年(1566)武田信玄が箕輪城攻略に成功した。
 
  市川宮内助昌衡(昌広)は、勘定奉行をつとめ騎馬30騎を
  預かった。そして、箕輪城番を務めた。
(★出自不明)


●永禄10年(1570) 8月7日 生島足島神社起請文
 南牧衆
 砥沢:市川四郎衛門重久
 羽沢:市川四郎兵衛貞吉
 大潮沢:市川兵庫助景吉
 小沢源十郎行重・・・・市川家縁者
 懸河彦八郎直重・・・・市川家縁者
 高橋左近助重行・・・・市川家縁者
 以上6名・・・
 (★市川家文書ほか) 
 土屋山城守高久・・・伝説


●永禄12年(1572)武田信玄の小田原城攻撃
 市川真久は北条の将の首を討ち取り、武田信玄より
 激賞をえた。



・天正10年(1582) 
3月11日 武田勝頼死亡。武田氏滅亡。
  市川家は主人を失った。

3月24日 滝川一益は信濃佐久・上野国を領した。
市川家は信濃佐久の領地を失い、南牧村羽沢付近のみと
なった。

・天正18年(1590)
 7月5日 北条氏政・氏直は小田原城開城
8月  徳川家康は関東に入封。
  徳川家康の家臣:本多佐渡守から仕官の誘いがあった。
  しかし、市川家は誘いを断った。

・天正19年(1591)
徳川家康の家臣:本多佐渡守から仕官の誘いがあった。
  しかし、市川真久は誘いを断った。

砥沢の関守の役を言いつかった。
5代目城主:市川五郎兵衛真親が関守として世襲した。
  市川五郎兵衛は市川氏本家の砥沢城主、市川右近介の弟:
  右馬介真治で、右近介が若死にしたために、
  その子:久乗5歳で幼少のために後見人を務めていて、
  羽沢城主であった。



徳川家康は弓10張り・長槍10本を市川真久に与えた。

・文禄2年(1593)
徳川家康から3度目の招聘があった。
  市川真久の子:市左衛門(五郎兵衛真親)23歳が出府した。
「志すでに武に非ず、殖産興業にあり」
と仕官を断った。

12月 市川五郎兵衛は徳川家康から鉱山開発・新田開発を
    してよいという「朱印状」を貰った。
 @鉱山開発OK
 A譜代の家臣・下人の支配権安堵
 B木材の伐採自由
(★大久保長安からの書状:市川家文書)
  市川は、「朱印状」を根拠に、砥沢村(現南牧村)
  で砥石山の経営を行った。


・寛永2年(1625)  
南牧村はほとんどが急傾斜地で稲作はできなかった。
広い平地の佐久に目を付けた。
 また、佐久で新田開発を行った。
  三河田新田・市村新田を開発した。

・寛永3年(1626)
  佐久の浅科の用水路・新田を開発準備に取りかかった。。
柳沢弥右衛門家も一緒に開発に携わった。
(★五郎兵衛記念館)
※長野県南佐久郡佐久穂町千代里柳沢に住んでいたと思われる。

12月 小諸藩から「開発許可状」をもらい、五郎兵衛新田
  の開発に取りかかった。
  蓼科山の山中の湧水を水源として岩下川に落とし、湯沢川との
  合流点、現在の望月町春日でせき止めて取水し、そこから山に
   沿い、トンネルを掘ったり、川の上を掛け樋(どい)で通す
  などして、約20kmの用水路を開削して矢嶋原まで引いた。
    
・寛永8年(1631)頃? 用水路が完成した。
そして、五郎兵衛用水を基に五郎兵衛新田を開発した。

・寛永19年(1642) 五郎兵衛は功績が認められて小諸藩から、
150石の土地を褒美領として与えられた。

  五郎兵衛さらに御牧原を開発しようとしていた(伝)。
  しかし、それは実現しなかった。

・寛文5年(1665) 9月9日 五郎兵衛は死去。
   94歳という長寿をまっとうした。
   遺言で村内の高台に葬られた。
   南牧村羽沢の生家屋敷近くの星尾川沿いにも墓が
   建てられた。
  五郎兵衛用水を維持するのも、大変な作業であった。
  大水や落盤でしばしば壊れたからである。
  村人は、補修工事にも多大な費用と労力を費やした。

※とれた五郎兵衛米は南牧村に明治まで送られた。


・宝暦5年(1755) 大塩沢の市川家6代目:清兵衛義■が
  大坂奉行:桜井丹後守に仕えた。

・寛政年間(1790〜)砥沢の関所の開設=中山道の脇往還。   
 市川五郎兵衛の子:四郎兵衛は南牧の関所役人となって
 羽沢村に戻り、代々子孫が継いでいた。

 
・明治維新
  関所の役目がなくなったため、再び五郎兵衛新田村に移住した。

・明治・大正・昭和まで 五郎兵衛用水補修工事は続けられた。

・昭和35年(1960)〜 長野県で農業用水改良事業が行われた。

・昭和48年(1973) 五郎兵衛記念館が設立された。
   浅科地区の五郎兵衛用水の展示を行っている。

・現在 五郎兵衛用水は疎水百選に選ばれている。




★近日、五郎兵衛新田詳細編を掲載予定。

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先日はお世話になりました。

天文18年北条から武田へ鞍替え、永禄3年(1560年)8月末には上杉憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)が本格的な関東侵攻を行い、憲重は本拠国峰城を攻略される。[Wiki 最終更新 2015年4月30日]

今まで、図書之助により国峯奪取は、天分22〜23年頃と言われていたのに、こう来たか。

これで天分18年の「三寺尾の合戦」や、弘治3年の「瓶尻(みかじり)の戦い」の時も、甲州勢は楽々西上野へ侵入できますね。永禄2年と想定した若田原の戦いもばっちり補給路確保できてる。

だが想像していたストーリーは、ガラガラと音を立てて崩壊してしまって、放心状態です。それではまた
棟治
2016/05/15 00:58
ずっと勘違いしていた事になる。 涙
棟治
2016/05/15 01:15
今まで通りの考えでよいと思います。一つの説でしかありません。
棟治様へ
2016/05/15 13:48

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箕輪初心:生方▲武田晴信の天文15年(1546)の隠れた上州侵攻&武田家臣:市川氏 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
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