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zoom RSS 箕輪初心:生方▲【伊那:松尾城】小笠原氏の分裂&武田晴信〜織田信長の伊那侵攻

<<   作成日時 : 2016/04/06 07:06   >>

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伊那松尾城は、長野県飯田市にあった松尾小笠原氏の居城である。
小笠原政康の死後、府中(深志)小笠原氏・松尾小笠原氏・鈴岡
小笠原氏に別れて対立した。天文3年(1534) 松尾家は府中家に
敗れて甲斐国に逃れ、武田信玄に臣従した。天文23年(1554)
(第一次川中島の合戦後)武田晴信の伊那侵攻で松尾小笠原信貴
・小笠原信嶺父子が信濃先方衆として活躍し、松尾城を回復した。
天正10年(1582)松尾小笠原信嶺は織田信忠の甲州侵攻の時には
織田氏に臣従した。本能寺の変の後、徳川家康の家臣となった。
天正18年(1590) 徳川家康の関東移封の際、武蔵国本庄城に移
り、松尾城は鈴岡城とともに廃城となった。現在、本郭・二の郭
が城址公園として整備されていて、郭・空堀等の城の遺構が残さ
れている。
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箕輪初心:生方▲真田丸82『飯田長姫城の歴史』と真田丸第1話「船出」
http://53922401.at.webry.info/201604/article_7.html


◆訪問日・・・平成21年(2001)3月21日
飯田市のお城巡り・・・
飯田駅→長姫城(飯田城)→図書館で「飯田の城」コピー→松尾城→
鈴岡城→長岳寺→・・・松岡城や座光寺城には行けなかった。

●松尾城は公園だった。


●二の郭
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●案内板
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「松尾城は、北に北の沢川、南に毛賀沢川に挟まれた河岸段丘の
 先端部に築かれた城・・・」

●縄張り図
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「松尾城は連郭式の平山城で東から本郭・二の郭・三の郭と配置され
ている。本郭は空堀が周囲に廻らされていて、土橋で二の丸と繋がっ
ている。 二の郭は3段に分かれ南から北へと傾斜している。 
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●階段?
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●本郭
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●空堀
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●二の郭
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●空堀
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●三の郭
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●段郭

 


◆◆ 小笠原氏の分裂と第一次川中島合戦後の武田晴信の鈴岡城攻撃
・室町時代初期 松尾城主小笠原貞宗の次男:宗政は築かれた(伝)。
  鈴岡小笠原氏が成立した。

・嘉吉元年(1441) 嘉吉の乱
6代将軍足利義教が暗殺された。
 小笠原政康が死去した。
 長男:小笠原長将
次男:小笠原長秀
3男:小笠原政康→長男:小笠原宗康&松尾小笠原
 府中小笠原長秀の子:持長 VS 小笠原政康の子:宗康、光康
 との間で内紛が再発した。
 さらに松尾家は長男:鈴岡小笠原宗康&4男:松尾小笠原
 3家に分かれて抗争することとなった。

 鈴岡城は鈴岡小笠原氏の居城であった。


・文安3年(1446) 漆田原の戦い
 松尾小笠原政康2男:鈴岡小笠原宗康&5男:光康 
   VS  府中小笠原持長
  鈴岡小笠原宗康&弟:光康漆田原で戦って討死した。

 鈴岡小笠原政秀は鈴岡城を拠点として伊賀良荘を領して勢力を
 維持した。松尾小笠原氏とは良好な関係にあった。
 やがて伊賀良荘の領有を巡って松尾小笠原氏と対立すること
 となった。

・文明12年(1480) 鈴岡小笠原政秀は政秀は諏訪氏と結んで
  松尾小笠原家長を討った。

・明応2年(1493)正月 松尾小笠原家長の子:貞基によって
 松尾城で鈴岡小笠原政秀と子:長貞とともに暗殺され、
 鈴岡小笠原氏は滅亡した。

 鈴岡小笠原政秀の養子であった府中小笠原長朝は、松尾小笠
 原貞基と幾度となく戦った。

 松尾小笠原貞基甲斐へ追いやった。
 その後、松尾小笠原貞基は松尾城に戻ってきていた。

●永正18年(1521) 府中小笠原長棟の次男:信定が生まれた。
府中小笠原長棟の子ども
長男:小笠原長時→小笠原貞慶
   次男:小笠原信定→小笠原長継
娘・・村上義清の妻

・天文3年(1534)
松尾小笠原貞忠・信貴 VS  府中小笠原長棟・長時
 松尾小笠原貞忠・信貴甲斐国に逃れ、武田氏に臣従した。
松尾小笠原家に対抗するため父と兄により鈴岡城に派遣された
長棟の子小笠原信定が鈴岡城主となった。

・天文16年(1547) 松尾小笠原信貴の長男:信嶺が
 甲府で生まれる。
松尾小笠原信貴は武田晴信の信濃先方衆であった。


・天文17年(1548)
2月  上田原の戦い
 武田晴信 VS 村上義清
武田軍は村上軍に敗れた。
  板垣信方・甘利虎泰ら多くの将兵を失なった。

4月 小笠原長時が諏訪に侵攻した。

7月 塩尻峠・勝弦峠の戦い
  武田晴信は小笠原長時軍を撃破した。
●兄:小笠原長時が武田晴信に敗北した後も
 伊那鈴岡城・松岡城に拠り抵抗を続けていた。

・天文19年(1550)
7月 武田晴信は小笠原領に侵攻した。
    小笠原長時は林城を放棄して村上義清のもとへ逃走した。
   

9月 武田晴信は村上義清の支城:砥石城を攻める。
   武田軍は「砥石崩れ」と伝えられる大敗を喫した。


・天文20年(1551)
4月 真田幸隆(幸綱)は策略で砥石城を乗っ取った

・天文22年(1553)
4月 武田信玄は塩田城を攻略した。
   真田幸綱らの調略により、屋代秀正・塩崎氏などの村上義清
   の家臣らが寝返った。。
   村上義清は葛尾城を放棄して、長年のライバル高梨政頼を通じて
   越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。
  
  小笠原長時・村上義清・高梨政頼の要請を受けた長尾景虎
  (上杉謙信)は村上義清に北信濃の兵を貸した?

8月 長尾景虎(上杉謙信)は信濃出兵を開始した。
  ▲第1次川中島の戦い
布施・八幡(武水神社付近)の戦い
  上杉景虎に武田軍の先鋒軍が撃破された。
  上杉景虎は武田晴信のいる塩田城を攻撃しようとした。
  両者とも決戦を避ける。
  両軍ともに撤退した。

8月  大井信広の反乱。
   大井信広が上杉景勝の支援を受け、武田晴信に反旗を
   翻した。
   武田晴信は直に鎮圧した。


・天文23年(1554) 甲相駿三国同盟が成立
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
@天文21年(1552) 
 今川義元の娘:嶺松院(信玄の姪)が武田信玄の嫡男:武田
 義信の正室になった。・・・甲駿同盟を強化した。
A天文22年(1553)
 武田晴信の娘:黄梅院がを北条氏康の嫡男:北条氏政に嫁いだ。
  甲相同盟を結ぶ。
B天文23年(1554)
 北条氏康の娘:早川殿が今川義元の嫡子:今川氏真にが嫁いだ。
 武田晴信及び今川家軍師:太原雪斎が仲介して婚姻を結んだ。
 上杉景虎を共通の敵として相互に出兵できるようになった。

・天文23年(1554) 武田信玄の伊那侵攻
8月
@高遠城
秋山虎繁は高遠城(伊那市高遠町)で「上伊那郡代」となった。
(★『甲陽軍鑑』)

A大島城
秋山虎繁は大島城(長野県松川町)の城代を務め、信濃伊那郡の
 守備を任された。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
松岡城(高森町)の松岡氏は抵抗することなく武田の軍門に
降った。松岡氏は自身の所領を維持することができた。
武田氏の配下で松岡氏は50騎(200人)ほどの軍役を
課されていた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

B松尾城・鈴岡城の攻撃
鈴岡城の小笠原信定は林城・平瀬城・中塔城から逃げてきていた
兄:府中小笠原長時と武田晴信に抵抗した。

武田晴信の信濃先方衆:松尾小笠原信貴・小笠原信嶺父子は
松尾城・鈴岡城の攻撃に参加した。
 
鈴岡小笠原信定は敗れ、落城した。

武田晴信の信濃先方衆:松尾小笠原信貴・小笠原信嶺父子は松尾城を
回復した。
 
兄:小笠原長時と弟:鈴岡小笠原信定とともに上洛し、
親戚:三好長逸を頼った。摂津国芥川城に滞在した。


・永禄元年(1558)
  6月 小笠原長嶺は甲府に人質として送られた。
     父:松尾小笠原信貴と同様に武田信玄配下の信濃先方衆
     として働いた。
 
・永禄11年(1568)将軍足利義昭を奉じた織田信長によって芥川城
を落城させられた。
 

・永禄12年(1569) 本圀寺の変
鈴岡小笠原信定は三好長逸らと共に足利義昭を本圀寺に襲撃
 した。京都の桂川で敗死した。
  墓所は山城国成恩寺。子の長継は小笠原貞慶、秀政に仕えた。


『第一次上田合戦後の真田昌幸&府中小笠原貞慶』
・天正10年(1582)
1月   木曾義昌は織田信長に臣従した
織田信長は木曾義昌に小笠原旧領も安堵した。

1月下旬〜2月初旬 木曾の鳥居峠の戦い
   武田信豊、今福昌和 、山県昌満ら3000騎を鳥居峠に、
仁科盛信2000騎を木曽に侵攻させたとあります。

今福らが、木曾義昌勢が守りを固めていた鳥井峠へ登るも数百名
  もの損害を出すなど苦戦した。仁科盛信が到着し勝った。
  奈良井や贄川に布陣した。
  木曽義昌が
  「武田を裏切ってないよ。」
  弁解のため奈良井まで来たという。

2月3日 森長可、団忠正の織田軍先鋒隊が岐阜城を出陣した。
     目付けとして河尻秀隆が本隊から派遣された。

2月6日 森、団は木曽街道から信濃に兵を進めた。
     河尻は伊那街道から信濃に兵を進めている。
     
 滝沢(下伊那郡阿智村・平谷村)の領主:下条信氏(武田信玄
  妹が妻)子息:信正とともに滝沢要害で織田の河尻勢をを
  迎撃した。
  しかし、家老:下条九兵衛氏長・熊谷玄蕃、原民部ら織田軍
  の寝返り(謀反)により逃亡?追放?・・・・
  河尻の軍勢を戦わずして信濃へと招き入れると、
(★ 『信長公記』『甲乱記』)

2月12日 本隊の織田信忠は岐阜城を出陣した。
      軍監の滝川一益が長島城を出陣した。

2月14日 織田信忠は岩村城に兵を進めた。

2月14日 松尾城主:小笠原信嶺も織田軍河尻に寝返った。

2月16日 木曾の鳥居峠の戦い
  今福ら武田軍は藪原から鳥居峠に兵を出した。
  織田軍は奈良井坂を登った。
  織田信忠の支援を受けた木曾義昌軍に敗北を喫した。

2月17日 織田信忠は平谷:滝沢に陣を進めた。
 (★『信長公記』

2月18日 織田信忠は飯田に侵攻した。
 飯田城主:保科正直(保渡田城主&箕輪城代)は飯田城を
 捨てて仁科盛信の高遠城へと逃亡した。

 武田信廉(勝頼の叔父)らは飯田城放棄を聞いて戦意喪失した。
武田信廉(勝頼の叔父)は大島城(下伊那郡松川町)から
    逃亡した。
 ※武田軍は戦わずして南信濃を失った。

2月28日 河尻秀隆は織田信長から高遠城の攻略のために陣城を築け
      との命を受ける。

 織田信忠率いる3万の兵が、武田勝頼の弟:仁科五郎盛信が
 籠もる高遠城に押し寄せた。

3月1日  高遠城(長野県伊那市高遠町)主:仁科盛信(信盛)
      は籠城した。
      佐久郡内山城(長野県佐久市)の城代:小山田昌成・
      大学助も副将として高遠城に入っていた。
      織田信忠は高遠城を包囲した。
     (★『甲乱記』『信長公記』)
    飯田城から逃げ帰った保科正直もいた。
     ・・・元々、高遠城は諏訪一族の高遠氏代官:
     保科家の城であった。

    織田信忠は仁科盛信に黄金と書状を送り、開城を促した。
    しかし、仁科盛信は要求を拒絶した。


3月2日 織田軍3万余は総攻撃を開始した。
   仁科盛信は籠城し、織田軍と激闘を繰り広げた。

   織田方の織田信家が戦死するなど大きな被害を受けた。
   織田軍に城門を突破されるに及び、ついに仁科盛信・小山田昌成
   ・大学助らは戦死し、高遠城は落城した。
(★ 『信長公記』)
保科正直は降伏した。
小山田兄弟は二の丸を捨て、本丸へ逃げた。
保科正直は火の手上がる本丸を呆然と見つめるしかなかった。
※ちなみに保科正直の実弟は箕輪城主:内藤昌月である。
 後、保科正直の長男:保科正光は真田昌幸の娘と結婚する。

森長可はこの功績により、信濃川中島四郡と海津城20万石を
与えられた。
その後、信濃入領統治、越後侵攻と続いた。
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箕輪初心:生方▲真田丸43:第6話【迷走】のあらすじ
&「森長可の撤退」
http://53922401.at.webry.info/201602/article_19.html
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◆徳川家康軍の動向
2月18日 徳川家康が浜松城を出発し掛川城に入った。
2月20日 依田信蕃が守備する田中城(島田市)を包囲した。
徳川家康は依田に味方になるように進めた。
しかし、春日城に戻った。
2月21日 徳川家康は駿府城に進出した。
      投降が相次いだ。
3月1日 武田氏一族の穴山梅雪が徳川家康に通じた。
     織田側に寝返った。
3月4日 徳川家康は身延の穴山梅雪を案内役として甲斐に侵攻を
     開始した。


◆北条氏政の動向
2月下旬  北条氏政は駿河東部に攻め入る。
2月28日 北条氏政は武田方の戸倉城・三枚橋城を落とした。

3月上旬  北条氏政は沼津興国寺城や吉原蒲原城を陥落させた。

3月中旬  北条氏政の弟:北条氏邦が厩橋城主:北条(きたじょう)
       高広(柏崎の北条城主)に圧力をかけて、臣従させた。
      北条高広は片貝城(前橋)に移った?
      (★滝川一益の時だった)

  さらに真田昌幸の領地:沼田城・岩櫃城をも脅かしていった。


◆武田勝頼の撤退
箕輪初心:生方▲真田丸9【1回目『船出』のあらすじ
http://53922401.at.webry.info/201601/article_11.html

箕輪初心:生方▲真田丸16【真田の選択&武田勝頼の最後の真偽】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_19.html

2月28日 木曾義昌に敗北した武田勝頼は諏訪での反抗を放棄し
  1000の兵と共に新府城に撤退した。

3月3日 武田勝頼は新府城を放棄し、郡内の小山田信茂を頼り
     逃れる。
(★『信長公記』)
武田勝頼の嫡男:信勝は新府城における籠城を主張したが、真田昌幸
が上野岩櫃城(吾妻郡東吾妻町)へ逃れることを提案した。
武田勝頼側近:長坂光堅が信茂の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れる
べきと主張したという。
  (★『甲陽軍鑑』
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箕輪初心★岩櫃城跡探検隊第9弾【郷原城】【潜竜院】&
『早川知佐講演会』
http://53922401.at.webry.info/201406/article_3.html
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3月4日 織田信忠は本陣を諏訪に進めた。
  武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払った。
  木曾義昌は深志城の攻略に向った。

3月5日 織田信長は安土城を出発した。
3月6日 織田信長は揖斐川に到達した。
     嫡男:織田信忠から仁科盛信の首が届き、
     長良川の河原に晒した。

3月11日 武田氏滅亡

3月23日? 信濃伊那郡は織田家臣:毛利長秀に与えられた。
  毛利長秀は飯田城を拠点に伊那郡支配を行った。


6月2日 本能寺の変 織田信長の死

▲天正壬午の乱
  
 徳川家康は伊那の支配者となった。
@松尾小笠原長嶺は事前に徳川家康に内通しが本領を安堵された。
 松尾小笠原信嶺に徳川家康に仕えた。

A松岡城の松岡貞利も徳川家康に服従した。

B府中小笠原貞慶も旧領回復を狙い徳川家康の家臣となった。
 府中小笠原貞慶は徳川氏や小笠原旧臣の支援を得て深志城を
 奪還した。
 長男の小笠原秀政を人質として差し出し、徳川家康の家臣
 :石川数正に預けられた。



・天正10年(1582)織田信長の伊那→甲斐侵攻

2月16日松尾小笠原信嶺は織田氏に臣従した。

6月2日 本能寺の変

▲天正壬午の乱
松尾小笠原信嶺は徳川家康の家臣となった。



・天正18年(1590) 徳川家康の関東移封
 松尾小笠原信嶺は武蔵国本庄城に移り、松尾城は鈴岡城
 とともに廃城となった。

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箕輪初心○埼玉【本庄城】=本庄氏在城34年
http://53922401.at.webry.info/201406/article_1.html
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★明日は伊那鈴岡城かな?

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