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zoom RSS 箕輪初心:生方▲第4次川中島の合戦C『山本勘助討ち死に』&高崎藩の子孫

<<   作成日時 : 2016/05/01 09:04   >>

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箕輪初心:生方▲第4次川中島の合戦C『山本勘助討ち死に』&高崎藩の子孫
永禄4年(1561)9月10日(★新暦10月27日〜戦国時代の最大の激戦
:第4次川中島の戦いがあった。『甲陽軍鑑』には「典厩御討死、諸角
豊後守討死、旗本足軽大将では、山本勘助入道道鬼、初鹿野源五郎の
両人討死、信玄公は胸にかすり傷2ヶ所、長男義信も薄手2ヶ所。」
(★長野県史通史第三巻P253)とある。山本勘助入道道鬼=信玄の軍
師:「啄木鳥(きつつき)戦法」を立案した山本勘が討ち死にした。
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箕輪初心:生方▲第4次川中島の合戦に至るまでの長尾景虎の動向
http://53922401.at.webry.info/201604/article_31.html

箕輪初心:生方▲『第4次川中島の合戦に至るまでの武田晴信
・真田幸綱の動向』
http://53922401.at.webry.info/201604/article_33.html

箕輪初心:生方▲第4次川中島の合戦@『上杉政虎の出陣→本陣:妻女山』
http://53922401.at.webry.info/201604/article_34.html

箕輪初心:生方▲第4次川中島合戦A『武田信玄の出陣→着陣
:茶臼山説&雨宮説』
http://53922401.at.webry.info/201604/article_35.html

箕輪初心:生方▲第4次川中島の合戦B『武田信玄VS上杉政虎』:by甲陽軍鑑記述
http://53922401.at.webry.info/201604/article_36.html

●山本勘助・・・・・・・・・・・胴合橋・墓
(★離れた胴と首が合った。)
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【1】NHK大河ドラマ【風林火山】の主人公:山本勘助
『武田信玄の右腕としてその名を馳せた天才軍師』
山本勘助は武田家の当主となったばかりの武田晴信に召し抱えられた。
板垣信方の推薦であった。
山本勘助は「海ノ口城」攻略戦で活躍した。
次第に軍師としての能力を発揮していく。
「志賀城攻め」では、首を晒すことを命じられた。
武田家の嫡男:晴信が父:武田信虎を甲斐追放した。
山本勘助は「兵は詭道なり」の孫子の言葉を信条に軍略は冴え、
数々の戦功をあげる。
山本勘助に対する武田晴信の信頼はますます篤くなっていった。
山本勘助を疎んでいた武田家重臣も次第に勘助を認めるようにな
っていった。
信濃の穀倉地帯があり、「米」の生産量が多かった。
武田信玄は「「米」など物資確保のために信濃の土地が必要であった。
山本勘助は信濃攻略を進言し、信濃侵略が始まった。
まず、諏訪頼重を攻め、表向きは和睦した。
武田晴信は諏訪頼重を自害に追い込んだ。
諏訪頼重の娘:由布姫に思慕の念を抱いた。
武田信玄も由布姫の美貌に心を奪われた。
武田信玄は由布姫を側室に望み、山本勘助が橋渡しをする。
山本勘助は自分の思いを抑え、
「諏訪の血を残すべきだ。」
と由布姫を説得した。
山本勘助の武田家への忠誠心は復讐心に燃える由布姫の心を
も溶かしていった。
山本勘助は反対する重臣達の説得にもあたった。
由布姫は武田信玄の側室となった。
やがて武田勝頼が生まれた。
山本勘助は武田信玄の天下取りと、密かに思う由布姫を支えること
が、生きがいになった。

山本勘助はやがて軍師として、武田晴信に天下を平定させる野望へ
となっていった。
武田晴信は村上義清に上田原の戦い、砥石城で負けた。
が、最終的には村上義清を打ち破えい、越後に追いやった。。
しかし、甲斐の虎:武田晴信と山本勘助は越後の龍:長尾景虎と戦
うことになった。
長尾景虎は信濃国を侵し続ける武田晴信に義憤を抱いていた。
やがて「竜VS虎」は川中島を舞台に激突することになった。
山本勘助の軍師としての誇りを賭けた戦いの場でもあった。




【2】「川中島の合戦の謎=『甲陽軍鑑』の信憑性」
・永禄4年(1561)の第4次川中島合戦は戦国合戦の中でも特に広く
知られている。死傷者が両軍あわせて、7000〜8000という戦国
最大級の激戦であった。しかし、川中島の合戦の実態はほとんど
分かっていない。川中島の決戦は戦国史上最も謎に満ちている。
『甲陽軍鑑』の信憑性にある。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
▲第4次川中島の戦い「武田信玄 VS 上杉謙信]
第4次川中島合戦の経過
・永禄4年(1561)
8月14日 上杉輝虎は春日山城を出陣した。
8月16日 西条山に布陣。軍勢は、1万3000であった。

8月16日 武田信玄は海津城主:高坂昌信(春日虎綱)の煙火に
  よって、輝虎出陣を知った。
「8月16日 信州川中島より飛脚詣りて申し上げる。
信玄公は同月18日に甲府を御立ちなされ、同24日に川中島
 に御著あり。」
「輝虎が陣を取っている西条山のこちら、雨の宮の渡しを取り、
 輝虎の軍の越後への連絡を絶ち切った。上杉軍は袋の鼠のような
 形になり、部下は皆心配していたが、一人輝虎は平気な顔をして
 いた。信玄公はここに5日間滞在し、越後軍の動かないのを見て
6日目の8月29日に広瀬の渡しを渡って海津城に入った。」
    (★『甲陽軍鑑』)
8月18日に甲府を出陣し、24日に妻女山北西の茶臼山に布陣
 した(雨宮説)。上杉方の出方を見つつ、29日に海津城に入った。
 軍勢は2万。海津城の武田軍、妻女山の上杉軍の睨み合いとなった。

「上杉軍の家老は攻撃を進めたが、輝虎は動かなかった。
 信玄公に飯富兵部・馬場民部助が決戦を進言した。
 信玄は山本勘助を召し、明日の決戦を尋ねた。勘助は
 次のように進言した。
 『二万の味方のうち、1万2千を西条山に向かわせ、明日卯の刻
 (午前6時頃)合戦をしかけます。敵は勝っても負けても、川を
 越して退くでしょうから、そこを旗本で支え、前後から挟み撃ちに
 なさるとよいでしょう。・・・』
(★『甲陽軍鑑』)

 先に動いたのは、武田方である。
山本勘助の献策による「啄木鳥戦法」で勝負に出た。
1万2千の別働隊で妻女山を背後から奇襲、驚いて山を下りてきた
上杉軍を、八幡原で待ち受ける 8千の本隊で挟み撃ちにする作戦
である。
9月10日卯の刻(午前1時頃)高坂昌信率いる別働隊が妻女山の
 裏にまわり、午前4時頃、武田信玄本隊を率いて八幡原に向かった。
 早朝、武田軍本隊は、別働隊に追われてくるはずの上杉軍を待ち構
 えていた。
  ところが霧が晴れた時、目の前に現われたのは、上杉軍であった。

 前日午後10時、輝虎は海津城の炊煙がいつもより多いことから、
 武田軍の意図を見抜き、信玄と決戦すべく密かに妻女山を下りて
 いたのであった。そして、「車懸りの陣」で、攻撃を開始した。
 

「乱戦の最中、萌葱色(もえぎいろ)の胴肩衣を着た武者が、
 白布で頭を包み、月毛の馬に乗り、三尺ばかりの刀を抜いて、
 信玄公は床机にかけている所に一文字にのり寄せ、3太刀浴び
 せた。信玄公は立ち上がって軍配扇子で受け止めた。あとで見る
 と、団扇に刀傷は8つあった。原大隅という中間頭が槍で馬上の
 武者を突いたが、突きはずしたので、具足の肩上を叩いて、馬から
 落とそうとして、馬の三頭(後ろ足の上の部分)を叩いてしまった。
 馬は竿立ちになって、そのまま走り去った。後に聞くとその武者は
 輝虎だったという。・・・略・・・・」
「典厩御討死、諸角豊後守討死、旗本足軽大将では、山本勘助入道
道鬼、初鹿野源五郎の両人討死、信玄公は胸にかすり傷2ヶ所、長男
義信も薄手2ヶ所。」
『甲陽軍鑑』(★長野県史通史第三巻P253)
 出し抜かれた武田軍本隊は押しに押され、武田信繁や山本勘助が討死。
そして乱戦の中、輝虎が信玄本陣に突入し、一騎打ちに及んだ。

 しかし午前10時頃、武田軍別働隊が八幡原に到着。
これによって。戦局が逆転し、輝虎は兵を引くことになった。
勝敗は「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」とされ、
ライバル同士の名勝負として語り継がれることとなった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
@軍師:山本勘助が献策した武田軍の「啄木鳥戦法」
A上杉軍の車懸りの陣
B武田信玄と上杉謙信の一騎打ち
・・・などが疑問視されている。

・江戸時代・・・『甲陽軍艦』が作られた。
  『甲陽軍鑑』は権威を誇った。
  甲州流軍学書として広く読まれ、通説として、流布して
  いった。『甲陽軍鑑』をベースに様々な脚色が加えられ
  て、たくさんの本が出されていった。
  基本的には『甲陽軍鑑』に依拠している。
  現在のような流れになったものであろう。


 

明治時代・・・『甲陽軍鑑』は史料の価値に疑問が出された。
 基本史料となる『甲陽軍鑑』の評価にある。
1)「武田遺臣:小幡景憲が後世、高坂昌信に仮託して
 創作した偽書」などと批判された。根拠は
 @第一の疑問点
『甲陽軍鑑』では、執筆者の名前を「高坂」と表記している。
戦国時代に宛て字はめずらしくないので、「香」の字を「高」と
記すことはあり得る。
しかし、『甲陽軍鑑』の中に「高坂弾正」の諱(名前)を「昌信」
と記した箇所があることだ。
春日虎綱→香坂:高坂昌信→春日虎綱を名乗ったことなっている。
つまり、春日虎綱が「昌信」と名乗った事実は確実な史料には出て
こない。書いた本人なら自分の名前を間違えることはあり得ないの
ではないか、という疑問である。
高坂弾正=春日虎綱が執筆したというのは、間違いではないかと
前提が疑問視されたため、甥の春日惣次郎が書き継いだことも疑
われた。では誰が書いたのか?編集者の小幡景憲ではないかという
説が有力になった。
江戸時代初期、小幡景憲は、「甲州流軍学者」として有名だった。
『甲陽軍鑑』を編集して世に送り出した。『甲陽軍鑑』は、甲州流
の軍学書として世間に流布し、その結果、編集者の小幡も軍学者と
して成功をおさめた。小幡景憲が『甲陽軍鑑』は自分で執筆した
もので、「甲州流軍学」としての箔を付けるために「高坂弾正」
の名前を借りたのではないか、という疑念が生じたのだ。

A第二の疑問点
 本当に春日虎綱が書いたとするならば、自分のことをもう少し
 詳しく書いてもおかしくないのではないかと思われる部分が存在
 する。
 例えば、第4次川中島合戦で、武田軍は本隊と別働隊に分かれて
 上杉軍を挟撃する戦法を取り、春日虎綱は別働隊に参加していた
 と書いてある。にもかかわらず、不思議なことに参加していない
 本隊の様子は克明に記されているのに、自分が参加した別働隊の
 動向についてはほとんど書いていない。
 (★丸島和洋)


2)内容に明らかな事実誤認があったからである。
例えば、『甲陽軍鑑』では「天文7年(1538)武田晴信の父:武田信虎
  駿河追放した。」としている。
  実際は天文10年(1541)であった。   
 
 例えば、『甲陽軍鑑』では「小山田弥三郎信有が参陣し妻女山を
  迂回攻撃する部隊に配属されたと記している。
 『勝山記』では、小山田弥三郎信有本人は病床にあったため参
  陣せず、小山田衆を派遣した。小山田衆は側面攻撃を意味する
  「ヨコイレ」を行った。
 ・永禄8年(1565) 小山田信有はに死去し、小山田信茂が
  家督を嗣いだ。

 例えば、天正3年(1583)長篠の戦い
『甲陽軍鑑』では、「長坂が長篠の戦いの直前の軍議で主戦論
   を主張した。」となっているが、
   実際には長坂光堅は甲府にいた。
  
3)山本勘助が架空の人物と見なされていたからである。
(★小和田哲夫)

現在
 近年の研究で、『甲陽軍鑑』は再評価されつつある。
・1990年代〜 国語学者:酒井憲二氏により、『軍鑑』が戦国当時の
  言葉遣いが使われていることが判明した。
 「戦国末期の小幡景憲が白紙状態から創作したとは考えがたい。」
 と評価した。
『甲陽軍鑑大成』全七巻:酒井憲二編;汲古書院。

 
1)『甲陽軍鑑』の執筆者
  @『軍鑑』の内容は天正3年(1575)5月〜天正5年(1577)である。
    春日虎綱が書いた?
春日惣次郎・春日家臣:大蔵彦十郎らが春日虎綱の口述を
    書いた。
 ・天正6年(1578) 春日虎綱は死去。
春日虎綱の甥:春日惣次郎は『軍鑑』執筆を継続した。 
 
 ・天正10年(1582)3月11日 武田氏滅亡
   6月 春日虎綱の孫は森長可に殺された。 
7月 春日虎綱の子:春日信達は上杉景勝に徳川家康に通じた
      として誅殺された。
      
      春日惣次郎は佐渡島に渡って執筆を継続した。
 ・天正13年(1585) 春日惣次郎が佐渡島において死去。
  ・天正14年(1586) 海津城大将:春日虎綱〜春日惣次郎の
   『軍鑑』の原本を副将:小畠(小幡)虎盛の一族:「小幡下野
   守」が入手し、後補と署名を添えて執筆を継続した。
   「小幡下野守」は武田氏滅亡後に上杉家に仕えた小幡光盛
   あるいは実子であると考えられている。小幡家に伝来した
   『軍鑑』を武田家の足軽大将:小幡昌盛の子:小幡景憲が
   入手しさらに手を加えて成立したものと考えられている。
  『軍鑑』の原本は存在していない。
 ・元和7年(1621) 小幡景憲が『軍鑑』の写本を書いた。
    最古の写本として残されている。
(★平山優)
A『甲陽軍鑑』の成立は、天正14年(1586)5月の日付で終っている
ことから、武田家重臣が数多く戦死した長篠の戦いの直前にあた
るとしている

B編集者の小幡景憲の祖父:小畠(小幡)虎盛と叔父:小幡光盛は、
  海津城で春日虎綱の副将をであった。つまり、小幡景憲は
  『甲陽軍鑑』原本を入手しやすい立場にいたということができる。
 『甲陽軍鑑』は、春日虎綱が全て著述がしてはいないとしても、
  武田信玄、武田勝頼に仕えた家臣によって執筆され、様々な記録
  が付け足されて流布したと考えた方が自然である。
   (★丸島和洋)
C『甲陽軍鑑』の執筆者「高坂」
高坂昌信と名乗ったは確実史料はない。
『甲陽軍鑑』の「昌信」名前は「末書」という増補部分に
 のみ出てくる。
(★丸島和洋)


2)内容に明らかな事実誤認
 @前文に「年代に(記憶が曖昧で)間違いがあるかもしれない。」
 という記述がある。年代が下がる程、年代ははっきりしている。
  (★丸島和洋)
 
 A武田が滅んだことへの戒め的な記述なのではないか?
  武田勝頼や跡部勝資、長坂光堅ら勝頼側近に対しての
  「諫言の書」として献本されたものであるとしている。
(★丸島和洋・平山優)


3)山本勘助の実在
・平成20年(2010) 新史料が発見され、軍師か否かは別として、
山本勘助の実在が確実となった。「後世の偽書」とはいえない。
 しかし、史実と合致する部分がある一方で、事実誤認もある。
 史料として使える部分と、使えない部分がある。
 例えば、第4次川中島合戦では。武田信繁と山本勘助が討死し、
 多数の死傷者が出たことは史実と合致する。
 しかし、他の合戦と比べると両将の発給した感状が著しく少ない。
 細部までの虚実を明らかにできない。
 『甲陽軍鑑』をベースにした通説に対し、今でも様々な疑問が
 ある。 近年再評価をされてはいるが、事実誤認があることも明ら
 かなのだ。確実な史料が少なく、どこまでが史実なのか定かでない
 のである。
(★『歴史街道』2013年3月号「特集・川中島合戦の謎」)
 小和田哲男著(静岡大学名誉教授)

★ちなみに長野県史通史第三巻P253~4では、
 「武田信玄の感状3つ、上杉政虎の感状2つである。」



◆◆◆ 「山本菅助」とその子孫 ◆◆◆

箕輪初心:生方【中村茂先生講演会『山本勘助→子孫は高崎藩山本菅助』】
http://53922401.at.webry.info/201507/article_26.html
http://s.webry.info/sp/53922401.at.webry.info/201507/article_26.html



戦国時代〜江戸時代〜明治時代を生き抜いた山本菅助&とその子孫・
一族を中村茂先生の 【高崎藩士:山本勘助系図(中村茂案) 22/03/06】
を2代目以降に使わせていただきます。ありがとうございます。

【1】初代:山本勘助晴幸
明応2年(1493) 〜永禄4年(1561)9月10日(10月18日)
 によれば、勘助は
@駿河国富士郡山本(静岡県富士宮市山本)説(★『甲斐国志』)
 吉野貞幸と安の三男に生まれた。
 三河国牛窪城主牧野氏の家臣大林勘左衛門の養子に入った。
 NHK大河ドラマ『風林火山』も採用している。
A愛知県豊田市寺部(三州賀茂郡)。(★『北越軍談』)
B愛知県豊橋市賀茂(三河国八名郡加茂村)(★小和田哲男説)

青年時代・・・20歳?26歳 武者修行の旅に出た。
 中国、四国、九州、関東の諸国を遍歴して京流(行流)
 兵法を会得して、築城術や戦術戦法を極めた。
★上泉伊勢守に剣を学んだ伝説もある。・・信憑性がない。
★NHK大河ドラマ「風林火山」では、山本勘助が安中の長?寺
で真田幸隆に助けられた。・・・1541年〜3年間、箕輪城:長野
業政の食客になっているので、時代が合わない。


・天文5年(1536) 37歳
山本勘助は駿河城主:今川義元に仕官しようと駿河国に入った。
 家老:庵原忠胤の屋敷に寄宿し、朝比奈信置を通して仕官を願った。
 しかしだ、今川義元は山本勘助の異形を嫌い召抱えようとはしなかっ
 た。
※山本勘助は色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、
 指もそろっていなかった。
山本勘助は仕官が叶わず、牢人の身のまま7年?9年?駿河に留まった。

・天文12年(1543)
武田家の重臣:板垣信方は武田晴信(信玄)に山本勘助を推挙した。
 武田家は知行100貫で勘助を召抱えようと申し入れてきた。
 山本勘助は躑躅ヶ崎館で武田晴信と対面した。
 武田晴信は山本勘助の才を見抜き知行200貫とした。
(★『甲陽軍艦』)
『甲陽軍鑑』に拠れば初代:山本菅助は天文12年(1543)に武田家に
 仕官した。
 『真下家所蔵文書』からも足軽大将としての活動が確認されている。

 武田晴信は築城術や諸国の情勢の知識の深さに感心し、信頼する
 ようになっていった。
 
 武田晴信が信濃国へ侵攻した。
 山本勘助は9城を落とす大功を立て100貫を加増された。

・天文11年(1542)?天文13年(1544)?
武田晴信は信濃国諏訪郡へ侵攻して諏訪頼重を殺した。

・天文14年(1545)
武田晴信は諏訪の姫を側室に迎えることを望んだ。
 重臣たちは姫は危険であると反対した。
 山本勘助のみは姫を側室に迎えることを強く主張する。
 武田晴信は諏訪家との絆を主張する山本勘助の言を容れ、
 姫を側室にした。
 姫は諏訪御料人と呼ばれるようになった。


・天文15年(1546)
諏訪御料人は武田四郎勝頼を産んだ。

×天文15年(1546) 「武田晴信の砥石崩れ」
  山本勘助は「破軍建返し」と呼ばれる作戦で加増され
  知行800貫の足軽大将となった。
(★『甲陽軍鑑説・・・間違い)

・天文16年(1547) 上田原の戦い
武田晴信 VS 村上義清
重臣:板垣信方が戦死。
 村上義清は越後国へ走り、長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。

・天文17年(1548)上田原の戦い

・天文19年(1550)砥石崩れの史実の説
 山本勘助の軍略を武田家臣が認めるようになった。

・その後、高遠城、小諸城を築城した。
 「山本勘助入道道鬼流兵法」と呼ばれた。
 また、山本勘助の献策により分国法「甲州法度之次第」が
 制定された。
 ※ということで、甲陽軍鑑は時々違っている。


・天文22年(1553)
武田信玄の命により、山本勘助は北信濃に海津城(後松代城)を
 築城した。
 城主:春日虎綱(高坂昌信)となった。

※築城法は山本勘助→馬場信春・山県昌景→早川幸豊となる。


・永禄4年(1561) 第4次川中島の戦い
上杉謙信は1万3000の兵を率いて川中島に出陣して妻女山に入った。
  武田信玄も2万の兵を率いて甲府を出発し、海津城に入った。
  数日に及び対峙する。
  軍議の席で
  山本勘助と馬場信春は軍勢を二手に分けて大規模な別働隊を夜陰に
  乗じて密に妻女山へ接近させ、夜明けと共に一斉に攻めさせ、驚いた
  上杉勢が妻女山を下りたところを平地に布陣した本隊が挟撃して殲滅
 する作戦を立てた。「啄木鳥戦法」と名づけられた。

  武田信玄は高坂昌信&馬場信春率いる兵1万2000の別働隊を編成し
 て妻女山へ向かわせた。武田信玄自身は兵8000を率いて八幡原に陣
  をしき逃げ出してくる上杉勢を待ち受けた。

だが、軍略の天才である上杉謙信はこの策を見抜いていた。
※NHK大河ドラマ「天地人」では、海津城で煙があがり、炊き出し
  をしているのにGACKT:上杉謙信が気づいた。
不思議なおばばも出ていた。
上杉謙信は一切の物音を立てることを禁じて深夜に密に妻女山を下っ
  て千曲川を渡り八幡原に布陣していた。
「べんせいしゅくしゅく 夜川を渡る。・・」頼山陽
夜明け、高坂勢が妻女山を攻めるがもぬけの殻であった。


濃霧が晴れた八幡原・・・
 武田信玄と山本勘助は驚くべき光景を目にした。
 上杉勢1万3000が眼前にいたのである。
 武田勢は上杉勢の動きに全く気がつかなかった。

★一騎打ち・・・嘘っぽいが最近、信じ始めた。
 上杉謙信は「車懸りの陣」で武田勢に猛攻をかける。
 武田信玄は「鶴翼の陣」をしくが、武田勢は押しまくられた。
 武田家の武将が相次いで討ち死にした。
 9月10日 山本勘助が戦死した。

(山本勘助の胴&首は離れちゃったが・・・)

「典厩(武田信繁)殿討ち死に、諸角豊後守討死、旗本足軽
大将両人、山本勘助入道道鬼討死、初鹿源五郎討死」
と記した。(★『甲陽軍鑑』)
※川中島の遺構
●山本勘助・・・・・・・・・・・胴合橋・墓
※山本勘助の遺髪を納めた墓・・・愛知県豊川市牛久保町

武田信繁(信玄の弟)の墓・・・典厩寺:真田信幸?の建立。
諸角豊後守の墓・・・・・・・八幡原西500m程の道の左にある。





◆初代:山本勘助晴幸の関係者
@義兄:山本十左衛門尉幸俊
A山本勘助の弟:山本帯刀(帯刀左衛門)
 越後長岡藩文書『蒼紫神社文書』によると、長岡藩の家老:山本家は、
 山本勘助弟:山本帯刀(帯刀左衛門)の末裔としている。
 戊辰戦争の長岡藩大隊長の山本帯刀がいる。
 太平洋戦争の山本五十六元帥=連合艦隊司令長官がいる。
B長男:2代山本菅助(兵蔵)幸房
※中村茂先生は山本菅助(兵蔵)幸恒・恒幸
 天文22年(1553)〜天正3年(1575) 足軽大将。二代菅助。
 天正3年の長篠の戦いで戦死した。
C次男:十左衛門頼元・・・初代山本勘助の娘の婿養子
 饗庭利長(越前守)次男の十左衛門頼元が山本勘助の娘を妻とし
  改姓し、山本十左衛門尉を名乗ったとしている。
  (★甲斐国志)
※沼津山本家文書によれば、「山本菅助」子孫は初代「菅助」を
『甲陽軍鑑』における山本勘助と同一視している。




【2】 2代:山本十左衛門尉幸継
・天文20年(1551年)初代山本菅助には男子がなく、饗庭氏から
  十左衛門尉を婿として迎えていた。
(『沼津山本家文書』)
  初代山本勘助の娘の婿養子
・天文22年(1553)2代菅助が出生する。
  (『沼津山本家文書』) 
・永禄4年(1561) 川中島の戦い
父の初代:山本菅助が戦死した。
 2代山本兵蔵は十左衛門尉に後見され育った
 (★『沼津山本家文書』)。
・永禄11年(1568) 元服し「菅助」を名乗った。
  7月には武具の調達を命じられている。
  (★『真下家所蔵文書』)。
・天正3年(1575) 長篠の戦い
2代目:山本菅助は討死した。
  山本家は十左衛門尉が継いだ。
※子どもなし・・

・天正12年(1582) 武田氏滅亡。
  徳川家家臣になった。
 『天正壬午起請文』の「信玄直参衆」に山本十左衛門尉の名がある。
 ※群馬県安中市の【真下家所蔵文書】には 天正4年推定の
 「山本菅助」の山本十左衛門尉宛の軍役文書がある。
●山本十左衛門尉幸継の子ども
長男:山本平一郎・・・徳川家旗本。伏見城在番
※群馬県安中市の【真下家所蔵文書】には
 慶長7年(1602)〜慶長11年(1606)推定の結城秀康書状は十左
 衛門尉の子:平一宛で、徳川家康に仕えた菅助・十左衛門尉の
 子孫が越前松平家結城秀康に仕えた可能性が考えられている。
慶長10年死亡。
2男:山本弥八郎幸明・・
3男:山本三郎右衞門→山本菅助正幸
4男・山本素一郎
越前松平家は山県昌景の子孫など武田遺臣を家臣団に加えている。
 ※井伊直政には山県昌景の家臣団は75名いる。(★高崎市史)
 越前松平家の藩士系図「諸士先祖之記」には結城秀康期家臣に
 「山本内蔵助成本」・「山本清右衛門」の名が記している。
 山本内蔵助は系図が不明であるものの山本勘助を先祖としている。
 山本清右衛門も武田信玄に仕えた山本氏を先祖としている。



【3】 山本三郎右衞門→山本菅助正幸
・文禄2年 甲斐で生まれた。★おそらく、現韮崎市
※山本菅助子孫にあたる沼津山本家文書によれば、
 「山本菅助」(正幸)は徳川氏に仕えた後に再び浪人し甲斐にいた。
  浪人・・・寛永10年(1633)頃に山城国淀藩主永井尚政に再仕官
し藩士となり、「菅助」の名乗りを復した。
 ・寛永10年 山城国淀藩:永井信濃守に仕えた。
※「五左衞門覚書」
「老中:永井信濃守は下総古河から山城淀に向かう途中、石和に寄った。
 甲陽軍鑑で山本勘助の存在を知っていた。娘婿の日向清安&代官
 平岡次郎右衛門が永井信濃守&山本三郎右衞門の会見の場を設定した。
 ・・・既に山本三郎右衞門は甲府勤番:伊丹播磨守から誘いを受けて
 いた。そこで、永井信濃守は伊丹播磨守に直接話をつけに行った。
酉4月11日、永井信濃守&山本三郎右衞門が伊沢であった。
 ・・・略・・・・
 8月11日 山本三郎右衞門は甲州を出立。25日に伏見に着いた。
 8月26日 淀に行き。27日、会見した。
 早速、萩原平左衞門組足軽20人を預けられた。
 その年、300石を拝領した。
 ・・・後略・・・・・・・

 ・慶安2年8月27日没
 ※墓・・・山城国八幡神應寺

※山本菅助正幸の子ども
 長男:山本晴辰→山本菅助晴方



【4】山本晴辰→山本菅助晴方
 
 ・???? 山城国淀藩:永井信濃守に仕えた。
 ・寛文9年  永井信濃守が丹後宮津に転封。
 ・寛文12年 恵林寺武田信玄100回忌に参加した。
          (奉加帳)
 ・延宝8年 永井因幡守が改易。
     →山本菅助晴方は浪人になった。
 ・天和2年 土浦藩:松平信興(松平伊豆守信綱5男)に仕えた。
   32000石の
 ・貞享元年 山本菅助晴方は土浦城改修の惣奉行になった。
 ・貞享4年10月3日 松平信興は大坂城代になった。
・貞享4年11月11日 山本菅助晴方は家老500石になった。
・元禄3年12月26日 松平信興は京都所司代になった。
・元禄5年 松平信興は下野国壬生藩に転封。
3月6日 山本菅助晴方は壬生城城代になった。
      10月13日 山本菅助晴方没
 ※墓・・・壬生の妙珊寺


【5】山本十左衛門尉幸運←山本菅助晴方の姉夫婦の子=甥っ子
・母:山本菅助晴方の姉+父:下野烏山藩士:市川五郎右衞門
烏山藩は永井尚政B男:永井伊賀守尚庸家臣
  山本菅助晴方の甥っ子:市川菅之丞が養子になった。
・元禄6〜7年 壬生城の改修工事の惣奉行になった。
  (★沼津山本家文書「指示書」・・壬生町に寄贈)
  ★俺って、これ見てきた。
  結城城や館林城の見積もり=縄張りも行った。
・元禄8年 松平大河内輝貞が高崎に転封になった。
  72000石になった。 
・宝永元年 鑓奉行350石
  「高崎城大意」を著した。
・宝永7年 越後村上に転封。
  間部詮房と交代
・正徳6年6月24日山本十左衛門尉幸運没
※墓・・・村上の満福寺
 ★ぼくちゃん、満福寺行っているけれど気づかなかった。

高崎藩主は松平伊豆守信綱5男:松平信興を祖とする松平家である。
家臣団関係資料「高崎藩士家格・家筋並びに苗字断絶者一覧」には
家臣に「菅助」「十左衛門」を名乗る藩士がいる。
 

【6】山本銀五郎晴様→山本勘助晴久と改名
・享保元年 村上藩馬廻り役350石
・享保2年 越後村上から高崎に再転封。
  間部詮房と交代
・寛永4年5月27日 没
※墓・・・高崎の大雲寺




【7】山本勘助晴就→晴生と改名
・安永?年 高崎藩??役300石
・安永9年5月14日 没
※墓・・・・高崎の大雲寺

 

【8】山本勘助晴資
・安永9年 家督を継ぐ。馬廻り役250石
・文政元年10月28日 没
※墓・・・・高崎の大雲寺
嫡男:平一郎は若死にした
次男:山本隼之助が継いだ。


【9】山本隼之助晴通
???? 250石
・文政2年9月21日没
※墓・・・・高崎の大雲寺



【10】山本平助晴朗
???? 高崎藩士:長坂平六敬典からの養子
・天保10年 鑓奉行 210石
・嘉永28月23日没
※墓・・・・高崎の大雲寺


【11】山本兵衛晴静
・安政6年 馬廻り役 190石
・文久2年7月18日 没28歳
※墓・・・・小石川是照院
信玄公200回忌に山本菅助の名がある。


【12】山本道三郎晴範
・文久2年 家督 170石
・明治元年 廃藩
・明治?年 安中で先生になった?
・明治38年 没
※墓・・・・小石川是照院



【13】山本喜三
・慶応2年 高崎山田町
・???? 群馬師範卒
・明治19年 高崎尋常小学校(中央小)訓導
・明治23年 東京巣鴨小
       本郷尋常小
       駒本尋常高等小
・明治31年 静岡御殿場高等小
・明治32〜大正9年 静岡金岡尋常小(現沼津)訓導兼校長
・昭和6年9月20日 没
 

【14】山本晴恵(はるしげ)
・昭和18年〜 沼津大岡小 校長
・昭和56年 没


【15】山本弘昭
・昭和33年 山本晴恵(はるしげ)長男:山本喜明殉職
・昭和時代 小学校教頭や校長を歴任
・平成15年 没
※山本弘昭は「沼津山本家文書」を公開&寄贈し、山本勘助の
 存在に大きく貢献した方である。

【16】山本???
 九州で医者様をしている。






***真田の城********************
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