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zoom RSS 箕輪初心:生方▲真田丸82『飯田長姫城の歴史』と真田丸第1話「船出」

<<   作成日時 : 2016/04/05 18:09   >>

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小笠原貞宗の3男:坂西(ばんざい)宗満により築かれたといわれる。
戦国時代には武田晴信の信濃出兵により武田領国となり、伊那郡代と
なった秋山信友により強固な城へ改修された。飯田城は天竜川の支流
の松川と野底川にはさまれた河岸段丘の先端部分を利用して築かれた
平山城である。現在の飯田城の遺構のほとんどは失われ、建造物は
城門と移築城門を残すのみである。
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◆訪問日・・・平成21年(2001)3月21日
飯田市のお城巡り・・・
飯田駅→長姫城(飯田城)→図書館で「飯田の城」コピー→松尾城→
鈴岡城→長岳寺→・・・松岡城や座光寺城には行けなかった。

★飯田城を上田城・小諸城・高遠城のような観光地になっている
とイメージしていたが、どこに何があるか探すのが難しかった。



●本丸・・・長姫(おさひめ)神社や柳田國男館、日夏耿之介記念館
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●案内板
「長姫神社、柳田館、日夏館の用地に当たり、東西・南北共に100m
の土塀で囲まれて、本丸御殿を中心として七棟の建家群で400余年に
及んでいた。大杉が生い茂り陰気で建物が大きすぎ、城下町より離れ
すぎることで堀氏中期以後、公行事以外は桜丸(今の赤門一帯)が
使われたという。遺構は柳田館と美術館の間の空堀跡、神社裏の石積
土塁跡、観耕亭の碑のみである。
(★『城址案内板』)。

縄張りは、城郭の東に本丸を置き、断崖に面して西に向かって二の丸、
桜丸、出丸と曲輪を配していた。建造物としては、東西南北100mの
規模で土塀に囲まれた本丸御殿を中心に7棟の建物が建てられていた。


●本丸と二の丸の間にある堀切

●二の丸・・・美術館
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★飯田市美術博物館には、飯田城の廃城に際して作成した
 絵図がある。
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●出丸・・・・追手町小学校

●山伏丸・・・・ホテル
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●水の手御門跡の石垣

●惣堀跡



●桜丸御門=「赤門・・・桜丸の正門
 ・宝暦4年(1754) 紅殻で赤く塗られた
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●三の丸=桜丸 飯田合同庁舎
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●図書館で「飯田の城&戦国時代」をコピーして
 いただいた。


●八間門・・・飯田城の二の門を移築した。


●城下町
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●お菓子の城
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◆◆ 飯田長姫城の歴史&真田丸第一話「船出」 ◆◆

・元弘元年(1331) 元弘の乱
小笠原貞宗は新田義貞に従い楠木攻めに従軍した。
 足利高氏が鎌倉幕府に反旗を翻すと鎌倉攻めに参加した。

中先代の乱鎮圧後、足利尊氏が後醍醐天皇から離反した。

・建武元年(1334) 小笠原貞宗は信濃守護に任ぜられた。

・建武2年(1335) 小笠原貞宗は安曇郡住吉荘を領有した。

・建武3年・延元元年(1336) 後醍醐天皇が比叡山へ逃れた。
 小笠原貞宗は近江坂本に滞陣し、新田義貞の弟:脇屋義助を
 破った。
 (★『梅松論』)

・延元元年(1336)10月 金ヶ崎の戦い
 新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて気比氏治の居城:
  金ヶ崎城に入城→約半年間、足利勢と交戦。
 延元2年3月6日落城。尊良親王・新田義顕(義貞嫡男)以下
 300余名が戦死(伝)。
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箕輪初心●福井「金ヶ崎城」@新田義貞&A木下藤吉郎
http://53922401.at.webry.info/201104/article_21.html
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 青野原の戦い

・正平2年・貞和3年(1347) 小笠原貞宗は近府春近領を与えられた。
  信濃府中に進出する足掛かりを得た。
 
 5月26日 小笠原貞宗は京都で死去。享年56。
長男:小笠原政長が家督を相続した。

******************************
 3男:小笠原宗満が飯田郷の地頭職となった。、
 飯田三本杉に館を構えて、坂西(ばんざい)宗満を名乗った

・室町時代 坂西宗満の子:坂西由政が愛宕社へ移し飯田城と称
 した。規模も小さく、現在の天空の城ホテル(三宜亭)付近の一
 部分であったという。
 

・天文22年(1553)
4月9日 秋山虎繁(信友)は葛尾城(長野県坂城町)に在城して
  戦後処理を担当した。

▲第一次川中島の合戦


・天文23年(1554) 武田晴信の伊那侵攻
8月
@高遠城
秋山虎繁は高遠城(伊那市高遠町)で「上伊那郡代」となった。
(★『甲陽軍鑑』)

A大島城
秋山虎繁は大島城(長野県松川町)の城代を務め、信濃伊那郡の
 守備を任された。
★大島城には行っているが、山上りの早朝4時だった。
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B鈴岡城
  
 下条武田方に服従し、知久氏領を与えられている。

・永禄2年(1559)
 秋山伯耆守虎繁(信友)は美濃・遠江・三河方面の軍事・外交に
 携わっていた。

・永禄5年(1562) 武田信玄4男:諏訪勝頼(武田勝頼)が
 高遠城主となった。
@秋山虎繁は飯田城(飯田市)へ移った。


・弘治元年(1555) 下条時氏の死去により下条信氏が
  家督を継承した。
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美濃の国衆:遠山氏支援のため美濃苗木城(岐阜県中津川市)に
在番していた可能性もある。

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箕輪初心●岐阜の城I『苗木城』=お城ファン必見の城
http://53922401.at.webry.info/201210/article_26.html
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・永禄8年(1565) 秋山伯耆守虎繁(信友)は織田信長との同盟
 交渉の取次を務めた。


・天正元年(1573)秋山信友がに岩村城を奪取し
         入城。
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箕輪初心●岐阜の城G『岩村城1回目』=紅葉写真集
http://53922401.at.webry.info/201210/article_21.html

◆◆ 箕輪初心●【岩村城2回目御殿〜二の丸】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_23.html

箕輪初心●岐阜の城8−B『岩村城の女城主=信長の叔母なのだ。』
http://53922401.at.webry.info/201210/article_24.html
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〜〜〜中略〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

・天正10年(1582)
1月   木曾義昌は織田信長に臣従した

1月下旬〜2月初旬 木曾の鳥居峠の戦い
   武田信豊、今福昌和 、山県昌満ら3000騎を鳥居峠に、
仁科盛信2000騎を木曽に侵攻させたとあります。

今福らが、木曾義昌勢が守りを固めていた鳥井峠へ登るも数百名
  もの損害を出すなど苦戦した。仁科盛信が到着し勝った。
  奈良井や贄川に布陣した。
  木曽義昌が
  「武田を裏切ってないよ。」
  弁解のため奈良井まで来たという。

2月3日 森長可、団忠正の織田軍先鋒隊が岐阜城を出陣した。
     目付けとして河尻秀隆が本隊から派遣された。

2月6日 森、団は木曽街道から信濃に兵を進めた。
     河尻は伊那街道から信濃に兵を進めている。
     
 滝沢(下伊那郡阿智村・平谷村)の領主:下条信氏(武田信玄
  妹が妻)子息:信正とともに滝沢要害で織田の河尻勢をを
  迎撃した。
  しかし、家老:下条九兵衛氏長・熊谷玄蕃、原民部ら織田軍
  の寝返り(謀反)により逃亡?追放?・・・・
  河尻の軍勢を戦わずして信濃へと招き入れると、
(★ 『信長公記』『甲乱記』)
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2月12日 本隊の織田信忠は岐阜城を出陣した。
      軍監の滝川一益が長島城を出陣した。

2月14日 織田信忠は岩村城に兵を進めた。

2月14日 松尾城主:小笠原信嶺も織田軍河尻に寝返った。

2月16日 木曾の鳥居峠の戦い
  今福ら武田軍は藪原から鳥居峠に兵を出した。
  織田軍は奈良井坂を登った。
  織田信忠の支援を受けた木曾義昌軍に敗北を喫した。

2月17日 織田信忠は平谷:滝沢に陣を進めた。
 (★『信長公記』

2月18日 織田信忠は飯田に侵攻した。
     飯田城主:保科正直(保渡田城主&箕輪城代)は飯田城を
     捨てて仁科盛信の高遠城へと逃亡した。

     武田信廉(勝頼の叔父)らは飯田城放棄を聞いて戦意喪失
     した。
    武田信廉(勝頼の叔父)は大島城(下伊那郡松川町)から
    逃亡した。
    ※武田軍は戦わずして南信濃を失った。

2月28日 河尻秀隆は織田信長から高遠城の攻略のために陣城を築け
      との命を受ける。

 織田信忠率いる3万の兵が、武田勝頼の弟:仁科五郎盛信が
 籠もる高遠城に押し寄せた。

3月1日  高遠城(長野県伊那市高遠町)主:仁科盛信(信盛)
      は籠城した。
      佐久郡内山城(長野県佐久市)の城代:小山田昌成・
      大学助も副将として高遠城に入っていた。
      織田信忠は高遠城を包囲した。
     (★『甲乱記』『信長公記』)
    飯田城から逃げ帰った保科正直もいた。
     ・・・元々、高遠城は諏訪一族の高遠氏代官:
     保科家の城であった。

    織田信忠は仁科盛信に黄金と書状を送り、開城を促した。
    しかし、仁科盛信は要求を拒絶した。


3月2日 織田軍3万余は総攻撃を開始した。
   仁科盛信は籠城し、織田軍と激闘を繰り広げた。

   織田方の織田信家が戦死するなど大きな被害を受けた。
   織田軍に城門を突破されるに及び、ついに仁科盛信・小山田昌成
   ・大学助らは戦死し、高遠城は落城した。
(★ 『信長公記』)
保科正直は降伏した。
小山田兄弟は二の丸を捨て、本丸へ逃げた。
保科正直は火の手上がる本丸を呆然と見つめるしかなかった。
※ちなみに保科正直の実弟は箕輪城主:内藤昌月である。
 後、保科正直の長男:保科正光は真田昌幸の娘と結婚する。

森長可はこの功績により、信濃川中島四郡と海津城20万石を
与えられた。
その後、信濃入領統治、越後侵攻と続いた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
箕輪初心:生方▲真田丸43:第6話【迷走】のあらすじ
&「森長可の撤退」
http://53922401.at.webry.info/201602/article_19.html
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◆徳川家康軍の動向
2月18日 徳川家康が浜松城を出発し掛川城に入った。
2月20日 依田信蕃が守備する田中城(島田市)を包囲した。
徳川家康は依田に味方になるように進めた。
しかし、春日城に戻った。
2月21日 徳川家康は駿府城に進出した。
      投降が相次いだ。
3月1日 武田氏一族の穴山梅雪が徳川家康に通じた。
     織田側に寝返った。
3月4日 徳川家康は身延の穴山梅雪を案内役として甲斐に侵攻を
     開始した。


◆北条氏政の動向
2月下旬  北条氏政は駿河東部に攻め入る。
2月28日 北条氏政は武田方の戸倉城・三枚橋城を落とした。

3月上旬  北条氏政は沼津興国寺城や吉原蒲原城を陥落させた。

3月中旬  北条氏政の弟:北条氏邦が厩橋城主:北条(きたじょう)
       高広(柏崎の北条城主)に圧力をかけて、臣従させた。
      北条高広は片貝城(前橋)に移った?
      (★滝川一益の時だった)

  さらに真田昌幸の領地:沼田城・岩櫃城をも脅かしていった。


◆武田勝頼の撤退
箕輪初心:生方▲真田丸9【1回目『船出』のあらすじ
http://53922401.at.webry.info/201601/article_11.html

箕輪初心:生方▲真田丸16【真田の選択&武田勝頼の最後の真偽】
http://53922401.at.webry.info/201601/article_19.html

2月28日 木曾義昌に敗北した武田勝頼は諏訪での反抗を放棄し
  1000の兵と共に新府城に撤退した。


@『信長公記』
3月3日 武田勝頼は新府城を放棄し、郡内の小山田信茂を頼り
     逃れる。

A『甲陽軍鑑』
武田勝頼の嫡男:信勝は新府城における籠城を主張したが、真田昌幸
が上野岩櫃城(吾妻郡東吾妻町)へ逃れることを提案した。
武田勝頼側近:長坂光堅が信茂の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れる
べきと主張したという。
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箕輪初心★岩櫃城跡探検隊第9弾【郷原城】【潜竜院】&
『早川知佐講演会』
http://53922401.at.webry.info/201406/article_3.html
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B『甲乱記』
 武田勝頼が小山田信茂に対して郡内へ逃れることを諮問した。

3月4日 織田信忠は本陣を諏訪に進めた。
  武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払った。
  木曾義昌は深志城の攻略に向った。

3月5日 織田信長は安土城を出発した。
3月6日 織田信長は揖斐川に到達した。
     嫡男:織田信忠から仁科盛信の首が届き、
     長良川の河原に晒した。



3月11 武田氏滅亡

3月23日? 信濃伊那郡は織田家臣:毛利長秀に与えられた。
  毛利長秀は飯田城を拠点に伊那郡支配を行った。

6月2日 本能寺の変

▲天正壬午の乱
 徳川家康の支援を受けた下条信氏の次男:頼安と嫡男:信正の子
 :牛千代(康長)が、毛利長秀が撤退した後の飯田城に入った
 下条氏長を暗殺して下条氏を継承した。
 武田勝頼一族:従兄弟の下条頼安が飯田城を掌握した。
 
伊那郡は知久氏・保科氏・下条氏・木曽氏によって分割された。

 保科正直・正光(妻は真田昌幸の娘)父子以外は羽柴秀吉への
 内通や内紛による没落してした。

・天正12年(1584) 菅沼定利を伊那郡に派遣し安定化を図った。
  菅沼定利は知久平城に入った。その後、下条氏の飯田城に移って
  徳川方に残った国衆を統率した。

・天正18年(1590)
 徳川家康の関東移封
 毛利秀頼が飯田城に再び入封した。
 娘婿の京極高知に継承され近世城郭となった。

・慶長6年(1601)小笠原秀政が5万石で入封した。

・慶長18年(1613) 小笠原秀政は松本に転封となった。
  現在の松本城の天守閣は飯田城の天守を移したものである
  という説がある。


・元和3年(1617)には脇坂安元が同じ5万石で入封。
  養子:脇坂安政は飯田城下の拡大整備に努めた。

・寛文12年(1642)堀親昌が2万石で下野烏山より入封した。
12代にわたって堀氏藩主時代が続いた。
飯田城の桜丸に居館を構えた。

・明治維新
  飯田城内に筑摩県の飯田支庁が置かれた。

・明治4年(1871) 廃藩置県に伴って廃城となって、遺構は悉く
売却された。 

・現在 飯田城の遺構はほとんど残っていない。
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★明日は伊那:松尾城かな?

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